2012年12月29日土曜日

いじめ認知件数急増について

先月、新聞に、全国のいじめ認知件数の記事が出ていた。
半年間で昨年度の2倍だという。

記事にもあったが、いじめが2倍に増えている訳ではない。
認知件数が2倍である。
意識が上がったと肯定的な捉えである。

以前、メルマガで紹介した主張が、そのまま記事にも出ていた。
いじめが起きることそのものを否定する風潮が変わってきたと。
「いじめのない学校」のスローガンが時代にそぐわない。
いじめは起きるから解決しようという時代の流れである。
いじめがない学校ではなく、いじめを予防・解決できる学校が求められる。

ちなみに、認知件数第1位は鹿児島県、次いで第2位は千葉県。
鹿児島県約3万1千件、千葉県は約1万6千件と、ダントツの1位2位である。
普通に考えると、あまり名誉なことではない。
しかし、鹿児島県と千葉県は、いじめが多いのではなく、調査意識が高いと評価したい。
発見することが解決の第一歩だからである。
(調査方法が全国で全く一致しないので、数値として当てにならない面もあるが。)

警察との連携が不十分という指摘もあった。
学校内で抱え込みすぎると。
責任をとろうという姿勢はいいが、外部機関との連携も必要である。

今後、調査方法も統一され、更に意識が高まることを期待する。

いじめは起きる。
起きる前提だから予防の態勢がとれる。
この認識がいじめの被害を軽減させる第一歩である。

2012年12月27日木曜日

ちょっといい話「アサガオの花」

全然季節感がないが、いい話を知ったのでシェアする。
次の本からである。

「きみはなぜ働くか。渡邉美樹が贈る88の言葉」
渡邉美樹著 日本経済新聞出版社

ある植物学者が語ったアサガオの話である。
アサガオは、日光が当たると咲く。
だから、一日中日光を当て続ければ、アサガオが早く咲くのではないかと実験を行った。
しかし、これだと、逆に花が咲かなくなった。
何が花を咲かせる要因なのか、研究を進めていった。
すると「夜の冷気と闇」がアサガオに「さあ、花を咲かせる時間だ」というサインを送っていると分かった。
アサガオは、このサインの後、日光を浴びると花を咲かせる。

人間も同じである。
物事を成そうとする時は、必ずこの「夜の冷気と闇」に包まれる時間がある。
それがあるから、チャンスが来た時に成功できるのだと。

全てのことに通じる話ではないだろうか。
あらゆる場面で、子どもに語れる。
今ならちょうど合唱やマラソン練習中の学校も多いだろうから、そこにも当てはめられる。
発表会や大会が、日光の差す日である。花開く日である。
花開く為には、厳しい練習や困難(冷気と闇)に耐える必要がある。

この話は、いくらでも応用できる。
「ピンチは、チャンス」という言葉にもつながる話である。

2012年12月25日火曜日

国家意識を教育する

今日は、クリスマスなのに、いつも以上に真面目な話である。
宗教に関係なくクリスマスを祝う国だからこそ、今日書いてみる。

ある勉強会で「国家意識を教育せよ」という話があった。
直感で「何だか危ない話だ」と思った人がいるかもしれない。
でも、そういう風に感じてしまうこと自体が、日本の病巣かもしれない。

今回の勉強会から、自分の考えたことをシェアする。

日本は危機的状況にある。
1000兆もの借金を抱える中の被災地復興、領土と自衛、国内の諸問題。
いつの時代も、問題は山積である。
しかし、だから子どもにどうこうできるかと言えば、できない。
大人にだってすぐに手が付けられないのである。
関心を持つことは大切だが、子どもに危機感を持たせても意味がない。

子どもは、安心させてやる必要がある。
安心させるには、守る存在が必要である。

では、子どもは誰に守られているのか。
当然、読んで字の如く「保護者」である。
多くは「親」だろう。
その親も、自分の暮らす地域社会に守られ、生活している。
地域社会も、市や県といった単位の大きな社会によって守られている。
では、県も含む大きな社会を守っているものは何か。

国、つまり国家である。
国家には「家」という字が入る。
家なのである。
英語でいえば、「ホーム」である。
帰るべき場所である。

誰しも、国家に守られている。
国家は、国民を愛し、守る。
国民も国家を愛し、守られる。
当然の関係である。

子が親を、親が子を愛するのは当然である。
こういう「当然のこと」がいくつかあり、そこが揺らぐと全てが崩れる。
だから、当然のことは当然なのである。
議論不要である。

子どもの通う「学校」という社会では、子どもは先生を敬い真剣に学び成長する。
それに対し先生は子どもを真剣に愛し教育する。
至極当然であり、その為の機関である。
(尊敬されるよう、教師は人一倍努力する必要があり、子ども側もそれに応える努力が必要だ。)

市政は市民を第一になされ、市民は市に税金を払い、自分の市や町を愛するため行動する。
お祭りなんかもその一つだろう。
互いに、真剣にやる。
どれもこれも当然のことである。

国民は国家を愛する。
どの国でも当然なされている教育である。
自分の国が嫌い・誇りを持てないというのは、自分自身への否定につながる。
世界の子どもの自尊心アンケート調査の結果が、それを如実に物語っている。
日本の子どもがそこで世界ダントツ最下位なのは、社会のせいである。
つまり、学校教育の責任である。

国を愛する心を育てる。
国家意識を教育する。
戦時中の「国のために死ね」という歪曲した愛国心教育とは、意味が違う。
純粋な、人間として当然の教育の意味としてである。

外国直輸入のクリスマスを祝いながらも、日本人としての誇りは持っていたい。
クリスマスを幸せに祝えるのも、日本国民だからこそである。

2012年12月24日月曜日

仕事術の要点「びっくりさせない」

このメルマガのタイトル「教育観と仕事術」に沿って、たまには仕事術の話を。

一緒に仕事をしていて、安心・信頼できる人はどういう人か。
一言で言うと、安定感のある人である。
本人の安定感があるので、周りの人も安心する。
予定などもよく頭に入っていて、先が見通せているから、メンバーも見通しを持てる。

逆に、疲れさせる人というのは、びっくりさせる人である。
どういう人かというと、いきなり「明日までにこれやって」と仕事を振る人である。
明日ならまだましで、締め切りが「今日」「今」という人もいる。

仕事だから、やむを得ず緊急対応になることもある。
いじめ問題の初期対応などはそうだろう。
しかし、そうでないものを、このようにふってはいけない。

特に「○○主任」と名の付く地位の人には、絶対の鉄則である。
例えば、何かの行事の準備が必要な場合。
職員会議の提案時に予定として盛り込むのが常識である。
いきなり今日とか明日とかいって動員するのはルール違反である。
(ちなみに、カタイことを言うと、校長以外の人間が勤務時間を過ぎての仕事を命ずるのは違法である。
しかしこれが職員会議で通っているのなら、校長の承認を得たのと同義である。)

いきなり言われた相手は、びっくりする。
退勤する予定だった人は、大抵用事が入っているものである。
(そうでなきゃ、だらだら残業しているはずである。)

しかし、仕事のことである以上、無視して帰る訳にもいかない。
悔しいが、従うことになる。
命じた側は鈍感で、大して感じていない。
「みんな真面目ないい人達だなぁ」ぐらいに思っている人もいるかもしれない。

残念ながらこういう人に仕えている人は、我慢するしかない。
対立すれば、余計苦しむことになりかねない。
本当は、もっと上の立場の人が諭してくれればいいのだが、そこは期待できない。
修行だと思って耐えるしかない。

もし自分が、人を使わねばならない立場なら、この「びっくりさせない」を徹底する。
そのためには、見通しである。
1週間は勿論、1ヶ月、1学期、1年と活動の見通しを持っておく。
例えば体育主任をやる時は、体育部員用に1年分の活動計画を一緒に提案する。
何月何日までに誰が何をするまで、第1回の体育部会で決める。
そうすることで、自分もメンバーも見通しを持てるし、予定が立つ。

また、予定を伝えたからといって、確認を怠ってはならない。
締め切り1週間前には「あれ、進んでる?」3日前には「できた?手伝おうか?」と声かけをしておくと確実である。
仕事を振られたメンバーは大変な思いで仕事しているのだから、リーダーはそれぐらいはすべきである。
1度予定を伝えたからといって、締め切り日になって初めて声かけするのでは、リーダー失格である。

びっくりさせていいのは、お化け屋敷やマジック、プレゼントのような、面白い、嬉しいびっくりだけ。

長くなったのでここまで。
特に何か命令する立場にある人には、必須の心構えである。

2012年12月22日土曜日

忘年会の意味

年の暮れ、忘年会シーズンである。
昨日やった学校も多いのではないかと思われる。
さて、忘年会とはどういう意味、意図を持って行われるものか。

一般的には「その年の労苦を忘れる」ためと解される。
辞書にもそう載っている。

しかし、職業人として、本当に労苦を忘れてしまってはいけない。
次に生かせず、「例年通り」になってしまう。
労苦や失敗は、成長の為に覚えておくものである。

私の好きな作家の一人である中谷彰宏氏は、何かの本で次のようなことを述べていた。
「忘年会は、忘れた感謝を伝える会だ」
つまり、その一年で、伝え忘れた相手への感謝の気持ちを、労いながら伝える会である。
愚痴大会ではなく、感謝大会である。

そう考えると、年賀状も同じである。
疎遠になってしまっている相手に、あなたへの感謝の気持ちは忘れていませんよと伝える機会である。

そういう考えで臨むと、忘年会への参加姿勢も少し変わるかもしれない。
感謝の気持ちをきちんと伝え清算して、新しい年を迎えたい。

2012年12月20日木曜日

サンタクロースってほんとにいるの?

子どもに、「先生、サンタっているの?」ときかれたら、どう答えるだろうか。

昨日、次の本を読み聞かせをした。

「サンタクロースってほんとにいるの?」
作 てるおか いつこ 絵 杉浦 範茂 福音館書店

子どもが問いを発し、父親がそれに答えるという形式でお話が進む。
たとえば、
「何で来ない家があるの?」
「それはね、病気の子どもの家で、話し込んでいたからじゃないかなぁ」
というような感じで、子どもの素朴な疑問に父親が答えていく。

見開きの左が問い、右が答えのページなので、私は右半分を紙で隠しながら読み聞かせをした。

その後に「サンタを見たことがある人?」ときくと、誰も見たことがないとのこと。
続いて、
「見えないものは存在しないのか?」
「自分が見たことがないものは存在しないのか?」
と問いかけた。

子どもからは「空気は見えないが、ある」「恐竜は誰も見たことがないが、存在したらしい」
というような意見が出た。
私は「他人の気持ちは?」「今考えていることは?(思考)」
「地球が回っていることは?」「宇宙の果ては?」
というようなことも付け加えた。

要は、「自分が『知識』として知っているか」どうかでしかない。
自分の目で確認したかどうかは、問題にならない。
常識なんて、そのレベルである。
だから、昔は地球の周りを天体が回っていた。
今だって、本当に地球が回っているのか、私は直接見たことがない。
真実は、目で見てもわからない。
見たからわかるものではないし、見てないからわからないものでもない。

最後に、次の詩を読んだ。
「星とたんぽぽ」  金子みすず

著作権の関係で、詩の全文は載せられない。
ここでは「昼の月」と「根」について書かれている。
この詩が伝えたいことは、また違うような気もするが、見えないものが大切で、つよく存在する、ということは同じだろう。

サンタがいるかいないかということで討論しても、不毛である。
宗教上の問題にもなるかもしれないので、そこはあえて突っ込まない。
しかし、信じる、信じないは、その人が幸せな方を選択すればよい。

子ども達が幸せなクリスマスを迎られたらいいなと思う。

2012年12月18日火曜日

「嫌な人」は「嫌な役割」の人

「嫌だな」または「苦手」と思われている人がいるとする。

この意識はどこからくるのか。
これは、自分の苦手なもの、避けたいものを持っている人である。

管理職が嫌な場合。
権力に弱いのかもしれない。
または、自分が上に立ちたいのかもしれない。

口うるさい人が苦手な場合。
自分がだらしない面があるのかもしれない。
自分の中に、本当は良くないと思っている面があるのかもしれない。

苦手な人というのは、要は「痛いところ」を突いてくる相手である。
劣等感を暴かれる。
相手に正当性があるほど、やり場がなく、憎しみがわくという面もある。

発想を転換する。
その人は、「嫌な役割」を自分の代わりにもっている人かもしれない。
または、自分の中の直すべき面を、教えてくれている人かもしれない。

学級担任で考えてみる。
いつも優しくて、何をしてもにこにこして受け容れてくれるA先生。
規則に厳しく、悪いことは見逃さないB先生。

A先生は、母性が強く、B先生は、父性が強いともいえる。
自分は、どちらに近いだろうか。

そして、自分は逆の立場を任されたら、うまくやれるだろうか。
恐らく、ほとんどはうまくいかないはずである。
人にはそれぞれ適性があり、役割がある。

「悪役のいない芝居じゃ、誰も見ませんわな」とは、松下幸之助氏の言である。
光と闇は、セットである。
表と裏は、切り離せない。
必ず、逆の役割が必要である。
その「嫌な部分」を、担当してくれている人かもしれない。

いつも他の職員に率先して子どもを叱っている生徒指導の先生は、大変である。
その先生は、恐れられる。
子どもから見たら「嫌な人」の役割を担う。
(一方で、「信頼できる」という評価がつくこともある。)
そして、その先生がいなければ、どうなるかも想像がつく。
泥をかぶる人が、必要だ。
さらに、その後フォローをする役割の人も必要である。

何でも、見方次第である。

2012年12月16日日曜日

「困る子」は、神様のお使い

特別な支援が必要な子どもへの配慮は、それ以外の子どもにとってもありがたいものである。
だから、面倒でも対策をとれば、逆に後で楽になる。

クラスの「困る子」がいたら、神様からのお使いであると考える。
その子どもは、自分にヒントをくれている。
困るということは、自分の弱点をついている。
弱点が明らかになる訳である。
そうすれば、対策も立てられる。

『「困った子」は「困っている子」』という言葉もある。
教師も困っているが、子どもも困っているのである。

子どもの側が自然に変わってくれるということは期待できない。
解決するには、教師の「主体変容」である。

神様からのお使いを歓迎し、弱点を克服していきたい。

2012年12月14日金曜日

授業中には「気晴らし」を

ずっと同じ姿勢でいると疲れる。
黙っていると、しゃべりたくなる。
子どもも大人も同じである。

講義をずっと座って黙ってきいてるのは辛い。
だから、授業中はこまめに活動を入れていく。

授業中に「班で話し合いなさい」という指示をすることがある。
以前にも紹介したが、野口芳宏先生曰く、最大のねらいは「気晴らし」である。
話し合いで、素晴らしい解が発見されたり、考えが変容することは、期待しない。
話し合いをしたところで、考えは変わらないのが人間の性である。
私もそのつもりで、よく「気晴らし」を入れる。

「全員起立」
「教科書の○○を指で指します。隣と確認。」
「友達にききにいきなさい」
「全員で読みます」
「書けたら見せにきます」
「机を班の形にしなさい」
「拍手」

どれも、最大のねらいは、気晴らし。
声に出したり動いたりすれば、血流もよくなるし、集中力が続く。
動く口実を与えてやる。
特にADHDの子どもなどは、あえて立ち歩けるような口実を意図的に与える。
手伝いを頼んだりお使いに行かせるのもその一つである。
○つけなど、教師が机間巡視して行う風景もよく見るが、持ってこさせた方が子どもにとって運動になる。
どういう意図かによって、教師が行くか子どもが来るかを使い分けた方がよい。

また、ちょっとした雑談であえて横道に逸れるのも、あくまで集中のための手段である。
笑いが入れば、その後で集中力が高まるという面もある。
(往々にして、戻ってこれなくなるのが難点だが。)

子どもが集中しなかったら、その原因は活動不足にあるかもしれない。
定期的に点検が必要である。

2012年12月11日火曜日

自主学習の質を上げる方法

宿題を集めて見る。
みんなやっていることだと思うが、結構大変である。
漢字練習ぐらいなら、誤字を見て○をつけるだけだから大したことはない。
これが「自主学習」のように、内容も多様になると、見るのに更に時間がかかる。
また、私は放課後に振り返りの日記も見ている。
どちらも、コメントを入れるとなると、かなりの時間がかかる。

時間を短縮して、かつ子どもが意欲的に宿題に取り組める方法はないか。

最近使っているのが「コンテスト方式」である。
朝、自主学習を班内で見合う。
「最低二人はコメントをしてから提出」という約束にする。
やはり、せっかくやったからには、なるべく多くの人に見てもらいたいと思うからである。
全員だと時間がかかりすぎるので、二人ということにしてみた。
その後、班内で最も「みんなの参考になる」と思う一つを選ぶ。
それ以外のものは、提出する。
選ばれた一つは、朝の会の間、教室全体で回し読みする。
コメントをしたかったら、書いてもよいことにしている。
私の学級は8班あるので、8冊が回っている状態になる。

これにしたら、自主学習をやる子どもが増え、内容の質が上がった。
やはり、たくさんの人に見てもらえるという方が、モチベーションが上がるのかも知れない。
逆に、もともとちゃんとやれない子どもに、これが効果的かどうかは疑問である。
しかし、他のすばらしいものを参考にするので、取り組み方は学べる。

やり方は色々あると思うが、最近うまくいっているので、紹介してみた。

2012年12月9日日曜日

学校は法治国家

最近受けた研修会と勉強会で、それぞれ違う先生が共通のことを話されていた。
それは、学校が国と同様に「法治国家」であるということ。
法治国家には、法律とそれを破った場合に対する裁判所や警察が必要である。
法治国家には必ずこれがある。

学校はどうか。
法律。
学校教育法からはじまり、学級独自のルールも必要で、これは教師が作るものと子どもと相談して作るものがある。

裁判所。
学級会で話し合うこともあるだろうが、これは教師集団が直接指導することによって代わる。

警察。
子ども達も互いに注意はしあうが、どうやっても自衛団レベルである。
これは、教師が担うしかない。
「教師が裁判官や警察になるべきでない」という人もいる。
ある面、正しい。
独裁者であってはならないだろう。
しかし、法にそむいて国民に被害を与えるものを放置しては、無責任である。
時に警察の役割を担わねば、信頼されない。

嫌かもしれないが、そうすることで、治安が保たれ、平和と安全がもたらされるのも事実である。

最初から「放置国家」では、学校、学級は成り立たない。
ニコニコしていれば平和が成り立つものではないというのも、厳しいが現実である。

2012年12月6日木曜日

大松尾帝国憲法にも一分の理


前回紹介した大松尾帝国憲法指導案。
お陰様で反響をいただき、ありがたい限り。

ところで、この憲法、無茶苦茶ながら、一分の理もある。
授業でも、「この憲法でいい」という児童が少数派ながら存在した。
また「一部ダメだけど、あとはいい」という意見もあった。

どういうことかというと、「国民の意見をきかなくていい場合もある」ということである。

極論、命が関わる場面では、上からの命令をきく方が安全である。
個々がバラバラに動くと危ない。
学校での集団避難時には、命令に従い、一人残らず全員が安全に逃げることだけが目的である。
リーダーが「どうやって逃げようか?」などと民主的にやってたら被害が広がるだけである。
集団が迷う場合、リーダーの決断で動くしかないのである。

もう一つは、集団の質が低く、秩序が保たれていない時。
リーダーが畏怖の念を抱かれながらでも、まずはしっかり統率する。
社会なら、犯罪を犯せば、拘束される。
民主主義下においても、自由権が制限される訳である。
日本国憲法にもそう規定されている。
公共の福祉に反さないことが、基本的人権の尊重の条件である。

だから、学級がルールを平気でやぶる集団なら、帝国憲法の方が安全だという訳である。
集団の質が高まったら、だんだん民主的にしていく。
子どもからも似た意見が出た。
当然きくべきことをきかないなら、厳しくすべきだという意見である。
一分の理があると思う。
だから、大松尾帝国憲法を見た先生は、「これ、うちの学級かも」と思う人が多いはずである。
秩序が保たれない内は、どうしても「先生君主」でないとうまくいかない。
むしろ、君主にすらなれないで困る人の方が多いようである。

先生君主でやっていくと、一見うまくいく。
最初の内はこれでいい。
しかしこれであぐらをかいていると、国民(子ども)の水面下に不満がたまってくる。
爆発するのが、翌年の担任の時があるので、注意しなくてはならない。

だんだんと民主主義、日本国憲法側にシフトしていけるよう、学級集団の質を高めていきたい。

2012年12月4日火曜日

クラス憲法作り実践報告


先日、校内授業研があった。
私は社会科の公民で「クラス憲法作り」の授業を行った。
以前紹介した、有田和正氏の実践の修正追試である。

一通り憲法の学習を終えた後の、まとめ、発展として行った。

簡単に説明すると、次のような流れ。
1 憲法カルタ(歴史人物カルタの要領)
2 日本国憲法と大日本帝国憲法の大きな違いを確認
  (国民中心と天皇中心)
3 「大松尾帝国憲法」の提示で、内容の良し悪しを問う
4 日本国憲法をもとに、クラス憲法を作ることを確認
5 全員で1つ条文を作る(作り方の共有化)
6 班で相談しながら自分で作る
7 班で読み合い、良いものを班で1つ黒板に書く(班→全体での共有化)
8 発表し、クラス憲法として良いかどうかの検討
9 次回以降の作成の手順の確認
  (同じような条文を作った者同士で検討
  →全体発表と検討
  →3分の2以上の賛成条文は可決)

実際やってみて、次のような感触であった。
1 憲法の基礎知識があったからこそ成り立つ
2 「憲法カルタ」が知識の定着に効果的
3 教師のモデリングが大切(例を予め作っておく)
4 算数の問題解決学習と同じ要領でできる
5 作ったものは学級で実際に採用するということで、切実感と興味・関心を持って取り組める
6 憲法をよりきちんと読み込むきっかけになる  

また、講師の先生より次のような貴重な指導をいただいた。
憲法は他の法律のもととなる最高法規であり、意味が重たい。
「憲法」は実際には作れず、クラスで作るものはあくまで「ルール」であることを改めて教えること。
そして、全国には様々なイデオロギーを持つ方がいるので注意すること。
(憲法、国旗、国歌、領土等の扱いは特に注意。)

そう考えると、大きな公の場での発表は難しい実践かもしれない。
(私はそんな機会がないので心配ないが。)
しかしながら、クラス憲法作りを通して、憲法学習の理解は深まる。
そして、無味乾燥になりがちの公民学習に興味を持つきっかけにはなる。
事前調査で興味なしとされた憲法も、興味ありの方向に転じた。

