2020年2月29日土曜日

本質のために量をこなす

質以前の量、数の大切さについて。

自分の名前で検索をかけてみて、気付いた。

もう、記事が拾いきれないほどになっている。
自分でも何を書いたか覚えていないほどになってきた。
色々なコメントがついて何かと盛り上がっているものもある。
もはや手を離れすぎて、私の記事ではなくなっているものもある。

中には、良質なものもあるし、そうでないものもある。
たくさん読まれているのがいいかものというと、そうでもない。
ただ「キャッチー」なコピーが後付けされたものの方が読まれる傾向があるのは間違いない。

つまり、本質的な価値と広がりは必ずしも一致していない。
しかし、市場の価値は市場原理で決まるので、本人の願いとは一致しない。
「自分が最も言いたいこと」が書いてある記事よりも、そうでないものの方が認められているというのが実情である。

ただ読み返すと、言いたいことを結構言っている。
何年前の記事を読んでみても、今もそうだと思う。
軸自体は全く変わっていないのである。
常に「根本・本質・原点」を考えよという師の教えに従っているお蔭様である。

そして、同じようなことをかなり繰り返し書いている。
これが大切である。
同じことを、手を変え品を変え、何度でも言う。
そうしないと、伝わらないのである。

今年また、新しい本を書く。
書くのだが、書いている本質は、今まで出した他の記事や本と同じである。

例えばクリーンヒットした『切り返しの技術』。
(韓国語版が刊行予定である。書いた本人が読めないのが残念無念である。)
これの根本の思想は「教師自身の在り方が全て」。

これは最初に出した『やる気スイッチ』の根本思想と同じである。
また一番新しい『お年頃の高学年に効く!』は、切り返しの技術の高学年特化版である。

教育の成功原則の根本は「子どもの成長を第一に願う」という一点である。
『「捨てる」仕事術』も、書いてあることの要は仕事の能率化が子どもの成長につながるという一点のみで、やはり全く同じである。

質も欲しいが、先に欲しいのは圧倒的に量である。
どうせ万人に伝わるように上手くなんて書けないのである。
自分では下手くそだと思った文章が、意外にもある人にはストンと入ることもある。
わからないものである。
だから、下手でも書く。

実は量をこなす中で、質が高まるという面が大きい。
データが多いほど、共通項がはっきりしてくる。
本質の輪郭がはっきりと見えてくる。

まずは、質より量。
上手いやり方を求めてコロコロ変えるより、まずそれをたくさんやってみる。
量を集めてこそ、共通項である本質も見えてくると思う次第である。

2020年2月28日金曜日

文脈なしの真似は、害悪

正月に行ったセミナー後の気付き。

かつて、プロレスごっこが流行っていた。
テレビで放映していたことも大きいのだろう。
私の子ども時代にも、アニメで放映されたプロレスものの大ヒットアニメがあった。

当時のお茶の間の子どもたちも当然「受けの美学」なんてことはさっぱり知らない。
しかし、アニメヒーローの「大技」には憧れる。

どうなるか。

クラスの友達に対し
「理由もなくいきなりコブラツイストや四の字固めをかけたがる」
「教室の床へパイルドライバー」
みたいなことになる。
まあ、相当危険な上に極めて迷惑な話である。

また別の例だが、小学校高学年の頃、私の友達の一人が、親と本物の相撲を見に行ったとえらく興奮して話していた。
彼をAと呼ぶ。
そこでAが「相撲とろうぜ!」と仲間に向かって言い出した。
「相撲ごっこ」は仲間内でもよくしていたので、仲間の一人Bが「いいよ」とOKをした。
(ちなみに、ちょうど校庭の砂場のところにいたのである。
放課後だったが、当時は学校の運動場に自由に出入りできた。)

「はっけよ~い、のこった!」
突然、AがBの横面を「バチン!」と思い切り引っぱたいた。
突然の事態にびっくりするB。
涙目のB。
当然である。
みんな、一瞬凍り付いた。

A曰く満面の笑みで
「相撲は、張り手をするんだぜ!当たり前だよ!」

・・・・・・
いやいや、待て待て。
そうかもしれないが、そうではないだろう。
「誰か、次!やろうぜ!」
当然、誰もやらない。

何が言いたいかというと、

「文脈なしの真似は、害悪」

ということである。

プロレスも相撲も、文字通り死ぬ気で鍛え上げた肉体同士のぶつかり合いである。
だからこそ、成立する。
張り手でびっくりしたり倒れたりするほど、ヤワじゃないのである。

しかし子どもが生半可にこれを見て真似をすると、とんでもない危険な目にあう。
それぞれの技を使うまでの土台も文脈も違うのである。

また、その技ができるからといって、それを使うべき場面というのもある。
プロレスならいきなり大技をかけるようなもので、完全に文脈から外れている。
しかも、それ一点張り。
それでうまくいくはずがない。
(そもそも勝つためだけのプロレスは、エンターテインメントになっていない。)

文脈なしで手法を真似ると、逆に大きくマイナスである。
それよりも、先に土台となる基礎を徹底的に磨き、そこから根本的な信念や哲学面を磨くべきである。
心技体をバランスよく伸ばす必要がある。

