2021年8月30日月曜日

人のせいにしない子どもを育てる

オリンピックが、何かと「炎上」した。

選手たちの汗と涙の努力の結晶が燃え尽き蒸発して吹き飛ぶほどである。

パラリンピックでもちらほらは見えるが、オリンピックに比べてメディアもやや遠慮気味のようである。


そんな中、選手を本当に思って責任を感じる監督の言動などは、一際目を引く。

「すべては私の責任です」と、監督と選手の両方が互いに思っているチームは強い。


人のせいにしたくなる。

人を批判したくなる。

人を攻撃したくなる。


この心理はどこから来るのか。


先の素晴らしい監督と選手の逆で、「責任を取りたくない」である。

主体性の欠如であり、自信のなさからである。

自分ではない他者の言動を価値基準に置くからこそ生まれる。


これは、日本の教育だけの問題ではないようである。

世界各国で炎上事件や誹謗中傷が吹き荒れているのを見ると、世界的な傾向である。

SNSで世界がつながったことによる弊害ともいえる。


世界にどうこうは直接アクセスできないので、まず自国の教育からと考える。


小学校時代に既にこの他責傾向は始まっている。


「だって、〇○ちゃんがこう言った(やった)から」

「みんながやってるから」

「先生が○○って言ってたから(ダメなんだよ~)」

「先生に言うよ?」

「先生、○○してもいいですか?××はダメですか?」

・・・・


教室の、ありふれた日常の風景である。

ここにこそ病理の根本がある。


何を基準に行動を決めているのか。

他者基準は、全て他責と批判ににつながる。


自分で自分の行動を決めるのである。

指導者は、そのように導くのが仕事である。


例えば

「どうしたらいいの?」

ときかれた(判断を放り投げられた)とする。


実はこの切り返しは、それほど難しくはない。


「どうすればいいと思う?」と返す。


それだけである。


大抵の言い訳には「〇〇ならいいの?」とオウム返しに近い形で切り返せば、発言が本人のものになる。


「だって、〇○ちゃんがこう言った(やった)から」

→「〇○ちゃんがこう言った(やった)からいいの?」


「みんながやってるから」

→「みんながやってるからいいの?」


「先生が○○って言ってたから(ダメなんだよ~)」

→「先生が言ってたらいいの?(ダメなの?)」

 (大抵、実際は言ってない。)


