2015年10月29日木曜日

アクティブ・ラーニング⊃能動&協同

アクティブ・ラーニング考察シリーズ。
具体に入る前に、言葉の指す範囲を少し整理する。

アクティブ・ラーニングの指す範囲は広い。
「アクティブ・ラーニング」≠「能動態」であることは前にも述べた。
「アクティブ・ラーニング」⊃「能動態」と考えてみる。

数学の集合論で言うと、能動態は、アクティブ・ラーニングの必要条件ではあるが、十分条件ではない。
必要条件がたくさんあるのである。

もう一つの大きな必要条件は「協同」である。
「アクティブ・ラーニング」⊃「協同」である。
前号で示した、例示にある
「グループ・ディスカッション」
「ディベート」
「グループ・ワーク」の手法は、全て協同的な学習である。
他人との関わりが必要条件の一つということである。

こういう視点で見てみると、自分の授業がどうであるかの指標の一つになる。
能動態であるかは判断しにくい面があるが、協同的な関わりがあるかは割と見やすい。

あくまで指標の一つに過ぎないが、はじく上では割と判断しやすい材料である。

2015年10月27日火曜日

アクティブ・ラーニングの定義と解釈

アクティブ・ラーニングの定義は、以下のものである。
文部科学省H.P.『新たな未来を築くための大学教育の質的転換に向けて~生涯学び続け、主体的に考える力を育成する大学へ~(答申)』の『用語集』より引用。
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo0/toushin/1325047.htm

===============
(引用開始)
【アクティブ・ラーニング】(p3、4、9)
教員による一方向的な講義形式の教育とは異なり、学修者の能動的な学修への参加を取り入れた教授・学習法の総称。
学修者が能動的に学修することによって、認知的、倫理的、社会的能力、教養、知識、経験を含めた汎用的能力の育成を図る。
発見学習、問題解決学習、体験学習、調査学習等が含まれるが、教室内でのグループ・ディスカッション、ディベート、グループ・ワーク等も有効なアクティブ・ラーニングの方法である。
(引用終了)
===============

定義はされている。
解釈の方が割れている訳である。

最初の「一方向的な講義形式」という言葉一つとっても、解釈次第である。
ある特定の子どもと活発にやりとりがある場合ならいいのか。
子ども同士が関わっていればよいのか。
子どもがじっくり話を聞いて、興味が湧いて調べるようになったら、それでも一方向的なのか。
・・・
解釈次第で、やることが変わる。

要は、今までのやり方を変えてくださいよということである。
2文目の「汎用的能力の育成」が目的である。
簡単に言うと、大人になって社会で使える力をつけて欲しい、そのために授業の在り方を変えて欲しいということである。

知識があるだけではダメで、それを使えるようにして欲しい。
でも、知識は大切だから、ないがしろにしないように。
そんな感じである。

汎用的能力の育成のために、例示が3文目に示されているが、どれもあくまで「手法」に過ぎず、そのものではない。
イメージはあるが、具体が見えないという感じである。

次号、アクティブ・ラーニングの具体について考えていく。

2015年10月25日日曜日

アクティブ・ラーニング≠指導の放棄

アクティブ・ラーニング考察。
アクティブ・ラーニングに対しては、解釈が広い。
解釈が広いと、誤解も生む可能性も高い。
誤解の一つは、教師の指導性についてである。

子どもが自ら動くことを重視するために、教師主導を極端に否定してしまう。
否定するというよりも、それを盾に指導の放棄をしてしまう可能性がある。

指導しないでもやる気を勝手に出してくれるなら、放っておけばよい。
しかし、そんなうまくいくはずがない。

誤解しがちな例を挙げる。

どの教科でもいいのだが、学習課題を設定して、
「この問題について、今日はみんなで協力して考えてみましょう。」
これだけでうまくいく実践がある。
映像だったり、公開研究会だったりで見られることがある。
普通に考えれば、それをそのまま自教室では実践しない。
それ以前のベースになる指導がきちんとなされていることを知っているからである。

