2017年4月25日火曜日

耳に心地よい言葉こそ要注意

教育の分野では、何か動きがある度に耳に心地よい言葉が席巻する。
「アクティブ・ラーニング」などもその例の一つで、もう「アクティブ」という語感だけでもイケイケなノリである。
「生きる力を育む」も同様。
口にするのは簡単だが、実際何をするかというと、ものすごく頭も使うし、大変である。

子ども主体。
対話的で深い学び。
「ゆとり教育」などは、今でこそ批判の対象だが、これも本来は耳に心地よい言葉である。
それで、その言葉のまま素直に受け止めたら、何が起こるか。
「子どもが何でも自分の意見を言える自由な教室」に、何が起きたか。
言葉の一つ一つを吟味せずに表面的に扱うと、とんでもないしっぺ返しを食う。

要するに、耳に心地よい言葉に振り回されると、ろくでもない目に遭うということ。
「巧言令色仁鮮し」とは有名な孔子の言葉だが、そんな昔から言われ続けていることである。

言葉自体が悪いのではない。
むしろ、必要なことを端的に言い表している。
しかし、ダメな道徳の授業と同じで、いいこと言えばいいってもんじゃないのである。
行動、内実が大切である。
言葉は使いようで、君子が用いれば人々を正しい方向に導くが、詐欺師に使われたら、悪い方に転げ落ちる。

耳に心地よい言葉だと思ったら要注意。
何事もにも通じる考え方であると思う。

2017年4月23日日曜日

お腹がいっぱいでも夕飯の献立を考える

外食して、ランチをお腹いっぱい食べる。
その後は帰って昼寝、といきたいところだが、台所を守っている者は違う。
お腹いっぱいの状態で、家族の夕飯の献立を考えて、買い物に行くのである。
その際に聞かれる
「今日の夕飯何がいい?」
という母親(または妻)の質問に辟易した世界中の子どもや旦那の数は、はかり知れない。

何が違うかというと、責任感である。
台所を守る者は、単に食べたら終わりの「消費者」と違い、「生産者」としての責任と見通しがある。
面倒でもここでやっとかないと、後々困ると知っている。
頭が下がる思いだが、当の「消費者」本人たちはお腹いっぱいなので、正直「今は面倒」としか思えないのが本音である。
「消費者」にとって、自分事になっているのは、「お腹が空いた時」だけなのである。

この心理の原理、復興支援に対しても似た部分がある。
震災当時、多くの人が関心をもった。
特に6年前、東北や関東近辺の人間にとって、震災は「明日は我が身」の緊急事態の自分事であった。
だから、復興支援にも協力したし、自分の身の回りを次なる震災に備えて整えたりもした。
九州は遠いから安全と思っていた矢先に、今度は熊本だった。
我々は、日本に住んでいる以上、常に同じ問題を共有し続けているといえる。
過ぎ去っても、いつかまた必ずどこかにやって来る。
歴史がそれを証明している。

しかし、喉元すぎれば何とやらで、マスコミやメディアも、時が経つと大きくは取り上げなくなる。
そうすると自然、「復興が進んだ」「もう大丈夫」と錯覚する。
支援が減る。
事実、震災へのボランティアの人数も支援金額も、年々下がってきている。
震災への自身の備えも甘くなる。
要は、お腹が満たされているから、先々必ず起こるであろう問題のことを考えなくなる。

福島原発をはじめとする震災の問題が数多く残っている以上、東京オリンピックだって安泰とはいえない。
世界に誇る日本にしていくためには、ここを無視できない。

私が大好きな、東北出身の児童文学作家、宮沢賢治の言葉。

「世界全体が幸福にならないうちは 個人の幸福はあり得ない」

私は、この言葉の「世界」とは自分の知覚(近く)の世界を指すと解釈している。
つまり、家族や学級のような小・中集団から、地域、日本、世界という大きな単位まで、知ることのできる社会的な集団すべてを指す。
少なくとも、目の前の人と言い争っている内は、世界中の戦争もなくならないし、平和も幸せもないと思っている。
被災地は、自分の属す日本という国の一部である。
体のどこか一部がひどく痛むのだから、そこを無視しては本当に健康とはいえない。

一人の人間にできることはごく限られている。
そのごく限られたことをそれぞれが果たしていくことしかできないが、それが集まることでとてつもなく大きな力になる。
長期的な視点をもって、今必要な行動をしていきたい。

