2018年12月31日月曜日

「あたたかい学力」をつけよう

10月に受けた、赤坂真二先生の学級づくりセミナーからの学び。

ある校長先生の言葉で
「あたたかい学力」
をつけようとのこと。
つまりは「愛情ベースの論理」である。

この「あたたかい学力」とは具体的にどういうことを指すのか、自分なりに解釈してみた。

こういうことを考える時、私は得意の逆思考である。
「冷たい学力」を定義し、その逆を考えればよい。

冷たい学力。
それは、利己的な学力である。
自分だけがよければいいという学力である。

逆に言えば、あたたかい学力は、利他的であるといえる。
世に貢献する学力である。

冷たい学力。
それは、冷たく凝り固まった学力である。
応用が利かない。
決められたテストに対し、機械的に決められたように答える学力である。
公式の丸暗記などもこれに当てはまるだろう。

逆に言えば、あたたかい学力は、応用が利く学力である。
模範解答の存在しない問題に対し、立ち向かっていける学力である。

要は、あたたかい学力とは、クラス会議でつけようと目指す力そのものである。
他に貢献し、仲間と協力しながら、自分たちで答えを求め、新たな問題を発見していく。
これからの時代に必要な学力である。

子どもにつける学力の話のようで、これは大人にこそ必要である。
凝り固まった思考をしていないか。
身の回りにある様々な問題に対し「仕方ない」「そういうもの」と諦めていないか。
いや、そもそも問題を問題と捉えていないことこそ、最大の問題点である。

子どもに「あたたかい学力」をつけられるよう、自分自身にその力をつけたい。

2018年12月29日土曜日

人生で大切な「グッドコミュニケーション」

娘と「どうぶつしょうぎ」をやっていての気付き。

「どうぶつしょうぎ」をご存知だろうか。
縦4マス×横3マスの中を、それぞれ4駒ずつで行う簡易版の将棋である。
王であるライオンを取るか、相手の最終ラインまで自分の王を進めた方が勝ちという、単純なルールながら奥深いゲームである。

小学生の娘は、毎度このゲームで私に勝てない。
毎度勝てない勝負というのは、つまらないものである。
考えさせてもわからないままなので、ここはアドバイスをした。

要は、王のことばかり考えているからいけない。
王というのは、周りがいてこその王であり、力を発揮できる。
一番弱いひよこ(通常の将棋の「歩」)を大事にすること。
簡単にキリンやゾウ(「飛車」「角」の動きで1マスずつ動ける駒)を取らせないこと。
手駒を犠牲にする場合、代わりに確実に取り返せる状態にすること。
ここの意識が抜けているから、勝てないのだと教えた。

どれも、当たり前のことである。
そしてこれは、人生全般についてもいえる。

要は、自分のことばかり考えているからうまくいかない。
周りをどう大切に扱っているか。
自分ばかりが生き残ればいい、という考えは、結局我が身を滅ぼす。

国同士の関係にもいえることである。
先日のセミナーで、講師の尾形英亮さんが
「ヨーロッパの人々は、基本的にグッドコミュニケーション。
なぜなら、広く地続きだから。」
という話をされていた。

つまり、周りに自分は敵ではないと意思を伝え、良い関係を築ける能力がないと、生き残れないからである。

クラスの子どもにも当てはまる。
クラスで本当に気持ちよく生きていきたいならば、自分のことばかり優先して考えていては成り立たない。
自分がやれることはさっさと済ませる。
その上で、仲間を思いやり、困っていたら「任せて」と助ける。
そういう「グッドコミュニケーション」が成立する学級でない限り、結局成員の全員が苦しむ羽目になる。

