2023年9月24日日曜日

保育士不足と働き方改革と多忙

何かと話題になる保育園や学童保育の問題。

NHKなどは継続的にこの問題をニュースにして特集している。


参考:NHK首都圏ナビ 保育現場のリアル


そこに関連して、以前からの関心事の一つ、保育士不足問題について。

これは、子どもの虐待問題にも関係する重要事である。


近年、教員に限らず、保育士も慢性的な不足状態が続いている。

保育士には元来、資格が必要である。

誰でもはできない専門職だから、資格が必要となる。

わざわざ壁を作ってまで数を絞っているところへ、ニーズがだけ急増すれば、資格保有者は不足する。

当たり前である。


では、実際の社会はどうなっているか。

保育士の数が足りず、保育園の数も足りないという事態になっている。

認可、無認可関係なく、不足である。

需要と供給の不均衡である。


そうなると、経営側的には資格が「邪魔」になってくる。

現在の法律上、「認可外」であれば、概ね3分の1以上の有資格者がいればいい。

そうなると、大部分の保育者の資格が不要となり、とりあえず数の確保ができる。


ここ数年で、認可保育園でも、「パート」が認められはじめた。

「保育補助」といって、無資格でなれる。

これで現場には、保育の無資格の人が更に増えてきた。


そうなると、実は正規職員の負担は増える。

パートタイマーを雇う場合、基本的に必ず定時で帰す義務がある。

文字通り「パートタイマー」という契約だからである。

原則、時間厳守である。


正規職員に、消化しきれない残務は全て回ってくる。

「派遣、パートの待遇の悪さ」が取り沙汰されがちでそれは一面真実だが、その分の正規職員へのしわ寄せもかなり大きい。

(恐らく、全ての業界において共通である。)


当然、「割に合わない」「〇〇しながらは、きつすぎる」という理由で、正規職員のなり手が減っていくことが予想される。

たとえ資格があっても、それがきつい仕事となれば、パートタイマーなど非正規雇用を選ぶ人も増える。

これは、教員の世界でも同様の現象が起きている。

悪循環である。


また「子どもを育てた経験があるから、保育もできるだろう」という考えは、かなり乱暴である。

それは「小学生相手の家庭教師をやっていたから、小学校で授業をしても大丈夫」というのと同程度の認識である。

やってみてどんな悲惨な結果になるかは、やった人なら知っている。

一人を一人で相手にするのと、一人で集団を相手にするのでは、必要な技能と知識が全く異なる。

あるいは、「自分も小学生だった頃があるから教えられる」「中学生の内容は難しいから無理だけど小学生なら教えられる」という暴論と同様である。


仕事が忙しい親にとっては、とにかく時間いっぱい預かってもらえることが何よりも重要なので、保育内容うんぬんは後回しになる。

内容がどうであっても、長い時間預かってくれるほど助かる。

すると、残念ながらずさんな「保育」が行われるところも出てくる。


これが、保育という重要な分野で行われている。

ぐにゃぐにゃの柔らかい状態の子どもたちへの、保育の影響の大きさは測り知れない。

(年齢による喫煙の被害の大きさの違いのようなものである。)

「入れればいい」というのは、仕事をする親の論理としてはその通りだが、その結果まで引き受ける覚悟も必要となる。


どんなに愛情をもって我が子を育てているつもりでも、ついいらいらしてしまうというのが、人間の心情である。

それが、他人の子どもを複数いっぺんに預って、簡単に育てられるはずがない。

だからこそ「保育士」という資格にも意味があるのである。

(この資格を簡単に出してしまう場合の被害の大きさも言わずもがなである。)


