2023年3月25日土曜日

強制・矯正ベースから選択・個性ベースへ

 昨年実施したセミナーにおいて「各場面で強制、矯正をするか」という問いかけを行った。


例えば、給食の残菜が多すぎるという状況。

現在、無理矢理に食べさせることは、まずしない。

会場も満場一致で「そこは個人の選択」ということであった。


しかし恐らく、30年前に同じ問いかけをしたら、ほぼ満場一致で逆の結果になったのではないだろうか。


つまり、時代に応じて「最適解」は変わる。

一昔前の「正解」は今や「大間違い」ということはかなりある。


わかりやすい例で言えば、戦後間もない頃と、現在の食糧事情が同じはずがない。

そうなれば、食への指導のありようは全く違うものとなる。

(戦後間もない頃には、全てを底までさらっていくので、そもそも残菜自体が出ないから指導対象ですらない。)


時代は、強制・矯正ベースから、選択・個性ベースへとシフトしている。


一昔前は、学校教育の多くを占めるのが強制・矯正だった。

選択・個性に対応したものの存在割合は少なかったはずである。


現代はその比率が逆転している。

教育の中に、強制・矯正を求めるものはもちろんある。

しかし、選択・個性への対応の比率が多くを占める。


つまり、どちらも全くないという訳ではない。

どちらも存在するのだが、ベースとなるものが変わったというだけである。


選択・個性ベースの現代では、強制・矯正を発揮すべき場面は少ない。

そもそも学校では罰せられることもないため、求めに従うか否かも個々の選択である。


不親切教師のススメ』では、子ども自身の自己決定を重視している。

何でも他人や上に決めてもらった方が楽なのだが、それを是としない。

可能な限りの自己決定を求める。


一方で、教室で起きたことの一切の責任は教師にある。

子どもが自己決定をしたことであっても、そうである。

子どもに「自分で責任をもって」と指導することはあっても、実際に子どもの「自己責任」となることはない。

教室という空間における一切は、教師の責任監督下である。


だからこそ、子どもには自らの行動に責任をもつという意識を求める。

どうせ実際に何かあったら、こちらの責任なのである。

せめて意識ぐらいしてもらわねば、勝手にやりたい放題やって、その失敗の責めだけを負うことになる。


ここは、子どもとの取引である。

教師の側は、教室における一切の権限を握っているからこそ、その全責任も負うという前提がある。

この権限を一部、相手に譲渡することができるが、その結果責任だけはこちらに残る。


つまりそれは、子どもに対し信用ができる時に限られる。

単に気持ちの上でこちらが勝手に行う信頼ではない。

権限を委譲する以上、約束の不履行をしないという信用である。


誰しも、なるべくなら、強制をしたくないと思っている。

一方で、強制しないと自分あるいは集団に不都合が生じる状態であれば、強制・矯正せざるを得ない。

それは、幼児に自由に街中を出歩かせないことと同じである。

交通ルールを守れるという前提ができるまで、そこへの選択の自由は与えられない。


例えば、修学旅行では、自由行動の範囲も示されるし、お小遣いの範囲も示される。

極端な話、お小遣いをどんなにもってきてどれだけ使おうが、こちらの知ったことではない。

しかし、そこを完全に自由にして「買い物ツアー」になってしまっては、修学旅行の目的自体が達成されない。

だから、行動範囲も買い物についても制限を設ける。

枠組みの中で自由に動いてよいということになる。


一番楽なのは、自由行動一切なしの集団ツアーであるが、これはこれで修学旅行の目的が達せられない。

だからこそ、普段からなるべく権限を与えて自己決定を求めていく。

いきなり大量に与えられると、使い方を誤る。

徐々に選択のできる権限移譲をしていくイメージである。


強制・矯正は教育からなくならない。

一方で、選択・個性を認めていく割合を増やす意識でいることが肝要である。

2023年3月18日土曜日

楽しむことが支援になる

先週3月11日、久しぶりに「被災地に学ぶ会」へ参加した。

今号はその報告レポートを兼ねて、考えたことを記す。


いつも通り、南相馬のボランティアセンターが活動拠点である。

南相馬の地へ入って、様子が大分変わったという印象をもった。

何というか、震災数年目までの頃と違い、そこに確実に人が暮らしているという感じがある。

土地が整備され、コンビニや他の店も増え、確実に前進しているという感覚をもった。


昼食休憩の際、毎度お世話になっているお弁当屋さんにお話を伺った。

確かに町は以前よりもかなり復興し、生活インフラも整ってきた。

しかし問題はとにかく「若い人が帰ってこない」ということだそうである。


