2018年2月26日月曜日

保育園は保育の場 学校は授業の場

保育園は何のためにあるか。
保育のためである。
子どもを守る、保育の場である。
だから管轄は、厚生労働省である。

幼稚園は何のためにあるか。
幼児教育のためである。
子どもを意図的に成長させる、教育の場である。
だから管轄は、文部科学省である。

両者の役割で明確に違うのは、その目的である。
保育園は、保育の場だから、乳幼児を保護して育てるのが目的。
幼稚園は、教育の場だから、知識や技能を身に付けさせるのが目的。

ちなみにこども園というのは、これら教育と保育を一体として行う場である。
管轄は上位の機関である内閣府であり、つまり両省を含む。

何を言いたいかというと、学校教育、特に小学校の目的の話である。
小学校は、言わずもがな教育の場である。
意図的な成長への目的がある、知識や技能を身に付けさせる場である。
一から十まで手をかけて生活全般の面倒を見て保護する保育の場ではない。
教えるべきは教え、後は自分でやらせて自分の力で生きてけるようにしていく、子どもを鍛える場である。

相手も保育園の0~1歳児のように、一瞬目と手を離すと何が起こるかわからないような存在ではない。
学年が上がるにつれて段々と、手を離し目を離していく場である。(ただし、心だけは離してはいけない。)
生きていくための知識や技能を身に付け成長させるためには、いつまでも手取り足取りではダメである。
子どもをみくびって、遠慮してはいけない。
一年生とて、保育園や幼稚園で、ここまでばっちり育てられて、「自分で」の基礎はできているのである。
知識と技能を身に付けさせ、自信をつけさせるべく、どんどん自分でやらせる場である。

この目的を達成するための、幼稚園までにはない、学校における独自の最適な手段とは何か。
授業である。
だから、小学校から大学までは、本来は授業が命なのである。
授業なくして学校とは言えない。
すべての学校の教師は、授業に力を入れるのが本来の仕事の中心である。
各学校が校内研修において授業研究に力を入れるのは、当然の姿といえる。
(一方で、「研修」が「研究」ばかりで、自己を対象とした「修養」に当たる部分が疎かにされているのは、問題である。)

それなのに、授業の前提である学級づくりに力を入れないと、授業自体が成立しないのが現実である。
一昔前のように、先生が授業をするから子どもは聞くのが当たり前という常識が、通用しない教室が結構多い。
ここを無視しては、どんなに正論を振りかざしても、せっかく力を入れた授業自体が成り立たない事態になっている。

では、なぜそういう現象が起きていて、ここに対してどうすべきなのか。
具体的な解決策を提案していく。

2018年2月24日土曜日

時限爆弾学級に要注意

理想の学級経営と失敗について。

どんな学級が理想だろうか。
思い描いたら、言語化して書き出して欲しい。
書くことで、はっきりする。

さて、それを見返してみて欲しい。
その中に「素直」と「従順」をはき違えたことがないか、要注意である。

ひたすら従順な子どもを育てた場合「学級崩壊予備軍」という状態になる。
とにかく先生の言うことを鵜呑みにしてきく。
先生が全て。
以前紹介した「担任喜ばせ組」「先生君主」の学級王国である。
これは時限爆弾のようなもので、次年度違う担任がもった時に着火して大爆発する。

この時限爆弾学級は作り方で2タイプに分かれていて、爆発の仕方も違う。

一つは、激しい飴とムチで作るもので、抑圧された欲求不満が次年度で爆発するタイプ。
この爆発は反抗期に入る高学年以降に起こることが多い。

もう一つは「前の先生は〇〇も全部許してくれた」という「わがままに緩すぎ」によって後で爆発するタイプである。
こちらは低学年からも出るもので、「小1プロブレム」と呼ばれるギャップもこの一種である。

さて、これらの学級経営をされると、次の担任はたまったものではない。
しかしながら、単純にこれを責めることもできない。
学校現場は、ただでさえ人手不足なのである。
そんな中「今年はどの学級も壊れないで欲しい」という、当面の問題解決を心から願う管理職が多くいるのは当然のことだろう。
そういう状況において、先の2タイプの場合は、とりあえず問題発生を先延ばしにはできるのである。

また、やっている方にも、決して悪意はない。
正直に言うと、私はどちらの型もやってしまったことがあると思う。
厳しくやりすぎて、次の若い担任の先生が逆になめられてしまったこともある。
楽しさを重視でやりすぎて、後で遠くから「やりにくい」と聞こえてきたこともある。

余談だが、中学校側は小6までのレクやパーティーの多さに辟易していることが結構あるということを、小学校の教師も知っておいた方がいい。
要は、誰しも一生懸命にやっているが、知らないところで失敗してしまっているということである。

それならば、何を重視して学級経営をすればいいのか。
繰り返しになるが、子ども自身の素直さである。
どんな教えも、柔軟に吸収し、取捨選択できる知性を育てることである。
子どもがそういうように育てば、誰がどう担任しても、大丈夫である。