2017年4月21日金曜日

学級懇談会で話す内容

4月、学級懇談会があるので、修正しての再録記事。

懇談会で、毎年お願いすることがある。
「先生の言うことをきくように。」と、子どもに伝えてくださいという内容である。
苦笑される前提で話す。
一方で、自分の方からも「お家の方に感謝し、言うことをよくきくように。」と常々話すことも伝える。
2つで1セットなのである。

どういうことか。

つまり、このようにすれば、子どもは安定するのである。
大好きな自分の親が、先生の言うことをきけという。
その先生は、親の言うことをきけという。
何も矛盾が起こらない。
感謝の気持ちを持つので、子どもが素直になる。
子どもにとって、どちらの教えも、すいすい入る。
三者全員にとって幸せである。

逆を考える。
一方のみが他方のいうことを「きかないでいい」という。
矛盾が起きる。
子どもはどちらにも動けない。
子どもが悩む。
結果、全員不幸である。

もっとひどい場合を考える。
親は先生をけなす。
先生も親をけなす。
子どもは、「自分の周りにはろくな大人がいない」と認識し、不遜な態度をとるようになる。
お望み通り、子どもは両者の教え全てに反対の行為をとり、どんどん悪くなる。
学校に来る度に、悪くなっていくという最悪の結果である。
だから保護者には
「不満や疑問は子どもに言わず、直接私にお願いします。」
と伝える。
(引用:拙著『ピンチがチャンスになる切り返しの技術』
http://www.meijitosho.co.jp/detail/4-18-190712-9

これを、「ねじのモデル」で考えて伝える。
大きなねじの絵を描く。
ねじは、子どもそのものである。
大きなねじを、親と教師、二人で両側から回すことをイメージする。
両者が同じ方向に力を加えれば、ねじはどんどん回って移動する。
正の方向なら上向き、負の方向なら下向きである。
また、両者が真逆の方向に力を加える場合、ねじは動かない。
加えて、ねじ自体が傷む上、力を加えている側も疲弊する。

ここで絶対間違えてはならないのは、子どもにとって親と担任の力は並列ではないという点である。
一生の責任を持って過ごす親の方が、断然上である。
担任は、期間限定である。(だからこそ、新鮮でいうことをきくというのも一面にはある。)
だから、親が言う方が先である。

担任と保護者、両者の共通の願いは、子どものよりよい成長である。
つまり、担任と保護者団は、「こどもの成長」という共通の目的を持った一つのチームなのである。
懇談会ではその辺りの認識について再確認し、共に一年を過ごすという意思、そして志を伝えたい。

2017年4月20日木曜日

「荒れるクラス荒れないクラス」

最近、ヤフーニュースでよく記事を取り上げられている。
割と反響があったのが次の記事。

「荒れるクラス荒れないクラス」鍵は保護者だった
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20170409-00021825-president-life&p=1

毎度ご多分に漏れず、キャッチーで刺激的なタイトルになっているのはご容赦願いたい。
ネット記事の宿命である。
(ちなみに今回も私がつけたものではない。)

極論、クラスは、保護者で決まる。
保護者が温かい目で見守ってくれて、「先生の話をよく聞く」と教え諭してくれているからこそ、何とか成り立っている。
決して、我々教員個人の実力ではない。
(もしそこに自信がおありなら、どんな子どもたち相手でも一人で楽勝のはずである。)

いつもながら、大切なのは互いを尊重し、感謝する心である。
ありきたりなようで、これ以外にない。
必殺技を求める前に、ここが抜け落ちてないか、再確認が必要である。

2017年4月18日火曜日

何はともあれまずゲーム

明治図書オンラインでの連載『学級づくりにいかす!体育授業 』で次の記事がアップされた。

第10回 ゴール型ゲーム(アルティメット)
http://www.meijitosho.co.jp/eduzine/pe4class/

私の尊敬する先生の一人である、有田和正先生は
「スイカは一番甘いところから食べる。」という考えで授業を組んでいたという。
そう、最初に興味をもつ前の段階で我慢をさせる必要はない。
好きになって夢中になってから、我慢してでも上達したいと思うようになればいい。

得手不得手の分かれる体育の授業では、特に大事にしたい視点である。

2017年4月16日日曜日

東大生の6割が「小学生時代にスイミング教室」

プレジデントオンラインの、次の記事に目がとまった。

「水泳で本当に頭が良くなるのか?」東大生の6割が「小学生時代にスイミング教室」(文:大塚常好)
http://president.jp/articles/-/21527