「どうぶつしょうぎ」の話なのだが、生きる上での根本・本質であると考えた。
自分の人生の王様として生きるなら、周りの人々をいかに大切にするかが鍵である。

2018年12月23日日曜日

会議の本質は、確認

木更津技法研での野口芳宏先生からの学びその2。
以前にも書いたことのある、会議について。

野口先生から、次のような話があった。

会議が長引く原因は二つ。
一つ目は、原案の不備。
二つ目は、司会が下手。
このいずれかだという。

また、次のような話もされた。

会議は、確認の場。
「どうしましょうか」なんて言うのは原案不備の証。
そして、上から下への伝達である。

ここからは私見。

会議と討議を混同しないことである。
「どうしましょうか」は、討議である。
だから、クラス会議というのは、会議というがその本質は討議である。
対話の場なので、上から下への確認の場ではない。

一方で、いわゆる職員会議は、会議である。
本質は委員会や内閣等の会議と同じである。
部署で決まった施策を実施することの確認を通す場である。

その場で「どうしましょうか」は、ない。
必要な質問には、提案者が的確に答える。
参加者の側は、反対の意見を言うなら、対案も示す必要がある。

会議は、もの言う場ではない。
確認の場である。
討議は、会議提案前の段階であり、事前に終わらせておくものである。
何といっても、会議はハイコストなのである。

「揉んでもらう」とよく言うが、その前に自分の頭で必死に考えるのが先である。
考える段階で、何度も上司なり関係者に相談するのが原則である。
そうなれば、上司の意見も入るため、無下に反対されることはなくなる。

会議は、確認の場。
委員会や官庁、一般企業等にとっては、常識である。
これを意識するだけでも、大きく変わるはずである。

2018年12月22日土曜日

教育は「発達」の上にのせるもの

木更津技法研での野口芳宏先生からの学び。

野口先生から、次の言葉があった。


教育は「発達」の上にのせるものである。


以下は私の解釈。

つまり、まだ準備のできていない者には、
その能力をつけさせることはできない、ということである。


例えば、体育でいうと、持久力というものは、伸びはじめる時期がある。
中学生から高校生である。
それ以前にやりすぎると、弊害がある。
発達は、自然の摂理に従って、きちんと順番が決まっているのである。

植物に例えるならば、
芽が出て、茎が伸びて、枝が伸びて、葉が増えて、蕾ができて、花が咲いて、実るということ。

ここに「不自然」にも、茎が伸び始めた時期に、いきなり花を咲かせようとする。
無理に決まっている。
手を加えるほど、だめになる。
発達的に、時期ではないからである。
何らかの手をうって無理矢理咲かせたとしたら、当然すぐ枯れる。

幼児期に無理なことを叩き込むのもそう。
その発達段階に適した教育というのが存在する。
発達は、生命という自然の贈り物の一部であり、偉大なのである。
人間の浅知恵でどうこうできるものではない。

だから、再三述べているように、○年生だからここまで、という考え方は、根本的におかしい。
個人で全然違うに決まっている。
平均なんてあてにならない。
ゆっくり育つのもあれば、ものすごく早いものもある。
当たり前のことである。

教育でできることと、できないことを見極める。
自然に沿って、逆らわない。
自然のままにしておかないという教育的行為と、
自然に逆らうという愚行を混同しない。

師がいてこその学びである。
恵まれた環境で学べることに感謝したい。

2018年12月15日土曜日

子どもが望ましい行動をとる方法

今回は子育てや教育の重要なヒントになる話。

次の本からの学び。

『影響力の武器[第三版]』
ロバート・B・チャルディーニ 著
社会行動研究会 訳 誠信書房
http://www.seishinshobo.co.jp/book/b177759.html

世界的ロングセラーの古典的名著と言われる本なので、読んだことのある人もいるかもしれない。
この本の中の「第3章 コミットメントと一貫性」P.150~P.151から引用する。

===============
(引用開始)
人は自分が外部からの強い圧力なしに、
ある行為をする選択を行ったと考えるときに、
その行為の責任が自分にあると認めるようになります。
(中略)
つまり、子どもに何かを本心からやらせようと思うなら、
決して魅力的なごほうびで釣ったり、
強く脅してはいけないということが言えるでしょう。
(引用終了)
==================

