2020年9月30日水曜日

通知表や評価はどうあるべきか

 小学校は学習指導要領改訂の完全実施に伴い、各地で大きな変化が起きている。

その中で、通知表の改訂等も行われている。

小学校の通知表でいえば、評価の観点がかつての4観点から3観点に変化した。


それに対し、評価の分け方を変えたところや、ある項目を記述に変えた、あるいは記述をなくした等、様々である。

中には、通知表自体をなくしてしまったという学校もある。

伝統的に通知表も定期テストもない中学校や高校というのも存在する。


参考:外部記事

「定期試験なし、通知表なし」を50年前から続ける学校 桐朋女子中・高等学校(1)

おおたとしまさ |



根本・本質・原点で考える。

評価は、教師にとっての振り返り材料という面がある。

しかしその本質は、子どもの成長である。


子どもの成長にとっての評価は、どうあるべきなのか。

評価されて褒められたからやる気が出る、というだけのものでいいのか。

逆に、厳しく評価されていたらやる気が出るといえるか。


実はこれら評価に対する反応は、個々の人間の特性によるものが大きい。

褒められてますます頑張る者がいれば、逆に図に乗って手を抜く者もいる。

厳しくされて奮起し、負けん気で上昇する者もいれば、落ち込んでやる気をなくしてだめになる者もいる。

つまり、一律の基準に則って評価をすること自体、個に応じた教育とは相反する面が生じる。


また、評価が難しいものもある。

例えばずっと議論が続く、道徳を評価するとは、どういうことなのか。

道徳は、押し付けられない。

しかし、教える側の基準の存在なしに、評価はできるのか。


主観的でない、本当に客観的な評価というのは、存在しない。

全ては、主観的評価である。


小学校における評価がどうあるべきか、改めて考えるべき時にきている。

2020年9月28日月曜日

少人数学級に効果をもたせるには

 今、少人数学級実現に向けて、議論が様々に起きている。

以前にも書いたが、少人数学級を急激に実現しようとすると、歪みが生じる。


次のベストセラー本にも、少人数学級のことが書いてある。


『「学力」の経済学 』中室牧子 著  ディスカヴァー・トゥエンティワン


「その教育に本当に効果があるのか」という切り口で、様々な教育の施策や手法を調査している本である。

この本のすべての根幹は「科学的根拠」=「エビデンス」である。


この本における少人数学級、学力向上への効果の評価はどうなのか。

結論だけ言うと

「少人数学級は効果があるが、費用対効果が低い」

となっている。


これは、学校において最も費用がかかるのはどこかを考えると納得がいく。


建物の改築でもICT関連の整備でもない。

人件費である。

人を一人雇うというのは、とてつもなく高い予算確保が必要になる。

まして正規雇用するとなれば、その費用は一年間で終わらないからである。

人間も、費用がかかるという点では設備や物と同様である。

「10年間で5000万円以上」の費用がかかるものに対し、一体いくつ買えるかということである。


単純な費用対効果でいってしまうと、人間はあらゆるロボットに勝てない。

ロボットは「作業能率」でいえば、最強だからである。


例えば多少高価なコピー機であれば、両面印刷からホチキス止めまで全てをボタン一つで自動で終えられる。

学校でも、20ページほどある冊子を何十部と作ることはままある。

これを人の手でやるとなると、かなりの時間がかかる。


職員会議がペーパーレスでないのなら、毎月のようにこの作業がある。

これを印刷して、並べて、一枚ずつとって、綴じて、という作業をやると、膨大な時間と手間がかかる。

教職員一人あたりにかかっている費用を考えると、かなりの無駄である。

高性能なコピー機に頼めば、1分以内の操作で終わる作業である。


こういう無駄なことが日常的に行われている学校がかなり存在する。

なぜなら、そもそも、そういう高性能なコピー機が配備されていないからである。

日本の学校の予算は、いつでもぎりぎりである。

(あるのに使わせてもらえない、という冗談のような事態も結構あるかもしれない。)


話を戻すと、少人数学級の費用対効果は、これら機器の導入と比較しても低くなる。

効果以上に、導入費用自体がものすごく高いからである。


その効果を高めるには、従来の在り方とやり方を変える必要が出るということである。

今のまま急に採用を増やしても、仕事に魅力がないのであれば、良い人材が集まらない。

また、機器が優秀だからといって、今のまま高性能タブレットを導入しても、活用の仕方がわからない。

(教科書配付のコストがなくなるのは大きい。印刷と配送料だけでも相当な費用である。)


新しいやり方には、新しい在り方がある。

新しい生活様式になって久しいが、環境が変わると、あらゆるルールががらりと変わる。


新しいことの導入は歓迎しつつ、どうあるべきかを探っていきたい。

2020年9月26日土曜日

「お願いします」「ありがとうございます」の礼儀

 日本の首相が辞任という、大きなニュースが世界を駆け抜けた時に書いた記事。

首相へのインタビューが横柄・無礼すぎるということで一部問題になっていたが、同感である。

これだけ長きにわたり日本の政治のリーダーとしてやってきた相手なのだから、どういう立場にせよ、対する時の礼儀はあって然るべきである。


政治的な立場や上下関係云々を抜きにして、人に接する時の当たり前の礼儀というものがある。

これが今、日本の世の中に欠けてきているものである。

日本がリベラル化していくということと、国際的にも通用する礼儀をもつというのは、別問題である。


そもそも、日本を動かすほどの立場の苦労なぞ、市井の身にはわかりようもない。

自分よりも重い責任ある立場を務めてきた人に対し、労いの念と礼儀をもって接するのは至極当然である。

そういう人に聞きたいことがあるのなら、一言「お疲れ様でした」と付けるぐらい、できたのではないかと思ってしまう。

自分の用事優先、自分軸中心になってしまっている感は否めない。


この辺りの「平等」を勘違いしてはならない。

人間が生まれながらにして平等であるということの意味と、相手を人間として尊重するということは同義である。

全ての人間の年齢や能力、生まれた時の地位や財産が同じだと言っているのではない。

全ての人間には人権があるといっているのである。

子どもに対して尊敬の念をもてないという人は、この辺りの人権感覚がズレている。


すべて、人に対して、礼儀をわきまえる。

自分の上司のような、立場が上の人に接する時は、普通誰でも意識する。

しかしそれで自分よりも立場が弱い人に横柄になるのであれば、上の人への礼儀も偽物である。

特に子どもなどの立場が弱い相手に接する時には、意識的に相手を最大限尊重する態度をとる努力をすべきである。

(一方、どんな立場の相手にせよ、横柄な相手にこちらが無理にへり下る必要はない。)


だから、子どもには、礼儀を教える。

何か頼む時は「お願いします」、してもらったら「ありがとうございます」の一言を添える。


それに相手の立場や自分との関係性は、一切関係ない。

友だちだろうが先生だろうが、親だろうがコンビニの店員さんだろうがバスの運転手さんだろうが、近所の小さい子だろうが、すべて同じである。


誰が相手だろうが、何かしてもらう時は「お願いします」とセットで「ありがとうございます」

それを習慣化する。


これは、教える側にも当てはまる。

例え子どもに頼むのであっても、自分の頼みごとであればお願いの一言を添え、してくれたことにはお礼を伝える。

(ちなみに、子どもに「勉強をしてくれてありがとう」というような馬鹿な話はない。

子どもが勉強するのは、あくまで子ども自身のためである。周りの大人がお礼を言うのは筋違いである。)


