2018年8月31日金曜日

ジャイアンが先生の言うことを聞くのはなぜか

まぐまぐ!ニュース掲載から拡散していった記事。
https://www.mag2.com/p/news/364247

家庭教育が学校教育に資する重要な影響について。
わかりやすく、ドラえもんに例えて書く。

ジャイアンは、問題である。
しかし、彼は先生にとって、手が付けられない存在ではない。

なぜなのか。

ジャイアンは、先生の言うことを聞くのである。(誤魔化しはするが。)
それは、先生から母ちゃんに伝わると、母ちゃんに叱られること必至だからである。
母ちゃんはジャイアンにとって、世界一怖くて、世界一大好きな存在なのである。

では、なぜそうなるのか。
それは、母ちゃんが「先生の言うことを聞け」と言っているからである。
もし母ちゃんが
「先生なんて」
などと言っていたら、ジャイアンは高確率で先生の言うことを聞かなくなる。

つまり、こういう関係図になる。
1 ジャイアン→母ちゃんを重視
2 母ちゃん→先生を重視

この2要素どちらか一方が欠けていると、ジャイアンは先生の言うことを聞かなくなる可能性が高い。
「可能性が高い」というのは
3 ジャイアン→先生を重視
という図式が単独で成り立つことも有り得るからである。

つまり、ある程度の経験と指導力があれば、ジャイアンも先生単独でなんとかならないこともない。
しかし、例えば新卒の若い先生などに対し、母親あるいは父親が
「あんな若い先生」とか「先生なんて」
と言っていたら、高確率で崩れる。

今は、全国の学校の多くの人員を、新卒をはじめとした20代の若手が支えているのである。

親の立場ならば、自分の言動が学級を崩している原因を作っている可能性があることを知っておいた方がよい。
若く意欲があって頑張っている先生の足を引っ張らない方がよい。
その最大の被害者は、そこに所属している我が子だからである。
私の勤務校は若手が極端に少ないのでその事態は見受けられないが、全国的には見られる崩れ傾向である。

子どもの教育の第一義は、家庭にあり。
家庭教育の充実が、学校教育の充実につながることは揺るがない事実である。

2018年8月29日水曜日

「やる気ない」「つまんない」にどう切り返すか

切り返しの技術というか、知識と心構え。

子どもの大きな声での
「やる気ない」「つまんない」
にどう対応するか。

普通に考えると、単なる嫌な感じの子どもである。
あらゆる言動には、真意、意図がある。
表面的に捉えると失敗する。

変換である。
スペースキーを押すように、言葉を変換すればよい。
(以前紹介した、反抗期の
「うるせえくそばばあ」

「わかっているから、放っておいてね。」
の変換イメージである。)

一番考えられるのは、
「つまらない」のではなく、「できない」ということ。
人間には、自分にはできない、手に入らないと思うと、その対象に価値がないと思い込もうとする習性がある。
イソップ童話の「酸っぱい葡萄」の話である。

要は、その課題に対し、苦手だから、逃げている訳である。
「やる気がない」と言っておけば、それは自分の実力のせいではないという言い訳になる。
「つまんない」と言っておけば、それは相手のせいにできるので、これも言い訳になる。

これはすべての「攻撃的な人」にも当てはまる。
自分の弱点をつかれるのが怖いから、必死に相手を攻撃する。
自信がないのである。
弱い犬がよく吠えるのと同じである。
本当に強い人は(あるいは犬でも)、穏やかである。

言葉を表面的に捉えないこと。
言葉とは裏腹なことが結構ある。
「さすが〇〇さんですね」と言いながら、陰で馬鹿にしている人もいる。
逆に「嫌い」と言っている相手が、意外と好きだったりもする。
表面と中身は、違うのである。

冒頭の「やる気ない」には、さり気なくフォローを入れる。
自信をなくしているので「上手い」「できてる」などのプラスの言葉がけが必要である。

「つまんない」への対応は色々あるが、『切り返しの技術』定番
「つまらないなら、もっとつめて!」
という手ある。
中身がなくてスカスカなのは自分なのだから、自分で詰めて解消するのである。

反抗的だったり嫌な態度の子どもに対応する時は、真意まで見た上で対応したい。

2018年8月27日月曜日

子どもも大自然と思え

タイトルは、新宿での定例セミナーを主催してくれている友人に聞いた言葉である。
この人が尊敬する、ある先生から教わった言葉だそうである。

どういう意味か。

自然は、人間には操作できない。
人智を越えた領域である。

夏は暑いのが嫌とか梅雨が嫌とか言ってもどうしようもない。
台風にあっち行けという訳にもいかない。
嫌でも地震も雷も起きるし、噴火も起きる。
自然というのはそういうものである。

そして子どもも、大自然の一部であるという考え方。
確かにその通りである。
操作できる訳がないし、理解しきれる訳がない。
そう考えると、見え方も変わるし、対応も変わる。

そもそも、自分自身でさえ、ほぼ理解しきれない。
指一本動かせる仕組みも、考えられるという仕組みもよくわからない。
心臓が動いてくれたり、胃が消化してくれたりする仕組みも、何もかもよくわからない。
寝ている間も24時間はたらいてくれて、息をするのも忘れることはないし、ありがたい限りである。