しかし、経験がないと、このあたりを誤解する。
「こういう風に子どもに任せると、うまくいくのか。」と考える。
そして自分のクラスでその部分だけをそのまま実践すれば、当然滅茶苦茶である。
「同じやり方をしたのに、なぜうちのクラスはうまくいかないのか」と悩む。
違う体型の人に同じサイズの服を着せるようなもので、無理である。
体型に合ったサイズの服だから、似合うし無理がない。

たた悩んだ後に、自分の日常の指導が悪いことに気付けば改善できる。
しかし「子どもに問題があるからだ」と考えると、永遠に泥沼である。

指導なしでやらせたら、単なる放任である。
話し合って解決できるクラスは、解決の仕方を指導されている。
仲間同士の関係づくりについても、日々指導されている。

教師の指導があった上での「アクティブ・ラーニング」があることを忘れないようにしたい。

2015年10月23日金曜日

アクティブ・ラーニングとやる気スイッチ

アクティブ・ラーニング。
教育界の流行語のようになっているが、解釈の幅がかなり広い。
文科省の定義自体はあるが、そこから具体へ落とし込む際の解釈が幅広い。
どの解釈にも共通しているのが「能動的」であるということ。
「アクティブ」の意味が「能動態」であるため、当たり前ではある。
(ちなみにアクティブの対義語はパッシブ。受動態である。)

これは飯村先生との共著のタイトル『やる気スイッチ押してみよう!』というのと大いに関係があると思っている。
http://www.meijitosho.co.jp/detail/4-18-164614-1

要は、やる気スイッチオンの状態が、自ら学ぼうという状態である。
世のアクティブ・ラーニングの解釈が揺れているので定義できないが、近い状態であることは間違いない。

ちなみに、何度も言っているが「私のやる気スイッチ押してください」と言われても、押せない。
「担任している子どものやる気スイッチを押してください」と言われても、やっぱり押せない。
やる気スイッチは自分で持っていて、かつ各々、自分自身にしか押せないというのが持論である。
自分でスイッチを入れている状態にする必要がある。
セミナーに行くのも本を読むのも、自分のスイッチを入れるという点で大きな意味があると思っている。

ただ、他者である子どもが、やる気スイッチを自分で入れるきっかけを作るまでの大まかな手順は示せる。
そのための手段が、各章のタイトルにある
1「主体変容・率先垂範」
2「事前指導」
3「輝く教材」
4「イイ関係」
の4つである。

教師が学びを主体的に楽しめば、それは子どもにもうつる。
事前指導をしっかりすることで、子どもはゴールに向かって主体的に動ける。
輝く教材を用いることで、学びたい意欲を引き出せる。
イイ関係を作ることで、協同的な学びができる。

ただし、どれも最後に「かもしれない」というのがつく。
アクティブ・ラーニングではパッシブ・ラーニングと違い、与えられるものではなく、主体的に選び取るものだからである。
逆説的に言うと、いいと思えるものを提示しても、選ばない可能性があるということでもある。
子どものスイッチの入り方はそれぞれ違う。
だからこそ、多くの手段を身に付ける必要がある。
その大まかな方向性として、先に示したやる気スイッチの4つの手段は、有用であるように思う。

2015年10月21日水曜日

「プレミアム授業」?

名称とイメージについて。

最近、「〇〇プレミアム」や「プレミアム〇〇」が世に氾濫している。
電車の吊革広告を見れば、それがよくわかる。
そのせいでプレミアムでなくなっている感もある。
しかし「プレミアム」とつくと、何か高級感というかお得感が出るのは確かである。

ちなみに、「プレミアム」とはどういうことか。
「プレミアムについて説明してください」と言われたら、どう答えるか。
多分「高級」とか「お得」とか「レア」とか「セレブ」とか「えぐぜくてぃぶ」とかそういうイメージではないだろうか。

