2016年3月28日月曜日

本の効能を体育の評価項目に例えると

「本」の持つ効能を、私が今専門にしている「小学校の体育」の評価項目に例える。

「読みやすさ」「面白さ」は、「関心・意欲・態度」である。
「提案性がある」「考えさせられる」というのは、「思考」。
「役に立つ」というのは、「技能」。
「新しいことが知れる」というのは「知識」である。

体育ならば、いわずもがな「技能」は重要になる。
ここは「関心・意欲・態度」にも相互に関わるので、絶対に外せない。

ところで、最近毎度で申し訳ないが、次の新刊が出た。

『ピンチがチャンスになる「切り返し」の技術』
http://www.amazon.co.jp/dp/4181907120
http://www.meijitosho.co.jp/detail/4-18-190712-9

本書にある「切り返し」自体は「役に立つ技能」である。
それを「興味・関心」を持って読んでもらえるよう、様々な「たとえ」を使ってかいてある。

また、様々な「失敗事例」を「知識」として身に付けてもらう。
さらに、根本にある根拠や理由を詳しく述べることで「思考」してもらうこともねらっている。

若い先生は、楽しみながら「技能」と「知識」を即座に身に付けてくれれば一番いい。
しかし、中堅層以上は、それよりも「思考」に目を向けて欲しいのである。

ぶっちゃけて言う。
切り返しの技術自体は、実はどうでもいい。
ある程度経験を積めば、いくらでも方法はある。
根本・本質は、「なぜそう切り返すのか」である。
その哲学というか思想というか信念というか、そういう部分が大切なのである。

そこには「観」が関わっている。
長くなるので、次号に続く。

2016年3月26日土曜日

「何だそんなこと」を身に付けるべし

次の本が、今回の新刊のタイトルである。
『ピンチがチャンスになる「切り返し」の技術』
http://www.meijitosho.co.jp/detail/4-18-190712-9
http://www.amazon.co.jp/dp/4181907120

実は、タイトルの頭に次の言葉がついている。
『新任3年目までに知っておきたい』

そう、もともと、若手向けである。
つまり、読みやすさをかなり重視している。
何十年も教育に関する研究を積み重ねて勉強してきた人なら、難解な学術論文のような文章も読めるかもしれない。
しかし、初任者が読む入門書としては、かなり厳しい。
「読みやすい」「面白い」というのは、教育に関する本を読む習慣がない人にとって、かなり重要な要素だと思っている。

私が今回の本を書くことによって成し遂げたいことは、若手の先生の手助けである。
新卒で療養休暇に入ったまま辞めてしまったり、学級崩壊の憂き目や保護者対応に疲弊し倒れていく、未来あるはずの若手。
「本人が悪い」という手厳しい意見があるが、果たしてそうであろうか。
どれぐらい、その苦しんでいる若手を具体的に助けてあげられただろうか。
大切なことを、きちんと教えただろうか。
「現場で失敗しながら学べ」という意見もあるだろうが、新卒で最前線での活躍、即戦力が求められる昨今、その学び方は厳しい。

それに、保護者が黙って待ってはくれない。
新卒だろうが30年のベテランだろうが、我が子にとっての大切な1年間であることは同じなのである。
うっかり手痛いミスをすれば、本当に厳しく追及される。
そんな「ピンチ」を「チャンス」に変える技術や知識が、今すぐ必要とされているのである。

もしかしたら、ベテランの先生方が読んだら、「何だそんなこと」と思うかもしれない。
しかし、はっきりと言う。それは違う。
若手は、「何だそんなこと」も、知らないのである。
自分がそうだったからわかる。
若い時に教えて欲しかったことが山ほどある。
少し知っていただけで、余計に苦しまないで済んだであろうことがたくさんある。
教育への目が厳しいこの時代、失敗がリカバリーできないことが多いのである。
そして、若手が異常なほどに多く、そこを教える中間層がすっぽり抜けているのである。