この本の中で、面白い社会実験の結果が書かれている。
小学生の子どもに、ある魅力的なおもちゃで遊んではいけないと伝える。
Aのグループは、遊んだら怒るということを告げて脅す。
Bのグループは、それ以上は何も告げない。
そして、子どもだけを残してその場を去る。

結果がどうなるか。
何と両グループとも、実験直後はほとんどの子どもが言いつけを守って遊ばなかった。

結果が明確に分かれたのは、6週間後。
同じ子どもに、特に何も言わずに、別の状況でフリーの状態で遊ばせる。
Aのグループは77%がそのおもちゃで遊んだ。
一方のBのグループは、33%しかそのおもちゃで遊ばなかったという。

つまり、Aは外部からの禁止によって行動を制御したため、外圧がなくなった時点で効果が消えた。
Bは、内発的に「このおもちゃで遊ぶことは悪いことだ」と心に決めたため、効果が持続したということである。

この理論が正しいとしたら、かなり応用が利く。
そして、幼少期の「ならぬものはならぬのです」という教えが、いかに効果があるかということもわかる。
理屈や条件、罰を抜きにして「これはいけないこと」と教えられて守った場合、永続的に効果が出るということである。

考え、議論する道徳のねらいはわかる。
一方で、理屈抜きに教えることの意味。
これは考えるべき点がある。

また、単なる罰や脅しの効果が一時的でしかないというのも、特筆すべきことである。
そのような方法では、子どもの行動は変わらないということである。

今、教えたいことは、何なのか。
それを守る価値を子どもは感じられそうか。
進んで守ろうと思えるか。
その辺りにポイントがありそうである。

2018年12月13日木曜日

捨即得

最近、ものと自分との付き合い方を見直すようになった。

「ものの扱いは人の扱い」と子どもに教えてきた。
例えば、ものを乱雑に扱うということは、他人との接し方も雑になりやすいということ。

また「もののしたことは自分の責任」ということも教えてきた。
自分が床に放っておいたもののせいで誰かがケガをしたら、それは自分にも責任があるということ。
もちろん、本人の不注意という、ケガをした本人の責任もある。
しかし、そのケガの原因を作ってしまったことは間違いない事実である。
(だから、とびなわはきちんと縛っておくように、という話につながる。)

最近、この考えが変わった、というか、進化してきた。

「ものの扱いは自分の扱い」と思うようになったのである。
どういうことかというと、どういう風にものと付き合うかが、自分との付き合い方になるという考え方である。

例えば、服を乱雑に扱うとする。
服が汚れる、あるいは皺が付く。
それを着るのは、自分である。
つまり、自分を汚して、自分に皺を付けている訳である。

例えば、食べ物に文句をつけながら食べるとする。
あるいは、明らかに変な材料で作られた有害なものを食べるとする。
それを摂取して体内で消化するのは、私である。
そういう「いわくつき」の食べ物と自分が一体化する訳である。
気持ち悪くてしょうがない。

先の話でいうと、自分の放っておいたもののせいで、他人がケガをした時。
結局、他人を傷つけることで、他人と自分自身から、自分への評価を落とすことにもなる。
つまり、他人だけでなく、自分をも大事にしていないことになる。

だから、自分の身の回りのものというのは、丁寧に扱う必要がある。
そして、よくよく選ぶ必要がある。
周りの人がいいと言っていることでも、自分が良くない、好きでないものなら、捨てる方がいい。
好みは、十人十色なのである。

当たり前だが、ゴミと一緒に暮らしてはいけない。
本当は好きでないものを我慢して置いておくこともいけない。
そう考えるようになったのである。

つまり、「整頓」よりも「整理」が先である。
「捨てる」ということである。

『「捨てる」仕事術』https://www.meijitosho.co.jp/detail/4-18-171335-5に書いたように、
「捨てる」というのは、正しい行動であると確信している。


