2012年8月31日金曜日

変則ハードル走指導 「理想形で跳ばせる」

前号の続きで、須田先生より学んだ陸上指導について。
今回はハードル走。

ハードル走で、小学生に9台全部を全力で跳ばせるのはきつい。
大抵、真ん中あたりで失速が大きくなり、最後はリズムが合わなくなる。
3歩のリズムを保とうとして、妙に大股になってしまう。
ハードル走を指導したことのある人なら、何となくわかると思う。

これらを改善する指導法がある。
「条件を甘くしてパフォーマンスを落とさない」ということを念頭に行えばよい。
「身体的には楽をさせて、神経的に緊張を保つ」ともいえる。

具体的には次のような方法をとる。
A 5台目だけハードルを除く
再加速できるので、4台目の後の失速を防げる。
この時のタイムが大体本番のタイムになる。

B ハードル間をだんだん狭くする
最初のハードル間を7mとして、10cmずつ短くしていく。
途中で大股になってピッチが変わるのを防げる。
「1,2,3!」のリズムを一定に保て、神経系のトレーニングになる。

C ハードルの脇を走り、片足だけ跳ぶ 
半身だけハードルにかかる位置で、振り上げ足または抜き足だけハードル上を跳ぶ。
片足の動きのみに集中できる。

D エアハードル
Cの後に行う練習で、ハードルの隣のコースを、ハードルがあるつもりで行う。
理想形で全力で行える。
「野生の獣のように」がポイント。

どの方法も、条件を甘くすることで、理想形を保つという方法である。
いわゆる「スモールステップ」の発想である。

私もきいた段階で試せていないので、次の指導の際にやってみて、また効果を報告したい。

2012年8月29日水曜日

今、子どもにそれを求めるべきか

先日、陸上の研修会に参加してきた。
昨年度も行った研修会である。
講師は前回同様、以前も紹介した須田先生。
陸上指導のプロである。
非常にためになる話をきけたので、何号かにわたってシェアする。

一番の印象に残ったのが、「今、子どもにその動きを求めるべきか」という話。
この言葉だけだと訳がわからないので、簡単に説明する。

今、世界中がオリンピックで湧いている。
たとえば、ボルト選手は速い。
ボルトの走りは、短距離走においての理想形だろう。
では、ボルトの走りを研究して、一般の人や子どもが完璧に真似てみる。
しかし同じ形にしたところで、当然、うまくいくはずがない。
あらゆる要素が足りない。
何より、筋肉量が圧倒的に足りない。
簡単にわかる話である。

つまり、大人の理想形のフォームを小学生に求めてはいけないということである。
須田氏の話によると、ももがよく上がる「いいフォーム」で走る小学生は、伸びないとのこと。
それよりも、小学生で速い子どもは、意外にも上体が前のめりの「レッグカール」の形で走っている。
かかとがおしりにつくような走りである。
大人がやってたら、確実にダメな走りである。
しかし、腿やお尻の筋肉が未発達な小学生にとっては、自然な形の走りである。

この話を聞いて驚くとともに、他のことでも同じことが言えるのではないかと感じた。
大人の理想形に近づくことが、本当に教育にとっていいのか。
たとえば勉強、運動、道徳性、芸術系の技能。
小学生の内にどこまで負荷をかけていくべきなのか。

一方で、ピアノのように幼児期から猛特訓をしないといけないものもある。
一流スポーツ選手が、子ども時代から相当な無理をしてきているのも事実である。

何をどこまで求めるべきか、再考させられた。

2012年8月28日火曜日

仕事を追求する

先日、企業体験研修というものに参加してきた。
ホテルでの様々な仕事を体験させていただいた。

その中の、ハウスキーパー(宿泊部屋の掃除から準備全般の仕事)の方の言葉が心に残った。
「お客様のことを考えるのは当然。
自分の次の仕事をする人のことまで考えて、やりやすくしておく。
だから、押し入れの布団の向きもきちんとそろえておく。
そうすれば、カバーをかけたりするものやりやすいでしょう。」