だから、その穴を私は埋めたい。
自分なんかと思わずに、自分だからできることをやりたい。
そんな思いで、今回の本を書いた。

自分が「若手」だと思う先生は、どうか一度読んでいただきたい。
必ず、あなたの役に立つことを保証する。
それが、ひいては子どもたちの未来を明るくすることにつながると確信している。

信じようが信じまいがどちらでもいいが、私は本が売れるかどうかはどうでもいい。
(出版社の方が聞いたら怒るかもしれないが。)
ただ、この本で書いてある内容が広まるかどうか、多くの悩める人たちの役に立てるかどうかが関心事である。
変な話、買わなくてもいいので、一度読んで、その内容を身に付けていただきたい。

2016年3月24日木曜日

「学力」の経済学

「モラロジー研究会」で、野口芳宏先生が紹介してくださった次の本がある。
『「学力」の経済学 』
中室牧子 著  ディスカヴァー・トゥエンティワン
http://www.amazon.co.jp/dp/4799316850

アマゾンの「教育学」のベストセラー1位の本である。
これが面白い。
「その教育に本当に効果があるのか」という切り口で、様々な教育の施策や手法を調査している。
この本のすべての根幹は「科学的根拠」=「エビデンス」である。

例えば、少人数学級。
学力向上に効果があるのか。
また、その費用対効果のほどは。

結論だけ言うと
「少人数学級は効果があるが、費用対効果が低い」である。

ちなみに、政府の施策の中で、最も費用対効果が低いことで槍玉に挙げられているのが、学力テストである。
なぜそう言えるか気になる人は、本書をご一読いただきたい。

とにかく、学校現場では「タブー」になりがちなところを、爽快に言い切るところが面白い。
著者が教師ではなく経済学者のため、完全な現場目線ではないが、だからこそ遠慮無く書かれている点が秀逸である。

この本の中で、「教育にお手軽なものはない」というのが結論として述べられている。
何でも、効果のある方法は、苦労する。
前にメルマガでも書いたが、だだをこねる子どもへの教育は、我慢が肝である。
悪銭身につかず、である。

売れ続けているには、理由がある。
本当におもしろい本だったので、紹介してみた。

2016年3月22日火曜日

「勝ち感」を持たせる切り返し

体育の、例えばゴール型ゲームの指導で、ゲームを行う。
そうすると、子どもは勝ち負けにこだわる。

まあ、当然である。
勝負ごとなのだから、勝ちにいく。

このとき、何をもって「勝ち」とするかが大切である。
勝負には勝った。
しかし、誰か一人のワンマンプレーで勝ったとする。
または、チーム内の誰かが嫌な思いをしたとする。
はたまた、勝って相手を馬鹿にしたり、傲慢になったとする。
こうなると、表面的に勝負として勝っても、実質の「負け」である。

価値観ならぬ「勝ち感」を大切にする。
その勝負に負けたとしても、チームとして前回よりも向上が見られたとする。
例えば、作戦自体はうまくいったが技能不足で失敗があったとか、初めてシュートをしたが外れたというような場合である。
この場合、チームがレベルアップしたという「勝ち感」を持つことができる。
そのために、教師がその視点を与えることが大切である。

今回の本にはこれは書いてないが、これも切り返しの技術である。
「先生、うちのチーム、また負けちゃったよ」の言葉に対し、どう切り返すか。
例えば、こんな風に切り返す。
「でも、〇〇さんがシュートうてたね!初めてじゃない!?すごい!仲間のお陰だね!」
要は、価値付けである。それによって、「勝ち感」を持たせる。

ちなみにこれは、決まった台詞ではない。
その場で、状況に合わせて、ぱっと出すのである。
ぱっと出すのであるが、準備はしてある。
どういう準備かというと、「勝負に勝つ」以外の価値を見出しておくことである。
そうすれば、自ずと切り返せる。
要は、切り返しの技術の核とは、哲学的な部分なのである。
何に価値を置くか、ねらいを置くかで、切り返しが決まる。

