2015年6月29日月曜日

学級づくりの鉄則 真面目な人に損をさせない

6月も終わる。
学級の子どもとの関係も大分温まってきた頃である。
一方で、5月から7月にかけては、学級でのトラブルも増えてくる時期である。
遠慮がなくなり、子どもたちの本来の姿が現れてくるようである。

トラブルはチャンス。
トラブルやピンチにこそ、成長の種が隠れている。

ところで、トラブルが起きると、それを起こした当事者に目が向く。
その対応に追われる。
当然である。
放っておけない事態もある。

当然であるのだが、その対応中にも、真面目にやっている子どもがいる。
トラブルがあった時にも、平時と同じようにきちんと行動してくれる子どもがいる。
むしろ、担任がいないからこそ自分がしっかりしなきゃと進んで動いてくれる子どもがいる。
それに追従してがんばってくれる子どもがいる。

ここを絶対に落とさない。
以前にも何度も書いたが、大切なことなので繰り返し述べる。
手のかかる子2割、普通以上によくやってくれる子2割、中間のどちらにも動く子6割である。
この6割がどちらに引っ張られるかで、クラスの質が決まる。

よくやっている子どもを中心に声かけをすれば、6割はそっちに引っ張られる。
最後の2割の子どもは、計8割となった真面目な子ども集団によってやがて引き上げられる。

手のかかる子どもを中心に関わっていけば、6割もそっちに引っ張られる。
よくやってくれるはずの2割の子どもは、不真面目な8割相手に馬鹿馬鹿しくなって、やがて真面目にやらなくなる。

様々な学級経営の方針があろうかと思う。
私の学級経営の一貫した方針は「真面目な人に損をさせない」である。
トラブルを起こす子どもになるべく「負の報酬」を与えない。
たとえ厳しい叱責であっても、注目行為は子どもにとって報酬である。
(暴走族はその最もわかりやすい典型的行為である。注目されること命である。)
叱責の前に、きちんとやっている子どもを認め、感謝の念を伝える方を優先する。

繰り返す。
真面目な人に損をさせない。
不真面目な人は、「とりあえず」相手にしない。
あくまで、とりあえず。
相手にする優先順位は後回しである。
なぜなら、きちんと並んで待っている真面目な人に先に対応すべきだからである。

お店を考えればわかる。
例えば入場待ちで並んでいる列があるとする。
入場するため、規則を守り、整然と並んで順番が来るのを待っている。
そこに割り込みして先に見てもらおうとする人が入ってきた。
そこを相手にして先に入れたら、真面目に並んでいた人が怒る。
その怒りの矛先は、割り込んだ人というより、そこを認めて対応した店側にいく。
当たり前である。

これは、社会全般に共通する、健全な集団づくりの鉄則であると思う。
真面目な人に損をさせない。
ここを外さなければ、大きく崩れることはないかと思われる「肝」の部分である。

2015年6月26日金曜日

「きれい好き」な人と「きれいなもの好き」の人

担任する子どもたちによくする話。

世の中には、「きれい好き」な人と「きれいなもの好き」の人がいる。

前者は、きれいにすることが好きなので、掃除を好み、公共マナーが良い。
当たり前だが、きれい好きな人はポイ捨て等は絶対しない。

後者は、自分と自分の周りがきれいであることが大切で、汚い物にさわれないので、掃除が嫌いである。
空き缶やたばこの吸い殻等のゴミは汚くて邪魔なので、そこら辺に平気で捨てる。

要は、掃除の取り組み方でわかるという話である。
トイレを自分で掃除する「きれい好き」の人は、自分が使う時に汚さない方法を考えて実行する。
トイレを自分で掃除しない「きれいなもの好き」の人は、平気で汚れる使い方をする。

ちなみに、これは給食等でも現れる。
食べた後の食器がきれいな人は、普段食器を自分で洗う人。
食べた後の食器が汚い人は、普段自分で洗わない人。
食べ物を大切にする人は、食事を自分で作る人。
食べ物で遊ぶ人は、自分で作ったりしない人。(残す残さないの話とは別である。)
あくまで傾向ではあるが、そういう風になる。

まとめると、生産者意識(主体)か消費者意識(受け身)かということである。
受け身の「御客様」(子どもの場合は「御子様」)意識の人は、迷惑をかけても何をしても平気である。
主体者意識のある人は、相手が喜ぶことやマナーを守ることを考える。

