2018年10月31日水曜日

ハロウィンと学級における同調圧力

今日はハロウィンの日らしい。
らしい、というのは、この行事についてよく知らないからである。

イギリス系の行事であり、収穫祭だという。
つまりは、天の恵みである食物への感謝の日である。
そして、この日はあの世とこの世の門が開く日でもあり、悪霊がこちらに入ってくるという設定である。

そこで悪霊の仮装をする理由は
「悪霊に仲間だと思ってもらうため」
である。
繰り返す。
悪霊の仲間だと思ってもらうためである。

悪霊が発展して、やがてゾンビなどのグロテスクな怪物にも拡大。
更に日本の敗戦直後の時代、アメリカでディズニーの仮装等に拡大したという。
もちろん、企業戦略である。
バレンタインデー等と同じで、輸入時に元来の意味は吹っ飛んでいる。

元来は宗教的意味合いが強く、意図的に無視している国や禁止している国もある。
日本がここ数年でビジネスイベントとしてささっと取り入れたて受け容れられたのは、さもありなんという感がある。

日本が取り入れているのは、このアメリカ版ハロウィンである。
アメリカとの大きな違いは、アメリカでは主に子どものイベントだということである。

お菓子。
お化け。
変身。

子どもの大好きな3つが揃っている。
まさに子どものための行事である。
ついでに、お菓子をくれない家には悪戯(報復)の権利も与えられている。
悪ガキ盛りの子どもたちにはたまらないだろう。

これを、大人がやりすぎると、色々と哀しいことになる。
渋谷での事件を始めとする馬鹿騒ぎ等は、海外のメディアでも大喜びで取り上げられており、日本という国の宣伝にもなっている。

学校教育に携わる者として最も気を付けたいのは、これが宗教行事であるということ。
そして、個人の趣味・嗜好でやる分には構わないが、公的な場にもってきてよいのかということ。
「異文化理解」の名をつければ、学校は何でも受け容れてよいものなのか。

そして、これに同調行為を示さない者を
「ノリが悪い」
と排除するのも恐ろしい。
それは本当に正しい行為なのか問いたい。

これは、あらゆる「学級文化」全般についても同様に見られるので、要注意である。
それをやりたいのは、担任であるあなただけかもしれないのである。

同調圧力で無理矢理やらせていないか。
それをやる根本・本質・原点は何なのか。
このハロウィンなるものの台頭で、色々と考えさせてもらえた。

2018年10月30日火曜日

できていない部分を自覚する

教育実習を通しての学び。

実習期間が終了する時、実習生に振り返りをさせる。
当たり前だが、実習前と実習後では、認識が変わる。

まず「できること」が増える。
それ以上に「できないこと」が増える。

どういうことか。

つまりは、「できていないと認識すらしていなかった」という部分が見えるようになる。
一番分かりやすいのが、「全日実習」と呼ばれる一日担任体験。
朝の対応から帰りまでに、やるべきことが多数存在する。
細かい部分は、「見学者」として外から見ている時には決して見えない。

例えば、給食を片付けてやっと昼休みになったという時。
けんかが起きる。
ここで丁寧に話を聞いてあげたいと思うが、その直後に、誰それがケガをしたと子どもが報告に来る。
同時に、教室に電話がかかってくる。
連絡帳への返事も書かなくてはいけない。
その一方で、次の時間の授業の準備もしておかなくてはいけないことに気付く。
そんな焦りの中「先生、遊びに行く約束は?」と話しかけてくる子どもがいる。

誇張でも何でもなく、ご存知の通り学級担任にとっては割とよくある日常である。
これが高学年担任になると、同時に委員会だ行事だとやることがもっと多くなる。
ここで苦しまないように、自分自身の行動をマネジメントするのも仕事の一部である。

実習生ではこれらすべての体験はできないが、一部でも見えていない部分がわかる。
(実習生が最も不安に思う「保護者対応」の一切が実習では体験できないというのは、現在のシステムの欠陥であると思う。
教員養成でも「インターン制度」を取り入れられないものだろうか。)

そして、まだまだ見えていない部分だらけということも見えてくる。
「無知の知」である。

まずは「できたこと」の自覚が自信になる。
一方で「できていないこと」の自覚が成長の契機になる。
どちらも大切で、陰陽のバランスである。

実習生の振り返りとして述べたが、そのまま学級担任にも当てはまる。
「自分は大丈夫」と思っていたら、その実力はほぼ間違いなく下り坂を転げ落ちている状態である。
登る時にかかった時間よりも、落ちる時の方が数倍早いというのは自然の摂理である。

わかりやすく例を挙げる。

プロスポーツ選手で
「自分は他の人より上手いからもう練習はしない」
という人が存在し得ないのは誰でもわかる。

しかし、教育の現場において
「自分は若手よりも色々わかっているからもう勉強しない」
という人が存在し得ない、と言い切れるかどうかである。

改善の余地は常に無数にある。
常に学び続けることが仕事の一部である。

教育実習生を教える。
それは同時に、教育実習生に教わっているということである。
実習生以上に学ばなくてはいけない。

子どもに教える。
それは同時に、子どもに教わっているということである。
子ども以上に学ばなくてはいけない。

素直に学ぶ、謙虚に学ぶということの大切さを教わった教育実習だった。

2018年10月28日日曜日

習慣化のリカバリー法

習慣化のリカバリー法
何かをやると心に決める。
やってみる。
それなりに続く。

しかし、何かの拍子に、うっかり破ってしまうことがある。

そんな時、どうすればいいのか。

「今のなし!」
これである。

誰に言っているのか。
神様である。
自分の中にいる神様に、謝っておく。
「すみません、今のカットで、お願いします!」

馬鹿馬鹿しいようだが、効果てきめんである。

つまり、断続的にでも、続ける方がよい。
決めたことを破ってしまうと、大抵そこで心が折れる。

「ああ、自分は何て意志が弱いのだろう。」
「もうダメだ…」「終わりだ…」

これがいけないのである。
破ってもよい。
失敗してもよい。
大切なのは、立ち上がることである。
また始めることである。

例えば前号紹介した
「でも、だっての言い訳を捨てる!」
と心に誓ったのに、
「でも…」
と言ってしまった瞬間。

「ちょ、待って!今のなし!」
これである。
(声に出すと完全に変なやつなので、一人の時以外は声に出してはいけない。)