「先生に言うよ?」

→「先生に言ったらいいの?」


もう全部それだけである。


要するに、自分の判断を捨て、人に判断はおろか結果までもなすりつけているのだから、全て本人に返せばよい。

これを日常化することである。


誹謗中傷も無責任な批判も攻撃も、全ての根幹は他責の習慣である。

世界に対する自分の無力感がそうさせる。


子どもの頃からこれは植え付けられる。

子どもが幼い頃から、いかに無力であるかを大人が刷り込んでいる結果かもしれない。

世界各国共通の現象のようである。


子どもに返すこと。

それによって子どもに自信がつくようにすること。


「クラス会議」のような実践や自治的学級づくりに力があるのはそういったところからである。

子ども集団のことを子どもたち自身、自分たちで決める。

その経験こそが生きる力になるのである。


責任をもつと、人に優しくなる。

人が優しくなれば、世界が変わる。


教育に携わる仕事の責任の重さを感じて事に当たりたい。

2021年8月28日土曜日

自由と承認をつなぐ対話

 次の本から。


『NHK出版 学びのきほん しあわせの哲学』西研 著


まあとにかく読みやすい本である。

ソクラテスからニーチェまで、難解な哲学をごくわかりやすく解きほぐしてくれている。


通読して感じたこととして、幸せのカギは、やはり対話である。

人とのつながりがあってこその幸せである。


この本の中で、次の記述がある。


「本当はこうしたいが、まわりが認めてくれないだろう」


「自由」と「承認」についてである。

この二つはしばしば矛盾するという。


ここのつなげ方として、この本の中では次の3つを提案している。


1 存在の承認

  ↓ 

2 自由な活動

  ↓

3 評価的承認


存在の承認が安全基地(見守られ、余計な手出しをされない)を作り出す。

そうすると、自由な活動を始める。

自由な活動をすることで、他者から評価をされ承認される。


自由と承認とは、このような関連構造であるという提案である。


さて、実際は、どこで躓くか。

例えば、今の学校教育に問題があると感じているとする。

それを解決したいと願う。

そういう場面においてである。


これは1 存在の承認 で躓く。

何かをしようとすると、手出し口出しをされるし、攻撃もされる。

「犬も歩けば棒に当たる」し、「出る杭は打たれる」である。

このような状況では、もはや自分自身の存在すら承認されていないと感じて、動けなくなる。

常に「空気を読む」という状態である。


2の「自由な活動」は1の「存在の承認」さえ通れば自然発生し、3の「評価的承認」を期待して活動できる。

3で意見がぶつかっても、1の存在の承認に戻れる関係ならば、また自由が成り立つ。


つまり、対話が必要となる。

対話することで、自分の話を聞いてもらい、相手の話を聞くことで、互いの存在が承認される。

対話から承認と自由は得られる。

現在の学校現場は、命令と義務が多すぎて、対話と自由の場が圧倒的に少ない。


学校に、対話の場が必要である。

子どもたちにも必要なのだが、その前提として教師自身に必要である。

極端な話、教師集団が幸せに自己実現できている場合、学校という場は確実に幸せな場となる。

なぜなら、その恩恵を最大に受けるのは、学校という場の主役である子どもたちだからである。


大人たちが本音で対話できないのはなぜなのか。

危険だからである。

本音を言うと批判され、叩かれるからである。

自然、空気を読むことばかりに長けていく。

それは子どもに伝染していく。


まず、教師から対話を始めたい。

私の勤務校では、普段からそのような動きをする職員も多い。

夏休みに自主的に対話の会を開く同僚もいる。

素晴らしいことである。


今、学校現場に必要なのは、対話である。

子どもと離れる今の時期だからこそ、何が大切なのかを改めて見つめ直していきたい。

2021年8月26日木曜日

体育の教科担任制とシェアの時代

 来年度から小学校5年と6年の教科担任制導入が本格化する。

外国語と理科、算数に加え、体育がその優先対象になるとのこと。

全面的に賛成である。

ただどちらかというと、低学年からこれにした方がよいというのが、経験上の確信である。


特に体育は、顕著に指導結果の差が出る。

指導者次第で伸びる伸びないが相当に変わる。

指導者のイメージに成長が規定されるからである。


国語や算数などの教科以上に、その差が起きやすい。

なぜなのか。



一つ目は、教科書の存在の有無である。


教科書があると、教える内容がある程度まで、いや、相当に決まる。

例えば小学校二年生ならかけ算を身に付けさせないで進級させようとすることは、ほぼあり得ない。

教科書に系統的に登場するからである。

全国どこの学校でも、大体、二年生の二学期に学び始めるはずである。


体育などの教科書がないものは、ここが違う。

学習指導要領には指導内容の例が出ているが、指導者次第というところがかなりある。


また特に体育の場合「二学年にわたって」という柔軟な対応をしているのが裏目に出ることもある。

きちんとチェックしていないと、どちらの学年でも履修していないという事態が起こり得る。


こういった要素から、履修の有無も含めて差が出やすいのが現実である。



差がつく理由の二つ目は、先に述べた「指導者次第でイメージが規定される」という点である。


「どの程度までやらせるか」

「どういう手順でやらせるか」

この辺りのイメージが、指導者の裁量にかかっている。


学習指導要領では運動例が示されているが、あくまで例であり、その内容を全てやれという性質のものではない。

(小学校で逆上がりができるようにすること、4泳法を身に付けることなどと示されている訳ではない。)


だから、例えば「危ないからやらせない」となれば、それで終わる。

「体育はずっとドッジボール」みたいな悲劇的な過ごし方をする例もある。

「ゴール型」でサッカーを指導させたら、11人のフルコートのゲームをひたすらやらせるというようなことも起きる。

曰く「子どもが喜ぶから」だそうである。

(さすがに今の時代はいない・・・と思いたい。)


特に指導者側に得意不得意が分かれる表現系と器械運動系は避けられがちである。

やらない指導者のもとだと、本当にやらないで一年が終わることがある。

運悪くそれが数年続くと、表現が苦手で運動感覚の全く育っていない高学年集団の出来上がりである。



全学年の体育が教科担任制になれば、これらの悲劇を防げる。

「学級経営に体育は重要だから」と低学年は担任の体育を外さない傾向があるが、これは間違いのもとである。

体育を教師の学級経営に利用することで、子どもの体力がつかなくなったら本末転倒である。

教師の都合と子どもの成長のどっちが本質的に大切なのかということである。


いずれにしろ、一歩前進である。

願わくば、この教科担任制化の流れを、高学年だけと言わず、低学年にまで広げていってほしい。


「担任と合わない」の事態が起きるのは、高学年だけではないからである。

(まして、保護者までを含めれば尚更である。)

子どもも保護者も、学校のことで相談できる教師が幅広くいた方がいいに決まっている。


現存の担任一人に依存する昔ながらの学級担任制の仕組みは、何事も一律に同調を求める昔の教育方針なら良かった。

しかし、多様性と個の教育が求められるこの時代に、合っているといえるか。

この教科担任制の拡充や、幼稚園や保育園のチーム保育のような、現存と異なる仕組みが確実に必要である。


現場には、予算がなくてもできる工夫はたくさんある。

世界の主流が「所有」から「シェア」に移るこの時代、学級担任制の在り方もシフトしていくタイミングである。

2021年8月24日火曜日

アサーティブと自治的学級づくり

 前号では、安全・安心ベースでこそ挑戦できるという話を書いた。

そこに関連した話。


「自分の言いたいことを言えない」


子どもだけでなく、大人でもよくある悩みである。

これも、怖くて挑戦できないということである。


何が怖いかというと、拒絶や攻撃である。

自分の意見を主張をした時、衝突が起きるのではないかという恐怖感である。


ここへのヒントとして、「アサーション」という考え方が参考になる。

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「アサーション」とはコミュニケーションスキルの1つで、

「人は誰でも自分の意思や要求を表明する権利がある」

との立場に基づく適切な自己表現のことです。


(「HRpro用語集」より引用)

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「アサーティブ」な態度というのは、他者を変えるのではなく、自分の捉えの方を変える。

アドラー心理学とも関連のある話である。


この考え方では、コミュニケーションを3つに大別して考える。


1 攻撃的(相手の都合に関わらず自分に従わせようとする)

2 非主張的(自分を殺してでも相手に合わせる)

3 アサーティブ(自分の思いを伝えつつ相手の言い分もきいて折り合いをつけようとする)


親、教師、上司など、立場が上の時に1の「攻撃的」になりやすい。

子ども、児童生徒、部下など立場が下の時に2の「非主張的」になりやすい。


そして、立場に関係なく人によって1や2を行使しがちな傾向がある。


1の「攻撃的」は

・自分だけは楽したい、得したい

・自分は相手より上の立場なのだからえらい

・相手が言うことをきかないのは間違っている

と考える傾向が強い人である。

いわゆるワンマン、自己中と呼ばれる傾向で、一つの集団内にその絶対数はあまり多くない。

(一つの集団内に、絶対数として上の立場の方が少ないことを考えれば自明である。)


2の「非主張的」は

・いつも自分は損をする

・自分なんて

・自分さえ我慢すれば

と考える傾向が強い人である。

どちらかというと、この2の傾向の人の方が多い。

特に自己主張が弱いとされる日本人には顕著である。


同一人物であっても、自分の置かれている立場によって1か2かは変わる。

教師であれば、自分が子どもの前に立っている時は1なのに、管理職含めた同僚の中では2になる、という感じである。

むしろ、1や2を強く使っているほど、立場の変化による乖離の振れ幅は大きくなる。


そして3の「アサーティブ」は、このどちらとも違う。

・自分の本当の気持ちを伝えよう

・相手の気持ちや都合も考えよう

・お互いの合意点に折り合いをつけよう

とする。

立場に関係なく、言うべきことは互いに言おうという姿勢である。

いわゆる「ブレない」という状態である。


集団がこのアサーティブな態度を身に付けられれば、その居心地の良さは大きく変わる。

きちんと伝えたいことを伝え合える集団になる。

そうなればけんかやいじめも減るし、自分たちのことを自分たちで決めて実行していける自治的な集団に近づいていく。


そのためには、まず自分からである。

上の立場にある人がアサーティブになることが第一優先である。

子どもに先にそうなれというのが難しいのは、容易に想像ができる。


次の本はとても読みやすく参考になる。

(今回、私は古本屋で偶然見つけたが、電子版もあり。)