別に、適当にやっても、工夫しても、給料は同じである。
しかし、どちらが職業人として良いかは、明白である。

結局、どんな仕事も、追求できる。
「働く」という言葉は、「はた(傍)を楽にする」こと。
全ての仕事は、誰かの為である。

とりあえずやるだけか、仕事のクオリティを最大限まで高めるか。
教育を含めた、全ての仕事に共通して言えることである。

2012年8月26日日曜日

「まずは、人気の先生になろう!」

先日、同期で単著を出版した人がいる。
当然、本人に直接会って購入した。
昼食を取りがてら色々話をきいた。
そして、この本が相当にいいので紹介する。

「まずは人気の先生になろう!」飯村友和著 明治図書

正直、やられた感である。
同期の人にこれだけのものを作られると、正直凹む。
読みやすい&すぐ使えるものばかりである。
飯村氏が「人気の先生」であることがうなずける。

巻頭の一節に、ドキリとした。
「好かれようが好かれまいが関係ない。
教師として、生徒であるこの子たちに必要な教育をするだけだ。」
そして、この考えが、何か違うと感じはじめる。
全くの、同感である。

別に同期の仲間だから宣伝した訳ではない。
単に本当にいい本だから紹介した。
(嘘をつくと、自分の評判が落ちるだけである。)
レベルアップをはかりたい人は、購入をお勧めする。

2012年8月24日金曜日

職場の仲間と旅に出よう


職員旅行や近隣校との交流レク大会。
一見、教育と直接関係ないようなものがある。
実は、これが結構重要だったりする。

学校教育は、一人でやるものではない。
自分の持った学級の子どもも、一年たったら他の人に渡す運命である。
だから、どんなに教育技術を磨いても、周りと協調できないと、効果が上がらない。

仕事を通して、仲が深まっていくのが一番良い。
しかし、その人の本当の中身は、勤務時間では見られないようなものも多い。
中身を知れば、自然と仲良くなる。
互いを知れば、仕事上での協力もしやすくなり、落ち込んでいる時に励まし合ったりもできる。

「仕事は仕事」と割り切った人間関係が今の若い人を中心に増えているという。
一昔前に比べ、勤務後に同僚と飲みに行ったりすることも減ってきているらしい。
だからこそ、職員同士の、仕事以外のイベントは大切である。

若い人に問いたいが、夏休み中、仲間同士での交流会やキャンプなどの企画があるだろうか。
もしないなら、是非企画を立ち上げてみて欲しい。
いきなり宿泊とかは無理なら、ちょっとした日帰り旅行でもいい。
ちょっと無謀な企画でもいい。
こういう新しいことをつくり出すことは、若い人の特権であると思う。

2012年8月20日月曜日

使える発問「いくつ?」

発問の種類は様々あるが、これは使えるという問い方がいくつかある。

その中の一つが「いくつ?」である。
数を問う発問である。
または、数を指定する発問である。
この問い方は汎用性があり、かつ限定性があるのが優秀である。

例えば理科。
蟻の体がいくつに分かれているか、足は何本か、などと問う。
花びらの数やおしべとめしべの数。
数を問われると、自然にじっくり観察するようになる。
解も間違いなく確定する。

国語の場合。
数そのものをきくより、数を指定して問う方が、限定性があって使いやすい。
全体を3つに分けよ。
20文字で要約せよ。
10文字で書き抜け。
「右」という字の二画目を指でかけ。
「○○」という言葉が何回出てくるか。
問われることで、文章をじっくり読み直し、根拠を考えることになる。

体育の場合。
ハードル間は、何歩が跳びやすいか。
脈拍10秒間で20~22になるペースで3分間走りなさい。
10人とパスしたら座ります。
問われることで、思考力を使って意識的に体をコントロールして運動を行うようになる。
考えながら動くと、最初はぎこちない。
しかし、これがやがて無意識化して、運動が自動化するのが「上達」である。

どの教科でも「数」を意識すると、発問が考えやすいように思う。
ただし、注意すべきは、「どうでもいいことは問わない」ということ。
意識しないと、時にどうでもいい数を問うというミスを犯す。
その数を問うことで、どんな学力の向上や効果があるかを考えて使うのが大切である。

2012年8月18日土曜日

成長可能点

テストで100点をとる。
または、授業中やった問題を全て間違いなく解ける。
素晴らしい出来である。

こういう時、私はしばしばこう話す。
「一つも間違えないでできた人?
素晴らしい出来だね。優秀です。文句なし!おめでとう。
では、間違えがあった人?
おめでとう!
今日の勉強は君達のためにあったね。
間違いが多かった人ほど、成長する幅がある。
伸びしろ、なんて言い方もある。