「プレミアム」を辞書で引いてみる。
色々書いてあるが、要は「割増」のことである。
つまり、標準のものに特典を付けたものである。
おまけ付きである。

しかし、おまけ付きのものなら即「プレミアム」という訳ではない。
例えば、子どものお菓子でおもちゃやシールのおまけ付きのものが多いが、あれは標準仕様がおまけ付きである。
(おもちゃにお菓子がおまけで付いている感も否めない。)
よって、そういうものは「プレミアム」ではない。

どんな場合だと「プレミアム」なのか。
例えば、ある会社の「白桃ジュース」という商品があったとする。
その商品が普通「果汁10%」なのに、「果汁20%」のものを特別に作ったとする。
これは通常のものに割増しているので、同商品と比較して「プレミアム白桃ジュース」として堂々と売れる。

「プレミアム商品券」という名称を付けるからには、特典を付ける必要がある。
普通1万円で買えるのは1万円分の商品券だが、そこに2000円プラスしますというなら、プレミアムである。

そんな感じである。

そこで「プレミアム授業」を考えてみる。
普段の授業に、付加価値をつける。
要は、普段より一工夫した授業である。
その意味で、研究授業などは「プレミアム授業」といえる。

理想は、毎日をプレミアム授業にしていくことである。
いつもの授業に、楽しくなる一工夫。
学んだことを利用して、明日の授業に一工夫をしたい。

2015年10月19日月曜日

その授業に価値はあるのか

ここ最近、授業の略案や指導案を見る機会が何度もある。
校内研究に加え、実習生が来る時期が重なっているためである。

授業を見た後、大抵指導するのが、その授業の目標についてである。
要は、何がしたかったのか。
どうなれば成功なのか。
それこそが、指導案に記述されている目標そのものである。
ただの飾りの文言ではなく、子どもの姿そのものである。
そして、そこに辿り着くために、途中に様々な手立てを入れて、一時間の授業が組み立てられる。
逆に言うと、手立てもなくいきなりやらせても子どもの自力(地力)でできる目標であれば、授業の価値はない。

つまり、その授業をしたことで、子どもにどんな学力が付いたのか。
師の野口芳宏先生の言葉で言えば、どんな「向上的変容」が見られたのか。
逆説的にたずねるなら、その授業をもし受けなかったら、子どもの未来にどんな不利益が生ずるのか。

もしこれらの問いに明確に答えられないのであれば、授業した意味がないかもしれない。
授業を受けることで、プラスの変化が生じているはずである。

ふと、自分の授業を振り返る。
いつの間にか、前に立てば子どもが授業を聞いてくれる立場になった。
しかし、それは本当に向上的変容の連続的保障をしている授業か。
惰性になっていないか。
教科書に載っているから、年間計画にあるからやっているだけではないか。

改めて、自分に問い直してみる機会になっている。

2015年10月17日土曜日

体育指導 原因を見抜き、対策を数多打つ

今回は、現在専門に研究をしている体育の指導について。

体育では、技能の上達が大切である。
思考させたり意欲を持たせたりも大切だが、どんな場合でも技能は上達させたい。
算数で、自力で問題を解けるようにさせたいのと同じである。
(ちなみに、算数と体育はかなり似ている。上達や獲得までのステップの踏み方もほぼ同じである。)

跳び箱運動を例に考える。
跳び箱が跳べない子どもに対し、「がんばって跳びなさい」というのは誰でもいえる。
教師の仕事のレベルではない。

例えば、踏切が跳べない原因と考えたとする。
そこで、「踏切をしっかりしよう」と声をかける。
これも直接的すぎる。
踏切という局面に絞ったのはいいが、何をどうしっかりすればいいかわからない。

「『バン!』と音が鳴るように踏み切ろう。」
これは少しいい。
音という具体的な目安がつく。
しかし、これでもうまくいかない場合がほとんどである。

そこで、間接的に様々な手立てを講じる。
導入から色々やらせる。
ケンケンパーからケンケングーをさせて、両足踏切の感覚をつかませる。
足じゃんけんをする。
カンガルージャンプをする。
その場で足踏み&ジャンプをする。
踏切板に印をつける。
もっと前の助走段階で「ケンステップ」のような平べったい輪を置く。
どうしても踏切のタイミングがつかめない場合、手をつないで一緒に走ることもある。
・・・・