法則として、真空状態になれば、何かが入り込む。
「捨即得」である。
捨てることで得られるものが確実にある。
「0を得る」ともいえる。

身の回りを少しずつ整理していこうと思う次第である。

2018年12月11日火曜日

「知識が重要ではない」は、嘘

木更津技法研での学び。
次は、師の野口芳宏先生の言葉。

=================
上の立場で
「知識が重要ではない」
と言ってる人たちは、みんな知識が多い。
=================

全くその通りである。
「知識が重要でない」という言葉に重みがあるように感じられること自体、相手に知識があるからこそである。
つまりは、狂言であるといえる。
何か、そう言った方が「リベラル」な感じで、かっこいいのである。
しかし、真実とは言い難い。

そもそも、格言のようなものにも、立場のある人だからこそ、というものは多い。
諺にだって、真逆のものがかなりある。
例えば「二度あることは三度ある」と「三度目の正直」は、意味するところが真逆である。
正直、言ったもん勝ちというところもある。
つまり「偉い」人の言葉をそのまま額面通りに受け取ると、間違えることがある。

知識があるからこそうまくいくことは多い。
知識があるからこそ考えられることも多い。
「下手な知識がない方がいい」という状況もあるにはあるが、特殊状況である。

まずは、知識を蓄えることを考える。
そのためには、体験。
体験すると、知識が増える。
知識が増えると、本を読んでもわかることが増える。
そうすると、また体験をしたくなる。
また学んで知識を増やす。
この繰り返しである。

もう一度言うが、知識は、体験からである。
単純に教えることが先ではない。
内側から滲み出るものである。
体験と外部からの知識が結びついて、始めて本当に「わかる」状態になる。

ハバネロを食べたことのない人に、その辛さを伝えるのは困難である。
唐辛子の辛さを表す単位の一つである「スコヴィル値」が、ハバネロは何と30万だという知識を与える。
ほぼ間違いなく、全然ピンとこない。
とりあえず食べさせた方が理解が早い。
その後で数値どうこうの知識面も教えればよい。
だから、「知識の詰め込み」が無駄だと言われるのである。
こういう「死んでいる知識」は、確かに重要でない。

ここを混同しないこと。
知識は重要である。
多ければ多いほど考える材料が豊富になる。

教える立場にあるものであれば、知識は一生追い続けたい。

2018年12月9日日曜日

万能に使える「必殺褒めワード」とは

まぐまぐニュースで取り上げられた記事。
https://www.mag2.com/p/news/375642
以下、これと同様の文。

褒め方をどうするか。
叱り方と同じかそれ以上に難しいことである。
なぜなら、ここを間違えると、とんでもない方向に子どもが育ってしまうからである。

(ちなみにアドラー心理学では、両方が否定されている。
褒めるも叱るもしない。
「認める」だけである。)

誰でもいつでも簡単、確実に+の成長効果が望める褒め方(認め方と言ってもいい)ワードがある。
私は、かなりこれを多用していることに気付いた。
むしろ、一年生相手の今など、ほとんどがこれである。
無意識に使っていたことに、はたと気付いたので、シェアしたくなった次第である。

何という言葉を思い浮かべるだろうか。
考えてから読み進めて欲しい。
なぜなら、がんばって考えてから得たものは、価値が高まり、記憶に残るからである。
あっさり手に入ったものは、価値が低いと脳がみなす傾向にある。
私自身が気付くのに膨大な時間がかかったのだから、せめて読者の貴方には1分ぐらいは使って欲しい。
ケータイメモでも何でもいいから、できれば最低一つは書き出して欲しい。





・・・・
もう書いただろうか?
いや、書いてなければ、読み進めていないはずである。
ただ知ることではなく、学習効果を高めることが大切なのである。
がんばって書いて欲しい。