つまりは、よくわからない自分が、よくわからない相手に教えているわけである。
そんなの、よくわからないに決まっている。

よくわからない教師が、よくわからないながら子どもに教えている。
よくわからない親が、よくわからないながらわが子に教えている。
よくわからない上司が、よくわからないながら部下に教えている。

よくわからないなりに、「こういう場合もあるかな」「こうかもな」という経験的知識があるだけである。
当てはまらない場合だってたくさんあって当然。

相手は、「大自然」なのである。
こうすればこうなる、が通用しなくて当然。
こういったのに、やったのに「お。そう来たか。」である。
自然は、常に変化し続け、この世に二つと同じものがないのである。

「大自然」である他者を自分がどうこうできるということ自体が、傲慢であり錯覚であるのかもしれない。
親や教師というのは「大自然」である子どもを一時的とはいえ預からせていただける。
これ自体、重要かつ大きな仕事である。

目の前の子どもも、大自然。
そう思うと、畏敬の念も湧くし、ある種の余裕ができる。
教育観を広げる一つの考え方として有益ではないかと思い、紹介してみた。

2018年8月26日日曜日

「道得」に要注意

「金の斧」におけるご褒美の話の続き。
この手の話はたくさんある。

「この金の斧みたいに、正直にしたらいい目にあって、嘘をついたらひどい目にあう、という話あるでしょう。」
一年生に問いかけたところ、即座に
「おむすびころりん」「花さかじいさん」と返ってきた。

その通り。
じいさんは、落としたおむすびを追いかけただけである。
大事だから。
そしたらなぜか歓待された。

じいさんは、犬を救っただけである。
可哀相だったから。
そしたらなぜか、大判小判がざっくざく。

かさこじぞうも、売れなかった笠をつけてやったら、お金や米俵になって返ってきた。

道徳的にみると、そのご褒美は、いらない。
心からの行為に、本来見返りとしてのご褒美は不要である。
主人公たちは、それを期待していないからこそ、逆に幸運を授かっている。

私の友人曰く、
「神様は正直な人を応援したくなる、ということを学ばせる」
と解釈できるという。
その通りである。
しかし、物語を読む側には、いいことをすると得をするという解釈にもなり得る。

大人は、結構こういう「失敗対応」をしがちである。
子どもが、いわゆる「善いこと」を何の気なしに当然やっている。
それをつい、褒めすぎてしまったり、ご褒美を与えてしまう。

それが「行動の強化」をねらっているならいい。
犬のしつけの仕方はまさにこれで、飼い主の求める行動をとったら、すぐご褒美の餌をやることを繰り返す。
時々ご褒美なしにしていき、やがて、ご褒美がなくてもやれるようになる。
(逆に、ダメな行動の強化の仕方は、すぐに叱ったり大きな声をあげることだという。
ドッグトレーナーの方の話だと、落ち着いて「無視」「その場から立ち去る」「嫌な音を出す」あたりが定石だという。
学級経営における「望ましくない行為」への対応と通じるものがある。)

しかし、繰り返すが、人間は、犬ではない。
褒められるから動く、叱られるから従うのは、主体的とはいえない。
(「管理」する側からすると、これが最も楽である。)
自分が心から正しいと思った行動を、自ら選択していく人間に育てたい。
一生世話をしてもらえる犬とは全く違って、人間は、自立を目指す必要がある。

要は、善いことをしたらご褒美をもらえるよ、という図式は、主体的な人間を育てない。
善いと思ったからやる。
誰が見てなくてもやる。
自分が納得するからやる。
育てるべき態度は、それだけである。

だから、善い行為を見たら
「〇〇しているんだね」
と認めるだけでいい。
「認めている」=「見て留めている」ということを伝える程度で十分である。

「金の斧」の話は、道徳で見た場合、鉄の斧だけを返してあげればいいのである。
金の斧と銀の斧を渡すことで、間違った解釈にいきかねない。
しかしながら、その方が物語として面白いから、金の斧も銀の斧ももらえる訳である。

前号でも書いた通り、物語は物語として面白いのが大切であり、必ずしも道徳的である必要性はない。
金の斧はイソップ童話であるが、登場する神様のヘルメースは、ギリシャ神話に出てくる神である。
ヘルメース自身は、明らかに不道徳な行為が目立つ神である。

そしてギリシャ神話は、不道徳のオンパレードである。
トップのゼウス神はその筆頭。
神様のリーダーだが、とんでもなく不道徳で理不尽である。
ギリシャ神話は「フライ〇ー」「週間〇春」辺りのトップを飾りそうな話ばかりである。
古来より、大衆には不道徳な話の方が人気なのである。
酒・タバコ・ギャンブル・噂話に始まり、娯楽的には不道徳が大好きなのである。

道徳で物語を用いる場合は、この辺りを考える必要がある。
物語は必ずしも道徳的にはできていないから、変なおまけがたくさんついていることがある。
道徳というより「道得」になっている可能性もある。

子どもの善い行いを、褒めすぎないこと。
子どもの不道徳な行いに、着目しすぎないこと。
子どもは、やんちゃでめちゃめちゃで、いたずらが大好きなのである。
陰口も叩くし、意地悪もするしけんかもするのである。
それが、人間である。
それも通して、成長である。