要は、一つの動きの改善に対し、いくつもの手立てを打てること。
これは、経験によるものも大きいが、
「なぜそれができないのか」&「どうすればできるのか」
という原因に目を向けると、色々思い付く。

気になる子への指導にも通ずる、基本的な考え方の一つである。

2015年10月15日木曜日

気になる子を伸ばす指導

タイトルは、赤坂真二先生編著の「学級を最高のチームにする極意」シリーズの最新刊名。

『気になる子を伸ばす指導』
http://www.meijitosho.co.jp/detail/4-18-185611-3

第一章の赤坂真二先生の項を見るだけでも勉強になる。
しかし、他の執筆陣も自らの体験を通して書いてあり、説得力がある。
クラスの「気になる子」を、どう捉えてどう指導したか。
クラスに「どうにも手に負えない」と思う子どもがいる場合は、特に一見の価値ありである。

私の書いた原稿のタイトルは
『「気になる子」こそ「神様」』。

気になる子どもは、ずばりクラス改革のキーマンである。
そして同時に
「2:6:2の中間層を落とさない」
ということにも触れている。

他の先生方の事例もかなり勉強になる。
タイトルだけ羅列する。

1章 ”気になる子”は学級が荒れる原因ではない
1ある教室の風景
2気になる子と学級の荒れ
3気になる子とは
4気になる子が特徴的な行動を繰り返すわけ(以上、赤坂先生原稿)

2章 気になる子を伸ばす指導 成功する教師の考え方とワザ
1まずはその子を好きになる
2「気になる子」が「気になる部分」とうまく付き合えるように
3「気になる子」ばかりを気にするな
4忘れがちなのは、まずは教師が心にゆとりを持つこと
5「気になる子」を支えるチームの力
6「気になる子」こそ「神様」(拙稿)
7あべこべ指導で学級を立て直す!
8教室の「気になる子」から学んだ指導の極意

書店で一度手にとっていただけたら幸いである。

2015年10月13日火曜日

人の時間を盗まない

今、教室前方にそんな言葉を書いた紙を掲示している。
経緯は、教室移動の際や、帰りの支度の際に、早く終わってずっと待っている人に対し、遊んでいる人がいることからである。
大切なことである。
正論だと思う。

しかし、見る度にどきっとする。
自分ができているか。
授業でも、ついしゃべりすぎて、子どもの時間を奪ってないか。
毎回聞く価値のある話ができていれば別だが、そこもかなり心許ない。

普段から子どもに言い聞かせている様々な言葉。
改めて見ると、どれも自分自身に言っているようにしか思えない。

教育実習生への指導も同様。
人に教えるということは、自分自身を省みる行為だと思い知る日々である。
立派な言葉ほど、使う時は注意したい。

2015年10月11日日曜日

教育実習生の授業のベースは、十年前の自分の授業

今年、教育実習生の授業を観る機会がたくさんある。
「どうしてこうやるの?」と聞く。
すると、「自分が小学生の時、このやり方で授業を受けてきました」という。

ある程度ストレートに大学に来たとして、今の20~22歳の学生が小学校で受けた教育は10年前。
私も当時教えた子どもたちである。

つまり、小学校教育そのものが、直接教員養成系大学の学生のお手本となっている。
講義でたくさん学んでいるかもしれないが、ベースは自分の受けた授業。
どの地方のどの小学校であっても、未来の教師を育てているといえる。

そう考えると、責任重大である。
「十年一日」とはよくいったもので、十年前と今で教え方が全く同じ場合、これは危ないかもしれない。
不易と流行という面で、不易の面を疎かにしないのは大切だが、単に工夫がないのはまずい。

今目の前にいる子どもへの教育は、十年後の子どもの教育にも何らかの影響を与える。
「研究と修養に励む」という不断の努力が教師に求められるのも、納得である。

2015年10月9日金曜日

一切皆苦

9月9日の939号にちなんで(メルマガ発行日&号数)「苦」に関する話。

「一切皆苦」という言葉が仏教にある。
苦とは、自分の思い通りにいかないことを指すという。
一切のことは、皆思い通りにいかないものである、と訳せる。
自分の肉体や精神の状態ですら、思い通りにいかない。
まして、他人については、言わずもがなである。

