2017年5月31日水曜日

外面を整える

若手の方向けの話。
この時期、ベテランの方は大体やっていることを一つ。

5月も終わろうという頃、学級開き当初とは様子が変わっているはずである。
平たく言うと、あらゆることが少しずつ弛む時期である。
慣れてくれば、弛む。
当然である。

では、具体的にどうするか。
環境から変える。
外からアプローチする。
実際は弛みは内面に起きているのだが、内面に働きかけるのは外面である。

つまりは、モノである。
例えば今年度の学級では
「物の扱いは人の扱い」
という言葉を定着させている。
物の扱いが乱雑ということは、人の扱いが乱雑ということ。
教室が落ち着かないのは、物の扱いが落ち着かないからである。

チェックする点はたくさんある。
目に見えるところだと、棚の上。
床。
椅子。
靴箱。
雨の日なら、傘立て。
公共、共同の場で、人様の迷惑になるような物の置き方をしていないかである。

また、見えないところも大切である。
個々のロッカーの中や机の引き出しは、個々の心のゆとりにつながる。
定期的に整える。

試しに、何も指導しないで下校させた後、靴箱と教室の椅子を見てみるといい。
落ち着かない子は、十中八九上靴と椅子がきちんとしわまれていない。
心が、外面に出ているのである。

そう考えれば、アプローチは単純である。
それらを整えさせること。
これに尽きる。
内面は変えられないのだから、外面を変えさせる。
これは指導の領域である。
教室が乱れていたら、子どものせいではなく教師の指導不足である。

弛みを感じたら、環境を整える。
学級経営の基本的手法である。

2017年5月29日月曜日

落ちてたらまた拾うだけ

千葉大学に勤める職員の方の言葉。
3月いっぱいで、大学内の職員の方々が多く入れ替わった。
大学では様々な仕事があるが、清掃を中心に仕事をしてくれる方もいる。

休み明けは、カラスがゴミ箱を漁って散らかすため、ものすごく汚くなる。
大学のゴミ箱は、学生だけでなく、土日に通る他の人々も捨てるため、ゴミ箱があふれかえる。
カラスにとっては、最高の餌場である。

以前、あまりにひどい惨状なので、取材をして教材化した。
(詳細は『教育技術』誌の道徳の授業に掲載されたので省略。)
子どもにも現状を知って欲しいと思ったからである。
自分たちの通学路がきれいなのは、自然で当たり前のことではないと知って欲しかったからである。

毎朝清掃をしてくれるその方に、インタビューをした。
「毎日こんなに散らかされて、大変じゃないですか?」
すると、笑顔でこう答えられた。

「落ちてたら、また拾うだけですよ。
それが仕事ですから。」

ガツンと頭を殴られたような衝撃を受けた。
その姿勢に、頭を下げるしかなかった。
仕事に対してグチを言っている場合ではない。
それが仕事である。
以前「仕事の9割は忍耐」という言葉を紹介したが、あれに通ずる。
完全に「参りました」という感じである。

この方も、3月にご退職をされた。
私が「おはようございます。」と挨拶をすると
「松尾先生。私、今月いっぱいで退職いたします。ありがとうございました。」
と、一度しか紹介していない私の名前を呼んで、丁寧に挨拶をしてくれた。

やはり、一つの事を徹底する人は、他もできているのである。
一事が万事。
凡事徹底。

周りの人から学べることは、本当に大きい。
常に感謝を忘れずに過ごしたい。

2017年5月27日土曜日

無条件に存在を認める

プレジデントオンラインの次の記事が再注目されている。
『できる親がしている、上の子と下の子の格差をなくす方法』
http://president.jp/articles/-/20850

以下、一部引用する。
==========
(引用開始)
そのためには、日常の声かけが命です。
親から子供への声かけ。これが重要です。

例えば、子供がまだ小さい時、描いた絵を見せにきたら、「○○を描いたのね」「素敵」「楽しいね」など、肯定的なイメージがする声かけをしたのではないでしょうか。
この場合は「上手ね」もありで、これは評価というより事実認識です。
(絵の出来栄えは問わず、『上手ね』ということ)
子供が描いた絵はすべて「上手」なのです。