特定の授業の時だけ、「主体性」を求めてもうまくいくはずがない。
24時間、主体者意識が必要である。

サービスされるのが大好きな「きれいなもの好き」より、サービスするのが大好きな「きれい好き」を育てたい。
私なら、掃除で一点突破である。
みなさんなら、どうされますか。

2015年6月24日水曜日

一流選手の動きはなぜ美しいのか

運動会、陸上大会と運動行事の多い1学期、体育主任にとっては正念場のシーズンとなる。
これらの行事に「走る」ということの指導は外せない。

次の本が、体育の指導を考える上で大変参考になる。
『一流選手の動きはなぜ美しいのか からだの動きを科学する』小田 伸午著  角川選書
http://www.amazon.co.jp/dp/4047035025

第一章の「主観と客観のずれ」の冒頭にある「もも上げ神話」の話からして面白い。
要は、走る段階で「ももが上がる」という動作が入ることを図示したら、「ももを上げれば速く走れる」と誤解されたというもの。
この「ももあげ神話」を誤解されたゲラルド・マック氏の言を文中から引用する。
=============================
動作は「そうなる」のであって、「そうする」のではない(以下省略)
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この本もまさにこの通りの内容である。
いわゆる「ハウツー」本ではなく、理論の本である。
あくまで理論上「そうなる」という話であって、直接「そうする」ことを指導しても上手くはいかない。
動きの指導は、本人の感覚によって、千差万別である。

理論だけの指導は、通用しないので使えない。
ハウツーだけの指導は、応用が利かない。
理論とハウツー(具体)の両方が欲しい。
ハウツーは多いのに理論が弱いと思っている方には、おすすめの本である。

2015年6月22日月曜日

感謝は気付き~「〇〇の日」は気付きのチャンス~

ところで、昨日は父の日だった。
父の日は、母の日があるから、後になってできたという、やや軽い扱いの日である。
家庭内では、やはり「母」なのである。
という訳で、メルマガで取り扱ったのが母の日だったので、今更ながら母の日の話。

母の日。
「子どもの日」と名称が似ているが、子どもの健やかな成長を願う日であるのとは訳が違う。
あくまで「母への感謝」を具体的に伝える日である。
(父の日も同様なのだが、かなしいかな、後付けの感は否めない。)

母親がしていることは、母親的には「当たり前」のことである。
しかしこれはあくまで「お世話」の行為の主体者である母親の感じ方である。
お世話されている側が「当たり前」になってはいけない。
しかし、空気と同様、ふんだんにありすぎるものに対しては、当たり前すぎて感謝の気持ちを持ちにくい。
例えば水泳をすると、普段全く意識しない空気(に含まれる酸素)が有難いものになる。
「有ることが難しい」環境を体験して初めて「有難い」ことに気付く。
本当は有難いのに当たり前すぎるものに対しては「気付く」ためのきっかけが必要である。

以前にも何度も紹介しているが、「当たり前の有り難さ」について考える時、震災の時の給食を思い出す。
普段当たり前のように食べて、余るから残している給食が、急に少量の質素なものになる。
いつもよりずっと質素な白飯とおかず一品の献立が、本当に有難く感じられる。
当然、残飯など全くない。
食料の調達が、たくさんの人の手によってやっと成り立っている事実にも思いが至る。
自分が、いかに恵まれた環境で、たくさんの人々に支えられていたかにも気付く。

そんな訳で、母の日は感謝を伝える日であると同時に、感謝に気付く日でもある。
家族内で多分最も重労働をこなしている母親の姿に思いを馳せる日である。
見回せば、あらゆることの感謝に気付く種がいっぱいある。
「当たり前」の「有り難み」を感じられるようにしたい。

2015年6月18日木曜日

感謝の心を持つ

自分のブログを見直していて、アクセス数が多い記事がいくつかあったので眺めていると、次のものがあった。
もう4年近く前の記事である。

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感謝の話を子どもにした時、次のように言葉が返ってきた。
「今日の感謝は、先生が授業してくれたことです。」
感謝に耐える授業をしていたかは相当疑問だが、そこは別として、嬉しい言葉である。