つまり、立場の上下とは別の話なのである。

人と接する際の、当たり前の基本のキの話である。


こういうことを、今は学校が教えるしかなくなっている。

家庭内が核家族化し、親と子しかいない関係性だと、教えられないことも多々ある。

だからこそ、学校がやるべきことである。


善意の強制、価値ある強制とは、師の野口芳宏先生の言である。

知らぬなら、知るように教えればよい。


自国における世の中の乱れの責任の一端は、常にその国の学校教育の結果にあることを忘れずにいたい。

2020年9月24日木曜日

教材研究なしの俳句の鑑賞指導

久しぶりに授業実践の記録。


5年生で、次の句を鑑賞した。


目には青葉山郭公初鰹 山口素堂


このまま出されても、小学生には読めない。

いや、大人でも知らなければまず読めない。

だから、教科書には振り仮名が振ってある。

(敢えて漢字を読めないままで進める鑑賞の方法もある。)

特に「山郭公」の部分だが、読みは「やまほととぎす」である。

(ちなみに「ほととぎす」という漢字は山ほど種類がある。)


私は3学級分の国語を担当しているので、3回実践できる訳だが、それぞれ違った鑑賞になるので面白い。


今回、私は敢えて教材研究をしないで授業に臨んだ。

俳句は少しの間だが自分が句会に属してやっていたこともあり、鑑賞については即時であっても一日の長があると踏んでのことである。

(そもそも、句会で出てくる句に投票する際には、その場で作られた句に対して行うのだから、先行知識などありようもない。)


俳句などは、知れば知るほど深く味わえるようになる。

一方で、デメリットとして、知れば知るほど、教えたくなるというのがある。

そうなると、子ども自身による鑑賞のつもりが、こちらの知識先行の指導になってしまう。

先入観があって読むことで、子どもと同じ未知の目線に立ちにくくなると考えて、敢えての挑戦である。


さて、これがなかなか面白かった。


まず、視写した後に、全員で読んでみる。


さっぱりわからない様子。

私も、一読した感じだけでは、正直意味がよくわからない。


とりあえず、景色を見たままを書いている感じは伝わった様子。

いわゆる叙景句であるということだが、その用語はここでは指導しない。


次に、俳句のルールについて確認した。

1 五・七・五

2 季語が入る 

さらに、「季語は原則として一句に一つのみ」ということも教えた。


すると子どもが「文字数(音数)が当てはまっていない」という。

その通りである。

最初の「目には青葉」からして、いきなり六音である。

そこは後で扱うためにとりあえずスルーして、次の問を出した。


「季語はどれか」


当然、子どもは迷う。

出している私も迷ったが、一緒に迷って考えるために出したのである。

(これが、結果的には鑑賞の肝となる主発問となった。)


A 青葉

B 山郭公

C 初鰹


どれも、全て初夏の季語である。

つまり、季語が3つも入っており、これも原則外れである。

子どももそれに気付いている様子。


「季節はいつ?」と確認すると「夏」とくる。

どれも夏のものだという。

「初夏」という言葉を伝え、確認した。


実はどれも季語なので、次のことを教えて問い直した。

「実は、皆さんの予想通り、3つとも初夏の季語です。

しかし、一句に季語は原則一つ。

つまり、どれか一つだけが中心となる季語ということです。

それが、作者の一番伝えたいものです。

さて、どれでしょう。」


きいているが、きいている本人もまだ迷っている状態である。


こうすると

A:B:Cで1:2:4という比率になった。


理由をそれぞれ聞く。


Aの青葉は「最初に出てくるから。大切なものは最初。」

「青葉だけ『目には』とはっきりついているから」ときた。


Cの初鰹は逆に「最後に出てくるから。大切なものは最後。」ときた。


Bは明確な理由が出ない。


ここで、Aの理由を拾って、次のように問うた。


「青葉だけ『目には』とあるけど、他のものも、目で見ているの?」

自分がそう思ったから、きいてみたのである。


子どもは「う~ん?」と唸る。

私も「う~ん?」と唸っている。

改めて、句全体をよく読み始める。


続けて、もう一つ自分が疑問に思っていたので、きいてみた。

「この初鰹は、泳いでいるやつなのかな?」


「そう、泳いでる」

「いや釣っているところだ」

「いや、食べるためじゃ・・・」

私が「刺身!?」ときくと、「そう!」という賛同の声と「え~!?」という声。


散々迷ったので、辞書で「初鰹」を引いてみると

「初夏に市場に出る」とある。

さらに考えてみると「鰹が泳いでるのって・・・目で見たことないよね・・・」ということになった。

つまり、最低でも水揚げされた後である。


さらに「青葉と山ほととぎすは山の中なのに、鰹は海でおかしい」

という意見。

「川に鰹はいないよね?」という話になり、「どこかの山小屋?」「山の中の旅館?」ということになった。

山の中で見られる、さらに日常で見る状態の鰹となると「刺身」が一気に有力説である。


これに続いて「山ほととぎすは、音じゃない?鳴いている声」という意見が出た。

これまた電子辞書でほととぎすを引くと、音声が出るので、鳴き声をみんなで聴いた。

なるほど。いい鳴き声である。

一気に「鳴き声」が有力説である。


これまでの意見をイラストで整理した。

どこでそれを感じているかである。


青葉←目

山郭公←耳

初鰹←舌


となる。

どうやら伝わってくるのは、青葉の素敵な感じ、ほととぎすの美しい鳴き声、それ以上に、「初鰹旨し」という「食いしん坊」な感じの句であるということになった。

「花より団子」である。


単なる文字の羅列でしかなかった一つの句から、命の入った句へと生まれ変わった瞬間である。

子どもと一緒に、鑑賞の面白さを味わうことができた。


読み終わって子どもがいったのが「教科書の句は、原則を全然守っていない」という指摘。

いい指摘である。

そこで「プロになると、原則から外れた、離れ業ができるようになる」という話もした。


その意味を、イチローのバッティングフォームで説明しようとしたが、伝わらず失敗。

ピカソで例えたら伝わるかと思ったら「ピカソはああいう変な絵(キュビズムを指す)しか書けない」と思っていたらしく、撃沈。

何かもっといい例えができたら良かったのだが、とにかく「基本を外れるのは上手になってから」というのは伝わった(はず)。


これは、今回の授業にも当てはまる。

少なくとも、私も小学校教員としては、20年選手に届こうかというところである。

さらに俳句に関して、私自身に多少の知識があったことは、授業成立の要因の一つであることは否めない。

「教材研究しないで授業に臨む」というのは、大いに原則外れであり、通常は失敗する。

指導者が無知に適当に寄り添っていればいい、というものでもないことだけは強調しておきたい。


授業は、面白い。

この授業での発言した一人ひとりに、点数をつける必要はない。

みんなでうんうん唸って考えたから、面白い時間が共有できたのである。

(そして興味をもてずに眠りかけている子どもがいたかもしれないことも、常に念頭に置いている。)


子どもと共に作り上げる授業を、なるべく多くしていきたいと願う昨今である。

2020年9月22日火曜日

再生能力だけでなく、問題発見・解決能力を

 