小学生・中学生に対しては、この声かけを少し応用すればいいのです。

子供のしたこと、作ったもの、できたこと、またはできなかったことも含めて、ひとつずつを認めていくことです。
受け止めるのです。
すると、家庭内で評価や比較をされないと認識した子供の心は、安心し安定します。
子供のすることを何でも「良い」とすることではありません。
それは評価です。
あくまで、認識を促します。
(引用終了)
======================
この記事の内容は、学級経営においてもかなり大切である。
どういうことか。

つまり、学級において、無条件にその子の存在を認めるということである。
何ができるからいいとか、何ができないからダメとかそういう評価対象ではない。
そこにいることそのものが素敵という見方である。
(これは、担任した子どもが不登校になってしまった経験がある人なら、特に実感をもってわかると思う。)

評価の場はあっていい。
競争にだってその価値はある
しかし、それはあくまで、健全な自尊感情を育てた上での話である。

各ご家庭の宝である子どもを預からせてもらう以上、毎日子どもと出会えることを喜べる感性だけはもっていたい。

2017年5月25日木曜日

改めて「縦糸横糸理論」を見直す

ここ数年で読者の数も増えたので、この時期に必要な考え方の修正再録記事。

野中信行先生という、崩壊した学校を建て直すプロ教師の話である。
学級経営がうまくいかず崩壊するという現象が、ベテラン教師に多く起きているという。
ここ十数年の話である。
この学級崩壊の原因が、「縦糸と横糸」のバランスにあるという。

縦糸とは縦の関係である。
「返事」「挨拶」「言葉遣い」「ルール」等の規律面を指す。(上下関係)

横糸とは横の関係である。
「一緒に遊ぶ」「誉める」「励ます」「笑い合う」「子ども同士で学び合う」等の、
伸びやかな雰囲気を作る要素を指す。(横ならびの関係)

新任教師が失敗するのは、どちらが不足しているからか。
ちょっと考えてみて欲しい。
すぐわかると思うが、「縦糸不足」である。
寄ってきてくれる子ども達がかわいくて、仲良くなり「いい先生」を目指しすぎ、規律がなくなる。
このパターンは、数十年前から続く学級崩壊ゴールデンパターンである。

子どもと仲良くなること自体は良いことだが、教師にとって仕事の目的ではない。
理想的な教育に至るための、一つの手段である。
野口芳宏先生の提唱する教育の成立条件「信・敬・慕」の中の一つでしかない。
信頼と尊敬という、縦糸の要素が強いものも同時に備えていく必要がある。

逆にベテラン教師は、縦糸を強く張りすぎようとするせいによる学級崩壊を起こしているという。
TOSS代表向山洋一氏はこれを「新型学級崩壊」と名付けたと、産経新聞上で発表していた。
「新型」とはいうが、もう十数年以上前から起きている現象である。
規律ばかりを強め、関係をもてずに、子どもが反発していく。
何をいっても反抗的になる。
こういうパターンに陥る。

大変わかりやすい理論である。
自分の新しく持つ学級をどうしていきたいのか。
縦糸と横糸のバランスで考えてみるといいかもしれない。
拙著『ピンチがチャンスになる切り返しの技術』にも、この辺りの理論は応用されている。
ぜひ参考にしていただきたい。

2017年5月23日火曜日

子どもは「リレー」で育てる

こちらもメルマガ上で一月前に書いた記事。
(タイムリーに情報を得たい方は、右のボックスからメルマガ登録を。
 このブログは、過去記事のキーワード検索に便利。
 私自身も、そうやって利用している。
 そういう利用の仕方が特におすすめである。)

4月も中旬となり、学級の方の様子が変わり始めるころである。

学級の様子はどうだろうか。
落ち着いているとか言うことを聞かないとか色々ある。
どうであっても、次のような考え方で見る。

良いと思える点は、ほぼ100%、前担任をはじめとした、これまでの方々の教育のお陰である。
良くない、うまくいかないと思える点は、自分の責任の可能性がある。
(可能性があるだけで、全てそういう訳ではないが、自分の責任と思う方が主体的に対策がとれる。)