文脈なしの真似は、害悪。
ついつい素晴らしく見える実践や有名な先生に憧れてしまう若手に向けて、老婆心ながら一言申し上げる次第である。

2020年2月22日土曜日

参考になさってください

前号の「参考になります」が目上の人に失礼ということについて、意外と反応があった。
結構、みんな意識せずに使ってしまっているようである。

ところで、こういうことを書くと
「参考は悪い言葉」
みたいに誤解されてしまうことがある。

これは断じてそうではない。
言葉自体に良し悪しはない。
使い方の問題である。

例えば「愛」がいい言葉とか「馬鹿」はだめな言葉、という訳では決してない。
言葉自体でなく、使う文脈で意味が変わるというのが大切なのである。

例えば、自分の上司に意見を述べた。
後日「参考にさせてもらった」と言われたとする。

これは、正しい用法である。
目上の人が使うには、適切な言葉だからである。

また、誰かから、何か質問を受けて自分が答えた。
それに対して
「参考になさってください。」
という。
これも正しい。

私の意見は「参考」程度であり、相手にとっては大したものではない、という意味になるからである。
つまり、自分の立場を下げて言う、謙譲のような意味合いになる。
(「参る」という言葉自体が謙譲語である。)

この手の話は、本を読めば山ほど出ている。
職員室の電話対応で「〇〇先生ですね。」「校長先生は帰りました。」と答えてしまうというのも、「若手あるある」である。
(普段目上の人を、場に応じて呼び捨てすることに慣れていないためと思われる。
自分もかつてやっていたのでわかる。)

とにかく、知っているか、知らないかの差である。
人間性の差ではない。
知識の有無は、馬鹿にできないほど、物事の明暗を分ける。

世の中は、知らないことだらけなのだから、一生勉強。
子どもに普段から「勉強は大切」と力説する所以である。

2020年2月21日金曜日

授業の開始が「号令」でよいか

言葉について。
学校やその他の場で、誤用と思われる言葉がまかり通っているものは、かなりある。

例えば、授業の開始や終わりに「号令」をかける。
日本においては、どこの教室でも見られる一般的なことである。
学校文化における「暗黙の了解」の一つである。

「号令」の意味を検索して調べる。
次のように出る。

ごうれい【号令】
1.《名・ス自》支配者や指揮者が、統率する者に命令・指図(さしず)をすること。
2.《名》指揮者が、一定の型に従って発する、ある動作をさせるための言葉。「─を掛ける」

「命令」として用いるものである。
あるいは、ある動作を「させる」ためのものである。
今の学校教育の目指す方向からすると、これは逆行しているようである。
また、そもそも子どもは授業の支配者でも指揮者でもないので、日直等が「号令」をかけるのもおかしな話である。

授業の開始や終わりにするとしたら、「礼」が妥当なのではないかと考える。
「これから一緒に学びましょう」という、相手や場、全てへの礼である。

授業前の「号令」に関してもう一ついうと、座った姿勢のまま「気を付け」という場合も、言葉がおかしい。
気を付けは、直立して行う動作を指す。
椅子に座ったままではできない動きである。

私は師に「言葉に敏感になれ」と教えられてきた。
その言葉が本当に適切なのか、吟味せよということである。
(ちなみに俳句も嗜んでいる先生で、言葉の吟味は作句の基本である。)

例えば決意表明等で「〇〇しようと思います」などと言うと
「思うだけか。やらないのか。」
と詰められる。
言葉の使い方が、あやふやなのである。

こういうことは、結構ある。
知らないが故の失礼ということもある。

例えばよくある「参考になりました。」は、目上の人には使えない。
言葉を知っている相手にとっては、実は失礼に当たる。
それは自分の考えの「参考程度」「付け足し」ということである。

もちろん、言った本人にそんなつもりがないことは、言われた側は百も承知である。
だから、悪気がないからこそ、「どこかで伝えないと」とは思いつつも、なかなか言えないというのが現実である。
(大抵、「参考になりました。」と言ってくる人は、いい人である。)

子どもにかける言葉も、本当にそれでよいのか、時に振り返る必要があるように思う。

2020年2月20日木曜日

ほめると叱るは、劇薬かサプリメント

前号と関連して、ほめると叱るについて。
先日のセミナーで、ほめ方ということが話題になった。
どうほめるかということが問題になった訳である。

結論からいうと、心から本当に思っていないことを口にするのはいけない。
前号の「すごいなぁ」は、自然と口に出てしまうから意味がある。
人を操ろうとかいう汚い意図をもって子どもに行うことは断じて許されるものではない。

