オリンピックが、何かと「炎上」した。
選手たちの汗と涙の努力の結晶が燃え尽き蒸発して吹き飛ぶほどである。
パラリンピックでもちらほらは見えるが、オリンピックに比べてメディアもやや遠慮気味のようである。
そんな中、選手を本当に思って責任を感じる監督の言動などは、一際目を引く。
「すべては私の責任です」と、監督と選手の両方が互いに思っているチームは強い。
人のせいにしたくなる。
人を批判したくなる。
人を攻撃したくなる。
この心理はどこから来るのか。
先の素晴らしい監督と選手の逆で、「責任を取りたくない」である。
主体性の欠如であり、自信のなさからである。
自分ではない他者の言動を価値基準に置くからこそ生まれる。
これは、日本の教育だけの問題ではないようである。
世界各国で炎上事件や誹謗中傷が吹き荒れているのを見ると、世界的な傾向である。
SNSで世界がつながったことによる弊害ともいえる。
世界にどうこうは直接アクセスできないので、まず自国の教育からと考える。
小学校時代に既にこの他責傾向は始まっている。
「だって、〇○ちゃんがこう言った(やった)から」
「みんながやってるから」
「先生が○○って言ってたから(ダメなんだよ~)」
「先生に言うよ?」
「先生、○○してもいいですか?××はダメですか?」
・・・・
教室の、ありふれた日常の風景である。
ここにこそ病理の根本がある。
何を基準に行動を決めているのか。
他者基準は、全て他責と批判ににつながる。
自分で自分の行動を決めるのである。
指導者は、そのように導くのが仕事である。
例えば
「どうしたらいいの?」
ときかれた(判断を放り投げられた)とする。
実はこの切り返しは、それほど難しくはない。
「どうすればいいと思う?」と返す。
それだけである。
大抵の言い訳には「〇〇ならいいの?」とオウム返しに近い形で切り返せば、発言が本人のものになる。
「だって、〇○ちゃんがこう言った(やった)から」
→「〇○ちゃんがこう言った(やった)からいいの?」
「みんながやってるから」
→「みんながやってるからいいの?」
「先生が○○って言ってたから(ダメなんだよ~)」
→「先生が言ってたらいいの?(ダメなの?)」
(大抵、実際は言ってない。)
「先生に言うよ?」
→「先生に言ったらいいの?」
もう全部それだけである。
要するに、自分の判断を捨て、人に判断はおろか結果までもなすりつけているのだから、全て本人に返せばよい。
これを日常化することである。
誹謗中傷も無責任な批判も攻撃も、全ての根幹は他責の習慣である。
世界に対する自分の無力感がそうさせる。
子どもの頃からこれは植え付けられる。
子どもが幼い頃から、いかに無力であるかを大人が刷り込んでいる結果かもしれない。
世界各国共通の現象のようである。
子どもに返すこと。
それによって子どもに自信がつくようにすること。
「クラス会議」のような実践や自治的学級づくりに力があるのはそういったところからである。
子ども集団のことを子どもたち自身、自分たちで決める。
その経験こそが生きる力になるのである。
責任をもつと、人に優しくなる。
人が優しくなれば、世界が変わる。
教育に携わる仕事の責任の重さを感じて事に当たりたい。