『マンガでやさしくわかるアサーション』

平木 典子 著 サノ マリナ 作画 星井 博文 シナリオ制作

日本能率協会マネジメントセンター


自己主張が弱くてつい他人の言いなりになってしまうという人、

あるいは、人に強く言いすぎる自分が嫌になっているという人、

夏の読書に、どちらのタイプの方にもおすすめの1冊である。

2021年8月23日月曜日

不安定への挑戦は安全・安心ベース

 先月オンラインで行った「学級づくり研究会HOPE」での内容のシェア。


まず、公開研究会での提案内容のICTについての話題が上がった。

その中で、特にICT使用に関するルールをどれぐらい作るかについてである。

つまり、自由との兼ね合いである。


ベースとなるのは、常々述べている次の原則である。


1 ルールは、それ自体をなくすことを目標として作る

2 信用される集団になるほどルールは減る(安全・安心が大前提)


信用されていない、危険な状態の集団ほど、自由を拘束するルールを多く作らざるを得なくなる。


例えば交通量の大変多い場に設置されている保育園で、1~2歳児の乳幼児集団を外に連れ出すとする。

自由に歩き回らせるのはもっての他、整列して道から飛び出さないようにすることすら難しい。

何かしらの工夫やルールが必要になる。

長いひもを持たせるかもしれないし、腰に巻くかもしれないし、かご付き車に乗せて押すかもしれない。


これが、少し年齢が上がるにつれて「並んで前の人についていく」程度の約束で大丈夫になる。

(小学校段階でわざわざひもはつかわないだろう。)

「なかよし遠足」で「ペアの6年生のお兄さんお姉さんと手をつなぐ」ということは、安全上の配慮でもある。


さらにぐっと年齢が上がった集団であれば「現地集合」という指示だけで十分である。

中学校以降の部活動などではこれだろう。

自転車の使用も許可できるし、ルールも拘束もどんどんいらなくなっていく。

(ただし自転車使用のルールのように、モノが加わることによって新たなルールが発生する。)


中学校の「校則問題」は、この学校側の信用度と現実との兼ね合いが焦点である。

単に昔からあるだけのものが多いかもしれない。


つまり、いつまでも同じルールで安定を求めると、過保護になり、進歩できないという状況に陥る。

集団の成熟度によって、ルールは変化させていくべきものである。


立っている状態から歩こうとする時、敢えてバランスを崩す必要が出る。

木のように根を張って立って安定している状態では、動きようがない。

今のバランスを変えて、片足を上げて前に出す必要がある。(竹馬だと体感しやすい。)


まして走る場合なら、大きくバランスを前に傾ける必要が出る。

不安定になったところへ、体がバランスを保てるよう脳がコントロールして、不安定な状況での安定を保つ。

(これが人型ロボットには大変難しいところのようである。)


実は安定を望んでその場に留まり続け、リスクを取りにいかないのが一番危険である。

なぜならば、今が安定していても、いつまでも今と同じということはないからである。


生物の進化はまさにそれで、各時代にその生き方で安定していた生き物は、一部を除き軒並み絶滅している。

長い目で見て、環境の変化に耐えられないのである。

(小学生おすすめ参考本 

 『わけあって絶滅しました』今泉忠明 著 ダイヤモンド社


チャレンジの方向が間違ってしまった生物もたくさんいるが、それは結果論である。

たくさんの方向にチャレンジした種の一部が結局生き残っている。

(クジラの祖先は犬のような外見の水陸両用の生物で、その中の海側に特化したものらしい。)