そこから、リスタートである。
つまり、これが頭に浮かぶようなら、少なくとも意識化はされているということである。
無意識の段階に近付いている証である。

ダイエットだって日記だって禁煙だって何だっていい。
習慣化したいものになら、何でも割と使えるコツの一つである。
習慣化は、予め失敗した時のリカバリー法まで決めておくことが肝要である。

2018年10月26日金曜日

デモダッテ星人をやめる

仕事術というか、観の話。

世の中には、どうにかできることと、どうにもできないことがある。

例えば、天気は、どうにもできない。
今日ある地域が晴れか雨かは、どうがんばっても選べない。
自然災害についても、ある程度まで対策ができるかもしれないが、限度がある。

人の心も、どうにもできない。
他人の嗜好性を変えることはできない。
煙草をやめさせることはできない。
酒が生き甲斐の人に、酒を嫌いにさせることはできない。

職場はどうか。
一緒に働く人の性格は変えることができない。
しかし、自分の働き方なら、変えることができる。
システムの変更なら、働き掛けることができる。

子どもを変えることはできない。
しかし、教えることはできる。
ただし、教えを受けるかどうかは、子ども次第である。
また、教えを受けやすい状態をつくることはできる。

何が変えられるか。

何が変えられないか。

変えられないことは諦める、捨てる。
注ぎ込む力を0%にする。
その代わり、変えられることに100%つぎ込む。

そのために大切なのは、自分の影響の範囲を自覚することである。

労働時間の法的規定を変更するには、大臣クラスになる必要がある。
しかし、自分が何時に退勤するかは、かなりの範囲を自分で決められる。
まして、退勤予定時刻を手帳に書き込むことなら、誰にでもできる。

この時
「でも…」
がすぐに口に出る人がいる。
この人は、変わらない。
「デモダッテ星人」だからである。
生まれ変わらないと、一生そのままである。

生まれ変わるには、わざわざ死ぬ必要は全くない。
その状態では、また生まれてきてもどうせまた「デモダッテ星人」である。

生まれ変わるのは、今世でできる。
やり方を説明する。
たった今から、

言い訳をやめる

と決めるだけである。
決めるだけである。(繰り返してみた。)

決める。
これが肝要である。
騙されたと思って、ぜひやってみていただきたい。

2018年10月24日水曜日

教師の仕事はブラックではない

先月に講師として行った仕事術セミナーでの学び。
参加者とのセッションタイムに「教師の仕事はブラックか。」という話題になった。

私の意見としては明確に「否」であることを伝えた。
ブラックかどうかは、本人が決める。
講座の中でも話したが、やりたくない残業を強いられる状況が「ブラック」。
やりたい残業ならどんなにやっても「ホワイト」である。

例えば附属小のような研究校で、毎夜目をギラギラさせながら、楽しそうに教材研究を続けている人を知っている。
これは、全くブラックではない。
部活動の場合も然りである。

決して教師の仕事がブラックなのではない。
ブラックな職場が存在する、というだけである。
ブラックな働き方が存在する、というだけである。
ブラックポイントは「強制的な拘束」の有無である。

講座の中で、ブラックと言われてしまう原因となっている具体例をいくつか挙げた。
最もわかりやすいものが
「時間外会議」
が常習化している学校である。

ここでいう会議とは
「二人以上で集まって協議するもの」
を指す。
例えば学年主任が「ちょっと今からいい?」というのも、「学年会」という会議の一つである。
(また、今回会場で、最も苦笑いが起きたのが、これである。多くの若手が、特にこれに困っている。)

管理職が「時間外の会議は原則認めない」と明言している学校がある。
決して「残業を認めない」ではない。
認めないのは「時間外の会議」である。
つまり、会議出席者の意思と反する時間外の拘束である。
時間外に「働く」のは構わないが、命令として「働かせて」はいけないのである。
(ちなみに法的には、校長にのみ、時間外勤務の命令権限が与えられている。)

留守番電話の設置の話も紹介したが、ここに関連する。
時間無制限に電話対応を認めているから、拘束される時間が無制限に延びる。
はなから、一定時間以外を対応不可にすればいいのである。
一般企業では当たり前のことである。
学校の特殊性を考えて、緊急時だけ管理職に転送されるようなシステムにする方法もある。

そういう諸々できる対応をしないで、ブラックだなんだと文句ばかり言っていても仕方ない。
「気に入らなければ自ら変えよ。さもなくば従え。」
という言葉は、至言である。
(『アルフレッド・アドラー 一瞬で自分が変わる100の言葉』
小倉 広 著 ダイヤモンド社 より引用)

職場をブラックにしているのは、結局自分である。
「子どもが」
「親が」
「地域が」
「同僚が」
「管理職が」
「学校の仕組みが」
「学習指導要領が」
「文部科学省が」
全部そうなのかもしれないが、そうでないともいえる。

少なくとも確実に言えることは、
「過去と他人は変えられない。変えられるのは未来と自分」
ということだけである。

他人がどうこうと文句言っている間は、それに従うべきである。
自らを行動を起こして抗う意志がないのだから、素直に従う。
文句を言いながら従っていても、負け犬の遠吠えでしかない。

だったら、文句を言わずに従う方がよほど潔い。
何でも文句を言えばいいというものではない。
無闇やたらと上司に刃向かうものは、小物であるとも言われる。

もう一つの選択肢が、自ら行動を起こすことである。
例え小さくても、自分のやれることをやる。
上司に建設的な提案をする。
それでも変わらなかったら?
何度でも行動を起こす。
その魂がないのであれば、体制に従うしかない。

厳しいようだが、甘い世界なんてない。
一般企業は、雇用の上ではよほど厳しい。
「そんなに嫌ならやめろ」の世界である。
少なくとも、従っていたら一定の給与と立場が保証されるのだから、きついのはある程度当たり前である。