課題もあるが、手応えのある実践にはなった。

なお、指導案の送付を希望される方は、メルマガ登録後、メールをいただければ、添付して送付するので、遠慮無くどうぞ。

2012年12月2日日曜日

人生の先輩から見れば

先日、俳句の会に出席した。
俳句の会は、ご高齢の方がほとんどである。
平均年齢も恐らく65歳を下ることはない。
人生の先輩が集う会である。

そういう会に出席すると、現役の教員などは、みな「若造」どころか「子ども」である。
「少年時代」という語が出た時に、「この方々のような・・・」と言われた。
(我々とて、みな少年時代は20~30年前に終了している。)
若くみてもらいありがたいような、急に子どもに戻ってしまったような、複雑な気持ちである。

そこで、ふと思った。
我々、特に小学校教師は、子ども集団の中で仕事をしている。
ともすると、すごく偉くなった気になってしまう。
しかし、社会的にみれば、まだ人生の序盤の若造である。

以前に紹介した「人生時計」という話がある。
この長寿社会、人生仮に96歳まで生きるとしたら、24時間にすると1時間が4歳。
32歳ならまだ朝8時、48歳でもまだ正午である。

何か、わかった気になってしまわず、常に謙虚に。
そういうことを教えていただいた気がした、俳句の会であった。

2012年12月1日土曜日

道徳 杉原千畝 「六千人の命のビザ」

今回も、反応の多い道徳の授業ネタを。
なぜ反応が多いのかというと、恐らく道徳の授業が苦手な人が多いからではないかと思う。
何をしたら良いのかわからない人も多いだろう。

道徳授業にも様々な手法がある。
「ロールプレイング」などは、かなり広まっている手法である。
(ちなみに、この手法では絶対子どもに悪役をさせてはいけない。
本人も周りも、本当に悪い奴になった気がしてしまう。
悪役が必要なら教師がやる。)
他にも、討論型、ディベート型、説話(語り)型、自己内省(書く)型等々。
手法自体は無数にある。

誰にでもできる最も簡単な手法は、「読むだけ」というもの。
読むだけで道徳的価値を揺さぶられるという、何とも有り難いものである。
条件が一つだけある。
どんな資料でも良いというものではない。
いわゆる「力のある資料」の使用である。
これを探すこと自体が手間だが、ここをクリアすれば、授業はかなり安定して行える。
力のある資料の場合、ぐちゃぐちゃきくと逆効果なので、発問等は一つあれば十分である。
なくてもいい。
たった一つのポイントは、ゆっくりじっくり資料を読むことである。
誰がやっても、安定した授業効果が出る。

タイトルにあるのは、オススメの資料である。
杉原千畝の「六千人の命のビザ」。
今更紹介するのも憚られるが、6年生か中学生の担任に、特にオススメである。
副読本にある場合もあるし、インターネット上にも資料や実践が山ほどある。
読めば納得・感動のかっこよさである。

歴史で戦争単元に入ると、自虐的な話が多くなり、日本人としての誇りのような面が非常に落ちる。
ここはやはり、当時の日本人の良いところを紹介したい。
東郷平八郎や杉原千畝、石原完爾など、戦時中に気概と誇りを見せた日本人を紹介する。
そうすることで、日本人としての誇りを持たせたい。
この時期に教えるのに、ちょうどいい資料になる。

また、これは意見が分かれそうだが、私は基本的に道徳の資料は子どもに音読させない。
力のある資料の使用の際は、特にである。
教師が読んだ方が、話に集中できて入りこめる。
子どもに順番に音読などさせると、初見であるため、途中どうしてもつっかえる。
すごく音読レベルが低い子どももいる。
集中が途切れる。
音読指導が目的ではない。
そこの指導は、国語科の専門であって、道徳のメイン指導項目ではない。
話をじっくりきいて、自己を内省しながら話に入り込める方が大切である。

道徳の力のある資料については、また紹介していく。

2012年11月27日火曜日

躾ける

「しつける」というと、何だか動物に対するようなイメージがある。
しかし、しつけは、れっきとした教育である。

しつけは漢字で「躾」。
「身を美しく」という字である。
礼儀作法を身につけるという意味。
裁縫で、縫い目を正しく整えるために仮にざっと縫い付けるという意味もある。
田植の意味もある。縦横がきちっと揃うことからきているという。

躾は身を美しくする。
姿勢を正して学習に臨ませるのも、躾の一つである。
「立腰」は躾そのものである。
返事もあいさつも食事のマナーも、全て躾である。

正しい躾がされてないまま育った子どもは、ひねくれる。
真っ直ぐさ、素直さがなくなる。
正しい指導が入りにくい。
全て、周りの大人の責任である。
メンテナンス不足である。

低学年までに躾がしっかりしていると、高学年での学級経営が大変楽である。
ガチガチに縛りつけることではなく、正しく整えるためにざっと仮縫いする程度である。
素直な子どもは、幸福である。

2012年11月25日日曜日

短く、何度も

タイトルは、次の本からの引用である。
「説明の達人に変わる本」 中谷彰宏著 全日出版

「説明は短く」とは、授業の原則の一つである。
どれぐらいの長さかというと、大体15秒以内がベスト。
1分を越える説明は長い。
(物語や体験のようなものを「語る」場合は別。
あくまで物事の「説明」についてである。)

授業では、教えたい大きなテーマが一つあるとする。
この教える内容を、小さく砕く。
1ユニット15秒~1分の説明。
説明の後は作業。
この繰り返しで集中させていく。
(有名な向山型算数などは、このやり方に似ているように思う。
正しくは、説明はしないらしいが。)

以前から、歴史人物カルタをおすすめしてきた。
1ゲーム5分程度である。
読んでる時間だけだと、3分程度である。
その中に、20~30人程度の人物のカルタを読む。
単純に割ると、やはり1人10秒以内の説明となる。
それを毎時間繰り返す訳だから、当然記憶に残る。
暗記しようなどと思わずとも、自動的に刷り込まれる。
暗記に使う労力を、思考に使うことができる。
システム化しておくことで、授業が楽になる。

「短く、何度も」は、あらゆることに応用できる基本である。

2012年11月23日金曜日

勇気は「言う気」

発言するというのは、なかなか勇気がいる行為である。
自分を表現する、自分自身を人の目にさらすということである。

考えてはいるけど、発表できなかった、などと子どもが言う時がある。
学級会などで発言するのは、なかなか気合いがいる。
しかし、勇気を持って何か言うことが大切である。
何か言おうという気を持つには、気合いがいる。
「言う気」を持とう。
勇気を持とう。
そんな風に語呂合わせで指導する。

そして、帰りの会で毎回きく。
「今日、1回以上自分から手を挙げた人?」
少しずつだが、手を挙げようという気風が育つ。

基本的には、いきなり指す方がよいと考えている。
そうしないと、手を挙げない子どもの声が聞けないままという事態が起きる。
また、いきなり指名は授業に集中しやすくなる効果もある。
しかし、手を挙げる意思選択の力もつけたい。

指名方法も、通り一遍でなく、ねらいを持って選択していきたい。

2012年11月21日水曜日

部活、塾、習い事は「自由」

道徳授業でヒットが出たので紹介を。

道徳の授業で、本当の自由ということについて話し合いをした。
副読本の資料を題材に進めるつもりが、話し合いが盛り上がり、資料そっちのけで討論になった。

資料の内容としては、中学になると部活やら勉強やらが忙しくなって自由がなくなるという話。
規則がなければもっと自由なのにとクラスで盛り上がる。
しかし、クラスリーダーである主人公は言うことをきいてくれない仲間に不満を持つ。
宿泊学習でも同じ事態が起き、やがてクラスのみんなが注意しあうようになる。
ルールを守った上で、自由があるね、という話である。
同工異曲で似たような話がどの副読本にもあると思う。

これを途中まで読んで、「中学校生活は今より自由になるか、不自由になるか?」を○×選択させた。
○自由と×不自由が半々になった。
「意見が真っ二つに割れるのはいい発問」とは野口芳宏先生の言である。
いい感じに分かれた。

理由を発表させていくと、「部活」「塾」が争点になった。
「部活が忙しすぎて、自分の時間がないと兄が言っている。」
「受験があるから塾も行くし、時間がないらしい。」
これに対し、
「部活が嫌なら辞めればいい。」
「塾だって行かなくてもいい。」
すると
「そんな甘いもんじゃない。」
と反論。
その後も堂々巡りをしながら時間が来た。

辿り着いた結論としては「自分で決めたことは、全て自由」である。
「部活が不自由の原因」と主張するスポーツ少年少女に、「じゃ、部活入らないでおこう」と促す。
すると「絶対入る」と断言。
日記には「部活は自分の意思で決める。大変だけどこれは自由だ。」と書かれていた。
塾についても、同様の結論が出た。

まとめとして私は「将来つく仕事も、自由にできる」と話した。
「自分がやりたくて選んだ仕事についている人は、どんなに忙しくても自由。
先生は毎日が自由です。
自由になれる仕事につきなさい。」

キャリア教育にもつながる話だと思う。
子どももかなりのってきて、手前味噌ながら、なかなか良い授業だったように思う。

2012年11月19日月曜日

「だまされ」よう

なぜか伝記を色々読んでいる今日この頃。
今回は最近読んだ本からの学びを。

吉田松陰の伝記から。
こんな言葉があった。
「人を信じて失敗することがあっても、
人を疑って失敗することがないようにしたい。」

子どもに当てはめてみる。
子どもに指導をする。
子どもが嘘をついているような気がする。
しかし、確証もない。

そういう時にどうするか。
とりあえず子どもの言葉を信じてみればいい。
子どもを疑うぐらいなら、教師が責任をかぶればいいと。
時々だまされてみようかぐらいの気持ちでいること。

真実の追究が大切だという考えもある。
警察や裁判なら、それが絶対だろう。
しかし教育は人格の完成が目的である。
信じてやった方が教育効果が高いことが多い。
成人してから、「あの時はすみませんでした」と謝りに来る例もあるという。
別に来なくてもいい。
その人の心の中には残るはずである。

宿題忘れのようなささいな場合も同様である。
「やったけど持ってくるのを忘れました」というパターン。
基本的に信じてやって、時々ちくりとやるぐらいの方が効く。
やってこない子どもへの口癖は「信じている」で通す。

だまされてやるのも、教師の大切な仕事の一つである。

2012年11月13日火曜日

「本物」を目指す

今回は例のごとく、野口芳宏先生からの勉強会での学びを。

修養の話。

「研修」は「研究」と「修養」から成る。
研究は他者改善。
修養は自己改善。
教師は修養こそ大切とは、野口先生の数十年の一貫した主張である。

あれほど授業研究を熱心にされている先生が、「修養の方が大切」と言う。
つまり、研究はしなくていいというのではない。
修養があって、初めて研究も生きるという主張である。
土台がぐらぐらで上に積み上げたり飾ったりしてもダメということだと、
私は勝手に自分で解釈している。

野口先生は「教育は人にあり」という。
教師自身を高めること以上の、効果的な教育はない。
教え方などは、あくまでそこに付随するもの。
だから、大先生の素晴らしい方法を真似ても、うまくいかないという事態が起きる。
(しかしながら、そこから学ぶことも至極大切である。)

教師が「本物」であれば、どんな指導でも通るという。
どうすれば学級の子どもが言うことをきくのか、と悩む人が多い。
答えは、教師自身の修養にあるかもしれない。

2012年11月11日日曜日

画竜点睛

芸術の秋、ということで、先月あたり、図工の作品展が開かれたと思う。
(ちなみに今は、立冬過ぎたので暦の上では冬である。)

以前、校内に図工指導の堪能な先生がいて、色々と教えてもらった。

審査会の作品で残念なのは、最後の「詰め」が甘いこと。
(一方で、子どもが飽きるほど時間をかけすぎているのも悪いという話もあった。)
その中に、「目」についての指導があった。

立体でも平面でもそうだが、人物等の表現は目が大切ということである。
平面は気にして描くことが多いが、立体は結構いいかげんになりがちである。
眼球まではみんながんばるが、瞳までも表現する。
その瞳がどこを、何を見ているのかを意識して作る。

私の場合、指導の中で「画竜点睛」という言葉を一緒に教える。
せっかくそこまでやったのだから、最後まで頑張って作って、作品に魂を吹き込もうと話す。

言葉の学習にもなって、一石二鳥である。

普段の仕事にも共通して言えることである。
最後の詰めを大切にしたい。

2012年11月9日金曜日

共通言語を持つ

今回の言葉はカリスマ体育教師、原田隆史先生からの学び。

共通言語とは、そのグループだけで通用するような造語・用語である。
(女子高生が最も得意とする分野でもある。)

原田先生は、部員に次のような共通言語や合い言葉を教える。
「主体変容」
「タイミング・イズ・マネー」
「今やらねばいつできる。俺がやらねば誰がやる。」
「思いはかなう」
「一寸先は?」「光です。」
「敵は誰ですか?」「私です。」等々。

全て、教師に向けてもそのまま使える言葉である。
しかしながら、一般的な言葉ではないので、「共通言語」の類である。

国語の大家、野口芳宏先生も、独自の共通言語を多く持っている。
(通称「野口語録」と呼ばれている。)
「言語人格」
「他律的自律」
「教師理解」
「善意の強制」
「信・敬・慕」
「本音・実感・我がハート」
「向上的変容の連続的保障」等々。

一部の集団で用いていた共通言語がそのまま世間一般の共通語になることもある。
例えば「学級崩壊」「モンスターペアレント」は向山洋一氏の造語である。

共通言語を創る人の集団は、統率力が高い。
集団の帰属意識が高まる効果がある。

そういう意味で、学級のスローガンを持つことは大切である。
それを口にすれば、この学級の一員なんだという自覚を持て、集団がまとまる。

学級のスローガンや共通言語を持つことの意義を学べた。

2012年11月7日水曜日

飯村先生出版記念セミナー in千葉

先日紹介した、飯村先生が今週出版記念セミナーを開くので、友人として紹介させていただく。

日時  平成24年11月10日(土)13:00~16:55(予定)
                  ※受付 12:40~


場所   山崎製パン  5階 第A会議室 ℡ 047-321-3600
     JR市川駅から徒歩2分
     http://www.yamazakipan-nenkinkaikan.jp/


13:00開始の、17:00終了である。
一般 3,000円、学生 1,000円の定員 32名とのこと。

参加申し込みはメールにて「出版記念セミナー参加希望」と書き、
渡邉 尚久氏 tw34@m9.dion.ne.jp
まで。       
残念ながら、私は授業参加とバザーの為参加できない。
(年休を申し出たが、色々な都合で無理だった。)
興味があってご都合のつく方は、申し込んでいただきたい。

2012年11月5日月曜日

いじめ発見システム

何十年も前から、向山洋一氏が提案していた「ひとりぼっち発見システム」がある。
先日のテレビ番組でも紹介されていた。
今更紹介するのも気が引ける感もあるが、今はいじめが社会問題であるし、役立つので紹介する。

休み時間の終わりや帰りの会などで行う。
1 全員起立
2 「今日○○君と遊んだ人?」ときき、手を挙げた子どもを座らせる。
3 立っている子どもに対し、同様にきいていく。
4 最後まで一人だった子ども達を覚えておく。
5 1~4を約1週間続け、一人ぼっちの子どもを具体的に把握する。

予想通りという子どもから、意外な子どもまで見つかる。
ちなみに、やり方には配慮が必要である。
(例えば、最後まで立った子どもと全員に対し、「次はみんなで遊べるといいね」などと声かけする。)

アンケートや面談などとあわせて用いると効果的である。

2012年11月3日土曜日

世間の目は厳しい

いじめが社会問題になっている。
どの問題も10年サイクルでやってくる。
つまり、何かが急に変わった訳ではなく、ずっと解決していない訳である。

しかしながら、これはやはり気にした方がよい。

先月、某有名バラエティ番組が、いじめ問題を1時間取り上げた。
普段はふざけた番組が、180度方向転換しての特番である。

その中で、いじめられている児童生徒の生の声がたくさん挙がった。
元いじめられっ子の有名人も多くコメントしていた。
教員側の代表者も素晴らしい人達がコメントしていたが、多勢に無勢な感があった。
(後にきくところによると、時系列まで前後して相当編集されているらしい。)

「情報」は「感情の入った報せ」である以上、発信者の意図が含まれる。
要は、テレビ局側は「学校も教員もダメ」という方向に持っていきたい。
そういう意図があって編集もされている。
(一方で、具体的な解決の方向も示されていた点が評価できる番組でもあった。)
新聞も同様である。
社会の不満のはけ口、責任を誰かに負わせる必要がある。
当然、ここは学校教育が負うべきという流れである。
全ての日本人が日本の学校教育を受けているのだから、至極当然といえば当然である。

残念なのは、ひとまとまりに「教員がダメ」と言われてしまう点である。
頑張っている人より、ダメな方に目がいってしまう。
万物に共通していえる、自然の摂理である。

政治を思い浮かべれば分かる。
何となく「日本の政治家はダメ」という印象が、社会全体に漂っているように思う。
しかし、実は全員がダメな訳でなく、見えている範囲がダメな感じなだけだろう。
だから、目立つ一部を見て、全体がダメな感じがしてしまう。

我々も、いじめ自殺が起きた学校の「仲間」である。
同様に責任が追及されていると思ってよい。
世間の目は厳しい。
今まで以上の迅速かつ誠実な対応が望まれる。

2012年11月1日木曜日

時に諦める

ネバーギブアップ。
いい言葉である。
決して、諦めないこと。
大切である。

しかしながら、諦める、見逃すということも、時に大切である。
諦めない、譲らないガチガチの指導は、同時に危険もはらむ。

例えば、子どもの側に何かしらの障害と思われるものがある時。
先日の新聞で、かの有名なスピルバーグ監督が、読字障害であると発表したという記事があった。
子ども時代、非常に辛い思いをしたとあった。
読字障害の子どもに、ガチガチの指導は厳しい。
方法を変えるべきである。

例えば、他にもっと大切なことがある時。
いつも掃除の邪魔をしていた子どもが、今日は掃除を「さぼって」いる。
合格ラインから見たら、明らかに下である。
しかし、邪魔してないだけ、マシである。
邪魔してないことを評価した方がいい。
自己肯定感を少しでも高める方が優先である。
その上で、「良くなったね。でも、さぼらずやろうか。」と声かけする方が賢明である。
ちょっと諦めて、見逃す訳である。

あとは、教師の側が、肉体的、精神的にしんどい時。
ちょっとサボった方がいい。
エネルギー全開の時に挽回すればいい。
多分、調子悪い時の100倍ぐらいの能率で処理できる。

諦めない強さも必要だが、諦める柔らかさも持ち合わせたい。

2012年10月30日火曜日

力無き正義は無力

社会科で、ノルマントン号事件、日清・日露戦争辺りを教えた。
領事裁判権を認めた為に、悔しい思いをした日本。
そもそも、そんな不平等条約を諸外国と結ばされまくった日本。

その理由は何か。
ずばり、「弱い」から。
従うしか選択肢がないぐらい、欧米諸国と力の差があったからである。
そうしないと、国自体の存亡も危うかったと推測される。
哀しいかな、止むに止まれぬ選択である。

弱い国々や人々は侵略され、支配されるべき。
強者の理論であり、やられる側から見れば「悪」そのものである。
まあ、漫画やアニメで例えるならフリーザ、ラオウ、バイキンマン辺りである。

悪には正義のヒーローが対抗する。
正義のヒーローの絶対条件は「悪と同等、それ以上の強さ」である。
弱ければ話にならない。
チャオズ、バット、クリームパンダちゃんでは、どんなに正義感を持っても、力不足である。
やはり、悟空、ケンシロウ、アンパンマンの強さが必須である。

何が言いたいのかというと、最近の日本政府の外交関係の弱腰について、ではない。
教師も強さが必要だということ。
正義の指導を通したかったら、強さが必要である。

この場合、強さとは、腕力の強さや言論の強さのみを指さない。
魅力から来る信頼感、尊敬、親しみやすさなども、強さの一つである。
(よく紹介する「信・敬・慕」である。)
他にも周りを味方につける能力や、何を言われても大丈夫な打たれ強さなど、様々ある。

指導を通したかったら、何らかの分野で「強さ」を持つこと。
弱い相手の言うことには、子どもも従わない。
力なき正義は無力であるという真理から目を背けず、指導にあたりたい。

2012年10月28日日曜日

いじめ対処の最悪の手段

問題が起きた時、共通して「最悪の手段」といえる選択肢がある。

たとえば、いじめが発覚した時の最悪の手段とは何か。

それは、「何もしないこと」である。
「隠す」という行為も、「何もなかったことにする」という点で、これの仲間である。

毎日、新聞にいじめの記事が載る。
学校側が叩かれている原因は、どれも「隠蔽」と「不対応」の二つである。

いじめが発覚したら、まずすぐ動く。
校長及び周囲への報告が最優先。
その上で、何かしらの手をうつ。
何でもいい、というと語弊があるが、何もしないよりいい。
電話一本いれる、できれば家庭訪問する。
何かすることである。
やり尽くした上で、初めて「時間が解決する」という言葉が生きる。

「トラブルは成長する」という言葉がある。
放っておけば、どんどん腐敗が進む。
全てに共通する真理である。

2012年10月25日木曜日

教師は「感情労働者」

「感情労働」という言葉がある。
「自分の『怒り』と向き合う本」(実務教育出版)
という本に載っていたものである。

肉体労働は、肉体を酷使する。
頭脳労働は、頭脳を酷使する。
感情労働は、感情を酷使する。

教師は特にこの感情労働の割合が高い。
自分の気分が乗っていようがいまいが関係ない。
子ども達は、喜怒哀楽を容赦なくぶつけてくる。
相手の感情に訴えかけなければならない。
いじめられている子どもや悩んでいる子どもに寄り添うのも大切な仕事である。
しかし、これも辛抱強さが求められる行為である。

個人的な問題を抱えている時でも、自分の感情を押し殺して対応する。
いらっとする言葉や行動をされても、教育的に良いと思われる対応を求められる。

だから、教師は精神疾患になりやすい。
あるべき教師像に縛られて、自分とのギャップに悩む。
真面目な人ほどそうであり、教師の大部分は真面目な人である。
(幸いにも、不真面目な人は病気にならない。)

1年間も後期に入って疲れも目立ち、かつ季節の変わり目で落ち込みやすい時期である。
感情労働者である教師は、悩みが多い。
明るく見える人だって悩んでいると思って、なるべく気を楽にしたい。

2012年10月23日火曜日

目標を忘れないようにするには?

