2012年3月30日金曜日

卒業、解散を前にして何を残すか

ちょっと時期外れな話題で申し訳ないが、学級の解散時についての話題を。
(メルマガではタイムリーな話題として書いたのだが。)

卒業式や学級の終わりを前に、どういうものを残すか、何をするか。
先日、そういう話を、校内の若い先生の自主研修会で話し合った。
更に、他の先生方にもきいてみた。

色々なものが出てきた。
歌を録音してCDを作る
クラス劇をやってDVDを作る。
写真入りメッセージカードを渡す。
一人ずつの贈る言葉をの書にして渡す。
手紙を渡す。
・・・

渡すものだけでも十人十色であった。
どんな話をするか、どんなイベントを組むかも同様。
みんな、求めるものが違うのである。

学級の終わりには、その担任のカラーが強く出る。
本当にやりたいことをやるからだろう。
それは、自分がどんな先生でありたいのかを考えるきっかけにもなる。

記憶に残る先生でありたいのか。
子どもに学力をつける先生でありたいのか。
楽しい思い出を作り、学校を好きにさせる先生でありたいのか。

どれもこれも欲しいかもしれないが、結局本質は何なのか。
1年間を振り返り、自問するのにちょうどいい機会である。

2012年3月28日水曜日

一番失敗な学級経営

自分の言うことだけ聞く子どもに育ててしまうこと。
これが学級経営においての一番の失敗である。

学級担任が「王様」で、絶対王政の如く言うことをきくようになっていると、次の担任が苦労する。
前学年の欲求不満を爆発させることになる。

また、自由に子どもにやらせすぎていた場合も同様である。
「前の先生は何でも言うことを聞いてくれた」というような状態である。
よくある「じいちゃんばあちゃんが甘やかしすぎた」の状態である。
「自分達の言うことを聞く先生」=「いい先生」という間違った認識である。
先の例以上にこちらはきっと困る。新担任の指導が通らなくなる。

そう考えると、単に「教えるのが上手い先生」というのも、一長一短といえる。
口をあけておいしい餌を待つ雛のような状態で育てていると、お膳立てしないと食べないということになる。
つまり、上手な授業じゃないとやる気が出ない子どもである。
これは、やはりまずい。

いずれにせよ、今からできることというのは少ない。
来年度に向けての反省材料にするというぐらいの姿勢で良い。

どんな学級経営が本当にいいといえるのか。
答えはなかなか見つからないままである。

2012年3月27日火曜日

学級を手放す時の心構え

学級を手放す時の心構えについて。
次に誰が担任するかはわからない。
だから、誰が担任であっても大丈夫になっていること。
一言で言うと、これである。

とりあえず、学力・体力面について。
漢字が書けるか。
最低限の計算はできるか。
鉄棒やマット運動は大丈夫か。
この辺りができていないと、子どもも次の担任も苦労する。

次に、生活面。
あいさつや返事などの基本的なことができているか。
掃除は意義を考えてやれるようになっているか。
宿題や提出物は出すのが当たり前になっているか。

最低限で良い。
次自分が担任した時、困るような子どもではいけない。

心配なのは、実はこれ以外の面である。
(次号に続く)

2012年3月26日月曜日

お疲れの原因は何か

ある時期になると、「何か疲れるなぁ」と感じやすくなる。

どういう時かというと、成績処理の時である。

原因を分析してみる。

1「~ねばならない」というものが多くなる。(成績をつけるためのデータ)
2休み時間がなくなる。(短縮日課で早帰りさせる為)

つまり、やりたいことでなく、やらねばならぬことに追われることと、
子ども達と遊ぶ時間がなくなることが疲れの原因のようである。

これは、人によって違うかもしれないが、私の場合はこれが大きいらしい。
人間関係を遊びによって築いている面が大きいので、これがないときつい。
(厳しいことを言っても、一緒に遊べば何とかなる面が多い。)

自分の疲れの原因を探ってみた。
原因がわかると、意外と楽になるかもしれない。

2012年3月24日土曜日

数学における「考える力」

前回の続きを。

簡単に言うと、このテストの結果から私は「考える力不足」と診断されそうである。
「単純な計算や問題はできるが、応用問題は解けない」と。
どこかできいたことのある話である。

では、なぜそういう結果になったのか。

色々理屈は付けられそうだが、要は「この問題に慣れていないから」と考えられる。
更に、「解き方を記憶していないから」と考えられる。
(なぜなら、中学生の頃は解けたからである。)
考え続けて解くことは多分可能だが、制限時間がそれを許さない。
繰り返し練習し、解法をきちんと身につける必要がある。

つまり、多くの種類の問題に当たらせておかないと、「考える力」は身に付かないということである。
私自身が文科省の目指す中学生に最低限欲しい「考える力」がないということは、多分ないと思う。(思いたい。)
にも関わらず解けないということは、やはり慣れの問題である。