学級経営は、不断の選択の連続である。
だからこそ、学級経営における切り返しの技術を身に付けておくことは、前向きな選択につながる。
特に子どもの言動にどう返そうか悩む若い先生にこそ、身に付けてもらいたい技術である。

2016年3月20日日曜日

自分の中に答えを持つ

先月、単著が出版された。
著者インタビューもあるので、よければご覧いただきたい。↓
http://www.meijitosho.co.jp/eduzine/interview/?id=20160096

「切り返し」の技術。
そんな技術自分にあったかなと思うが、書いてみると、結構あったのである。
というより、どうやらこれで乗り切ってきたらしい。
「技術」と銘打ってあるが、中心は多分に哲学的な部分である。

ところで、この本の内容は果たして「正しい」のか。
そこについて考えてみた。

私が持つ、自分の最大の長所(見方によっては短所)の一つである。
それは、間違ってるかもしれなくても、とにかく発表する能力である。
突っ込める能力である。
恥をかけるということでもある。

これは、野口芳宏先生はじめ、諸先輩方のお陰でもある。
特に、今は休会させてもらっているが、俳句の会に入っていたのは良かった。
平均年齢65歳を軽く越え、上は90歳という中において、私なぞヒヨコもヒヨコである。
何を言ったところで、恥も何もあったものではない。
堂々と間違えられた。

正直、今回の本の内容が、正しいかどうかは、保証できない。
唯一、保証できる点は、どれも私が実際に使ってきたものであり、今の私を作ってきたという事実だけである。
そこに嘘、偽りは一切ない。

だからこそ、もしかしたら、批判の対象になるかもしれない。
世に著作物を発表するというのは、そういうことである。
それでも、出したいと思った。

教えている子どもの一人が、素晴らしい言葉を日記に書いていた。
「自分の中に答えを持つこと」。

「注意されるまで直さない」という行為に対し、これが原因ではないかと分析した様子。
要は、自分の答えがなく、何となくやっていないかという戒めである。
恐るべし、小学生。

要は、自分の中の答えとして、世に問うていきたいのである。

ぜひご一読いただき、加えて感想・コメント等もいただけたら、何よりの幸いである。

2016年3月18日金曜日

大切な人を「誘う」

メルマガ読者登録数が1000人を越えた。
私自身が宣伝している訳ではないのに、読者数自体は着々と増えている。
これは、「まぐまぐ」のスタッフの方々が「まぐまぐ大賞」のようなイベントをしていること、
「まぐまぐニュース」で記事を取り上げてくれること、
それを読んで「よし」と判断して登録をしてくれる読者の皆様がいるからである。
そして何より、方々で広めてくれる仲間の存在は大きい。

つまり、ある人に「よし」と判断されるものなら、広まるはずである。
判断してもらうためにも、宣伝は必要になる。
多くの人がフェイスブックやツイッター等のSNSを使って宣伝するのも有効だと思う。

しかし、一番の力は「口コミ」である。
信用する人が勧めてくれるものなら、信用できる。

単著が、2月18日に発刊され、ちょうど1ヶ月。
現在増刷されて2版である。
http://www.meijitosho.co.jp/detail/4-18-190712-9
http://www.amazon.co.jp/dp/4181907120

応援していただけると幸いである。
ちなみに、今回の本は、読みやすさと即効性に関して、かなり自信がある。
いい加減なものをすすめたら、信用を失う。
せっかくこれから何年、何十年お付き合いいただけるかもしれない方との縁が切れる。
だから、絶対自信のあるものしかおすすめしない。
このメルマガ読者の皆様に、自信を持っておすすめしたい。