教育には、人を変える力がある。
しかし、変える力があるということと、変えられるということは別問題。

教育が「苦」になるのは、目の前の子どもが変わらない時である。
しかし、相手には相手の都合がある。
変わる時には変わる。
変わらない時には変わらない。

こちらには、変わる時のための種を蒔いておくことしかできない。
種は、蒔いてもいつ芽が出るかわからない。
芽が出ないからといって心配になって掘り返すと、ろくな結果にならない。

良い作物を育てるには、土作りから。
大根は、細いのやら太いのやら、色んな形があっていい。
今は亡き初任者指導の先生に教えられたことを思い出した次第である。

2015年10月7日水曜日

「ほめる」にもレベルがある

「ほめ言葉のシャワー」で有名な、菊池省三先生の講座を初めて受けた。
地元の若い先生たちが力を集めて実現した会で、大盛況だった。
他県での菊池先生の講座に仲間で出向き、直接お願いして来てもらったという。
素晴らしいことである。
お陰様で、その努力の成果のおこぼれにあずかれた。

以下、講座の内容ではなく、受けた自分の主観である。

実際の「ほめ言葉のシャワー」の映像を見て、色々納得がいった。
ただやたらとほめている訳ではない。
相手の具体的なエピソードを交えて、なぜそれがいいのかという訳も含めて詳細に説明して伝えていた。
それを、クラスの子どもたちが次々に行う。
言語力も相当鍛えてある。

この映像を見て「ほめる」にもレベルがあるということを考えた。

見たままや印象をほめる。
これは、初めて会う人にもできる。
誰にでもできて、簡単なレベルである。

やったことをほめる。
これは、観察していればできる。
少し知る必要がある。

普段の在り方についてほめる。
人格的な面などのすばらしい点についてほめる。
長い時間接していると見える。

理由を付けてほめる。
なぜそれがいいのかを具体的な言葉にしてほめる。
感情的な面だけでなく、論理的にほめる。
言語力が必要で、語彙が多いほど内容豊かに伝えられる。

自分の考えや感情を付けてほめる。
相手の具体的なエピソードに対し、自分の考えや感情を交えて伝える。
相手のお世話になったりいい面を見たりして、感情が動く必要がある。

まだまだ色々あると思うが、「ほめ言葉のシャワー」は、かなりレベルの高い実践だった。
字面だけ見ると、やたらめったらほめているだけのようだが、全く違う。

自分は、あのやり方そのままではなくとも、仲間にああいったほめ方ができる子どもを育てたいと思った。

学級経営にもうひと味加えたいと思っていた自分にとって、刺激になった一日だった。
講座を開催してくれた若い仲間たちにも感謝したい。

2015年10月5日月曜日

実習生に教え、教わる

教育実習生が来ていた。

教育実習があると、自分の指導担当の先生に教わった言葉を思い出す。
「その子どもと何でつながるか」

ずっと以前のメルマガに、次のような記事を書いた。(以下、引用)
=======================
教室には様々な子どもがいる。
活発で明るい子どもは、普通にしていれば会話できる。
学習が遅れがちだったり、やんちゃな子どもは、何かと1対1で会話する機会ができる。

注意すべきは、特にこれといった問題もなく、目立たないきちんとした子ども。
何かしら、つながるための「チャンネル」が欲しい。
日記は、有効な手段の一つになり得ることが多い。
一緒に遊ぶのも、つながりを深めるよいチャンネルである。
音楽指導が得意な人は、歌でもいい。
絵をかくことでつながってもいい。
将棋やオセロでつながれる子どももいる。
好きな本のことでつながれる子どももいる。
漫画だって、歌手だっていい。