読み進めると、なるほどなるほど、面白い。
水泳に空間認知能力を養う機能があるというのも、興味深い。

しかし、一番納得したのは、最後のくだり。
========================
(引用開始)
東大生は小学生時代に学習塾の「公文」に通っている率も高いとの報告もある。
また、複数の習い事(勉強系含む)をしたほうが頭のいい子が育つという専門家もいる。

結局のところ、言えるのは東大への切り札的習い事はわからないということ。
よって、あれもこれもやらせようと親が欲張ってもしかたがないということ。
子供本人が楽しめて達成感や自己肯定感を味わえるような習い事をするのが一番ということなのだろう。
(引用終了)
=========================

そう。
「〇〇をすれば××」と安易に考えたくなるのは、人の性である。
そんな単純なことはない。
様々な要素が複雑に絡み合ってできている。
その中で「この要素は関係あるかも?」程度である。

教育実践も同様。
〇〇の手法を取り入れたから、アクティブ・ラーニング。
そんな訳ない。
そんな単純だったら、全国どの教室でも大成功である。

相手が人間である以上、一つの手法が万能ということは有り得ない。
毎回が手探りの試行錯誤である。
その中で、どうやら効く相手の割合が比較的高そう、というのが「有効な手法」である。
(拙著『切り返しの技術』の各手法も、その点はご多分に漏れない。)

はさみは割と万能で便利だが、すべてのものを「切る」のに適している訳ではない。
包丁の方がいい場合もあれば、チェーンソーがいい場合もある。
包丁で紙を切るのは、容易ではない。
チェーンソーで料理をしたら、間違いなく散々な結果である。
どの道具がいいという問題ではない。
使い型と、使う対象次第である。

特に、人間は権威のある人の意見に盲目的に従うのが本能的にプログラムされているため、注意が必要である。
有名人が「ある実践が有効」だと言っても、自分自身で試して判断する必要がある。
また、効果の程も、表面的でないか、自己満足に陥ってないか、吟味する必要がある。

良い方法を求めつつも、その是非は自分で判断するようにしたい。

2017年4月12日水曜日

働き方改革以前に

働き方改革。
仲間のフェイスブックのシェアで、次の記事を読んだ。

東洋経済オンライン「公立小中学校の教員はブラック勤務が前提?!」
http://toyokeizai.net/articles/-/160897

教員は、諸々の理由から、改革の対象から外れるという。
その発想自体がもはやアウトだと思うのは、私だけではないはずである。

記事にもあるが、残業を減らすだけでは何の解決にもならない。
ノー残業デーを無理矢理実施したところで、業務量は減らないからである。
一方で残業量が多い教員ほど生活満足度が低い傾向にあるというのも、着目すべき点である。

現場の教員が本来的ではないと思う業務の調査も興味深い。
1位 学校徴収金未納者への対応(小学校85.2%、中学校84.6%)
2位 国や教育委員会からの調査・アンケート対応(小学校63.3%、中学校66.4%)
3位 地域との連携に関する業務(小学校57.2%、中学校55.9%)
4位 児童・生徒、保護者アンケートの実施(小学校50.2%、中学校54.2%)
部活動指導もこれらに続く上位である。(小学校42.2%、中学校43.3%)。
やはり、部活動は半数近くが「本来的でない」と感じているようである。
(逆の見方をすれば、部活動が本業と捉える人も半数。)
「あるある」な結果である。

ただ3位の地域連携については、私自身は反対の立場である。
地域連携なくして、今後の学校教育は有り得ない。
ただでさえ閉じてて「ガラパゴス」みたいに言われているのに、開かない理由はない。
地域や企業との連携なくして、今後の学校教育の発展は難しいと考える。

そもそも、1位のお金を教員が扱う業務が多いのも、ここが原因である。
外部の企業やプロの人材を取り入れれば済む話である。
予算がないというが、そういった能力の低い者(私のこと)にやらせる方がコストがかかる。
その道のプロがやったら正確かつ迅速である。

こういうことを書くと、「子どもに関することは何でもやるのが教員だ」という意見が出る。
それなら、じゃあ給食も教員が作れと言う論理だって通る。
フィンランドの教育がもてはやされたが、あの国は完全分業制である。
フィンランドの教員は、極端な話、授業しかしないという。
そして社会的地位が非常に高い。
専門性が高いのだから、尊敬されて当然である。

逆に日本のように、一人の人間に複数の業務をさせていたら、どれも中途半端になるに決まっている。
それでもなぜ世界で「日本の教員は優秀」と言われるかといえば、単に我慢強いからである。
無茶苦茶な要望でも何とかこなそうとする、学校教育に適応した努力家タイプが日本の教員になるからである。

