2011年12月31日土曜日

ご挨拶

一週間程、バカンスをいただき更新をストップしていました。

楽しみに見てくださっている方には申し訳ありませんでした。

来年度もぼちぼちのペースで更新しますので、よろしくお願いいたします。

皆様、良いお年を。

2011年12月30日金曜日

子どもの自己肯定感を高める

以前にも書いたが、日本の子どもの自己肯定感は低い。
世界でぶっちぎりの低さである。
もはや、奥ゆかしいとか謙虚とかのレベルではなく、情けないぐらいである。

自己肯定感の低さは、自分を認められないところからくる。
そして、自分を認めない人間は、他人も認めない。
「どうせあなたもそうなんでしょう」となりやすい。
結果、社会が荒れる。

なぜこうなってしまったのか。

自虐的歴史感だとか、日本人の気質だとか、様々あるとは思う。

ただ、教師として何ができるのかを考えた時、やはり「できるようにさせること」は外せないように思う。

(次号に続く)

2011年12月23日金曜日

残業の常態化を防ぐ

「自分にばかり仕事が任せられて、無理なんです。」と嘆く声がある。
「自慢ですか?」と言いたくなる。
仕事をたくさん任せられるなんて、ありがたいことである。
嫌なら、自分の無能さを示せばよい。
すぐに誰も自分に頼まなくなり、仕事がなくなる。
仕事がたくさんくるのは、全部きちんとこなしているからである。
本当に無理なら、(いや、無理でなくとも)人に回すべきである。(理由は、以前書いた。)

残業は、時に絶対必要である。
やるべき時にいい加減な仕事をするようでは、信頼されない。
「今日はやる」と心に決めてやる。
しかし、常態化は避けたい。

2011年12月21日水曜日

子どもは鏡

子どもに「何でこんなことができないんだ」と怒りを感じる。
これは、まず間違いなく、自分ができていないことである。
(これについては、ずっと前にも書いた。)

「教師は子どもと共に学ぶ」ということがよく言われる。
本当に、そうだと思う。
至らない自分を、子どもが示してくれる。
教える立場でありながら、やはり子どもに教えられているのである。
(だからといって、教師と子どもが平等だなどという訳ではない。)

自分のクラスの子ども達に「できてないなぁ」と悩む点があったら、自分を振り返るといい。
子どもは、「鏡」である。
鏡の中の姿を一生懸命変えようと、鏡を磨いても無駄である。
「過去と他人は変えられない。変えられるのは、自分だけ。」
誰が言ったか忘れたが、名言である。
そこにしか、解決策はない。

2011年12月18日日曜日

自分はできるのか?

「新たな定理を生み出す」というような高尚な行為は、数学者の領域である。
小学生に求めるのは、完全に間違えている。
「0」という数だって、今でこそ幼児でも普通に使うが、かつての数学者の偉大なる発見である。
凡人に「考えて」生み出すことなど到底できるものではない。
「0なんて簡単」と考えている子どもがいるとしたら、結構な勘違いである。

「数学は考える教科、ひらめきの教科で、答えを見ると思考力が育ちません」という方向の考え。
本当だろうか。
小学校の算数は、考える段階ではない。
本当に算数を考える教科であると主張できる人は、大学レベルの数学を解く人である。
(あれは、一般の人には、解けない。何が何だか意味不明である。)
多分、そういう数学者の人達も、算数を「考えて」解いた経験はないはずである。
ガウスのような子ども時代からの天才を引き合いに出す人もいるが、あれは「天才」である。
自分達とは違う。

どんなにいいことを言っても、子どもは、背中をよく見ている。
後ろから見られているから、見られている方は気付かない。
実は後ろで、真似しているのである。
後方にいるものだから、言葉は届かず、姿だけがコピーされている。

子どもに求める姿があるなら、まず自分がそうなろう。
算数の授業で教科書を見せずに問題を解かせたい人は、まず自分が数学の問題をやってみることが大切だと思う。

2011年12月16日金曜日

算数・数学における自力解決とは

「自分の頭でよく考えて解きましょう」
「教科書は見てはいけません」
・・・結構、多くの教室できかれる言葉だと思う。
この二つの言葉は、同時に用いると、矛盾する。
だから、同時に使ってはいけない。

受験勉強を考えるとすぐわかる。
塾に通って解法を教わった生徒と、自宅で参考書を片手に「自力」で解いている生徒。
どちらが「自力解決」しているだろうか。
後者である。
前者は、塾の講師に教わっている点で、「自力」という点においては劣る。
後者は、参考書をよく見て、自分の頭でよく考えて、「自力解決」しているのである。

つまり、大学入試レベルまでの、数学の勉強における自力解決の力とは、「書物を見て理解する力」なのである。
「教科書の解説と解法を見て理解できる」という力が、その後の生きてはたらく力なのである。
それを見ただけでわからない子どもがいるから、教室で教えてやるのである。