素直な子どもをどう育てるか。
何年かけても追求していきたい、大きなテーマである。

2018年2月22日木曜日

「学級崩壊」の言葉を捨てる

素直さと学級崩壊との関連について。

学級崩壊の分岐点は、ここなのである。
子どもがひねくれてしまっているのである。
最初から聞く価値がないと各々が判断している訳であるから、当然授業も成り立たない。

素直でないので、何を言っても聞かない。
「だって」と「でも」で屁理屈を展開し、「どうせ」からの「意味わかんない」で締めくくる。
井の中の蛙戦法ともいう、完璧なる自己防衛手段である。(ちなみに私の命名。)

これを使いこなす子どもに太刀打ちするのは、なかなか難しい。
小手先の付け焼刃的テクニックでは到底対応できない。
どうするか。

ずばり「どうにもしない」が正解である。
とりあえず、相手にしない。
そこよりも、周りにもっと素直な子どもがいるはずである。
前号でも述べたが、どこに着目するかで方向が決まる。

優先順位の1位は、素直で真面目に学んでどんどん伸びたいと思っている子どもたち。
どの学級にもおよそ2割以上いる。(潜在群を含めると、およそ8割以上がここである。)
ここだけは、絶対落とさない。
間違っても、(一見)素直でないごく一部の子どもたちに注目してどうにかしようとしないこと。
「注目は報酬」「叱責も報酬」という言葉を覚えておくことが大切である。
中でも「ラストボス」の一人は、一年間戦い続けても勝つのは無理かもしれない。
なぜなら、自分が一年で何とかできるぐらいなら、親や今まで担任した人たちが、とっくに何とかしているはずだからである。

学級崩壊を怖がることで負の要素に注目してしまい、逆にその事態を招いているという事実に気付くこと。
そうではなく、良い学級、理想の学級を作ることを目指し、そこに当てはまる要素に注目することである。
良い行動の子どもを認め(=見て留め)、伸ばすことである。
「学級崩壊」という言葉を捨てて、理想の学級を作ろうとすることである。
古今東西問わずにいえる、学級経営の王道である。

2018年2月20日火曜日

素直な子どもを認めて伸ばす

前号の学級づくりの話との関連。
素直であることの大切さについて。

私には、かつて6年間連続で一緒に学年を組んだ先生がいる。
私が心から尊敬している方で、周りのどの先生からも高く評価されているまさに本物の「ベテラン」である。
その先生が子どもによく言っていたことがある。
「素直が一番」ということである。
何より、それが大切ということである。

このことは、師の野口芳宏先生も仰っている。
素直な人が伸びる。
素直が一番大切。

また、「あこがれ先生プロジェクト」を立ち上げた中村文昭さんも、師匠に弟子入りした時に同じことを聞かれているという。
「君は、素直なのか?」
「俺は素直じゃない奴に教えてる暇はないんじゃ。」
「素直じゃない人間に教えても、二度も三度も同じこと言わにゃいかん。時間の無駄だろうが。」
とはっきり告げられている。
(この後、「素直さ」を試される地獄のような修行の日々が待っていたそうである。)

自分の尊敬する人々がこれだけ同じことを言っているとなると、もう確信というか、信念に近くなる。

ちなみに、この「素直」は「従順」とは違う。
前にも書いたが、良い犬のポイントは「従順」である。
飼い主に逆らうことは決してなく、命令をよくきき、言われるままに従う。
犬ならこれでいい。

人間の場合は違う。
「従順な子」は、それだけだと将来が危ない。
「飼い主」に依存するからである。
自分の頭で判断せず、たとえ間違った意見であっても鵜呑みにするからである。
いわゆる「イエスマン」である。
(ブラック企業には好都合な人材である。)

素直な人は違う。
相手の教えを、まずありのままに受け入れる。
その上で、自分でその教えをどう前向きに生かすか考えて判断し、行動する。

要は、素直な人というのは、ひねくれていないのである。
あらゆる教えに興味を持てる人である。
自分が一見知っていると思うようなことでも、自分の無知や偏見に気付き、なるほどと見直せる人である。

だから、学級づくりにおいてまず意識して育てるべきは「素直さ」である。
単純なことで、集団はリーダーの注目した方に向かって伸びるので、この性質を意識する。

授業中、どんな子どもの意見を取り上げるか。
「意見をノートに書なさい。」と指示した後に、
きちんとノートに意見を書いている子どもを指して「そのノートに書いてあることを読んで」というか、
途中で茶々を入れてきた子どもの意見を取り上げて「そうだね、それは・・・」と応えるか。

どんな子どもの姿勢を取り上げるか。
「姿勢がいい人は生き方も真っ直ぐになる」と教えた上で
「Aさん、背筋が伸びていていいね。」と言うか、
「B君、きちんと座りなさい」と言うか。

そういう諸々が積み重なり、素直な学級風土も、そうでないものも作られる。
要は、素直さは、家庭教育だけでなく、学級でも作りあげていけるものといえる。

ところで、子どもからしても「姿勢なんか悪くたって立派な人はたくさんいますよ。」と言い返すこともできる。
「これからの時代、先生に口ごたえできるぐらいでないとね」という大人の意見もある。
そういう子どもこそが可愛いと思える大人も中にはいるだろう。