つまり、リレーのバトンパスと同じである。
回ってきた時に、たまたま勝ってる位置かもしれないし、しんどい位置にいるかもしれない。
そこをキープできるか、または挽回できるかどうかは、自分次第である。

4月の時点では、多くの子どもが「前の担任」のやり方を引きずっている。
もっときついことに「前の先生の方がいい」と思っている可能性が高い。
しかし、これは逆の立場になって考えれば、至極当然、ありがたいことである。

4月になって、昨年度に担任した学級の子どもたちのことを、どうでもいいと思っているだろうか。
そんなはずはない。
もし新しい学級担任の先生に「先生のクラスにいた〇〇さん、いいですね!」と褒められたら、何か嬉しいはずである。
逆にもしいきなり荒れていたりしたら、かなり責任を感じるはずである。
つまり、4月はまだ「前担任」が色濃く出て当然の時期である。

4月の内は、まだ学級担任になりたてで、お互いに「様子見」の時期なのである。
「我がクラス」という感じにはほど遠い。
責任はもたなくてはいけないが、自分の思う通りになんていかなくて当然である。

こちらの側も、何とか新しい子どもから「担任」と思ってもらえるようにしていきたいと願っている。
共に明るい未来をつくっていきたいと願っている。
これには当然、時間と手間がかかる。
愛情をもって、辛い思いもしながら、お互いに少しずつわかりあっていくしかない。
しかも、前の担任もひっくるめてである。
前の担任のことを尊重できないようでは、わかりあえる関係には至らないだろう。
子どもがかつて一緒に過ごしてきた人たちを尊重するのは当然である。

4月の新学級担任は、そういう状態である。
だから、何でもうまくいくはずがない。
でも、「言うことをきかないといけないな」と子どもも少し譲歩してくれる時期でもある。
ある意味、千載一遇のチャンスである。

うまくいかなくて当たり前。
でも、うまくいくように努力をする。
もしうまくいかなくて悩んでいる人がいたら、それで大丈夫だと言ってあげたい。

2017年5月21日日曜日

子どもの顔が上がる理由 上がらない理由

メルマガ上で、桜の時期に書いた記事。

一昨日は天気もよく、金曜の夜ということで夜桜を楽しむ花見が各所で行われた。
私は川沿いの桜並木を通勤路にしているため、この時期の通勤はとても楽しみである。

この時期、通勤路では、みんな上を見ていて、表情も穏やかである。
言わずもがな、桜が咲いているからである。
桜の花は高い位置で咲くため、自然と顔が上がる。
人間は、顔が上がると、表情が明るくなる。
名曲「上を向いて歩こう」は「Sukiyaki」の名で世界にまで広がる大ヒットをしたが、上を向けば自然に元気が出る。
(ちなみに、通勤電車の中では、大抵がどんよりした表情である。
 一部例外もいる。
 おしゃべりが止まらない女子高生である。
 ちょっとうるさく感じる時もあるが、あのエネルギーは見習うべきものがある。)

歌を歌う時も、目線を下げることはしない。
指揮者は、高い位置にいるため、顔と視線は上向きになる。
やはり、どこを見るかが大切である。

桜の花は、自然と人の顔を上げさせる。
強制ではなく、見たくて上がる。
理想的である。

だから、授業中に子どもの顔が上がらなかったら、教師の話し方や表情にも問題があるのかもしれない。
または自分が教科書をじっと見ているせいかもしれない。

例えばセミナーをする時、私は意図的に資料を配らないことが多い。
資料があると、参加者は手元の資料に目線がいって、話が伝わりにくいし、私自身が話しにくいからである。

人は、見たいものを見る。
だから、見たくなるようなものを前にもってくる。
顔を上げて見たくなるようなものをもってくること。
桜を見ての気付きである。

2017年5月19日金曜日

教科書とテストの縛り

小学館記念セミナーでの学び。
陰山英男先生から
「学校現場を縛っているのは教科書とテスト」という話があった。

教科書はガイドとして有効である。
しかし「教科書を教える」のは違うというのはよく言われることである。
使用義務があることと、隅から隅まで同じ力をかけてやることは別物である。

テストも現場を疲弊させる原点の一つである。
40人いる学級のワークテスト一回にかかる採点の時間はかなりのものである。
(だから、ついためてしまう教員が多いのも頷ける。)
各教科にあるため、それが月に何枚もある。
当然疲れる。