働き方そのものが問題の根本ではない。
法レベルでの業務内容そのものの見直し。
外部人材の活用。
この辺りに着手しないと、働き方改革は難しそうというのが私見である。

2017年4月10日月曜日

車内で化粧は可か不可か

先日、セミナーの冒頭で話した、公衆道徳の話。

車内で化粧。
どう思うか。
可か不可かを挙手でたずねてみた。

結果、可とする人はごく少数で、多くは不可ということだった。
なかなか厳しい意見である。

私はといえば、「どちらでもいい」、つまり、可である。
周りの人が不快に思う状況ならよろしくはない。
ただ、周りの人がどう思うかは、こちらには決められないのである。

私自身には、目の前の女性は見ず知らずの人だし、むこうにとっても確実に「どうでもいい存在」である。
(そうでなければ目の前で白目の「貞子」状態になりながらマスカラを付けないはずである。
 ホラーも、見ようによってはエンターテイメント。)
救いが必要な状態でもないなら、知らない相手がどうあってもいい。
気にせず手元の本を読むに限る。

これは、私にとって最近変わったことなのである。
目の前の相手を評価することが減った。
以前は、公衆道徳に反すると思える人を注意したくなった。
しかし、どちらかというと、直接困っている人がいないことは、放置するようになった。
(そうは言えども、ポイ捨てとかは、やはり気になる。拾う人のことを考えてしまう。)
道徳は、大人に教えるのが非常に難しいことである。

宗教が行き渡っている国は、それが道徳の役割を果たす。
そうでない日本のような国は、どうするのか。
やはり、必要なことは子どもの内にある程度教える必要があると思う。
自ら考える道徳を目指すも、考えるための材料は必要である。

2017年4月8日土曜日

9割は忍耐

ある企業で活躍する方から教わった言葉。
「仕事の9割は、忍耐。」
すごい言葉である。

一見、仕事に対して夢も希望もないような言葉に見えるが、それは違う。
かなり前向きな考え方である。
仮に、仕事の9割は忍耐だと認識する。
だとすれば、我慢することが、普通に思えてくる。
疲れを感じても「これも仕事の内」。
怒りを感じても「これも仕事の内」と思える。
そうすると、ふっと力が抜ける感覚がある。

仕事は楽なものだと思ってやれば、大変なことに不満を抱く。
だが、前提として「9割忍耐」と思っていれば「普通」のレベルが上がる。
かなり大変なことも「いや、それぐらいフツーでしょ(笑)」となる。

大変な職種の上位に来るのが、電話の苦情受付センターの仕事である。
まさに忍耐の塊のような仕事である。
この仕事に就くと、大抵の苦情を体験することになる。
すると外に出た時、ちょっとやそっとの言葉では動じなくなるという。
それはかなり幸せなことである。

学級担任の仕事も同様の面がある。
大変な思いをしたことのある人は、同様のレベルのことは「普通」に耐えられる。
他の人から見て「かなりきつい」ことでも、「朝飯前」ということがある。

私は以前ある本で「学級の気になるあの子は、神様」と書いたことがあるが、それは真実である。
手こずる子どもがいたら、神様からのお使いである。
レベルアップのための試練である。
事実、同僚のベテラン教師にとっては、何の苦にもならないかわいい子どもだからである。

「この子は大変な子(親)」と思ったら、自問するためのおまじないがある。
「日本一の先生が受け持っても、同じだよね。」
そんな訳ない。
日本一の人がもったら、適切な手立てを打って解決するに違いないのである。
責任を、自分に求めるしかない。
そこが、一番大変な忍耐ポイントであり、成長ポイントである。

仕事の9割は、忍耐。
そう思えば、1割の幸せが10倍に感じられるかもしれない。

2017年4月6日木曜日

4月から教室に入る前に読んでおいて欲しい本

我が子同様の拙著が売れ行き好調である。
『ピンチがチャンスになる「切り返し」の技術』
http://www.amazon.co.jp/gp/bestsellers/books/500322/ref=pd_zg_hrsr_b_1_5_last
発売1年以上が経過して、未だに学級経営部門で1位をとれるというのは、結構な好成績である。
インターネットのこの時代に世に出られて、本当にラッキー&幸せな子である。