折れ線グラフでいうと、復興の度合はここ10年で確実に右上がりになっている。

しかしマイナスから0に近づいてくるにつれ、線の傾きが横ばいになってきている感じである。


あの年に生まれた子どもたちが、もう4月から中学生になる。

つまり、他県等へ避難した場合、もうそちらの土地に慣れ親しんで育ったということである。

当然、移り住んだ土地にお世話になったと感じるほど、その土地への愛着も湧いてくる。


「人が戻ってこない」という現実の厳しさを感じた。

そして「若い人がいない」というのは被災地に限らず、地方の多くの自治体が抱える共通の悩みでもある。


その地へ移り住む人が多ければそれに越したことはない。

しかし人が多く住まなくとも、人が多く訪れる地であれば、それも町を元気にする。

人口は少なくとも観光客が多い土地はある。

また、多くの人が訪れなくても産業やインターネットの活用等で生きていく手段もある。


少し視点を大きくすれば、県単位で見て潤うことも必要である。

ある市町村自治体の財源が少なくても、他の自治体が稼ぐなどして県自体が潤っていれば、その恩恵で再分配できる。

(ちなみに我が愛する千葉県は、日本一のテーマパークや成田空港等の存在で、全国各地、世界各地から人とお金が入って来る土地である。

有難いことである。)


福島県で泊まった民宿の方のお話が印象的だった。

「もう復興という言葉は終わりにしたい」という。

確かに、復興というのはマイナスから0へというイメージが強い。

こちらは「復興支援を続けること」が大切だと信じていた。

しかし、その土地に住んでいる人が、真逆の意見を実感として述べているのである。


例えば同じ「福島県」という括りの中でも、その場所ごと、まして人ごとの悩みは違う。

特に福島は津波に直接被害を受けた土地、原発関係で避難勧告が出た土地の影響はクローズアップされやすい。

一方で、津波の影響は全くない場だが誹謗中傷やデマによる大きな被害を受けた土地や人もある。

その影響の大きさも、業種や人によってそれぞれである。

各支援金がどの土地にどう分配されるかという切実な問題もある。


民宿のご主人曰く

「とにかく遊びに来て思い切り楽しんで欲しい」

とのことである。


また「福島の野菜は世界一安全」という話も聞かせていただいた。

福島からは、他にはない放射線物質測定の厳しい検査基準を越えたものしか流通しないシステムがあるからである。

その自慢の料理は、どれも間違いなく美味しいものであった。


(参考:ふくしま復興情報ポータルサイト 農産物等の放射性物質モニタリングQ&A)

https://www.pref.fukushima.lg.jp/site/portal/nousan-qa.html  


復興支援には、何か特別なことが必要だと思い込んでいた。

しかし、ただ楽しむために遊びに行くことは、その土地にとってものすごく重要である。

そもそも東北地方というのは、もともとが観光名所として名高い土地だらけである。

行けばレジャーに事欠くことはない。

その土地を楽しむことで活気づけ、喜んでお金を使うことが大切である。


今回の福島訪問で、一つ意識が変わった。

我々にできる最大の支援は、その土地へ行って思い切り楽しむことなのかもしれない。

それならば、多くの人が取り組みやすく、続けられる。

それはもはや「支援している」と言わなくていいのかもしれない。

楽しませてもらっている相手に対し、その立場は平等だからである。


そしてそれは、他の地でも同様である。

例えば熊本という土地は素晴らしい。

そこには阿蘇山をはじめとする雄大な自然と豊かな文化がある。

もう十分に観光地としての力は取り戻しているのだから、後は遊びに行くことでも力になれる。

完成が遅れるという話になっている熊本城再建にも、少しは自然と貢献できるのかもしれない。


これは被災した土地に限らない解決策かもしれない。

多くの人が、楽しみにお金を使う。

そのお金が多くの人に巡り巡って、豊かにする。


教育も同じである。

悲壮感や切迫感から行うものは、続かないしあまり身に付かない。

楽しく前向きに取り組むからこそ、よりよいものが手に入る。


節制そのものは大切だが、「悲観」や「自粛」の姿勢よりも、前向きな選択肢をとる必要があるのかもしれない。

2023年3月11日土曜日

被災地復興支援は忘れないことが大切

 東日本大震災から今日でちょうど12年である。

各地でメモリアルイベントが催される。


福島県H.P.より

https://fukushima-memorial2023.com/


東日本大震災風化防止イベント~さらなる復興に向けて2023~(汐留シオサイト)