しかし、テストなどは、自分たちで採択したものである。
自分たちで自分たちの首を絞めているともいえる。
特に国語などはそうだが、すべてのテストを同じように実施しないと成績がつけられないかというと、そんなこともない。
「説明責任」のための資料が欲しいという面が結構ある。
やり方次第である。

教科書もテストも、無闇やたらに真面目に取り組むだけでは、当然疲れる。
あくまで目的達成のために「使う」という発想が必要である。

アクティブラーニングの用語に象徴されるように、学び方の転換が求められている。
それなのに、その効果を測定するためのテストが旧態依然なのはなぜなのか。
テストの実施方法や採点方法についても、そろそろ再考の時期である。

2017年5月17日水曜日

先約優先

4月、どの職場も歓送迎会やらお花見やらのお付き合いが多い。
予定が埋まる。
そんな中で大切な考え方について、ある記事で紹介されていた。
「そうじの力」というニュースレターにあった次の言葉。

それは「先約優先」である。

以下、引用する。
==================
(引用開始)
私も時々、約束の日程の直前になって、先方から
「小早さん、悪いけど大事な用事が入っちゃったので、日程を変更してもらえませんか?」
という依頼を受けることがあります。

その時、私は心の中で密かに思うのです。
「おいおい、私との約束は『大事』じゃないのかい?」と。

事の大小は、こちらが勝手に決めているだけで、相手にとってはすべて大事なことなのです。
(中略)
無条件で先に交わした約束を優先することが大切なのです。
(引用終了)
===================
相手によって態度を変えない。

私たちは、いつもお世話になっている相手だったり、「地位の高い」相手だったりすると、つい「重要な用事」と捉えてしまう。
何かを「重要」とすることは、それ以外を「重要でない」と規定することにもつながる。
(ちなみに、自分に危害を加える相手とそれ以外の相手を並列に扱うべきということでは決してない。)

これは、子どもたちの人間関係にもいえる。
よく席替えや班決めで「好きな人同士」という言葉をきくが、この言葉は危ないと思っている。
この場合の「好きな人」というのは、いわずもがな恋愛感情ではなく、「仲良し」という意味である。
つまり、席替えのような場面において、仲間に対し「好きな人」と「それ以外の人」ということを規定することになる。
「協力できる」「仲良く」というようなことを目指すのであれば、完全にアウトである。

先約優先。
それは、人を人として大切にするということと同義である。

2017年5月14日日曜日

母の有り難さ

母の日の記事の再アップ。

母の日。
「子どもの日」と名称が似ているが、子どもの健やかな成長を願う日であるのとは訳が違う。
あくまで「母への感謝」を具体的に伝える日である。
(父の日も同様なのだが、かなしいかな、後付けの感は否めない。)

母親がしていることは、母親的には「当たり前」のことである。
しかしこれはあくまで「お世話」の行為の主体者である母親の感じ方である。
お世話されている側が「当たり前」になってはいけない。
しかし、空気と同様、ふんだんにありすぎるものに対しては、当たり前すぎて感謝の気持ちを持ちにくい。
例えば水泳をすると、普段全く意識しない空気(に含まれる酸素)が有難いものになる。
「有ることが難しい」環境を体験して初めて「有難い」ことに気付く。
本当は有難いのに当たり前すぎるものに対しては「気付く」ためのきっかけが必要である。

以前にも何度も紹介しているが、「当たり前の有り難さ」について考える時、震災の時の給食を思い出す。
普段当たり前のように食べて、余るから残している給食が、急に少量の質素なものになる。
いつもよりずっと質素な白飯とおかず一品の献立が、本当に有難く感じられる。
当然、残飯など全くない。
食料の調達が、たくさんの人の手によってやっと成り立っている事実にも思いが至る。
自分が、いかに恵まれた環境で、たくさんの人々に支えられていたかにも気付く。

そんな訳で、母の日は感謝を伝える日であると同時に、感謝に気付く日でもある。
家族内で多分最も重労働をこなしている母親の姿に思いを馳せる日である。
見回せば、あらゆることの感謝に気付く種がいっぱいある。
「当たり前」の「有り難み」を感じられるようにしたい。