しかし、である。
多くの人がそう捉えるか、ということが問題である。
将来出会う人たちが、そんな彼(彼女)を快く受け入れてくれるかということである。
まして、初対面で慇懃無礼で横柄な人間に、どれぐらいの人が「チャンスをあげよう」と思うのか、かなり疑問である。

逆に、将来そういう考えの人同士で集まって生きていくであろう見通しがあるのならば、その子どもを無理に矯正する必要はないともいえる。
本人に「余計なお世話」と言われればそれまでである。
その辺りを放置するかどうかは、学級経営上の判断である。

この素直さというのは、学級崩壊の問題とも深い関連がある。
次号は、そこに関して書いていく。

2018年2月18日日曜日

「学級崩壊」=「学級がうまく機能しない状況」

県内の校内研で講師として話したことの一部をシェアする。
特に若手の先生に向けての話である。

本来、教師は「授業で勝負」なのである。
これは間違いない。
なぜなら、学校は本来「学力をつける場」だからである。

しかし、である。
小学校において学級自体が成り立たない、という状況が各地で起きている。
「学級崩壊」とまでいうと語感が強烈であるが、それに近い状況である。
そもそも「学級崩壊」とは何なのか。

参考までに、大分古いが平成12年3月に文部科学省から出された
いわゆる「学級崩壊」について ~『学級経営の充実に関する調査研究』(最終報告)の概要~ 
という文章から、定義と思える部分を引用して紹介する。(但し改行は松尾による。)
==============
(引用開始)
この研究では,
「子どもたちが教室内で勝手な行動をして教師の指導に従わず,
授業が成立しないなど,
集団教育という学校の機能が成立しない学級の状態が一定期間継続し,
学級担任による通常の方法では問題解決ができない状態に立ち至っている場合」を
「学級がうまく機能しない状況」としてとらえ,
全国各地で小学校における学級経営に関して関係者から聞き取り調査を行ってきました。
(引用終了) 
==============

要は、授業が勝負なのだが、それが成立以前で躓いている状況である。
講演で、どんなにいい話を用意しても、そもそもやる気がなくて聞いてもらえないというのと同じである。

実はこの場合も、本当にいい話をすれば聞いてもらえるのだが、それは名人芸である。
当たり前だが、多くは「授業の名人」の域に達していない。
(名人がそんなに多かったら、そもそも名人とは呼ばれないが。)
よって、授業以前の「学級づくり」の時点でまず工夫をする必要がある。

ここは、最初の3日間が勝負のカギを握る。
後でも取り返すことはできるのだが、最初の3日間の労力に比べて、やることが各段に多くなる。
これは著名な実践家である向山洋一氏によって「黄金の3日間」等と名付けられて広まっている。
春休み明け、夏休み明け、冬休み明け、それぞれの3日間である。

春休み明けの黄金の3日間についての学級開きについては、以前にこのメルマガにも、本や雑誌にも何度も書いたので割愛する。
(参考『一人残らず笑顔にする学級開き 小学校~中学校の完全シナリオ』
赤坂真二編著 明治図書 2015
https://www.meijitosho.co.jp/detail/4-18-185215-3

今、当面必要なのは、冬休み明けの3日間のことである。
もっというと、冬休み明け初日に何をするかである。

ここまで「崩れた」感がある場合、初日の所信表明は絶対に必要である。
「ここから立て直す」という強い決意をリーダーである教師が示すこと。
自己弁護ではない反省と、やる気を見せること。
今後の具体的な計画を示すこと。
そして、自身の授業の「改革」に真剣に取り組むこと。
ここを誤魔化して「レク」など単に楽しいことに走ろうとすると、この先もっとひどいことになる。
ここの点が間違えていることがとても多い。

「崩れているから、レクや遊びから」という発想自体がまずい。
崩れたままレクや遊びをやったら、ひどさが助長されるレクや遊びになるのである。
スポーツで暴力行為やルール違反が公認されたまま「試合を楽しもう」と呼びかけるようなものである。

崩れているからこそ、正統派の、王道の、本来のことが大切なのである。
「安全・安心」や「ルール」を無視して、楽しさを築くことはできない。
「授業」を無視して、学級の正常化は図れない。
非常に苦しいかもしれないが、ここは避けて通れないというのが真実である。

逆に、崩れてはいないという場合、少しの「お楽しみ」があってもいい。
マジックをやったり、交流のある遊びをやったりする。
「お正月ビンゴ」のようなものもいい。
ただこれらも、「やってもいい」程度である。
むしろ、この状態こそ授業に力を入れる時である。

知的好奇心を刺激するような算数の問題を用意するのもいい。
冬休み明けなら、カルタを取り入れた学習もいい。
俳句や短歌のようなものもいい。
できれば、自分の得意な教科で勝負をかけるといい。
初日からダッシュをかけたいなら、いきなりテストから入る手もある。
(この場合、休みに入る前に告げておく必要がある。)

とにかく、本来は授業で勝負である。
そして学級づくりの基本は、安全・安心とルールづくりから。
長くなったのでここまで。

2018年2月16日金曜日

積もるために消える雪の必然

今年度の一年を振り返ってみると、上手くいったことも、そうでないこともある。

日本メンタルヘルス協会代表の心理カウンセラー、衛藤信之氏の言葉を紹介する。
=============
雪が積もるためには、消えていく雪も必要。
消える雪は、路面を冷やしている。
結果は、すぐには出ないが、確実に届いている。
==============