一生懸命考えて作っても、忘れられがちなのが目標である。
忘れないようにするにはどうすればいいのか。

「よく見える位置に掲示する」という方法が多いと思う。
しかし、見慣れると風景と化すため、意外と効果がない。
(例えば、職員室前方にはってあり、毎日眺めているはずの学校教育目標が言えるだろうか。)

要は、毎日振り返ったり確認したりできるような仕組みにすればいい。
日々の日課として、システム化すれば確実である。

今年度の朝の会のメニュー。
あいさつの次は「学級目標、生活目標唱和」である。
こうすると、労せずして暗記できるぐらいになる。
朝の最初の声出し&意識付けにもなる。
これをした上で、授業等で途中にも学級目標に返る話をする。

個人目標を机に貼る手法を以前紹介した。
私の学級では、毎日帰りの会の3分間日記で振り返りをするというシステムをとっている。
これで、確実に目標を意識して振り返れる。

目標が絵に描いた餅になっている方の参考になればと思い、紹介してみた。

2012年10月21日日曜日

素直にきく


「伸びる人の共通点は、素直さ」とはよく言われることである。
私はいちいち、「何で!?」と思う質なので、ここがいけない。
ずっと前だが、尊敬する先生にやんわり指摘されたことがある。
私に直接向かってではなく、全体に対して「人の話は素直にきくもんだ」と。

例えば、何か習うとする。
その場合は、師がいる。
場所によって、流派みたいなものがある。
すると当然、やり方が違う。

こだわりのある人は、ここでつまずく。
師の教えにいちいち口答えする。
自分の考えと違うから口答えする。

ここを、冷静に考える。
そもそも、自分を変えるために習っているのだから、考えが違って当然である。
同じでは習っている意味がない。
そういうこともあるかもなと、なるほどととりあえず従ってみる。
そういう中で、変化と成長が起こる。

だから、自分と対立する意見を持った人や集団は大切である。
私の周りを見ても、さすがだなと思う人は、素直な人が多い。
我を捨てて人の良いところを学び、どんどん吸収して変身していく。

自らが学ぶ時の姿勢であるが、子どもにもきちんと教える。
まずは、教師の教えに素直に従うこと。
ノートの取り方や授業中の姿勢など、ささいなことからである。
そこから、成長が始まる。

以下、余談。
私が小学生の時、そろばん塾に通っていた。
計算がよくできたので、学校での簡単な計算での筆算の必要性がなかった。
だから、先生に「筆算はやらない」と言い出したのである。
(とんでもない話である。当時の担任の先生に本当に申し訳ない。)
やがて、3ケタ同士のかけざんが出てきて、やっと必要性に気づき始める。
まあ、言うなれば自信過剰な馬鹿である。

ソクラテスの「無知の知」とは、言い得て妙である。

2012年10月19日金曜日

きまりはなくすためにある

学校には様々なきまりがある。
学校のきまりをはじめ、学級独自のものもある。
「あいさつをする」というようなものはマナーである。
しかし、できてないから「あいさつ週間」みたいなものが必要になる。
あいさつ週間中のあいさつは、ほぼ「きまり」に近い状態である。

この無限にもあるといえるきまりだが、少ない方がいい。
子どもに「きまりは多い方がいいか、少ない方がいいか」ときく。
必ず、「少ない方がいい」と言う。
では、なぜあるかと問えば、「できてないから」と言う。

そこで、子どもに「きまりを作り、なくしていこう」と提案する。

習慣になれば、きまりとしては必要なくなる。
「きまりをなくす」という目標を持って、きまりを習慣化していく。
永遠に守るためにきまりがあるのではなく、なくすために作るのである。

今回は「無言清掃」を子どもに提案してみた。
掃除中のおしゃべりが目立つ。
おしゃべりのある掃除場所は、掃除がはかどっていない。
だから、掃除中はしゃべらないというルールを作り、全員の同意を得る。
破ったからといって特に罰則はないが、ルールにした以上は、そこを強く注意できる。
やがて、できるようになったら、めでたくルールをなくせばよい。

レベルの高い集団ほど、自由にしてよい。
逆にまだ集団として高まっていないなら、きまりの徹底が優先である。
ただ守らせるより、なくしていくという視点の方が、モチベーションが高まるのではないだろうか。

2012年10月17日水曜日

イライラには、深呼吸

今回は、研修の学びとかではなく、実感していることを。

最近、深呼吸の大切さを感じて、実践している。
そうしたら、やっぱり最近よんだ本に、呼吸の大切さが書かれていた。
さらに、私が愛読している原田隆史先生のメルマガにも、呼吸の重要性が書かれていた。
多分、シンクロニシティというやつだと思う。
気にしているから、情報がひっかかるのだろう。

そこで、呼吸法について。
疲れやすい人には特に効果てきめん。
超簡単で、とにかく意識して深く息を吐く。
これだけである。
繰り返すだけで、本当に高いリラックス効果がある。

心臓の鼓動を始め、自律神経というのは「自律」と名が付くだけに、意識的な操作がきかない。
放っておいても動くからこそ、寝ていても働いてくれる。
自律神経の中で、唯一コントロールがきくのがこの「呼吸」である。

イライラしている時は、おしなべて呼吸が浅い。
(イライラしてるのに呼吸が深い人というのは、多分いない。)
逆に言えば、呼吸が深いと、イライラが発生しないのである。
自律神経を意識的にコントロールしている状態になる。

とにかく、怒りたくなったら、息を深く深く吐いてみる。
これだけで、驚くほど怒りがおさまってくる。
(問題は、怒った時にそのことを忘れてしまうことである。)

とにかく、深呼吸。
これだけで、気分がかなり楽になる。
朝の出勤が憂鬱な時は、車や電車の中で試してみるのをおすすめする。

2012年10月15日月曜日

きちんと並んで歩きなさい

教室移動の際、「きちんと並んで歩きなさい」と言う。
なぜその必要があるのか。
子どもにきかれたら、いくつの理由を即答できるだろうか。

どんな行為でも、意味がある。
前号で書いた「荷物を机の脇にかけない」ということだって、たくさん意味付けできる。
意味を多く自覚できていることほど、必要性が高まり、自然に守れるようになる。

例えば「横断歩道は左右を見て渡る」は、必要性がわかっているなら、言われなくても守る。
うかつに渡るとひかれて大けがすると知っている。
幼児はそれがわかっていないから、平気で飛び出す。
大切なことでも、意味がわかっていなければ、できない訳である。

では、教室移動の際、廊下をきちんと並んで歩く必要性は何なのか。

もし授業時間中、または授業終了が早まった場合であるなら、移動は静かにする必要がある。
他クラスに迷惑がかかる。
この場合の重要ポイントは、おしゃべりさせないこと、素早く移動することである。

その為には、真っ直ぐ並んで歩けばよい。
左右に並ぶと話しやすいが、前後は話しにくい。

また、きちんと列も詰める。
そうすれば移動時間が短くなる。
それに、だらだらと長い時間廊下前を通過されるのは、他教室の児童の集中を妨げる。

さらに、廊下は狭い。
狭い廊下を集団が広がって歩けば、他の人に迷惑である。
だから、片側に寄って並んで歩く必要がある。

「きちんと並ばせるのは管理的で嫌だ」という人もいる。
管理的になりがちなのは、意味を教えないでやらせるからだと思う。
心から進んでそれに従いたくなるよう、意味を教えてやってみる。
そして、然るべき場面でのびのび活動させればよい。

日本人の美徳である「きちんと」した礼儀正しさとその意味を、学校で教える。
本来家庭教育の分野ではあるが、時代が変わった今、学校教育の大切な役割である。

2012年10月13日土曜日

荷物がしたことも自分の責任

最近読んだ本で、この言葉を見つけた。
なかなか、いい言葉である。

クラスで、机の周りがぐちゃぐちゃの子どもがいる。
机の横に、縄跳びなど紐状の物がかかっていることがある。
すぐにやめさせる。
これに足をひっかけて、転んで大けがをするという例が多々ある。
緊急時にこんなことになったら、しゃれにならない。

私は実際、あの東日本大震災の時、教室に子ども達といた。
避難しようとした時、自分の席でもたついている子どもがいた。
何と、防災頭巾がとれないのである。
普段からぐちゃぐちゃにつけていたので、絡まっている。
その時は私が駆け寄っていって、ゴムを引きちぎった。

一人だったからまだ良かったが、これが何人もいたらたまらない。

こんなことは、あってはいけない。
このご時世、防災頭巾一つにも気を配りたい。

「荷物がしたことも自分の責任」と思えば、やたらに物を扱えないし、放置できない。
体育倉庫や職員室とて、同様である。
普段から整理整頓を心がけ、場を清めたい。

2012年10月11日木曜日

いじめられたら助けを呼べ

いじめに関する名著といえば、もはや古典といってもいいこの本である。
「いじめの構造を破壊せよ」向山洋一著 明治図書
(今更すぎて、紹介するのも憚られるが、一応紹介。)

向山氏が数十年間、一貫して主張しているのは
「いじめをなくせるのは、教師だけである」という点。

教師の姿勢として、この考え方に賛同する。
「家庭が悪い」「社会が悪い」と言っていては、教育のプロではない。

ところで、私がいつも勉強させていただいている野口芳宏氏が一貫して主張している点は、
「いじめはなくならない」という点と、
「弱い者を強くする教育が絶対必要」という点である。

弱い者が弱いままだと、強者にやられ続けるからである。

弱い者を強くするとは、具体的に二つの方法がある。
1 弱者が鍛錬する
2 相手より強い者に助けを求めることを教える

1は理想的だが、難しい。
2をきちんと教える。
「チクるなよ」とは、いじめる側が2を怖れての行為である。
「チクり」まくる相手であれば、いじめる度に自分も問題にされるので、いじめにくくなる。
「チクるとまたやられるから」と黙っていれば、相手の思うツボで、どちらにせよやられる。

「いじめられたら助けを求める」という基本を徹底的に教える。
これを成功させられるかが、深刻ないじめをなくしていく鍵である。

2012年10月9日火曜日

いじめはなくせるか

いじめ問題の解決。
社会が今最も要請している、喫緊の課題である。

大体10年間隔で、いじめが社会問題として大きく騒がれる。
学習指導要領の改訂も10年で、学力問題も10年おきである。
常に解決の模索をし、解決策が出ないでいる証拠である。

以下、いじめに関する私見である。

いじめはなくせるか。
この問いにどう答えるか。
どう答えてもよいのだが、理由をきちんと説明できることが大切である。

学級担任として認識すべきという点を一つだけ書く。
それは「いじめが起きる=悪いこと」という認識をなくすことである。

起きて欲しくないことで、どんなに注意していても、やはり起きてしまうものはある。
交通事故などもその一つだろう。
歩道に自動車が突っ込んでくるなど、想定できるはずがない。
「歩道を注意して歩かせなかったのが悪い」などと無茶をいう人はいないだろう。

いじめは、起きるものである。
まず、この認識に立たない限り、話が進まない。

認識を変える。
悪いことは、いじめを「予防しようとしない」「周りに報告しない」「解決しようとしない」
ことである。

いじめは絶対なくしたい。
なくそうとする努力は、教師である以上、必須の最低条件である。
けれども、発生する。
発生すること自体を否定する風潮が、隠蔽を引き起こす。
起きたら、学級担任が抱え込まないこと。
学校で抱え込まないこと。
社会全体の問題である。
いじめ問題は、全てオープンにして、即時解決を目指す。
「後で」「様子を見て」が、命取りである。
即日対応、関係者全員対応が基本。
最悪、遅れても翌日まで、報告は校長まで。
いじめ問題の責任は、校長が取らねばならない。
だから、校長にまで報告が必要だし、校長の命により全ての職員が責任を持って動く。

いじめ問題は、教師が今最も真剣に取り組むべき課題である。

2012年10月7日日曜日

小さい声は失礼

サークルでの野口氏からの学びをシェアする。

以前にも少し書いたが、声が小さい子どもへの指導である。

声が小さいのは、ある程度まで仕方ない。
ただ、教えておきたいことは、「小さい声は失礼」ということである。

なぜか。

これは、相手に「一生懸命きけ」という態度だからである。
「自分の声が小さいのは仕方無い」だから「その分あんたが頑張れ」ということである。
逆に、怒鳴るような大きすぎる声も、無理矢理きけという態度で、やはり失礼である。

自分がどう思っているかではない。
相手がどう思っているか。
話す側、聴く側のお互いが、思い遣る気持ちを持つことである。

「聞こえる声で話しなさい」と遠慮せず堂々と指導する。
そして「みんな、一生懸命聴くから」と付け加える。
言葉は「言霊」が宿るのだから、大切にしていきたい。

2012年10月5日金曜日

「パパ」より「お父さん」で


先日も紹介したが、ある高校の校長先生のお話が、非常に為になった。
「モラロジー研究会」での講義である。
次のような話だった。

「パパ・ママ」という呼ばせ方がある。
これは、是非「お父さん・お母さん」に改めさせたい。
そもそも外国由来と日本由来という違いもあるが、語源が全く違う。

「パパ」は「タバコを吸う男性」を指す。
「ママ」は、幼児が食べ物を「マンマ」と発音し、「マンマをくれる人」である。

「お父さん」は「その家にいなくてはならない『尊い』人」に敬意の「御」を付けて「御尊さん」。
「お母さん」は「上さん(かみさん)」=「神様」に「御」で「御神さん」。
太陽神である天照大神も、女性である。
つまり、母親を家の中の太陽として位置付けている呼び方である。
さらに「かかあ」は「か」「か」がそれぞれ神様を指すので、神様二人分。
ぞんざいなようで、実はかなり相手を讃えている呼び方である。

つまり、呼び方で家庭内の「領域」を作るのである。
子どもにとって、親は尊い存在であるということを、言葉から教えていく。
そういう点からも、是非「お父さん・お母さん」で定着させたい。

そういう有り難いお話だった。

個人的には、保護者に向かってどっちを使えとかどうこう言えないと思う。
それぞれの家庭の方針があるだろう。
ただ、情報として、意味を知っておくことはいい。
吉田松陰も、死刑が決まった後の牢獄の中で、
「(学問を)知って死ぬのと、知らないで死ぬのでは、全く意味が違う。」
と言って、死ぬまで学問を続け、他の死刑囚をも学問に向かわせたという。

どちらを使うにせよ、知っている方がいいと思う。
その上での、選択である。

やはり呼称は大切であると再認識させられた。

2012年10月3日水曜日

実感を伴う道徳授業を

6年道徳のある副読本資料に芥川龍之介の「くもの糸」がある。
地獄に落ちたカンダタが、お釈迦様の垂らしたくもの糸を登る。
途中で他の罪人が登ってきたので「降りろ」と言ったら糸が切れる。
まあ教える内容としては「自分だけいい思いをしようとしてはいけませんよ」
といったことになりがちである。

道徳の授業は「自己に返す」がキーワードである。
「自分はどうだろう」と実感を伴って考えることが大切になる。

この話で、カンダタの立場になって考えてみる。
上っ面しか話せない学級だと、「カンダタはひどい」「私なら一緒に登ろうと言う」ということになる。
(よく考えると、ひどいのはお釈迦様の方であるとも考えられるが、ここでは割愛。)
しかし、世の中結構「カンダタ」の選択肢である。
東日本大震災の時、ガソリン不足や食糧不足が東北地方以外の各地でも起きたことが、それを証明している。

学級の子ども達とて、大人達とて同じである。
自分が被害を被るしれないという状況で、果たしてどう行動するのか。
それを本気で言い合えるようでなくては、道徳の「自己に返す」にならないと思う。

「いや、自分もカンダタと同じく、降りろと言うかもしれない。」
そういういわゆる「マイナス」の発言にこそ、本音は表れる。
そこを大切にする授業をしくんでいきたい。

2012年10月1日月曜日

サービスしすぎず、子どもに任せる

前号の続き。
モノを豊かに与えすぎ、これに似た場面で、サービスしすぎということが挙げられる。
以下、自分の考えである。

とある教室。
何でもしてくれる、サービス満点の授業をしてくれる先生がいる。
すごく居心地がいいだろう。
しかし、それに慣れれば、完全に受け身の子どもにもなり得る。
自分で動かない子どもを育てることにもなり得る。

教師が汗水垂らして様々な準備をすることは大切だと思う。
しかしながら、子どもができることはやらせた方がいいと考える。
例えばグラウンドの整備や草取りなどは、実際遊ぶ子ども達にやらせる方がいい。
そうすれば、雨上がりの日に入ってぐちゃぐちゃにされても全く問題ない。
(「グラウンドが荒れるから遊ばないこと」なんていうのは、ナンセンスである。)
自校のグラウンドに対する愛着のようなものも湧く。
自分達が学校を良くしているんだという自負の気持ちも持てる。
教師が頑張りすぎるほど、ここが弱くなりがちである。

「自主的精神に満ちた」人間を育てるのが教育の目的なのだから、ここを見失わないようにしたい。

2012年9月29日土曜日

モノが豊かなことは幸せか

先日、ある私立高校の校長先生の講演を聴いた。
ためになる話がたくさんあったので、一部だがシェアする。

モノが豊かにある。
幸せなことである、一般的に考えると。
しかし、これが実は不幸ではないかとも考えられる。

子ども部屋を例に考える。
小さい頃から、自分の部屋が与えられている子ども。
それなりに裕福な家庭に育っている子どもである。
自分の空間が持てるのだから、幸せだろう。

しかし、見方を変えると、親と関わらないで生きる空間の提供にもなっている。
数少ない、大人と関わる時間を減らすことにつながる。
さらに、子ども部屋にテレビがついているとする。
子どもは自分の見たい番組を自由に見られる訳である。
一緒に過ごす時間がさらに減ることにつながる。

足りないからこそ、得られるものがある。
足りないからこそ、与えられた時の感謝も生まれる。

そして、足りないからこそ、工夫しようという気持ちも生まれる。

例えば、私には以前こういう経験があった。
その学校は、ラインカーを子どもが休み時間に自由に使える状態であった。
そうすると、子どもは色んな所にラインを引く。
ドッジボールでも、長方形のラインを引く。
その中で遊ぶのである。

ある日、石灰がなくなる。
そうすると、遊べないのである。
「線が引けないから」と。
「足で地面に描けばいいじゃん」と私が言った。
皆、驚いたように「そうか!」と言って足で地面に線を描き始めた。

こんな哀しいことが起きるのである。

モノがあるから思考停止ということもある。
(もちろん、モノがあるからこそ考えられる場面もある。)

やたらにモノを与えすぎてないかという視点も大切である。

2012年9月27日木曜日

発言は文体加工せよ

先日のサークルでの学びをシェアする。
タイトルは、野口氏の教えである。

子どもが発言する。
教師はその言葉通り板書する。
これを「反射板書」と呼ぶ。
子どもの思いを大切にしている、と好意的に受け止められる。

しかし、これが学力形成にマイナスに働いていないか、という視点で見る。

そもそも、話し言葉と書き言葉は違う。
話し言葉は、どうしても冗長である。
書き言葉は、簡潔であることが求められる。

そして、子どもの発言を束ねて思考を促すのが板書の役割である。

そうして考えた時、「文体加工」した方がメリットが大きい。
「つまり、○○ということだね」と、要約してやる。
「大人の言葉」を教える訳である。

子ども、特に高学年は、大人ぶりたい時期である。
大人の言葉に触れた時、知的好奇心をそそられる。
この年齢の子どもには難しすぎる、何ていうのは、大人側の勝手な思い込みである。
(事実、幼稚園児は、実はものすごいことができる。
小学校に入学させたら保護者ががっかり、というのはよく聞く話である。)

どんどん、大人の言葉に文体加工する。
そうすることで、言語力が身に付いていくのである。

2012年9月25日火曜日

場を清める

前号に続き掃除の話。

掃除は「清掃」ともいう。
汚いものを取り除き、きれいさっぱりさせることである。

陸上指導・生活指導で有名な原田隆史氏は、清掃を「場を清める」行為と考える。
「壊れた窓理論」に基づくと、一カ所の乱れが全てに波及していく。
(窓が一枚割れた車を一週間放置するとめちゃくちゃに壊されるという理論。)
犯罪だらけだったN.Y.の街を再生させたのも、地下鉄の落書きを消したことによる。
荒れた地下鉄の場の雰囲気が、凶悪犯罪を誘発していたのである。
凶悪犯罪そのものに着手するのではなく、落書きを消し、軽犯罪を徹底的になくす。
そうすることで、場が清められ、凶悪犯罪もみるみる減ったということである。

トイレが汚い学校は、荒れていることが多い。
教室が汚い学級も、同様である。
落ち着いた雰囲気のクラスは、教室から違う。

清掃をただのゴミ除去作業と考えず、場を清める大切な行為ととらえる。
場にはエネルギーがあり、プラスとマイナスどちらかを発している。
それが、学習や生活全てに影響を及ぼす。
その意識を、子どもも教師も持っていれば、取り組み方も変わるかもしれない。

2012年9月23日日曜日

掃除カンペキチェックシートの活用

「きちんと掃除しなさい!」「やり直し!」
どこの学級でも見られる光景である。
教師としては、腹立たしいし、言う方も辛い。

言わないで済む方法はないのか。
結論、ないかもしれないが、注意を減らすことはできるように思う。

その一つとして、「掃除カンペキチェックシート」というものを提案する。

清掃主任が大掃除の時に「チェックポイント一覧」を出す学校があると思う。
あれに似たものを、日常的に利用する。

掃除場所を見回る時、それぞれ見るポイントがあると思う。
それを見て、きちんとやっているか判断している。
これを、子ども達に見える形で予め提示しておく方法である。
そして終了後、班長を中心にチェックして、担任に報告する。
(これがないと、確認がされない為。
子どもを誉める材料にもなる。
また、一応の責任者をおくことで、きちんとやるようになりやすい。
あくまで責任は、班長でなく班員全員。
担任が見るのも、チェックというより、成果を誉めたいという姿勢で。)

例えば教室掃除なら、
「四隅、教室のはじにほこりは落ちていないか」
「ほうきのほこりはとってあるか」
「教卓の下にほこりがたまっていないか」
「黒板のチョーク入れの中は整っているか」
といった、教師の側は気になるが見過ごしがちな点を入れておく。