https://fukkou-forum.jp/


けせんぬま伝承・防災文化祭2023『未来へつなぐ私たちのメッセージ』

https://www.kesennuma-memorial.jp/event/detail.php?id=120


私も車で福島へ向かい、ボランティア活動の最中である。

まだまだ、まだまだ、ボランティアの手は足りていないというのが現実である。

現地のボランティアセンターに行けば、やるべきことは山積している。

こういったことを伝えていくのも、教育記事配信者としての一つの役割であると自覚している。


今回も所属団体は「被災地に学ぶ会」である。

被災地に行けば、自分自身が学ぶことになる。

現地で役に立てるかどうかが自分の課題である。

作業は竹林伐採かもしれないし、草刈り機での作業かもしれないし、排水溝の掃除かもしれない。

とにかく、基本は人が戻って住めるようにしていくことを目指す。

復興は、その土地に住む人たちがいないと始まらないからである。


ここは大切な視点である。

自力で生活できるインフラを整えるまでを継続的に支援する、ということである。

復興支援の目指すゴールは、支援のいらない状態である。

そう考えると、まだまだ継続的な支援が必要ということになる。


ちなみに、一人一人の住民に対して、国はどう助けてくれるのか。

国からの直接援助は、即命に関わるような「緊急」状態でないとなかなか難しい。

元の場所へ戻るための個人宅への整備人員費用は出せない。

そうなると、ボランティアの手を使うしかないというのが現状である。


そして何より大切なのは、決して風化させないことである。

継続的な支援というのを考える上で、これは超重要事項である。

だからこそ、このようなイベントが意味をもつ。

みんな自分自身のことが忙しすぎる日常だからこそ、決して忘れさせないための仕掛けが必要である。


全員が今日被災地に行く必要など全くない。

行ける機会があってたまたまその場に行ける時間のある人が行けばいい。

現場としては、全然関係ない日にボランティアに行ったり、資金援助をしたりすれば、すごく助かるはずである。

学校教員のような立場ならば、子どもに話すこと自体が大切な役割であり、未来への貢献になる。


とにかく風化させないこと。

一人の力は非常に小さいが、それが集まると、とてつもない大きな力になる。

一人がずっと年間通してやることは非常に尊いが、これはかなり壁が高い。

それよりも、日本中の人が時々、ふと思い出したようにでも、少しでもやれればいい。

それがもし日本に何千万人いたら、また世界を巻き込んで何億人いたら、とてつもないことになる。


これからも小さな小さな一燈として、たとえ断続的にでも、活動に参加していきたい。

2023年3月4日土曜日

欠点の矯正をしてあげる教育は親切と言えるか

 自分自身に「欠点」があると考えているだろうか。


恐らく「ありません」という人はごく少数派である。

大抵の人は、自分に何かが欠けている、あるいはだめだと思っている点がある。


学校に通う意味とは、自分が変わるためでもある。

全て今のまま、そのままでいいのなら、学校に来る必要はないからである。

友だちに会うためだという意見もあるが、自分の人間関係を変えるためといえる。


学校には、枠組みがある。

どんなに言い方を変えても、規定された「正解」が厳然としてある。

教育基本法に書いてあることを基に、学習指導要領に定められている。


例えば算数ができるようになることも運動ができるようになることも「正解」である。

例外と思われる道徳ですら求める姿があり、「正解」がある。

例えば暴力や他人を不幸に陥れる身勝手な振舞は「不正解」である。


そうなると教師には、枠組みから外れた「不正解」については、「正解」に近づける義務がある。

立場上「勉強なんてできなくていい」とは言えない。

たとえ自分自身が「運動をしなくても生きていける」と思っていても、放っておくのは単なる職務怠慢である。

即ち、子どもに対して矯正をすることになる。


ただし

「漢字を身に付けさせる」という目的のために矯正の手立てを打つことと、

「漢字が書けないと将来困る」と脅して強制させる、

という話は別である。


こと学習全般においては、矯正すべきだから強制をしていい、ということにはならない。

強制しないで「やろう」と思えるように導くことが、教師の職能として求められる。


一方で強制してでも矯正すべきこともある。

危険なことへの「緊急停止」の場合である。

学校の転落防止の柵によじ登って遊んでいる子どもがいたら、何はともあれ制する必要がある。

このことについては、以前紹介した『〈叱る依存〉がとまらない』(村中直人著)でも書かれている。


つまり、強制自体が悪ではない。

何かをより良い方向へ正そうという矯正自体が善でもない。

それを使う文脈が全てである。


「欠点を矯正するために強制する」という状況を考えると、これも文脈次第である。


例えば、薬物依存症で苦しんでいる人を矯正するためには、強制的に薬物から遠ざける必要があるというのは一般的認識である。

一方で、実はいきなり強制的に遠ざけるよりも、使用量を少しずつ減らす、その失敗に対し社会が受け容れるという体制も必要だという。

(参考文献 『薬物依存者とその家族 回復への実践録 ─ 生まれ変わり、人生を取り戻す』岩井喜代仁 どう出版)


学校では、どのような場で強制を発揮して矯正し、どのような場で矯正を諦めてそのまま受け容れるといいのか。

学校の在り方としての課題である。

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