・・・
書いただろうか?
書いていないはずがない。
がんばって書いたはずである。
そう信じる。

もう引っ張りすぎたからこの辺りで。
ずばり、その必殺褒めワードは

「がんばったね」

これである。
拍子抜けしたかもしれないが、これである。

きっと、貴方はこれを読むまでに、たくさん考えて書いたはずである。
そんな貴方には、心から
「がんばったね」
と伝えたい。

「がんばる」は「頑張る」(=頑なに張る)と書く故に、否定的に捉えられることもある。
微妙な「活用」が大切なのである。(ただし中高生校時代に覚えた何行何段活用とかは、さっぱり忘れた。)
言葉は、一文字の違いでも大きく意味が変わる。
相手が嬉しくないことが多い活用形は
「頑張れ」「頑張って」
である。
単なる努力不足の場合、言った方がいいこともあるのだが、精一杯やっている場合には、結構しんどい言葉である。
(ちなみに、鬱病の人への禁句ワードでもある。)
この言い方には「もっと」という叱咤と否定の思いが込められている。

これに対し
「がんばったね」
は、相手の努力を認め、たたえる言葉である。
褒めると認めるの両方の性質をもつ言葉である。

これは、かなり汎用性がある。
多くの場合で「がんばったね」は使える。

例えば、難解な試験に合格した際や、テストで100点をとった際。
単に「すごいね」と褒めれば、能力の自信がつくかもしれないが、「私は他人よりすごい」という尊大な心も育つ可能性がある。
これが繰り返されると、他人を見下すようになるかもしれない。
あるいは、その肩書きやランクにある人間、結果がすごいと思うようになるかもしれない。

「がんばったね」と褒めれば、その人自身の努力を認めていることになる。
気力がある場合「次もがんばろう」と更に成長が望める。
全力を尽くした場合「もっとがんばれ」と言っている訳ではないので、他者との競争によるエンドレスの苦しみから抜け出せる。
結果がどうあれ、相手の現在そのもの、努力そのものを認められるのである。

もっと身近で日常的な例だと「苦手な野菜を食べられたよ」というようなことを言ってきた場合。
「がんばったね」
でばっちりである。
つい
「えらいね」
と言ってしまいたくなるが、野菜を食べること自体は全然偉い行為ではないのである。
むしろ偉いのは、それを作ってくれた人々や自然の方である。
(他人のためになる何かを成し遂げた時に「偉い」は使われるべき言葉である。
使い方要注意ワードである。)

「がんばる」が否定されがちな傾向がある。
楽々、ゆるゆるいきましょうという気風。
頑張りすぎてストレスフルな社会に生きている現代人には、必要な考え方でもある。
しかし、子どもや若者は、やっぱり「がんばる」ことで成長する。
(そしてがんばれる人は、何歳でも若者である。)

「のびのびがんばる」ことだってできる。
楽しい努力というのは存在する。
苦しいが楽しいということも存在する。
今流行りのジム通いや市民マラソンランナーなど、その最たる例である。

「がんばったね」は、汎用性の高い、万能の必殺ほめ言葉である。

2018年12月7日金曜日

悲劇は喜劇

休日に書いたゆるめエッセイ。

人生は近くで見ると悲劇だが、遠くから見れば喜劇だ
~チャーリー・チャップリン~

とてもいい言葉である。
チャップリン自身も、悲劇のような自分の人生を、喜劇を作る力へと転化させた。
人生を喜劇に変えるコツは「自分を俯瞰して見る」ということである。

例えばイチロー選手は現役時代、記者からのインタビューの際、自分のプレーについて、他人のことのように淡々と語っていた。
スポーツ選手は、大抵そうである。
俯瞰して見ているからこそ、メタ認知ができる。