『成長可能点』というのを教えよう。
どれだけあと成長できる部分があるか。
80点の人は、成長可能点は、20点。
90点の人は、10点。
100点の人は?残念だけどここに関しては0点。
もう新しいものを探してチャレンジしないといけない。
30点なら?何と70点もある。
成長可能点が多い人ほど、これから変わっていける可能性がある。
ただし、タダでは変われない。
正当な支払いとして、努力が必要になる。
努力で成長できる部分が残ってるのは、ラッキーなことだね。」

今までもこんな話はしていたが、「成長可能点」の部分は、最近野口氏から教わって入れた話である。

できることより、変わること。
100点以外にも喜びを見いだせるような生き方を示したい。

2012年8月16日木曜日

書くことも表現

人間は、表現がしたい。
話をきいてもらったり、書いて表現したり。
ダンスや歌も表現の一種である。
何かしら、表現の欲求がある。

面談でよく「うちの子は手を挙げますか」ときかれる。
発言する=良いという図式がある。
しかし、書くのも立派な表現である。
往々にして、よくしゃべる子どもは書くのが苦手なことがある。
逆も然り。
大抵、発言しない子どもは、書く方の表現に優れている。

発言に重きを置くのは、わかりやすさからだろう。
コミュニケーション能力が求められる時代だからそれもわかる。

でも、面談で保護者にきかれたら、良い方を伝えたい。
発言しない分、書いて表現していますよと。

何でも両面あるのだから、良い方に光を当てて伝えたい。

2012年8月14日火曜日

掃除をすべし

夏休みに入り、実践報告に乏しいので、最近の研修会での学びを。

「一つ拾えば、一つだけきれいになる。」
(鍵山秀三郎氏の言)
「高い理想を掲げながらも、足元のごみを拾うことをおろそかにしない。」
(森信三氏の言)

いずれも、掃除に関わる言葉である。
普段のちょっとしたごみを拾うことの大切さを説いている。
ごみを拾うという小さなことすらできないなら、大きなことはできないとうことである。
生活習慣の形成といったこととも関わっている。

教育と無関係の本でも、しばしば掃除の重要性の話が出てくる。
掃除をすると、心が整う。
掃除をすると、やるべきことが見えてくる。
掃除をすると、感謝の心が自然に芽生える。
・・・等々、仕事の出来に関わるそうである。

どこにいっても同じようなことを言われるので、そんな気がしてきた。
夏休み、家の掃除でもしようかと思う。

2012年8月12日日曜日

生徒指導の本質

生徒指導についての研修会に参加してきた。
様々な事例に触れることができ、大変勉強になった。
みんな、悩んでいるのである。
そして、どのクラスでも大変な子どもが必ず数人いることがよく分かった。

生徒指導の本質を一言で言うと何か?

友人と話した結果、「受容」だろうということになった。

無茶苦茶悪いことをする。
当然叱る。
何らかの「懲戒」を加えることも権利として認められている。
しかし、最終的に、教師にとって「許す」以外の選択肢はない。

教師は、子どもと離れる訳にいかない。
いかな悪ガキであろうと、自分が担任している大切な子どもである。
他業種と違い、顧客を選ぶこともできない。
(これは、一方で子どもの側からも同様である。)

どんなに悪いことをしても、「信じている」と告げるしかない。
そして、良くなることを信じるしかない。
受け容れるしかない。
相手の人生を背負うことはできない以上、それ以上のことはできない。

叱るべきは叱る。
しかし、相手を信じ、受容する。

受容の「受」は受ける、「容」は容器。
受け入れる自分自身の器を大きくしていくことであると解釈した。

2012年8月8日水曜日

デジタル化の功罪

先日、社会科の「デジタル教科書」なるものを見た。
教師がプロジェクター等で提示して使うものである。
教科書と全く同じ構成で、クリックすると、写真が拡大されたり問題が提示されたりする。
非常にわかりやすい。
多分、社会科が苦手な教師でも、これを使えば一定水準の授業ができるような気がする。
値段が数万円するらしいので、すぐに全校配置は難しそうだが、将来的には広がりそうである。
(ちなみに、現在全学校に配られている外国語活動用「Hi Friends!」のCDロムもこれと同様である。)
日本中の全ての教室にコンピューターとプロジェクター(または電子黒板)が配置される日が来るだろう。