この度、人事異動が発表された。
見ると、本当に新規採用者が多い。
つまり、学級経営に関わるあらゆる知識と技術を早急に」身に付けることが本当に重要になる。

大学側に、教員プロフェショナル育成のシステムが完成しているならいい。
勤務校内にきちんとした新人養成システムがあるならいい。
しかし、そんな現実を求めること自体が非現実的である。

担任になってからのOJTでは間に合わない。
そんな余裕はないのである。
「やっている中で徐々に学べる」とのんきに構えたいところだが、学級担任の仕事はマルチタスクである。
しかも、保護者と子どもからすれば新人だろうが10年目だろうが、学級担任であることは一緒である。
別に甘く見てもらえたりはしない。
竹刀ではなく、いきなりの真剣勝負である。

装備を調えておくべし。
費用対効果が一番高いのは、本である。
拙著『切り返しの技術』は、もちろん文句なしの自信をもってのおすすめである。
『授業の腕を上げる法則』『授業の話術を鍛える』のような、教師の授業技術を磨くための「古典」ともいえる本。
『クラスづくりの極意』のようなファシリテーション系の本。
似たタイトルだが『学級づくりの極意』のように、今の時代に必要な学級づくりの理論が学べる本。
絞りに絞って、4月までに読むとしたら、この辺りは即効性がある。

著者だけ順に見ても「向山洋一」「野口芳宏」の両者は、もはや別格。
「岩瀬直樹」「赤坂真二」の両者は、現場上がりの大人気大学教授。
絶対間違いない本である。

そんな中で、私は自分の本もかなり強くおすすめする。
なぜなら、それら「天上人」の方々とは違い、「普通の教員」の書いた本だからである。
多分、利用価値と使いやすさならNO.1である。(その分、深さは到底及ばないと思う。)

例えば、拙著の中で
「教師が答えられない質問をしてきたとき」という場面の切り返し事例が出ている。
この場面は、新採の教師、特に高学年担任なら確実に出くわす。

ここに対して、どう答えるか。
考えてみて欲しい。

本の中では
「すごい!君は天才だね。調べてきて!」
という万能切り返し例を紹介している。

これをそのまま暗記することに意味がある訳ではない。
大切なのは、その後に書いてある、切り返しの根底の考え方である。

例えばこの切り返しは「主体的・対話的で深い学び」と関連がある。
教師が答えを示すのではない。
子どもが主体的にもった疑問に対し、自らの力で探究させようという考えがある。
だから質問に対し、場合によっては知っていても答えない。
本当に調べてくるかどうか、言葉は悪いが「試す」のである。

学級担任には、こういう根底の「観」が必要な場面が波のように次々と押し寄せてくる。
観を磨いておくためにも、読んでおいて損はない。

もし、教え子や知り合いに新採の人がいたら、ぜひプレゼントの一冊に加えて欲しい。
その方の教師人生の大きな一助となることを保証する。

2017年4月3日月曜日

ピンチがチャンスになる技術があればこそ

拙著『ピンチがチャンスになる「切り返し」の技術』が、発売1年を過ぎたが、未だ売れ行き好調、先月で7刷になった。
http://www.amazon.co.jp/gp/bestsellers/books/500322/ref=pd_zg_hrsr_b_1_5_last

ところで、私の職場の同僚はこれを読んでいるか。
答えは、否。
色々な経緯で数人は読んでくれているかもしれないが、例外的なごく少数である。
薦めているか。
これも、否。
「良いと思うものは薦めろと言っているのはどこのどいつだ」と言われそうだが、理由がある。

まず第一に、薦める理由がない。
職場内に新任3年目まですら一人もおらず、結構な経験者揃いで、実際そんなにピンチにもなってない。
ピンチになっても切り抜ける術を、それぞれのたくさんの大変な経験から身に付けてきている。
(だからここにいるのだと思う。)

第二に、自分の書いた本を買ってくれと頼む理由がない。
必要だと感じた人、自ら買いたいと思ってくれた人が買ってくれればいいのである。
本は、それを読んでくれる人がいて、その人に役立たねば価値がない。
単なる恩情で買ったものは、読まれないこと必至である。
そんなところに嫁に出したら、大切な我が子(自分の本)が可哀相である。

そしてきっと敢えて買おうと思わない一番の理由。
それは、私が「フツー」だからである。
同僚として見た時、別段こいつから学べることはなさそうな感じである。
必殺技的な派手さもないし、帰るのも割と早くて一生懸命やっている感じもあんまりない。
素晴らしい人格者でもないし、忘れ物は多くて用事もろくに記憶できないし、小学校の教員のくせに字も信じられないほど下手だし、どう見てもダメな人である。
(書いてて凹んできたからこれぐらいにしておく。)