一方で、多少無理してでもほめてあげた方がいい相手もいる。
それは、平常よりも下に落ち込んでいる相手である。

この意図が伝わるように、このメルマガでも何度か書いた
「ほめると叱るは、劇薬」
という言葉を紹介して説明した。

つまり、病気の人には、薬が必要である。
薬を投与して、平常に戻る手伝いをする訳である。

しかし、これを繰り返していくと「薬漬け」になる。
薬なしでは生きられない、薬が切れると禁断症状が出るようになる。

「もっとほめてくれ」あるいは「叱らないで」というモチベーションだけで動くようになる。
外発的動機づけでのみ動くようにするのは、「ロボット教育」である。

そしてこれは講師の一人である俵原先生の言葉だが、
「サプリメント的に使うといい」
という考えもある。
要は、用法と用量である。

だから、ほめると叱るは、使う場面を選ぶ。
これはある教育者の方の言葉だが
「ほめると叱るで伸びるのは、偏差値50まで」
なのである。

代わりに、前号でも紹介した「認める」を中心に用いていけばいい。
やがて、他人の賞賛や評価を必要とせずに、自分を軸として動く人間になっていく。

ほめると叱るは、劇薬。
ほめると叱るは、偏差値50まで。

頭の隅に置いておくと、何かと役立つかと思い、紹介してみた。

2020年2月19日水曜日

口癖は、香気

1月に行ったセミナーでの気付きのシェア。
日常の言葉かけについて。

人には、口癖がある。
ふとした時に口から漏れており、かつ本人には自覚がないものも多い。
教師という立場の場合、自分では気付いていないが、子どもたちには大きな影響を与えている。
なぜなら、口癖は、無意識に自分と周囲の人に繰り返し行われる言葉かけだからである。

講師の一人が「ほめる」の実践で有名な先生が、どんな言葉をかけているのか、調べてみたという。
それは「すごいなぁ」であったという。

思えば、私自身もよく口にしている。
子どもに対して、本当にすごいと思うことが多いからである。

ただこの「すごいなぁ」は、ほめているのではない。
感心、場合によっては感嘆しているのである。
「ほめる」というより、「認める」に属する。

このほめると認めるの違いがよくわからないということで、よく質問を受ける。
例を挙げる。
子どもが100点をとって「すごいなぁ」と言うとする。
本当は100点の時に「すごい」というのはリスクが高いので私は大抵言わないが、やりがちな場面だと思うので敢えて例に出す。

(参考記事:プレジデントオンライン 「100点答案」を褒めると勉強嫌いになる)
https://president.jp/articles/-/22234 

この時ただ100点だから「すごいなぁ」と言ったら、子どもは素直に「100点はすごい。認められる。」と考える。
裏を返せば「100点以外はすごくない。認められない。」という価値観をもつ。
一回ならまだしも、これが毎週のように何年にも渡って継続的に行われれば、その価値観は一生を左右するほど強固になっていく。

「よくがんばっていたからね。すごいなぁ。」と言えば、かなり意味が変わる。
「がんばったこと」自体を認められたと考える。(そう感じるように伝える。)

書いていて、文面だと伝わらないとしれないとも思ったが、そういうことである。
伝える時の表情とか声のトーンとかも重要なのである。
「上から目線」になると、ほめたことになるし、フラットな立場からだと、認めたことになる。

ちなみに、幼稚園の先生の場合、最も多い口癖が「嬉しいね」だそうである。
一緒に喜ぶというフラットな立場での、望ましい声かけである。

常日頃、自分にどんな口癖があるかは、重要である。
子どもに対する影響力はもちろん、それ以上に自分自身に最大の作用をもたらす。
他人への言葉がけは、そのまま自分への言葉がけ、価値づけである。

「薔薇の花を与える手には、常にほのかな残り香が漂う」という諺の通りである。
口癖とは、香気そのものである。
どうせなら、日常的に良い香りの花を携え、人に手渡したいものである。

2020年2月18日火曜日

リスクマネジメントを考える

リスクマネジメントについて。
ある投資家の方の話。

リスクとは何か。
直訳すると「危険」である。
あまり好ましくない事態である。

しかし、投資の世界ではリスクを「想定外の振れ幅」と考えるという。
どういうことか。

大きな利益と損失、両方が想定されるものがあるとする。
これは「リスクが高い」とはみなさない。
現時点で、振れ幅が想定されるからである。

逆に「大きく損しないから安全」という前提で買った商品(企業銘柄や通貨)があったとする。
これが想定外に値を下げてしまうような場合。
これを「リスクが高い」とみなす。

つまり、予め「危険度」がわかっている範囲が明確であれば、リスクとは考えない。
リスクが高いとは、想定外が多く起きることである。
逆に言えば、そういったものは、チャンスも大きいといえる。
想定外が大きい銘柄は、とてつもなく安く手に入ることもあり、あり得ない高騰も起きる。
(一時期爆発的な値段の変動を見せたビットコインなどはその好例である。)

教育メルマガという立場から、何が言いたいかというと、ずばり想定することの大切さである。

学校現場で、何かを実施する時、この時「想定される危険度」が大切になる。
学校において、子どもが危険に晒されることは容認されない。
一方、危険が想定されていても、万全の対策ができている場合、実行できる。

わかりやすい例で、水泳指導などはその前提に立っている。
指導中の子どもの命の危険が認識され、想定されている。
しかし、その分対策もきちんと打つ。
だから、安全面についてものすごく厳しい上で、実施が許されている。

しかし「事故」が一件でも前例としてある場合、確実に対策が必要である。
事故やミスにおいて「二回目は別物」であり、悪質とみなされる。

例えば小学校のプールにも、かつて飛び込み台があった。
しかし、悲しい事故が起きたことで、対策が必要という認識が高まった。
かつて「想定外」のものが「想定内」にシフトした訳である。
(逆に言えば、かつては飛び込み指導でも「命の危険まではない」という常識で実施されていたといえる。
危険の想定ができていない=「リスクが高い」といえる。)