楽して
楽しく
気楽に

そんな幻想をまず捨てる。

大変で
辛くて
気合いがいる

そんな覚悟をしてみる。

覚悟を決めると、不思議なことが起き始める。
ある時、全て、ひっくり返るのである。
これは、体験している人なら、誰でも納得するところである。

人一倍、思い切り苦労してやるという覚悟。
気合い入れて、痛みに耐え切ってやるという覚悟。
言うなれば「プロレス根性」である。
これこそが、意外にも苦しみを抜け出す秘訣かもしれない。

2018年10月22日月曜日

落ち葉はまわりから飛んでくる

外のたたきを掃いていた子どもが言った。
「先生、掃いても掃いてもまわりから葉っぱが飛んでくる。」
本人は、一生懸命分担場所をやっている。
しかし、きれいになったと思ってたら、また風で飛んでくる。
一向に終わらないのである。

素晴らしい気付きだね、と褒めた。
(本人は意識していないだろうが。)
「つまり、自分のところだけじゃなくて、
まわりもきれいにしないと、
結局自分のところが散らかるってことだね。」

これは、仕事のポイントでもある。

自分のところを完璧にやる。
これは正しい。
必要である。

一方で、自分のまわりに色々と仕事や悩みを抱えている人がいる。
ここを放置しておくと、結局自分のところにプラスの仕事となって舞い込んでくる。
何度でも何度でも、終わりなく入ってくる。

つまりは、自分の仕事への影響範囲は、
自分の周辺も入るということである。

これだけ書くと
「他人の手助けをしよう」
という話に聞こえるが、そうではない。

自分のやるべき範囲というのが、実は案外広いということ。
そして、自分の及ばない範囲からの影響というのが存在するということである。
(今回の子どもの例だと、グラウンドの大量の落ち葉は、掃除場所としては完全に範囲外である。)

だから、せめて手の届く範囲はきれいにする。
廊下掃除に例える。
自分の教室の廊下から、隣の教室の廊下の境目を少し越えて掃除をするということ。
あくまで少しである。
入りすぎると、余計なお世話になりかねない。
「境目」に埃がたまって汚れることがないようにする程度である。

自分の周りというのは、同僚に限らない。
家族しかり。
保護者しかり。
地域しかり。
そこの抱えている問題は、自分の問題の一部でもある。
関係ないふりしていても、飛んでくるからである。

自分の仕事の範囲ということを見つめ直す良い機会を子どもからもらえた。

2018年10月20日土曜日

選ぶとは即ち捨て去る

仕事における「捨てる」の大切さついて。

教育実習生の指導案を読む。
授業の中では、子どもに教えたいことがたくさんある。
しかし、それらすべてを教えようとすると、何も身につかない。

捨てさせる。
絞らせる。
何かを捨てるというのは、大切な何かを選ぶということと同義である。

これは、私が言い出したことではない。
森信三先生の『修身教授録』にも、捨てる大切さが書いてある。
成し遂げたいこと以外を捨て去るということが肝要である。

野口芳宏先生も、同じことを仰っている。
国語や道徳の模擬授業を見ていただく際、
「どうでもいいことをいちいち聞かない」
「枝葉末節にこだわるから、本質である幹の部分が教えられなくなる」
ということを何度も指導していただいた。

仕事に関しても授業に関しても、同じである。
枝葉の部分が要らないとは言わない。
全く役に立たないとも言わない。

しかしながら、そこばかりに目を向けていては、本質が疎かになるということである。
授業で「ねらい」が大切というのは、そういうことである。
的が二つ以上あると、どちらにも当たらないのである。

例えば、算数の授業で計算を扱う時。
まずはやり方を教えたいのか。
はたまた、既存の知識を用いて深く考えさせたいのか。
大量に問題をこなしていく中で体感的に掴ませたいのか。
さらには、それらの方法を通して、形成学力としては何を獲得させたいのか。

それらが明確に定まれば、目的のものは手に入ったも同然である。
代わりに、他は捨て去らなければならない。
一番大切なもので、両手がもうふさがるからである。

一つを選ぶというのは、その他を捨て去ることである。
幼い子どもが、たくさんのおもちゃをいっぺんに運ぶ様を想像すればわかる。
いっぺんに運ぼうとして、脇からぼろぼろこぼれ落ちる。
それを拾おうとしてかがみこみ、持ってるものを全部まっ逆さま。
(大抵、これはビーズなどバラバラに散らばるもので、慌てる母親の風景もセットである。)

欲張ると、一気に手に入ったようで、結局何も残らなくなる。
うまくやってるつもりでも、駄目である。
何でもステップになっていて、一足とびとはいかないものである。

今日一日で何をねらうか。
日々自問して、少しでも今よりましに成長していきたい。

2018年10月19日金曜日

謙虚と感謝、幸福感はセット

前回の権利と恩恵の話に関連して、謙虚ということについて。

権利を当然と思わず、恩恵と捉えるということは、結局「謙虚」の一言に集約される。

謙虚というのは、他にへり下ることではない。
むしろその本質は、逆である。

謙虚という状態では、自分の人間的価値を認めている。
だから、同時に相手の人間的価値を認められる。
結果、自分と同じように相手を大切にし、相手の話もよく聞けるということになる。
自分の存在価値を認めているから、相手にも偉ぶらなくていいという状態である。

謙虚の逆の状態が「傲慢」である。
自分の存在価値を認められず、他にアピールするのに必死な状態である。
だから私を誰よりも尊重してくれないと、その怒りと恨みが攻撃行為に変換される。

不平不満は、謙虚でなく傲慢だから出る。
人間だから、不平不満は当然出る。
しかしそれも「謙虚」という姿勢・観を通して見ることができたならば、消し去ることもできる。