「頭のよさ」に関する教育観について。


子どもたちの「〇〇さんは頭がいい」という認識を見ると、偏りが見られる。

単純に、テストの点数で見ていることがかなりある。


この見方は、子どもに限らないかもしれない。


テストで点数が取れる。

これについては、大抵は「再生能力」に左右される。

要は、お手本通りに再生できるかどうかである。

レコーディング機能のあるものや、CDプレーヤーやDVDプレーヤーなどは、この面において最強である。


漢字テストはその最たるものであるし、算数、数学のテストのほとんどはそれである。

だから、取り組んだ回数がものをいう。

多く問題に取り組んでいる方が、再生能力は高まる。


あらゆる「習い事」も、読んで字のごとく、やはりこれである。

習うのだから、倣うこと、模倣からである。

お手本を見て、型を覚える。

そのために、同じ練習を繰り返し繰り返し行っていく。

単純作業である。


つまりは、小学校や中学校段階で周りから「頭がいい」昔なら「神童」と評されるには、いかに繰り返すことができるかである。

当たり前だが、単純にそれを好きでやっている子どもが最強になる。

あるいは、ひたすら単純作業を淡々と続けらえる子どもも、この能力は強化される。

親の命令に従順な場合、親の願いを読んでしまう場合も、しばらくはもつ。


要は、あらゆる学習の第一段階をクリアするには、量をこなす必要がある。

この第一段階クリアの状態が、小中学校時代に「頭がいい」と評される条件である。


だから、テスト自体には意味がある。

テスト、試合、本番があるからこそ、そこに向けてクリアしようと意欲も湧く。

一つの能力を高める側面があるといえる。


再生能力が高いというのは、それはそれで大切である。

特に、決まった動きが必要になる仕事やスポーツなどでは、最も重要な力である。


しかし、今の時代に求められている本質的な賢さというのは、そこだけではない。

端的に言って、問題を自分で発見し、解決する能力である。


問題を発見するとは、気付けること。

気付けるかどうかというのが、勝負の分かれ目である。

例えば日常生活の中でも、問題があるのに気づいていないということはかなり多い。


一旦問題に気付いて課題設定できれば、解決には集団の力で向かうことができる。

課題を細分化し、役割分担する、といったチームリーダー的な力が求められる。


これは、再生能力とは違う。

社会に出てから「頭がいい」と評される人は、こちらの能力の高い人である。

(依頼した課題をさっと上手に解決できる人は「腕がいい」と評される。)


学校教育に、高い再生能力が求められた高度経済成長期。

それらが通用しなくなってきたという反省に立ち、現在の学校教育はその在り方を大きく変えようとしている。

文科省の指針自体は正しいはずなのに、具体が追い付いていない状況が続く。


せめて小中学校現場では、テストの点数で子どもの頭の良し悪しが評されるような風潮をやめにしていきたい。

テストの点数は、あくまで再生能力という一つの側面である。

テスト中心で子どもが、人間が評価されるような学校教育を、どうにか変えていきたいと考える次第である。

2020年9月20日日曜日

仕事に誇りをもつには

 今回は、具体ではなく、とても哲学的な話。

仕事術ではなく、教育観に寄った話である。


仕事に誇りをもつというと、大上段に構えているという人もいるし、そんな大した仕事をしていないと謙遜する人もいる。

確かに、こういう高尚な感じのする言葉には、そういう嫌味な面が見えることもあるのかもしれない。

しかし、特に現代の教職に就く人には、それぐらいの意識がある方が働きやすいのではないかと考えている。


日本において「小学校教師」ときいて、社会一般はどのように反応するだろうか。

あるいは、現役の小学校教師たちは、どのように認識している、あるいは、認識されていると感じているだろうか。


残念ながら、あまり良い印象をきかない。

今まで働いてきた身近なところできいてきても、

「この仕事は好きだけど、社会に認められているとは感じられない」という人が多い。


試しに、Googleで「小学校 教師」と入力してみる。

そうすると、このワードに続いて、予測ワードが出てくる。

上から順に

「給料」「おかしい」「資格」「苦情」「大変」「大学」「服装」

ときた。

何だか、残念な気持ちになるワードがいくつか並ぶ。


この社会的な認識のもとで、誇りをもてというのは、なかなかに難しい。

そうなると「どうせ」「自分なんて」と思いやすい。


ただ、もしもそんな認識の大人に教わる子どもたちは、どう感じるのか。

どんな職業観や倫理観をもつ人間に育つのか。

あまり良い影響を与えられなそうである。


やはり、人に教える職業である以上、仕事には誇りをもちたいところである。

子どもにとって最も間近で仕事の姿を示す大人である以上、生き生きとしている方がいいに決まっている。

だから、教師は周囲の認識より高めの意識をもつぐらいで、ちょうどバランスがいいのではないかと考えている。


特にまだ新卒などの若い人なら、鬱陶しがられるぐらい元気だったり、たとえ静かでも熱心すぎるぐらいだったりする方がよい。

がんばろう、挑戦しようという心がなくなり、楽を求め始めると、やがて枯れて、腐っていく。


諦めて気持ちが枯れてしまうぐらいなら、頑張って挫折した方がずっといい。

折れても直せるが、枯れたものは、再生が難しい。

また折れた状態からしっかりと立ち直れた場合、以前より格段に強くなる。

一方、生活の保障がある程度約束されている分、枯れる方にゆっくりと転げ落ちていくのは容易である。


だから、仕事への誇りなのである。

誇りをもっていれば、自分の仕事をないがしろにはできなくなる。


仕事に誇りをもてると、それに従事している自分にも誇りをもてるようになる。

目の前の子どもに、どういう価値のある人間として立つのか。

自分が教えることで、他にないどういう価値を提供できるのか。

そこに、教科書通り、マニュアル通りでないオリジナリティが出てくる。


仕事への誇りは、心の支えになる。


いくつになっても、挑戦している人は若々しい。

私がかつて見てきた、尊敬したくなる現場の先生方は、50代以降にしてなお輝きを増す魅力溢れる方々だった。

枯れる兆しもなく、気持ちが張っている先生方である。

何なら、80代なのに、20代よりも精神的にずっと若々しい人もたくさんいる。

(肉体はさすがに別らしい。腰とか膝とか目とか耳とかにくるようである・・・。)