次のように返答した。
「ありがとう。
先生も、みんなに感謝しています。
先生が授業するのは、仕事だから当たり前ですよね?
みんなが授業を一生懸命聞くのも、そうすべきことですよね?
でも、そういう当たり前のことに感謝するのって、すごく大切です。
もしお母さんに、母親はご飯つくるのが当たり前でしょって言ったら、大変なことになりますよね?
当たり前のようにしてもらえることに感謝する素直な心を持ちたいですね。」

子どもの言葉にはっとさせられた。
一生懸命授業を受けてくれる子ども達に、深く感謝の念を持ちたい。
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6月。忙しいと感じている人が多い。
自分も、公開研究会を控えていて、今は尚更である。
じゃあ、大変なら明日からもう来なくていいよと言われたら、それは困る。
仕事ができるということの有り難さを見直す機会である。

高校、大学、採用試験と、受験をし続けて切望して就いた教職の仕事。
そして尊敬する先生が勤務していたこの学校で働けることの有り難さ。
そこに送り出してくれた方々。
ここまで関わらせてもらった全ての人たちと、今目の前で関わらせてもらっている全ての人たち。
このこと自体にも、改めてもう一度感謝の念を持ちたい。

2015年6月16日火曜日

歩き続ければ、大丈夫。

教育の話題から少し離れて、読書の話。
次の本を紹介する。

『歩き続ければ、大丈夫。』佐藤芳之 著 ダイヤモンド社
http://www.diamond.co.jp/book/9784478022382.html

23歳でアフリカ・ガーナに渡り、35歳でケニアでナッツ・カンパニーを始め、一大ビジネスを築く。
それだけ聞くと「運良く大成功して大金持ちになった人ね。」という感じだが、全くそうではない。
50代になっても60代になっても、なお苦労と失敗の連続である。
そして70歳を超えた現在も新しいビジネスに挑戦している。

例えば、文中に次のような言葉がある。
「やって後悔することなど、まずないのです。」
「不安がないという状況はつまらない」
「オーナーシップがあれば、仕事は楽しくてたまらなくなります。」
「私がやりたいのはおカネを儲けることではなくて、物をつくること。」

どれも、ナッツの会社を立ち上げ、試行錯誤で経営していく中での言葉であるが、どの仕事にも当てはまる。
読むとやる気が出るタイプの本で、私にはかなりヒットした。
特に今のこの時期、忙殺されながら、何のために仕事をしているのかわからないという人にはおすすめである。

2015年6月14日日曜日

連休前の宿題をどうするか

金曜日に宿題を出す。
土日がある分、宿題をやる時間がいつもよりはるかにたっぷりある。
(まして、ゴールデンウィークのような連休があれば尚更である。)
当然、休み明けは、宿題をきちんとやっている子どもが多い。

と、いうのは大間違い。
実際は、テストをやっても提出物を見ても、休み明けは最も出来が悪い。
「休みの日は時間があるからできる」というのは、一見もっともらしいが、真実ではない。
ここを当たり前に知っておく。
すると、子どもに対して妙に腹を立てたり、または自己嫌悪に陥ることが少なくなる。

では、いつできるのか。
毎日の決まった時間だけである。
ここは、習慣の力の発揮どころである。
だから、金曜日の夕方は勝負である。
夜には、その子どもの大好きなアニメが目白押しかもしれない。
だからこそ、そこは全力を出して、夕飯の前には必ず終わらせる。
こういうことは、知識として子どもに教えておいてあげる。

次の日は通常の登校日だと思ってやる。
土曜日や、まして連休明け前日の夜まで引き延ばすべきではない。
便秘と同じで、ずっと何となくすっきりしない感じで過ごすことになる。
休みの日は、やるべきことから離れて、心おきなく過ごさせたい。

2015年6月11日木曜日

「きちんと」を考える

「きちんとした子ども」。
この字面から、どういう印象を受けるか。
プラスかマイナスか。

これは、実物をみないと何ともいえない。
「一見きちんとしている」のか「芯がきちんとしている」のかで、雲泥の差がある。

見分ける方法がある。
それが「素直さ」「明るさ」である。

「一見きちんとしている」の方は、どこか暗い。
目がどこかすわっていて、濁って見える。
行動にもどことなく裏やわざとらしさが見える。
「先生の前でだけ」という感じがある。
外に出るとマナー違反やルール破りが通常以上に多い。
形式的、機械的、強圧的な指導でいくと、この種の「一見きちんと」になる。