卑近な例を挙げる。
乗る予定の電車が、一時間以上遅れて出発するとする。
そのお陰で、予定に間に合わない。
不満を抱く。
「何で遅れるんだよ。」

この不満はどこから来るのか。
「電車はいつも定刻通りの運行」という恩恵からである。
これは、世界基準で見ても、脅威的なことである。
毎日定刻で運行される国自体が珍しい。
世界基準では、分単位はおろか、時間単位で遅れることなどざらである。
日本は「秒単位」の正確さである。
その恩恵には当たり前すぎて気付けず、「権利」化している。

謙虚に見れば、この一事態を見るだけでも、普段いかに鉄道会社の人のお世話になっているかがわかる。
傲慢に見れば、「金を払っているんだから当然」という姿勢になる。

教育の恩恵も同様。
治安の恩恵も同様。
環境の恩恵も同様。
平和の恩恵も同様。
あらゆる「〇〇の自由」に関する恩恵も同様。

とにかく、世の中は他人の恩恵で溢れている。
それら全てが「当たり前」に見えるので、「権利」と勘違いして見えている。
これは、本当に恐ろしいことである。

学校とは、子どもにここを教える機関である。
単に教科内容自体を教えるなら、機械での学習も可能である。
しかし、そういう人間としての姿勢といったものの教育は、人間にしかできない。
「人は人によって人となる」という、カントの言葉通りである。

挨拶が大切、とはよく言うが、突き詰めるとここである。
謙虚だから挨拶をするのである。
挨拶は、相手を尊重する姿勢であり、自分が今出会った相手への御礼である。
(私は拙著の中で「迷惑をかけるであろう相手への先取りの謝罪」の意も込めていると書いた。)

相手を認めなければ、挨拶をする必要などない。
だから、子どもには「挨拶は気分に関係なく必ずするもの」と教えるのである。
子どもには、幸せになって欲しいからである。
謙虚に誰からも学んで、愛されて、大きくなって欲しいからである。

自分を大切にすることと、相手を大切にすること
自分のためにがんばることと、社会や集団の役に立とうとがんばること。
どちらも本質的には同じである。
子どもには、逆をいかせない。

謙虚かどうかとは、自己主張が強いとか弱いとかそういう話ではない。
恩恵に感謝できる能力そのものである。
つまりは、幸福を感じる能力そのものである。

子どもへの教育では、謙虚に学び、他に感謝できる感覚を育む。
決して、将来自己の権利の主張ばかり叫ぶ人間を育てることのないようにしたい。

2018年10月18日木曜日

働くことは権利か恩恵か

働き方改革と学級づくりについて。

労働時間の基準といえば、約8時間。
この基準は、法による。

それが「普通」ということになると、何事もそこを基準に考える。
もしこれが4時間基準だったら、8時間はとんでもない過剰労働に感じる。
逆に16時間が基準だったら、12時間労働でも楽々すぎる。

基準をもとに、「権利」を考えるからである。
これは「私」の権利である。

さて、なぜ「私」にこんな権利が与えられているのか。
私の努力によって獲得したものなのか。
否。
私の関与しないところで決まった。
この日本という国の社会から与えられたのである。
つまりは、恩恵である。

「恩恵は権利に変わる」という話を紹介したことがある。
奉仕作業にお疲れ様の意を込めて飲み物を出して、翌年は出さなかったら、苦情が出たというあれである。

「自分は優遇されて当然の存在だ」と思うと、そうされなかった時に恨みがつのる。
逆に「させていただいている」と思うと、何をしても残るのは有り難みだけになる。

クレームというのは、この優遇されなかったことへの抗議である。
私の当然の権利を認めろという訴えである。

この「当然の権利」の正体というのが、実は恩恵である。
恩恵だと思えば不満も出ないのだが、権利だと思うと不満になる。
つまりは、事象そのものに善悪も意味もなく、捉え方の観が全てである。

学級の例で見てみる。
例えば、指導にものすごく手のかかると評判の子ども。
この子どもを担任することになったとする。

これを「平等」の名のもとの「権利」で考えると、はずれくじを引いたように考えることになる。
他の教師と比べて、自分の学級だけが、大変な気がするからである。
(実は勘違いであるが、この考え方が基本だとそこに気付けない。)

これを恩恵と考えると、当然の責務となる。
ここをがんばるからこそ、私ごときに給与がいただけると考えられる。
むしろ、誰でもできることなら、給与も相当に低くなるはずである。
何のための教員免許なのかもわからなくなる。

子どもや学生の側にもいえる。

自分は、当然優遇される存在だと思っている子どもや学生。
学校にいくのなんか当然の権利で、有り難くもなんともないという子どもや学生。

自分は、教わりに来ているんだと思っている子どもや学生。
学校に行けるのは必然ではなく、自分がここに生まれた偶然によるものと知っている子どもや学生。

学ぶ姿勢が180度変わる。
どちらも「観」によるものである。

学級づくりにもこれは適用できる。
どれぐらいを「当たり前」として与えるか。
これは、躾やルールにつながる。

基準値を甘く設定すると、後で引き上げるのは相当に困難が生じるのが容易に想像できる。
自覚した「権利」に対する不満が生じやすくなる。
だから、甘やかされて育った子どもは、社会では必然的に不幸を感じやすくなる。
(決して「甘えて」ではない。甘やかされて、である。)

働き方の改善を考える時、本質的な決め手は「観」である。
これを単なる精神論と片付けない。
捉え方こそが、自らの世界のすべてである。

2018年10月17日水曜日

労働時間ではなく、やり甲斐

今度のセミナーに関連して、労働時間に関して。

労働時間が長すぎるというのが、常に多忙の槍玉に挙がる。
これは本当か。

実際、多忙かどうかは、労働時間の長さの問題ではない。
疲労感や多忙感は、本人の感じている「やり甲斐」の問題である。

やり甲斐の感じられない作業に従事することは、例え1分でも苦痛である。
逆に、やり甲斐や達成感を感じられることであれば、何時間でも没頭できる。
子どもが大好きなゲームをやっているのと同じ状況である。
研究者など、その典型である。