ご本人たちは意識していないのかもしれないが、そういう人たちと話すと、やはり仕事に誇りをもち、それが好きなようである。

「もうこんな年だけれども」とよく言う。

「けれども」なのである。

「だからどうせ」「でも」「だって」の対極である。

「けれども」からは、表面には見えない奥底から沸々と湧き上がってきそうなエネルギーを感じる。


どうすれば仕事への誇りをもてるのか。


まずは自分が今目の前でやっていることに、少しでも自信がもてることである。

それには、自分のやっていることが、誰かの幸福に貢献できていると感じられること、自覚していることである。

これは、仕事の本質であり、全ての職業に共通してい言えることである。


ちなみに外的要因でいうと、「管理職」「同僚」「保護者」のいずれかが「敵」に見えると、かなり萎える。

特に同僚の励ましや承認がないのは厳しい。

もし職場の若手が元気がない、大人しすぎるとしたら、同僚である自分がやるべきことをやっているか振り返る必要がある。

「安全・安心」の信頼ベースがないと、たとえ高い志があっても、人間は挑戦できないからである。


何となく暗い日本の現状を打破して、明るい未来をつくっていくのは、教育の力である。

そのための重要な任務を背負っているという自覚と誇りをもって、仕事をしていきたい。

2020年9月18日金曜日

第3段階へは人間の教育

 前号までに書いた「学級集団の段階」について。


学級集団の段階の違い、それによって適切な指導方法が変わることは前々回で書いた。

また、その段階の見抜き方についは前回書いた。


今回は、段階の上げ方についてである。

特に一番多いと思われる、2段階の状態から3段階以降へ上がるために絞って書く。


一応復習しておくと、学級の段階とは次のようなものである。


教師の指導性も子どもの自由度も低い=「学級開き」の第1段階

教師の指導性が高く、子どもの自由度は低い=「一斉指導」の第2段階

教師の指導性も子どもの自由度も高い=「ペア・グループ活動」の第3段階

教師の指導性は低く子どもの自由度が高い=「自治的活動」の第4段階


引用文献:『スペシャリスト直伝! 学級を最高のチームにする極意』 赤坂真二著 明治図書


一斉指導は成り立つが、基本が指示待ちで、子どもたちに任せるとうまくいかない。

ペアトークやグループ活動を方法として採用してはいるが、実質的に機能していない。


この辺りの段階から次にいけないというのが、最も多くの学級の悩みどころではないかと思われる。


ここからの脱し方だが、先に言うと「これをすればうまくいく!」という単一の必殺技はない。

代わりに、様々な方面からの有効なアプローチ方法なら示せる。


理念的な話を先にすると、2段階から3段階へは、やり方以上に、在り方の変容である。

子どもが、何のために学校に来ているのかという、その学習観の変容である。


第2段階までは、すべて自分のためであり、知識注入と技能獲得のための正解を覚える記憶力が重要で、本質的に思考力は必要ない。

従って、機械的学習のパターン記憶さえ強ければ、思考力は全くなくともテストではいつも100点、ということもあり得る。

直接教授してくれる存在さえいれば、それ以外の他者も必要ないため、思いやり等も基本的には必要ない。

(自己防衛のための処世術は必要である。例えば集団内で攻撃されないために目立つことや余計なことをしないこと等である。)


第3段階は、他者との関係の上で学ぶという意識に入るため、何がこの場合は良いのかという、思考力が決定的に重要になる。

指導者によって一応の方向は示されるものの、仲間と協働しないと解決できないため、人間関係の機微も学ぶことになる。

能力は高いが人間関係づくりが下手な人、人間性は明るいが丁寧さに欠く人、自らは前に出ないがまとめるのが上手い人。

それらの相互作用で学ぼうというのが第3段階である。


この段階では、個々のメンバーの長所の活用と短所のカバー(あるいは短所の無視)が重要になる。

つまり、自分の能力の社会への活用、他者貢献のために学ぶという意識に入る。

文科省の示すキャリア教育の理念とも通じる段階である。


ちなみにこれは、教える側と教わる側、両方に言える。

第2段階であれば、教える側の意識は、とにかく落伍者を出さないこと、目的地に辿り着くこと。

「護送船団方式」と呼ばれるものになり、教わる側は保護監督下の受益者であり、子ども同士は互恵関係にない。

(ちなみに、この方式では早く前へ行きすぎる者へは対応できないため、足踏みさせて待たせることになる。)


一方で第3段階からは、意識のステージが一変する。

教える側がまだ全体コントロールの手綱を完全には手放せない点は同じだが、子どもへの信頼感がある。

子ども同士は、学校という場が仲間同士の協働を学ぶ場であると認識し、相互に高め合う互恵関係を築こうとする。


第2段階が利己ベースの自己権益追求に対し、第3段階は他者信頼ベースの相互利益追求となる。

利己から利他への変容ステップともいえる。

(第3段階ではまだ指導者に手綱を握られてコントロールされているので、完全な利他とはいえない。)


では、理念ではなく具体として何をしていけばよいか。


授業の方法だが、形の上でも当然ペア・グループ活動を中心としたものにする必要がある。

時々気が向いた時にやるのではなく、基本をそちらに置く。

今は時勢上難しいが、全ての机を黒板に向けたスクール型から脱する必要もある。


ただし、人間関係が悪いのにこれをやるのは辛い。

意地悪する相手とペアを組みたくない、やたら攻撃的な人と同じグループになりたくないと考えるのは至極当然である。

(これは、大人の社会であっても、同様なはずである。)


つまりは、信頼ベースなのである。

だから、相互の信頼関係を構築するために、日常的にやるべきことが山ほどある。


例えば、掃除からのアプローチ。

掃除をどのように行うか。

ただの当番、作業として行うのか。

自分を磨く場として意識できるよう、掃除の意義から伝えているか。

また、掃除を受動的に「やらされる」のか、自主的に「やるべきだからやる」のか、主体的に「やりたくてやる」のか。

あるいは、「ここをきれいにして、みんなに気持ちよく使ってもらおう」という他者貢献の意識があるのか。

掃除の最中も、仲間と協働するような仕組みになっているか、問題解決の場として指導しているか。


第3段階へのステップアップのためには、毎日の掃除のことだけでもここに書ききれないほど、山ほどやることがある。


例えばものを配る時でも、相手が気持ちよく受け取れる、ということを常に考えているか。

放り投げるように渡したり、顔も向けずに渡したりしていないか。

「ありがとう」の言葉が自然に出るようにしているか。

その意義まで語っているか。


こういう些細な当たり前のことや礼儀の類を、理想でいえば小学校1年生の頃から卒業までずっとするのである。

呼吸をするように、自然にする。

姿勢が悪かったら「背中をすっと伸ばすと、気持ちがいいし、やる気も出るのですよ」と朗らかに伝え続ける。

この「身体と心は連動する」ということを事あるごとに教える。

良い仕草や良い言葉が、良い人間性を育むことを信じて実行する。


こういう「そんな面倒なこと」を常にし続けて、初めて教育は成立する。

かの森信三先生が躾の三原則として示されたのも

「挨拶」

「返事」

「履物を揃える」

という、一見大したことのなさそうなものばかりである。

ただし、これを「いつでも」例外なくやり続ける、ということに、人間の芯を育てる教育の在り方、本質が示されているのである。


話が逸れているようだが、実は逸れていない。

結局、第3段階が本当に成立するには、この人間性を育むという点が決定的に重要だからである。


哲学者カントの有名な言葉

「人は人によって人となる」

の通りである。

これは

「生物種としてのヒトは、他者と関わる教育によって、初めて人間となる」

という意味である。


たくさんの人の間で学んでこそ、初めて人間になっていく。

第2段階が教師という単一の人からの教え、注入であるのに対し、第3段階は複数の人の間で自ら学ぶ、人間の教育である。

第3段階で十分に経験を積めば、やがて自然と指導者を離れ、自分で新たなものを求める第4段階へ移っていく。


「これは、人間の教育になっているか。」

学校で行っている全ての活動について、この視点をもつことで、初めて第3段階が成り立っていくと考える次第である。

2020年9月16日水曜日

学級集団の段階を見抜くには

 前号の続き。


オンラインの講座で「学級集団づくりの4段階」の話をした。

そこで質問が出た。


「どうやってその段階を見抜くのか」


確かに、その通りである。

感覚的にわかる、というのでは、伝わらない。

具体的に答える必要がある。


持ち上がりでないのなら、原則として基本は第1段階からのつもりで始める。

第2段階の一斉指導が成り立つか。

第3段階のペア・グループ活動はどうか。

第4段階を目指して任せてみたらどうなるか。

これらを、触診のように行う。


そのために、日々の観察をする。


仲間の話を黙って聞ける集団かどうか。

これにより、第2段階の成立・不成立が診断できる。

(教師の話すらもまともに聞けないのは、これ以前の第1段階という診断である。)