全ての子どもと、何かしらのチャンネルでつながっていることが大切である。

子ども一人一人を見るということは、言うは易く行うは難し。
相当意識しないと、自然にはできないものであると心得たい。
===========================
(引用終了)
子どもを観る多様な目を意識して持つ。
実習生に教えながら、自分ができていないことにも気付く。
教えつつ、自身でもう一度学び直したい。

2015年10月3日土曜日

夏休みの宿題代行業隆盛に思う

メルマガからの記事なので時期がずれるが、夏休みの宿題の話題。

以下の記事を読んだラジオ局の方から、今年の夏休みにラジオの取材を受けて回答した。
http://president.jp/articles/-/15853

夏休みの宿題代行業があるという。
学校からすれば、恐るべきことである。
もはや、何のために夏休みの宿題が存在するかという存在意義自体が問われている事態である。

業者の側の視点からすれば、儲かるからやっているだけである。
何なら、苦しんでいる親子を救っている存在ともいえる。

利用する親の側からすれば、助かる存在である。
どうにもこうにも手の付けようがない我が子の宿題を「処理」してくれる。

学校の側からすれば、全くもって心外である。
夏休みの宿題の大切なねらいの一つである「望ましい生活習慣の形成」など、見る影もない。

まあ、どの立場の人がどう受け止めてもいいのだが、上記三者の例では、大切な人の視点が抜けている。

子どもである。
子どもが、夏休みの宿題によって、何を学ぶかである。

夏休みの宿題を、8月31日の夜に親に手伝ってもらいながら必死に終わらせた経験がある方もいると思う。
まあ、宿題のねらいからするとかなり外れるが、この場合とて色々なことを学ぶ。
計画的に物事を進めておくことの大切さ。
先延ばし癖の害悪。
親への申し訳なさと感謝。
自己批正。
夏休みの宿題への遺恨も残すかもしれないが、色々学習する要素がある。

これを、代行業差に親が委託したとする。
何を学ぶのか。
正直に話すより、ずるしてでも誤魔化すこと。
お金さえ払えば大丈夫。
いざとなったら親が全て何とかしてくれる。
そんなことを学んだ子どもの未来は、不幸である。

もしかしたら、受験があるなどの理由から、どうしてもやりきれなかった面があるかもしれないとも思う。
それは、学校の側も配慮が必要なのかもしれない。
ただ、学校としては「こういう事情で、申し訳ないですが、どうしてもやれませんでした。」
と説明してくれれば、事情を慮ることができ、それ以上追求はしない。

また、そんなに親子を苦しめるような宿題の出し方自体にも問題があるかもしれない。
ここは場合によっては、宿題を出す側が大いに反省すべき点もある。
とにかく、それが本当に子どものための宿題になっているのかというのが大切な視点である。

学校は、子どもを成長させ、良くしていくための機関である。
宿題は、その機能の一つである。
そもそも論に立ち返り、宿題の意義について考える必要があるように思った。

2015年10月2日金曜日

日常の小さな出来事を大切にする

「人の心が荒れるのは、大きな出来事によるものではない。
日常の小さな出来事による。」

フランスの文学者、ラ・ロシュフコーの言葉。
この人の言葉には教育に関する名言が多いということで、鍵山秀三郎先生が紹介していた。

大きな出来事は感情を大きく動かすが、ただそれのみによって心が荒れる訳ではない。
日常の小さな出来事が心を荒らす。

全くその通りであると思う。
「神は細部に宿り給ふ」という言葉もある。

学級が荒れてしまうのは、大きな出来事があるからではない。
日常の、本当に小さな出来事の積み重ねである。
学級崩壊を立て直した先生の話を聞くと、大改革をした訳ではない。
授業の準備に一工夫した。
掃除をきちんとやった。
子どもの顔を見て話を聞くようにした。
子どもと遊んだ。
ありがとうと伝えた。
然るべき時に子どもを認めた、褒めた、叱った。
どれも、小さなことである。
小さな+を積み重ねているのか、小さな-を積み重ねているかの違いである。

要は、日常の小さなことを疎かにしないということ。
まずは一点突破。
仕事でも生活でも共通して役に立つ言葉ではないかと思う。
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