素敵な言葉である。
ちなみにこれは、私が定期購読している「みやざき中央新聞」の新聞記事からである。
参考URL:みやざき中央新聞
https://miya-chu.jp/

一見すると、無駄だったことや失敗もある。
後悔は少な目に、と思っていても、やはりある。
しかしそれらの諸々も、見方によっては結果が出るための必然的ステップだともいえる。

自分自身を振り返ってみる。
数年間の長い期間で見れば、学級経営で数々の経験があり、失敗があった。
今でも、うまくいかないことは多々ある。
しかし、それらの失敗も含めた経験があってこそ、色々なことが書けるし、話せる。
「私はこれまで何もかもうまくいっていて、失敗の経験がありません。」
という人の話が、今困っている人の役に立つかどうかと考えれば、失敗も意味がある。
(挫折知らずの人の話は、凹んでいる人には害悪にすらなる。)

一番怖いのは、今問題が起きていないところである。
思い返して欲しい。
学級の状態で言えば、心配すべきは、問題を頻発していつも注意しているあの子ではない。
いつも大人しく、関わりが少なくても問題が起きない「ノーマーク」のあの子である。
ここは失敗していない、大丈夫と思うところこそ、要注意なのである。
車に例えるなら、バッテリー切れである。
一見故障が見えないからメンテナンスが疎かになり、気付いた時には大変な状態になる。

失敗は、必然。
失敗は、気付きへのメッセージ。
失敗は、成功の種。
失敗を、地面を冷やし消える雪のように、積もるための必然と捉える。
消えても、意味があるものと捉える。

振り返る時は、失敗を後悔にせず、来年の目標の種にしたい。

2018年2月14日水曜日

会議を10分の1に減らすには

政府の呼びかけにより進められている「働き方改革」。
皆さんの職場には反映されているだろうか。
「そんなの無理」という声が上がるかもしれない。
しかしそのままで無理だからこそ「改革」という言葉なのであると捉える。

「改」はかえる、なおす、新しくするという意味。
「革」という字も、獣が毛皮になる様から、全く異なるものに変わるという意味である。
「改革」とは「改善」とは違い、今までと全く違う新しいものにしていくということである。
少しの変化ではなく、激変である。

以前お伝えしたが、私の勤務校では、これがかなり推進されている。
特に、超過勤務の原因ベスト3に必ず入る会議。
ここの精選が、かなり推進されている。

もしあなたが部下をもっていて、学校(社内)の会議を「今までの10分の1にするように」と言われたら、どうするか。
「そんなの無理」と即答したくなる。
しかし「実行しないとクビ」と言われたらどうするか。
恐らく、知恵を絞って、何とかするだろう。

実は、これは決して無理ではない。

例えば、私の勤務校では、職員会議の数自体が、前年度の4分の3ほどに削減された。
協議事項は3分の1ほどに精選し、他の例年通りのものは「紙上提案」ということになる。
この時点で、3/4×1/3で、1/4。
つまり、職員会議だけで75%カットということである。
既にこの時点で、10分の1は目の前である。

また、他の各種会議は、出席者を精選。
会議の時間も、必ずしも放課後以降ではなく、メンバーが集まれる時間に設定されている。
例えば、同学年内では週1時間だけ空き時間が揃えられ、そこで学年会が実施される。
クラブや委員会の時間には、担当者でない職員が出席する各種会議が並行して実施される。
(以前の勤務校でも、学年主任はクラブと委員会を担当せず、代わりにそこで企画・経営会議が実施されていた。)

会議には終わりの時間が設定されている。
時間外に会議を設定する日は、最低でも申請を1週間ほど前にして管理職の許可をとらないといけない。
なぜなら、勤務時間外に、会議を開きたい主催者以外の職員をも強制的に職場に拘束することになるからである。
それには、本来残業代を支払うのが筋ということになる。(学校に、そんな余剰の予算はない。)
それほどの覚悟で行わせていただく「緊急事態」ということである。

これらの取り組みをしているため、会議に無駄がない。
時間が限られるため、その会議に本当に必要な職員が、必要な資料を揃えて必要な提案だけをするのである。

ある一流企業では、業務終了後、一定の時刻になるとセキュリティを除く社内の電気関係が一斉に切れるという。
いきなり真っ暗で、エアコンもエレベーターも切れる訳である。
そうとなれば、さすがにどの人もその時間までには帰る。
それでも自前で明かりを灯して行う猛者も出るらしいが、それは本人の勝手であり、他の関与するところではない。
これも、時間を貴重なものとみなし、区切るということを徹底するからこそである。

さて、それで会社の業績が下がるかというと、そうではない。
むしろ、一定の期間を経て、業績は一気に上がるという。
なぜなのか。
様々に考えられるが、業務に無駄がなくなるこということ、それ以上に、社員自体が心身共に健全になることが挙げられる。
要は、本来会社として必要な仕事に精選されることになり、人間としてあるべき生活に戻れる訳である。
ぐっすりと十分な睡眠、栄養豊富で美味しい食事、適性な運動といったことが確保される。
当然、仕事へのモチベーションも高まり、全力で打ち込める。
必然、会社全体の業績が上がる。
至極単純な論理である。