休み時間にいつもひとりぼっちの子どもがいないか。

いつも特定の子どもたち同士が、不自然にくっついている集団ではないか。

これにより、第3段階の成立・不成立の診断材料にできる。

(ちなみに、ひとりでいるのが悪い訳ではない。

精神年齢や趣味が平均と異なる子どもの中には「基本的に一人が落ち着く」という場合も少なからずあるので、無理に交流させる必要はない。

一緒に遊びたいのに、仲間に入れてもらえない子どもがいないかを見抜くのが重要である。)


例えば急な電話対応等で授業開始時間に担当の教師がいない時、自分たちで考えて必要な行動を率先してとれるか。

放っておいても自分たちで遊びを考えられるか。

学級会を自治的に運営し、問題発見や解決ができるか。

第4段階の成立は常に目指すところだが、こういった小さなことの積み重ねが自治的集団につながる。


更に、書面での調査も有効である。

学級目標を作るためのアンケートに、次のような項目を入れておくのである。

(ちなみに、これは何度も紹介しているが、原田隆史先生が主宰の「東京教師塾」で教わった手法である。)


1.どのような学級が「理想の学級」ですか。(1つ~3つ以内)

2.では、どのような学級が、「嫌な学級」ですか。(1つ~3つ以内)

3.同じ学級の人から「してほしいこと」をあげましょう。(1つ~3つ以内)

4.同じ学級の人から「してほしくないこと」をあげましょう。(1つ~3つ以内)