「芯がきちんとしている」の方は、底が明るい。
目の奥が輝いている。
誰に対しても素直であり、どこでもきちんとしている。
(そして、かわりに家の中で結構だらけていることが多い。
家庭訪問で「家だとだらしなくて」と親に言われる子どもである。
大体が、素直で本当に良い子である。
ただこの公的モードは疲れるので、一番安心できる家庭で素の自分がさらけ出せるようである。)
外に出ても、マナーがしっかりしており、見えないところで人助け等をよくする。
外で会った時に、あいさつも進んでする。
そしてなぜそこではそうするべきか、意味がわかっていることが多い。
(多く、親が幼少期にかなりみっちり躾けている。親の背中をよく見て育っている。)
芯をきちんとさせるために、学校では根本・本質・原点に立ち返った指導を常にしていく。
見た目や形にとらわれたうわべだけの指導をしていると、芯は育たない。

見た目で判断できなくても、外の評価で判断できる。
学校内と、地域社会での評価を比較して見る。
「校内できちんとしていて、外でもきちんとしている」なら、本物で心配もない。
「校内で悪く、外でも悪い」は、言うなれば至極当然で、校内での指導如何で改善が見込める。
「校内できちんとしていて、外で悪い」という状況は最も注意が必要で、そこまでの指導を根本から改める必要がある。
(ちなみに「校内で悪く、外できちんとしている」という状態は、あまり期待できない。
 学校は社会の縮図である。)

表面的でなく、本物の「きちんと」した子どもを育てたい。
そのためには、こちらの言っていること、やっていることを本物にするのが、まずは必要最低条件である

2015年6月9日火曜日

素直さを授業の小さな場面で育てる

素直な子どもは幸せになる。
その素地を作るのは、学校教育においては、やはり授業である。
授業は、学校で過ごす時間のほとんどを占める最重要時間である。
その授業の中の、ほんの小さな場面で素直さを育てる。

教師の指示に素直に従えるか。
従いたくないから従わないというのは、見方によっては芯があるかのように思える。
しかしそれは大きな勘違いで、実は単なるわがままである。
今教わっている師を疑いながら、いちいちそんなことを考えたり口ごたえをしたりしていては、成長するはずがない。
教える側が時に間違えることもあるかもしれないが、それ以上に教わる側の判断が間違うことの方が圧倒的に多い。
(そうでなければ、そもそもその人に教わる必要がない。)

少なくとも、人の話を素直に聞かないのは良い性質ではない。
クリティカルシンキングとか多面的に見るとかという話とは、別の話である。

授業の小さな指示に、さっと反応する子どもを認める。
逆に、従わない人はとりあえず放っておく。
あくまで「とりあえず」である。
とりあえずは、従わない困難な群には着目せず、素直な群に着目し認めていくのが集団指導の原則である。
(逆をいくと、学級崩壊まっしぐらコースである。)
そうする中で、どういう行為が良いのかを集団として認識していく。
結果、素直な子どもが育ち、判断に誤りが少なくなる。

子どもは、学校で学んだことを生かして、社会に貢献する存在になり、同時に、本人も幸せになる。
それが教育の力である。
大人は、子どもが本当に幸せになるということを常に考える。
併せて、子どもは大人の背中を見て育っているということも念頭に置いておきたい。
「何を言うか」以上に「何をしているか」である。
大人の側も、常に素直に学び続ける姿勢を見せたい。

2015年6月7日日曜日

注意された時の反応で決まる

前号の「嫌アプローチ」に関連して、素直さという話。
私が以前からお世話になっているある校長先生が、素直であることの大切さについて語られていた。
次のようなお話だった。

注意されるとすぐ泣く子どもがいる。
周りは「かわいそう」とか思うかもしれないが、それは違う。
注意されて泣くという行為は、「意固地」の現れともいえる。
相手の言葉を受け容れず、素直でないということ。
心のコップが上を向いていれば、素直に受け容れる。
素直に受け容れる子どもは、泣かない。
素直な子どもは、人からかわいがられる。
かわいがられる人には、周りの人が声をかけてくれる。
人が集まってくる。
結果、素直な子どもは幸福になる。

その通りだと思い、深く頷きながら聞き入っていた。
これまでの経験上、素直な子どもは伸びると確信を持って言える。
逆に、素直でない子どもは、あまり良い思いができないことも知っている。

