2022年2月26日土曜日

管理できるもの、できないもの

 学級経営に関して、「管理」ということについて思うことを書く。


ある時はたと気付いた。

人が他を管理する対象とは何か。

それは「モノ」である。

あるいは「環境」である。


モノは管理しないと、滅茶苦茶になる。

放っておけば増えて溜まるし、汚れて劣化する。

それらを捨てたり手入れしたりするのが管理である。


物理的環境も管理対象である。

例えば換気をして空気の入れ替えをする。

空気の管理をしているということである。

加湿器の水を取り替えたり、フィルタを乾燥させたりするのもそうである。

放っておけば空気も水も濁るため、必要である。


では「人間」は、管理できるか。


自分自身の管理を考える。

これは、ある程度できる。

自分はモノではないが、思考も感情も体も自分のもっているものである。

自分の意思で操作できる部分がある。

(ただし心臓の鼓動や細胞分裂など、意思で操作できない面の方が圧倒的に多い。)

そしてそれらは、他の人には一切操作できない。


眠いから横になる。

体のために自然なものを適度に食べる。

お酒を飲み過ぎないように適度でやめておく。

リラックスする音楽を聴く。

自分自身へのご褒美をプレゼントする。

イライラしそうな場から離れる。

体調がすぐれないので、早めに退勤して心と体を休める。

これらは自分自身の心、体、感情への管理である。


逆の行為をすれば、それは管理不行き届きであり、自分自身を壊すことになる。


これは、他人の管理はできないということでもある。

人を相手にお世話ならばできるが、管理する対象ではない。

心と体と感情は、それぞれ固有のものだからである。


学級担任が管理できるのは、子どもそのものではない。

子どもを取り巻く環境の方である。

子ども自身を管理することは、その子ども本人以外の誰にもできない。

子ども自身は、本人以外の所有物では決してないからである。


対象が機械やロボットなら管理できる。

命令に対し実行するようプログラミングされており、自在に操作できる対象である。


子育てや学級指導において、子どもをロボットにしてはならないということは、今までも方々で話してきている。

子どもを管理対象として見ているから、子どもがロボットのようになる。

「右向け右」で一斉に右を向き、「勉強しなさい」で勉強する。

こうなってしまった後、この命令を出す人がいなくなったらどうするのかである。


ロボット人間では、高性能の本物のロボットには到底勝てない。

人間がロボットに圧勝できるのは、ロボットにできない部分である。

よく命令をきく人間は、自分が困った事態になった時、思考停止でフリーズしてしまう。

あるいは、適切な命令と決定を下さない他人を責める思考になる。


学級経営における子どもへの指導とは、管理ではない。

指し導くだけで、それを選ぶかどうかは結局のところ本人次第である。

それは大人相手の場合と同じである。


極端な話、勉強をしないというのも本人の意思である。

宿題を一切やらない「のび太君」のような人間をどうするかというのが、学級経営の方針である。

全ての人間は、自由意志をもった存在であり、それは尊重されるというのが人権である。

人権は、他の人権を侵害しない範囲で最大限尊重されるものである。


人間を管理しようとすると、失敗する。

管理すべきは環境である。

集団に危害や迷惑をかける行為に対しては、集団を守る方向へ対象に働きかける。

これが環境への管理である。


その時、場合によってはその人の行動を制することもある。

罰則がないだけで、警察が交通安全を守るよう命じるのと同じである。

スピード違反も駐車違反も、周囲への危険行為、迷惑行為だから制限がかかる。

これは適切な管理対象である。


逆に言えば、他に迷惑のかからない行為に関して、制する理由はない。

怠惰な行動も奇抜なファッションも趣味も行動様式も、他人には関係ない。

それを周りがどう感じるかも、周り次第である。


ジェンダーへの捉えもそうである。

ここへの理解が広がったからこそ、今少しでも生きやすくなってきているのではないか。

個性の尊重と「普通」は両立しない。

「普通」があればそこから逸脱したものは修正すべきもの、あるいは排除対象となる。


しかしながら、大人が子どもに対し、不必要に過剰管理しがちになってしまうのはなぜなのか。

それは、大人自身が他の大人に管理されているからではないか。

管理されているのが当たり前になれば、自然そのように他人にも扱うようになる。


例えば勤め人であれば、給料も勤務時間も当然管理職の管理対象である。

これを適切に管理されることに不平を言うのはおかしい。

給料や勤務時間がおかしいのであれば、それは適切に管理できていない証拠である。


逆に、自分自身の自由意思までを管理されていたら、これはおかしな異常事態である。

どう感じるか、どう思うか、何を選択するか、何を言うかまで制限されていないか。

正しいことを正しいと言えない空気、黒を白と見ろという空気に毒されていたら、危険な兆候である。