やり甲斐は、作業内容そのものには存在しない。
取り組む本人の姿勢が全てである。

例えば、算数の授業をする場合を考える。
とりあえずその時間をやり過ごしている人がいる。
その教材の内容や解き方を教えている人がいる。
思考法そのものを鍛えている人がいる。
仲間との協働を通して、生き方の基本を教えている人がいる。
「将来の日本を支える人材育成をしている」と考えて授業をしているかもしれない。

これらの人を比べれば、同じ時間を過ごしていても、その充実感は全く異なるものになる。
仕事を、面倒なものとしてみるか。
意味のあるものとしてみるか。
同じ作業に従事していても、この差はとてつもなく大きい。

「ブラック部活動」問題も、あくまでブラックなのは強制的で否定的な場合である。
顧問の中には、休みを返上してでもぜひやりたい、という場合だってかなりある。
別に残業100時間を越えても全く構わない人と、規定時間内でもへばってしまう人がいる。
ここが混同されがちである。
あくまで、やりたくない人に実質無給で無理矢理やらせて休みを返上させている状況が、ブラックなのである。

これは、夏休みの宿題の在り方の話にも共通する。
例えば、本校の1・2年生では、自由研究等の素晴らしい作品がたくさん出た。
ちなみに、必須課題はゼロ。(学年とは別に保健室から出た「歯磨きカレンダー」だけは必須であったが。)
出品するかどうかも本当に自由である。

そうして蓋をあけると、相当数の作品が出品された。
見れば、かなりの時間を費やしたと思われる作品がかなりある。
親の温かいサポートもあっての合作である。
作った本人たちも、満足そうである。

この場合、とても多くの時間をかけて大変であっても、徒労感はない。
自らの意思でやった、あるいは、最終的に熱中して「はまった」からである。
これを仕事と考えた時、「多忙感のある長時間労働」には当たらないといえる。

作業時間・労働時間というのが、最も客観的な数値データとして把握しやすく、「過労死」の原因として説得力がある。
数値が評価の物差しとして使いやすい。
成果主義の評価方法と同じである。
だから、槍玉に挙がる。

実際は、ここだけ見ても、部分的な解決にしかならない。
一番は、やり甲斐の問題である。

2018年10月10日水曜日

「メルカリ宿題代行業禁止」をどう見るか

夏休み明けに書いた記事。

「メルカリ」の宿題代行に対し、文科省から出品禁止の依頼が出て、大手3社が承諾した。
なるべくしてなった感である。

宿題の代行についての考えは、以前もメルマガやブログ、ラジオ等で述べてきた。
存在意義や価値の捉え方の問題である。

そして宿題をどう「処理」するかは、間違いなく世間の関心事である。

多くの需要があるのだから、「代行業」を出品すれば売れるに決まっている。
代行業が成立する土台は、それが購入者にとって「面倒」あるいは「不可能」な場合である。
つまり、高額でも売れる。

高額で売れるとなれば、商品を大量生産して売ろうとする業者が出る。
そこに倫理や道徳、本来の存在価値といった一切は関係ない。
すべては、儲かるかどうかである。

しかし文科省及び学校関係者から見て、宿題代行は望ましくない。
(原理的には親がやったり、優秀な友達にやってもらったりするのと変わらないのだが、お金が絡むことが問題である。)

倫理や道徳で守られない場合、どうするか。

法で縛るという手段になる。
交通ルール等と同じである。

禁止令を出す。
ルールをくぐり抜ける者が出る、あるいは守られない。
また新たな禁止令を出す、あるいは厳罰化する。
この繰り返しである。
つまり、この方策は、一時的にしのげても、根本的解決につながらないことが多い。

夏休みの宿題が、一部の家庭教育から見て、厄介者になっているということである。
そもそも本来は、意義のあることだから、広まったはずである。

一部の、というのが大切である。
価値がある場合もたくさんある。
しかし、一昔前に比べ、家庭教育の方針や環境が全く違う。
ドリルが必要な家庭や地域もあれば、不要なところもある。
自由研究しかり、読書感想文や工作しかり。

宿題そのものに善悪はないのである。
しかし、宿題の形、在り方が、50年前と変わっていないのではないか。
要る場合もあれば、要らない場合もあるのではないか。
内容そのものの見直しの時期にきている。

宿題に限ったことではない。
教育の在り方そのものが、世間から変革を求められている。

今、何が必要で何が不要なのか。
働き方改革が叫ばれる昨今、自分の仕事内容そのものを見直す時である。

2018年10月9日火曜日

人のための幸せは、積み重なる

山口の研修旅行での学び。
同行していただいた、ある経営者の方の言葉。

自分の幸せは、積み重ならない。
人の幸せのためにやったことは、積み重なる。

どんなに美味しいものを食べても、豪華な旅行をしても、それは一時的である。
いつか消え去る。

一方、人の幸せのためにやったことは、残る。
やったことに、恩を感じてくれている人もいる。
直接は気付いていない人でも、その人を幸せにした分は、他の人にも影響する。
影響の輪が広がる。
積み重なるのである。

師匠の野口芳宏先生も、同じことを仰っていたのを思い出した。
「幸せの正体は、人から大事にされること。
人を大事にすること。」
「この世を去る時、得たものは全て失い、与えたものだけが残る。」

身近な人への貢献から始めたい。

2018年10月8日月曜日

自分を捨てて働く

休み明けにだるくなってしまうということについて。

私自身は、これが平気な方である。
しかし、初任の頃から数年は、だめだった。

なぜなのか、考えみた。

一つ目は、生活習慣。
若い頃は休みだからと休日前の夜更かし、朝寝坊をしていた。
当然、月曜日や休み明けはだるくなる。
誰でもわかっていることだろうが、これはある。