トイレ掃除なら
「便器の周りが拭いてあるか」
「においはしないか」
といった、子どもが意識的につい避けて通りたくなる点を入れておく。

こうすると、やる気はあるけど、「きちんと」がわからない子どもの一助となる。

別に何ら目新しいことではないかもしれない。
最初作るのに、少し手間はかかる。
しかし、注意を少しでも減らせるなら、やる価値があるように思う。

何でも、工夫である。
うまくいかなかったら、変えればいい。
何かいい方法があったら、教えていただきたい。

2012年9月21日金曜日

2学期の個人目標の活用方法

2学期のはじめ、個人目標を立てさせたと思う。
「生活」「学習」「運動」など、3項目程度立てることが多いと思う。
そして、そろそろ忘れさられた頃ではないだろうか。

大抵、1週間以内に忘れさられる。
忘れないようにする工夫が必要である。
掲示しておくだけでも、忘れる。

少し邪魔だが、小さくしたものを机のすみに貼り付けておく方法がある。
1年生の名前と一緒である。
(よほどしっかり貼らないとボロボロになるが。)
毎日目にするので、嫌でも意識化される。

また、目標に「クラスの為に」というものを一つ入れたい。
(私は、「生活」の欄をこれにする。)
個人目標だが、クラスの為に自分ができることを一つ設定する。
「落ちているゴミを拾って、教室をきれいに保つ」でもいい。
「笑顔であいさつして、周りを元気にする」でもいい。
自分の為だけでなく、クラスの為にもなる目標。
これを一つ入れるだけで、集団帰属意識や自己肯定感が高まる。

2学期、せっかく立てる目標を有効に活用したい。

2012年9月19日水曜日

「ミニ先生」にご用心

前回までの、特別支援の先生の話で、印象的なものを一つ紹介する。

「ミニ先生」についてである。
できるようになった子どもが、他の子どもに教える。
これはいい。
しかし、きちんとした子どもが、他の子どもに注意しはじめる。
これは、場合によって注意が必要であるという。

自治能力が高まってきたと考えると、いい面もある。
しかし、「ミニ警察官」化すると、学級に悪い影響を及ぼす。
子どもの素直さが失われかねないという。
注意している子ども自身にも、悪い影響がでる。

確かに、きちんとした子どもが、孤立しがちということは多い。
まるで教師のような言い方で周囲を注意し始めたら、要注意である。

子ども同士は誉め合って、支え合っていく姿勢をとらせる。
強く叱ったり注意したりは、やはり教師の領分である。

教師の側も、自分の身に置き換えてみればわかる。
同僚を注意するのも、なかなか気合いがいるだろう。
(先輩や後輩に比べれば、同期が一番言いやすいが。)
やはり、ルール等に関する注意投は、立場が上の人間にある程度きちっとやって欲しいと思うのではないだろうか。

子どもの「ミニ先生」化に、注意である。

2012年9月17日月曜日

逸脱行動への対応

教室を飛び出すといった、逸脱行動が起こる子どもが学級にいる。
この行動自体をすぐなくそうとするのは無理がある。
なので、考え方を変える必要がある。

これを、学級にとって「チャンス」と考える。
「みんながきちんとしてくれているお陰で、普通に授業が進むね。ありがとう。」
と伝える。
逸脱行動のある子ども以外の子どもに損をさせないこと。
何もないよりも、学級がまとまるきっかけになり得る。

ポイントは、クラスの共感性を高めていくことである。
「相手のことを知る」
「共通の目標に向かう」
これが、共感性を高めることにつながる。
相手のことを知るとは、相手を理解することである。
逸脱行動も、相手を理解していれば「そういうこともあるな」と思える。

トラブルはチャンス。
大変な子どもが、自分を成長させてくれる。

2012年9月15日土曜日

触覚過敏の子どもへの対応

前号の続き。
触覚過敏というものがある。
文字通り、触るということに関して過剰な反応を示す。

口の中に物を入れていると安心するので、指しゃぶりの癖が目安の一つになる。
一方、歯ブラシなどの異物を口に入れるのは苦手なことが多いらしい。
他にも抱っこや手つなぎ、散髪、靴下等を嫌がることもある。
多分、クラスに思い当たる節のある子どもが浮かぶのではないかと思う。
「ぬるぬる」「べとべと」「ちくちく」等の感触を極端に嫌う。
たとえば、「ちくちく」なら、服についてるタグが苦手な場合もある。
これらを嫌がる場合は、触覚過敏の可能性がある。

抱っこは嫌がるのに、教師や親にやたらとまとわりつくという傾向もある。
「触られるのが嫌」なので、自分から触って「取り込む」という反応になるらしい。
別の反応だと「身構える」「逃げる」「攻撃する」という場合もある。
いずれも、全ての生物にある「原始的」な反応らしい。
(微生物も、触るとこれらの反応を起こす。)
つまり、生命のプログラムの反応として組み込まれている訳である。

これらの子どもに触れる時の注意点がある。
それは、「しっかりと触る」こと。
表面をなでるような触り方やつつくような触られ方を最も嫌う。
背中を触る時も、手のひら全体でしっかりと押す。
そうすることで、「先生が手で触ってきた」とわかる。
「得体の知れない物」が触れたと認識されないことである。

こういう子どもは、いわゆる逸脱行為が起こりやすい。
そこへの対応について、次号紹介する。

2012年9月13日木曜日

様々な困難を抱える子ども

何と、メルマガの方は出していたのに、こっちの更新をうっかり忘れていた。
前々号の続きを。

特別支援教育について学んでいる方には、当たり前の知識かもしれない。
しかし、私は知らないことだらけだったので、紹介する。

様々な障害の種類について学んだ。
「○○障害だから」と一言で片付けてはいけない。
その一言で、努力や工夫を放棄してはいけない。
けれども、そういう理解をしておくことは大切である。
適切な対応ができるようになる。

まず、読字・書字障害。
「ディスレクシア」ともいうらしい。
文字が二重にダブって見える。
左右反転して見える。
ゆがんで見える。
文字が動いているように見える。
そういう様々な見え方をするらしい。
体験してみたが、かなりの困難である。
読むのが嫌いになるのがわかる。
この場合、当然、書く方も困難である。

こういう子どもは、周辺視野の情報に惑わされやすい。
教室前面に何も貼らないというような配慮が必要、というのは有名である。
しかしながら、どれぐらいすっきりしていたら良いのかは、認識されていない。
写真で見たら、「何もない」状態である。
本当に、何もはっていないし、道具等もない。
チョークと黒板消しだけである。
それぐらい、徹底していた。

人間は上部に気を取られやすい。
だから、黒板上は何もはらないというのが鉄則らしい。
(自分の学級は、思いっきり学級目標がはってある・・・)
だから、字幕は下に出る。
一方、緊急速報は、上に出る。
考えられている訳である。

読む時の便利な道具が紹介されていた。
「リーディング・スリット」という。
真っ黒な紙に、一行分だけの隙間(スリット)が入っている。
それを教科書に当てると、今読む行だけが見える。
高学年になると嫌がる子どもがいるので、低学年の内に使うのが大切らしい。

何事も、工夫であり、先手を打つのが大切である。

他の障害では、「耳ふさぎ」をよくする子どもに多い聴覚過敏。
運動会の「スターターピストル(信号器)」が苦手な子どもは、疑いありらしい。
これも、怖がるなといっても無理で、根性では解決しない。

さらに、触覚過敏というものもある。

長くなるので、次号に続く。

2012年9月7日金曜日

大縄、その回し方は正しいか?

大縄のページビューが異常に伸びている。
需要が大変高いようであるので、ここについて述べる。

ネット等で「大縄」について検索していると、大きな勘違いがよく見られる。
それは、「縄を回すのに体力がいる」というようなことである。

私見だが、縄の回し方が根本的に誤認されているように思う。
このブログ上でもずいぶん解説しているが、極端な言い方をすると、縄は回さない。
引いて張るのである。
ここが、かなり間違っている。
だから、記録が安定しない。

実際見てもらえば一番分かるのだが、とにかく間違った回し方が多い。
それじゃ、100回程度回すのも難儀だろうと思うような回し方である。
中学生以上の大人は力があり、強引に回し続けられるので、特に間違えやすい。
正しい回し方なら、小学生でも毎日1000回楽勝で回せるのである。
無論、正しい回し方は安定しているので、跳ぶ方も楽である。

大縄にこれから取り組もうという方は、回し方を徹底的に勉強するといいと思う。

2012年9月5日水曜日

「言語性IQ」と「動作性IQ」

授業のユニバーサルデザイン研究会」という会の全国大会を参観してきた。
非常にためになる学びがあったので、シェアする。

特別支援教育のワークショップでの学びである。
講師は川上康則氏。
現役の特別支援学校の先生である。

特別支援を勉強している人には常識すぎる話かもしれないが、自分には知らないことがたくさんあった。
「IQ」には、「言語性IQ」と「動作性IQ」という種類に分けて測る方式があるらしい。
(「方式がある」というのは、○○式という感じで、何種類かあるため。
ややこしいのでここでは割愛。)

簡単に言うと、言語性IQは「理解・計算・記憶」といった部分。
動作性IQは「図形・記号」の処理といった部分。
どちらが低いかを見分けないと、不適切な対応に陥る羽目になる。

動作性IQが低い子どもは、パズルが苦手、漢字が苦手ということが多いらしい。
そういう子どもは、ものの見え方が違うそうだ。
漢字が記号的に見えるだけなので、どうにも覚えられない。
また、見え方が違うので、書くことも苦手になるらしい。

これらの子どもに、努力を強いると、二次障害を引き起こす。
努力や根性ではどうにもならないからである。
川上氏は「花粉症の人を杉林に連れて行って、気合いで克服しろ!というのと同じ。」と例えていた。

クラスの○○が苦手な子ども。
どう見ても、努力不足にしか思えない子ども。
実は、努力不足なのではなく、通常以上に困難なのかもしれない。

「努力は善」が基本だが、疑う必要もありそうである。

2012年9月3日月曜日

腕振りの根本を見直す

陸上指導シリーズ第三弾。
今回は「根本を見直す」ということ。
昨年度も同じようなことを書いた気がするが、大切なことなのでもう一度。

運動を指導する時、どうしても末端部分に目がいきがちである。
「腕をよく振って」
「指先を伸ばして」などなど。

しかしよく考えてみると、腕は肩から動いている。
肩は、肩胛骨から動いている。
この肩胛骨は、大臀筋(おしりの筋肉)にも直接つながっている。

そう考えると、「腕をふる」も「脚を動かす」も、全て肩胛骨スタートである。
肩胛骨を少し動かせば、末端の腕や指、脚や足は大きく動くことになる。
つまり、根本を動かすことがポイントである。

体幹運動の理論でも、長距離走の時に「脚」で走らない。
直接働くのは脚部の腿やふくらはぎの筋肉であるように思われる。
しかし、実際に動かすのは「腸腰筋(ちょうようきん)」という、腰と脚をつなぐ筋肉である。
さらにそこを動かすスタート地点は、やはり肩胛骨である。
だから、肩胛骨に羽根が生えたつもりで走る、というのが体幹運動の走りの基本となる。

話が少し逸れたが、運動でも何でも根本を変えれば、末端が大きく変わるということ。
子どもが、こちらが求める動きがうまくできない時がある。
そういう時、求める動きの根本部分はどこなのかを見抜く。
ただ「腕を振れ」ではなく、「肩から生えた羽根ではばたいて」の方が、理想の動きになることがある。
(実は腕自体が振れているかは、どうでもいいことである。)

根本を見抜く力を持ちたい。

2012年8月31日金曜日

変則ハードル走指導 「理想形で跳ばせる」

前号の続きで、須田先生より学んだ陸上指導について。
今回はハードル走。

ハードル走で、小学生に9台全部を全力で跳ばせるのはきつい。
大抵、真ん中あたりで失速が大きくなり、最後はリズムが合わなくなる。
3歩のリズムを保とうとして、妙に大股になってしまう。
ハードル走を指導したことのある人なら、何となくわかると思う。

これらを改善する指導法がある。
「条件を甘くしてパフォーマンスを落とさない」ということを念頭に行えばよい。
「身体的には楽をさせて、神経的に緊張を保つ」ともいえる。

具体的には次のような方法をとる。
A 5台目だけハードルを除く
再加速できるので、4台目の後の失速を防げる。
この時のタイムが大体本番のタイムになる。

B ハードル間をだんだん狭くする
最初のハードル間を7mとして、10cmずつ短くしていく。
途中で大股になってピッチが変わるのを防げる。
「1,2,3!」のリズムを一定に保て、神経系のトレーニングになる。

C ハードルの脇を走り、片足だけ跳ぶ 
半身だけハードルにかかる位置で、振り上げ足または抜き足だけハードル上を跳ぶ。
片足の動きのみに集中できる。

D エアハードル
Cの後に行う練習で、ハードルの隣のコースを、ハードルがあるつもりで行う。
理想形で全力で行える。
「野生の獣のように」がポイント。

どの方法も、条件を甘くすることで、理想形を保つという方法である。
いわゆる「スモールステップ」の発想である。

私もきいた段階で試せていないので、次の指導の際にやってみて、また効果を報告したい。

2012年8月29日水曜日

今、子どもにそれを求めるべきか

先日、陸上の研修会に参加してきた。
昨年度も行った研修会である。
講師は前回同様、以前も紹介した須田先生。
陸上指導のプロである。
非常にためになる話をきけたので、何号かにわたってシェアする。

一番の印象に残ったのが、「今、子どもにその動きを求めるべきか」という話。
この言葉だけだと訳がわからないので、簡単に説明する。

今、世界中がオリンピックで湧いている。
たとえば、ボルト選手は速い。
ボルトの走りは、短距離走においての理想形だろう。
では、ボルトの走りを研究して、一般の人や子どもが完璧に真似てみる。
しかし同じ形にしたところで、当然、うまくいくはずがない。
あらゆる要素が足りない。
何より、筋肉量が圧倒的に足りない。
簡単にわかる話である。

つまり、大人の理想形のフォームを小学生に求めてはいけないということである。
須田氏の話によると、ももがよく上がる「いいフォーム」で走る小学生は、伸びないとのこと。
それよりも、小学生で速い子どもは、意外にも上体が前のめりの「レッグカール」の形で走っている。
かかとがおしりにつくような走りである。
大人がやってたら、確実にダメな走りである。
しかし、腿やお尻の筋肉が未発達な小学生にとっては、自然な形の走りである。

この話を聞いて驚くとともに、他のことでも同じことが言えるのではないかと感じた。
大人の理想形に近づくことが、本当に教育にとっていいのか。
たとえば勉強、運動、道徳性、芸術系の技能。
小学生の内にどこまで負荷をかけていくべきなのか。

一方で、ピアノのように幼児期から猛特訓をしないといけないものもある。
一流スポーツ選手が、子ども時代から相当な無理をしてきているのも事実である。

何をどこまで求めるべきか、再考させられた。

2012年8月28日火曜日

仕事を追求する

先日、企業体験研修というものに参加してきた。
ホテルでの様々な仕事を体験させていただいた。

その中の、ハウスキーパー(宿泊部屋の掃除から準備全般の仕事)の方の言葉が心に残った。
「お客様のことを考えるのは当然。
自分の次の仕事をする人のことまで考えて、やりやすくしておく。
だから、押し入れの布団の向きもきちんとそろえておく。
そうすれば、カバーをかけたりするものやりやすいでしょう。」

別に、適当にやっても、工夫しても、給料は同じである。
しかし、どちらが職業人として良いかは、明白である。

結局、どんな仕事も、追求できる。
「働く」という言葉は、「はた(傍)を楽にする」こと。
全ての仕事は、誰かの為である。

とりあえずやるだけか、仕事のクオリティを最大限まで高めるか。
教育を含めた、全ての仕事に共通して言えることである。

2012年8月26日日曜日

「まずは、人気の先生になろう!」

先日、同期で単著を出版した人がいる。
当然、本人に直接会って購入した。
昼食を取りがてら色々話をきいた。
そして、この本が相当にいいので紹介する。

「まずは人気の先生になろう!」飯村友和著 明治図書

正直、やられた感である。
同期の人にこれだけのものを作られると、正直凹む。
読みやすい&すぐ使えるものばかりである。
飯村氏が「人気の先生」であることがうなずける。

巻頭の一節に、ドキリとした。
「好かれようが好かれまいが関係ない。
教師として、生徒であるこの子たちに必要な教育をするだけだ。」
そして、この考えが、何か違うと感じはじめる。
全くの、同感である。

別に同期の仲間だから宣伝した訳ではない。
単に本当にいい本だから紹介した。
(嘘をつくと、自分の評判が落ちるだけである。)
レベルアップをはかりたい人は、購入をお勧めする。

2012年8月24日金曜日

職場の仲間と旅に出よう


職員旅行や近隣校との交流レク大会。
一見、教育と直接関係ないようなものがある。
実は、これが結構重要だったりする。

学校教育は、一人でやるものではない。
自分の持った学級の子どもも、一年たったら他の人に渡す運命である。
だから、どんなに教育技術を磨いても、周りと協調できないと、効果が上がらない。

仕事を通して、仲が深まっていくのが一番良い。
しかし、その人の本当の中身は、勤務時間では見られないようなものも多い。
中身を知れば、自然と仲良くなる。
互いを知れば、仕事上での協力もしやすくなり、落ち込んでいる時に励まし合ったりもできる。

「仕事は仕事」と割り切った人間関係が今の若い人を中心に増えているという。
一昔前に比べ、勤務後に同僚と飲みに行ったりすることも減ってきているらしい。
だからこそ、職員同士の、仕事以外のイベントは大切である。

若い人に問いたいが、夏休み中、仲間同士での交流会やキャンプなどの企画があるだろうか。
もしないなら、是非企画を立ち上げてみて欲しい。
いきなり宿泊とかは無理なら、ちょっとした日帰り旅行でもいい。
ちょっと無謀な企画でもいい。
こういう新しいことをつくり出すことは、若い人の特権であると思う。

2012年8月20日月曜日

使える発問「いくつ?」

発問の種類は様々あるが、これは使えるという問い方がいくつかある。

その中の一つが「いくつ?」である。
数を問う発問である。
または、数を指定する発問である。
この問い方は汎用性があり、かつ限定性があるのが優秀である。

例えば理科。
蟻の体がいくつに分かれているか、足は何本か、などと問う。
花びらの数やおしべとめしべの数。
数を問われると、自然にじっくり観察するようになる。
解も間違いなく確定する。

国語の場合。
数そのものをきくより、数を指定して問う方が、限定性があって使いやすい。
全体を3つに分けよ。
20文字で要約せよ。
10文字で書き抜け。
「右」という字の二画目を指でかけ。
「○○」という言葉が何回出てくるか。
問われることで、文章をじっくり読み直し、根拠を考えることになる。

体育の場合。
ハードル間は、何歩が跳びやすいか。
脈拍10秒間で20~22になるペースで3分間走りなさい。
10人とパスしたら座ります。
問われることで、思考力を使って意識的に体をコントロールして運動を行うようになる。
考えながら動くと、最初はぎこちない。
しかし、これがやがて無意識化して、運動が自動化するのが「上達」である。

どの教科でも「数」を意識すると、発問が考えやすいように思う。
ただし、注意すべきは、「どうでもいいことは問わない」ということ。
意識しないと、時にどうでもいい数を問うというミスを犯す。
その数を問うことで、どんな学力の向上や効果があるかを考えて使うのが大切である。

2012年8月18日土曜日

成長可能点

テストで100点をとる。
または、授業中やった問題を全て間違いなく解ける。
素晴らしい出来である。

こういう時、私はしばしばこう話す。
「一つも間違えないでできた人?
素晴らしい出来だね。優秀です。文句なし!おめでとう。
では、間違えがあった人?
おめでとう!
今日の勉強は君達のためにあったね。
間違いが多かった人ほど、成長する幅がある。
伸びしろ、なんて言い方もある。

『成長可能点』というのを教えよう。
どれだけあと成長できる部分があるか。
80点の人は、成長可能点は、20点。
90点の人は、10点。
100点の人は?残念だけどここに関しては0点。
もう新しいものを探してチャレンジしないといけない。
30点なら?何と70点もある。
成長可能点が多い人ほど、これから変わっていける可能性がある。
ただし、タダでは変われない。
正当な支払いとして、努力が必要になる。
努力で成長できる部分が残ってるのは、ラッキーなことだね。」

今までもこんな話はしていたが、「成長可能点」の部分は、最近野口氏から教わって入れた話である。

できることより、変わること。
100点以外にも喜びを見いだせるような生き方を示したい。

2012年8月16日木曜日

書くことも表現

人間は、表現がしたい。
話をきいてもらったり、書いて表現したり。
ダンスや歌も表現の一種である。
何かしら、表現の欲求がある。

面談でよく「うちの子は手を挙げますか」ときかれる。
発言する=良いという図式がある。
しかし、書くのも立派な表現である。
往々にして、よくしゃべる子どもは書くのが苦手なことがある。
逆も然り。
大抵、発言しない子どもは、書く方の表現に優れている。

発言に重きを置くのは、わかりやすさからだろう。
コミュニケーション能力が求められる時代だからそれもわかる。

でも、面談で保護者にきかれたら、良い方を伝えたい。
発言しない分、書いて表現していますよと。

何でも両面あるのだから、良い方に光を当てて伝えたい。

2012年8月14日火曜日

掃除をすべし

夏休みに入り、実践報告に乏しいので、最近の研修会での学びを。

「一つ拾えば、一つだけきれいになる。」
(鍵山秀三郎氏の言)
「高い理想を掲げながらも、足元のごみを拾うことをおろそかにしない。」
(森信三氏の言)

いずれも、掃除に関わる言葉である。
普段のちょっとしたごみを拾うことの大切さを説いている。
ごみを拾うという小さなことすらできないなら、大きなことはできないとうことである。
生活習慣の形成といったこととも関わっている。

教育と無関係の本でも、しばしば掃除の重要性の話が出てくる。
掃除をすると、心が整う。
掃除をすると、やるべきことが見えてくる。
掃除をすると、感謝の心が自然に芽生える。
・・・等々、仕事の出来に関わるそうである。

どこにいっても同じようなことを言われるので、そんな気がしてきた。
夏休み、家の掃除でもしようかと思う。

2012年8月12日日曜日

生徒指導の本質

生徒指導についての研修会に参加してきた。
様々な事例に触れることができ、大変勉強になった。
みんな、悩んでいるのである。
そして、どのクラスでも大変な子どもが必ず数人いることがよく分かった。

生徒指導の本質を一言で言うと何か?