算数や数学は「適切な解法パターンの選択」である。
「解法パターン」が本人の中にインストールされていることが前提である。
漢字テストと一緒である。
それを選択する過程が、問題を解く際の「考える」である。
無から有を生み出す行為ではない。

そんなことしたら子どもが考えなくなるという人がいたら、どこかの大学の数学の入試問題でも提示したらよい。
多分、5分もしない内に諦めると思う。
そしたら「よく考えましょう」「答えは見ちゃダメですよ」って。

そう考えると、結構子ども達に辛い思いをさせているのがわかると思う。

2011年12月12日月曜日

算数や数学が「わかる」状態とは

算数や数学が「わかる」とは、どのような状態を指すのか。
「数学的思考」が優れているとは、どのような状態を指すのか。

諸説あるが、私は「見た瞬間に解法が浮かぶ」状態であると考える。
つまり、10分も20分も考えることではない。
わかる人には0秒で解の大まかな方向がわかる。
それが、理想形だと考える。

私は中高の数学の免許をとるために、大学の数学を嫌というほどやったので、その辺りは多少わかってるつもりである。
全く見たこともない問題は、全くできない。
見たことある気がしても、解法を思い出せない問題は、できない。

そんな困った問題に、どう対応するか。

教授の書く解法をノートに煙が出るスピードで写し、後で必死に覚えるのである。
そうすると、だんだんわかってくる。

「参考書に頼らず、自力で考えよう」などと本気でやっていたら、大学卒業を迎えてしまう。
(いや、単位が取れないので、留年か。)
そんな問題の解法を必死で考えるなど、馬鹿馬鹿しいことである。

漢字に置き換えるとすぐわかる。
書けない漢字がある時、「一生懸命考えましょう」「相談しましょう」ということはありえない。
無駄である。
ないものは出ない。
さっさと正しい漢字を見て覚えればよい。

算数では、なぜかこれが認められない。
「自分の力で、一生懸命考えましょう」となる。
無理である。
ないものは出ない。
わからない者同士で何人集まっても、やっぱり出ない。
さっさと正しい解法を見て、解説をきいて覚えればよいのに、なぜか認められない。
ひどいと、「教科書は答えが書いてあるから見てはいけません」となる。
(そして、残念ながら、そういう人に限って、自分自身は数学が苦手で嫌いである。)
(次号に続く)

2011年12月10日土曜日

算数・数学を「楽しい」と感じる瞬間とは

前号の続き。
算数好きを増やしたい。
楽しいなら、好きになるはずである。
つまり、楽しくないと感じている子どもが多いのである。

なぜか。
わからないからである。
もっと砕くと、「正解できないから」である。
正解するには、解法が必要である。

6×4=?
さあ、考えてみましょう。
と、やったとすると、何か考えるだろうか。
否。
「24」と即答である。
しかし、考えるとは、「6×4=24だが、そもそもかけるとはどういうことなのか」
というようなことを探る行為である。
そういう深遠な哲学的思考は、小学校段階で求められることではない。
せいぜい、「6×4とは、6のかたまりが4つあることです。」ぐらいでいい。
6+6+6+6との違いを考えるのは、ずっと後でよい。
「24」と即答できたら、子どもは自信満々、得意満面である。

つまり、わかりもしないことを延々と考えさせるから、つまらないのである。
別に乗法の意味を考えるとかではなく、例えば割合を求める問題で式が思い浮かばない場合も、同じである。
どんなに考えたところで、とんちんかんな解が出るだけである。
だったら、さっさと答えと考え方を教えてやり、適用題でできるようにさせてやればよい。
そこでできなかったら、答えを見て次の問題でできるようになればよい。
やる内に「できた!」が実感できる瞬間を作ればよい。
それで、最終的にテスト段階でできたら、万々歳である。
できれば、楽しいし、好きになる。
要は、できるようにさせることである。
考えさせるのは、手段であり、目的でも目標でもない。

できるようにさせることが、算数好きを増やす。
(当たり前すぎて書くのも恥ずかしい。)
なぜ、あえてできないものに悩ませるのか。
奇々怪々な小学校算数界の常識である。

2011年12月8日木曜日

残業は「させてもらう」

すごく反感を買いそうだが、残業は「させてもらう」ものだと考えた方がよい。
「方がよい」というのは、そう考える方が本人の精神の為にも、健全な気がするからである。

残業や時間外労働は、自分の時間を削られているようで、損した気分になるかもしれない。

しかし実際は、それだけの仕事を信頼して任されていているということである。
他の人に任されず、自分に任されているのである。
そしてそれを、責任持ってやり遂げたいから、残業している。
他の人に任せられない、自分にしかできない仕事だから、残業している。
そういうプライドを持ってやっているのだったら、大いにやってよいと思う。
ただし、間違っても愚痴ったり、文句を言ってはならない。
全て自分の「選択」である。
「そんなことない」と言うかもしれないが、そんなことある。
この職業だって、自分で選んで切望してなったはずである。