管理しやすさを求めるあまり、「道得」的にならないよう、気を付けたい。

2018年8月25日土曜日

きこりはなぜ金の斧を受け取らなかったか

今年度、件の「金の斧」を用いて一年生の道徳科の授業を行った。
教科書教材として掲載されているのである。
どんな反応を示すか、子どものつぶやきに注意しながらやってみた。

さて、お決まりの次の問いかけ。
「きこりはなぜ、金の斧を受け取らなかったのでしょう。」

期待する答えは
「自分のものではないから」
「嘘をついてはいけないから」
辺りである。
要は、正直に、嘘をつかないのが大切ということである。

実際やってみると、なかなか面白い答えがたくさん出た。
一番最初に出たつぶやきが
「自分のじゃないとダメだから。」

こういう時は拙著『切り返しの技術』にもある定番フレーズ
「なるほど。もっと詳しく話して。」
で突っ込む。

「だって、金の斧じゃ、(木が)切れない」
「自分の斧じゃないと嫌」

なるほど。
そうきたか。

あくまで、「きこり」という仕事に着目している訳である。
「ダメ」の内実が、仕事にならない、やりにくいということを指していたようである。
仕事道具としての斧なら、金より鉄製がいいに決まっている。
斧は、きこりにとって、装飾品や売り物ではないのである。
戦国武将にとっての刀、アスリートにとっての靴、書家にとっての筆や硯である。

しかも、道具には愛着がある。
例えば自分のお気に入りのボールペンなどを無くすと、(買えば済むのに)かなりがっかりするはずである。
同じように売っているもののでも、自分が使っているものは、文字通り「特別」であり、他とは別物である。
同じ鉛筆一本でも、大好きなおばあちゃんが何かの記念に買ってくれたものは特別。
それをもしいたずらで折られたりしたら、弁償では済まされない。

だから、低学年の頃から人の物は勝手に触らないと徹底して教える。
併せて、大事な物や高価な物、他人の余計な興味をひきそうな物は持ってこないと教える。
たくさんの人が集まる学校に持ってくる物には、ある程度「なくす」「壊れる」前提が必要である。
全ての持ち物に名前を書くのも、そのためである。
(学校の「落とし物箱」の中に無残に放置された大量の物たちが、それを雄弁に物語る。)

特に仕事道具は実用品であり、愛着のあるものなのである。
使い込むことで、手にしっくり馴染むものである。

つまり、金ピカどうこうではなく、自分の大事な鉄の斧をもってきてくれということである。
本当にきこりは金の斧と銀の斧を欲していたかも謎である。
「別にいらんなぁ…」と思ったかもしれない。

もちろん、一年生は、即座にそんな深く考えはしていないだろう。
シンプルに
「自分の大事なものを取り戻したい」
という思いを言葉にしただけである。

だから本来、斧を返してもらえば済む話である。
シンプルに「拾ってくれてありがとう」「どういたしまして」でおわりである。
人間として当たり前のやりとりなのである。
ここの「神対応」なご褒美は、実際の世界では余計なのである。
しかし本来、「お話」は道徳的でなくても良いので、これはこれでいいのである。

教育における「ご褒美」の取り扱いについて、もう少し詳しく考えていく。

2018年8月21日火曜日

段取り・計画が苦手!だから…

次の本を紹介する。
『段取り・計画が苦手!だから…仕事は要領!』
俵原正仁著 明治図書
https://www.meijitosho.co.jp/detail/4-18-222611-3

9月15日(土)に一緒にセミナーをやる、俵原正仁先生の新著である。
私の『「捨てる」仕事術』と同シリーズ本となる。(シリーズというより、まだ2冊目。)
↓こちらはセミナー詳細
https://kokucheese.com/event/index/528408/

この本の前提は
「段取り・計画が苦手」というところ。
そして、「朝型」や「整理整頓」を努力してもできない人向けという前提である。

もしかしたら、こっちのコンセプトの方が多くの人向けで良かったかな・・・と思ってしまった。

そう。
私の「捨てる」の方は、私自身の仕事術の紹介なのである。
ざっくり言うと、どうやって私がダラダラ、遅い状態から脱出したかという、テクニックとマインドを紹介している。
無茶苦茶言ってるのもあるが、事実のままに書いてある。
(それで、心の内をさらけ出したがために、色々不都合も生じているのも事実。
隠せないのである。
特に「人間関係術」の章は、あまり私と一緒に働いている同僚には読ませたくない部分である。)

だから、この本の最後に書いたように、「自分にとっての取捨選択」というのが本音である。
多くの人にそのまま当てはまるかどうかは別として、一つの視点・選択肢でしかない。

一方で、この『仕事は要領!』の方は、きちんとはできないというのが前提である。
例えば、「必要でない書類は段ボールに放り込んで、一杯になったら捨てる」というのがある。
ちなみにここに放り込まれるものの例が4つ載っていて、
・行く必要のない研修会の案内
・すでに終わってしまった行事のレジメ
・先月の給食の献立表
・他の学校から送られてきた研究紀要
である。
(特に最後の一つは、研究校としての在り方を考えさせられる「本音」である。
研究紀要は、実は送られた相手にとって、ただの迷惑になっていないか。
本当に冊子である必要があるのか。
インターネット上にある方が便利ではないか。
時代が必要としている形が、もうとっくに変わっていると思われる。)