ただ単純に「危険だからやらない」というのも、あまりに安易である。
危険を想定した上で、確実な安全対策を検討する方が先である。
そこで次に「飛び込み指導」をするメリットとデメリットが検討される。

「飛び込み指導」には、この運動独自の宙を飛ぶような運動技能の獲得やタイム短縮といったメリットがある。
ただ「適切に指導すれば大丈夫」という意見も勿論あるが、それが全国全ての小学校に適用できそうかというと、答えは「NO」である。
結果、全国の小学校から飛び込み台が消えた訳である。

学校での水泳指導自体をやめるところもちらほら出てきた。
これは安全面の問題だけでなく、費用面や効果のメリット、デメリットの検討の結果である。
検討の結果に加え、「想定外の振れ幅が大きい」=「リスクが高い」とみなされるものは、実施されない。

「マラソン大会」がある学校は、あらゆる危険が想定され、対策が取られているはずである。
ネット検索すれば、学校の指導下におけるマラソン練習中の死亡事故例が山ほど出てくる。
児童が無理な競争をして倒れるという事態も容易に想定できる。
そこへの万全の対策と指導があれば、実施できるかもしれない。
なければ、実施しないはずである。
その辺りの勤務校の対策も、全職員が知っておいた方がよい。

加えて、実質的に順位がつけられることへの配慮、練習からずっと「ビリ」で毎回走り続ける子どもへの配慮も当然必要である。
一回、一瞬で終わる短距離走とは、訳が違う。(これも多分嫌だろうが。)
精神的にも極めて大きな「危険」が想定される指導と行事である。
(かつてフィンランドのある校長が、日本のこの行事の在り方に「正直がっかりした」とコメントした話も有名である。)

それは、想定外か想定内か。
危険が想定できるのであれば、対策がとれそうか。
逆に、対策がとれるのに、実施をためらっているということはないか。

新年、新たなチャレンジを考えている人も多いことと思う。
何か新しいことを始めて、それを成し遂げようとする際にはこの「リスクマネジメント」の考え方が必要である。

2020年2月17日月曜日

蟹穴主義に学ぶ

今年は1月1日から仕事を始めた。
ここまでもう十分休んだと思ったからである。

これに対し「せわしない」「オンとオフを切り替えた方がいい」という意見があるだろう。
しかし、これは世間が決めた「常識」の話であり、私が決めたことではない。
つまり、いつから仕事をするかということも、自分次第である。
休みたければ大いに休む。

逆にいえば、これ自体も他人に押し付けるものでもない。
家族でのんびりお正月番組を観るのも、海外でゆっくり過ごすのも、全て個人の自由である。
「正解」と思われるものは個人の中にしかない。
「ご一緒に」の当たり前の同一価値観が重視される時代は終わった。
そういう時代である。

ちなみに、仕事というのは、職業としての業務だけを指すのではない。
自らの志に従い行うものは全て「仕事」=「志事」である。

さて、気を引き締めるために、新年最初の読書。
次の本から引用する。

『現代語訳 論語と算盤 』 渋沢栄一著 守屋淳訳 ちくま新書
https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480065353/

ご存知、新紙幣の顔である渋沢栄一の本である。
「著」とはなっているが、実際は講演録を編集したもので、さらにそれを現代語訳したものである。
小難しい感じのタイトルと裏腹に、大変読みやすい内容の本である。

この本の最初の章が「処世と信条」である。
ここに書いてあることの柱は、全ては「修身」に辿り着くということである。
あらゆる行為が、自分を磨くということになる。
どう磨くかが大切である。

中でも面白いのが「蟹穴主義が肝要」という主張である。
蟹は、自分の甲羅のサイズに合わせて巣穴を作る。
身の丈を知るということの大切さを説いた表現である。

次は私見。
自分の甲羅に合わない巣穴に入っていたらどうか。
狭すぎれば、動けずにそこで一生を終える。
広すぎれば、外敵に襲われて終わる。
「身の丈を知る」ことで、自分の本分の仕事が全うできるとういうものである。

一方で、いつまでも同じ巣穴に落ち着いていてはいけないともいえる。
外に出て、成長し、甲羅を大きくせよということである。
そうしている内に、巣穴も大きくする必要が出てくる。
やがて、大きな仕事もできるようになる。

蟹穴主義。
自分の身の丈を知った上で、脱皮する機会を伺っていきたい。

2020年2月16日日曜日

空白をごみで埋めない

昨年末に書いた記事。

大掃除をすると、思い出すことがある。

よく母が「もっと広い家なら片付く」とぼやいていたことである。
物を置くスペースが足りないから散らかる、という論理である。

そんな訳ない、と子ども心に思っていた。
それも伝えたが、「そんなことない」と、まあ話は平行線である。

これは、何にでも当てはまる。
例えば、家族が増えたとかよく食べるようになったからと、冷蔵庫を買い替える。
冷蔵庫のスペースが広くなったから、これで余裕、という訳である。

しかし、人間の脳は空白を埋めたくなる。
「スペースが空いているからとりあえず置く」という心理である。
これをやると、とりあえずの場所にずっと置くことになる。

つまり、空いているスペースがこの調子で埋まり続ける。
新しい大きな冷蔵庫も、あっという間に埋まる。
新しく引っ越した広い家も、あっという間に散らかる。

要は、余裕がないのはものの広さの問題ではなく、使う人間の問題である。
旅行上手の人の鞄と同じ原理である。
たかが一泊二日の荷物が異常に大きくなるのは、旅慣れていない証である。