きちんと寝ているのにだめな時もあった。
なぜか。
不安だからである。

具体的には、毎日授業で何をやればいいのかわからず不安だった。
行事があると、その準備もあり、不安だった。
見通しがないからである。

もう少し突っ込んで考えてみると、ベクトルが自分に向いているからである。
自分のことばかり考えていると、不安だらけになる。

発想を変えてみる。
何のために仕事に行くのか。

私のために仕事は存在していない。
私のために学校は存在していない。
当たり前である。

仕事があるから、私の働く場が与えられる。
つまりは、働けることは、社会のためである。
そこを通しての自己実現なのだが、兎にも角にも社会のためである。

そう考えると、仕事は人を喜ばせるためになる。
自分が人のお役に立てる。
有難いことである。

そんな簡単でないことはわかっている。
しかし、考え方は、肉体と違い、一瞬で変えられる。

世の中のために自分を働かせる。
まして教職は、子どもの成長に貢献できる。
人様に喜んでもらえる上に報酬までいただけるなんて、有難いことである。

「自分を捨てる」というのは、自己犠牲ではない。
自己を最も生かす道のことである。

2018年10月7日日曜日

教える・教わるということは、同義

自分の教育実習生時代を思い起こしての気付き。
教える・教わるということについて。

今はもう少ないのかもしれないが、部活動といえば「先輩が威張る」というのが定番であった。
実は1年か2年早く入っただけの「入社2年目」ぐらいなのだが、ものすごい「えばりん坊」がいる。
アルバイト、あるいは就職先でも同じような生態が見られる。

なぜこんなに威張れるのか。
相手より色々と「知っている」からである。
「知らない」という相手に対し、有利な立場に立てる。
「そんなことも知らないのか」と馬鹿に出来るのである。

相手は新しく入ってきたのだから、部活動内や職場のローカルルールなぞ知らなくて当たり前である。
それをいちいち指摘し、ねちねちいじめる。

どんなに優秀な新人相手であっても同様である。
むしろ、自分より能力の高いと思われる(あるいは生意気な)後輩などには、本能的に脅威を感じるため、余計にいじめたりする。

これは全国的に見られる光景のようだから、人間の本能的な行為といえる。
例えばゴリラの「マウンティング」のように、あらゆる動物は自分の立場が上であることを示す。
つまり本能のままに従えば、新人に威張るようになるということである。
もし何となく他人に威張るようになっていたら、理性が本能に負けている証拠であると考えてよい。

本当に人格的に優れた人は、誰に対しても、決して威張らない。
普通にしていると、こちらより相当「高い」位置にいるので、腰を低くしてくれる。
小さな子どもに接する時には大人がしゃがみこむように、高さを調節して接してくれる。

そういう、ものすごく親切で温かい先輩もいる。
新人の失敗にも寛容で、的確なアドバイスをくれる、面倒見のいい人である。
こういう人が新人教育係をやってくれると、ものすごく伸びる。

人に教える時、つい「この人はいい」「この人は扱いにくい」と分けがちである。
誰に対しても温かい人は、そういう対応をしない。
子どもに対しても同じで、「いい子」「悪い子」というような区別はしない。
それぞれの良さに着目して、引き出してくれる。
「教育」を意味する「education」の語源が「引き出す」であることが思い起こされる。

教育実習生を見ていると、自分の実習生時代を思い出す。
実習簿を見返すと、顔から火が出そうである。
字のまずさはもとより、書いている内容がまたひどい。
勘違い&生意気100%である。

かなり寛容に見ていただいていたことが推察される。
あの場でもしダメな点を列挙されて叩き潰されていたら、今はなかったかもしれない。
良い面を見てもらい、引き出してもらえたということである。
(その後千葉県で採用していただけたことにも、改めて感謝である。)

人間は、概して個性的である。
良い悪いは決められない。
教育させてもらう側は、ただ自分が現在知っていることを、教えることができるのみである。

つまりは、教えるという行為は、相手を変えることではなく、自分自身が勉強させていただいているだけと言える。
何かを教えた瞬間に、相手からの反応・フィードバックが返ってくる。
反応に応じて、また伝える。
この繰り返しである。

教えるという行為は、意識すれば相手との対話にもなる。
自分にとっての授業、自分にとっての教育実習なのだと思って、主体的・対話的に取り組みたい。

2018年10月6日土曜日

教育実習を自分の成長に生かす

10月、教育実習がまた始まる。
大変なことばかりではなく、むしろメリットの方がはるかに多い。
以下、思い付くままに列挙してみる。

一つ目。まず、子どもがいつもより見える。
見えない面が見える。
年齢の近い実習生相手だと、子どもの対応が違う。
普段言わないようなことを言ったり、やったりする。
真面目だと思ってた子ども、大人しいと思ってた子の素が見えたりする。
高学年は悩みを打ち明けることもある。
実習生から、貴重な情報が得られることもしばしばある。

二つ目。自分の指導の粗が見える。
実習生が話し方から何から何までそのまま真似するため、自分の指導のまずいとこがよく見える。

三つ目。当たり前だと思っていたことに気付ける。
実習生から「なぜ?」「何のため?」をたくさん問われる。
まっさらな視点から見てくるので、教育活動そのものの意味を考え直せる。

四つ目。子どもの自主性が育つ。
実習生を送る会を計画しようという話になる。
まず、リーダーが登場する。
更に企画力や協力する気持ち、人を喜ばせようとする気持ちを育める。

五つ目。一つ目に似ているが、担任からは見えなかったその子どもの良さに気付けることがある。
子どもの能力は、相手によって引き出されるものが変わるというのがよくわかる。

六つ目。子どもの運動欲求を満たせる。
部活動を現役でやってることが多く、特に高学年の活発な子どもの遊び相手として最高。

七つ目。特技を授業に役立てられる。
特技や趣味をもっているので、それを活用する場面を作ると、本人も生きる上に授業にも役立つ。
例えば昨年度は四年生の国語の授業で、落語研究会の学生に落語を実際にやってみせてもらった。

まだまだあるが、とにかくメリットが多い。
大変なことには、価値がある。
自分自身も学ぶ機会だと思い、共に学びたい。

2018年10月5日金曜日

「天真」を引き出す「蒲柳の質」

先日の研修旅行中、山口県の「鍵山記念館」というところで、読書会を行った。
テキストは森信三著『修身教授録』の第19講「松陰先生の片鱗」である。
この中で「天真」という言葉が出てきて、これが心に引っかかった。