また「帰りの会をしない」とか「ワークを作らない」とか、拙著と共通しているところもある。
段取りとか計画を一旦脇において考えているのが、追試しやすい点である。

自分が「朝型無理」「整理整頓も無理」とか思う人は、励まされるという意味でも特に一読の価値ありである。

2018年8月19日日曜日

道徳における仮言命法と定言命法

木更津技法研での学び。

仮言命法と定言命法という言葉を初めて知った。
ググってもらう方が早いかもしれないが、一応説明する。

仮言命法とは、条件付きで命じる方法である。
○○すれば△△なことになるよ。
だからやろう、という伝え方。
良くいうと、行為の目的を予め伝えて行動を促す方法。
悪くいうと、エサや脅しを用いる方法である。

定言命法とは、無条件で命じる方法である。
有無を言わさぬ命令である。
良くいうと、信頼できる相手の言うことを素直にきくこと。
悪くいうと、絶対的権威への無思考による服従である。
これは、カント哲学・倫理学の真髄であるという。

さて、考え議論する道徳は、当然前者に偏る。
後者の定言命法には、考える余地も議論の余地もない。
現行の道徳科の教科書を見ると、全てこちらである。

ならぬものはならぬのです、という教えは、後者である。
「親父の小言」も、後者である。

さて、どちらが今の時代に欠けているのか。
これは圧倒的に、後者である。

行為の理由を教えるのは大切である。
ダメなことがなぜダメか、知ることもいい。
しかし、エサで釣って動かすというのは、教育の本質からは外れる。

野口芳宏先生は、童話の「金の斧」の話を例に挙げられた。
正直に言えば、金の斧が手に入りますよ、という話である。
これは、エサでつっているともいえる。
道徳の本質的には、正直に言うことは大切だ、ということだけなはずである。

なぜこういうことになるのか。

そもそも、童話とは道徳的には出来ていないのである。
童話作家に、そんな義務もない。
勝手に教材として用いているだけである。
(国語の文学教材も、授業で登場人物の気持ちを聞きまくるから、道徳の教材になってしまう。)

浦島太郎はそのいい例である。
(昔話なので、終わり方にも諸説あり。)
善行に対し、最終的に仇のような形で返ってくる。
それは、物語だから、それでいいのである。

要は、道徳の物語教材でやると、仮言命法に成らざるを得ない。
いいことあるから善行せい、ということになる。

道徳とは、より良く生きる道である。
その道の未経験者には、考えさせてわかるところと、わからないところがある。

本質的には、未経験者にそこを判断する物差しが与えられればよい。
その価値観の物差しを押し付けないでもてるようにせよ、という通達である。

ここが難しいのである。
最初の物差しが、各家庭に任されている。
本来共通にあるはずの「常識」が、個別化されている。

定言命法が機能しない所以である。
「ならぬものはならぬのです」
と言い切るのが難しい、多様な価値観の時代。
道徳を教える難しさが、この辺りにありそうである。
道徳について、もう少し考えていきたい。

2018年8月17日金曜日

大原幽学の「子ども交換保育」作戦に学ぶ

ここ3回、戦争と平和をテーマに書いてきた。
実際、一教師に、そんなに大規模なことはできない。
やれることは、教室程度の小規模集団からのミクロな発信である。

要は、自分をどこにおくかで、「全体最適」の規模が決まる。
かなり小さい単位だと、家庭。
最小単位は無論「自分」である。
「今、自分さえよければいい」という部分最適。
無意識に暮らしていると、全てがここになりがちである。

ここで、学級担任、あるいは家庭として考えるべきことがある。
「自分の子どもさえよければいい」という考えである。
自分自身を子どもと同化してしまっている。
これは、厳に慎むべき態度であると同時に、多くやってしまいがちな過ちである。

ここについて、興味深いエピソードを読んだ。
次の本からである。
『歴史人物に学ぶリーダーの条件』 童門冬二著 だいわ文庫(2009)

幕末の時代に、千葉県の北総地帯の礎を築いた、大原幽学という偉人の話が載っている。

当時のこの地方の村人には「自分さえよければいい」という気風が完全に染みついていたという。
そのせいで協力体制がとれず、村全体は貧しく、人々の心も荒んでいた。

そこで、幽学は何を提案したか。
「各家庭の子どもの交換保育」である。
何と、各家庭の子どもを交換して育てさせろというのである。
A、B、C、三人がいるとしたら、それぞれの子どもを
Aの家にBの子
Bの家にCの子
Cの家にAの子
というように、交換して育てさせようとしたのである。

名主である遠藤伊兵衛という人物が、幽学に代わって村人に提案した。
当然反対も出たが、やってみようということで、提案は実行された。

そして、すぐに混乱が起きた。
まず子ども自身が帰りたいと騒ぐ。
預かる側も、特に村で評判の「悪ガキ」担当となった家は、すぐにでも追い出したくなる。
村人同士で「この家の子はいい」「この家の子は悪い」という、レッテル貼りが行われていた訳である。