メルマガの方もぜひ紹介していただきたい。
無料だし、いつでも解除できるから、こちらは気楽にすすめていただけると幸いである。
「いいと思ったものは紹介する」ということは、結構大切である。
私も、いいと思ったものはどんどん人に紹介する。
「この人に紹介してあげたい」と思うから、誘うのである。

何度も紹介している、野口芳宏先生の言。
「誘うという字は言偏に優秀の秀。」
この人は優れている、秀でていると思うから、言葉をかける。
逆にいうと、自分にとって「この人」と思わない限り、誘わない。

特に今回の本は若手教員向けに書いてある。
大学生などのまだ現場経験のない方や、子育て中、特に小学生を持つ親御さんにも役立つこと請け合いである。

周りにいる講師や若手の先生たちにも、おすすめいただけると幸いである。

2016年3月16日水曜日

アクティブ・ラーニングは、方法論?

例えば、今まで、官制と民間、無料と有料と問わず、様々な研修会に出てきた。
涙が出るほど感動した話を聞いている矢先、ふと横を見ると、隣の人が寝ていることがあった。
いや、あったというより、探せば必ずといっていいほどいる。
つまり、私にとってアクティブ・ラーニングが成立している研修会でも、ある人にとってはそうではないということである。
無論、逆の場合もある。
ある人に「すごかったね」と言われて「どこが?退屈すぎて、寝ないように必死だった・・・」と思ったこともある。

では、例えばグループ・ワークがアクティブ・ラーニングを成立させる手法の一つとして挙げられる理由は何か。
子どもが、主体的に「なりやすい」からである。
ポイントは「なりやすい」であって、必ずしも「なる」のではない。
そこを間違えると「グループ・ワークをしたからアクティブ・ラーニング」のような変な勘違いになる。

「講義形式」が非アクティブ・ラーニングの例の矢面に立たされる理由は何か。
多くの場合、講義形式での授業技量が低いからである。
平たく言うと、授業が下手なのである。
授業者が並大抵のレベルでは、講義でアクティブ・ラーニング状態にさせられないからである。

名人になれば違う。
例えば有田和正先生の生前の講義を受けたことのある人はわかると思うが、話しっぱなしである。
そして、爆笑&感動のオンパレードである。
色々なことを考えさせられる。
あれを見て、「講義形式はダメだね」という人を見てみたい。

要は、そういうことである。
アクティブ・ラーニングが求められる背景の根本・本質・原点は、子どもに社会をたくましく生きぬく力をつけさせること。
社会の求める本質は、一貫して変わっていない。
言葉と伝え方が変わっているだけである。

では、私たちはどんな授業をしていけばいいのか。
それは、目の前の子どもの姿を抜きにしては語れない。
私の目の前にいる子どもたちと、あなたの目の前にいる子どもたちは、全く別の人間である。
共通点は、子どもであることだけである。

対するは、〇〇さん。
さらに、△△君。
はたまた、□□さんはどうか。
文字通り「全員」が「アクティブ・ラーニング」の状態ならば、これは成功であろう。

結局は、ぼろい方法はない。
アクティブ・ラーニングは、方法論では決してない。
最大の教育環境は、教師自身である。
そんな真剣さの中にしか、アクティブ・ラーニングなるものも実現されないと考える。

2016年3月14日月曜日

講義でアクティブ・ラーニングはあり得るか 

アクティブ・ラーニングの話。

先日、野口塾IN木更津が開催された。
そこでのテーマが興味深かった。
野口芳宏先生へ依頼した講演テーマが「アクティブ・ラーニング」。
ビバ木更津技法研。
攻めのテーマ設定である。

野口先生といえば、現役時代から教師は
「チョーク1本、口1つ」
で授業できる力量が必要であることを主張されていた。
やたらとビデオ動画やプレゼンテーションソフトに頼ることに警鐘を鳴らしていた。
子どもが資料に注目すればいいというものではない。
子どもに何が残るのか。
「楽しい」の内実を問うていた。