一方、保育士一人で複数の0歳児の保育をしている悲惨な現場を考えてみる。

そうすれば、いかなプロといえど、問題が全く起きないと考える方が難しい。

一人一人への対応も、大雑把にならざるを得ない。

物理的に見て対応する時間がないのは明白である。


更に言うと、人員不足になるほど、本来「合格ライン」に届かないはずの状態であっても、採用になってしまう。

全国の教員採用の抱える問題と同じである。


首都圏のある保育園に勤める知人に聞いた話では、0歳時が自分で哺乳瓶を持って飲めるようになるという。

あまりの数の多さに、抱っこして飲ませることができず、寝っ転がって「自分で飲むしかない」状況になるからである。

驚愕である。


そして、みんなにテレビなどを観させて、一日を過ごさせる。

スマホやタブレットを与えている時と同じで、これで「大人しく」なる。

ある「一斉保育」の現場の現状とのことである。


ここで、「何てひどい保育園だ」というのは簡単である。

問題は、抱っこしようにも、何をしようにも、人出が足りないという根本的リソース不足の方である。

そして、そんな保育園であっても、親はとにかく預けたい、預けるしかないので、預ける。


そうして育った子どもたちの次の行く先は、小学校と学童保育である。

問題が起きないはずがない。


当たり前だが、全ての保育園がこうという訳ではない。

むしろ、懸命に子どものために、健全な保育をしようとしているところが大多数だろう。

しかし、「多忙」と「無理」はすべてを壊す。

健全にやりたいのにおかしくなる保育園や、最初から金儲け主義で始める保育園が出てきても不思議ではない。


考えてみれば、「働き方改革」が進み、幼い子どもを預けて働くことが推奨されている。

そうなると、保育士の「働き方改革」はどうなるか。

これが進むほど、保育士の働き方改革は、悪化の一途を辿るという矛盾が起きる。

正規の保育士が「泥を被る」形になる。

当然、なり手は減る。


そして、その後の煽りを食うのは何よりも子ども自身であり、更には小学校現場であり、ひいては社会全体である。


結論として言いたいのは、社会に「過剰な依存」が蔓延しているということである。

自助努力で如何ともし難い現状に対し、「公」はそこまで助けてくれないというのが現実である。


人に迷惑をかけてもいいし、頼ってもいい。

しかし、誰かに頼ったとしても選択の最終責任は常に自分自身がとらねばならないということは念頭に置いておきたい。

苦しい者同士がお互いに消極的にもたれかかる「共依存」の関係では、落ちていくばかりである。

自立した者同士が積極的に支え合う「相互依存」の関係が理想である。


いずれにしろ、政府先導の働き方改革も何も、これらの問題が厳然とある以上、どこか絵空事である。

子どもを預けて働く親がより増えることへの負の面への解決策が見えない。

そしてこれら全ての根本は、日本の経済の問題であり、見えない貧困の問題なのかもしれない。


子どもを預かる全ての施設は、そういう複雑な問題の受け皿となっている。

保育園や幼稚園、学校に勤める以上、あらゆる複雑な問題は避けがたいという自覚をもって働いていく必要がある。

2023年9月16日土曜日

真理は、証明を索むべからず

 真理は、証明を索(あなぐ)むべからず。


この言葉は、次の本から見つけた言葉である。


『哲人哲語』中村天風著 天風会(1957)


真理というものは、それそういうものとして存在する。

それは、証明する必要がないものである。

この本の中では「西賢の哲」の言葉として紹介されているが、それがソクラテスなのか誰なのかはわからない。


証明しないものは納得できない、というのは、なるほど科学的立場からすると正しい。

科学はどこまでもそういう側面をもつ。


しかし、宇宙には科学で説明できないことで溢れている。

宇宙の真理が解明されるまで納得いかないからと動かずに待っていたら、あっという間に今世が終わってしまう。

その態度を貫くのであれば、自分自身の生命や存在も納得できないということになる。

生きていることの全てが「証明不可能」という真理である。

否、今生きていること自体、生命がここにあるということ自体が、証明不要の紛れもない真理である。


ここまで哲学っぽく書いてみたが、これは単なる前提のおさえである。

教育メルマガとして今回の書くべきことは

「それはそういうもの」

と素直に認識し、そのように生きていくことの大切さである。


問う必要のないものを問うことがある。

それは、何でも問えば科学的に説明できるという誤解があるからである。


例えばそのように出される問の一つが

「なぜ人を殺してはいけないか」

である。

言うなれば「サイコパス」な質問であり、何か特殊な状況でない限り疑問にすら思わない問である。


色々と理由を言えるものの、厳密に考えると答えは見つからない。

例えば「戦争時には英雄として称えられる」という面もある。

凶悪犯罪に対する死刑の場合や深い怨恨による場合など、心情的に正当化することもできる。


この問に対しては、正否どちらに対してもいくらでも後付けで理由はつけられるが、それら一切は必要ない。

人を殺してはいけないのである。

よくわからない力によって人として生まれさせてもらっただけの者。

それが同じように生まれてきた人の命を奪っていいという道理はない。


当たり前のことである。

こういう真理として決まっていることをぐちゃぐちゃとやると、訳がわからないことになる。


教育が崩れてきているのは、こういう面によるところがかなりある。

真理については本来「なんで」も証明も不要なのである。

堂々と教えればいい話なのである。


もし小さい頃に教えるのならば

「人を傷つけてはいけないよ」

だけである。


本来は、それすらも必要ないはずなのである。

生後数か月の赤ん坊ですら、困っている人を助けようとする本能があるという実験結果もある。

(この実験結果は複数の本で読んだことがあるが、どの本かはっきり言えない。

数年前に上越教育大学大学院教授の赤坂真二先生の講座でも聴いたことがある。)


この理由は、人間がどこまでも社会的な生き物だからであるという。

「助け合う」という本能は、生まれた頃から脆弱な人間にとって、集団としての生存確率を大幅に高める。

実に理に適った行動であり、色々とがんばって証明せずとも、真理なのである。


一方で、同種間の生存競争として、排他的になる面もある。(動物の世界、特にオスに顕著である。)

しかしこれも、無理なことをすれば、結局自分の首を絞めることになる。

「困っていたら放っておけない」という、集団における助け合いの精神がデフォルトで備わっているのである。

人間は、放っておいても、実に親切な生き物なのである。

(実生活だと、やりすぎてお節介にもなりがちであるが、本能行為だと思えば仕方がない面もある。)