ただ、これらの改革は、実行に「壁」があるという。
こういうことをいうと、必ず「今まできちんとやってたのに無理」「会議を急にやりたい時もあるよね」という人がいる。
実は、そこがポイントである。
そういう悪い風習を、断ち切る必要がある。
今までと今は違う。
急にやりたくなることと、先が読めていないことは同義。
会議をいきなりやらないといけないのは、主催する側の人間の勝手な都合である。
そういう甘えのある社員が固まって作られた慣習を認めていたら、改革はできない。
よって、ここを断行するしかない。

これらは、管理職の手腕一つである。
それは、一教諭や一社員の立場で左右できることではない。
意見までは述べられるかもしれないが、そこへの決定権は管理職や経営陣である。

きっと、上の方々も、社員に気持ちよく働いて欲しいと願っているはずである。
しかし、こちらが変な抵抗をするから、改革ができないのである。
互いに首を絞め合っている状態といえる。

しかし、とてもではないが、そんな進言はできないという人も多いだろう。
だから、「ちらっ」と、そういった他の取り組みを紹介するのである。
忘年会や新年会といった飲み会の場でもいいし、何かの雑談の場でもいい。
「そんなの、うちの学校では無理ですよね」という感じで構わない。
「なるほど。そういう方法もあるのか。」と考えてくれる人も中にはいる。

そんな小さな一歩が、働き方改革の第一歩になるかもしれない。

2018年2月12日月曜日

チームで教育にあたる

子育てや教育におけるチームプレーについて。

教育は、チームプレーである。
主に叱る役もいるし、主に相談を受けて励ます役もいる。
例えば学校において、教育支援相談員や養護教諭は、一般の教諭とは必要な免許も違うし、立場も明確に違う。
子どもの教育にとっては、叱ってくれる役と安心を与えてくれる役の両方が必要なのである。

誰も損な役はやりたくない。
だから、可能なら、自分もニコニコして人気者の優しい先生でいたい。

しかし、である。
学校は子どもをよりよく成長させる場である。
教師が子どもと仲良しこよしになるのが目的の場ではない。
叱る必要も出る。(というか、元気な子どもたちを相手にする時ほど、こちらの方が多い。)

ここで大切なのは、チーム内での共通理解と役割分担である。

ルールについて、学校というチームで共通理解する。
子どもは一定の基準に従い、きちんと叱られる。
廊下を走っていたら、どの先生が見ている場合でも、注意される。
そうなるとわかっていると、子どもは安定する。

一番悪いのは、ここに対して、チームでなく個人の価値観で教育に当たってしまう場合である。
ある先生は本気で「廊下を走ってはいけない」という。
ある先生は笑って「そんなことどうでもいい」という。
子どもが混乱する。
そういった小さなことが積み重なり、結果として学校全体が荒れる。

役割分担というのは、チームの中でのポジションである。
例えばサッカーでは、主に点を取りにいく役から主にゴールを守る役まで幅広く必要である。
(「主に」と表現したのは、フォワードであっても前線から守備はするし、ゴールキーパーから攻撃が始まるからである。)
つまり、学校内、さらに学年内に、ある程度の範囲での役割分担がなされているのが望ましい。
叱るのが得意な人と、フォローが得意な人がいるものである。
それぞれの長所、適性を生かし、短所を補ってもらう。
しかも、お互いがそれをわかっているから、お互いに「ありがとう」がいえる。
だから、主に叱る役の人が損した気分にはならない。

例えば何かトラブルがあって学年集会で指導する際、びしっと叱る役の教師がまず前に出て話す。
続いて、説明し理解させる役割の教師が入る。
最後は、学年主任が全体をフォロー。
大体、そういう流れである。(ちなみに、一つ一つは短い方が良い。特に説教系には集中力が続かない。)
子どもに「先生たちはチームなんだ」と思わせたら、成功である。

家族の場合、某国民的人気漫画のように父母と祖父母、兄弟等で役割分担できればベストなのだが、現代ではここが難しい。
母子、父子家庭であれば、尚更である。
一人で何役も兼ねて子育てをされている方を見ると、本当にすごいと思う。
一人でも無理ではないのかもしれないが、大変であることは間違いない。
(一方で、チーム内で足を引っ張り合うぐらいなら、単独で育てた方がいいかもしれないとも思う。)

教師に対する荒れが見られる時というのは、ここら辺に問題があることが多い。
チーム内の足引っ張りがある状態だと、子どもが教師集団を「なめて」いる状態になりやすい。
学校や学年というチームで来られたらたまらないが、一人ずつなら怖くないのである。
教師が同僚を子どもと一緒になって馬鹿にしていたり批判したりしていたら、もう終わりである。
(子どもの目の前で配偶者あるいはじじばばの悪口を言うのも同じである。気持ちはわからないでもないが。)

現代の地域社会の弱さもここで、チームになっていないことが多い。
チームの外の話だと「無関心」になる。
外でマナーの悪い子どもに注意したら、その親に何を言われるかわかったものではないという。
だから、悪い行為をしていてもマナーが悪くても放置され、平気になっていく。
この辺りは、希薄化する地域社会の大きな課題である。