ところで、ここに関して、以前野口芳宏氏より興味深いことを教えていただいた。
数十年前、まだビデオテープが普及し始めた頃。
歴史の授業に使えるビデオが登場した。
それまで、動く画像で教えるなんてことはあり得なかったので、これはすごいと驚嘆した。
今までの教科書を使った授業では太刀打ちできないだろうと。
そこで、ビデオをじゃんじゃん使って授業を進めていった。
しかし、意外なことに、テストをすると、散々な結果。
子どもの中に残っていないのである。
以来、ビデオ教材の使い方を考え直したという。

デジタル化が進むことは大いに結構である。
むしろ、どんどん進めて欲しいと個人的に思う。
(ちなみに私は先日、学校長にそんなことをお願いしたばかりである。)
一方で、そこにばかり頼って、基本的な教え方のレベルが落ちるのは問題である。
誰がクリックしても同じ反応が出るコンピューターだけに、その使い方が問われる。

2012年8月6日月曜日

学ぶことは、楽しいこと

授業の本質を磨く。
見るからに重い感じだが、少し砕いて考える。

授業の本質的な楽しさとは何なのか。
私は「知的好奇心」の一言に尽きると思う。
新しいことを学ぶ楽しさ、それそのものが授業の楽しさである。

私はよく次のような話をする。
「みんなは、欲しいものがありますか。
(新しいゲーム、新しい服、携帯電話など口々に言う。)
世界中の子どもの願いの第一位は何だか知ってますか。
(間を取る)
それは、『学校で勉強したい』です。
世界中には、様々な事情で、勉強したくてもできない子どもがたくさんいます。
たまたま日本に生まれたみんなは、勉強できるありがたみを感じていないかもしれません。
これは、親がいることに感謝しないことと似ています。
近すぎるもの、当たり前すぎるものには、人間は感謝しません。
空気もそうですね。
でも、ないと非常に困る。
勉強ができるということは、世界一幸せなことなんです。
人間は、勉強することで人間になっていきます。
新しいことを知れること、これ自体が幸せなんです。
みなさん、毎日学校で勉強ができて、本当に幸せですね。」

こんな話をすると、大きくうなずく子どもがいる。
少なくとも、全員真剣に聴いている。
こうすると、次から勉強に打ち込む態度が変わるのである。(1日ぐらいは。)
これを、折に触れて形を変えて話す。

生きることは、学ぶこと。
学ぶことは、楽しいこと。
幸せなことである。

2012年8月4日土曜日

授業の本質を磨く

子どもが学校や勉強を好きだ、得意だと思い込むにはどうすればよいのか。

一つに、各教科の中に一つ以上の「お楽しみ」を用意しておくという方法がある。
これは、一回だけの打ち上げ花火的なものではなく、毎回のルーティーン(定型)
として組み込まれている必要がある。

国語をやれば、百人一首や暗唱がある。
社会は、歴史カルタ。
算数なら、難問やパズル(毎回用意は難しいが)。
理科などは、実験そのものが楽しい。
体育なら、集団でふれ合う鬼ごっこ的なゲーム。
外国語なら、チャンツやゲーム。
・・・などというように、何かしらの楽しみがあれば、それだけでくいつくことがある。

しかし本質的な楽しさは、ここではない。
エンターテイメント的な楽しさは、言うなればきっかけ作りである。
商品でいうなら、広告やオマケみたいなもので、最初の興味・動機付け程度である。
商品PRができてない商品は、そもそも売れないので、良さも分かってもらえない。
しかし、せっかく買ってみてもダメな商品なら、もう二度と買ってもらえない。

やはり、商品の本質的価値を磨く必要がある。
色々な機能のついた「十徳ナイフ」でも、ナイフの切れ味が悪ければ使えない。
授業の本質を磨くことが、本分である。
(次号に続く)

2012年8月1日水曜日

ゲームの有用性

以前にも紹介したが、社会科の歴史の学習の例。

私が担任する学級は毎年「歴史が得意・好き」という子どもが多い。
別に、素晴らしい授業をしている訳でもない。
ただ、毎年必ずやるのが「歴史人物カルタ」である。
授業開始の最初の5分程度で行う。
これは、楽しい。
知識が身に付くだけでなく、仲間との交流にもなる。

かくして、「歴史が面白い」という感覚が生まれる。
授業はそんな大したことなくても、である。
私は歴史が好きなので、結構語れる。
そんな私の話をきいていない子どもでも、歴史の時間はなんとなく楽しみなのである。

興味・関心を引き出す一つの手法は、「ゲーム」である。
外国語の学習でも良く使われる。

次号は、他の方法について。
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