担任に戻して考えてみる。
本人にとっては大まじめだが、傍から見ているとコントということは多い。

例えば1年生の子どもたち。
泣きながら本気で大げんかをしている。
聞いてみると、お互いに「いじわるされた」という。

T「何て言われたの?」
C1「ばかっていわれた」
C2「ぼくはうんこっていわれた」

会話の内容がハイレベルすぎて、真面目に聞き続けるのは辛い。
しかしこれを冷静な顔で対応できるのがプロである。

「馬鹿はいけないよね。うんこもいけないね。」
「ごめんなさい」
で、また一緒に遊びに行ってしまう。

遠目に見ていたら、会話の内容自体はわからない。
しかし、実際はこんなやりとりがなされているのである。

担任が怒っている時も、結構コントなことが多い。
例えば「何で〇〇してるの!」は、子どもに聞いても無駄なことが多い。
忘れ物が多いとか、机の中がめちゃめちゃとか、字が汚いとか、怒っても無駄である。(しかし注意したくなる。)
そして怒っていると、呂律(ろれつ)が回らなくなっていたり、やたらな難しい言葉を使っていたりする。

そして挙げ句の果てに出た言葉は
「言語道断です!」
(ゴンゴドウダン?)
しかし、その迫力に子どもは「これはゴンゴドウダンなわるいことなのだ」と理解する。
(やがてゴンゴドウダンが「言語道断」として国語で登場した時は、きっと感動である。覚えていれば。)

しかし本人は大真面目であるというのが、局所的に悲劇なのである。

家庭で考えてみる。
「夫婦喧嘩は犬も食わぬ」という。
ケンカの原因は
「話を聞いてくれない」
「いつも不機嫌」
に始まり、
「味噌汁の味がうすい」(あるいは熱すぎる、ぬるすぎる)
「トイレの便座が上がっている」
「電気が付けっぱなし」
とかである。

もっと深刻な議題の夫婦喧嘩も存在するかもしれないが、大抵この程度がきっかけでケンカになる。
どれも本当の根本的な原因は
「愛情が足りない」
である。
もっと自分に関心をもって、というだけの話である。
ロミオとジュリエットばりに「はいはい」という感じである。

例えば、我が子に「何でできないの!」とキレている親の図も、傍から見ると喜劇である。
観客の立場だったら
「それはね・・・実はあなたがね・・・」
と教えてあげたくなるかもしれない。

自分の世界で忙しそうにして悲劇を演じている人も、喜劇である。
傍から見れば、全部「エンターテイメント」である。
(しかし世がゴシップや政治の不正、犯罪や事故等の話題で盛り上がるのは、個人的にはいただけない。)

悲劇を喜劇にする。
チャップリンの目があれば、担任生活は喜劇の題材の宝庫である。

2018年12月5日水曜日

「みなさん知ってると思いますが・・・」

1年生からの学び。
1年生の中の「常識」について。

ある日の朝のスピーチ。
ある女の子が、次のように話し始めた。

「みなさんしってるとおもいますが、
きのうはわたしのおとうとのおたんじょうびでした。」

「いやいや!それみんな知らないでしょ!」
というツッコミを心の中でいれたのは、私と実習生たちだけだったようである。
(私は後ろを向いて笑いをこらえるのに必死だった。)

そう。
1年生のみんなは、真剣な顔をして聞いていた。
「まずい。私、知らなかった・・・」
そんな顔をしている。
恐ろしいほどに、素直なのである。

ここから、1年生の中の「常識」の在り方がわかる。
つまり
「私が知っている」=「みんなも知っている」
なのである。

だから何でも心から
「知らないの~!?」
となる。

そう。
私の中の常識は、みんなにとっても常識という認識。
真実は「私にとっての常識は、みんなにとっての非常識」である。

ちなみに、別のある日のお誕生日関連のスピーチの時には
「ケーキを食べた」
という話があった。
その時に出た質問が
「ケーキは何段でしたか」
である。

私の心の中のツッコミは
「いやいや、結婚式じゃないんだから、1段でしょ普通!?」
である。
それに対する回答は
「2段です。」
(2段あるんかーーーい!?)
のけぞって椅子からひっくり返りそうになった。