この原理は、時間にも適用される。

例えば17時に絶対の予定があると決まっていれば、そこまでに集中して仕事を仕上げる。
やるべき仕事を10の仕事量としたら、16時から1時間あたり10の仕事をこなすものである。

しかし、同じ人が21時まで残業できるとなると、その分薄まる。
5時間で10の仕事をこなせばよいのだから、10÷2で1時間あたり2の仕事量である。
(実際は休憩やおしゃべりをはさむので、時間帯によって0~5ぐらいの幅でかなりバラつきが出る。)

つまり空白は、放っておくと、ごみや不要物で埋まるのである。
時間でも空間でも、必要なことは「先取り」が基本である。

何を言いたいのかというと、行動には区切りが大切ということである。
一定の空間あるいは時間という枠の中で考えることで、人間は行動に移せる。
大晦日までにあれこれを終わらせるのも、新年に一年の目標を決めるのも、本質はこれである。
全ては行動化のための手段である。

自分の時間は、あとどれぐらいあるのか。
令和元年の終わりに、改めて考えてみた次第である。

2020年2月15日土曜日

マスクの効果と意味は別物

風邪や病気の予防の「マスク」について考察と気付き。

一般的なマスクには、インフルエンザ等の予防効果はないという説がある。
ウィルスが小さすぎてマスクのフィルターを通ってしまうからとのことである。
ただし、せきやくしゃみによる飛散を防ぐ効果があるとのこと。

どれも、自分の目で見たことではないので、真偽は定かではない。
しかしながら、「周りへの配慮」という視点からすると、マスクは意味がある。
特に、マスクに信頼を置いて用いている人に対する時には、かなりの意味がある。

「効果があるかないか」だけが問題なのではない。
「相手がどう思うか」という面を併せもつ。

逆にいえば、「風邪でもないのにマスクをしている」ということで、不快に思う相手もいるかもしれない。
自分を「保菌者」扱いしているように思う人もいるかもしれないということである。

つまり、他人視点である。
これは、社会的にはとても大切なことである。
無人島に暮らすならどうでもいいことだが、社会には他人がいる。
人と共に暮らすからこそ「人間」であり「社会」だといえる。

余談だが、公共の場でマスクをしていてもOKな国は少ない。
多くは、顔を隠している危険人物や、重病人とみなされる。

つまり、文化によって、マスクを付けることが「マナー」になったり「マナー違反」になったりする。
そうなると、もはや本来の機能である病気の予防とは別の視点である。

ファッションにも似たことがいえる。
自分がしたい恰好をするのはいい。
ただ、楽だからと寝巻のままで外をうろうろするのは、公共のマナーに反する。
つまり、それを不快に思う人がいるということである。

高級レストランでドレスコードがあるのは、そういう理由である。
ジーンズはあくまで作業着発祥であり、どんなにおしゃれなものでも「ダーティー」と見なされる。

つまりは、社会の基本は他人視点なのである。
自分がしたいことをしていいのは、自分のプライベートな空間内だけである。
公共の場では、迷惑をかけてまで自分のしたいようにしていい道理はない。

その他のマナーも全て同じである。
学校の廊下は、走ってはいけない。
「危険だから」である。

では、「自分は滅多に転ばないし、完璧に避けるから大丈夫。」という人だったらどうか。
ワールドクラスのサッカー選手などは、かなり俊敏である。
この人なら、危険じゃないから走っても大丈夫か。

答えは当然「NO」である。
まず単純に、いくら避けてくれるとわかっていても、すごいスピードで走ってきたら怖い。
そして、自分をはじめみんな守っているのに、平気で破っている人がいるというのは、大変に「不快」である。

つまり、マナーとは、周りを不快にしないことである。
それさえ守れていれば、マナーとしてはOKなのである。

そう考えると、マスク問題は、なかなかに複雑なところである。

2020年2月14日金曜日

与える=与えられる

今日はバレンタインデーであるが、今回はクリスマスに書いた記事。

子ども的には、クリスマスといえば、プレゼントである。

大人は、プレゼントを貰えないのである。
なぜか。
自分で手に入れる力があるからである。

「持っている者が、必要な者に分け与える」というのが、集団社会の基本である。
勉強だって運動だって、わかる、できるという人が仲間に教えるのが当たり前である。
また「自力でできる人には無用な手を出さない」というのも成長のための基本である。

人に与えるという行為は、その行為そのものが、「与えられる」行為である。
行動は、全て鏡である。
与えることで、相手が喜ぶ。
喜んでもらうことで、与えられる。
究極的には、与えるだけで与えられるという感覚になる。

サンタクロースという立場は、多く与えて多く与えられるポジションである。
「与えてばかりで損」というような、みみっちい考えはない。
最も多く受け取る者である。

世の中には「ゼロサムゲーム」の考え方もある。
一つのパイを前に「奪うか奪われるか」の考え方である。
ゲーム理論であるが、戦争の理論でもある。
「与える」とは真逆の考え方である。