あるいは、そうなっているのに、そうとすら感じなくなっていたら、いよいよ末期症状である。

自分がロボット化している証である。

この状態に自分がなっていると、仮に自分が子どもをロボット化していても、それに気付けない。


よい習慣化というのがある。

自分にとってよい行動をとっていても、それに全く気付かない自然な状態。

ごみを拾うのは、場をきれいにして運を拾うのと同じだから当たり前というような習慣化である。

目標に向かって何かをひたすら積み上げるのが楽しくて当たり前という状態。

子どもがレゴやパズルに熱中しているのと同じ状態であり、本人は努力とも思っていない状態。

これがよい習慣化である。


一方で、悪い習慣化もある。

自分自身へ及ぶ危険を回避するために、笑いたくないのに笑う。

怒られないよう、嫌な目に遭わないように努力する。

考えると辛いから何も考えないように決まったことを命じられるままにする。


自分自身をロボット化しないことである。

ロボット化とは、他人に自分を管理させている状態である。

それに対抗するには、自分自身を自分で管理することである。

同時に、他人を管理しないことでもある。


抽象的に聞こえるかもしれないが、学級担任には特に大切なことだと考える。

自分自身を大切にして、他者も尊重できる心の余白をもちたい。

2022年2月19日土曜日

相手の要望にどう応えるか

相手の要望にどう応えるかについて、オンライン学習会で話し合った。


学校に限らず、勤めていると、様々な場面で多種多様な要望をされる。

各仕事の顧客から要望が来る。

当然と思える要望もあれば、そうでないものもある。


例えば、製品へのクレーム電話や、飲食店での商品へのクレーム。

電話対応をしている人や店員さんには本来罪も落ち度もない。

しかしお客さんからすれば「会社」「お店」という枠組みで、ここに言うしかない。

そう考えると、理不尽な怒りをぶつけられることもあるが、これはある程度まで仕方のないことである。


ただ「だから返品させろ」とか「タダにしろ」とかの無理な要望に安易に応じる訳にはいかない。

第一その人はその店の責任者ではないし、お客さん側の使用方法等の問題という場合もある。

ではどこまで初期対応すべきかというと、最低限の仕事としては、訴えをよく聞いて責任者に報告するところまでである。

責任者、決定権者のやることまで勝手にしては、問題がこじれるばかりである。


問題は、仕事の線引きである。

やれるところと、やれないところ、やるべきところと、やるべきでないところがある。


社会では、役割が明確な仕事がある。

例えば、道端の落とし物を届ける先は、交番である。

火事が起きたら真っ先に報告するのは消防署である。

道路などの公共物が壊れていたら、報告先は役所である。


このように、社会において対応先が明確なものは問題ない。


問題は、誰が対応すべきか明確にわからないものである。


道端にごみが落ちていたとする。

風で飛ばされてきたのか、誰が落としたのかも勿論わからない。

気になるが、それを落とした人も、解決してくれる人も明確に存在しない。


これを拾って処分するのは、誰の仕事か。

多分、誰の仕事でもない。

「役所の人を呼んで拾ってもらう」というのは、不法投棄などの大きなごみの場合だけである。


だから、適当に誰かが拾って処分するしかない。

大谷翔平選手のように「運を拾っているだけだ」と前向きにひょいひょいと拾う人もいるだろうが、少数派である。

恐らく多くの場合、それが落ちていて最も困るという人が拾うはずである。

ある店の前にごみが引っかかていたら、多分その店の人が拾うだろう。

自分の店先にごみが落ちているのはいいものではない。

それぐらいのものである。


学校では、その手の仕事がかなり多い。

落とし物にしても、まず気付いた人が拾い、持ち主を探す。

それでもわからない時に「先生、落ちてました」が初めて発動する。

そういうように指導しておかないと、どんどん持ってきて持ち主不明の物で溢れかえる。


ごみは、気付いた人が拾うのが理想である。

しかしながら、子どもたちは紙ごみやストローの袋などがそこら中に落ちていても一向に構わないということも多い。

この場合、気付いたら拾って捨てることを指導する必要がある。


学校は、それら誰がやるか曖昧なものに対し、最終的に「先生、どうにかして」となりがちである。

これは学校の宿命といってもいい。


落ちているごみなど些細なことであれば、気付いた人で拾えばいい。

しかし、こと人間に関することであれば、誰の課題なのかということが大切になる。


例えば「Aさんをどうにかして」という要望に対しては、担任としては対応せざるを得ない。

しかし、本来は他人をどうこうすることは他人にはできない。

それは担任であっても同じである。

できることならできるが、できないことはできない。

「ない袖は振れぬ」のことわざ通りである。


クラス会議への議題投稿やお悩み相談BOXなどに時々あるもので、「Aさんをどうにかして」がある。

(ちなみに、クラス会議では個人名を挙げたものは議題にしない。

まず投稿者本人に直接話を聞く。)