子どもに、大人集団をチームとして認識させる。
そのためには、チーム内のメンバーを子どもの前で絶対批判しないこと。
チーム教育を成り立たせる上で、大切なポイントである。

2018年2月10日土曜日

犬へのしつけと子どもへの躾は違う

最近、犬を飼い始めた。
犬へのしつけは、決定的に子どもへの躾と違う点があると感じた。

子どもへの躾は、読んで字の如く、身を美しくすると書く。
人間として美しく生きることができるように行うものである。
よって、子どもの心や体に深い傷を残すようなものは、これに当てはまらない。
社会で美しく生きる術を身に付けさせるものである。

あいさつ、食事の作法、外でのマナー等、多岐に渡るが、要点は「礼儀」という言葉に集約される。
ごく社会的なものである。

一方、犬へのしつけは、大分意味合いが違う。
時代によってやり方に相当変遷があるが、「良い行いを褒めてご褒美」と「良くない行動は無視して抑制」の二つが中心となる。

ごく簡単に言うと、服従の良さを教えることである。
犬は、人間に服従することが幸せにつながる。
そもそも、飼い犬は人間に死ぬまで養われ続けるので、自活する必要がない。
当たり前だが、自分で稼げるようになって自立したいとかいった、自己実現の欲求はない。

可愛がられ、ご主人様の言うことをよくきけるのが賢い犬である。
よって、先に挙げた二つの手法を駆使していけば、普通の飼い犬へのしつけとしては大体事足りる。 

賢い犬の代表格である盲導犬などは、更に特別な訓練を受けるが、誤解されている面も多い。
例えば盲導犬は賢いが、信号が青になり、横断歩道を渡るかどうかの決定は、飼い主である人間に委ねている。
また、盲導犬がナビのように目的地に連れて行ってくれるということはない。
障害物をよけるといった諸々の訓練と、ある範囲の危険察知の判断はするが、それは一部である。
あくまで、主人の「目」としてのパートナーの役割に徹する。
主人に伴って従って、喜んでもらうことが、盲導犬にとっての幸せである。

立ち返って、子どもへの教育における躾を考える。
賢い飼い犬のように服従して親に伴って生きる「良い子」を育てたかったら、犬のしつけと同じ手法をとり続ければよい。
しかし、子どもは賢い盲導犬とは違い、やがて自立して自分で判断する能力を身に付けることを求められる。

逆に、親から離れられず、何もかもの判断を他人に委ねるようでは、これからの時代を生きる人間としては上等とはいえない。
より良い判断をできる人間につながる躾が必要である。
それが、先に述べた礼儀を中心とした社会性である。

他人を思いやるということも、ここに含まれる。
病院の待合室は、病気の人がいるのだから静かに過ごすのよと教えることも、躾である。
ある年齢からは「理由」まできちんと伝えることが、身を美しくすることにつながる。
やがて、あらゆる状況において、何が良くて何が悪いのか、自分の思考によって判断し、選択できるようになる。
それが「自由」という状態である。

学校教育でも、ここは大いに気を付ける必要がある。
子どもを決して「担任喜ばせ組」にしてはならない。
(先日のやる気スイッチセミナーで、ゲストの講師の方に教えてもらった言葉である。言い得て妙である。)
寄り添い、褒める教育だけでは足りない。
時に突き放し、信頼して、自分で考えさせる教育も必要である。

犬を飼うことで、色々見えてきた。
人間への教育とは決定的に違う。
とにかく「猫可愛がり」して、「所有」したければ、動物を飼う方がずっと良い。
子どもへの教育というのは、手放すために行うものである。
自覚し、意識的に行いたい。

2018年2月8日木曜日

子どもと本音でぶつかる

子どもを本気で怒るということについて。

1347号の「納得感をもったルールのもたらす緊張感と安心感」について、読者の方からご感想をいただいた。
以下、紹介する。

================
(引用開始)
子どもが何をしても(叩いても、蹴っても)、お母さんは怒らないんです。
「やめなさ〜い」とか「こら〜」と言っていますが、決して本気ではないのが、見ていても伝わるほどでした。
それを見ていて、「ああ、これだ。」と思いました。

子供って、親に怒ってほしい時があるんですよね。真剣に。
自分が馬鹿なことをしてる、間違ったことをしちゃったという時に、どこまで親が本気で怒るかを見ている時期があるんですよね。
(それが愛情のサインだとでも思っているかのように。)

そこを省略しちゃうと、「え?なんで怒んないの?」って逆に不安になって、怒ってほしいからもっとエスカレートしちゃうような。。
その子たちを見て、そう思いました。
(引用終了)
=================

割とよく見る光景ではないだろうか。
それも、教室で。
「お母さん」「親」を「先生」に置き換えると、そのまま通用する。

子どもが、「悪いこと」をする。
その時大人が「ダメでしょ」とかいいながら、ニコニコ(ヘラヘラ)している。
怒られるべきところで、なぜか笑っている。
大人の側には「怒ってはいけない」「いつでも笑顔の私でいることが大切」「否定はダメ」という変な固定概念がある。
(子育てにおける情報化社会の副作用である。)
子どもは混乱する。
そこで、ますます「悪いこと」をやる。
子どもはどんどん悪くなる。
書いてみれば一目瞭然の、当然の悪循環である。