あまりの混乱ぶりに閉口し、伊兵衛は「やはりやめよう」と言ったが、幽学は信じて続けろという。

やがて、変化が起きる。
子どもたちは、自分の家のようにわがままが通用しないとわかると、実の父母のことを考えるようになった。

それぞれの親も
「うちの子が辛い思いをしたり、いじめられたりしていないか」
と心配した。
すると、今、目の前にいる他人の家の子どもに心配が向き始めた。

結局、誰の子でも、同じ人間の子どもであり、愛さなければならないとわかり始めた。
その頃を見計らって、元の家庭に戻すと、親も子もすっかり性格が変わり、村全体が他者のことを考えるようになったという。

つまり幽学は、村人の個人的な部分最適を求める姿勢を、体験によって全体最適を考える姿勢に矯正した訳である。
それが村の協力体制を作りだし、結果的に村人それぞれの幸せにもつながっていったという話である。

結局、自分や自分の子ども(あるいは担任している子ども)だけがよければいいという考えは、破滅の道である。
自分以外の他をも大切にすることが、結果的に自分の幸せにつながる。
考えればすぐわかるが、我が子が通うクラスの他の子どもの大部分が不幸なら、我が子も不幸になるに決まっている。
学級担任なら、自分のクラスだけが良くて周りはだめだという考えがあれば、それは子どもにも伝染する。
人を見下したり、自分の所属以外の周りに無関心な子が育つ訳で、結果的に、自分のクラスの子どもも不幸である。

そして、逆もまた然りである。
だから、学級づくりでは子ども同士のつながりをつくるのが、大前提として大切なのである。

学級経営や家庭教育を考える上での一助になればと思い、紹介してみた。

2018年8月15日水曜日

戦争における「全体最適」は存在し得るか

終戦記念日ということで、長文。

部分最適と全体最適の話の続き。
昨日の長崎の原爆記念日と関連し、この視点から戦争について考えてみる。

戦争における国家レベルの部分最適とは、それぞれの国の「正義」あるいは「勝利」であると仮定する。
そしてその上位にある世界レベル、あるいは地球レベルにおける全体最適が「終戦」あるいは「平和」に当たる。

ただ、終戦さえすれば必ずしも全体最適という訳ではない。
終戦しても、戦争中に命を失った人がいたのなら、それは世界全体から見て完全な失敗である。
戦争中に土地を汚染したとなれば、地球レベルでみて全体最適とはとてもいえない。
「終戦によって世界が平和になった」というのは、強者の論理であり、戦勝国の部分最適でしかない。
原爆投下による終戦は、どう考えても部分最適でしかなく、全体最適にはなり得ない。

平和的な終戦、つまりは戦争における世界レベルでの「全体最適」とは何か。
それは、誰も傷つかないで終戦を迎えること。
不可能なことであり、完全な絵空事である。

かつて米ソ間であった、冷戦はどうか。
これは、二国間で直接戦火を交えていないものの、大量の核兵器を生み出した。
地球レベルで完全に失敗である。
しかも、周辺国で二国の代理的な戦争が大量に勃発している。
世界レベルでも完全に失敗である。

結論。
戦争になってしまった時点で、もはや全体最適は全く望めない。
特定の国のみが利益を貪る部分最適にしかなり得ない。

そしてあらゆることにおいて、部分最適は、全体最適にならない。
全体最適を考える時、常にその構成要素である部分は、一定のコストを支払う必要が出る。
戦争の例なら、双方が自国の利益を手放すほどに、全体最適の度合いは高まる。
真剣に全体最適を考えるなら、部分最適を望まないことである。

戦争は、エゴイズムの極致である。
根源は、自分だけがいい思いをして、相手はどうなってもいいという思いから起きる。
つまりは、人の心にエゴイズムがある以上、どの国でいつ戦争が起きてもおかしくないということである。
現代の日本にとっても、決して無関係ではないということである。

戦争は、自国だけでなく、他国の為政者や権力者によっても引き起こされる。
いざ非常事態に陥ってしまった時、一国民には戦争の是非を選ぶことができない。
例えば、今アフリカの少年兵士たちが、好き好んで銃を持って戦っているとは思えない。
黙っていても、自分と家族、身近な人が攻撃される。
やられないために動くしかない。
互いの兵士が、同じ立場になる。
前号でも書いたが、非常事態においては個人の部分最適は優先したくてもできない。

異常な状況下において、個人の意思や信条、人権は全く尊重されない。
よって、戦争を経験していない我々には、戦争で死んでいった人々のことをどうこう言う権利はない。
想像を絶する異常事態の中で、それぞれが何を願って行動して死んでいったかは、わからないのである。

戦争を避けるには、全体最適を考えること。
自国のことだけでなく、他国のことも考えること。
これは、日本国憲法の前文にも書かれていることである。
以下、引用する。
============
(引用開始)
われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
(引用終了)
=============

ところで、日常生活において他国のことまで考えて生きるというのは、なかなかに難しい。
まして、今日を生きることにも精一杯という状況下の国の人々が、考えられるはずがない。
世界平和のことより、まず自分と家族が死なないことが優先である。
つまり、少なくとも今「平和」と感じられる状況下にある国の人々の方から、歩み寄って動く必要がある。