話があちこちへいったので、整理する。

結論、不安定こそが安定を生む。

今という点で見て安定を求めて動かないことこそが、線で見た時の大きなリスクである。

変化だらけの時代の今、現状を変えようという動きがない限り、確実に立ち遅れるし、将来的には危険しかない。


学級経営も、リスクをとっての挑戦が必要である。

不要なルールをなくせないか。

新しい取り組みができないか。


係活動一つとっても、子どもが自由にどの方向に行くかわからない。

大人側にあるように、子ども側にも不安はある。

その不安感も抱えて、敢えて挑戦していこうというところである。


不安な中での挑戦を支えるのは、安全・安心である。

戻ってこられる場所があるから、挑戦できる。

チャレンジできるのも、安全・安心ベースである。


万全の知識と技能、強い精神力をもった登山家がいる。

例えば、88歳で富士山での聖火リレーの役割を果たした三浦雄一郎氏。

エベレストのような山に挑戦する登山家は、自分の力だけで登山ができる訳ではないという。

登山家は、ベースキャンプや周りのサポートといった要素があるからこそ、危険な山に挑戦できる。


ありとあらゆる挑戦が、安全・安心ベースである。

勇気を出して敢えての不安定に挑戦するには、安全・安心の後ろ盾が必要となる。

それは、自転車の練習をする我が子を見守る親のような存在である。


学校が外界の挑戦すべき社会とした時、子どもにとっての安全・安心のベースキャンプは、家庭である。

ここで十分補充しているからこそ、また外に挑戦できるというものである。


今の学校は、チャレンジができる、許される状態か。

子どもにとって、そして、教師にとってである。

それは、本当の意味で安全・安心な学校かという問いかけでもある。


学校を安全・安心な場にし、もっとチャレンジしたいと思えるような空間にしていきたい。

2021年8月20日金曜日

ICTは「時間」「空間」「仲間」をつなぐ

 先月実施した公開研究会の協議では、自治的学級づくりにICTが有効かどうかを中心に据えた。


参観者の質問に対し、今回、ICTの位置づけは「道具」であると答えた。

はさみやのりと同じ「道具」である。

常備しており、必要なら使うし、必要ない時は使わない。

それだけのものである。


ただ、他の道具との明確な違いがはっきりした。


それは、子どもが自治的な活動をするのに必要な

「時間」

「空間」

「仲間」

の3つについて、圧倒的に便利な道具だということである。


時間と空間を越えて仲間とつながれる道具である。

居場所や時間に関係なく、仲間とつながれる。

現に、このオンラインの学習の場では、北海道から沖縄、場合によっては海外まで繋がれる。


子どもたちの家での時間も、まばらである。

なかなか都合が合わないという時もある。

そういう場合でも、チャネル(掲示板)に投稿しておけば、都合のつく時にやりとりができる。


特に、夏休みの自宅学習期間などは活用の大チャンスで、会えない仲間をつないでくれる。

積極的に使いたい子どもにとって、ICTの活用は自発的な係活動の有効な手立てになりそうである。


・・・とはいえ、学年の発達段階における活用具合も課題になった。

高学年に比べ、低学年はやはり圧倒的にリテラシーは低い。

しかし、だからこそ、低学年から活用しておけば、使いこなせるようになるという考えである。


何事も、まずはトライである。


最後に力を入れて話したのが、次のことである。


「子どもにやらせると失敗するからといって先回りすれば、いつまでもできない。

失敗を前提に信じて任せてみる。

信じるのは、失敗しないことではなくて、失敗してもいつかはできるようになるということについて。

(点で見るのではなくて、線で見るということ。)

教師は、責任を取りたくないから、つい挑戦させること、失敗するかもしれないことから逃げてしまっていないか。

それではいつまで経っても自発的・自治的な子どもは育たない。

失敗を前提に、信じて任せてみること。

教育活動の全てに言える。」


結局、ICTどこにいったという話ではあるが、そういうことである。

あくまで便利な道具として使うのであって、目的は自治的な学級づくり、それができる子どもの育成である。


最近の公開研究会では毎回クラス会議が中心だったので、新鮮だったのではないかと思う。

引き続き実践を積み重ねて、まとめていきたい。

2021年8月18日水曜日

自治的学級づくりでは判断する力をつける

 自治的学級づくりシリーズ。


判断する力をつける大切さについて。


自治を、自分たちのことを自分たちで決定・実行することと定義づける。

その時に必要なことは何か。

それが、判断する力である。


判断しない、というのが最も自治から遠い状態になる。

以前にも書いた

「先生、○○してもいいですか?」

は、ずばりこれである。

いいか悪いか、自分で判断せずに、他者にそれを委ねてしまっている。


これをやり続けると、どうなるか。

思考が停止するだけでなく、結果の責任も取らなくなる。

失敗を人のせいにし、他責的になる。

人に任せたくせに、それを判断した人のミスや失敗を責めるようになる。

外野から野次を飛ばすだけなのだから、簡単である。


「私が○○できないのはあの人のせいだ」となる。

なぜなら、自分で判断した結果ではないから、自分に責任がないと考えるのである。

(これは、大人社会の場合にも当てはまる。)