友人と話した結果、「受容」だろうということになった。

無茶苦茶悪いことをする。
当然叱る。
何らかの「懲戒」を加えることも権利として認められている。
しかし、最終的に、教師にとって「許す」以外の選択肢はない。

教師は、子どもと離れる訳にいかない。
いかな悪ガキであろうと、自分が担任している大切な子どもである。
他業種と違い、顧客を選ぶこともできない。
(これは、一方で子どもの側からも同様である。)

どんなに悪いことをしても、「信じている」と告げるしかない。
そして、良くなることを信じるしかない。
受け容れるしかない。
相手の人生を背負うことはできない以上、それ以上のことはできない。

叱るべきは叱る。
しかし、相手を信じ、受容する。

受容の「受」は受ける、「容」は容器。
受け入れる自分自身の器を大きくしていくことであると解釈した。

2012年8月8日水曜日

デジタル化の功罪

先日、社会科の「デジタル教科書」なるものを見た。
教師がプロジェクター等で提示して使うものである。
教科書と全く同じ構成で、クリックすると、写真が拡大されたり問題が提示されたりする。
非常にわかりやすい。
多分、社会科が苦手な教師でも、これを使えば一定水準の授業ができるような気がする。
値段が数万円するらしいので、すぐに全校配置は難しそうだが、将来的には広がりそうである。
(ちなみに、現在全学校に配られている外国語活動用「Hi Friends!」のCDロムもこれと同様である。)
日本中の全ての教室にコンピューターとプロジェクター(または電子黒板)が配置される日が来るだろう。

ところで、ここに関して、以前野口芳宏氏より興味深いことを教えていただいた。
数十年前、まだビデオテープが普及し始めた頃。
歴史の授業に使えるビデオが登場した。
それまで、動く画像で教えるなんてことはあり得なかったので、これはすごいと驚嘆した。
今までの教科書を使った授業では太刀打ちできないだろうと。
そこで、ビデオをじゃんじゃん使って授業を進めていった。
しかし、意外なことに、テストをすると、散々な結果。
子どもの中に残っていないのである。
以来、ビデオ教材の使い方を考え直したという。

デジタル化が進むことは大いに結構である。
むしろ、どんどん進めて欲しいと個人的に思う。
(ちなみに私は先日、学校長にそんなことをお願いしたばかりである。)
一方で、そこにばかり頼って、基本的な教え方のレベルが落ちるのは問題である。
誰がクリックしても同じ反応が出るコンピューターだけに、その使い方が問われる。

2012年8月6日月曜日

学ぶことは、楽しいこと

授業の本質を磨く。
見るからに重い感じだが、少し砕いて考える。

授業の本質的な楽しさとは何なのか。
私は「知的好奇心」の一言に尽きると思う。
新しいことを学ぶ楽しさ、それそのものが授業の楽しさである。

私はよく次のような話をする。
「みんなは、欲しいものがありますか。
(新しいゲーム、新しい服、携帯電話など口々に言う。)
世界中の子どもの願いの第一位は何だか知ってますか。
(間を取る)
それは、『学校で勉強したい』です。
世界中には、様々な事情で、勉強したくてもできない子どもがたくさんいます。
たまたま日本に生まれたみんなは、勉強できるありがたみを感じていないかもしれません。
これは、親がいることに感謝しないことと似ています。
近すぎるもの、当たり前すぎるものには、人間は感謝しません。
空気もそうですね。
でも、ないと非常に困る。
勉強ができるということは、世界一幸せなことなんです。
人間は、勉強することで人間になっていきます。
新しいことを知れること、これ自体が幸せなんです。
みなさん、毎日学校で勉強ができて、本当に幸せですね。」

こんな話をすると、大きくうなずく子どもがいる。
少なくとも、全員真剣に聴いている。
こうすると、次から勉強に打ち込む態度が変わるのである。(1日ぐらいは。)
これを、折に触れて形を変えて話す。

生きることは、学ぶこと。
学ぶことは、楽しいこと。
幸せなことである。

2012年8月4日土曜日

授業の本質を磨く

子どもが学校や勉強を好きだ、得意だと思い込むにはどうすればよいのか。

一つに、各教科の中に一つ以上の「お楽しみ」を用意しておくという方法がある。
これは、一回だけの打ち上げ花火的なものではなく、毎回のルーティーン(定型)
として組み込まれている必要がある。

国語をやれば、百人一首や暗唱がある。
社会は、歴史カルタ。
算数なら、難問やパズル(毎回用意は難しいが)。
理科などは、実験そのものが楽しい。
体育なら、集団でふれ合う鬼ごっこ的なゲーム。
外国語なら、チャンツやゲーム。
・・・などというように、何かしらの楽しみがあれば、それだけでくいつくことがある。

しかし本質的な楽しさは、ここではない。
エンターテイメント的な楽しさは、言うなればきっかけ作りである。
商品でいうなら、広告やオマケみたいなもので、最初の興味・動機付け程度である。
商品PRができてない商品は、そもそも売れないので、良さも分かってもらえない。
しかし、せっかく買ってみてもダメな商品なら、もう二度と買ってもらえない。

やはり、商品の本質的価値を磨く必要がある。
色々な機能のついた「十徳ナイフ」でも、ナイフの切れ味が悪ければ使えない。
授業の本質を磨くことが、本分である。
(次号に続く)

2012年8月1日水曜日

ゲームの有用性

以前にも紹介したが、社会科の歴史の学習の例。

私が担任する学級は毎年「歴史が得意・好き」という子どもが多い。
別に、素晴らしい授業をしている訳でもない。
ただ、毎年必ずやるのが「歴史人物カルタ」である。
授業開始の最初の5分程度で行う。
これは、楽しい。
知識が身に付くだけでなく、仲間との交流にもなる。

かくして、「歴史が面白い」という感覚が生まれる。
授業はそんな大したことなくても、である。
私は歴史が好きなので、結構語れる。
そんな私の話をきいていない子どもでも、歴史の時間はなんとなく楽しみなのである。

興味・関心を引き出す一つの手法は、「ゲーム」である。
外国語の学習でも良く使われる。

次号は、他の方法について。

2012年7月30日月曜日

得意だと思い込ませる

各教科において、興味・関心が引き出せれば、授業は成功したも同然である。
興味・関心を持たせることが、子どもの将来をも左右することがある。

ある子どもは、自分で「算数が得意」と思っている。
この、「思っている」というのがポイントである。
例えば同じ能力の子どもであっても、転校することで得意・不得意の感じ方が変わる。
前の学校ではクラスで下の方だったのが、上の方になることもある。逆もある。

つまり、本当に「得意」かどうかは関係ないのである。
「得意」と思い込ませれば勝ちなのである。
その上で壁に当たれば、また努力すればよい。
得意分野で進んでいけば、必ずハイレベルの集団に入ることになる。
そうすると、自分もまだまだだと必ず気付く。

何はともあれ、得意だ、好きだ、楽しいと思い込ませること。
具体的にはどうしていくか、次号から各教科を通して考えていく。

2012年7月28日土曜日

モデルを示す

どの子どもも素晴らしい作品を作る、というような学級がある。
指導方法そのものもあるが、別の要素もある。

すなわち、その学級の子ども達の頭の中には、共通のモデルが存在する。
物事を成功させるためのイメージ化の大切さは、ビジネス書などでよく言われてることである。
完成図が頭で描ければ、半分成功したも同然、ということである。

私がお世話になっている先生の話である。
ある小学校の先生方は、夜を徹して運動会の色ごとのキャラクターづくりのようなものをする。
はっきり言って無駄のような気がするが、それが後で違うと分かったという。
良いモデル(教師の力作)を見て育った子ども達は、自分達で何か作る時にも、良い物を作る。
作品のレベルが上がるのである。

図工の先生は「自分で作ってから教えるのが最低限」だと言う。
それは指導法に気付くばかりでなく、教師の作品を見てイメージ化できるという効果もある。
(元々高い発想力レベルの子どもにとっては、イメージが固定化されてしまうという欠点もある。)

指導は「指し導く」ことである故、モデルを示すことは大切である。

2012年7月27日金曜日

段階を見極める

子どもの自主性を育てたい。
しかしながら、言うことをきかないのも困る。

段階としては、まず教師の指示をきき、忠実に実行できること。
(やるべきことを、言われてやる)

次に、やるべきことに自分で気付いて実行できること。
(やるべきことを、言われる前にやる)

最後が、自分でやることを作り、自主的に実行できること。
(自分でやることを作り、自主的にやる)

掃除を考えるとわかりやすい。
見ていればやる、見ていなくてもやる、自分で探してやる、という感じである。

子どもがどの段階なのか、見極めることが大切である。
教える段階か、支援の段階か、任せて見守る段階か。

ここの見極めを間違えると、教師にも子どもにもストレスになる。

2012年7月26日木曜日

道徳授業は教師の実感を

最近、「更新が不定期」とご不満をもたれている方がいるかもしれない。夏休みであるし、可能な限り日々更新を心がけるのでお許しいただきたい。


道徳の授業。
副読本を読んで終わり、ビデオやDVD映像を観て終わり、というパターン。
これでは実感も何もない。
(いや、やってるだけマシかもしれないが。)

それでは、と思い、様々な先人の優れた実践を探す。
しかしながら、他人の授業実践を見て、それを真似てみるだけでは、
やはり実感は伴わない。
授業としては成立し、子どももその場ではいいことを言ったり書いたりするのだが、
だから何が残る訳でもない。

道徳の指導案を作って模擬授業した際、野口氏に
「教師の実感が感じられない。
教師の願い、怒り、切実感、そういった感情が感じられない。
技術の底に何が流れているのか。
授業が、上の方をさらさらと流れている。」
とずばり指摘された。

全くその通りである。
今回は「規範意識」というテーマだけを与えられ、その指導案を作った。
テーマに気を取られすぎて、目の前の子どもに伝えたい内容になっていなかった。
(そう考えると、道徳で年間指導計画通り、というのは、なかなか難しい。
算数などと違い、その時々で伝えたいテーマが大きく変わってくる。)

「本音、実感、我がハート」
これがなければ、道徳の授業は上滑りしてしまうことがよくわかった。
本気で実践あるのみ、である。

2012年7月25日水曜日

怒られない不幸な子ども

先日の勉強会で学んだことの続きを。

こんな話もあった。
超ベテランの、授業のプロの先生の話である。
「一年生の教室に代わりに入った。
教室は騒乱状態。
どうやっても、話をきくどころではない。
どうしたか。
思いっきり怒った。
一人ずつ、目の前に言って、一人ずつ怒った。
これは最善とは思えない。
しかし、その後はしっかりと集中して授業できた。
授業後、子ども達が、今日はすごくがんばれたとニコニコしながら言いに来た。」

この先生は、「子ども達が不幸だ」とおっしゃっていた。
めちゃめちゃ暴れても、注意されてこなかったのである。
悪いことをしても、怒られなかったのである。
良い悪いが、判別できないのである。

教諭なのだから、「教え諭す」方がいいにきまっている。
しかし、諭すどころではないという状態も、実際にはある。
教育では、怒らない方がいい。
一面にこれは正しい。
しかし、怒らないではいられない場面も、時にある。

最善を尽くしたいが、無理なら次善をとる。
この場合の最悪は、「一年生だし、しょうがないなぁ」と許してしまうことだろう。
今自分がよくても、次の人が困る。
そして、最終的には子どもが困る。
必要な場面で怒られないで育った子どもは、不幸である。

2012年7月21日土曜日

次善の手をとる

またまた人様のネタで申し訳ないが、紹介したい。

「ほとんどの人は、最善を考えるが、次善を考えない」
というような話をきいた。

なるほど、である。
例えば、授業が全て「支援」だけで進む授業を「最善」とする。
子どもが主体的に動き、教師はそれをそっとサポートするだけ。
子どもは自主的にいきいきと活動している。

理想的である。
しかし、現実はそうはいかない。

ならば、次善の策は「きちんと指導」である。
教師が考え方を教える。
正しい、正しくないをはっきりさせる。
間違っていたら正す。
引っ張っていく。

最悪は「放任」である。
子どもは好き勝手活動している。
授業における向上はない。
いわゆる「活動あって学びなし」の状態である。

最善を求めるのはいいが、最悪になっていないか。
ならば、次善の策をとった方がはるかに良いのではないか。

基準を下げる、というのとは少し違う。
基準を目的に合わせる、という感じである。
実態を見て、どこまで求めるか見極めたい。

2012年7月19日木曜日

責任もチームでとる

例えば、学年で何かしらの問題が起きたとする。
その問題の所在自体は、自分の学級ではないとする。
この時、問題を共有化できるかどうかが大切である。
つまり、自分を全体の一部と考えることである。
全部に首をつっこむ必要はないが、責任を一緒に負うということである。

一番いけないのは、責任のなすりつけあいである。
その担任が悪い、前の学年の担任が悪い、私はやってない。
チームの一員になった時点で、自分にも責任がある。
チームの問題に対して、何かしら働きかけるチャンスがあったはずだ。

健全なチームであれば、全員で責任を負って対処する。
外部に対しては、「うちのチームが問題を起こして」という対応である。
特定の誰かではない。
チーム内のメンバーを突き出すようではいけない。
(特に、本人が気にしている場合は尚更である。)
それがもっとも情けない対応となる。

そう考えると、最高のリーダーは、責任をとってくれる人物である。
最低なのは、責任をとらず、下になすりつける人。
そういう校長のもとでは、学校は間違いなく荒れるだろう。
リーダーの立場にある人間は、メンバーの責任を前面に負う。
これは、教室のリーダーである教師全員にも言えることである。

2012年7月17日火曜日

チームで一貫した指導をする

生徒指導がうまくいっている学校はどんな学校か。

「怖い教師がいる」「厳しい教師がいる」では、×である。
この場合、その教師の前でだけは、ルールを守るようになる。
理由も「叱られるから」。
これでは、生徒指導の意味がない。

やはり、うまくいくのは、全ての教師が一貫した指導をする学校だと思う。
チーム力の高い学校といってもいい。
どの教師であっても、ダメなことはダメと言われる。
A先生なら叱られるが、B先生なら優しく許してくれる、というようなのは最悪である。
子どもの判断基準が「正しいかどうか」ではなく、「誰に見られているか」になる。
全ての教師が同じようにダメなことはダメと言えば、それはダメなんだなと子どもも分かる。

職員室から教室へ移動する時は、全校児童への教育のチャンスである。
ただし、先にチームでの共通理解が得られていることが前提である。

2012年7月15日日曜日

勝ちにいかねば価値がない

運動会や陸上など、学校行事には勝負事が多い。

勝つことにこだわりすぎて、過剰な指導になることは大きな問題である。
しかしながら、最初から「勝てなくてもいい」という考え方には疑問もある。
勝ちにいくからこそ、頑張る気持ちも育つ。
勝ちにいくからこそ、工夫も努力もする。
勝ちにいくからこそ、勝った時の嬉しさも負けた時の悔しさもある。

最初から負けるつもりでは、何事も工夫が生まれない。
理由をつけて諦めていては、改善・工夫ができない。
学校での指導全般に言えることである。

「勝ちにいかねば価値がない」とは、勝負事に関する自分の信念である。
勝ちにいくからこそ、負けても勝ち(価値)となると思う。

2012年7月12日木曜日

素直にきく

素直な人は伸びる。
私の尊敬する先生は、毎年子どもに「素直さが何より一番大切」と教えていた。
私もそう教えている。

ところで、素直とはどういうことか。
明鏡国語事典には「性格や態度にひねくれたところがなく、
人の言動などを逆らわないで受け入れるさま」
「くせがなくて、のびのびとしているさま。」とある。

つまり教えや忠告を、まずは受け入れ実行していく態度である。
いちいち逆らわないということである。
それが正しいかどうかの判断は必要だが、まずは飲み込む。
その上でやってみて、良いか悪いか判断する。

大人であれば、目上の人や上司、先輩の忠告をきいて実行するということである。
子どもであれば、親や教師の教え、地域の方の忠告を守るということである。

子どもが言うことをきかない。
指導が通らない。

そうであるならば、教師である自分自身を疑ってみる。
自分は言うことをきいているか。
アドバイスを実行しているか。
そうしたこともせずに、子どもに言うことをきかせるのは不可能である。
自分も廊下を走りながら走っている子どもを注意しているのと同じである。

人の教えは、きくものである。
教師の教えは、きく。
きくかきかないかの選択肢はない。
それぐらい、自信を持って、教える側も話をきかせたい。
「聞く」だけでなく、心をいれて「聴く」ようにさせる。

これもまた、道徳である。

2012年7月10日火曜日

全ての教育は道徳

先日、勉強会で、ある先生の国語の模擬授業に参加した。
その際、「道徳の授業っぽい」と私が意見した。
それに対し、野口氏は「結果的に、道徳的になるのは良い」とコメントした。
さらに「全ての授業は、道徳的要素が含まれるべき。」といようなことも言われた。
(正確には、多少言い回しが違ったかもしれない。)

これは、非常に勉強になる言葉であった。

およそ道徳的でない教育というのものは、存在しない。
算数の授業ですら、道徳であると。
算数が分かることで、道徳性を高める。
学ぶことは努力する気持ちかもしれないし、人に教える喜びかもしれない。
算数ができたことで、できない人を馬鹿にするようであれば、教育的には失敗である。
例えば勝利至上主義などは、道徳の視点からすると、やはり違うといえる。

学習指導要領にも「道徳教育は、学校の教育活動全体を通じて行うこと」とある。
「この授業を通して、どんな道徳的価値があるのか」といつも考えてみたい。

2012年7月8日日曜日

職員同士のあいさつを重視する

あいさつ運動、どの学校でもやるのではないかと思う。
しかし、なかなかできるようにならないのが実情である。
街中、都会になるほどしなくなる。
人が多すぎる為かもしれない。
それでも、学校はあいさつ指導の核になる場である。
(全ての教育の核は、学校である。地域の大人も学校の産物である。)

ところで、職員同士のあいさつはどうだろうか。
先日、ある研修会で、経験年数が増えるほど、あいさつしなくなる人が増えるという話があった。
子どもに対してもそうだが、大人同士はどうかということである。
結構、できないのではないかと思う。

どうすればいいのか。
一つは、一人ずつに声をかけること。
何となく全体に「おはよーございまーす」と一発やって、終わりにしがちである。
その際に、相手の顔を見て行うこと。
相手の顔が上がってなくてもいい。
(仕事の準備をしていて、顔が上がらないのが普通である。)
無視されてもいい。
とにかく、自分はきちんとやる。
そうしていると、見てくれている人はいるもので、「あいさつがいいね」と言ってもらえる。
一人増えると、また増える。
その内、だんだん良くなると思う。

これも「言うは易く行うは難し」だが、心がけが大切であると思う。
職員同士のあいさつが増えると、子どものあいさつも増えると思うが、いかがだろうか。

2012年7月6日金曜日

校外学習でのあいさつ指導

前号の続き

特に取り上げて、「あいさつ」を指導する。
「観光地ではどんなあいさつが良いのか。」
普段とは、違う。
ある程度の面識のある、近所の人とのあいさつは、元気な方がよい。
先生方や友達となら、元気いっぱい大きな声でよい。
しかし、観光地で、小学生みんながそんなあいさつをしまくってきたら、実際ちょっと迷惑である。
「さわやかに」をキーワードとして教える。
「会釈」「笑顔」がコツである。
相手がどんな人かも見て、やり方を考える。
ニコニコしてこちらを見ている人なら、笑顔いっぱい大きな声でもいいだろう。
どんなあいさつをされたら気持ちいいか、時と場と相手に応じたあいさつを考えるいい機会である。

「すごくいいあいさつをしてくれた。○○小という学校の子どもらしい。」という話が出たら、最高である。
逆も、あり得る。
校外に出る時は、学校の看板を背負って歩いていることを、片時も忘れてはいけない。

2012年7月4日水曜日

校外学習のマナー指導

校外学習の事前指導をすると、注意が多くなりがちである。
「○○してはいけない」の列挙になる。
マナーを重視するほど、仕方無いことである。
これを、どう伝えると良いか考えて、次のように授業してみた。

「あなたは一般の観光客(大人)です。
観光地には毎日のようにたくさんの子どもがいます。
どんな子どもがいたら嫌ですか。」
班でフリートークのように話し合わせ、班ごとに発表した。
次のような結果になった。
・大声で騒いでいる
・あいさつがふざけている
・走り回っている
・道を広がって歩いている
・観光地のものを馬鹿にするような発言
・汚い言葉づかい

大体、指導したいものが全て出た。
では、自分達はどうすればよいのか問う。
「逆の行動をとればいい。」となる。
「言うは易く行うは難し」であることは百も承知だが、そこに落とし込む。
(道徳を学ぶことと行動が道徳的であることは必ずしも一致しないのが残念である。)

(長くなったので次号に続く)

2012年7月2日月曜日

文学作品でも呼称に着目

先日、筑波大付属小学校の公開研究会を参観してきた。
国語を長年研究している講師の先生が、呼称についての話をしていた。

(最近、こういうことが多い。
メルマガのネタで書いたことや友人と話したことが、別の場でぽんと出てくる。
シンクロニシティというらしい。
要するに、気にかけているから意識のフィルタにひっかかるということである。)

どんなことかというと、文学作品の中で、どんな呼称を使っているかで心情が読めるということである。
例えば、一人称。
「ぼく」か「おれ」か。
「やい、とかげ」では「ぼく」、「ごんぎつね」では「おれ」である。
「川とノリオ」にいたっては、ノリオの一人称は出てこない。
ここからも、主人公の性格の位置付けなどがわかる。

相手をどう呼んでいるか。
「大造じいさんとがん」では「たかが鳥」と扱っていたのが「残雪」「残雪め」「がんの英雄」「えらぶつ」と変化していく。
大造じいさんの残雪への心情の変化が分かる。

こういう視点も面白いと思った。
文学作品を読む一つの道具として使えるのではないかと思い、紹介してみた。

2012年6月30日土曜日

少しの無理をさせる

「指導とは、ちょっとの無理をさせ続けること。」
例の如く、野口芳宏氏の言葉である。
とても好きな言葉で、指導の本質がここにあると思う。

極端なことを言うと、普通にできることは指導する意味がない。
導かなくてもできることである。
下のレベルに合わせると、ほとんどの子どもにとって意味のない指導になる。
上のレベルを基本にして、下まで含めて全体を引っ張り上げるのが指導である。

例えば、日直のスピーチ。
自分の普段通りのしゃべり方で話していては、よく聞こえない。
教室で全体に向かって話すのだから、無理が必要である。
(野口氏はこれを「公的話法」という言葉で教えている。)
「不自然でよい」のである。
自然ではいけない。
無理をするから、伸びるのである。

応援での声がよく出ない子どもは、無理できてないのである。
普通に出そうとしている。
応援などは「パフォーマンス」なのだから、演技が必要だ。
これは意外と難しい。
教師が前に立ってオーバーに演技することで、殻が破れることもある。
相手に無理を強いるのだから、自分も、少し無理をするのである。