実際、具体的にどうするか。

ミクロから、だんだんマクロに考えていく。
自分自身だけでなく、家族など身近な人々のことも考えること。
友人・知人のことも考えること。
会社や学校、近所の人のことも考えること。
通勤途中の電車でたまたま一緒になった見ず知らずの人、途中で買い物したお店のレジの人のことも考えること。
全然見ず知らずだけど、災害に遭って困っているらしいという人々のことも、時に考えること。
自分が生まれる以前のことだけど、戦争で亡くなっていった人々に、時に思いをはせること。
そういう身近なところから、少しずつ自分の中の「全体最適」の規模を広げていく。

特に自分から遠く、規模が大きくなると、大したことはできない。
被災地に義援金を送るだけでもいいと思う。
広島や長崎の平和祈念式典に乗じて、テレビの前で一緒に祈ることでもいいと思う。
ニュースを見て、戦争中の国のことを知るだけでもいいと思う。

「愛の反対は憎しみではなく、無関心だ。」という有名な言葉がある。
ひっくり返すと、一人一人が関心をもつことで、世界の無益な争いを減らすことができるかもしれないということである。

2018年8月13日月曜日

部分最適と全体最適

今回はものの見方、考え方に関わる、少しだけ哲学的な話。
最近、よく考える、「部分最適」と「全体最適」について。

これ自体は、経済学の用語であるという。
両方の意味は文字通り。
部分最適とは、ある部分(部門・部署・小集団等)にとって最適な状態を指す。
全体最適とは、その部分が属すより大きな単位である「全体」にとっての最適な状態を指す。

つまり、本来は全体最適≧部分最適のはずである。
しかし実際は、全体最適<部分最適という行動をとってしまう。

どういうことか。
例を挙げる。

会社全体の利益より、所属部署の利益優先。
所属部署の利益より、自分自身の利益優先。
つまり、会社全体の成果より、自分の部署が成果を上げることに目が向く。

もっというと、自分だけが評価されたり得すること。
または楽すること。
自分さえよければいい。
意識しないと、ここが優先されていく。

文章にするとえげつない感じがするが、実際はあらゆることが、無意識にそうなる。

大きな単位でいえば、自分が所属する家族という小集団は、国家という大集団に属する。
しかし個人の行動の優先順位で考えれば、国家<家庭という感覚だろう。
当たり前である。
どんなに国が潤っていても、自分の家族をみれば生活がぎりぎりという状態では、国のことより家族のこと優先である。
(例え日本国内であっても、貧困地域の子どもたちの暮らしは壮絶である。その状態では、自身の暮らし最優先に決まっている。)

ただし戦争のように、国家が倒れることで家族の生命が危うくなるということになれば、行動優先順位が変わる。
上位集団が崩壊すれば、下位集団も自分も不利益を被るからである。
今自分が頑張らないと会社が倒産するとなれば、家族サービスなんてそっちのけで、何をおいても仕事に全力を注ぐ。
それはいうなれば、危機的状況であり、非常事態である。

逆にいうと、人は自分の所属している上位集団自体がとりあえず安定している場合、より小さな単位(部分最適)を優先すると考える。
一方で上位集団が存亡の危機となれば、上位集団の存続(全体最適)に力を注ぐ。

こう考えると、国のことより、今の個人の生活を考えてしまうのは、自然である。
今の時代に、自分が生まれる以前の、自分と直接関わりのない、原爆や戦争のことから関心が遠ざかってしまうのも、自然である。
「平和」に暮らしているから、つい個人の幸福のことばかり考えてしまうのが自然である。

我が家が平和だ、今の私の生活が豊かで幸せだ、というのは、そうかもしれない。
しかし、その平和がタダで自然に手に入った訳ではないというのは、どこかで考える必要がある。
歴史の中で犠牲になった、多くの方々の命に思いをはせる時があってもいい。

そもそも、今この国は本当に平和だといえるのか。
苦しんでいる人々が国内に大量にいるのではないか。
国際的に見た時、既にぎりぎりの状態ではないのか。

本当の危機を迎えてから治療的対応に追われる前に、予防的対応に力を入れるべきである。
8月のこの時期、国の平和という全体最適について考えてみるのは、最終的に個人という部分最適にもつながると思う次第である。

2018年8月9日木曜日

原爆記念日の意義

今日は、長崎の原爆記念日である。
先日の8月6日広島の原爆記念日にメルマガで書いた記事を載せる。

現在生きている人の中で、実際に原爆を体験した人たちが、かなりの高齢である。
73年前の出来事なのだから、当然である。
実際の体験者が少なくなり、生の声を上げられなくなってくる。

そうした中で、記念式典が催される。
記念式典は、何のためにやるのか。
広島市のHPによれば

原爆死没者の霊を慰め、世界の恒久平和を祈念するため

とある。
慰霊と平和のためである。
思想どうこうではなく、世界平和のためである。
だから、アメリカはもちろん、世界中から、要人だけでなく、一般の方々も集まる。

広島の原爆ドームは、ドイツのアウシュビッツ収容所と並んで、負の世界遺産の代表的なものである。
負の世界遺産というのは、基本的にすべて世界の平和を目的としている。
ダメなことを忘れないためである。

人間は、失敗からしか学べない。
例えば公害のような環境問題は、手に負えないレベルになるまで気が付かない。
自然の自浄能力の限界値を迎えるまで気が付かない。
「やっぱり」困ったことになって、やっぱりダメだとわかり、真面目に考え直す。