自分で判断する力をつけることである。

ここでいう判断力とは、単純化すると○×をつける力である。

ある事柄に対し、それが○か×かを根拠をもって決める。


極端な話、その判断が「間違って」いてもいいのである。

より良い結果につながる判断かどうかなんて、実際にやってみないとわからない。

大切なのは「自分で判断した」という一点である。


自治的学級づくりでは、普段から子ども対して、意図的にその機会を多く設ける必要がある。


判断は、ごく小さいところからである。


生活場面だと

・この道具はどこにしまうべきか。

・掃除で自分の分担が早く終わったら何をすべきか。

・給食のこのおかずの1回分の配膳の量はどれぐらいが適当か。

こういったものが数多くあげられる。

「先生、これでいいですか?」ときかない生活の全てが判断場面の連続ともいえる。


学習場面だと

・ある問に対し、自分の意見は○か×か決める。

・AかBか、どちらがいいか決める。

・手を挙げて発言するか否か決める。

・どの発表方法をとるべきか決める。

これらも全て判断場面である。


自分で何かの○×をつけることは、判断のトレーニングになる。

漢字や計算ドリルなども、自分で○×の正誤判断ができるようになると、教科の力がつくだけでなく、判断基準ができる。


また、これは単に機械的に○×がつけられるようになるのとは訳が違う。

学校の答案用紙には、珍解答も多く、微妙な○×の判断に苦悩するものがかなりある。


応用が利くようになると、

「この場合は普通は×だが、こういう場合には○もあり得る」

というようなことも考えられるようになる。


極端な話、利き手を骨折していた子どもが逆の手で書いた字があるとする。

それが漢字テストの場合、通常のように厳しく見て、少しの形の崩れに×をつけるということはしないはずである。


そういうことを判断できるようになると、要するに状況を読むということの素地ができる。

状況を観察し、相手を慮るという状態である。

その上で判断ができるようになる。


即ち、判断力がつくと、自治的集団として動けるようになる。

何がこの集団にとってよい、あるいはこの状況に適している、と考えて判断できるからである。


クラス会議で議題に対して意見が出せるのも、自分で判断するからである。

「これがいいのではないか」という判断基準があるからこそ、発言ができる。


普段から判断する力を連続的につける。

子どもが自ら判断し続ける。

これが自治的集団づくりに必須の教育行為ではないかと思われる。

2021年8月17日火曜日

格差を認める自治的学級づくり

 自治的学級づくりについて。


自治的学級では、会議でも全員に平等に発言権が与えられる。

きわめて公平な措置である。


一方で、自治的学級においては、しっかりと格差も存在する。

この前提を落とさないことが大切である。


師の野口芳宏先生の言葉にも次のものがある。


「安心、安定、秩序、格差。」

心に刻む日めくり言葉 教師が伸びるための 野口芳宏 師道 さくら社 より引用


全てを平等にすれば秩序は乱れる。

差が秩序を保つ、とも述べられている。


私も全く同感である。


この「格差」という言葉は、字面でマイナスイメージをもたれやすい。

恐らく、一般でのこの言葉の使われ方があまりよろしくないせいである。


しかし過去何度も述べているように、ある言葉自体に良いも悪いもない。

イメージで決めつけず、その言葉に正対することが大切である。


格差とは、程度の差である。

違う人間同士のもつそれぞれのものが、同じ程度であるはずがない。

能力含め、あらゆることに差があるのが自然である。

これを無理になくして揃えようとすることこそが、不自然そのものである。


自治的学級では、個が尊重される。

それは、違いが尊重されるということである。


Aがいいという考えとBがいいという考えが出る。

価値観の差、格差である。

その両端を認める。

その前提で、集団での合意形成が必要な場面では折り合いをつける。


Aが得意でBが苦手という人と、Aは苦手だがBが得意という人の両方がいる。

あるいは、これがC,D,E・・・様々に得意と不得意の違いがある。

能力の格差である。

これがあるからこそ、助け合える。


得意な人が「任せろ!」と言って活躍できるのは、それを苦手な人が「助けて!」と言ってくれるからこそである。

得意な側だけが偉いわけでは決してなく、両者がいてこそ成り立つ。

お互いが必要とし合っているのである。

ブロックの凸凹、あるいはパズルのピースがぴたりとはまる感じである。


自治的学級づくりは、これができている状態である。

お互いが自分のできることで、自分たちのやるべきことを自分たちで行っていく。

得意の相互提供が成り立っている状態である。

そこにはそれぞれの様々な能力における格差がある。

そこにあるのは、あくまで相互扶助の関係であり、上下関係ではない。


格差とは、単なる上下を指す訳ではない。

程度に差があることをいう。

上が偉いとか言っている訳では決してない。

差があり、違いがあるのを認めるというだけである。


例えば、夏休みの宿題を、一律に平等に出すとする。

これは「公平」といえるか。

否である。

同じ分量のものに対し、全員が同じ時間、同じ労力でできる訳がない。

実際には、楽々1の労力でできる子どもと、大変困難で100の労力がかかる子どもに分かれる。


安易な平等主義ではこれが正義だが、実際に公平とはとてもいえない。

差を認めれば、一律に宿題を出すことがいかに不公平であるかがわかる。


給食も同じで、給食費というものを一律に「もの」にかかっていると考えると、全員等分量が平等である。

しかし、体の大きさや食べる量、嗜好性などを無視した平等が本当に幸せや安心につながるだろうか。

その理論だと、特定の誰かだけがおかわりすることはできない。


しかも、全員、残すことも許されない。

同一の時間内に食べ終わらないことも「平等違反」である。

この論の場合、平等に時間内に食べ終わるべきものだからである。

また、アレルギー対応は不平等では?とかさらに話はややこしいことになる。


要するに、給食の献立などは基本的に一律であり、レストランとは違って個々人の嗜好性で注文したものではない。

よって、同じだけの分量を同じように食べよというのは、平等ではあるが公平ではない。

食べられない人の分量は最初から減らしてあげて、たくさん食べたい人に分けてあげれば、誰もが幸せな話である。

格差があって然るべきことなのである。


学級の日々には、授業中も含め、日常的にこんなことが溢れている。

自治的学級づくりを目指すのであれば、格差が前提になるのは必然である。

今度の公開研究会でもテーマにしているが、個人の特性を生かす係活動など、個々の嗜好性の差が思い切り出る。


差という言葉に過剰反応せずに、その良さを認めていくこと。

意外と抜けている視点ではないかと思い、示してみた。

2021年8月14日土曜日

夏休みの宿題のほとんどは、もう要らない

前号にも書いたが、学校には、かつては、大昔は必要だったものが溢れている。

夏休みの宿題もその一つである。


現代は、教員が忙しいように、子どもたちも、ものすごく忙しい。

見ると、子どもの日常も過積載で、遊ぶ暇さえない。


結論から述べると、夏休みに一律に自由研究やポスター、読書感想文などを出させることは、現代の教育的に不要である。

特に今の時代、やりたい子どもは個人の価値観と家庭の教育方針に沿って自発的にやる。

それが本来の「夏休みの自由研究」の指す意味であるし、学校の目指す「学びに向かう人間性」の指すところである。


一昔前は、それができなかったのである。

学校以外、教育情報にアクセスできないため、学校がやらないとチャンスロスとなっていたのである。

ところが今や、個人でもネットで調べれば、いくらでも作品の募集を見つけられる。


またかつては、ドリルなども出さないと、一般の家庭では勉強する術がなかったのかもしれない。

しかし、ネットで学べ、学習塾や家庭学習教材が全盛の現代において、どの地域でも一律にそれが必要といえるか。

夏休みの一律のドリル学習は、過積載に更に載せて、子どもを潰す行為である。

(そもそも、ドリルを家庭でやらせて、苦手な子どもができるようになったという報告を聞いたことがない。)


夏休みの大量の宿題の最大の効果は

「夏休み明けに学校に行きたくない」

と思わせることである。

不登校促進装置となっている面が否めない。

(実は教員側にとっても同じである。)


大人も子どもも、互いに無理をさせすぎなのである。

「自分が苦しむからお前も苦しめ」という地獄的発想である。


例えば前回書いた教員免許更新制の撤廃は、真面目に働いている現場教員として、諸手を挙げての大賛成である。

先生に余裕ができて幸せになれば、結果的にそこに教わる子どもたちへプラスの影響が出る。

当たり前の話である。


だったら、子どもにも幸せな子ども時代を過ごさせてあげていいのではないか。

夏休みには、思い切り汗をかいて目いっぱい非日常の体験をして欲しいと願う。

学校の勉強は、9月辺りからまた学校でがんばればいいのである。

(そもそも、夏休みにまで必死に取り組まなければならないような、そんなた大した内容を学校で教えていない。

学校教育でつけるべき学力は、家庭ではなく学校でけりをつけるべきことである。)


また学校から夏休みの宿題が全く出ないのは、受験勉強をがんばりたい子どもにとってもいいことである。

自分のやるべき課題に全神経を集中できる。

そこに「なつやすみのきろく」のような無駄なものがあると、その完成に変なプレッシャーを感じてしまうのである。

(受験をするのにこれをきちんと書かないと不利になるのではないかとか、そういう変な心配をして完成度を上げる子もいる。) 


学校に当然当たり前にあったものが、今できなくなっている。

その点では、学校の当たり前を見直すのに、今はいい機会である。

2021年8月12日木曜日

不幸の根源を全廃する ~教員免許更新制と夏休みの宿題~ 

教員免許更新制の廃止が議論に上がっている。

あくまで可能性が出てきた段階ではあるが、これは現役の教員にとって、かなり大きなニュースである。


今回は、教員だけでなく子どもの活動も含めたムダな取り組みの廃止の大切さについて。


不要なことを減らせば、大切なことに時間を使える。

当たり前の話である。


どんなことでも、やればやっただけ、何かしらの価値はある。

免許更新講習の全てがムダだとは思っていない。

しかしながら、今の現場にとって優先順位が高いか、やるべきかと考えた時、明確に「NO」である。

(これは「夏休みの宿題」とも通ずるところがあるので、そこについては次回述べる。)