アンケート結果は、回収後に全てこちらで打ち出して、全員に配付することも予め告げておく。

回収時は記名するが、打ち出したものは誰が書いたかわからないように、ランダムに配置することも告げる。

記入は、その場だと書きにくいことも考慮して、宿題である。


実は、学級目標作りだけを考えるなら、単に1と3だけでもよい。

2や4をやることで、昨年度までの「いじめ」や嫌なことが出てくるのである。

膿出しである。

更に、その嫌なことをやっていた側も、ぎくりとする。

「嫌な行為」として共通認識されるため、それを非常にやりにくくなる。

学級として、これ以下はダメという「最低ライン」を設定できる。


そして、こちらが状態を把握できる、診断材料にできる、という訳である。

学級集団がどの段階にいるのかを見抜くことは、適切な学級経営手法をとる上で大変重要である。

2020年9月14日月曜日

学級集団づくりの4段階

 8月に、ある市の若手の先生方を対象に、オンラインでの研修講師をつとめさせていただいた時にした話。

昨年度も特別活動部会で学級づくりをテーマにお話をさせていただいていた。

夏休み明けで忙しいところへの貴重な時間を使っての研修である。


こういう場で話す時に特に気を付けるのは、「伝わる」の一点である。

場によって、話す内容も話し方も変えないといけない。


学級集団には段階がある。

教師の指導性も子どもの自由度も低い「学級開き」の第1段階。

教師の指導性が高く、子どもの自由度は低い「一斉指導」の第2段階。

教師の指導性も子どもの自由度も高い「ペア・グループ活動」の第3段階。

教師の指導性は低く子どもの自由度が高い「自治的活動」の第4段階。


この段階に応じて指導の仕方を変えていく必要がある。

当たり前だが、初対面の人たちと話す時と、何十年も付き合いのある人たちと話す時が、同じような仕方であるはずがない。

そういうことである。


ちなみにこの理論は、私の考えたものではなく、上越教育大学大学院の赤坂真二先生のものである。

次の本の2章に詳しい。

『スペシャリスト直伝! 学級を最高のチームにする極意』 赤坂真二著 明治図書


今回は、市内全ての学校が対象ということで、ほとんどが初対面であり、第一段階の「学級開き」と同じである。

ただ、学級のように関係性や信頼性の構築に力を注いでいたら時間が終了するので、そこにはあまり時間を割けない。

「伝わる」を念頭に、「一斉指導」の第2段階を中心に据えて、時々「グループ活動」といった体になる。


この原則は、あらゆることに適用できる。


例えば、数式というのは、数学者や物理学者にとって世界を表現するための、最も正確にして美しい表現手段である。

しかしながら、美しく完璧な数式で表現されても、それを知らない人にとっては、さっぱりわからないただの記号の羅列である。

だから第一段階の学級開きよろしく、お互いのことをさっぱりわからないという前提から始めないとならない。


一方で、専門家同士が話す時、それらのまどろっこしい説明はいらない。

互いに数式を書き合って議論ができる。

いうなれば第4段階であり、指導者が不要に近い状態である。


当然、専門家に育つまでは、途中のしっかり教えてもらう第2段階や、師を交えながら仲間同士で議論する第3段階もある。

何かについて育成しようという時は、この原則に従うのが、基本である。


一方で、これに従わない方がいいものもある。

一つは、先達がいない分野、あるいは先達が誤った方向に進んでしまっている分野である。

教えてくれる人が存在しない分野は、独学で切り開くしかない。

あるいは、先達が誤っている場合、そこに従うのみでは、正解に辿り着けない。


「地球を中心に太陽が回っている」という前提では、現在の地動説には辿り着けない。

ニュートン力学の前提に立った上では、量子論には辿り着かない。

どれが正しいのかわからない分野では、先達のやり方を愚直に続けても真理に辿り着けないということである。


話を元に戻す。


今回、第1段階からなのだから、わかる話にしなければならなかった。

学級づくりについての第1段階から第2段階の話をしつつ、第3、第4段階への道筋を示せという依頼である。

無理は承知で、あくまで概論を示した。


ちなみに、第4段階の自治的活動については、実際にやっている人でないと、まったく理解できない。

ただ自由に放置して遊ばせているようにしか見えないからである。


達人的な段階の教師の授業を見たことがある人にはわかると思うが、そのレベルだと、教師が授業中にほとんど出てこない。

だから、見ていても何がこのものすごい子どもたちの活動につながっているのか、さっぱりわからない。

真似して自分もやってみると、学級が滅茶苦茶になる。

「あんなやり方はいい加減だ。だめだ。」となる。


そうではない。

集団の段階が違うのである。

第4段階の集団では、子ども自身が育っているため、どんな課題を投げても、自分たちの「もの」にしてしまう。

一方で、第2段階にとどまる集団では、いきなり課題を投げられても、自分たちだけではどうしていいかわからない。

その「育ち」の違いである。


ちなみに「うちはペアトークをよくしているから第3段階」などと思っていると、大やけどする。

集団の育ちとは、そういう方法論や形式を言っているのではない。

問題は子どもが育っているかどうかだけであり、見た目は「ペアトーク」で同じかもしれないが、レベルによって内実が全く異なる。

「間をつなぐためにペアトーク」「ただ楽しいからペアトーク」というものがかなり多い。

そうではなく「隣と議論せずにはおれない」「話さないと始まらない」というやむにやまれぬ思いで始まるペアトークでありたい。


どうするとそう育つかだが、方法論の話をすると、それをただやるだけではだめ。

一方、その時やるだけではだめ。

「意図をもって」「いつもやる」というのが、単なる方法論を血肉化するための常套手段である。


もし「ペアトーク」を使いこなせるようにしたいなら、いつでもそれを推奨する。

「国語だけ」「学活だけ」というような程度のものでは、形式にとどまる。

休み時間や掃除の時間はもちろん、必要ならば授業中であっても隣と話しても構わないというようにする。


それは、「第2段階」にある教師と子ども集団にとっては、不都合の多い自由なルールでもある。

それでも、少しずつ取り入れながら、慣らしていく必要がある。

「黙りなさい」から「喋りなさい」といういきなりの方法変更は、無理と混乱が生じるからである。


まずは「一斉指導」ができる段階を踏むこと。

次に「ペア・グループ活動」に慣らす段階に進むこと。

そして、自治的活動を目指す。


今回は、こういう構成で話をした。

大抵、質問に詳しく答えすぎて時間が足りなくなり、今回も御多分にもれなかった。


オンラインで話せるというのは、現代の一つの恩恵である。

これから広まっていくと思うが、そのための方法論も自分なりに構築していきたい。

2020年9月12日土曜日

壊してはいけません

 平時の所感を記す。


よく、ヒーローものなどで、戦いの最中に建物が壊れる。

あるいは、悪者一人に対し、力を合わせて全員で総攻撃する。

または、悪者から逃げるために、街中をバイクや車で逆走してすっ飛ばしていくシーンがある。


幼心に「中のビルの人は大丈夫なのか」「そんなにみんなでよってたかって一人を攻撃していいのか」と思っていた。

大人になってからも変わらず、「今のシーンでは、主人公は助かったけど、事故が起きて誰か死んだのでないか」とか思っていた。

またファンタジーを見ても「さっさと最終魔法使えばいいのに」「別に空飛べばいいがな」と思っていた。


こういうことを他人に話すと「お話だからいい」「メルヘンなんだからいい」といって、大変嫌がられた。

それ以来、思っても迂闊なことは口外しないようにしている。


しかし、私は幼い頃から、真剣に、これは結構問題なのではないかと思っている。

「正義だからいい」とか「素敵だからいい」とかの価値観は、見るべきものを見えなくする。

どんな理由にせよ、人の大事なものを壊してはいけないと思っている。


突き詰めると、地上戦で一人ずつ撃つよりも、原爆で大量殺人の方が罪や痛みを感じない、というのは、ここと関連すると思う。

個々の死を見えにくくしているだけで、「正義の原爆」も「聖戦によるテロ」もありえない。

どんな理由をつけたにせよ、殺人であり、人が現実に死んでいるのである。


「正義」や「正しさ」の概念は、特にこの目を曇らせる。

以前に紹介したタモリさんの「loveがなければpeace」の言葉の通りである。

https://www.mag2.com/p/news/260236


「私」の大切な「我が子」のためなら、他の子も周りのすべてを犠牲にしても構わない。

少し拡張するとこれが「会社」という人もいる。

自社の利益のためなら、犠牲も構わない。

どんどん大きくなると、国になる。

「我が国のため」なら、地球の一部さえ破壊しても構わない。


「私」を完全に捨て去ることができない以上、正義は、常に個人内の独りよがりである。

あらゆる宗教の過酷な修行が「滅私」を目指すことも、これと関連しているように思う。

「私」と渇望する肉体とを切り離したいのである。


話を戻す。


アニメ、漫画、スポーツ選手や芸能人、アイドル等、人気のあるものの人々へ与える影響は絶大である。

ただ、これらから発せられる情報が、どんな意図からなのかを読む必要がある。

これは、現代に必須のメディアリテラシーの一つである。


残念ながら、多くは利益ねらいの発信である。

人気を博すことがそのまま経済的な効果につながる。

心理学でいう「ハロー効果」で、その人気者に発信させれば、それがあたかも素晴らしいもののように思える。


だから、商品のCMに人気女優や俳優を使うのは常套手段である。

(そしてその商品の価格の内訳の実態は、原材料費や開発費ではなく、CM等の広告料がほとんどである。

よって莫大な広告料のかかる「今をときめく人気芸能人」やアニメキャラ等を宣伝に使っている商品は、すぐに飛びつかず、よくよくもの自体を見て検討した方がよい。)


特に、人気漫画が幼い子どもたちに与える影響力は絶大である。

正義とは何かも刷り込まれる。

何が「かっこいい」「素敵」なのかも、刷り込まれる。

よくよく見てみると、それにはかなりの理不尽がまかり通っているのだが、子どもが気付くはずはない。

ドラマチックに仕立て上げれば、それらはすべて正義である。


自分が良いと思っているものが、本質的に良いかは、かなり怪しい。

刷り込まれた偏った価値観というのは、なかなかに強力で、自分では気付けないからである。


本質に気付ける感性をもてるようにしたい。

2020年9月10日木曜日

だめな予想は実現する

 以前にも紹介した、次の本に関連して、終戦記念日あたりで書いた記事。


『昭和16年夏の敗戦』 猪瀬直樹著 中公文庫


この書名をみると、昭和16年夏に敗戦。

さらっと流すと、1945年の8月15日を思い浮かべるかもしれない。


しかし昭和16年というのは、西暦1941年のことである。

1941年の夏に「日本必敗」が正確に予想されたということである。

(ただし、原爆の存在は想定外だったようである。)


戦争を始めるまでもなく、この時点で、日本の敗北が決定していたという意味である。

そして実際にこの年、1941年12月8日、真珠湾攻撃が実行された。

その後の惨憺たる結果は、周知の通りである。


つまり、物事の結果というのは、正確な予想ができた時点で決まっている。

身に覚えがあると思うが、たとえデータに基づかなくても、悪い直感というのは、大抵ほぼ思った通りになる。


つまり「このままだと事態は良くならなそうだ」「悪いことになりそうだ」と感じることは、実際そうなるということである。

別にスピリチュアルな話ではない。

大抵の「想定外」は実は想定外ではなく、想定したがらなかった、わかっているのに目をそらしていただけということである。


なぜこうなるのか。


これを阻むものこそが、空気である。

この時の判断は、周りがどう考えているかに左右される。

そしてその周りも、周りをあてにしているので、決断ができない。

会議や話合いをしても右往左往するのは、これが根本的な原因である。

つまりは、責任者が不在なのである。


何度も書いているが、多くの会議の基本機能は承認である。

原案とは決定事項の異名である。

よって、かなりの部分が要らない。

決まらない会議は、原案が穴だらけで、提案者がだらしないからに他ならない。

(実際、私の提案のせいで長引いた会議も多くあるので、自責の念を込めてである。)


一方でだめな決定になってしまう会議は、責任者の側に確固たる信念と、伝えるための適切な手段が用意されていないためである。

それに伴って、出席者側も理解をしていない、だから意見を表明しないという状態になる。

よくわかっていない周囲の空気に翻弄され、本質的な部分が伝わっていないため、だめな結果がわかっているような決定になる。

だめだとわかっている決定事項を実行して、結局残念な結果になる。


学級経営の場合も学習指導でも、家庭教育でも、本質的には同じである。

何となくこれじゃだめだと思っていることをやっても、だめになるに決まっている。

あるいは、だめな結果が出ているのを、力技で押さえつけて蓋をして見えなくしているだけである。(そして、いつか爆発する。)