一方、本気で怒った時ですら、子どもはその「悪いこと」を、何度でもする。
散々叱って諭した後に「もうしません」と約束した直後、その日の内に、またやる。
日本全国の教室で見受けられる光景である。

その時、担任は思う。
「裏切られた」「あんなに言ったのに」「どうしてわからないんだろう」・・・
どれも、そう思っても仕方がないのだが、まあ、そう思うだけ無駄である。
なぜなら、それらの「悪いこと」は、自分でも悪いとわかっていてやったことだからである。
「正しいこと」を指導されて直るものではない。
しかし、そこを流された場合と本気で怒られた場合では、長い目でみて確実に結果が変わる。

子どもが「悪いこと」をする時、裏には強い要求がある。
例えば、万引きをするのはお金がない家の子どもかというと、そうとは限らない。
経済的に豊かな家の子どもがやる。
それは、モノが欲しいからではない。
多くは、親や教師、周囲の大人への要求なのである。
「僕の方を見て!」「私をもっと見て!」という叫びであることが多い。
だから、悪いこととわかっていて、敢えてやる。

また、周囲の仲間への「度胸試し」や「忠誠心」を表すために行うこともある。
それを行うことで、最も恐ろしい「仲間外れ」から免れたいという動機である。

つまり、「悪いこと」の裏にはれっきとした要求がある。
それをはっきりと大人が見てとめる必要がある。
そして、要求を読み取った上で、思い切り本気で怒る必要がある。
それがとりもなおさず「あなたが大事だ」というメッセージになる。

ここでのんべんだらりと「ダメでしょ」みたいなことをすれば、行動がエスカレートするだけである。
子どもは、自分のために激怒するまで、ひたすら繰り返してやり続ける。
「もうやりません」の一言ぐらいでやめるなら、そもそもやらない。

約束しても、100回裏切られる覚悟でいる。
その都度、本気で怒る。
それでも、信じることを伝える。
根気比べである。

子どもの要求を読み取る。
その上で、悪いことは、本気で怒る。
「褒めるは良くて叱るは悪い」
「叱ってもいいが怒ってはいけない」
「怒ることは悪いこと」
これらの、誤った固定概念を捨てる。

褒めて伸ばしたいからこそ、叱る。
他人や自分を傷つけるような許せない行為には、叱る以前に怒る。
子どもにおもねって褒めるなんて気持ち悪い。
然るべき場面では堂々と怒る。叱る。
その上で、然るべき場面で認める。必要に応じて褒める。
全部で一つである。

一人の人間として子どもと対峙するのであれば、計算高くはいかない。
生身の人間同士、本音でぶつかる。
今、理想論で湧く教育界全体に最も欠けている部分かもしれないと思う。

2018年2月6日火曜日

星に願いを

昨年末、双子座流星群がよく見える時期があった。
せっかくなので、私も観察してみた。

しかし、この時期の戸外は寒い。
外に出て見るには気合いがいる。
そこで、部屋の寝室の床に布団を敷いて寝ころび、夜空を見ることにした。

まず、観察してすぐに一つ目が見えた。
「これは楽勝。」
そう思ったのがいけなかった。
その後が続かない。
5分に1回ぐらいはいけると踏んでいたので、じれったい。

そうこうしている内に、寝ていた。
夜中に目が覚め、2トライ目。
今度は、目がぼんやりしてきて、全然ダメ。
ほどなく撃沈。

次に目が覚めた時は、月が昇っていた。
月明かりで目が覚めた形である。
しかし、やはり見えず。

ついに意を決して、外に出てみることにした。
これもダメ。
寒いだけで、さっぱり見えない。

さて、結果からすると、全然ダメなのだが、こういう失敗にこそ気付きがある。
流れ星を見るためには、条件があることがわかった。

一つ目は、本気で見たいと思うこと。
夜空はいつでもあり、流れ星は存在するが、見ようと思わねば見ることはない。

二つ目は、見続けること。
すぐに諦めてしまったり気が散ってしまっては、やはり見えない。
根気強く観察することが大切である。

三つ目は、見える場所に移動すること。
多少手間でも、多く見える場所がある。
寒いし暗いし遠いかもしれないが、その方が見える確率はぐっと高まる。

四つ目は、正しい知識があること。
どの辺りに出るとか、いつの何時ころが見やすいとか、そういうことである。
闇雲に見ようと思っても見えない。

五つ目は、時機を逃さないこと。
見やすい時間帯があり、そこが力の入れどころ。
違う時間に移動して気合いを入れても遅い。
いつでもチャンスは一瞬なのである。

番外編として、名称は大切。
「流れ星」なんて、素敵である。
英語でも「シューティングスター」(「メテオ」ともいう)。
小洒落た名前である。

実際の流星は、決して星ではない。
大気圏に入って小さな石のようなものが地球の表層部で燃えている状態である。
これをあえて「星」と呼ぶことで急にロマンティックな感じになる。
先人のセンスの良さを感じる。
名称は大切である。