「全ては私の責任です」
経営コンサルタントの青木仁志氏が「たまらなく好きだ」という言葉だが、私も大好きである。
この言葉を発する時、否定的な気持ちは微塵もない。

残業一つとっても、自分の選択であり責任である。
思いっきりやり遂げてやればよいと思う。

2011年12月5日月曜日

教師の仕事は天職か

銀座クラブの経営者、ますい志保さんの本に
「給料の倍働けば、夢は叶う」というようなことが書いてあった。

作家の本田健さんは
「給料なしでもやりたい仕事か」
「給料と同額を支払ってでもやりたい仕事か」
この辺りを、「ライフワーク」(天職のようなもの)の定義としている。

自分にとって、教師の仕事はどうだろうか。
現在の自分を考えると、さすがにお金を払ってやる訳にはいかないと考える。
(生活が成り立たない。)

しかし、もし十分なお金が自分にあり、払える状況だったらどうだろうか?
それでもやりたい仕事か?
もしそうなら、完全に天職である。
無給でもやっていいというなら、相当好きだと言っていい。
そんなのとんでもないというなら、お金の為に働いている可能性がある。

何の為に働いているのか、振り返ることがあってもいいと思う。

2011年12月4日日曜日

傍を楽にする

仕事は、働いた量ではなくどれだけの価値を提供したかで決まる。
働くとは「はた(傍)をらく(楽)にすること」ということを言った人がいる。
その通りで、周りの人にとって価値があることをした時、初めて「働いた」といえる。

つまり、決められたことをそのままやったのは「労働」ではあるが、「働いた」とはいえない。
決められたこと以上の価値を提供した時、初めて「働いた」といえる。

ルーティーンワークに追われている限り、「働く」ことはできない。
当たり前の仕事に、プラスアルファの価値の提供、ここに全力をそそぐべきである。

2011年12月3日土曜日

給与と自分の価値

給与とは、仕事への対価として支払われる。
自分の提供した価値に対して支払われる。

教師の給与は高いのか低いのか。
それは、その人の提供した価値による。
給与以上の価値を自分は提供していると、はっきり言えるか。
これは、なかなか難しいことだと思う。

特に資金の出所が公共であるため、世間を納得させるほどでないといけない。

もし給与が低いなぁと感じていたら、こう考える。
自分が自分の雇い主なら、この人にどれぐらいのお金を支払うか。

意外と、もらいすぎかもと思うこともある今日この頃である。

2011年12月2日金曜日

教師は最高の職業

人の役に立てるというのは、仕事をする上で最高のモチベーションになる。
教師は、その意味で、非常に恵まれた職業であるといえる。
例えば何か物を作る仕事だと、それがどう使われているかを見ないと、直接自分が役立ってる実感は持ちにくい。

教師は、常に役立つ自分を実感できる。
感謝してくれる相手が目の前にいつもいる。
こんなに幸せな仕事はどこを探してもなかなかないと思う。

採用試験の時には、あれほど切望してついたこの仕事。
感謝の念を持って毎日の仕事をしたい。

2011年12月1日木曜日

教師生活で何を目指しているのか

私は自分の学校に採用試験を受ける講師や実習生が来ると、必ず尋ねる。
「何で先生になりたいの?」
明確に答える人は、ほとんどいない。
「子どもが好き」「教える仕事がしたい」「子どもと楽しく過ごしたい」
面接なら、どれも×の回答である。
教師という職業において、それはやりたい理由ではなく、「前提」である。
(子どもが嫌い、教えるのが嫌いな教師に、誰が教わりたいというのか。)

やはりこういうことには、自分なりの具体的な理由や夢を語れるようにしたい。
例えば、
「自分は子どもの頃いじめられていた。
辛い思いをしている時、先生が助けてくれた。(または助けてくれなかった。)
だから、自分は教師になって、辛い思いをしている子どもを一人でも多く救いたい。」
具体的なエピソードや経験から、何を目指しているかまで答えられたら、芯があると判断できる。
(嘘はいけない。)

私も明確にある。
日々の実践も、メルマガ発行も、全て自分の目標に向かっての行為である。
目標に向かって、毎日0.1%の成長をすること。
これが私の日々の目標である。
1ヶ月すれば、3%成長、1年で何と36%も成長する。
(実際、そううまくいかない。下がってる日もある。)

「何のために教師になったのか」は、教員採用試験を受ける人のためだけの問いではない。
既にこの職業に就いている、全員に常に投げかけられている問いである。

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