本題に戻る。

真理は、証明を索むべからず。


つまり、教えるべきことはきちんと堂々と教えよ、ということに繋がる。

特に幼児期から低学年において、「それはそういうもの」については、徹底的に教えればよい。

どうせ何を教えても永遠に「なんで」が出るのだから、自分が上手に証明できないことを気にせずともよい。


ただせっかくの「なんで」を無下にしてもいけないので、自分で知っている小さい範囲である程度説明した後は

「何でだろうね。でもそうなんだって。」で、終結である。

証明できないものを無理に証明しなくてよいのである。(それを証明すること自体が道理に反する。)


何かしてもらったり、受け取る時には「ありがとう」を言う。

何かをしてもらう時には「お願いします」という。

誰かが困っていたら一声かける、助ける。

がんばっている人を馬鹿にしない。

誰かがものを落としたら拾って渡してあげる。


こういうことを、教える際に躊躇しない。

小学生でも「なんで?」ときかれたら、「その方が嬉しいから」くらいでいい。

明確な理由や証明は不要である。


逆を言えば、真理でないことに無思考に従う態度は排すべきである。

おかしいことはおかしいと言えねば、人間としての甲斐がない。

そのあたりは『不親切教師のススメ』で詳しく述べているので参照されたい。


真理は、証明を策むべからず。

心に留めておきたい名句である。

2023年9月10日日曜日

話を聞かないをどうするか

 学級経営に関する悩みと、それをどう考えるかについて。


学級経営に関する悩みで最も多く寄せられるものは「話を聞かない」。

これである。


だから、新刊はここに絞って書いた。

学級経営がラクになる! 聞き上手なクラスのつくり方』学陽書房


専科などで入る先生もこれで悩むことが結構ある。

学級経営の問題なのか授業技量の問題なのかは断定できない。

しかしながら、専科の時だけきかないとしても、それはそれで学級経営が上手くいっているとは言い難い。


子どもを教える際の大前提がある。

そもそも、子どもというより、人は人の話を聞かないものである。

幼児に近い年齢の子どもなら尚更である。


35人学級で全員きちんと話を聞いている低学年の集団なぞ、想像するだけで恐ろしい。

基本的に「自分だけの世界」というのが標準レベルである。

だからこそ、この時期の指導が重要になるともいえる。


高学年以降になると、意図的に話を聞かないということも起きる。

相手によって態度を変えるためである。

これは「望ましくない」といえるかもしれないが、自立への成長の過程としては必要な時期でもある。

ある意味、主体的に選択している態度ともいえる。(その結果責任まで考えているかどうかは別問題である。)


いずれにせよ、こちらの話は普通にしていたら聞いてもらえると思わない方が健全である。

八方手を尽くして、やっと少し聞くかもしれない、程度である。


長い話はまずダメである。

長くなると、そもそも理解ができない。

集中力も続かない。


つまらない話もダメである。

聞いていても無駄で、聞かない方が得してしまうようなものもダメである。


さて、ダメなことばかり挙げても絶望的になるだけなので、大切なのは、どうするかである。


王道は、少数の優秀な聞き手を育てることからである。

絶対に、一生懸命聞いている子どもがいる。

そこを認め、そこに向かって話す。

一点、風穴を開ければ、そこから打開できる可能性が高まる。


すると、良い聞き手を真似をする子どもが出る。

集団は、認められる方に引っ張られるからである。

逆に、聞かない子どもを叱責したり注目したり丁寧に接してあげたりしていれば、集団もそちらに引っ張られる。

叱責行為も注目行為も「見てとめる」=「認める」の一種である。


全員がしっかりと聞けるようになることは望むべくもない。

そんな集団は大人でもまず見ない。

そもそも耳からの情報が苦手な人間は一定数存在する。

視覚情報を合わせながら話すことも有効であるし、困ったら近くの人に頼るように指導していくことも手である。


それでも、わざと話を遮って騒ぐ子どももいる。

この場合は、注目お試し行動である。

自分でどうしていいかわからずコントロール不全のパニックを起こしていることもある。

ここはその子どものためも含めて、無言の対応や意図的無視を状況に応じて使う。(事前にその説明もしておくのが望ましい。)

大抵の場合、騒ぐ子どもは自信ありげに見えて実は自己肯定感がどん底なので、その裏で「あなたは大切」「価値がある」を伝え続けることが更に重要である。


とにかく基本は、美点凝視、真剣な良い聞き手に注目して話すことに集中することである。


要は、全ての人が、自分を認められたいのである。

良い行動で認めれば、良い方向に伸びる。

悪い行動で認めれば、悪い方向に伸びてしまう。

そして指導者の立場は、その強い実行力をもっているという自覚が必要である。


話を聞かないという悩みは、教育に関わる人にとって永遠の課題である。

  • SEOブログパーツ
人気ブログランキングへ
ブログランキング

にほんブログ村ランキング