基本の問題にうんと時間をかけて解き方を色々考えることは大切だろう。
同じく、たくさんの問題に当たらせて、たくさんの解法にふれることも大切だ。
多分、どちらか一方が欠けても、ダメなのだと思う。

根本・本質を理解しようとしつつ、よくわからなくても何とか解く。何度も解く。
この繰り返しを、授業の中に組み込めたら、考える力がつくのかもしれない。
まだまだ追求していくべき課題である。

自分の専門教科だけでも、高校入試の問題を解くことをおすすめする。
色々と、見えてくるものがあると思う。

2012年3月22日木曜日

チャレンジ 高校入試

今年の県下一斉の高校入試の問題が新聞に出ていた。
なので、解いてみた。

先日の大学入試センター試験が解けないのは納得がいった。
「まあ、そんなもんよね」と。

しかし、今回は衝撃だった。
これが、意外に解けないのである。
解答を見て、やり直してやっと理解できる問題がいくつもある。

高校入試レベルということは、中学生が解く問題である。
自分が卒業させる子どもが、3年後に受けるテストである。

それが、解けない。

英語や理科ならともかく、数学が解けない。
中高の数学免許を持っているにも関わらずである。

で、くやしいから分析してみた。

どうやら、今教えている小学校の内容に近いものは大丈夫のようだ。
例えば、確率の問題。6年生でも教える。

計算問題も楽勝である。暗算でも簡単に解ける。

公式を使うものも、当てはめるだけなので簡単である。
語呂合わせでよく覚えていた。
例えば
球の表面積=4πr2 (心配ある事情)
球の体積=4/3×πr3(身の上に心配あるので参上した)
(どうも、球は心配性らしい。でも覚えやすくて好きだ。)

証明問題も、大学でよくやっていたから、まだ解けた。
(多分、数学専攻でない人にとって、ここは苦手が多いと思われる。)


問題は、「見たことない問題」(正確には、多分忘れた問題)である。
二次関数のグラフの上の点Aが動いて、同時に点Bが動いて・・・という問題である。
「いやいやお前、動かないでじっとしとけよ、落ち着かないヤツだな」という感じである。
思えば、中学の頃も高校の頃も、これが苦手だった。
(今は、落ち着かないじっとしてない子どもの相手でも、大丈夫であるが。)
他にも、関数のグラフとの複合問題に難しいものが多かった。

ここで一つ「考える力」について考えた。
(次号に続く)

2012年3月20日火曜日

良本との出会い方

私は本が好きなので、本の話をよくする。
そうすると、「どうやっていい本を探すんですか?」と聞かれることが多い。
どうも、どうでもいい本を選んでしまい、挫折してしまうというパターンらしい。
なので、良い本との出会い方を考えてみた。

とにかく、良書の1冊目に出会うこと。
そうすれば、後は枝葉が広がっていく。
その著者の他の本を読めばいい。
または、その著者が文中でオススメしている本や参考文献で挙げている本を読めばいい。

では、1冊目の探し方だが、人にすすめてもらうのが一番いい。
よく本を読む人を探してきく。
自分が尊敬している人にきく。
何千冊読んでる中から1冊すすめてくれるのだから、相当なものだと思っていい。
(私は尊敬する人からすすめられた本は、大抵ネットで即買いする。)

また、本屋に出かけてベストセラーコーナーに行くのもいい。
ベストセラーになっている本は、やはりそれなりに価値のあるものが多い。


本当は、とにかくたくさん読むのが一番だと思う。
失敗を積む上に成功あり。
玉石混交の中から宝石を探し出す作業自体が楽しい。
宝探しに近い。
某大手古本チェーン点の105円コーナーはまさにこれだろう。
(かなりいい本も105円である。ここに限り内容と値段は一致しない。)

一冊の本が、人生を変える。
そういう本を探すこと自体も、本の楽しみ方の一つだと思う。

2012年3月18日日曜日

クラスづくりの極意

今日のタイトルは、本のタイトルそのままである。

「クラスづくりの極意」岩瀬直樹著 農文協

「晩晴会」という私が参加しているML上で話題に上がった本である。
多くの方がオススメしているので、読んでみた。

これが、すごい。
いつも通り感動したとこなどに折ったり線を引いたりして読んでたら、本の厚さが倍になってしまった。
あまりに良い本なので、紹介しないと読者の皆様に申し訳が立たないと思い、紹介した。