2017年5月13日土曜日

本を出したいあなたへ

小学館の学びをシェアしようという最中だが、その前に、今伝えたいことを。
本が売れ行き好調で、かつ春の教育書フェアの最中なので、本の出版に関する話。
(ちなみに今回の記事は、「まぐまぐニュース」でも取り上げられたので一応リンクを貼っておく。http://www.mag2.com/p/news/245231

これまで様々な出版社の方々と話をした。
出版社は、本や雑誌の原稿を書ける人を常に探している。
枠はあるが、それを書ける人がいないというのが出版社の現状である。
つまり、市場にチャンスはいくらでもある。
問題は、書けるかどうかである。

教師の仲間にも、本を書きたいという人は多い。
しかし「もう書いたのある?」と聞くと、9割強の人は「それはまだ」という。
私のように「普通のレベルの人」ならば、それじゃダメなのである。
いつか書きたいのではなく、今何か書いておかないとチャンスは掴めない。
稀に才能に溢れた人がいて、待っていても「書きませんか」と声がかかる人がいる。
非常に優れた実践家であり、周りが放っておかない人である。
自分がそれに当てはまるなら、待っていても大丈夫である。
しかし、そうでないなら、予め書いておくことである。
これが第一のポイント。

そして、今回はここが一番伝えたいことなのだが、最初に書いたものを誰に見せるかが最重要である。
これは、絶対に肯定的な人がいい。
私の場合、現さくら社の社長、横山験也先生だった。
「とにかく書いたのを持ってきなさい」と言われ、持ち込んだ。
この先生にはその前にも「チャンスがあったらまず手を挙げろ」といったことも教わっており、私の人生に大変な影響を与えた人物である。
(そもそもを辿ると、師匠の野口芳宏先生からのつながりである。)
残念ながら諸々の事情から、この後さくら社からは出版できなかったのだが、励まされ、色々手配してくれた。
そして、ある出版社の編集者の方から痛烈な批判を受け、根本的に書き直すに至る。
私の最初の原稿は、お蔵入りである。
しかし、これが土台になっている以上、無駄にはならなかったといえる。

この順番が大切である。
最初に肯定的に見てくれる人がいて、これを認めてくれる。
やがて、的確にダメなところを批判してくれる人に当たり、直すに至る。
この順番が逆だと、最初に挫けて終わってしまう。
やはり、まずは自信が満たされるところからスタートし、厳しい世界で戦うようになるというのが定石である。

だから、最初に見せるべきは、肯定的な人。
批判的な人に見せるのは、いずれ必要なのだが、後回しにした方がいい。
そうしないと、自分の中の「アーティスト」が挫かれることになる。

以前からのメルマガ読書の方々はご存知の通り、この後私の道を切り開いてくれたのは、親友の飯村友和氏である。
私のブログ記事を読んで、肯定的に受け止めてくれ、「一緒に本を書こう」と誘っていただいた。
それが私の初の共著による単行本『やる気スイッチ』として世に出た。
https://www.amazon.co.jp/dp/4181646149
夢を応援してくれる人に当たるためにも、その人に出会う前の段階は自分で済ませておくことである。

とにかく書く。
それを信頼できる肯定的な人に見てもらう。
このステップがコツである。

そして、「いつかとお化けは見たことない」のだから、今動くこと。
そのために、新年度からの実践を記録しておくこと。
「いつか自分の本を書きたい」と思っている人へ、ちょっとだけ前を歩いている私からのアドバイスである。

2017年5月11日木曜日

基礎学力がストレスを下げる

小学館のセミナーでの学びシェア。
100号ぐらい書けそうな内容だったので、本当に厳選してお伝えする。

今回は、陰山英男先生からの学び。
陰山先生とは、以前野口先生のお宅で酒席をご一緒させてもらって以来である。

懇親会への移動中にもマンツーマンで色々と興味深い話を聞けた。
次の言葉。

「基礎学力は子どもたちの学校でのストレスを大幅に下げる」

聞き覚えなので正確ではないが、そんな意味合いの言葉だったと思う。
なるほど納得である。

徹底反復研究会というものがあるぐらい、陰山先生は基礎学力を大切にする。
ある荒れた学区の学校が、基礎学力の徹底で激変したという。

そう、基礎学力があるというのは、学校でのストレスのかなりをなくす。
例えば「授業についていけない」というのは、不登校の原因のかなりの部分を占める。
ここが解消されるだけで、不登校そのものがかなり解消されるということが結果として出ている。