つまり、ダメなこと、失敗、痛みは、繰り返さないために、次の世代につなぐ必要がある。
嫌でも、目を逸らしたり、忘れたふりをしていると、またもっと痛い目に遭うからである。
それが、歴史の学習の本当の意義でもある。

失敗の歴史を知る必要があるのは、それを実際には体験していない人々である。
また、こちらが痛い思いをさせられたという場合も、忘れていないことを相手に示す必要がある。
これも、また繰り返させないためである。

もしも日本人が他国の人と話す時に
「原爆とか、昔のことだし、よく知らない。
今は平和だからいいと思う。」
というようになったら、これはかなり問題である。
他国の人々からも見下されること必至である。

ここの辺り、もう少し真剣に考え直す方がいいと思う。
小学校六年生でも、歴史で戦国時代とかにやたら力を入れるより、近現代史にもっと力を入れるべきである。
(教える順番も問題である。
後半に駆け足でやるから、大事なことがまともに教えられてない面もあるだろう。)

8月は、夏休み中であり、この最もタイミングが合う時期に、教師が直接教えることはできない。
戦争に関する話題を、家庭でもすることが大切である。

2018年8月7日火曜日

「常識」は敵

ずっと以前、コンビニで1Lの牛乳を買ったら
「ストローをおつけしますか?」
と言われた時の衝撃について書いたことがある。
「おいおい、そんなもんいるわけないでしょ。」
と感じるのが、その時の私の「常識」的反応。

ここを、考え直させられる場面を見た。

少し早い時刻に帰ると、いつも駅のホームで高校生がたむろしている。
部活帰りのようである。
彼らのうちの何人かが、1Lのパックにストローを差して飲んでいる。
ジュースもあった。
コーヒー牛乳もあった。
何か飲むヨーグルトっぽいのもあった。

そうなのか。
今時の(というあたりがオッサン)高校生には、結構「普通」のことだったのか。
そんなに甘いものを一気に飲んで、胃もたれしないのか。
あのコーヒー牛乳の量は、私にとっては、5日分である。
衝撃である。

だからどうしたと思うが、これは結構大切なのである。
前回の「無知の知」につながる。
要は「常識」こそが「無知の知」を阻む敵である。
「そんなわけない」という思いは、それ以上の領域にいかない。
自分の中で「異常」という扱いになり、ジ・エンドである。

人が単なる物や障害物に見える。
そんなわけない。

人が本気で嫌がっていることに全く気付けない。
そんなわけない。

文字が歪んだり踊ったりして見える。
そんなわけない。

周囲の雑音すべてが完璧に耳に入ってしまう。
そんなわけない。

じっとしていると、身体の中で虫が動いているような感じがする。
そんなわけない。

どれも、普通の感覚だと、そんなわけない。
しかし、そういう感覚の人も結構いる。
子どもにも大人にもいる。

そこを理解しないと「異常」という扱いになる。
もし理解していれば「そういうこともあるよね」と思い、対応が変わる。
「それぐらいは普通」「あり得る話だ」と思えば、対応がかなり変わる。

様々な子どもを相手にする教師にとっては、知識がかなり大切である。
教師の無知は、罪ですらある。
無知による対応は、二次障害を引き起こす可能性もある。

牛乳の話から、最後は真面目な話になった。
要は「常識」を疑うこと。
学校にはとかく様々な「常識」があるので、疑ってみることをおすすめする。

2018年8月5日日曜日

学級経営に知的謙遜をもつ

最近何かの本で読んだ、Googleで人事の責任者を務めるラズロ・ボック氏の話。

Google社の採用にあたって最も重要な要素が「知的謙遜」だという。
要は、このメルマガでも何度も話題にしている、ソクラテスの「無知の知」である。
「自分は知らないことだらけだと知っている」という姿勢である。

教師の仕事に関しても、ここが非常に重要である。
何年やっても、ほとんど知らないことだらけである。
世の中の様々な教育手法のすべてなど、知る由もない。
国語一つ、体育一つとっても、教え方が様々にある。
「自分は〇〇について知っている」などとは、多分一生いえない世界である。

中学校の教師は、年間を通して教科を専門的に教えられるので、そこに特化して勉強できる。
部活動に関しても同様で、とにかく対象を絞って専念しやすい。

では、小学校の教師はどうか。
国語が専門であっても、算数も図工も体育も道徳も教えなくてはいけない。
それが毎日である。
国語や体育だけ勉強している訳にはいかないのが実情である。

すべての小学校の学級担任において、費用対効果が最も高く、有用なものは何か。
「知っているつもり」になって、実はよくわかっていないことは何か。
それは、学級経営についての知識と技能である。

素晴らしい理論で国語や算数、体育等に特化した授業をやろうとしても、なかなかうまくいかない。
以前ならうまくいった授業、誰かがうまくやれる授業でも、うまくいかないことがある。
それは、授業以前のベースとしての学級経営に根本的な原因がある。

植物で例えるなら、土作りである。
スポーツで例えるなら、基礎体力である。
学力で例えるなら、聞く力と読む力である。
人間に例えるなら、健全な考え方と、健康な身体である。