だめになることが、予想できているか。

できているなら、策を打って方向を変えない限り、遅かれ早かれ予想される結果が訪れる。


歴史の過ちから学べることは多い。

「歴史は繰り返す」という言葉があるが、改善しないで同じ過ちを繰り返してしまうのは、進歩のないだめな失敗である。

失敗を恐れずに挑戦し続けるために、この機会に改めて歴史を学んでおきたい。

2020年9月8日火曜日

空気の教育

 8月は、戦争に関する記事をいくつか書いた。

そこでメルマガ読者の方に勧められて、次の本を読んだ。


『昭和16年夏の敗戦』 猪瀬直樹著 中公文庫


元々は1983年の刊行の単行本なのだが、つい最近、文庫の新装版が出た次第である。

著者はご存知、元都知事でもある猪瀬直樹氏である。


極東裁判でも取り上げられた「総力戦研究所」という組織の全貌について書かれている。

そして研究所によって「日本必敗」を正確に予測していながら、なぜそれを止められなかったのか。

戦争の裏側について学ぶことができるのだが、それ以上に、今に通じる問題がここにあるという点においても、一読の価値ありの本である。

(今の日本では諸外国に対し「日本必敗」だろうと予測している人は、決して少なくないはずである。

しかし、それを自ら止めようとしていないのも現状ではないだろうか。)


最高の頭脳と判断力と道義心を備えた人間が集まっても、誤った判断になってしまうのはなぜなのか。

素晴らしい組織が、どのようにして「死んで」いくのか。

その仕組みがわかる本である。

誤った戦争に突っ込んでいってしまった経緯も、読むとよくわかる。


ちなみに「歴史」という単語を聞いただけで「苦手」「無理」「わからない」と毛嫌いする人もいる。

人によっては「数学」や「物理」「化学」なども同じ扱いかもしれない。

これらは「宗教」「政治」などにも通じていえる。


なぜ嫌いかというと、実は「わからない」からである。

わからないことは、怖いから嫌いと感じるだけなのである。


幽霊の正体見たり枯れ尾花


という有名な句があるが、わかれば怖くなくなり、嫌いでもなくなる。

「話してみたら意外といい人だった」というのも、全く同じ原理である。


「とにかく戦争反対。ダメなものはダメ」というだけで、自分には特に知識や考えがないと思うなら、読んでみることをおすすめする。

誰もがダメとわかっている戦争に、突っ込んでいく「空気」がわかる本である。

戦争になったのは誰か特定の人が悪かったからだという思い込みや刷り込みがある場合にも、ぜひ読んで欲しい本である。


要は、データや真実よりも、すべては「空気」次第ということなのである。

いや、データや真実すらも、納得という「空気」をつくるために利用、あるいは捏造される。

納得の「空気」にとって都合のいい「事実」に作り変えられる。


日本は、ずっと変わらず「空気」で物事を決定する社会なのである。

上層部の「空気」によって決定した事項は、覆せない。

決定した上層部も、だめとわかっていながら、そうせざるを得ない「空気」に屈服しているのである。


真珠湾攻撃を命令した司令官もパイロットも、原爆投下を命令した司令官も実際に爆弾を落としたパイロットも、みんな同じである。

それを計画した人も、飛行機を作った人も、部品を作った人も、そのための世話をした人も、全て同じである。

官吏(役人)の仕組みと同じで、個々に責任はなく、決定事項に対してそれぞれの役割分担をしているだけなのである。

何が本当に正義で何が本当の悪かなんて、関係なく動くしかないのである。

そこにお馴染みの勧善懲悪のストーリーが都合よく利用されているだけである。


戦争のことだけではない。

翻って、自分自身の生活についても考えてみる。


各々、今の自分の置かれている立場を考えてみる。

不満や大きな問題点はないか。

実は悪いと思っているのに、従って日々を漫然と過ごしている点はないか。

あるのに、自ら改善しようとしないのはなぜか。

それは、空気が関係しているからなのではないか。


「今更無理」

「上が」

「自分にはどうにもできない」

・・・


これらを支配しているのが、空気である。

空気は、つかみどころがなく、たたかいようがない。

人々に、無力感を植え付けるものである。


空気を、どう変えるかが問題となる。


縦割りの多重構造の組織ほど、空気を変えるのは難しい。

組織で長い間かけて醸成された空気を変えるというのは、容易ではない。

「難しい」→「仕方ない」→「諦める」→「慣れる」→「常識」となる。


組織に新しい風が必要になる所以である。

しかしその「風」もやがて変えられずに馴染んでしまい、他に常識を押し付ける側になる。


これを変えられるのは、「大衆」としてではない、責任をとれる個人である。

そうなると、その人は「常識」と「みんな」の安全地帯から出る必要がある。

そうなってくると、実行するのはごく少数の限られた人だけである。

大衆的心理として、自分がリスクを負うのが嫌だからである。


結論、空気を変えらるか否かは、責任をとれるかどうかにかかっている。

責任をとろうとしない人には、決して空気は変えられない。

だから、どんな規模にせよその組織のトップがどんな人物であるかは、決定的に重要である。


空気重視の文化。

これ自体を変えるということは、難しいといよりも、無理である。

それより、より良い空気を自ら作り出そうとする人を多く育てる方が現実的である。

それには、教育から変えるしかない。

そして国民の全員が必ず受けるのは、学校の義務教育だけである。


今の知識偏重の大学受験をゴールとした競争を煽る学校教育の仕組みからは、そのような教育は生まれない。

現場がどんなに努力しても、そもそものシステム不全を起こしているからである。

幼稚園でどんなに自由闊達な子どもを育成しても、学校に入った瞬間に机と椅子にきちんと座りましょう、という時点で、終わっている。

小学校の側も、特定の大量の内容を期限内に教えなくてはならないカリキュラムになっているから、根本的には変えられない。

中学、高校になれば点数重視になるのは尚更であるが、自他共に諦めがつく分、やりやすい面もあるかもしれない。


この小学校に入った途端に静かにきちんと座る、というのを実現するのも、実は空気である。

諸外国が必ずしもそうならないことを考えれば、理由は明白である。

(ただし、ここを勘違いして、学級の子どもがめちゃくちゃに暴れているのに対して無責任な担任では話にならない。

そもそも座らないで済む仕組みづくりとか、話を聞きたくなるようなことをするとか、そういう工夫をするのが担任の仕事である。)