免許更新制は、現場の人材確保の足枷になっているということで、廃止の方向である。

メリットよりもデメリットが大きく際立った形である。


もはや、免許を出している場合ですらないのかもしれない。

学校側は、猫の手も借りたいほどの人手不足という「売り手市場」である。

各都道府県での教員採用試験の止まらない倍率低下も、顕著にそれを物語っている。


また、実習がどんな状況であれ、最低日数出席さえしていれば、大学側は免許を出さざるを得ないという実態がある。

自分が現場で多数の実習生を見てきている分、その問題については間近で見ていて、他大学でも同じとのことなので間違いない。

そんな現状の教員免許に、どれほど資格としての意味があるか疑問である。


免許を有意味にするには、免許交付の壁を高くする必要がある。

単に講習さえ受ければ得られるような資格に大した意味はない。

ある資格が有意味で価値があるとしたら、それはその取得の難易度の高さゆえである。


一方で、かねてより教員免許を国家資格に「格上げ」しようという動きもある。

しかしながらこれは、現状の日本の制度上ではデメリットが大きすぎる。

そこまでの取得苦労への正当な対価が得られないと予想されるからである。

国家資格までとったのに、高給でもなく誰彼からも文句を言われ放題という立場に甘んじようという人は稀である。

それでもそこを目指すような人は、元々免許に関係なくやる人である。


(逆にいえば、教員の立場や権限が今とは異なる社会になるのであれば、国家資格化に大きな意味が出る。)


要は現状、免許の壁を高くするだけ、人手不足を引き起こす結果になるだけである。

その意味において、今回の免許更新制の廃止は、現場としては大歓迎してよい動きである。


話を冒頭に戻すと、再三述べている通り、学校は新しいことを始める前に、不要なものを捨てることの方が大切である。

学校はもはや「過積載のトラック」である。

積載率200%越えである。

荷物の下の方には、もう完全に化石になったようなものも多く埋まっている。


慣例でやっているものを、いっそ全撤廃できないか考えてみる。

それによって、人々が本当に幸せになるのではないかと考えてみる。

これを機に、学校のあらゆる不要について、見直す良い機会にしていきたい。

2021年8月10日火曜日

戦争と歴史に対し主体的に疑問をもつ

昨日8月9日は、長崎の原爆忌であった。

ここに関連して、主体的に疑問をもつことへの必要感について書く。


教室で常々子どもに教える言葉がある。

「2回目は別物」

という言葉である。


何でも、2回目というのは、1回目とは全く意味が違う。

1回目と全く同様の失敗を、2回目にもまたするというのは、どういうことか。

反省や改善の意思がない、あるいは、意図的と捉えらえても仕方がないのが、2回目の同じ過ちである。


この原則は日常の些細な出来事の話にとどまらない。

あらゆることに普遍的な原則である。


原爆が、立て続けに2回も落とされた。

地球の歴史上、原爆を実際に落とされたのはこの2回しかなく、日本が世界唯一の被爆国である。

1回目が8月6日の朝で、たった3日後の8月9日の昼前にまた落とされた。

この理不尽な事実に対し、どんな説明があっても納得がいくはずはないのである。


1回目で、十二分に過ぎる壊滅的なダメージを与えた。

日本に微かな希望すらも持たせないほど絶望させるのに、十分過ぎる破壊力である。

1回目から人道的に許されない出来事である。

それを2回目まで落とした上で「日本を降伏させるため」では、全く理屈も道理も通らない。


これは、単にアメリカ側を責めているのではない。

その事実について、日本人の中でもう当たり前のように受け止めていることがないかということへの投げかけである。


数年前の古い記事だが、アメリカ側もこれについては教育で重大なこととして取り上げていることがわかる。

特に、各国が戦争について語る時の「三つの語り方」と受け身のスタンスはその通りであると感じさせられる。

(参考「アメリカ人は原爆投下について多様な教育をしている」

米国の専門家に聞いた【オバマ大統領 広島訪問】 ハフポスト )


この記事の中でも、日本が戦争について語り続けてきたことへの大切さが書かれている。

風化され、当たり前に思ってしまうことが何よりも恐ろしいことである。

世界中が忘れてしまいたい出来事でも、記憶に刻み続ける必要がある。

必要な姿勢は受け身、客体ではなく、積極、能動、主体である。


その点で「主体的で対話的な深い学び」が今後必要という文科省の出す方針は、正鵠を射る表現である。

(ただし、その内実が未だ追い付いていない。相変わらず歴史教育には教育業界全体が及び腰である。)


国際社会で生きる日本人に必要なのは、言語力もそうだが、国民それぞれの歴史への見解である。

だがこれは日本において、本人が積極的に知ろうとしないと学べない。

繰り返し言うが、日本の学校教育はここに対しとてつもなく及び腰であり、きちんと教えられる機会はまずないからである。

(戦争の歴史について、公平な立場でしっかり教え、考える場を与える教師がいたら、それはかなりの気骨のある人である。)


オリンピックが真に平和の祭典足り得るためには、戦争の事実についての直視が必要である。

そのせいで未だまともに参加できていない国もあるのだから、国同士のけんかについては、全くの未解決という状態である。


原爆忌と終戦の日(あくまで日本側の呼称)を機に、自国の歴史に対しても疑問をもって見つめ直していきたい。

2021年8月8日日曜日

戦争の歴史から何を学べるか

 広島の原爆忌の日に書いた記事。

明日は、長崎である。


8月4日付のメルマガで「正義なら悪をやっつけてもいいか」ということについて書いた。

(参考:まぐまぐニュースに取り上げられたので同様の記事あり )