そんな野口先生の今回の講演だが、完全に講義形式である。
途中問いが出るものの、とにかく聴く。
語りで、「とっくり」聴かせる。

そんな「講義形式」に対し、受講者である私は「受け身」であったのか。
否。
外面上は、聞いているだけである。
しかし、内面は、興味津々全身で聴き入り、思考回路がフル回転していた。
こういった文章で「発信」できるのが何よりの証拠である。

要は、根本・本質である。
本質的に学習としてどうなのか。
見た目がアクティブでも、内面は全然違うかもしれない。
また、見た目は黙って聞いているだけでも、内面は様々な感動やアイデアがぐるぐる渦巻いているかも知れない。

長くなるので、次号に続く。

2016年3月13日日曜日

これでばっちりアクティブ・ラーニング?

今最も「旬」なアクティブ・ラーニングの話。
旬というか、ブームというか、言葉が迷走しているというか、独り歩きしているというか。
とにかく、話題のキーワードである。

で、要は何なのか。
講演等で多くの方が語るのが「これをしたからアクティブ・ラーニング」ということは断じてない、ということ。

例を挙げる。
先日、地元の国語の大家である校長先生の話を聞く機会を得た。
やはり、同様のことを仰っていた。
この校長先生が何かやると、地域の何百人の先生がみんな真似する。
影響力が半端じゃなくある。
今回は、国語の授業に関して、実験的な取り組みがあった。
あくまで実験的なのである。
しかし、参観する限りでは、かなりうまくいっていた。
だからこそ、それを危惧して
「みなさん、真似しないでいいですからね。」
ということだった。

ここが非常に重要なポイントである。
この校長先生のした授業は、文科省の「アクティブ・ラーニング」の定義に当てはまるものであった。
発見学習、問題解決学習であり、教室内でのグループ・ディスカッション、グループ・ワークが活動に含まれていた。
「だから、これがアクティブ・ラーニング」となると、これが危ない。

これは、この先生がした授業に対し、子どもが「結果的に」能動的な協働学習をしたということである。
そのまんま同じ授業を自分の教室でしたところで、同じ結果が得られるとは限らない。
つまり、授業者が子どもたちを「アクティブ・ラーニングの状態」にさせた訳である。
決して「グループ・ワークをしたからアクティブ・ラーニング」という訳ではない。
アクティブ・ラーニングは方法論ではないということを、強く肝に銘じる必要がある。

以前にも書いたが、「アクティブ・ラーニングは、状態」というのが私の解釈である。
同じ授業を受けている目の前の子どもの中で、その状態の子どもとそうでない子どもが混在しているはずである。
子ども一人一人は、そんな単純な存在ではない。
子どもを十把一絡げに捉えるのは、雑であり、失礼である。

次号も、もう少しこのテーマで考えていく。

2016年3月11日金曜日

3.11追悼 「できる人が、できる時に、できることをする。」

今日が3月11日であることを受け、以前書いたの記事の再投稿。

被災地からの学び。

今回の一番の収穫は、現状のごく一部を少しでも知ることができたという点である。
「百聞は一見に如かず」の言葉の通り、直に触れることで初めてわかることがあった。

世間一般の「4年以上経ち、東北もだいぶ復興してきた」というのは、全くの誤認である。
福島の現状は、放射能の「除染」が進まないと、全く立ち入ることができない。
(先日、一部の地域で避難勧告が解除されたが、それに対してもまだまだ課題が多いようである。)

徐染作業は、気が遠くなるような困難さがある。
表面の土をすべて取り除く。
取り除いた土をどうするかも課題で、福島では、各所で黒い袋が山積みになっている。
竹などの土中に根を広く張る植物が生えていると、そもそも土の表面を除く作業にたどり着けないので、その伐採からスタートである。
これは、すべて人力である。