例えば、良くない行為について注意したとする。
Aさんは、「ごめんなさい」と言って、すぐに直す。
もっとすごいと「教えてくれてありがとうございます。」と後になって感謝の言を述べる。
(実際にこういう子どもは、学年を問わず必ず存在する。)
素直に受け容れるので、周りも色々教えたいと思う。
誰しも、何かある時には、Aさんにお願いしたいと思う。
結果、人も役割も集まってくる人物になる。

Bさんは、注意されるとすぐふてくされたり、泣いたりする。(または怒る。)
もっとひどいと、後で陰で周りに愚痴ったり、注意した人を逆恨みしたりする。
泣いたり騒いだりするので、注意した人はもちろん、周りもいたたまれない気持ちになる。
Bさんに何か言うと、全ての人の気分が悪くなるので、誰も注意しなくなる。
間違っていても誰にも何も言われない、ものも頼まれない、近付かれないという状態になる。
「触らぬ神に祟りなし」という状態になる。

この反応については、注意する側は選べない。
その時の相手次第である。
しかし、今述べたような話を常々して、どういう反応をするのが結果的に良いかを指導することはできる。
素直さの在り方を示すことはできる。

では、学校教育において、どうやってその素地を作るのか。
(次号に続く。)

2015年6月5日金曜日

おもちゃ売り場でギャーギャー騒ぐ子どもへの対応で考える

おもちゃ売り場でギャーギャー騒ぐ子どもへの対応を考える。

Aパターン「しょうがない、今回だけね。」(じじばばパターン)
→子どもの勝利、大人の負け。
ただし、「一時的勝利」である。
以前紹介したが「大人が負けたら、子どもも負け」である。
結果的に、子どもが不幸になる典型的パターンである。
(しかし、親にとって一番楽な対応なので、最もとってしまいやすい対応でもある。)
子どもはこれで「こうすればうまくいく」という成功体験をする。
親としては「今回だけ」という限定性を持たせたつもりだが、子どもは成功体験の必勝パターンを繰り返すことになる。
そしてこれは、おもちゃ売り場だけでなく、学校や社会のあらゆる場面で本人の「武器」として活用される。
結果、わがままになり、トラブルを起こしやすくなる。

Bパターン「買いません。絶対買わない。ダメなものはダメ。」(頑固親父パターン)
→大人の勝利、子どもの負け。
この対応がベストの時がある。
明らかに無茶な要求と自覚している場合で、本人が「これはさすがにダメだろうな」とどこかで思っている場合。
子どもの側にある程度の知識や理解があるなら、これで通る。
しかし、そうでない場合、「うちの親は何もわかってくれない」と不平・不満を抱える場合もある。

Cパターン「今は買えない。〇〇だから。どうすればいい?」(カウンセラーパターン)
→考えさせるパターン。
定石。
ただし、相手が落ち着いてないといけないので、実際にこの状況で使えないことも多い。
子どもが落ち着くまでかなりの忍耐が必要で、親の側としては最も辛い選択肢でもある。

要は、子どもを良く育てるのに、「ぼろい」ことはないということ。
より良い選択肢ほど、一時的には辛いことが多い。
それを自覚して、教師も指導に当たる。
前々号で紹介した「嫌アプローチ」を使う子どもにも、辛くて嫌かもしれないが我慢してきちんと指導するのが教師の仕事である。

2015年6月3日水曜日

注意されて泣く子どもはかわいそうか

前号の「素直さ」という話の続き。

「注意されて泣く」という行為は、かわいそうどころか、反抗的でかつ攻撃的であるといえる。
何か言われて「周りの人にわかるように泣く」というのは、相手の注意に対する反撃行為である。

この最も典型的な例は、おもちゃ売り場でギャーギャー泣く子どもの姿である。
要は「買いません」という言葉への反撃として、要求を通すために周囲にアピールしている。
体験的に「こうすれば周囲の目も気にして相手が困り、要求が通る。」ということを知っている。
本人にそんな考えはなくとも、脅しと同種の行為である。

ちなみに、赤ちゃんが泣くのとは訳が違う。
「周囲へのアピール」という点では同じだが、赤ちゃんが泣くのは言語の代わりである。
大声でギャーギャー泣くことが、伝えるための適正な手段となっている。
(逆に、何かあるのに泣かない赤ちゃんは困る。)
だからこそ、泣き方も周りが焦って行動を開始するような「必死さ」がある。