正義とは極めて主観的かつ相対的な概念である。

相対的であるため「絶対の正義」は存在しない。


正義があるから悪が存在する。

悪者がいない物語には、正義の味方も存在し得ない。

正しいことが存在しなかったら、悪いことも存在できない。


愛があるからも憎しみも存在する。

愛するものがいるから、傷つけられたら憎む。

誰も愛していなかったら、憎しみも生まれない。


オリンピックでいえば、敗北があるから勝利が存在する。

「全員優勝」では競技にならない。

競争は常に勝者と敗者という差と序列とを求める。


サッカーだったら、ペナルティエリア内でファウルがあれば、歓喜と悲鳴が同時に起きる。

各種競技の審査における0.001点差の僅差の勝利は歓喜を生む。

それは同時に僅差の敗北者を生み、その両者の明暗の差は、明白である。


この万物の両面性は、普遍的真理である。


ずっと以前に紹介したタレントのタモリさんの言葉

「LOVEさえなければ、PEACE」

もこれである。

(参考:まぐまぐニュース過去記事)


各国に、それぞれの正義がある。

この存在自体は否定できない。

宗教ごとに正義が別にあるのと同じである。


正義が生まれると同時に悪が生まれるので、対立は必ず起きる。

相手の立場になれば、こちらが悪である。

逆に言えば、相手がこちらの立場になってくれれば、元の相手側が悪に見える。


だから、何が正義だ悪だといった議論は、永遠に埒が明かないし非生産的である。

戦争をすれば必ずそれぞれの立場の正義と悪が同時発生して乱立し、大量の犠牲者が出る。

(そしてその犠牲者の大半は、力の弱い者である。)


原爆投下の事実は間違いなく存在したのだから、それは今後も歴史として永遠に伝えるべき事である。

風化させず忘れないことで、世界が過ちを繰り返さなくなるための抑止力にもなる。

それが歴史を学ぶ意義でもある。

(これは現在なお解決策が見えない東日本大震災への扱いについても同じである。

辛い思いをした人々の記憶を癒して欲しいと願うと同時に、問題としては風化させない。)


しかし、それは正義が悪を断罪するためのものではない。

まして、決して他を責めるためではない。

あくまでもその意義は、反省し、同じ過ちを繰り返さない、繰り返させないためである。



これら全てについて、教育のレベルに落とし込んで考える。

戦争のような過ちから何をこそ子どもに教えるべきか。

あるいは、どのような小さなことから、戦争のような悲劇を繰り返さないよう教育するのか。


それは、他を攻撃すること、責めることの愚かしさを学ぶことである。

正しさを振りかざし、相手を支配することの愚かしさともいえる。


実は自己への攻撃があるからこそ、他者への攻撃が起きる。

自分自身を認めず責めるから、自分自身を他から守る必要が起きてしまう。

結果的に、他者を攻撃し、責め、奪い、支配するようになる。


これらの愚かしさは、人間関係の中から学べる。

時にけんかをしたり意地悪をしたりされたりする中で、これを心地よくないと感じ、どうするか考える。

絶対に私が正しくて相手が悪いのだと思っていたのが、話し合う中で「おや?」と気付く。


意地悪をしてしまうのは、実は相手が悪い子だからではなく、自分に自信がなくて守るためなのだとある日気付く。

気付く子どもは、自分の在り方次第で相手が変わる、世界が変わるということに気付く。

(ただしこれには多くの場合、指導者や周りの人間の助けがいる。指導者が大切な所以である。)


つまり、自分自身を認めておらず、自信がないから、人を認められないで、責める。

逆に言えば、自分を認めると、人を認めるようになり、責めなくなる。

「自分にもそういうところがあるし、失敗もする」と思い、自分自身を受容する。

そうなると人を責めないで、事情を慮るという行為につながっていく。

多様性への受容につながる。


「自分自身」のアイデンティティの中には、国も含まれる。

今の自国を認め、他国を認め、責めない。

その前提姿勢があってこそ、戦争の歴史を振り返ることに初めて意義が出る。


8月6日、9日の両原爆忌は、国際社会における日本人という立場にとっても、決して忘れてはならない日である。

2021年8月6日金曜日

教えるべきは教える

8月6日、広島原爆記念日である。 

昨年の記事でネット上に取り上げられたものを再掲する。


原爆忌と終戦記念日に伝えるべき、観音像を建てた人物の「言葉」


教えるべきは教える。
教えなくても気付く・わかることは教えない。

歴史については、まずきちんと教える。
その上で、さらに一面的でない多角的な視点で自ら考え、気付いていけるようにする教育が必要である。

2021年8月4日水曜日

自発・自治は大変な方の戦略

 先月、他市から依頼された特別活動部会の講座では、「自発的・自治的を目指した活動」がテーマだった。


やり方ではなく、根本・本質・原点についての話をした。

ここについて、当日は話さなかった内容も加えて記す。


そもそも「自治的」というのは、戦略である。


戦略には、必ずそれに合致した戦術がある。

今までの他の戦略上では有益だったものが、全く使えない。

あるいは、マイナスにすらなる。


自治的学級づくりの方向での戦略というのは、基本的に短期で結果が出にくく、非能率である。

非能率であっても、なるべく指導者は手出し口出しを避け、相手が主体性を発揮することを待つ。

自ら動きだし、自分たちで自分たちのことを決めていくことを目指す。

自分たちで考えてやるのは、試行錯誤になるため、失敗も多い。

「主体的非能率戦略」である。


ここでとられる戦術は、すべて他者との比較を求めない。

単一の物差しで測るのではなく、あくまで個性の発揮である。

能力の異なるものが、それぞれの得意を提供しあって補完しあい、協力するというのが理想形となる。

メンバーの中の全員を生かすという発想になる。


また、自治を目指す場合、トラブルがあっても指導者が安易に介入することはしない。

自分たちの力で乗り越え解決できることを重視する。

指導者がするのは、そのための励ましや後方支援程度である。

(ただし、任せると大きな危険があると判断する場合は迷わず介入する。)


一斉指導というのは、どちらかといえば、受動的かつ能率的な戦略である。

現在の学校のように一クラスが多人数の場合、初期段階からしばらくは有用かつ必要な方法である。

しかし、それが育ってから自治的集団へのシフトの際は、それ以前の段階までの指導と真逆をいくことになる。

戦略的には最初から自治を目指しているのであっても、最初は一斉指導になるというのがややこしいところである。

(最初から少人数の個性重視でいけるのならば必要ないのだが、現在の制度上そうはできない。)