しかも、ボランティアの数は年々減る一方。
先の「復興十分進んできたでしょう」という誤認はその原因の一つであるらしい。
実際、そういう地域もあるが、福島は、全く人手が足りていないのが現状とのことだった。
ボランティアの作業内容自体も、地味で地道な作業である。
正直、これでどれぐらい前進したのであろうと思うほど、気が遠くなるほどやることがたくさんある。
しかし「千里の道も一歩から」で、一歩動けば一歩分、確実に前進している。

道徳資料等でよく使われる、次の話を紹介する。

「ハチドリのひとしずく」

森が燃えていました
森の生き物たちは われさきにと 逃げて いきました
でもクリキンディという名のハチドリだけは 行ったり来たり
口ばしで水のしずくを一滴ずつ運んでは
火の上に落としていきます
動物たちはそれを見て
「そんなことをして いったい何になるんだ」と笑います
クリキンディはこう答えました
「私は、私にできることをしているだけ」


正直、被災地に何かしらの影響を与えられるのだろうかという疑問が、心のどこかにあった。
やってみて、一つの解が見えた。
被災地の中の一人の方が、本当に困っていることをやらせていただく。
ボランティアセンターに掲げられていたのは、次の言葉。
「できる人が、できる時に、できることをする。」
その積み重ねがあれば、きっと何か変わってくるだろうという、そういう感じがした。

私は、正直、そんなにたくさん現地に足を運んで働くことはできない。
しかし、その分、情報発信はできる。
子どもたちにも伝えられる。
一人一人が、自分にできることを、自分の方法でやるというのが大切なのではないかと思う。
「掃除に学ぶ会」で見た「一人の一歩より百人の百歩」という言葉に通じる。

自分の力は小さい。
ただ、それが集まり、さらにこれが積み重なることで、何かが変わってくるのかもしれない。
この前にも後にも、数え切れないほどのたくさんの方々が、数年にわたって交代しながら繰り返し続けていくことになる。
必ず何か変化がある。

自分は、今回被災地に対してできたことはほとんどなかったが、被災地から学ぶことは多くあった。
この学びを今回で止めずに、被災地に学ぶということをこれからも少しずつ続けたいと思う。

2016年3月9日水曜日

一流の人は、みんなが諦める時ほど、全力。

一流。
いい響きである。
一番は一人でも、一流はたくさんいる。

一流の人は違う。
何が違うのかというと、何もかも違うのである。
いや、違うからこそ、一流なのであろう。

ならば、それを観察し、真似すればよい。
例えば、次のような発見があった。

一流の人は、みんなが諦める時ほど、全力。

野球を例にする。
普通の選手は、大差で負けている試合で、ぎりぎりの盗塁はしない。
一流選手は、そこで盗塁する。
そこで一つ進塁したところで、大差に変わりはない。
しかし、そこで敢えて盗塁するのが、一流選手である。
その小さな突破口から、大きく穴が空くことが往々にしてある。

サッカーなら、どう見てもゴールラインを割りそうなスルーパスを出された時。
普通は、諦める。
そこを、「馬鹿みたい」にダッシュして追う選手がいる。
100回に1回かもしれないが、芝の関係等で、ボールが一瞬止まることがある。
この千載一遇のチャンスをものにできるのは、無駄かと思うボールを追っかける選手だけである。

営業の例。
アフリカのとある地域で靴を売ってこいと言われた時。
普通の人は「この地域の人は、靴をはきません」といって、一足も売らずに帰ってきた。
ある一流の営業マンは「この地域の人は、靴をはかないため、いくらでも売れます。」といって、市場開拓をした。
お陰で、その地域の人はみんな靴をはくようになったという。