クリスマスに何か温かい気持ちになれたのであれば、それで十分プレゼントを受け取ったといえる。
クリスマスにせよバレンタインデーにせよ、多くの人にとって良い日になることを願う。

2020年2月13日木曜日

いい子といたずらっ子

クリスマス前にメルマガ上で書いた記事。

クリスマスの時期になると読む絵本がある。
次の絵本である。

『サンタさんのいたずらっこリスト』
訳/石津ちひろ 絵/デルフィーヌ・デュラン 作/ローレンス・デイヴィッド 小学館
https://www.shogakukan.co.jp/books/09727359

ネタバレになるので、詳しくは書かないが、簡単に言うと
「よいことをした数より、いたずらした数が多いと、プレゼントをもらえない」
というルールがサンタにある。
これにサンタの息子(これもいたずらっ子)が納得いかず、何とかしようとする物語である。
子どもがほっとする、心温まる物語である。

この物語が問題点を指摘しているように、子どもたち(あるいは世の中)には、ある種の思い込みがある。
それは
「いいことをするのはいい子」で「いたずらっ子は悪い子」
という思い込みである。

もっというと
「いい子だと愛されて、悪い子は愛されない」
という思い込みである。

これが、思い込みならまだいい。
現実だとしたら、悲惨である。

いい子かどうかで子どもをジャッジすると、裏表のある子どもになる。
つまり、親や教師の前でだけ「いい子」を演じるようになる。

もっと可哀そうなのは、「いい子」でないと、人に愛されないという思い込みをもったまま大きくなった大人である。
いつまでも人の顔色を伺って「いい人」の自分を演じ、ストレスフルな人生になる。
(演じていることにすら気付いていないこともある。)

これは、フロイトの心理学的には「超自我」と呼ばれる部分が必要以上に大きくなった状態である。
「超自我」は、親をはじめとする社会によって規定された「規範意識」である。
ある程度ないと社会に不適応を起こす部分である一方、大きすぎると本来の自分を必要以上に抑え込むことになる。

子どもに、規範を教える。
一方で、いたずらも認める。
この両者のバランスが大切である。

子どもは、どうであっても愛される。
それが、大きくなって、大人にも適用される。
そうすれば「〇〇な人でないとダメ」ということはなくなる。

人に対する好き嫌いはあってもいいのである。
行動に対しての「NO!」があってもいい。
しかし、存在自体はいつでも肯定されるものでありたい。
例え自分と正反対の考えをもった人であっても、存在を否定する必要はない。

全ての子どもには、いい子といたずらっ子が混在する。
いい子の部分は安定と規範を担保し、社会の持続に貢献する。
いたずらっ子の部分はエネルギーと創造性を担保し、社会の発展に貢献する。

全ての子どもの全ての面に価値がある。
そこを認めていける大人集団でありたい。

2020年2月12日水曜日

「子育てに自信がないです」

もう二十年近く学級担任をやっているので、保護者面談もかなりの数を行ってきた。
単純計算して500人を相手に、1000回以上は行ってきたことになる。
(大体どの学校も1年間で2回以上は面談を行う。)

その中で、十数年前から変わらず、多くの保護者が共通して感じていると思われることがある。
それは
「自分の子育てはもしかして間違っているのではないか」
という不安感である。

同時に
「周りは上手にやっているから、自分も合わせないといけない」
という焦りである。

しかし実際、この二つが事実だとしたら、同時に成立することはない。
つなげて考えると
「ほとんどの人が子育てを間違えていて、かつほとんどの人は子育てが上手だ」
ということになる。
論理的に矛盾が起きる。

要は「隣の芝生は青く見える」という現象である。
みんな相当に全力を尽くし、これ以上なく真っ当に子育てをしているのだが、自信がない。

なぜか。

全員「初めてのこと」だからである。
(初めて生まれてきた子を育てるのも初めてだし、一人目を育てながら二人目を育てるのも初めてである。)
初めてのことというのは、大抵の人は自信がない。
そして自信がないと、周りの人が上手くやっているように見えるものである。

つまり、「子育てに自信がもてる」という事態は、ほとんどの人にとって一生訪れることはない。
常に「トラブルの連続」であり、「悩みの連続」であり、一生「結果待ち」である。

更に悩みを増長させる要素の一つに、周囲の余計な雑音があることも多い。
周囲から「もっとこうすればいい」「もっとうまくやれないの」と言わている気がする。
最近は様々な子育て情報が溢れかえっているせいで、逆に悩みの種が増える。
ビジネス的視点からだと、子育ては大変に非能率で非論理的に見える。

大抵、周囲はあまり関わっていない割に余計なことを言ってしまい、当事者の親を困らせ悩ませているものである。
(私自身も御多分に漏れない。)
「わかっちゃいるけど、どうしようもできない」というのが大抵の本音のようである。

朝から晩まで全力で子どもと「ぶつかり稽古」をしている親の苦労なぞ、知る由もない。
(反抗期は特にひどい。)
こちらがどんなに理解を示しても、「出産の苦しみがわかる」というようなもので、本人以外の完全な理解は無理である。