つまり、この自治的学級を目指す過程では

「楽しい授業」

「面白いことをしてくれる先生」

「丁寧できめ細やかな指導」

「子どもが素直でいうことをよく聞く」

がマイナスに働く可能性がある。


本来なら、かなり良いことのはずである。

教育書のタイトルにも並ぶような魅力的な文言たちである。


なぜなのか。


それをやるほど、子どもは受動的になり、依存的になるのである。

「次はどんな面白いことしてくれるんだろう」

と、わくわくして期待する。


これは裏を返せば、完全に受け身である。

素晴らしいサービスを期待している状態である。

高級旅館のおもてなしや、最高の料理、あるいは各種エンターテインメントを期待する姿である。

他に癒しや刺激を求める行為である。


一方で、自治というのは、お寺のような状態である。

朝は自分で起床し、掃除他のやるべきことをやり、自分たちで食事の支度も片付けも、一切をする。

自ら学び、気付くまでひたすら自己に問いかける。

「悟り」とはどういうことなのか、真理とは何なのか、和尚さんには教えてもらえない。


実際、ここまでストイックではないが、形としては近い。

何かを教えてもらうのではなく、自ら気付くのを待つのである。

何かを与えてもらうのではなく、自分のことを自分で行うのである。

「行」である。


「クラス会議をしていれば、自治的集団づくり」というのは大きな勘違い、というのがこの辺りにある。

クラス会議のみならず、全ての戦術において、自治を目指すものを選択する。

さっさと「正解」「公式」を教えてあげれば終わるものも、教えないし介入しない。


(「公式」と「自治」は相性が最悪である。

自治的になる公式は無い。

「公式」と相性がいいのは「官治」である。)


自治を戦略と決めて目指す場合、指導者側としても、軌道に乗るまでは、かなり忍耐の道である。

やろうと思うけど途中でくじける、というのが普通である。


だからこそ、やる価値はある。

今の学校教育がこのままで大丈夫、というのならば、変える必要はない。

しかし、今までの戦略をとり続けることでは、正直、明るい未来が全く見えない。


だとしたら、やはり自発的・自治的活動を求めていく時ではないか。

学級活動の全てにおいて自治を目指して行っている事例が、圧倒的に少ないのである。


どんなものにも、安易な方と大変な方がある。


背筋を曲げる方が安易で、腰骨を立てるのは大変である。

靴を脱ぎ散らかす方が安易で、脱いだ靴を揃える方が大変である。

ジャンクフードの方が安易で、きちんとした料理の方が大変である。


例年通りの方が安易で、改善の提案をする方が大変である。

相手の言うことに黙って従う方が安易で、正しいと思うことを意見する方が大変である。

すぐ結果が出て得する方法をとる方が安易で、今損をしてでも苦労して回り道をする方が大変である。


価値があるのは、いつも大変な方である。

長い目で見た時に、本当に楽になれるのも、大変な方である。


大変な方を選択していくことで、道が拓かれるように思う次第である。

2021年8月2日月曜日

期待値を下げる

 願いをもつことの大切さは古くから言われている。


しかしながら、ここに実は一つ落とし穴がある。

使い方次第で有用だし、使い方次第で害悪にもなりうる。


前号に書いた、期待の方向に加え、今回はその大きさについて。


二者間で考える。

全ての人間関係は、二者間の連続によるネットワーク構成となっているからである。

どれも紐解いていけば、二者間の関係になる。


互いの期待の方向が一致していること。

これが良い期待の関係というのは前号で書いた。

ここにずれが生じると不幸を生む。

この方向がずれている時点で、もう既にうまくいかない。

(例:期待している側だけが勝手に期待している状態、または逆の状態。)


もう一つが、質量といえばいいか、期待の大きさである。

期待値である。

方向が一致していても、それが過剰な場合である。


期待というのは、ある結果を待っている。

つまり、遂行能力を信じているわけである。


しかし、期待値に対する能力が足りていないということは十分にあり得る。

そうなると、期待しているほどの結果が出ないので、がっかりする。

場合によっては、お互いに悲しみだしたり怒りだしたりする。


例を挙げる。

テストの結果が出た。

90点だった。

自分はもともと100点をとれると思っていなかったので、いいだろうと思っている。

相手は、自分の100点のみを期待していた。


そのがっかり感が伝わる。

がっかりする、されるという残念な結果である。


自分自身との関係にもいえる。

もともと、100点をとれるほどの努力を実はしていない。

しかし、自分はがんばったし、100点をとれると信じ込んでいた。


こうなると、90点で落ち込む。

自分はだめなんだと自暴自棄な気分になる。

「あんなに一生懸命やったのに」と考えるという、残念な結果である。

本来は、能力通りの結果が正しく出ただけである。


要するに、期待値が実際よりも高いと、怒りや哀しみを生む原因になる。

逆に言えば、期待を一切手放すと、怒りや哀しみは生まれない。


例を挙げる。


朝、教室が騒がしい。

物が散乱し、けんかも起きている。


静かな状態を期待していると、とても残念な気持ちになる。

しかし何も期待していないと、フラットでそれを見られる。

「散らかっているな」「何かあったかな」

という感じである。


総じて、学級担任は子どもに期待しすぎになりがちである。

「自分ができていないことは、子どもにもできない」という前提が頭から抜け落ちている。


さらに厄介な事実がある。

自分自身ができていないと気にしていることほど、子どもができていないと気になる。


じゃあ自分ができないといけないのだ、と考えると、不幸の元である。


ここには、救いもある。

自分ができていなくても気にならないことだと、子どもができていなくても気にならない。


要は、捉え方が全てである。


今の期待値を下げる。

自分自身へも、相手へもである。


しかし、未来へは大きめの期待をしておく。

今はこうでも、1年後にはこうなるはず。

変わっているはずという希望をもつ。

それが、「今」の原動力につながる。

これこそが目標というものの在り方であり、目標活用の有用性はそこである。


最悪、1年後にがっかりする分にはいいと割り切って考える。

むしろ、その時に期待通りになっていなくても、意外にがっかりすることはない。

がっかりするとしたら、いつでも「今」に期待しすぎているからである。

1年後も、1年後になれば「今」なのである。


期待値を下げる。

ストレスを感じているなら、それは自分にも他人にも期待しすぎていないか。

見直してみるといいかもしれない。

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