意味を調べてみた。
広辞苑によると
【天真】
天然自然なままで、偽りや飾り気のないさま。
とある。

『修身教授録』の文中には次のように書かれている。
=========
(引用開始)
そして人間各自、その心の底には、それぞれ一箇の「天真」を宿していることが分かってくるのであります。
天真に二、三はなく、万人すべて等しいのでありますが、ただその本性の開発の程度いかんによって、
そこにそれぞれ独自の趣を発揮してくるのであります。
それ故ひとたびこの点がはっきりしたならば、いかなる者にも穏やかに優しく、
かつていねいに対せずにはいられなくなるはずです。
(引用終了)
==========

それぞれの「天真」を引き出す。
それさえできれば、教育としては、成功であると思われる。
それぞれ個別の教育が必要な所以である。

それぞれに「天真」があるという前提に立つ。
さすれば、誰に対しても、ていねいに接せざるを得ないはずということ。
立場自体は上であっても、相手を見下すということをしないということになる。

こう考えると、「叱る」ということのやり方自体を考える必要が出てくる。
子どもと共に歩む者としては、叱る際に、自省の念が伴う必要がある。
つまりは、大声で怒鳴るのではなく、自身にも諭すように、低く柔らかく、わかるように伝えるのが理想といえる。

東洋思想研究者の安岡正篤によれば、吉田松陰の話し方を
「平常の音声なども極めて低く柔かく、一体に蒲柳(ほりゅう)の質であった」
と表現している。
(『日本精神の研究』安岡正篤著 致知出版社より)

この「蒲柳の質」をどうにかして身に付けたい。
どうにも「剛」である。
しかしながら、目指す価値がある。

ちなみに、私の友人の教師で「こんにゃくファイター」というあだ名をもった人がいる。
(「もった人がいる」とか他人事のように言っているが、勝手にそんなあだ名を付けたのは私である。)
この人は、一体に蒲柳の質である。
管理職も認める、謝罪のプロであり、クレーム対応のプロであった。
志や向上心というものはあまり感じられなかったが、人間関係のクッション的役割が非常にうまい。
どこに行っても、重宝する人材である。

もしかしたら、身の回りに自分の「先生」がいるかもしれない。

「天真」を引き出すための、自分の在り方を問う。
我が身を振り返り、反省しきりである。

2018年10月4日木曜日

松下村塾での学び2

松下村塾での学びその2。

教育の不易についても考えさせられた。

松陰は講義もすれど、その多くの時間は会読や討論といった塾生同士の学び合いのスタイルである。
更に言うと「異年齢集団の縦割りグループ」である。
「主体的・対話的で深い学び」が完全に具現化されている。
つまり、この理念は「流行」のように見えるが、実は「不易」である。

そして、松陰が教えたのは、学問を通しての「志」である。
だから、あらゆる分野での傑物が出た。

ちなみに、同じく山口県の誇る偉人、大村益次郎の「適塾」での学びにおいても、使えたスペースは「一畳」だけであったという。
その非常に限られた範囲の中で寝・食・学のすべてを行ったという。
(大村にして「極めて窮屈」と親族に愚痴をこぼさせるほどである。)

こちらの理由は、適塾の開設者である緒方洪庵が日本一の人気だったせいである。
全国から医学を志して集まった塾生が200人。
そのたった一畳を塾内のどこに構えるられかは、成績次第である。
位置も出入り口に近い壁際になると、夜厠へ行く仲間に踏まれるという。
つまり、必死で学ばないと、講義が聴きにくいだけでなく、眠ることすら妨害される。
熾烈な競争である。

しかしながら、そのたった一畳分のスペースの中でも、学べたというのは事実である。
その何もない一畳の空間において、必死に大量の本を読んで学んだというのが事実である。

信ずるは、学の力。
もっともっと勉強せねばならないと思い知らされた研修旅行だった。

2018年10月3日水曜日

松下村塾からの学び1

夏休み中、福岡県と山口県に研修のための旅行をしてきた。
最大の目的は、松下村塾を実際に尋ねることである。
以下、旅における学びと気付きを記す。

自分に何が足りていないか、結論が出た。
ずばり、勉強量である。
具体的に言うと、圧倒的な読書量の不足である。

部屋の柱に飾られた孟宗竹には
「万巻の書を読むに非ざるよりは、寧んぞ千秋の人たるを得んや」
と記されている。

更に、読書の方法についても指南している。
読むだけではだめで、要点を書き写せという。

そして、最も大切なのは、行動。
書物より学んだことを実行せよということである。

松下村塾という建物自体からの学びもあった。

松下村塾は元々8畳のスペースで、塾生が増えてあまりに狭いので、後に10畳半を増築したという。
↓参考資料 国立国会図書館デジタルコレクションH.P.内「松下村塾間取平面図」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1274459/6?tocOpened=1

増築分は、塾生による手作り建築物である。
大工に頼らなかった理由は、松陰が塾生への教育の一つとして行ったからだという。

松下村塾は、狭い。
藩校と違い、私塾であり、当時の最新の教育機器もない。
それどころか教科書もないので、まずは書き写すところからである。
しかし、高杉晋作や伊藤博文をはじめ、多くの傑物がここから出ている。

なぜなのか。

結論、つまり「最大の教育環境は、教師である」という事実の証明である。
教育機器その他諸条件のせいではないのである。

そこで「そんなことはない」と反論するために、「生徒の質」ということを言い訳にして考えてみる。
つまり、松下村塾に来る生徒が、元々優秀だからという仮説。

残念ながら、この仮設もほぼ全く成立しない。
藩校で「悪童」として名を馳せ、手の付けられない生徒も少なくなかったという。
親としては、こちらの塾にぶち込んで、矯正してもらおうという訳である。
伊藤博文のように、元々志が高い人間ばかりではなかったようである。

更に言うと、松陰は獄中での講義も行っている。
江戸時代の、獄中の人々。
ここに対し「教えやすい相手」「元々優秀」と言えるか。
明確に「否」である。
しかし実際は全員、20代から40年以上刑務所に入っている人間までもが、学び始めるのである。
看守すら生徒になってしまう。