要は、みんな全力でやっている以上、その子育てに間違いはないというのが真実である。
ただ全力でやっていても、「こうなって欲しい」という願いにその子どもがこたえるかどうかは、別問題である。
子どもは「こうなりたい」と願うものにしかならない。
薔薇の花を咲かせてほしくても、子どもの持っているのは向日葵の種かもしれないのである。

だから親は「こうなったら本当はいいんだけど、ならなくてもいいや」ぐらいの余裕のスタンスが欲しいところである。
ただ日の当たるところに置いて(適度な環境)、水やり(愛情)だけは忘れないことである。
それでたとえ薔薇の花が咲かなくても、それは親の責任ではないし、元々不可能な注文である。

また一方で「ガラスの覆い」までしてやる必要はない。
蝶やハチは花の友達なのだから、放っておく。
不安から焦って先回りしすぎないことである。
温室育ちは、自然の中に出た時に大変弱い。

自分が本気でがんばっていると思えるのなら、その子育てに間違いはない。
ただ「これはやりすぎかも?」と思ったら、立ち止まって、然るべき相手に相談すればよい。
面談も、そういう点で意味がある。

みんな、自信がない中で、がんばっている。
だから、他人と比べなくても、とりあえず大丈夫なのである。
(どちらかというと、周りと比べて焦って余計なことを色々やりすぎる方が、かえってよくない。)
子育てに自信がないと言われる全国の親御さんに、少なくともここまでは大丈夫ですとエールを送りたい。

2020年2月11日火曜日

心理術は自分自身に使う

私が長らく続けているクラス会議は、アドラー心理学がベースである。
この心理学の究極は「勇気づけ」から「共同体感覚」を身に付けることである。
全ての行動に目的があるという「目的論」が根底にあり、「個人心理学」と呼ばれる。

今、大学で改めて心理学を学んでいる。
そんな折に、ちょうどそこに関連した雑誌原稿の機会をいただいた。
『授業力&学級経営力 2020年1月号 子どもがなぜか動きたくなる「心理術」』
https://www.meijitosho.co.jp/detail/21118

この原稿依頼をいただいた時に、ちょっと「危ない」感じがした。
自分の原稿が誤読されて、子どもを「操ろう」という風潮が広まるとよくないと感じたからである。

心理テクニックは、ご存知の通り悪用が効く。
相手の望まない方にも心理誘導できる。
こちらの「都合のいい」状態にもっていけるのである。

例えばわかりやすいのが、褒めるという行為。
これは、心理学的には他者からの承認欲求への刺激である。
「アメとムチ」方式で「懲罰」と組み合わせて使えば、劇的な効果が出るのは周知の通りである。

劇的な効果というのは、多くの場合、劇的な副作用も含む。
つまり、これは指示待ちロボット人間を作ることにもなる。

これは、よろしくない。
心理学、心理テクニックは、人々が幸せになるために用いられるべきものである。

そこでこの雑誌原稿では、冒頭に「子どもを操ろうなどと思ってはいけない」ということを書いた。
「心理術」というと、どうしても操作的な印象である。
正しい使い方としては、良い方向に集団をもっていくために用いる、という感覚である。
そのためには、教師自身が心理術を用いて、自分自身を変えていくというのが効果的である。

例えば今回「安心感を与えるコミュニケーションのポイント」という項目があった。
そこには「ラポール形成」のための、教師の「笑顔」と「わかりやすいこと」を挙げた。

「笑顔」も、作り笑いではいけない。
笑顔になるポイントは、実は「感謝」や「リスペクト」である。
つまり、教師自身への心理操作の方が先である。

心理テクニックは、自分自身に用いるのが一番いい。
心理操作をしようと思うものと、されたいと思うものが完全一致する。
「自分にはできる」といった自己暗示やルーティーン動作などはその最たるものである。

先に挙げた教師というキャラクターが「わかりやすいこと」というのも、つまりは自己開示である。
自己開示するには、自信が必要になる。
正確には、自信というより、「自分には価値がある」という「セルフエスティーム」である。
ここがしっかりしていると、自分のありのままを出しやすい。

結論、子どもの心を操作するより、自分自身の心を操作すべきである。
教室では、変な心理操作を考えるより、基本的に本音で伝えるべきである。
まして担任と子どもはずっと一緒にいるのだから、親子関係のように、隠したところでどうせ気心は知れたものである。

他人よりも、自分自身をコントロールする方に注力したい。

2020年2月10日月曜日

給食 ラスト1つのおかわりをどうするか

前号の続き。
競争の不毛な教育から、どう抜けるか。

とにかく「日常が全て」がある。
だから、単に打ち上げ花火的な研究授業などには、実はあまり興味がない。
(その日だけの「貼りもの」だらけの授業は無意味である。)
それよりも、授業を公開するよりずっと前の、日常からの育ちの方に興味がある。
そこを含めて見れば、研究授業の意義も変わってくると思う。

つまり、どういう教育環境を日常的に作っているかである。

ごく些細な例を挙げる。
例えば、給食の「おかわり」の場面である。

私は自学級で、長らく給食のおかわりの仕方については、「じゃんけん」を基本にしてきた。
それを今年度は、やめてみた。
(給食システム自体が、昨年度から大きく変わっているのは、以前お伝えした通りである。)
↓参考記事URL:教師の寺子屋「選択できる子どもを育てる」
https://hide-m-hyde.blogspot.com/2019/03/blog-post_23.html