これは、誰の課題なのか。


Aさん本人はどうにかしたいと思っていないのだからAさんの課題とはいえない。

Aさん自身が「どうにかしたい」と思っているのであれば、それが初めてAさんの課題であるといえる。

その課題をクリアする手助け、サポートをするのは、担任の仕事といえる。

しかしその場合であっても、課題としてはあくまでAさんのものである。


Aさんをどうにかして欲しいというBさん自身の課題かもしれない。

この場合であっても、担任はじめ周囲は手助けをするが、あくまで課題解決者はBさんである。

決して課題解決を他人が代行してあげてはいけない。

もしそれをしてしまうと、Bさんが課題解決をしたことにならず、Bさんには後々また同じような課題が提示されるからである。

子ども同士のけんかに大人は口を出すなとよく言うが、このためである。

下手に大人がしゃしゃり出ると、後々に悪い結果になるのは自明である。


他人をどうにかして欲しい、変えて欲しいという要望は、大抵本人の気持ちの課題である。

ただ、もし担任であれば、どうにもできないと突っぱねるのは多くの場合悪い結果を生む。

まず本人の気持ちにある程度寄り添って話を聞き、どうしたいか本人が決め、それを遂行するための手伝いをするしかない。


他人の課題を一手に引き受けてしまわないこと。

あくまで寄り添う姿勢に留める。

相手の要望にどう応えるかということへの一つの回答である。

2022年2月10日木曜日

同じ見た目と本質の違い

 教室には、大抵掲示物のスペースがある。

よく側面や後方面に設置されている、画鋲を刺しておける壁の部分である。


ここにおいて、時折とんでもなく硬い場所がある。

見た目はどれもゴム状の凹凸コーティングがされていて「掲示できます」という風貌だが、下地が全く違う。

モルタルのような柔らかい下地であればサクッとスムーズに刺さる。

一方で、コンクリートのような硬い下地のものだと容易には刺さらず、無理すると画鋲か爪の方がへし折れる。

しかし、両者とも見た目は全く同じなのである。


こういうことは身の回りのあらゆることに溢れている。


例えば、生鮮食品。

見た目がそっくりで同じような野菜でも、育てられた環境によって、そこに含まれる栄養素は全く異なる。

鶏卵でも、狭いケージの中でひたすら生まされ続けたものと、広い敷地でのびのび平飼いされた鶏が生んだ卵は、中身が全く違う。


(ちなみに、牛肉の「霜降り」にするには、敢えて運動させずにストレスをかけて脂肪をつけさせる方法もあるという。

本当に良い環境で大事に育てられて育った牛の高級な肉と、見た目だけだと見分けがつかない。

考えてしまう話である。)


例えば、製品。

ブランドバッグの偽物はかなり精巧に似せて作ってあるが、全くの似て非なるものである。

宝石も本物とイミテーションは見た目が同じなだけで、内実は全く異なるものである。

(かつてココ・シャネルは敢えてのイミテーションジュエリーをつくって流行させたそうだが、これも反骨精神からである。)


家電製品なども、かなりの似たものがある。

一つ大ヒット商品が出ると、それを真似て他社からも次々とそっくりで安価なものが出る。

しかし、やはり先駆者であるオリジナルのものは、その性能や品質において他に抜きんでたものがあることが多い。


100円均一のものはコストパフォーマンスを考えると、それなりに優秀であるものも多い。

しかしやはり100円の品であり、設計段階から材質まできちんと作られた本物とは全く違う。

要は、使い方次第である。


物事は、見た目だと判断を誤る。

見た目はあくまで見た目である。

良いと判断されるための装いも大切だが、その本質を見ることがより大切である。


教育においても同じである。

子どもを見る時も同じである。

見た目や現象で判断すると、本質的な判断を見誤る。


一番わかりやすいのが、テストの点数である。

同じテストの100点でも、一体どういう背景でとれた100点なのか。

元々勉強が好きで楽々とった100点なのか。

本人が一念発起して努力の末に勝ち取った100点なのか。

誰かに無理矢理やらされてとった100点なのか。

不正行為による100点なのか。


どれも見た目は「100点満点」である。

通知表のAやBにも同じことがいえる。


子どもの失敗にもいえる。

現象としてはどれも同じように見える失敗にも、背景がある。

本質を見ない指導は、子どもの成長を阻害する可能性がある。

本質を見事に捉えることができれば、失敗を大きな成長のチャンスにすることもできる。


見た目に惑わされないことである。


自然な姿が出ているほど、それは本質に近い。

自然の中でのびのび遊んでいる天真爛漫な子どもたちは、その時自分を作っていないから、見た目が本質そのままである。


一方で、社会におけるお利口な子ども、賢い子どもは状況に応じて上手に「作る」ので、そのまま見ると本質を見誤る。

作られた姿が出ている時ほど、本質とは真逆のことが多い。

「大人が見ている時だけ、評価される時だけがんばる」というのが最も顕著な傾向である。


やたらと反抗的な子ども、あるいは問題行動も、見た目で捉えると本質を見誤る。

大抵、外向け、社会向けに作った姿や表出した現象である。

生意気で反抗的、あるいは「どうしようもない」と見える子どもの心の底にある苦しみという本質にこそ、目を向ける必要がある。


見た目と中身は違う。

広告やパッケージ、華やかな見た目づくりが巧みな昨今こそ、本質を見直し、見極められるようにしたい。

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