結論。
一流に近付くためには、みんなが諦める時がチャンス。
反対されたり、無駄だと言われる時がチャンス。

一流に倣って、そんな時こそ諦めずに全力を出したい。

2016年3月7日月曜日

「ボールペンの法則」

一つ、法則を発見した。
「ボールペンの法則」という。
簡単に説明する。

長年使っている、愛用のボールペンがある。
それと似たものをスペアでたまたま手に入れたことが何度かある。
この、スペアを手に入れる度に、どちらか(大抵新しい方)をなくすのである。
「いや、そんなのはお前だけだ」と言わず、最後まできいていただきたい。

理由を考えた。
いつもなら、それしか頼れないから、肌身離さず、なくさない。
しかし、スペアがあるとなると、「あそこにも置いてあるからいいか」となる。
そうすると、あっちこっちに置くようになり、結局なくす。

そういう訳である。
つまり
「ボールペンの法則」
とは、
「余計なものをもう一つ持っていても、結局一つになる。」

ということである。

だから何だといわれそうである。
こういう一見どうでもよさそうなことを、実践に結びつけるのが大切である。

要は、一点集中である。
色々あると、気が散る。
マルチタスクをこなせる能力のない人にとっては、これしかない。
(一般に、女性の方がマルチタスクに強いらしい。)
あれこれと手を広げすぎず、とりあえず一つ決めたものをやり通す。
実践においても、結構大切なことであると感じた次第である。

2016年3月6日日曜日

念=今+心  必=心+楔

「念」と「必」という字は、4年生の新出漢字である。
両方とも、心に関する漢字である。

「念」はそのまま「今」に「心」。
今に心を集中している状態である。
つまり「念入り」というのは、心を込めて行うということ。

例えば「念入りに掃除する」というのは、心を込めて掃除するということ。
当然、隅々までやることになる。
「念入りにチェックする」「念を入れて聞く」など、心を込めて行う時に使う。
「きちんと」よりも「念入りに」の方が、伝わるのではないかと思う次第である。

「必」は、「心」に楔(くさび)を打ち込んだ字である。
心に決めるという意味になる。
「必ずやる」という時、後退は許されない。
もしこれを言うとき、言わせる時は、「覚悟」が「必要」になる。

漢字の学習を、漢字の暗記で終わらせない。
この素晴らしい文化を、大いに教育に生かしたい。

2016年3月2日水曜日

節分 鬼は悪だが・・・

メルマガだとタイムリーだったのが、うっかり投稿し忘れてた。
節分の話。

悪い心を「鬼」に見立て、追い出す風習である。
私も、毎年必ずやっている。

そして、毎年必ず、「鬼」について考える。
怠け心、無礼、不誠実、色々いる。
鬼は、悪い奴だから、やっつけられるのである。
それらの「鬼が悪い」と決めたのは、人間である。

悪のアンチは善。
善は個人的なので、「正義」に置き換える。

正義。
英語では「justice」。
西洋占星術のタロットカードに、このカードがある。
右手には権力を表す剣を持ち、左手には平等と正義を表す天秤を持つ。
裁判所に目隠しをした女神の像があるが、それである。
見た目では判断が曇るので、心の目で見るために、目隠しをしている。

ところで、教室の正義は、誰が司るのか。
天秤は、剣は、誰が持っているのか。
全て教師が持っている状態は、辛い。
かといって、剣を子どもに渡すわけにはいかない。
できれば、剣は持っているだけで、極力使わないのがベストである。
全体のバランス(秩序)を保ちつつ、裁く行為は極力控えたい。
「悪いこと」をする子どもにも、その子どもなりの理由がある。
それを聞いた上で、「悪いこと」とは何かを教え諭すようにしたい。
大体、他人様を正しいとか正しくないとかどうこういう以前に、自分自身が正義かどうか、甚だ怪しい。

善と悪。
白と黒。
しかし、実際の世の中は、グレーがほとんどである。
グレーな事象に対し、どう反応するか。
正すこともあれば、見逃すこともある。
学級経営は、そんなことの繰り返しであるように思う。
自分の中の軸は大切にしつつ、相手の正義にも思いを馳せるようにしたい。
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