ベースが全てである。
ある子どもで、算数が苦手だとする。
それをどうにかしようと必死に算数の教え方を勉強しても、全然うまくいかない。

なぜか。
それは、ベースとなる家庭がめちゃくちゃで自暴自棄になっているからかもしれない。
学力以前にLDやADHD等の特別な事情を抱えている可能性もある。
学習のベースとなる前提ができていないと、教え方以前である。

授業のベースは、学級経営である。
授業づくりと学級経営はどっちが先か、とか、両輪だ、とか様々な論がある。
何においても、学級経営が先、というのが実感である。

学級経営は、知識がないとできない。
しかし実際は、理論も何もなくても、何となくできたような感じになってしまう。
しかし、それは「運」に任せたものであり、かなり不確実である。
また、単に理想型を知らず、いつも通りのもので「できた」と思ってしまっている可能性もある。

同じものを毎回再現できるのが、技能である。
各人の学級経営における技能は研究され、知識と技術として伝えられる形にまとめられていることもある。

一生、学ぶことがある。
日々アップデートされる以上「これで完了」はない。
学級経営に対しても、知的謙遜をもつことが肝要である。

2018年8月3日金曜日

「1年生だから〇〇できない」論は、大抵嘘。

1年生からの学び。

「1年生だから〇〇できない」論に、長い間疑問を抱いていた。
しかし、1年生を担任したことがなかったため、はっきりと反論できないでいた。
「1年生には無理」という、とりつく島もない言葉に対し、為す術もなかった。
今年は、そこに対しての様々な「検証」ができる有難い環境である。

さて、1年生はいかにして「自分たちの学級」を作り上げていくのか。
これは、大人や上級生に頼っている内はできない。
「1年生にはできない」と思っている内は、できない。
1年生を、なめてはいけない。

連合艦隊司令長官、山本五十六の次の言葉が大変役に立つ。

やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ。
話し合い、耳を傾け、承認し、任せてやらねば、人は育たず。
やっている、姿を感謝で見守って、信頼せねば、人は実らず。

要は、「信じて任せる」を増やすことがポイントである。
そして「ありがとう」の一言を忘れないこと。
子どもは、小さな成功体験、人の役に立ち感謝される経験の積み重ねで、自己肯定感を育んでいく。

勉学やスポーツができることは価値があるが、それだけでは自分のためでしかない。
「人の役に立てている実感」「感謝される経験」が大切である。
サッカーで言うなら、一人でドリブルで何人も抜き去ってシュートを決める体験と、スルーパスを仲間が決めてくれた体験は別である。
どちらもチームの役には立っているが、前者は自分の能力への自信を得る体験となり、後者は仲間への貢献感がより強くなる。
勉学でも、自分ができるだけでなく仲間への貢献ができる活動をプラスすれば、所属感も自尊感情も高まる。

人の役に立つ活動を、どんどんさせることである。
当番・係活動はその最たるものである。
「あなたがいないと始まらない」という状態を作る。

教えて役割を任せたら、とりあえず手を出さないで我慢して見守る。
本当はすぐに教室の電気をつけたくても、電気係がいるから敢えてつけない。
気づかないようなら、「ごめんね、つけちゃった」と声をかけてやっていれば、やがて気づく。
「言われる前にやれるのが本当の当番・係」ということも教える。

手を出さないことである。
大人が我慢できるかが勝負である。
特に幼い子どもは、手を出してあげたくなってしまう。

しかし、相手を一人の役割を担った人間と見て、信頼して任せる。
下手くそでもいいから、やらせる。
やったこと自体を認めていく。
どんどんうまくなることを伝える。
この繰り返しである。

「1年生だから〇〇できない」論は、大抵嘘というのが、ここまでの実感である。
要は、教師が手出しを我慢できるか、必要な場面で導けるか。
もしうまくできないとしたら、こちらのやり方に問題があると考えるのが自然である。

1年生でも、できる。
ありとあらゆることを、任せられる。
まずは教えることと、その後の信頼感が成長のポイントであると実感している日々である。

2018年8月1日水曜日

子どもの訴え3パターン

「先生、お友達に嫌なことされた。」
子どもからの訴えである。
1年生は、よく伝えてくる。

さて、子どもの訴えは、主に以下の3パターンである。
子どもたちには、黒板に顔のイラストにして書いて伝えた。

1 自分はにこにこ 相手はしょんぼり やってる方が気付かない迷惑
2 自分は怒り   相手はしょんぼり やってる方の正義の主張攻撃
3 自分は意地悪  相手はしょんぼり やってる方も意図的ないやがらせ

1が一番多く、3が少ない。
つまり、多くは、「そんなつもりじゃなかった」「遊びのつもり」である。
それは、結構な迷惑である。

2は、強い方の支配か、互いの正義のぶつかり合いになる。
「お前が悪い。自分は悪くない。」という典型的ケンカのパターンである。
発展すると戦争のパターンである。

3はよくない。
いじめを楽しんでいる状態である。
悪いことだと自覚した上でやっており、ここはきちんと戒める必要がある。

人間関係全般に当てはまる3パターンである。
1が多いというのが、気を付けるポイントである。
いつでも、実は相手が迷惑に思っていないか、振り返る必要がある。
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