こんな些末な話に始まり、子どもたちは空気を「読む」ことばかりに気を遣って、「作る」方に尽力しないのである。

なぜなら、周囲の大人たちのそうした姿を普段から見てきているからである。

大人の立ち振る舞いをコピーされているのである。


我々大人が、より良い空気を自ら作る姿を、真正面からはもちろん、背中でも見せていかなくてはならない。

空気に従って誤った行動に無思考で全員が突っ込んでしまうような事態は、避けねばならない。

今の混乱期こそ、その在り様が問われているように思える。


ここを根本から変えていくにはどうするか、学校教育の一端にいるものとして、今後も考えていきたい。

2020年9月6日日曜日

一人一台タブレットが問題解決につながるか

 次の記事に、共感した。


「オンライン授業が教育現場を救う」という文科省の幻想 前屋毅


もうこれを紹介して読んでもらうだけでもお腹いっぱいになる気がするが、自分の見解も入れる。


前屋氏が言っていることは、私の実感と完全に一致している。

私はオンライン、それも双方向授業を何度かやって、そこへの実感がある。


現実の対面で実現できていないことは、オンラインでは到底実現できない。

今時点で学級経営ができないのであれば、そこで本来実現されるはずの力は、オンラインでの学級経営でも実現できない。

当然のことである。


この原則は、あらゆることにいえる。


〇〇があれば、できるのに。


これを言ったら、100%できない。

いや、本当はやる気がない、あるいはやりたくないのだと考えて間違いない。


一番わかりやすいのが

「お金があったら○〇するのに」

である。


そんなことない。

大抵の場合、お金の問題は何とかなるのだが、そんなに実現したくない、あるいはする気がないのである。


一人一台タブレット端末がいき渡ったら、本人の興味に沿った個別学習が実現する。

学力が向上できる。

生き生きとした授業が実現する。


そんな訳ない。

一人一台タブレット端末に対応した新たな方法が必要になるだけである。

それよりも「簡単」な普通の対面授業ができないのであれば、結果は期待できない。


絶対に勘違いしてはならないのは、今何かがうまくいってないのは、何かの不足や環境のせいではない、という事実である。


自分がうまくいかない時、周りのせいにしたくなる時、いつも自分に問いかけることがある。


「それは、尊敬する○○さんがやっても、日本一の人がやっても、無理か、同じ結果か。」


できるに決まっている。

○○さんには、歴史上の人物を入れてもいい。

そうすると、既に実現しているだけに、言い訳はきかなくなる。


要は、自分次第なのである。

色々理由をつけて逃げたくなるが、自分次第なのである。

例えば四肢が不自由であっても、自分にできないことを成し遂げる人がいるという厳然たる事実から、逃げることはできない。


GIGAスクール構想自体は、大変結構であり、遅すぎたくらいである。

しかしながら、それだけでは現在の学校教育の抱える本質的な問題を解決するには至らない。

あくまで、この過程における必要な手段の一つでしかない。

新しく必要な環境整備である一方、今起きている学級経営上の諸問題を解決する手段ではない。


何が今の本質的な問題か。

これを、教育に携わる全ての人間がそれぞれに考え、答えをもつことが肝要である。

2020年9月4日金曜日

オープンな職場を目指して

実際に、校内研修に際して、校内に私が流したメール(校内SNS)の文章を、人名や文末等を一部改変してシェアする。

今日的な問題への提起となると考えたためである。


====================

1.「見取る」はわからない

授業研で「見取る」という用語がよく使われる。

広辞苑だと「見て知る」「みとめる」、明鏡だと「見てはっきりと知る」とある。


授業中、見ることはしている。

見て瞬時に判断している。

しかしそれが「見取る」なのかというと、「見てはっきりと知る」まではとてもいかない。

よって通常、授業中に「子どもを見取る」ができているということはありえない。


しかし学校で使われる「見取る」は、教育業界の造語、新語である。

教育で使われるときは、本来の意味とは違うようである。


こういう定義が曖昧な言葉は、注意して使わないと危険である。

よくわからないまま、学識の高いと思われる人や権力の強い人の意見に従って妄信してしまうからである。


よって「わからない」「できていない」と堂々と発言していた人の意見が、誠実で正しいのだといえる。

そうなると、定義しようという取り組みになるのだろうが、それが研修目的になっては目的と手段の主客転倒である。


授業で何を「見る」べきかなら、議論できる。

しかし「みとる」という未定義の新しい造語を用いた上に「何を」が入ると、混乱する。

授業研の際には、その辺りを意識しないと、授業後の議論が噛み合わないのである。



2.主体的・対話的で深いまなびは難しい

研修に参加している我々が主体的・対話的で深い学びができない以上、子どもに求めることは不可能である。


例えば夏の校内研修でも、研究主任にぶら下がって「何をやるのか」というような姿勢では、到底実現できない。

研修が「面白い」「つまらない」と評価するような受動的な態度ではなく、主体的に参加できる職員集団であるべき。


子どもへは「つまらないなら、もっと詰めて」と伝えている。

せっかくの貴重な時間を費やすのであれば、全員で中身を充実させていきたい。



3.自分を表現できる空間へ

少人数での話合いは、自分の思いを堂々とさらけ出し、白熱できる。


一方で、全体で行う話合いの場の空気はかたくなりがちである。(職員会議も同様。)

「答え合わせ」をしていて、間違えてはいけない、下手に手を挙げられないという空気。

あまりうまくいっていない教室でよくある雰囲気である。

指された人が「うわー」となり、周りの人がほっとするようであれば、うまくいってないと考えて間違いない。


差は何なのか。


安心感につきる。


何を言っても安全・安心。

人格を否定されたりしないし、意見の違いを面白がれる。


殺伐と「斬り合う」のではなく、建設的に意見の違いを伝え合い、面白がれる集団。

目指す子ども集団と同じである。



研修も、回数を重ねるごとに良いものになっていく。

クラス会議での話合いと同じである。


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以上である。

オンラインでチームズを使うようになってから、こういうことを校内でシェアし合う文化ができてきている。

新しいものも、チームづくりに有効に活用していきたい。

2020年9月2日水曜日

ロボット 使うか使われるか

前号の続き。


ご存知の方もいるかもしれないが、ロボット掃除機の最大の良さは、実はその吸引力や性能そのものではない。

「床に物を置かなくなる」という点である。

つまり、使っている人の生活習慣が変わる。


ロボットに任せるとなると、吸ってもらっては困るような、小さなものを床からどける必要がある。

さらに、きれいにしてもらうためには、床スペースを多くとる必要がある。

物がごちゃごちゃ置いてある空間には、ロボットが入れないからである。


自然、部屋を整理・整頓するようになる。

更に、床がきれいになると、上の空間もきれいにしたくなるから、不思議である。


ちなみに、これを自覚して使っているのであれば、それはロボットに使われていることにはならない。

ロボットを導入することで、自分の整理整頓習慣がつくようになることをねらっている。

運動習慣をつけようと、ジムに通うのと同じである。

お寺に修行に行くのも、同様の効果がある。

他律的自律であり、他力の活用である。


ロボットがこれから進化して、ドラえもんのように手足があって考えて物をどけてくれるようになれば、話は別である。

しかし、その果てしない利便性の追求は、最終的に人間の堕落につながる。


その辺りの危険性を、もう50年ほど前から指摘していた短い物語がある。

かの有名な『きまぐれロボット』である。


『きまぐれロボット』星新一 著 角川文庫


人間というのは、気を抜くと、限りなく怠けることができる。

ロボットに使われるようではいけないということである。


これから、オンライン環境の普及やデジタル教科書の導入等、ICT化が加速するはずである。

その時、学校現場で大切な心がまえは、ICTを活用するのであって、ICTに振り回されないことである。

主従関係が逆にならないことである。


例えばデジタル教科書が導入されることで、それをこちらがどう使うかである。

デジタル教科書になったからといって、急に子どもが意欲的になったり、こちらの授業の腕が上がったりする訳ではない。

この導入によって、従来に比べてこちらの何が自由になって、何が不都合になるか。

今までだったら問題にならなかった、床に散らばったものを片付ける必要があるかもしれないということである。


ロボットやICTの活用にあたっては、メリットとデメリットを自覚して活用したい。

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