無理のしすぎは良くないが、無理をしないのでは成長はない。
持久走が速くなりたいなら、きついペースで練習する必要がある。
無理ないジョギングは、現状維持が目的である。
子どもは、現状維持ではいけない。
日々向上させるべく、少しの無理を互いにするよう心がけたい。
(その上で、初めてリラックスの時間が生きてくるように思う。)

2012年6月28日木曜日

叱る時も呼称をつける

前回の続きで、呼称について。

あだ名や呼び捨ての良さは、親しみにある。
一方、呼称をつけると、ていねいさや一定の距離をとることができる。
使い分けが大切だと思うが、私は基本的に呼称をつける。

特に叱る時。
子どもを呼び捨てにすると、続く言葉が荒くなる。
語尾が「~しろ」というような命令口調が続きやすい(ように思う)。
「○○さん(君)」とすると、語尾が「~でしょう?」と丁寧になる(ように思う)。
自分自身、冷静に対応しやすくなるのである。
相手を大事にしている感じが出るのもいい。
威嚇したいのであれば呼び捨ての方が効果がある。
しかし、教育の場において威嚇する必要があることは、ほぼ無い。

同僚と子どもについて話す時も同様で、子どもの名前には呼称をつけるよう意識する。
普段の呼び方が自然に出てしまうので、呼び捨ては避けるようにしている。

教師のキャラクターにもよると思うが、私はその方が合うように思う。
呼称一つだが、効果を考えてこだわりたい。

2012年6月26日火曜日

呼び捨て、「○○ちゃん」の効果を考える

呼称は大切である。
呼び捨て、「さん」付け、「君」付け、「ちゃん」付け、それぞれ効果が異なる。

私は、基本的に女子は「さん」、男子は「君」としている。
男女を差別化している。
日本語には男言葉と女言葉があるから、私はこれで良いと思っている。
(どちらが上とか下とか言う話とは次元が別である。)

ところで「○○ちゃん」とみんなに呼ばれている子どもがいるとする。
男女に関係なく、高学年なのに、その子どもだけ教師みんなから「ちゃん」付けである。
どういう子どもか。
大抵は、幼くて可愛らしく、かつ少し「手のかかる」子どもである。
つまり、少し当該学年より幼く見られている子どもであることが多い。
(私の経験則だが、今までのどの学校でもそうである。)

親愛の情を込めてきっと呼んでいるのだと思う。
それ自体はいい。
しかし、子どもをそう呼ぶことで、子どもの成長を阻害していないかとも考える。
「○○ちゃん」と呼ばれることで、自分はまだ幼くていいんだと思ってしまう。
周りの同学年のみんなとは違うんだと無意識に刷り込んでしまう。

だから、周りの人がどう呼ぼうと、私は必ず他の子どもと同様の呼称を付けて接してきた。
そうすると、面白いことに、自然と「きちんと」してくるのである。
別にそれが必ずしも正しいことだとは思わないが、効果があることは事実。
だから、私は毎年そういう子どもを見つけると、意図的に大人扱いする。

呼称一つでも教育効果はある。
教師の全ての行為が子どもを変える「教育」である。
(次号に続く)

2012年6月24日日曜日

歴史は「解釈」

6年生担任は、歴史の授業をする。
歴史が好きな教師なら、色々な知識を駆使して話すことができる。
そうでない教師には、なかなか荷が重いところである。
「自分で色々調べてみよう」といったところで、そもそもの興味づけができないと調べない。
だから、教える立場の者は歴史についての解釈を持っている必要がある。

新聞で、尖閣諸島についての記事があった。
尖閣諸島は当然日本の領土であると。
これも、一つの解釈である。
それは事実か解釈かという論議は、ただの水掛け論である。
事実は解釈によって作られる。
特に、歴史に関しては完全に解釈である。
自分がそう解釈しているのだから、そう教えればよい。
ただ、教える場合は色々な考え方を知った上での解釈が必要である。

教科書の記述は、外国の目を気にしすぎて、自虐的に書かれている面が多いという批判もある。
教える側は常に「これは他の解釈があるのでは?」と考える必要がある。

歴史の授業で最近盛り上がったのは「大仏作りは当時の人々にとって良かったといえるか?」というもの。
知識を色々与えた上で討論させると面白い。
歴史の授業作りで困っている人は、そういうテーマを考えると、一方的に教える授業から脱却できるかもしれない。

2012年6月22日金曜日

我以外皆我師

教師に最も大切なのは、謙虚さ。
私の考えた言葉でなく、野口芳宏氏の言葉である。
(誰が言ったかによって、同じ活字でも急激に価値が変動する。)

先日、氏は酒席で次のように話されていた。
「今までやってきて、私のものなんてのは一つもない。
全て、人様からいただいたものです。」

あれほど多くの実践を世に出している人でさえ、このように言うのである。
いわんや若輩者の凡人である自分に、真にオリジナルな実践などあろうはずがない。
人様から学んだものを、解釈して自分なりの形にして外に出しているだけである。
(そもそも今回のこのネタさえ、そうである。)

謙虚に学び続けること。
「我以外皆我師」
故吉川英治氏の言で、自分以外の全ての人が我が師である、という意味である。
10年以上も教師をやっていると、時に自分ができているような錯覚を覚えることもある。
しかし、100歳になっても学ぶ人は誰からでも学ぶ。
常に謙虚な心を持ち続けたい。

2012年6月20日水曜日

自信がないからこそ

自信があるから、発表する。
まあ、教室ではそうかもしれない。
しかし、自信がないと発表してはいけないのか。
逆に、自信がないからこそ、挑戦していくということもある。

何の話かというと、このメルマガとブログのことである。
以前友人に「控えめな奴がメルマガとかブログなんか書くか」と揶揄されたことがある。
確かに、そういう見方もあるかもしれない。

しかし、実際は逆である。
自分の実践に不安があったり、自信がないからこそ、書いているという面もある。
(もちろん、有益な情報を、という思いで書いている。いい加減なネタは使わないようにしている。)
自分の実践はこれで正しいのか、常に不安があるというのが実情である。

不安は、行動によって解消される。
やるかやらないか、ただそれだけだと信じている。

例えば、何かの研究集会で発表する人。
自信があるから出てきたのかというと、ほとんどはそうでないと思う。
自信はないが、やらせていただけるなら、という謙虚な姿勢の方が大多数だと思う。

元々、日記の延長のような感じで始めたこのメルマガとブログ。
自分のパソコン内にためておくより、発表した方が少しはためになるかと思ったのがきっかけである。
疑問や話題にして欲しいネタがあれば、言っていただきたい。
今後も謙虚に学んでいきたい、と考えている。

2012年6月18日月曜日

見直しの時期

以前紹介した「3・7・30」の法則によると、30日目をとうにこえた頃である。
もう一度、学級経営を見直す時期が来たと考える。

最初に作ったシステムは上手く機能しているか。
問題があるなら、改善はできるか。
または、それをなくしたらどうなるか。
ない方がいいなら、なくした方がいいかもしれない。

そういうことをチェックし直す時期である。
最初のやり方に固執していると、苦しくなることもある。
以前上手くいった方法でも、上手くいかないこともある。
子どもが違うのだから、ある意味当然である。

規律面も含め、改めてこの時期、もう一度点検したい。

2012年6月16日土曜日

応援団指導のステップ その2

前号の続きを。

3.基本の型を一つ徹底する
様々な応援を考える前に、まず一つを徹底する。
いわゆる「フレフレ」である。
大声を出せて、基本的な動き(腕から指先までピンと伸ばす)等が指導しやすい。
この基本がきちんとできるようなら、他の応援は自然にできるようになる。
だから、基礎をきちんと固める。
間の取り方や声の出し方、スピード等を指導する。
表情や立ち方もここで統一する。
ここで教えたことを、応援係は後で全校児童に指導することになる。

4.応援歌を作る
応援歌は、歌いやすくてみんなが知っている曲を選ぶ。
その場で考えろだと出てこないので、宿題にして一人一案持ってこさせる。
その中から、良いものを選べばよい。
原案の歌詞がうたいにくい、内容が不適切な場合は、相談して改めて決定する。
時間の節約の為に、教師が一時預かりして選別してきてもよい。

5.他の応援を作る
これも一人一案、宿題にする方がよい。
選ぶコツは「声が出しやすい」「やってて楽しい、またはかっこいい」こと。
CMや流行モノをちょっと取り入れるのもいい。(お笑いは人気である。)
オリジナリティを存分に発揮させたい。
どうしても出ない場合のみ、教師から提示することもありえる。(基本的に必要ない。)

6.組み立てを考える
いくつか作ったものを、どの順番で組み立てるのか。
制限時間内におさまるよう、速さの調節も必要である。
応援と応援の「つなぎ」もここまでに考える。
「つなぎ」は隊形移動の時間かせぎでもあるので、短すぎても長すぎてもいけない。

7.応援係の動きを考える
ここまでの応援の動きは、全て「全校児童の動き」である。
まずそこを作れば、安心である。
各学級で練習してくれる。
逆に、ここを変更するとなると、伝達にかなりの手間がかかる。
応援係自体の動きは、前日に変更しても大丈夫。
それぐらいフレキシブルなものであるので、本当に後回しでよい。
派手にやりたいようにやらせればよい。(安全面にだけは留意。)


以上。
ちなみに、「宿題」が多いのだが、応援をその場で考える時間はない。
全体の場は、あくまで「合わせ」の場である。
個人でじっくり考えるのは、家で一人の時の方が良い。
私はよく、朝の日直のスピーチでも「みんなの前に立つ1秒は30秒の価値」などと教える。
応援係が集まる貴重な時間に、個人活動は無駄である。(学校での各種会議も同様である。)
まして、全校児童の前に立つ時には、1秒の価値が100倍以上になる。
「気合いを入れて立て」と指導する。

なお、今年度作った応援については、ビデオにとるなどして記録しておいた方がよい。
(私は文書化して保存している。)
必ずまた指導する機会が来るからである。
(そして、数年経過しているので忘れているのが常である。)

少しでも参考になれば幸いである。

2012年6月14日木曜日

応援係指導のステップ

応援係指導のやり方が、人によってかなりまちまちであることに気付いた。
教科書がないのだから仕方ないが、ある程度マニュアル化されていると、工夫もしやすいのではないかと思う。
よって、自分なりの指導ステップを公開してみる。
(ちなみに、多分大したことはない。分かっている人には当たり前のことばかりである。)

1.心構えの指導
まずは心構えの指導。
応援係とは何なのか。
間違っているのは、自分が目立ちたいという思い。
それは別のところへ行ってやってもらう。
応援係とは全校児童に応援を教えるのが第一の仕事である。
その上で、自分達の動きを考えればよい。
放っておくと、自分達の派手な動きばかり考え、全体の動きが忘れられがちである。

さらに「だらしない奴には教えられたくない」ということも指導しておく。
リーダーとして前に立つからには、生活態度から改める必要がある。
普段人の話も聞けない人間が、「話を聞け」と言っても誰も聞く訳がない。
「声を出して」と言っている本人が出ていないでは、話にならない。
ルールを守るといったことについても同様である。
言行一致が求められる。(これは、教師にも当てはまることである。)

2.立ち方や表情の指導
「声が出る」などというのは、当たり前のことである。
応援係に立候補した時点でクリアしている項目である。
(そうでないなら、子ども嫌いの人が教師になったのと同じである。)
「より良い声」を出すための指導を最初にする。

まずは立ち方。
肩幅の2倍程度に開く。
腰骨は立てる。
声を出す時にはひざを深く曲げる。

動きの指導。
静と動にメリハリをつける。
流れるような動きにしない。
止まるところは止まる、動かす時は素早く動かす。
そして、指先までピンと張り、目一杯動きを大きく見せる。

表情の指導。
「応援係は顔が命」と教える。
別にイケメン、美女軍団になれという訳ではない。
顔を引き締めろということである。
口元をきゅっと結び、目は一点を「ギン」と見つめる。
特に大切なのは「目力」である。

とかく応援は「声」と勘違いしがちだが、合唱等と同様に、全身のパフォーマンスであることを確認する。

長くなったので、3から次回。

2012年6月12日火曜日

応援係への指導

メルマガではタイムリーに出していたのだが、ちょっと遅れて運動会の話題を。

応援係への指導について。

応援係は、応援を自分達で考える。
応援歌を作ったりもする。
振り付けを考えたりもする。

ここで考えるべきなのは、どこまで任せてどこまで指導するかである。
応援係だけの動きや声だしであれば、本人達のやりたいようにやらせればよい。
本人達が考え、そうしようと決めたのだから、複雑だろうが、歌いにくい歌詞だろうが、放っておいてもよい。

しかしながら、応援係は、全校児童に応援を教える係である。
そこが、係の仕事としての重要なポイントである。
その場合、複雑だったり歌いにくかったりするのは、よくない。
ここは、指導を入れるべきである。
応援練習は短い時間で仕上げる必要がある。
応援係の児童の自主性も大切だが、この場合、圧倒的多数である全校児童の方を優先せねばならない。

こういう失敗をしない為には、予めポイントだけを指導しておくことである。
たとえば応援歌であれば、高学年だと人気アイドルの歌や流行の歌に走りがちである。
しかし、低学年の児童は、そういうものに興味ないことが多く、知らない児童が多数である。
だから、応援歌などは、低学年の児童でも知っているような歌を選ぶのがよい。
ロングヒットのアニメの主題歌などであれば、確実である。
大きな声を出しやすいものを選ぶのもポイントである。
低音のものや、やたらな高音部のあるものは歌いにくい。

応援係が「自分達で作った」ことを自覚しつつ、きちんと全校児童に伝わるもの。
そういう方向で指導していきたい。

2012年6月8日金曜日

教師と子どもは平等です?

「教師も子どもも、同じ人間です。」
全く、その通りで反論はない。

「だから、平等です。」
そこは、違う。

教師と子どもは同じではない。
明らかに、教師の方が立場が上である。

国や県から給料をもらっている以上、子どもも親もはいわば「顧客」である。
しかし、顧客とサービス提供者の間に、上下関係はない。
よりよいサービスを提供し、両方が得をすることが健全な関係である。

子どもにとって、教育的により良いサービスとは何か。
それは、子どもに生きていく上で本当に必要な力をつけることである。

例えば、上下関係を教えることである。
社会に出たら、上下関係がある。
年上を敬うなどというのは、当たり前すぎることだが、意外にこれが分かっていない社会人も多い。
(特に、若くて勢いのある人に顕著である。若気の至りで終わりにしたい。)
子どもの中にも、教師を教師と思っていないような者がいる。
(しかも、相手によってがらりと態度を変える。)

どうしてこうなったのか。
一つに、一時期流行った「指導より支援」のいきすぎた考え方があるように思う。
指導を怖れて、子どもにおもねる傾向が確かにあったと思う。
支援の考え方は大切だが、それもきちんとした指導がベースである。
教えないでいきなりできるなら、教師はいらない。
正しいことは正しいと堂々と教えるのが教師である。

あいさつをまともにできない子どもは、社会で苦労する。
あいさつを教師より先にするのは、至極当然である。
そういう基本をおさえないで、他を指導しても通らない。

それには当然、教師の側も、自然にあいさつをしたくなるような人格が望まれる。
自らを高めつつ、上の立場の者として、子どもに堂々と指導したい。

2012年5月28日月曜日

脱・学級王国

教師の仕事はきついと言われる。
離職率、精神疾患率の高い職業としても有名である。
やりがいがある分、実際きつい仕事である。

私の勤務する県では、新規採用者の離職率がここ10年で6倍に増えているという。
社会が変わり、子どもが変わったのだから仕方無いという面もある。

どこなら止められるのか。
これは、やはり職場の仲間であると思う。

仕事がきついと感じる一番の原因は、人間関係である。
同じ職場に支えてくれる人がいれば、何とかなる。
孤独感が一番のストレスである。

大体、どんなに明るく見える人でも、悩みを抱えているものである。
まして、見るからに落ち込んでいる人は、相当精神的に参っていると考えていい。

もし自分の職場に悩んでいる人がいたら、一声でいいのでかけてあげたい。
自分の学級だけが良ければいいというのであれば、教師としては失格である。
学級王国の王様は、学校にいらない。
教師は「全体の奉仕者」であり、全ての子どもに貢献する義務がある。
自分以外のクラスの子どもも育てる必要がある。
そのクラスを持っている仲間を支える責任がある。

自分が困った時の為にも、悩みを共有できる、明るい職場にしていきたい。

2012年5月26日土曜日

良薬は口に苦し

保護者から意見されることがある。
内容は様々だが、真意は「子どもの為に改善して欲しい」ということである。

「クレーム」という言葉もあるが、こちらはあまり使わない方がよい。
この言葉には「苦情」「文句」という意味があり、マイナスイメージが強い。

いずれにせよ、人に意見するというのはエネルギーが要る。
わざわざ大変な思いをして意見してくれているのだから、きちんと受け取るべきである。
苦言であるが故に素直に受け取りにくいが、そこは「良薬口に苦し」である。
飲んだ方がいい。

中には、ただのうっぷん晴らしの文句としか思えないようなものもある。
相手側に問題があることもないとは言えないので、そこは見極めが必要だろう。
そこを「なぜこんなことを言ってくるのだろう」と思いやれたら、もう達人である。

ただ、一つ心しておくことがある。
それは、意見そのものの内容にとらわれすぎないことである。
たとえば「漢字練習のさせ方が良くない」と意見されたとする。
その時、漢字練習の指導法を振り返ることはもちろん大切である。
しかしそれ以上に、子どもと信頼関係が築けていないのではないかと考える。
子どもとの信頼関係は、そのまま保護者との信頼関係でもある。
教師への不信がベースだと「クレーム」となってやってくる。
信頼関係ができている場合、指導法そのものに不満はあっても、「まあいいか」となることもある。

いずれにせよ、意見は「良薬」ととらえる方が、心と体に良いと思われる。

2012年5月24日木曜日

子どもは教師の鏡

子どもは鏡とよく言われる。
親の前では親の鏡であり、教師の前では教師の鏡である。

もし、学力が低いのならば、学習指導の力が弱いということ。
もし、あいさつが暗いなら、自分のあいさつも暗いということ。
もちろん、担任する前までの指導も関係する。
しかし、1ヶ月以上経っている以上、何か影響を与えているはずである。
事実、この人は、と思える教師が指導すると、子どもは激変する。

うまくいかないと、子どものせいにしたくなる。
しかし、もしそこにおいて日本一の先生が教えたら、
自分の尊敬する○○先生が教えたら、
変わるのではないだろうか。

だから、子どもを馬鹿にしてはいけない。
職員室などで、ついつい指導がうまくいかない子どもをけなしてしまう時。
もし「○○はどうしようもなくて」と言ってしまったら、
残念ながら、これは、自分がどうしようもない教師だと公表しているのと同じである。
これは悔しいが、事実である。

指導がうまくいかない子どもは、神様の使いであると考える。
「あんた、ここができてないよ」と教えてくれている。
謙虚に受け止め、学び直す姿勢が大切である。

2012年5月20日日曜日

学級目標を活用しよう

学校では、様々な「目標」が存在する。
大きくは教育基本法に定められた目標から、学校教育法の目標。
学校教育目標をもとに作られる、教科経営目標、学年経営目標、学級経営目標。
月毎の生活目標や運動会などの行事毎の目標もある。
さらに、最近では目標申告もある。

教師の職は、目標のオンパレードである。
目標無き活動では、得るものもないので、ある程度仕方が無いといえる。

では、子どもは何を意識すべきか。
個人目標を立てる場合、それも大切だろう。
しかし、何より、学級目標を大切にしたい。
クラス全員が一体となって目指す方向だからである。
できれば、毎日のように確認したい。

一つの目標に向かっていれば、チームになる。
野球やサッカーのチームならば、大会での優勝など共通の目標が常にある。
学級は、意識させないと、「烏合の衆」になりがちである。
それぞれが自分勝手に無目的に動き回っていては、船はいつまでも島に辿り着かない。
3月のゴールすべき島はどこなのか、常に意識して向かっていきたい。

4月に一生懸命立てた目標が忘れられ始めるのが、この5月である。
ゴールデンウィークが明け、しばらくたったこの頃に、もう一度目標を見直してみたい。

2012年5月18日金曜日

家庭訪問で遅刻したら

家庭訪問で一番やってはいけないことは何かを考える。
やはり、「遅刻」である。
新採や異動したての人がよくするミスである。
多少の時間の前後は仕方ないが、30分以上遅れるようなら、必ず電話一本が必要だろう。

一人遅れると、次も遅れる。
遅刻の悪循環が起きるので、大抵は途中で空き時間を設定しておく。
それすら埋まってカツカツの状態で回るのが常である。

とにかく、遅刻はいけない。(しかし焦って事故はさらにいけない。)
「前の家庭で時間がかかって」と言い訳をして、その家をすぐ出ていくのもいけない。
「うちの子どもはどうでもいいのか」と受け取られかねない。
「遅れて申し訳ありません。」と正直に謝罪し、長引かないよう次の予定もさりげなく伝えるのがベターである。
(これは、面談でも同様である。)

私の場合、特に遅刻が予想される時間帯や日があるなら、予め連絡帳や学級通信等で伝えてしまう。
どうせ言い訳するなら先の方がよい。
明らかに無理なスケジュールを組まざるを得ない場面も、時にあるからである。

いずれにせよ、ただひいひい言いながら家を回るだけなら、やる意味がない。
わざわざ家まで行くのだから、何をねらいとして見て聞いてくるかが大切である。

最低限のポイントを絞って、短時間でも能率よく行いたい。

2012年5月16日水曜日

連休明けはがんばらない

連休明け。
子どもも疲れているが、大人も疲れている。
休みなのに疲れるというのも変な話だが、休みすぎは一番疲れる。
(睡眠に関して言えば、睡眠不足よりも、休日の寝過ぎが月曜のだるさの原因らしい。)
リズムが崩れるのは一番疲れる。
異動した人も疲れる。
新学期というだけでも疲れる。

だから、5月の連休明けは全員疲れていると思ってよい。
自分だけではないので、安心である。
稀に元気100%な人もいるが、そういう人は特殊なので気にしなくてよい。

精神科医の斎藤茂太氏の著書の中に、「元気過ぎる人からは元気はもらえない」というような言葉があった。
落ち込んでいる時や元気の出ない時は、一緒に落ち込んだりしてくれる人が元気をくれるらしい。