色々書いたが、流れ星を見る条件は、願いを実現するための条件に近い。
1 意欲・情熱を持つこと
2 継続すること
3 然るべき場所へ動くこと
4 知識があること
5 時流を読み、チャンスを逃さないこと

昔から、流れ星に願いをかけると、叶うという。
本当は、流れ星に願いをかけようとする行為自体が、願いに近づくことなのかもしれない。

2018年2月4日日曜日

アイデアの量は富士山の裾野 拡散的思考と収束

前号に続き、赤坂真二先生によるクラス会議研究会での学びのシェア。
拡散的思考の大切さと収束のさせ方について。

クラス会議では、最初にアイデアをなるべく多く出すことが大切である。
約束として「最初に出すアイデアは絶対否定しない」というルールだけは共通理解しておく。

なぜこの量が大切か。
講師の赤坂真二先生が、これを富士山に例えて説明していた。
最初のアイデアは、富士山の裾野である。
この広い裾野なくして、高い立派な山はあり得ない。
遠くからだと裾野はよく見えないが、確実にある。
裾野をなくして高く積み上げることなど、不可能である。
(しかしながら、遠くからだと山頂付近しか見えない。)

これは私見だが、よくよく考えれば、高いものといえば、タワーの如きものが思い浮かぶ。
しかし、真っ直ぐと高いものは、どれも、人工物である。
自然に高いものは、裾野部分が圧倒的に広い。

思いきり拡散した後は、収束が必要である。
これは、ねらいによってアイデアを絞っていけばよい。
場合によっては、A案とB案が残って、話し合った結果新たなC案になるということもある。

例を挙げる。
「飼いたい動物」ということでアイデアを募る。
犬、猫、猿、馬、牛、ライオンなど、様々出る。

ここで、実際に飼う動物を決める前に、絞る。
ねらいに沿ったものにするのである。

例えば、家で普通に飼いたいのであれば、犬か猫だろう。
学級で酪農体験をしたいのであれば、馬や牛の可能性もある。
ロバやヤギになるかもしれない。
芸を仕込んで見せたいのなら、猿になるのかもしれない。

一方、ライオンを飼おうというのは、これは集客を考える動物園の場合であり、どんなに飼いたいとしても無理である。
つまり、妥当な選択肢は、ねらいによって絞ることができる。

犬と猫になって議論した後、最終決選として多数決をとるもよし。
「育てやすいものの方がいい」という理由で、突如ハムスターになるかもしれない。
(私は飼ったことがないので、実際に飼いやすいのかどうかは知らない。)
大体、そういう流れになる。

時間があるなら、最初に出たアイデア全てに一つずつふれた方がいい。
しかし、現実的には、なかなか難しいのも事実である。
その辺りは、状況に応じて臨機応変である。

まずは、アイデアを否定せずに全員で認めること。
質よりも量を求める。
量が十分出た後で、絞ればよい。
ブレスト系の会議の基本だが、クラス会議でも大切であると再認識できた。

2018年2月2日金曜日

鬼は内にあり

毎年書くが、節分の話。

「鬼は外!」という言葉には、悪を追いだそうという願いがある。
元々は災厄の一切を「鬼」という他者のせいにしていたことによる。
しかし実際、鬼は攻撃して排除すれば済むものではない。
一時的に退避したように見えるかもしれないが、気を抜けばいつの間にか隣にいる。

なぜなのか。
それは、実は自分の心の中に巣くっているものだからである。
そのスケープゴートとして、鬼という他者に反映させている。
悪に見えるということは、自分の中にもその悪が潜んでいるといえる。
世の中のあらゆる悪というものに、そういう面がある。

学級を例に挙げて考えてみる。
例えば、友達の鉛筆を盗んでしまった子どもがいるとする。
例えば、友達に暴力をふるってしまう子どもがいるとする。
この行為だけ見れば、その子どもにとっての「悪」である。

それで、その子どもの非を責めたとする。
その子はその時、反省するかもしれない。
しかし、またやる。
その内、もっと大きなことをやる。

悪い事をした相手に、その悪さだけを取り上げて正義で責めても、根本的解決にはならない。
少なくとも学級において、その子の悪の根源、つまり「鬼」の正体は、実は、自分自身の中にいるからである。

次の問いかけを、担任である自分にも、学級の他の子どもたちにも投げかける。

友達の鉛筆をとってしまったその子に、あなたは鉛筆を貸してあげていたのか。
または、自慢したり見せびらかしたりはしていなかったか。

暴力をふるうその子に、あなたは優しさを与えていたのか。
その子どもの中にある優しさを認める言葉をかけていたのか。

自らの行いを棚に上げ、他人の悪に正義を振りかざすその心。
それこそが「鬼」の正体である。
心の中に巣くう以上、他を責めてどんなに排除し続けても、いつまでもいなくならない。
いじめがいつまでもなくならないのは、いつまでも自分が得することばかり考えているからである。

自分の鬼は、自分で何とかする。
すべて、身から出た錆である。
他者を鬼に仕立てあげない。

人の心には鬼が棲む。
自分の中にいる鬼は外に追い出すより、優しく理解を示してあげることの方が大切かもしれない。
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