内容はあえて書かない。
絶対購入をオススメする。

2012年3月16日金曜日

東大生の勉強法

先日、「所さんの目がテン」という番組で、東大生の勉強法を紹介していた。
授業をやる上で参考になりそうなので、多くの見てない方の為に紹介する。

1 やたらにノートに書く
東大生は先生の話を無駄なぐらいノートに書く。
雑談みたいなものまで書く。
普通の大学生は、板書したことだけ写す。
両方のやり方で授業を1時間受けると、顕著に差がついていた。
(実験群の学生のレベルはもちろん揃えてある。)
関連記憶が多くつくので、重要な言葉を引き出しやすくなるそうな。

2 小テストをたくさんやる
漢字でおなじみの小テストだが、やるだけで効果がある。
復習しないでも、何と答え合わせをしなくても効果が出る。
テストが記憶を引き出す練習になっているとのこと。
授業で毎回小テストをすると、それだけで効果が望めそうである。
なお東大生は休み時間に友達とよく問題の出し合いをする傾向があるとのこと。

何か他にも色々言っていたような気がするが、大まかにこんなことだった。
参考までに。

2012年3月14日水曜日

異動前の準備

3月も半ばになり、異動が決まった人も多いと思う。
異動に際して重要なのが、自分の校務分掌の引き継ぎである。
自分がいなくなっても大丈夫になっているか、チェックする。

具体的には、文書にして残しておく。
パソコン上にデータを保存している場合、どのフォルダにあるか分かるようにしておく。
パソコン上のデータがあっちこっちにあると、次の担当者が非常に困る。

自分の異動先を想像するとよい。
異動先である校務分掌を任された。
その際、前任者は既に異動している。
この分掌についてきける相手はいない。

その時、頼りになるのが、文書である。
どういうものがあれば、困らないか。
体育主任や特活担当のように1年間に多数の提案がある分掌であれば、年間の提案計画ぐらいは欲しい。
今年度の反省を踏まえて、提案や実施の際の注意点について書いてあればなおよい。
文書化することで、自分の仕事を振り返ることにもなる。

最悪なのが、ぐちゃぐちゃのまま出ていかれること。
トイレの使用でも教室の引き継ぎでも何でもそうだが、次の人が使いやすいようにして出ていくのは最低限のマナーである。
自分だけがいいという発想では、いずれ自分自身が苦労する羽目になる。

パソコンのフォルダ一つにも、前任者の性格が読み取れる。
そんなところで評判を落とさないようにしたい。

来年度残るにしても、異動先の自分を楽にするつもりで、今から準備をしよう。

2012年3月12日月曜日

チャンスは今しかない

良い本を買った。

「なぜあの人はすぐやるのか」中谷彰宏著 ダイヤモンド社

色々いいことが書いてあるのだが、集約すると「とにかく今すぐやれ」ということである。
「本を最後まで読んでるようではダメ。
いいと思ったら本に書いてあることをすぐ実行する。」
みたいなことが書かれてあったので、そうした。

実は先日、ある講演会の申し込みを新聞で見つけた。
講演者はベストセラー作家であり、かなり著名な方である。
東京駅周辺の開催で定員は500名。
500も席があれば、まあ大丈夫だろうとタカをくくっていた。

今思えば、その場でパソコンを立ち上げて、申し込むべきだった。
いや、スマートフォンを持っているのだから、それすら必要なかった。

翌日申し込もうすると、既に、定員締め切り。
「後でやろう」では、行動が遅かった。
(好きな人に告白できずにうじうじしてたら、いつの間にか友達に持ってかれたパターンに似ている。)

いつでも、チャンスは、今しかない。

思いたったら、即行動。
熟考していたら、この情報化社会のスピードに置いて行かれてしまう時代になっている。

2012年3月10日土曜日

通知票の存在意義

通知票は何の為に、誰の為にあるのか。

誰の為かというと、大きく三つある。
一つは、本人の為。
一つは、親(保護者)の為。
一つは、学校関係者の為。

学校の側からすると、受験の資料になる。
この子どもはどこの学校なら合格できそうか。
受け入れる側は、どの子どもを入学させようか。
そういう、受験の合否を考える際の資料になる。

親が、我が子の学習の進捗状況を把握する資料にもなる。
本人も同様である。

実際は、受験用の機能が強く前面に出ているように思う。

しかし何より、本来の通知票の役割は、本人のやる気を鼓舞する為にあると考える。

A評価をもらえば、自分はできると思い込む。
C評価をもらえば、できない自分を思い知る。
通知票で誉められたことは、そうかもと思う。

通知票をもらってやる気を失ってしまっては、本末転倒である。
なぜなら、色々な使い方はあれど、最終的には全て本人の為に存在するものだからである。
本人のやる気を失わせるものが良いものな訳がない。

「現実をわからせることが大切だ」という論もあると思う。
しかし、小学生に現実をわからせて、一体どうなるのか。
子どもは「身の程知らずの誉められたがり屋」なのである。
幼児はみんな、自分は何でもできると思っているのに、その思いはやがて消えてしまう。
「創造力に乏しい」「チャレンジ精神が足りない」というが、現行の教育制度からして、至極当然のようにも思える。
通知票が、その一端を担ってしまってはいないか。