教師は前向きで明るい人格が望ましいが、いつでもポジティブ前向きだと、逆にお互い疲れる。

連休明けは、新学期と違って、ちょっとゆるめにスタートする。
ぼちぼち頑張ってこうというぐらいが、お互いにとってちょうどいいように思う。

2012年5月14日月曜日

言語環境を整える

先日、外にでかけた時に、ある親子連れ(夫婦と子どもの3人)がいた。
父「これ、スゲ-なぁ!」
母「マジすげぇ!」
子「・・・」

子どもは何も言っていなかったが、この家族の言語環境は推して測るべし。
こういう家庭の子どもも、そうでない子どもも、一緒くたに預かるのが学校である。

せめて、教室の言語環境は整えたい。
一番は、教師の言葉遣いである。

一部の方には男女差別だと言われそうだが、「男言葉」と「女言葉」は現実に存在する。
例えば「おいしい」という言葉は、「うまい」を女性用に変化させた言葉である。
本来、「おいしい」を男性が用いるのはおかしく、逆に「うまい」を女性が用いるのも不作法である。
時代の流れで、現在では問題ないが、こういう言葉も結構ある。

現代において、女性が「すげえ」というのはそんなに問題ないのかもしれない。
しかし、やはり子どもを持つ母親がそれでは、と、問題意識を持つことも大切であるように思う。
まして、教師たるや、である。

使う状況にもよると思うのだが、教師の言葉遣いも、結構見直した方が良いことが多いようである。
国語の大家である野口芳宏氏も「言葉遣いは心遣い」と繰り返し述べている。
「人の振り見て我が振り直せ」
人の言葉遣いを批判する際には、自分自身をも批判する必要がある。

2012年5月7日月曜日

自己肯定感を高める

4月末から5月にかけて、子ども同士のトラブルが頻発する。
新しい学級に慣れてきたこと、何となく疲れてくることなど理由は様々である。

この手のトラブルにすばやく対処することは大切である。
しかし、それ以前に予防に手を打ちたい。

ほとんどのトラブルの根源は、自己肯定感の低さである。
いじめ、ケンカ、盗みのような正真正銘の「トラブル」。
掃除さぼり、廊下を走るといったような、日常的な問題。
どんな問題も、大抵ここに帰着する。

自分を大切にしている人は、他人も大切にする。
いじめやケンカはしない。

自分を大切にしている人は、自分を高める行為をする。
身の回りをきれいにしたくなるし、正しく生活したくなる。
まして物を盗ろうなどとは思わない。

そして、指導したところで、いきなり良くはならない。
「もうやりません」と心から反省しても、9割はまたやると思って良い。
それをしつこくしつこく繰り返し、根気よく1割ずつ改善していくしかない。
同じことを10回指導してやっと良くなったら、かなり順調な改善である。

目の前の問題に振り回されず、根本的な解決を目指したい。

2012年5月5日土曜日

授業参観の心得

授業参観をどうするか、悩む人が多いと思う。
授業参観はどうあるべきか、再度示す。

一つめは、全員が発表すること。
保護者は、自分の子どもを第一に見にきている。
やはり、我が子が発言したかどうかは大きい。
全員が一つでも何かしら発表できる場面があれば、とりあえず合格点である。

二つめは、大人も楽しめる内容であること。
参観している親も真剣に考えるようなものが欲しい。
大人も子どもも楽しめる、ちょっとした難問を一つ用意できれば、それだけで盛り上がる。
家庭での夕飯時に話題に上がるようなら最高である。

三つめは、学力の向上が見られるもの。
ここまでの短い期間でも、力がついているとわかれば、安心する。

具体的にはどんなものがあるのか。
私はよく、百人一首の様子や詩文の暗誦、漢字の学習等を行う。
(ちなみに今年度はこれでいく。)

他にも掲示物やら言葉遣いやら色々あるが割愛。
要は、「今年の担任の先生は大丈夫だわ」と信頼されることが第一の目的である。

ベテランの先生の方がネタを持っていることが多い。
(無論、若手でも持っている人は持っている。)
悩んだら、校内の頼れる先生に相談することである。
あっと驚く解決の手口が見つかるものである。

2012年5月3日木曜日

読み聞かせのススメ

最近、朝の読み聞かせをやっている。
絵本である。
机を下げ、全員を前に集めて座らせる。
座る位置は自由だが、聴く姿勢を持つことだけが条件である。
(よって壁によりかかるのは不可。)

自分の好きな絵本を5分程度読む。
長いものは、2回に分けて読んでいる。

初任の頃から結構ちょいちょいやっていたことなのだが、今年度は初日から続けている。
朝学習の時間が設定されているから、余裕があるのも理由の一つである。

これをやると何が良いのか。

まず、話を聴く姿勢ができる。
基本的に楽しい本ばかりなので、真剣に話を聴く。
この時ばかりは、やんちゃ坊主も静かである。

しんみりするものがあれば、ものによっては、笑いが起きるものもある。
朝から落ち着いた雰囲気や、または笑顔で始められる。

そして、遅刻が減る(らしい)。
朝の読み聞かせを楽しみに来る子どももいるそうな。
(何かの本で読んだことがある。)

その時々に伝えたい、道徳的な価値も伝えられる。

個人的に好きな本をいくつか。
「百万回生きたねこ」(卒業前などに読むことが多い。)
「3匹のかわいいおおかみ」(とにかく笑える。面白い。パロディを教えるのにも使う。)
「泣いたあかおに」(これは当然、節分周辺に読む。友情の他、差別や偏見の学習にもなる。)
「おじさんのかさ」(やはり梅雨時に。能力を出し惜しむなというメッセージにも。)
「もこもこもこ」(意味不明な面白さ。とにかく楽しくなりたい時に。)
「だめよ、デイビッド!」(やんちゃ坊主を指導した翌日にでも。先日紹介した岩瀬先生のオススメ。)

本当は、絵本以外の読み聞かせもいいのだろうが、個人的に絵本が好きである。
(これは、完全に個人の好みである。)

学級経営のツールの一つとして、絵本の読み聞かせは有効であると考える。

2012年5月1日火曜日

やらせればできる

子どもが自主的に動けないと嘆く。
できないから、お膳立てしてあげる。
とかく、教師は丁寧&真面目でサービス精神旺盛なので、こと細かに準備する。

児童集会では司会の台詞まで用意して、子どもはそれに従えば大丈夫な状態にしておく。
部活動での準備を全て教師が行い、子どもは用意された場で活動を始める。
授業では失敗しないようにレールを引いておき、そこに誘導していく。

こういう活動を繰り返していけば、子どもはどんどん「お子様」になっていく。
自分がやらなくても、教師がやってくれる。
教師とは、自分の為に奉仕する存在であるかのごとく、間違った認識を持つ子どももでる。
ひどいと、教師と児童・生徒という上下関係すらも「平等」などと言い出す。

こういう「お子様」を育ててはならない。
その子ども自身も、不幸である。
どうしてこうなってしまうのか。

根源は、子どもに対する「信頼不足」でないかと思う。
「ここまではできない」「これは無理」という考えが、無用な先回りを生み出す。

例えば、「幼児は難しい漢字を覚えられない」と考える。
しかし、実際は平仮名より意味のある漢字の方が子どもにとっては容易であったりする。
だから、幼児向けの漢字カードのような商品もある。
「まだはやい」「できない」というのは、全て大人の側の思い込みであり、子どもはかなり色々なことができる。

子どもを信頼して、できることはどんどん任せるようにしたい。

2012年4月28日土曜日

マイナスとプラス 陰と陽

学級担任は、とかく短所や問題点に目がいきがちである。

例えば、学級で手のかかる子どもがいる。
いつも悪態をついたり、または指示をきけないような子ども。
まあ、学級の1割程度はそんな感じの子どもではないかと思う。
必ずいると言っていい。

気になるので、いちいち注意する。
それは、必要なことである。
放っておくのはよくない。

問題は、周りの子どもである。
その子どもが注意されている時、周りの子どもも注意されている気分になる。
何も悪いことをしていないのに、損した気分である。

よくよく見ると、注意されている行動と真逆の行動をとっている子どもが必ずいる。

掃除をさぼっている子どもがいれば、すみずみまで黙々とやっている子ども。
授業が始まっても席につかない子どもがいれば、授業開始前に準備をして座って待っていた子ども。
話をしている時、手いたずらして子どもがいれば、真剣にメモをとって聴いている子ども。

マイナスを指摘するなら、プラスも指摘した方がいい。
むしろ、プラスを先に指摘すれば、マイナスの行為は自然に正される。
たとえば「○○君、姿勢がいいね!」と言えば、全員がしゃきんと背筋をのばす。

プラスとマイナスはセットで存在する。
例えば、陰陽道のマークは陰と陽が切り離せないことを示す。
必ず、両者はセットである。

マイナスを指摘する前に、プラスに目を向けたい。

2012年4月26日木曜日

児活と通常の授業の違い

委員会活動などの児活と、通常の授業の一番の違いは何か。

それは、「子ども主体」であること。
通常の授業は、何だかんだ言って、教師の側が主体である。
子どもが中心に活躍する授業にしても、基本計画は全て教師である。

一方、児活はその名の通り、児童の活動である。
学級会に近い。
だから、可能な限り、子ども中心にする。

クラブや委員会活動、児童集会の発表などで、教師の側が指導しすぎることがある。
そうすると、急に「やらされてる活動」になり、児活の魅力が激減する。

毎年やってる委員会活動なども、「例年通り」ではつまらない。
その年度の子どものアイデアを生かし、ワクワクするような活動にしていきたい。

2012年4月24日火曜日

子どもと何でつながるか

「その子どもと何でつながるか」
これは、私が教育実習の時に指導担当の先生から教えてもらった言葉である。
確か以前にも紹介したと思うが、特に今の時期に大切なことなので再度記す。

教室には様々な子どもがいる。
活発で明るい子どもは、普通にしていれば会話できる。
学習が遅れがちだったり、やんちゃな子どもは、何かと1対1で会話する機会ができる。

注意すべきは、特にこれといった問題もなく、目立たないきちんとした子ども。
何かしら、つながるための「チャンネル」が欲しい。
日記は、有効な手段の一つになり得ることが多い。
一緒に遊ぶのも、つながりを深めるよいチャンネルである。
音楽指導が得意な人は、歌でもいい。
絵をかくことでつながってもいい。
将棋やオセロでつながれる子どももいる。
好きな本のことでつながれる子どももいる。
漫画だって、歌手だっていい。

全ての子どもと、何かしらのチャンネルでつながっていることが大切である。

子ども一人一人を見るということは、言うは易く行うは難し。
相当意識しないと、自然にはできないものであると心得たい。

2012年4月22日日曜日

3・7・30の法則

タイトルは、先日も紹介した野中信行氏の言葉である。

最初の3日で、楽しいイメージと学級作りの仕組みを作り、
7日で学級の仕組み作りや指導のポイントをおさえ、
30日で、1週間で作り上げた仕組みをさらに徹底、繰り返し指導する、
というものである。

今、10日程度が過ぎた頃と思う。
色々仕組みを作ったことだろう。
これを、「30日」まで徹底することである。
「30日」は大変であるため、特に抜けやすい。
しかし、ここを踏ん張ることで、学級の1年間の仕事の80%が終わると考えていい。

まず、最初の仕組みを、徹底しよう。

2012年4月20日金曜日

黄金の三日間 その3「楽しい授業」

学級成立までの子どもが求める条件を再度示す。

1安全・安心な教室であること
2規律が守られ、学習活動が保障されること
3楽しいこと

1は最低限おさえたとする。
2のルール面も指導した。
次は、3である。

どの場面で楽しさを持たせるか。
やはり、学校生活の大部分を占める、授業である。

「楽しい」も大きく2つに分けられる。
1つは、笑ったりするような、単純な楽しさ。
お笑いを見るのも、ディズニーランドに行くのも、この類である。
エンターテインメント的な楽しさである。

2つ目は、知的好奇心による楽しさ。
何かを発見したり、できるようになったりすること。
英語でいうとinterestingにあたる。

授業では、後者を重視しつつ、前者の要素を取り入れたい。

私は毎年必ず百人一首を行うが、両方の要素が入っていて、かつ規律の面も指導でき、オススメである。

また、読み聞かせも同様である。
先日紹介した岩瀬先生のオススメの本
「ありがとう、フォルカー先生」 パトリシア・ポラッコ作 岩崎書店
などは、学級の始めの方に読んできかせると、学級経営に役立つと思う。

次号、4月に行う授業について、いくつか紹介していく。

2012年4月18日水曜日

黄金の三日間 その2「ルールの指導」

何事も、最初が肝心である。
後で何とかなることと、何とかならないことがある。

たとえば、花の種をまくのにも、時期がある。
時期を逃すと、咲くものも咲かなくなる。
物事を為すには時期、タイミングは命といえる。

学級の基本ルール。
これは、やはり最初が指導の時期である。
後から追加することも可能だが、基本は押さえておきたい。

「人を叩かない」などというのは、もはや社会的に当然すぎることなのでいちいち確認しない。
それより、独自のものを取り入れたい場合は、早めに指導しておく。
たとえば、私はプリント類を渡す時に「どうぞ」「ありがとう」の一言を添えさせる。
(有田和正氏の実践の追試である。)
これなどは、指導しないと絶対やらない。
後から加えると、定着しにくい。
だから、最初に指導する。

「廊下の移動の仕方」なども、上手にできないなら最初に指導するのが良い。
廊下はなぜ静かに移動するべきなのか。
どういう姿がいいのか。(私は静かに素早くを「忍者」または「ゴキブリ」で表現する。)
そういうことを簡単に説明し、やらせて、できたら誉める。
やはり、後から指導すると、何倍も労力がかかる。

ルールについては後で苦労するより、先取りした方がよい。
とりあえずでいいので、大枠だけ決める。
最初が、肝心である。

2012年4月16日月曜日

黄金の三日間 その1「安全・安心の教室」

ちょっと過ぎてしまったが、黄金の三日間について。
(メルマガでは、タイムリーに発行したものの、ブログも先に投稿すべきだった。タイミング失敗。)

「学級開きから黄金の三日間をどう過ごしたらよいか、教えて下さい。
特に、統率力という点で悩んでいます。
高学年に決まりを教える際にはどうしたら効果的か?
守らせるには?といつも考えています。」
という依頼のメールが来たので、これについて書く。

学級開きと統率力。
切っても切れない関係である。
最初の3日間、子どもは教師の「品定め」をする。
この先生は優しいのか怖いのか、厳しいのか甘いのか、
どこまでやったらOKで、どこからがNGなのか。
そういうことを、様々な行動や言動で試してくる。
かわいくなついてきているようで、実は「品評会」の最中である。
セールスと同じで、甘い顔をしているとつけ込まれる可能性もある。

では、どのようにしていくのか。
統率するには、統率されたいと信頼される教師になる必要がある。
いきなりルールを押しつけても、うまくいかないか、ロボット人間を育てるだけである。

学級成立までの子どもが求める条件を次のように考える。

1安全・安心な教室であること
2規律が守られ、学習活動が保障されること
3楽しいこと

この順番を間違えてはならない。
確かに、楽しい教室は子どもにとっていい。
しかし、それは安全や安心をベースにしたものである。
規律が守られていても、安心でない場合もある。
だから、まずは「安全・安心」を子どもに与えることを最優先にする。
特に、いじめや学級崩壊などを経験してきた子どもにとっては、最重要である。

具体的な方法は様々だが、私が必ず話すのは
「このクラスの全員を、必ず守る。一人残らず、見捨てない。」という約束。
かなり自信を持って、断言する。
それが信用されるかどうかは、その後の品評会で決められる。

まずは、「安全・安心の教室」宣言である。

2012年4月14日土曜日

不安と期待は裏表

新年度がスタートし、色々と不安に思っている人も多い。
特に、異動をした人は不安も大きい。

不安とセットで裏表になっているものがある。
期待である。
期待のないところに不安はない。
不安を感じるということは、「変わろう」としていることの証明である。

何に不安を感じているのか。
「新しい職場になじめるのか」と不安に感じているならば、
それは「新しい職場で良い人間関係を築きたい」という期待の裏返しである。

逆に、何の不安も感じていないなら、それは「今まで通りでいよう」としているのかもしれない。
(または、相当な自信がある人もいる。)

不安の原因を考えて、プラスのエネルギーに変換したい。

2012年4月11日水曜日

「味噌汁・ご飯の授業」へ

やはり、野中信行氏の言葉である。
食育の話ではない。
普段の授業のことである。

つまり、「年に一度のご馳走」でなく、毎日の「味噌汁・ご飯」をしっかり出せということである。
授業研で打ち上げ花火のような授業をして、後は丸っきり、というのが多いという話である。

日常の授業を、それなりに充実させる。
70点の授業でよい。
それを、毎日続けること。
その方が、すごいご馳走を出すよりも大切だということである。

とてもわかりやすいたとえだと思う。
やはり、日常が大切である。
どんなに豪華に飾っても、下地が見える。
日々、本物の授業を目指したい。

2012年4月6日金曜日

新型学級崩壊の4大原因

前号に続き、野中信行氏の話である。
以下、引用する。

新型学級崩壊の4大原因は次の4つ。
1厳しくしすぎ
→縦糸の張りすぎ
2心が通じ合わない
→横糸を張れない
3スピード・リズム・テンポが悪い
→大抵は遅すぎ。現代っ子はCM慣れしていて、大人より速い。
4おしゃべり授業
→子どもの大半が傍観者


4つの観点について、自分の学級経営を振り返って見ると、何か見えるかもしれない。

2012年4月5日木曜日

学級経営は縦糸と横糸のバランス

そろそろ、次の学年もわかり、新年度の学級作りを意識しはじめる頃である。
学級経営に関して、先日興味深い話をきいたので、シェアする。
(ご本人の承諾済みである。)

野中信行先生という、崩壊した学校を建て直すプロ教師の話である。
学級経営がうまくいかず崩壊するという現象が、ベテラン教師に多く起きているという。
ここ十年ぐらいの話である。
この学級崩壊の原因が、「縦糸と横糸」のバランスにあるという。

縦糸とは縦の関係であり「返事」「挨拶」「言葉遣い」「ルール」等の規律面を指す。(上下関係)
横糸とは横の関係であり「一緒に遊ぶ」「誉める」「励ます」「笑い合う」「子ども同士で学び合う」等の、伸びやかな雰囲気を作る要素を指す。(横ならびの関係)

新任教師が失敗するのは、どちらが不足しているからか。
ちょっと考えてみて欲しい。
すぐわかると思うが、「縦糸不足」である。
寄ってきてくれる子ども達がかわいくて、仲良くなり「いい先生」を目指しすぎ、規律がなくなる。
このパターンは、数十年前から続く学級崩壊ゴールデンパターンである。

逆にベテラン教師は、縦糸が強すぎるせいによる学級崩壊を起こしているという。
TOSS代表向山洋一氏はこれを「新型学級崩壊」と名付けたと、産経新聞上で発表していた。
「新型」とはいうが、もう十年前から起きている現象らしい。
規律ばかりを強め、関係をもてずに、子どもが反発していく。
何をいっても反抗的になる。
こういうパターンに陥るらしい。


大変わかりやすい理論である。
自分の新しく持つ学級をどうしていきたいのか。
縦糸と横糸のバランスで考えてみるといいかもしれない。

2012年4月3日火曜日

豆腐のような人に

教育実践も、偏ると危ない。
ある方法がいいからといって、別の方法が正しくないとは限らない。
状況を見て、柔軟に使い分けることが肝要である。

明治時代の俳人、萩原井泉水さんは、人間の柔軟性を豆腐にたとえて、次のように語っている。
豆腐は、形はしっかりしているのに、柔らかく、形を自在に変え、どんな料理にも合う。
しかも主役を引き立て、自己主張しすぎない。
それは、冷水につけられた後釜ゆでされ、更に臼でひかれた後、細かい袋の目をこして固められるという苦労をしたからである。
豆腐のような柔軟な人間になりたい。

自分自身、思うところがある。
例えば私は、以前から「教師をあだ名で呼ぶのはいかん」と考えている方である。
しかし、以前紹介した岩瀬直樹氏は、「イワセン」とあだ名で呼ばれている。
そうなると、教育実践の素晴らしい実績があるだけに、必ずしもこれがダメとは言えなくなる。

要はあだ名が問題なのではなくて、それによって指導が通らなくなったり、目上の人への敬意をなくすのが問題なのである。
そこがクリアできているなら、何ら問題ないということになる。
(しかしそれでも私は基本的に、教師をあだ名で呼ばせるのは避けた方がいいと考えている。
あだ名で呼ばせても上手に学級経営できる人なら、問題ないという話である。)

逆に勘違いしてはならないのは「じゃあ、あだ名でいこう!」と飛びついてしまうことである。
自分とクラスの子どもに合うかどうかは、別問題である。(まあ、とにかくやってみないとわからない面が多いが。)

柔軟な心で、様々な方法を認めながら、自分に合うものを模索するのが大切であると考える。

2012年4月1日日曜日

右に寄っていれば、全部左に見える

以前、講演会で次のような言葉をきいた。
「右に寄っていれば、全部左に見える。
左に寄っていれば、全部右に見える。
真ん中に立つと、バランスよく両方見えます。」

全ての物事に、これは通ずると思う。

ある方法がいいと知る。
信じて、試しにやってみる。
しかし、うまくいかない。
なぜなのか。

逆に、試しにやってみて、うまくいくとする。
この方法は絶対いいと信じる。
しかし、周りの人にすすめても、やろうとしない。
なぜやらないのか、疑問に思う。

両方の疑問の解答は至極簡単で、「違うから」。
やる人が違う。
相手が違う。
環境が違う。
時代が違う。
・・・

ある人にとって100点の方法でも、ある人にとってはマイナス100点ということもある。
食べ物に例えるとわかりやすい。
すごくうまいレバ刺しだから食べろと言われても、生もの&レバー嫌いには苦痛以外の何者でもない。
女の人なら、化粧品がわかりやすいかもしれない。
すごくいいと知人にすすめられ、超高級な化粧品を買ったが、肌に全く合わないというのはよくきく話である。

教育も同様である。
(次号に続く)

2012年3月30日金曜日

卒業、解散を前にして何を残すか

ちょっと時期外れな話題で申し訳ないが、学級の解散時についての話題を。
(メルマガではタイムリーな話題として書いたのだが。)

卒業式や学級の終わりを前に、どういうものを残すか、何をするか。
先日、そういう話を、校内の若い先生の自主研修会で話し合った。
更に、他の先生方にもきいてみた。

色々なものが出てきた。
歌を録音してCDを作る
クラス劇をやってDVDを作る。
写真入りメッセージカードを渡す。
一人ずつの贈る言葉をの書にして渡す。
手紙を渡す。
・・・