もし赤ちゃんがしゃべることができて、相手を気遣うようなら、次のように言うかもしれない。
「お手数ですが、ミルクをいただけますか。」
「勝手を言って大変申し訳ありませんが、眠いので、お静かにしていただけないでしょうか。」
「大変お手数をおかけして恐縮ですが、おむつの方を替えていただけないでしょうか。」
赤ちゃんがそれを言えたら泣く必要はないのだが、そんなことは言えない。(言えたら可愛くない。)
赤ちゃんは自律の力がなく、我慢ができないからこそ生きていける。

さて、少し大きくなっても、子どもは自律の力をつける途中段階である。
先のおもちゃ売り場での状況があり得る。
ここの対応で子どもの今後が決まる。
どう対応するだろうか。(次号へ続く。)

2015年6月1日月曜日

「嫌アプローチ」にどう対応するか

嫌な感じで近付いてくる子どもがいる。
例を挙げると、
「〇〇なんですけどぉ~」と妙な言いがかりや難癖をつけてくる。
「〇〇してくださぃ~」という無理難題をふっかけてくる。
その他、悪口、暴言の数々。
独特のイントネーションと、「なぜか上から目線」「けだるい風のテンション」が特色である。
私はこれを勝手に「嫌アプローチ」と名付けて呼んでいる。
(ちなみに、大人でもやる人がいる。)

表面的に見ると、ただの嫌な人である。
一般社会で出会う人であれば、できれば関わりたくない。
しかし、子どもであること、そしてなぜそういうことをするかを考えると、対応が変わってくる。

要は、他の関わり方を知らない(またはできない)のである。
嫌アプローチで相手にしてもらった「成功体験」がある。
「感謝を伝える」「助けを求める」「褒める」といった類の正攻法のアプローチが苦手な場合が多い。
その子どもの成長過程で、何か素直になれない背景があったと思われる。

幼児が母親にやたら甘えたり困らせたりするのと根本は一緒である。
関わりの欲求、愛情の欲求が根本にある。
「愛の反対は無関心」の言葉にあるように、本当に嫌だったり興味のない相手にはそもそも近付かない。
何かしら自分に関心を持って欲しいという思いがある。
(暴走族の少年少女も同じである。自己肯定感が著しく低い。)

では、それで受け容れるのかどうかだが、これも考えものである。
ある程度の関係があれば、かなりはっきり気持ちを伝えられる。
そういう風に育って欲しくないと誠実に伝えれば、それでおさまる。

一方、関係性が浅い子どもとなると、やり方が変わる。
信頼関係がない。
まともに対応しても、聞かない可能性がある。

そこで、信頼関係とは別物のところで話す。
例えばいきなり悪口や暴言を吐かれるようなら、「そんなことをあなたに言われる筋合いはない」とぴしゃりと伝える。
「それは社会で通用しない。」ということを教える。
一般社会なら「侮辱罪」「名誉毀損罪」等の立派な犯罪である。
学校が社会に出るための準備の場であるなら、ここが指導のチャンスでもある。
そういう関わり方なら話しかけないで放っておいて欲しいことも伝える。
しかし、その上で、きちんとした一人の人間同士で関わりたいことも伝える。
教えるべきは教え、突き放さない。
相手の根本に「関わりの欲求」がある、つまり根本に正の感情があると思うから、こう対応する。

こういう対応は、毅然とした態度でないとできない。
気合いもいり、正直疲れる。
適当に愛想笑いで誤魔化してやり過ごすこともできる。
しかし、それはその子どもにとって最終的に良い結果を生まないと思う。
正直、相手が相手だけに、かなり疲れるので面倒だが、流さないで指導する。

いつも繰り返すが、人間対人間に完全マニュアルはなく、相手の状況も考慮する必要はある。
もしかしたら、何か嫌なことがあってむしゃくしゃしているのかもしれない。
しかし、こちらの思いを誠実に伝えるというのは、どんな状況のどんな相手でも大切である。

目の前の子どもの将来にとって、本当にどうなのか。
今をしのぐことにだけにとらわれず、大きな視点を持って対応したい。

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7月29日、高校サッカーインターハイが開催される。 私も高校時代、燃えていたので、どこか出るのかとかは気になる。 さて、サッカーでは、ポジショニングが大切である。 それぞれの選手がその瞬間にどこにいるか、ということが次のプレーを左右する。 ポジショニングの上で大切なこ...

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