よく考えたら、ケーキでそもそも段数の概念を考えないというのは「我が家の常識」である。
後から考えて
「5段です」
とか言われなくて良かったと思い直すことにした。

真面目な話。
1年生を理解しようとする時、この考え方は大切である。
「常識」が違うということは、認識が違う。
つまり、もしかしたら、話が全く通じていないかもしれない。
大変ためになる子どもからの学びだった。

2018年12月3日月曜日

昔話は、問わない。

先月の野口塾での学び。
私の道徳の提案に対し、さくら社の社長である横山験也先生がご指導くださったものをシェアする。

私の提案を一言で表すと
「昔話や神話のようなものを道徳教材文にした場合、不都合が起きる」
というものである。
かねてより繰り返している通り、お話とは本来が道徳教育用ではないからである。

浦島太郎が最後にひどい目に遭うのは、不条理であり道徳的ではないが、お話としては面白い。
金の斧の話では、鉄の斧以外の品はそもそも必要ないのだが、もらえてしまうのである。
間違えると、「道徳」を教えるはずが「道得」の学習になる。
やればやるほど、功利的で利己的な人間を育てることになる。

さて、ここに対し「発問」で道徳に導こうとしたのだが、ここに関してご指導をいただいた。

そもそも昔話は、問うものではない。
読めばわかる、感じる、というものである。
例えば「なまはげ」の存在は、悪い子がいたら連れていかれるというだけの話。
語りであり、そこに問いはない。

一方で「教材文の不備を疑う」という姿勢に対し、評価をいただいた。
道徳の教科科は始まったばかりであり、教材文についてもこれから検討が必要ということである。
頭から「信用」して用いてはいけないということである。

道徳が教科化したからこそ、教材文にものが言えるようになったという。
教材文が、共通の議論の土台に乗ったともいえる。

本当に何が正しいのか。
「考え、議論する道徳」を実施する教師の側にこそ、問われる姿勢である。

2018年12月1日土曜日

感謝の人か、不平不満の人か

木更津の野口塾で、道徳の実践について少しだけ話した。
メルマガでも紹介した、金の斧、銀の斧の実践についてである。

ところで、道徳教育の究極目的は何か。
「幸せに生きる」に尽きる。
幸せとは南の島でのんびり暮らすこととは限らない。
汗水垂らして働く幸せもある。
とにかく、子どもに幸せに生きる人に育ってほしいという願いに、反論は出ないはずである。

ここに大きく関わるのが、他者の存在である。

感謝の人か、不平不満の人か。
ここが幸福感の分かれ目である。

感謝の人は、何に対しても感謝する。
自然を含めた、自分を支えてくださっているお陰様の存在を忘れない。

不平不満の人は、何に対しても不平不満をもつ。
何かしてもらっても「配慮が足りない」が口癖である。
お天道様にすら暑い寒いと不平を言う。
自分が常に王様、女王様、王子様、お姫様気分なのである。

例えば混雑している場で「押さないでよ!」という。
自分がその空間を占めているせいで、他の人も狭い思いをしていることに気付けない。

誰かに何かしてもらっても「前はもっとサービスがよかった」と比較して悪い点をあげつらう。
似た例で「結婚前は・・・」という愚痴も、自分に真実が見えてなかっただけで、相手は別に何も変わっていない。
そこに関してのみいえば、見抜けなかった本人が悪いのである。
自分が変わろうとしない限り、何も変わらない。

つまりは、幸福感とは、主体的に生きることである。
自分勝手にふるまうことではない。
主体的とは、自分で選択して生きるということである。
感謝を選択するか、無意識の自動的に不平不満に流れるか、という差である。

道徳教育は、根本的に考え直さないと、ダメな考えの再生産になりかねないので、注意が必要である。
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