渡すものだけでも十人十色であった。
どんな話をするか、どんなイベントを組むかも同様。
みんな、求めるものが違うのである。

学級の終わりには、その担任のカラーが強く出る。
本当にやりたいことをやるからだろう。
それは、自分がどんな先生でありたいのかを考えるきっかけにもなる。

記憶に残る先生でありたいのか。
子どもに学力をつける先生でありたいのか。
楽しい思い出を作り、学校を好きにさせる先生でありたいのか。

どれもこれも欲しいかもしれないが、結局本質は何なのか。
1年間を振り返り、自問するのにちょうどいい機会である。

2012年3月28日水曜日

一番失敗な学級経営

自分の言うことだけ聞く子どもに育ててしまうこと。
これが学級経営においての一番の失敗である。

学級担任が「王様」で、絶対王政の如く言うことをきくようになっていると、次の担任が苦労する。
前学年の欲求不満を爆発させることになる。

また、自由に子どもにやらせすぎていた場合も同様である。
「前の先生は何でも言うことを聞いてくれた」というような状態である。
よくある「じいちゃんばあちゃんが甘やかしすぎた」の状態である。
「自分達の言うことを聞く先生」=「いい先生」という間違った認識である。
先の例以上にこちらはきっと困る。新担任の指導が通らなくなる。

そう考えると、単に「教えるのが上手い先生」というのも、一長一短といえる。
口をあけておいしい餌を待つ雛のような状態で育てていると、お膳立てしないと食べないということになる。
つまり、上手な授業じゃないとやる気が出ない子どもである。
これは、やはりまずい。

いずれにせよ、今からできることというのは少ない。
来年度に向けての反省材料にするというぐらいの姿勢で良い。

どんな学級経営が本当にいいといえるのか。
答えはなかなか見つからないままである。

2012年3月27日火曜日

学級を手放す時の心構え

学級を手放す時の心構えについて。
次に誰が担任するかはわからない。
だから、誰が担任であっても大丈夫になっていること。
一言で言うと、これである。

とりあえず、学力・体力面について。
漢字が書けるか。
最低限の計算はできるか。
鉄棒やマット運動は大丈夫か。
この辺りができていないと、子どもも次の担任も苦労する。

次に、生活面。
あいさつや返事などの基本的なことができているか。
掃除は意義を考えてやれるようになっているか。
宿題や提出物は出すのが当たり前になっているか。

最低限で良い。
次自分が担任した時、困るような子どもではいけない。

心配なのは、実はこれ以外の面である。
(次号に続く)

2012年3月26日月曜日

お疲れの原因は何か

ある時期になると、「何か疲れるなぁ」と感じやすくなる。

どういう時かというと、成績処理の時である。

原因を分析してみる。

1「~ねばならない」というものが多くなる。(成績をつけるためのデータ)
2休み時間がなくなる。(短縮日課で早帰りさせる為)

つまり、やりたいことでなく、やらねばならぬことに追われることと、
子ども達と遊ぶ時間がなくなることが疲れの原因のようである。

これは、人によって違うかもしれないが、私の場合はこれが大きいらしい。
人間関係を遊びによって築いている面が大きいので、これがないときつい。
(厳しいことを言っても、一緒に遊べば何とかなる面が多い。)

自分の疲れの原因を探ってみた。
原因がわかると、意外と楽になるかもしれない。

2012年3月24日土曜日

数学における「考える力」

前回の続きを。

簡単に言うと、このテストの結果から私は「考える力不足」と診断されそうである。
「単純な計算や問題はできるが、応用問題は解けない」と。
どこかできいたことのある話である。

では、なぜそういう結果になったのか。

色々理屈は付けられそうだが、要は「この問題に慣れていないから」と考えられる。
更に、「解き方を記憶していないから」と考えられる。
(なぜなら、中学生の頃は解けたからである。)
考え続けて解くことは多分可能だが、制限時間がそれを許さない。
繰り返し練習し、解法をきちんと身につける必要がある。

つまり、多くの種類の問題に当たらせておかないと、「考える力」は身に付かないということである。
私自身が文科省の目指す中学生に最低限欲しい「考える力」がないということは、多分ないと思う。(思いたい。)
にも関わらず解けないということは、やはり慣れの問題である。

基本の問題にうんと時間をかけて解き方を色々考えることは大切だろう。
同じく、たくさんの問題に当たらせて、たくさんの解法にふれることも大切だ。
多分、どちらか一方が欠けても、ダメなのだと思う。

根本・本質を理解しようとしつつ、よくわからなくても何とか解く。何度も解く。
この繰り返しを、授業の中に組み込めたら、考える力がつくのかもしれない。
まだまだ追求していくべき課題である。

自分の専門教科だけでも、高校入試の問題を解くことをおすすめする。
色々と、見えてくるものがあると思う。

2012年3月22日木曜日

チャレンジ 高校入試

今年の県下一斉の高校入試の問題が新聞に出ていた。
なので、解いてみた。

先日の大学入試センター試験が解けないのは納得がいった。
「まあ、そんなもんよね」と。

しかし、今回は衝撃だった。
これが、意外に解けないのである。
解答を見て、やり直してやっと理解できる問題がいくつもある。

高校入試レベルということは、中学生が解く問題である。
自分が卒業させる子どもが、3年後に受けるテストである。

それが、解けない。

英語や理科ならともかく、数学が解けない。
中高の数学免許を持っているにも関わらずである。

で、くやしいから分析してみた。

どうやら、今教えている小学校の内容に近いものは大丈夫のようだ。
例えば、確率の問題。6年生でも教える。

計算問題も楽勝である。暗算でも簡単に解ける。

公式を使うものも、当てはめるだけなので簡単である。
語呂合わせでよく覚えていた。
例えば
球の表面積=4πr2 (心配ある事情)
球の体積=4/3×πr3(身の上に心配あるので参上した)
(どうも、球は心配性らしい。でも覚えやすくて好きだ。)

証明問題も、大学でよくやっていたから、まだ解けた。
(多分、数学専攻でない人にとって、ここは苦手が多いと思われる。)


問題は、「見たことない問題」(正確には、多分忘れた問題)である。
二次関数のグラフの上の点Aが動いて、同時に点Bが動いて・・・という問題である。
「いやいやお前、動かないでじっとしとけよ、落ち着かないヤツだな」という感じである。
思えば、中学の頃も高校の頃も、これが苦手だった。
(今は、落ち着かないじっとしてない子どもの相手でも、大丈夫であるが。)
他にも、関数のグラフとの複合問題に難しいものが多かった。

ここで一つ「考える力」について考えた。
(次号に続く)

2012年3月20日火曜日

良本との出会い方

私は本が好きなので、本の話をよくする。
そうすると、「どうやっていい本を探すんですか?」と聞かれることが多い。
どうも、どうでもいい本を選んでしまい、挫折してしまうというパターンらしい。
なので、良い本との出会い方を考えてみた。

とにかく、良書の1冊目に出会うこと。
そうすれば、後は枝葉が広がっていく。
その著者の他の本を読めばいい。
または、その著者が文中でオススメしている本や参考文献で挙げている本を読めばいい。

では、1冊目の探し方だが、人にすすめてもらうのが一番いい。
よく本を読む人を探してきく。
自分が尊敬している人にきく。
何千冊読んでる中から1冊すすめてくれるのだから、相当なものだと思っていい。
(私は尊敬する人からすすめられた本は、大抵ネットで即買いする。)

また、本屋に出かけてベストセラーコーナーに行くのもいい。
ベストセラーになっている本は、やはりそれなりに価値のあるものが多い。


本当は、とにかくたくさん読むのが一番だと思う。
失敗を積む上に成功あり。
玉石混交の中から宝石を探し出す作業自体が楽しい。
宝探しに近い。
某大手古本チェーン点の105円コーナーはまさにこれだろう。
(かなりいい本も105円である。ここに限り内容と値段は一致しない。)

一冊の本が、人生を変える。
そういう本を探すこと自体も、本の楽しみ方の一つだと思う。

2012年3月18日日曜日

クラスづくりの極意

今日のタイトルは、本のタイトルそのままである。

「クラスづくりの極意」岩瀬直樹著 農文協

「晩晴会」という私が参加しているML上で話題に上がった本である。
多くの方がオススメしているので、読んでみた。

これが、すごい。
いつも通り感動したとこなどに折ったり線を引いたりして読んでたら、本の厚さが倍になってしまった。
あまりに良い本なので、紹介しないと読者の皆様に申し訳が立たないと思い、紹介した。

内容はあえて書かない。
絶対購入をオススメする。

2012年3月16日金曜日

東大生の勉強法

先日、「所さんの目がテン」という番組で、東大生の勉強法を紹介していた。
授業をやる上で参考になりそうなので、多くの見てない方の為に紹介する。

1 やたらにノートに書く
東大生は先生の話を無駄なぐらいノートに書く。
雑談みたいなものまで書く。
普通の大学生は、板書したことだけ写す。
両方のやり方で授業を1時間受けると、顕著に差がついていた。
(実験群の学生のレベルはもちろん揃えてある。)
関連記憶が多くつくので、重要な言葉を引き出しやすくなるそうな。

2 小テストをたくさんやる
漢字でおなじみの小テストだが、やるだけで効果がある。
復習しないでも、何と答え合わせをしなくても効果が出る。
テストが記憶を引き出す練習になっているとのこと。
授業で毎回小テストをすると、それだけで効果が望めそうである。
なお東大生は休み時間に友達とよく問題の出し合いをする傾向があるとのこと。

何か他にも色々言っていたような気がするが、大まかにこんなことだった。
参考までに。

2012年3月14日水曜日

異動前の準備

3月も半ばになり、異動が決まった人も多いと思う。
異動に際して重要なのが、自分の校務分掌の引き継ぎである。
自分がいなくなっても大丈夫になっているか、チェックする。

具体的には、文書にして残しておく。
パソコン上にデータを保存している場合、どのフォルダにあるか分かるようにしておく。
パソコン上のデータがあっちこっちにあると、次の担当者が非常に困る。

自分の異動先を想像するとよい。
異動先である校務分掌を任された。
その際、前任者は既に異動している。
この分掌についてきける相手はいない。

その時、頼りになるのが、文書である。
どういうものがあれば、困らないか。
体育主任や特活担当のように1年間に多数の提案がある分掌であれば、年間の提案計画ぐらいは欲しい。
今年度の反省を踏まえて、提案や実施の際の注意点について書いてあればなおよい。
文書化することで、自分の仕事を振り返ることにもなる。

最悪なのが、ぐちゃぐちゃのまま出ていかれること。
トイレの使用でも教室の引き継ぎでも何でもそうだが、次の人が使いやすいようにして出ていくのは最低限のマナーである。
自分だけがいいという発想では、いずれ自分自身が苦労する羽目になる。

パソコンのフォルダ一つにも、前任者の性格が読み取れる。
そんなところで評判を落とさないようにしたい。

来年度残るにしても、異動先の自分を楽にするつもりで、今から準備をしよう。

2012年3月12日月曜日

チャンスは今しかない

良い本を買った。

「なぜあの人はすぐやるのか」中谷彰宏著 ダイヤモンド社

色々いいことが書いてあるのだが、集約すると「とにかく今すぐやれ」ということである。
「本を最後まで読んでるようではダメ。
いいと思ったら本に書いてあることをすぐ実行する。」
みたいなことが書かれてあったので、そうした。

実は先日、ある講演会の申し込みを新聞で見つけた。
講演者はベストセラー作家であり、かなり著名な方である。
東京駅周辺の開催で定員は500名。
500も席があれば、まあ大丈夫だろうとタカをくくっていた。

今思えば、その場でパソコンを立ち上げて、申し込むべきだった。
いや、スマートフォンを持っているのだから、それすら必要なかった。

翌日申し込もうすると、既に、定員締め切り。
「後でやろう」では、行動が遅かった。
(好きな人に告白できずにうじうじしてたら、いつの間にか友達に持ってかれたパターンに似ている。)

いつでも、チャンスは、今しかない。

思いたったら、即行動。
熟考していたら、この情報化社会のスピードに置いて行かれてしまう時代になっている。

2012年3月10日土曜日

通知票の存在意義

通知票は何の為に、誰の為にあるのか。

誰の為かというと、大きく三つある。
一つは、本人の為。
一つは、親(保護者)の為。
一つは、学校関係者の為。

学校の側からすると、受験の資料になる。
この子どもはどこの学校なら合格できそうか。
受け入れる側は、どの子どもを入学させようか。
そういう、受験の合否を考える際の資料になる。

親が、我が子の学習の進捗状況を把握する資料にもなる。
本人も同様である。

実際は、受験用の機能が強く前面に出ているように思う。

しかし何より、本来の通知票の役割は、本人のやる気を鼓舞する為にあると考える。

A評価をもらえば、自分はできると思い込む。
C評価をもらえば、できない自分を思い知る。
通知票で誉められたことは、そうかもと思う。

通知票をもらってやる気を失ってしまっては、本末転倒である。
なぜなら、色々な使い方はあれど、最終的には全て本人の為に存在するものだからである。
本人のやる気を失わせるものが良いものな訳がない。

「現実をわからせることが大切だ」という論もあると思う。
しかし、小学生に現実をわからせて、一体どうなるのか。
子どもは「身の程知らずの誉められたがり屋」なのである。
幼児はみんな、自分は何でもできると思っているのに、その思いはやがて消えてしまう。
「創造力に乏しい」「チャレンジ精神が足りない」というが、現行の教育制度からして、至極当然のようにも思える。
通知票が、その一端を担ってしまってはいないか。

大人だって、自分にランキングを付けられたいのだろうか。
今学校現場で取り入れられようとしている能力評価制度は、教師向け通知票である。
(企業はその副作用を知り、続々撤退している。さすが何でも学校は10年遅れ。)

競争社会の基盤を作っているのが通知票と受験であるなら、それは哀しい。
韓国の例を見ても、それは間違いないように思われる。
通知票は、子どもにプラスの作用を持ったものとして活用したい。

2012年3月8日木曜日

通知票は必要か

そもそも、通知票は何の為に存在するのだろうか。

私は子どもの頃から、通知票なんかなければいいのにと常々思っていた。

なぜかというと、成績が下がる度に親にがっかりされるのである。
いや、がっかりされなくても、何だか自分に対しての敗北感があった。

よくよく考えたら、上がれば下がる、下がれば上がるの繰り返しであり、実力の周辺をうろうろするだけである。
当時は相対評価だったので、結構できたつもりでもA評価でなかったり、ちょっとできないぐらいでもC評価がついたりした。

通知票があるから、子どもは勉強が嫌いになるのではないか。
通知票をなくせば、学校が楽しくなるのではないか。
そんなことを考えたことがあった。

そういうことを教師になってから他の人に話すと「親が子どもの出来具合を知りたいんだよ」ということを教えられた。
通知票をなくして、荒れた学校の事例も本で読んだ。
また、「実力を正しく評価してもらうのは嬉しい」ということにも気付いた。

そう考えると、通知票にはやはり一定の存在価値があるといえる。
しかしながら、その本当の存在意義は何なのか。
次号は、その辺りを考えていく。

2012年3月6日火曜日

テストでクラスの仲が良くなる

まだ引っ張るが、例の「見せっこテスト」のさらなる効用。
それは、「クラスが仲良くなること」「テストが楽しくなること」である。

当たり前だが、教えてもらえたらありがたい。
得点になるのだから、ありがたさは普段の授業の数倍である。

教えた方も、分かってもらえると嬉しい。
人の役に立つことは生きる喜びにもつながり、自信になる。

テストで世話になったから、他で返そうという姿勢ができる。

また、きく方も教える方も、否応にもコミュニケーション能力が発揮させられる。

ついでに、今まで嫌でしょうがなかったテストが、チーム戦のゲームみたいな感覚で楽しめる。
教えてもらってできたのだが、満点がとれ、自信もつくようである。

「テストします。」「イエーイ!」みたいな変な現象も起きる。

次号、テストと通知票の存在意義について考えていく。

2012年3月4日日曜日

理想の算数の授業の実現方法

例の「見せっこテスト」の意外な効能。
それは、「理想の算数の授業が簡単に実現する」ということである。

どういうことかというと、そのテストの仕方で起きる子どもの行動が、よく算数の授業研等で求められる姿に限りなく近くなるのである。

まず、わからない子どもが必死で解法を友達にきく。
何といっても点数に関わってくるので、必死である。
解き方として式だけでなく図や筆算まできちんと書かないと○にしないと告げてある。
仲間に書かせてはいけない。
だから、ききながら自分で必死で理解しようとする。

教える方も、すごくわからない相手に何とかわからせて得点させねばならないので、説明が必死である。
答えの丸写しは認めない、理解させることが教える条件と告げる。(ただし、子どもの裁量なので、効果はいかほどか。)
相手が頭を抱えていると、二人がかりや三人がかりで何とかしようとする。

中間層の子どもは、確認に必死である。
自分の解法は合っているのか、友達と解が一致しないのだが、どちらが間違っているのか。
例えば、0.0982を上から2ケタの概数にした時、解は0.1なのか0.098なのかで割れる。
互いに相手を説得するのに必死である。
問題数も結構あるので、時間いっぱい頭を使わないと間に合わない。

なぜ友達同士で必死かというと、正解を先生が教えてくれないからである。
先生が正解を教えてくれる時は、もう得点にならないのである。

つまり、問題解決学習で必要とされる
「自力解決」
「比較検討」
「説明」
あたりが、一挙に自動的かつ必死に行われることになる。
「習熟」は、テスト後に「教えてもらって○になった怪しい問題はもう一度」と自主学習等で取り組ませる。
(ここが、実は結構一番の難関である。)

やらせてみるとわかるが、「授業研でこれぐらい活気があるといいなぁ」という状態になる。

純粋に「テスト」としてみた時の問題点はあるが、月に1回ぐらいやってみて損はない方法である。

2012年2月28日火曜日

見て良いテストで学力はつくか

さて、人にきいても見ても良いテストなら、全員満点になりそうである。

ところが、そうはいかなかった。
まず、きけずに自力でやってしまった子ども。
ところどころに間違いがある。

また、よく確認しなかったために、単位忘れなども結構ある。
結局、満点をとれたのは、全体の7割程度である。

ここまでやっても、7割程度ということに驚いた。

で、私はしつこいので、違うテストでもう一度やってみた。

今度は「班対抗」である。
班全員が満点なら、勝ち。
「でも、クラス全員満点なら、大勝利」であると告げた。
(決して遊んでいる訳ではなく、本気である。)

こういうゲーム形式にして、やっとほぼ全員満点になった。(単位漏れのミスが一つだけあった。)

ここで一番問題になることは「それで、学力の方はついているのか」ということだろう。
そこで、今度は「実力チェックテスト」と銘打って、また違うテストを普通にやらせてみた。
(ただし、このテストは先の二つのテストより、やや難易度が高いものである。)
そうすると、まあ大体いつも通りの結果になる子どもが多かった。
やはり文章題なぞは、いつも算数を苦手とする子どもの正答率が低い。
「3/4mで9/5kgの棒1mの重さ」などは、例の如く全員正答率が低い。

しかし、「知識・理解」「技能」などの面においては、以前はできなかった子どもが、きちんと正答していた。
やはり、教えてもらったことによる、一定の効果があるのかもしれない。
(この程度では、憶測の領域を出ない。)

以上の結果により、テストで教え合うことは、学力形成そのものにおいて、プラスの側面も期待できそうである。
ただし、評価・評定する際には、あまり良い方法とはいえない。

しかし、今回の一連のテスト実施により、算数の授業を考える上での大きなヒントを得た。
(次号に続く)

2012年2月26日日曜日

自力で解かない方がよい時

誰にも頼らず、自力で何とか解こうとしている子ども。
算数の授業研なら、「好ましい」とされる姿である。

しかし、私はこの姿に否定的な立場である。
「解けないものは解けない」と思っている。
「ない袖は振れない」という言葉もある。
漢字テストだとわかりやすいのだが、「頭の中にない字は書けない」のである。
算数なら「頭の中にない解き方は100年考えてもでない」のである。
アイデアが突然天から降ってくるものだと思っている人もいるが、それは違う。
たくさんの知識の寄せ集めが、新しいアイデアを生む。
算数の場合なぞもっと単純で、解法をいくつ記憶しているかどうかである。
だから、そもそも解法を記憶していない子どもに考えさせても、無駄である。

さて、冒頭は前号の「友達にきいてよいテスト」の一部の子どもの姿である。
放っておくと、このままできないで終わる。
困ったことに、普段算数を苦手としている子どもほど、なぜかきけない。
「プライド」が高いのである。
「今できない自分」を認められないのかもしれない。
だから誰にもきけずに自分で考え、できないスパイラルにはまっている。
弱いから、自分を頑なで意地っ張りにして、守っている。
こういう場合は、助けてあげた方がよい。
このまま大きくなって社会に出ると、本人にも周りにも不利益が生ずる。

算数が比較的得意な、気の良い子どもを一人つかまえてこっそり声をかける。
「○○君、困ってるみたいだよ。」
あ、という顔をして、そろそろと近づく。
しかし、声をかけにくい。

顔が、暗いのである。
むしろ、むっとしている。
「僕は私は、誰の助けもいらないんだから」という顔をしている。
だから、みんな声をかけない。

しかし勇気を出して気の良い子どもが声をかけると、ふわっと表情が和らぐ。
本当は、ききたいのである。
熱心に教え、やがて解き終わった。

さあ答え合わせ。
全員満点、のはずであるが・・・。

2012年2月24日金曜日

友達にきいてよし、算数テスト

算数の「6年生まとめのテスト」である。
次のように告げた。
「今日のテスト、わからなかったら、友達にきいてよし。
全員満点とってみなさい。
ただ、解答を写すだけじゃダメですよ。
解き方とか筆算まで、きちんときいて納得するまでやる。
教える方も、わかるまで教える。」

子どもは、まさに「鳩が豆鉄砲」のような顔をして「本当!!!???」と歓声があがった。
「ただし、いきなりききにいかないで、とりあえず自分で解けるものは全部解きなさい。
たくさん解けるものがあれば、友達の役に立つでしょう?
その上で、ききに行きなさい。」

テスト開始。
しばらく、いつものように、しーんとした状態が続く。
やがて、何人かが隣にききはじめる。
班の仲間にもきく。
「席を立っても構いません。」
何人かが算数の得意な子どもに群がる。

熱心に説明する子ども。
首をひねって、更にどういうことかきく。
「ああ!」「そういうことか!」と声が上がる。
嬉々として席に戻り、解を書き始める。

その間、コミュニケーションが苦手な子ども達が逆に目立つ。
難しい顔をして、ききにいけずに、テストを凝視している。

(次号に続く)
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