しかし、である。
そんな程度の人物が、なぜ何とかやっていけているのか。
その理由の一端が、この本に書かれている「切り返しの技術」である。

私はだらだら人間でダメダメだが、本は結構読む。
多分、読む人の中でもかなり読む方だと思う。
セミナー等にも割と積極的に参加する。(自分が話す機会も結構多いと思う。)
教育関連だけでなく、一般のものにも色々参加する。
経済関係のいわゆるカタいものから、心理学や成功哲学系からスピリチュアルなものまで、幅広く興味をもっている。
だから、広汎な知識がそこそこある。

そういった様々なエッセンスと現場の経験を用いて結晶化させたものが「切り返しの技術」である。
要は、本体のレベルは低いが、「強い装備」を身に付けていると思えばいい。
こんなダメな人でもやっていけるのだから、多くの人にとって役立つこと間違いなしである。

今年度から、教員の世界は新規採用者がさらに大量に増える。
どう考えても、大変である。
予め装備を調えておけば、「HP0」になって倒れる人が減るかもしれない。
ベテランの方にも参考にはなると思うが、若い人ほど読んで欲しいのである。
近くの若手に、贈り物としても使ってもらえたら、あの本にとっても著者としてもこの上なく幸いである。

自信をもって断言する。
私自身はダメだが、私の本は役立つ。
現に私を救ってくれている技術の数々なのだから、かなり自信がある。
だから、今少しでも困っている人、困りそうな人がいたら、読んでみて欲しいし、薦めて欲しい。

ピンチはチャンス。
ただしそれは、ピンチになる前に知っている人にとってのことである。

2017年4月1日土曜日

努力と根性は正しい方向に使う

前号、努力と根性押しの残業作戦ではダメということを書いた。

今号は、逆に「努力してがんばらないと、ダメ」ということについて。

努力は必要である。
そして努力は、正しい方向で行われることが大切。

正しくない方向に努力するのは、悪である。
何でもがんばれば善というものではない。
例えば「どうすれば嫌いな相手が苦しむか必死に考えて努力をしてます!」というのが悪なのは自明である。
そこまでひどくなくても「仕事が終わらないから毎日根性で残業する努力をしてます!」というのは実は同様である。

次の思考がダメパターン。
仕事が終わらない
→「もっと時間をかけよう」
→それでもまた終わらない
→「もっともっと時間をかけよう」
→またまた終わらない
→「何て自分はダメなんだ。もっとがんばらないと。」
→・・・

これは努力というより、無思考で工夫が無いだけである。
根性を出して努力するほど、害悪である。

こういう可哀相な悪循環にはまっている人がいると、周りの心ある人が声をかけてくる。
「こういう方法があるよ」
「こんな本を読んでみたら?」
「勉強会とかサークルとかに行くと変わるよ」

しかし、これらのアドバイスは、無思考状態の人には、無意味であるどころか、迷惑がられるだけである。
疲弊していて、とても仕事以外のことをする時間はないという認識である。
悪循環に完全にはまっているため、この認識から抜け出すことは容易ではない。

それでも、抜け出せる瞬間が訪れる。
一つは、倒れた時。
もう一つは、周りから「このままでは無理」と認識されて、仕事量を減らしてもらえる時。

後者ならまだ幸せである。
管理職や学年主任がよく見てくれている職場なら、この方法で救ってもらえる可能性が高い。
そこでできた余裕で、工夫をするために学ぼうとする新たな可能性が出る。
肉体的ならまだしも、精神的に倒れてしまっては、戻ることすら難しくなる。

努力は、正しい方向で行う。
一つは、内側への工夫。
担任なら、主に授業の工夫への努力と、子供理解への努力である。
授業がうまくいきだすと、疲れも減るし、子供との関係も良くなり、生徒指導の問題も減る。
残業しないで済む方法を工夫する努力も大切である。
その事務処理一つとっても、無駄はないか。
先輩教員に学べば、確実に自分より早く終わらせる方法を知っている。

もう一つは、外に出る努力。
学校の中だけでは学べないことが多い。
外に出て学ぶ機会をもつ努力は、必ずその人を救う。
この辺りについては少々気合いがいるが、粘り強く根性を出して断行する必要がある。

努力と根性は、必要。
ただし、それを正しい方向で使うことが肝要である。
  • SEOブログパーツ
人気ブログランキングへ
ブログランキング

にほんブログ村ランキング