これでは、全く言い訳ができない。
「生徒の質が悪いから」は、全くの虚言であると断言できる。
残念ながら、悔しいぐらい、教える自分の側が原因である。

2018年10月2日火曜日

「給料が3分の2になった」をどう考えるか

師の野口芳宏先生からの学びのシェア。

野口先生がこんなお話をされた。
定年退職を迎えて、再就職した人と話すと
「給料が3分の2になった」という話になる。

この後の反応が、大きく二つに分かれるという。

一つは、
「同じ働きなのに、安い給料でやってられない」
という反応。
まあ、そう考えるのが普通である。

もう一つは、
「現役の頃は、何て高い給料を頂いていたのか、恩が身に染みる」
という反応。

どちらも、境遇は全く同じなのである。
不平不満の人生か。
感謝満足の人生か。
どちらが幸せかは、明白である。

これを、定年退職した人の話と受け止めてはいけない。
現役バリバリで働く人たちにも、十二分に当てはまる話なのである。

ちょうどその1週間前、私は父と二人で酒を酌み交わしながら、これに近い話をされた。

私の父の仕事は、建築関係である。
65を過ぎたら、一気に給料は減る。
それでも、仕事がもらえるだけで、有難いという。

さらに
「公務員は、叩かれるつもりでいろ」
とも忠告された。

一般の業界からすれば、これほど社会的に保護された立場はないという。
「使えないからクビ」「態度が悪いからクビ」「会社の経営がきついからクビ」など、他の業界では当たり前のことだという。
明日、家族の生活がどうなるかわからないのである。
「そういうことがまず起きない」というだけで、もうとんでもない優遇された立場だという。

そういう諸々に、感謝しているだろうか。
給料が安いとか労働時間どうこう言う前に、それほど「働いて」いるだろうか。
貢献できているのだろうか。
本当に、自分たちの仕事が、公務員ではない一般業界と比較して、大変なのだろうか。
日々の授業を工夫できたり、かわいい子どもたちと過ごせたり、むしろ、感謝すべきことの方がはるかに多いのではないか。

「働く」とは、「傍を楽にすること」という。
周りを幸せにした度合いへの見返りとして、給与がある。
そう考えると、その職に就いただけで一定の給与が頂ける立場が保証されているというのは、おそれるべきことである。

何でも、登るのは大変だが、転げ落ちるのはすぐである。
水は低きに流れる。
気を付けないと、不満不満と堕落の道を辿ることになる。

何事も、勉強である。
「努力否定論」もあるが、やはり、基本的に人間は苦労するのがいいのではないかと思う。

「働き方改革」は、必要である。
しかしながら、これは「楽していい給料をもらうようにしょう」ということではない。
苦労して働き、給料を頂ける有難さを見直したい。

2018年10月1日月曜日

二択で問う

最近、犬を連れて旅行をするようになった。
そうすると、選べる宿が相当限定される。
恐らく、そうでない状態の1%ぐらいである。

犬連れは、宿的には結構困るのである。
原則「犬連れお断り」である。
そして犬OKの宿では、特別対応がある分、当然割高にはなる。

しかも、犬連れは、移動距離も限定される。
飛行機に乗れないのは大きい。
車移動オンリーである。

犬を預けてくればいいじゃないかと思うかもしれないが、あくまで目指すは「犬連れ旅行」なのである。
置いてくる訳にはいかない。

食事をできる店も限定される。
テラス席である。
当然、屋外なのでクーラーはない。
木陰とはいえ、まあ中に比べたら暑い。
(しかし、健康的な感じもする。)

寄れる場所も限られる。
炎天下のコンクリートの上は歩けない。
ただでさえ、暑さに弱い生き物である。
基本的に、森とか水辺とかになる。
専ら、自然系である。

とにかく、全体的に選択肢が少ないのである。
それで、それは不幸かというと、そうでもない。
気持ちが割り切れて、決定が素早くなる。
いわゆる「意志力」を消耗しなくて済む訳である。
「ま、これでいこう」「なかなかいいじゃない」ということになる。

世の中に色んなものが溢れていても、そもそも候補にすら上がってこない。
条件からはじかれるからである。
ごちゃごちゃしなくて、見やすくなる。

私のように情報過多な状態が苦手な人間は、あんまり選択肢が多いと、それだけでげんなりしてしまう。
どれが本当に良い選択だったのか、何を考えればよいか、わからなくなるからである。
(こういう人は、私以外にもそれなりにいるのではないかと思う。)

世のお母さん方にとって、
「今日の夕飯何がいい?」
とたずねた時、最も困る回答が
「何でもいい」
だろう。
これで作る気をなくすという話もよくきく。

しかし、これは、聞かれる側にとっても、結構困るのである。
あまり良い問とはいえない。
「無限の選択肢から選べ」ということと同義である。

しかも、大真面目に
「じゃ、フォアグラのテリーヌ」
とか答えても、作ってもらえないこと必至である。
結局カレーになるんだったら、最初からそういってくれと思う。
こうして、親子や夫婦の関係が次第に冷えてくるのである。
恐ろしいことである。

だったら最初から、
「ビーフカレーとシーフードカレーどっちがいい?」
と聞けば全て解決である。
問の基本は、二択である。

真面目に、学級に当てはめてみる。

授業がぐずぐずになる時は、大抵、問が悪い。
問が大きく、ざっくりしすぎなのである。
答えの選択肢がありすぎて、方向が拡散しすぎるのである。

先のカレーの例のように、カレーであることは決まった上で、二択で聞くのが基本である。
ちなみに、〇×も二択である。
その上で、なぜそちらを選択したかを問う。
そうすれば、話し合いにもある程度の方向性が定まる。
最初から無限の選択肢から選ばせるから、思考がぐちゃぐちゃになるのである。

結局、何の話だったか。
そう。
選択肢の少ない犬連れの旅行も、なかなか悪くないということを最も言いたかった次第である。
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