もし1つだけ余っている牛乳に、複数の子どもがおかわりを希望した時どうするか。
色々な手段がある。

早い者勝ち。
じゃんけん。
くじ引き。
何かしらの優先順。
その他、様々にある。

しかしどれも「ゼロサムゲーム」であることは変わらない。
誰かが十分に得ることで、誰かは失う(手に入らない)という構造である。

ふりかえって、おかわりをする必要、必然性はあるのか。
これは、単なる「もっと」の欲求の充足である。

であるならば、「分ける」という選択肢がある。
これを「どうする?」などと投げ掛ける必要はない。
「こういう場合は、分けます」と決めてしまう。
食欲のような根源的な欲求に関しては、リーダーが制するというのが基本である。
(そうしないと、本能的に弱肉強食の原理が働く。人間から遠ざかる。)

牛乳パックを空けて、それぞれのパックに注ぐだけである。
量も、適当である。
分けた後に精密に比較することなどないのだから、大体同じであればよい。
それ以前に、そういう「せせこましい」ことを言わせないのも、教育である。

こういうことを日常の「当たり前」にしておく。
これが、給食以外にも適用されるようになる。
「どうやって分けようか?」
以前AC JAPANの広告であったが、割り算は、思いやり算である。

日常で、競争原理を持ち込まない。
教育における不毛な競争を、日常から排していく姿勢が大切である。

2020年2月9日日曜日

競争から協奏、協創へ

令和の時代の教育について。

教育には、競争原理が多分に取り入れられてきた。
受験に至っては「戦争」という物騒な名称がつくこともあるほど、教育と競争は根深い関係である。
(私自身の考えとしては、受験は自分自身との対話と比較であり、その分には結構ではないかと思っている。
偏差値70の学校に行きたければ、実は他者は関係なく、偏差値70の学力と人間性を、自分につけるだけである。)

教育における競争が有効な場合。
それは、例えばスポーツの世界である。
「切磋琢磨」という言葉がぴったりくるような関係なら、大いに結構である。
ライバルと互いの技を競い合うというような真剣勝負は、楽しいものである。

しかし、これが間違って取り入れられてきた経緯もある。
他人に勝つことを第一に考えられた教育。
隣の学級は敵。
勝てば官軍負ければ賊軍。
そういう学校風土が各校に実際にあったことは否めないだろう。
そして、周りの声を聞く限り、それは今でもたくさんあるのではないかと推察する。
(部活動においても、間違った競争が未だに繰り広げられているような学校もある。)

競争に勝つより、競争しないで済む方法を考えられる人になることが大切である。
奪い合うより、分かち合うようにするにはどうすればいいか。
助け合うにするにはどうすればいいか。

「競争」よりも「協奏」「協創」を考えられる人を育てていくべきである。
経済の視点からすると、反対されるかもしれない。

しかし長い目で見て、競争力(=人口)の低下を回避できない日本が生き残るには、こちらである。
他者の視点で見て、人に喜ばれることを協力して創造していく力が必要である。
数の上でアジア諸国に圧倒される日本が、同等の価値を生み出すにはこれしかない。

学校の日々の授業は、競争をさせているか、協奏し協創をさせているか。
前号で示した「学級担任の交替制度」も、この視点からである。

これからの日本の未来のためにも、今までの教育の在り方を、根本から見直していきたい。

2020年2月8日土曜日

担任交代はメタの視点

(うっかりブログの側の更新を1週間以上忘れていたので、暫くの間、毎日更新する。)

今、朝と帰りの学級担任のローテーションをしている。
これは、現在の自分の研究テーマでもある「学年担任制」への試行である。

ねらいを簡単に説明する。
他の学級を見ることで、視野が広がる。
更に他の人に学級担任をしてもらうことで、自分の学級経営を外から見られる。
そういうことの効果を検証しようというものである。

基本的には、次のような考えに基づいている。

人間は、自分のことを考えるようになると、苦しい。
一方で、他人のことを考えるようになると、楽になる。
他人の心配を、自分ごととして、メタ認知的に考えられる。
それが自分だけだと、自分だけの視点となり、メタの視点にならない。

他学級の担任になれば、自分の領域が広がる。
隣のクラスも、自分の一部。
一方で、自分だけど、自分じゃない。
自分自身が、助けてあげたい対象になる。

そういう理論である。

要は、全ての学級担任がメタ認知の視点を自然にもてるような仕組みを作りたいのである。
特に若い時分は、自分のことでいっぱいいっぱいだからこそ、仕組みとしてないと、メタや協働の視点がもてない。
あるいは、うまくやってきたベテランは、自分だけがうまくいって、仲間がうまくいかない状況に、手が出せない。
どちらも、何とかしたいけど「どうしていいかわからない」からである。

そこで、仕組みとして、他学級のことがわかってしまうようにする。
自学級の様子が仲間にわかってしまうようにする。
そうすることで、互助の効果をねらっている。

興味のある方は、ご連絡をいただければ、詳しくやり方をお伝えする。
(非常に簡単な方法ではある。効果は、これから。)
学年内が何となくチームワーク不足と感じていたり、困っている学級があったりするようなら、ぜひやってみていただきたい。

自分をメタ認知的に見る。
苦しさから解放される有効な手段である。
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