大人だって、自分にランキングを付けられたいのだろうか。
今学校現場で取り入れられようとしている能力評価制度は、教師向け通知票である。
(企業はその副作用を知り、続々撤退している。さすが何でも学校は10年遅れ。)

競争社会の基盤を作っているのが通知票と受験であるなら、それは哀しい。
韓国の例を見ても、それは間違いないように思われる。
通知票は、子どもにプラスの作用を持ったものとして活用したい。

2012年3月8日木曜日

通知票は必要か

そもそも、通知票は何の為に存在するのだろうか。

私は子どもの頃から、通知票なんかなければいいのにと常々思っていた。

なぜかというと、成績が下がる度に親にがっかりされるのである。
いや、がっかりされなくても、何だか自分に対しての敗北感があった。

よくよく考えたら、上がれば下がる、下がれば上がるの繰り返しであり、実力の周辺をうろうろするだけである。
当時は相対評価だったので、結構できたつもりでもA評価でなかったり、ちょっとできないぐらいでもC評価がついたりした。

通知票があるから、子どもは勉強が嫌いになるのではないか。
通知票をなくせば、学校が楽しくなるのではないか。
そんなことを考えたことがあった。

そういうことを教師になってから他の人に話すと「親が子どもの出来具合を知りたいんだよ」ということを教えられた。
通知票をなくして、荒れた学校の事例も本で読んだ。
また、「実力を正しく評価してもらうのは嬉しい」ということにも気付いた。

そう考えると、通知票にはやはり一定の存在価値があるといえる。
しかしながら、その本当の存在意義は何なのか。
次号は、その辺りを考えていく。

2012年3月6日火曜日

テストでクラスの仲が良くなる

まだ引っ張るが、例の「見せっこテスト」のさらなる効用。
それは、「クラスが仲良くなること」「テストが楽しくなること」である。

当たり前だが、教えてもらえたらありがたい。
得点になるのだから、ありがたさは普段の授業の数倍である。

教えた方も、分かってもらえると嬉しい。
人の役に立つことは生きる喜びにもつながり、自信になる。

テストで世話になったから、他で返そうという姿勢ができる。

また、きく方も教える方も、否応にもコミュニケーション能力が発揮させられる。

ついでに、今まで嫌でしょうがなかったテストが、チーム戦のゲームみたいな感覚で楽しめる。
教えてもらってできたのだが、満点がとれ、自信もつくようである。

「テストします。」「イエーイ!」みたいな変な現象も起きる。

次号、テストと通知票の存在意義について考えていく。

2012年3月4日日曜日

理想の算数の授業の実現方法

例の「見せっこテスト」の意外な効能。
それは、「理想の算数の授業が簡単に実現する」ということである。

どういうことかというと、そのテストの仕方で起きる子どもの行動が、よく算数の授業研等で求められる姿に限りなく近くなるのである。

まず、わからない子どもが必死で解法を友達にきく。
何といっても点数に関わってくるので、必死である。
解き方として式だけでなく図や筆算まできちんと書かないと○にしないと告げてある。
仲間に書かせてはいけない。
だから、ききながら自分で必死で理解しようとする。

教える方も、すごくわからない相手に何とかわからせて得点させねばならないので、説明が必死である。
答えの丸写しは認めない、理解させることが教える条件と告げる。(ただし、子どもの裁量なので、効果はいかほどか。)
相手が頭を抱えていると、二人がかりや三人がかりで何とかしようとする。

中間層の子どもは、確認に必死である。
自分の解法は合っているのか、友達と解が一致しないのだが、どちらが間違っているのか。
例えば、0.0982を上から2ケタの概数にした時、解は0.1なのか0.098なのかで割れる。
互いに相手を説得するのに必死である。
問題数も結構あるので、時間いっぱい頭を使わないと間に合わない。

なぜ友達同士で必死かというと、正解を先生が教えてくれないからである。
先生が正解を教えてくれる時は、もう得点にならないのである。

つまり、問題解決学習で必要とされる
「自力解決」
「比較検討」
「説明」
あたりが、一挙に自動的かつ必死に行われることになる。
「習熟」は、テスト後に「教えてもらって○になった怪しい問題はもう一度」と自主学習等で取り組ませる。
(ここが、実は結構一番の難関である。)

やらせてみるとわかるが、「授業研でこれぐらい活気があるといいなぁ」という状態になる。

純粋に「テスト」としてみた時の問題点はあるが、月に1回ぐらいやってみて損はない方法である。
  • SEOブログパーツ
人気ブログランキングへ
ブログランキング

にほんブログ村ランキング