そう考えると、やはり学力の保証は大切である。
授業力を磨くことは教師にとって必要条件といえる。
授業研のような場でマニアックな授業をすることではなく、基礎学力をしっかりとつけることである。

「漢字テストで100点」自体に大した価値がある訳ではない。
漢字が書けなくても今の時代はやっていける。
しかし、漢字テストで100点を取るということは、他の様々な付加価値を生む。
100点を取るまでの過程にも価値がある。
計算も同様である。
「四則演算はパソコンがあれば大丈夫」というのは真実である。
しかし、計算ができることの真の価値はそこではない。

やはり、基礎学力の保証。
これは、教科書を隅から隅までやるということでは決してない。
基礎学力の保証は、学級経営において最低限欲しいラインである。

2017年5月9日火曜日

被災地に学ぶ

3月の「被災地に学ぶ会」に参加させてもらってきた。
「学んだことを広げる」という使命により、学ばせていただいた内容を一部シェアする。

今回の場所は福島県南相馬市である。
前回参加の時と同じく、避難勧告が解除されて帰ってきた方の、個人宅の竹の伐採と敷地整理。 
黙祷をした後、チェーンソーを使って、竹をどんどん切っていく。
チェーンソーも注意だが竹自身も鋭利なため、手袋をして手を切らないように注意しながら作業を進めていく。

竹はしぶとい。
切った後の切り株部分も鋭い上に抜けない。
農家の知人の方が「竹は放っておくと厄介だから、タケノコどんどん獲ってって。」と言っていたのがよくわかる。

逆に考えると、竹の生命力があれば、どんな状況からでも復活できる。
竹は、ぐんぐん伸びる。
切っても切っても、見えない地下でしっかりと根を張っている。
切りながら大変だと思う一方、生命の力強さも感じる。

そして、この竹林整理は、一日十数人の人手ではとても処理しきれない。
よってボランティア活動は、リレー形式になる。
一つの場に対しても、前の団体が切った竹を、次の団体が処理する。
次の人が運びやすいように、紐で縛る。
最終処理しやすいように、竹の長さを揃えて整えておいておく。
リレーなのである。

以前宮城県で行った、海岸での遺品発掘作業も同様。
他団体とのリレーで、1か所ずつ潰していく。
「ここは掘り終わった」という場所を増やしていく。
気が遠くなるほど少しずつしか進まない作業だが、人手と時間さえあれば、いつか辿り着く。

正直、やり始める時は、「こんなにあるの!?」とちょっとがっくりくる。
一個人のお宅でこの量があるのに、ボランティア待ちのお宅がまだまだ山ほど控えているのである。
(そして、「復興した」という誤解によって年々ボランティアは減り続け、現地は常に人手不足である。)
しかし、やり進める内に、竹が積み上がり、きれいになっていくのを見ると、達成感がある。
仲間内の連帯感も生まれる。

お昼のお弁当は、主催者の方が現地のお弁当屋さんに注文してくれている。
主催者の方とお弁当屋さんは毎度の注文で顔見知りであり、作業現場まで届けてくださる。
お弁当屋さんも、避難して戻ってきた被災者の一人である。
お弁当を食べる前に、この方のお話をいただく。
津波はとても波には見えず、巨大な真っ黒い壁が迫ってくる感じだったという。
津波は土などを巻き上げて進むため、真っ黒だという。
実際の被災者の方の話は、真実味がある。

お話の後、地べたに円座して有難くお弁当をいただく。
全国チェーン店のお弁当のはずが、特別に美味しく感じる。
(ちなみに、このお弁当は、「日本を美しくする会」相談役の鍵山秀三郎様からのご提供である。)

もう一品、「からし菜」をいただく。
こちらは、依頼主の方が、我々の作業中に庭から摘んで、茹でて作ってくださったものである。
これも大変美味である。
ちょっとした心遣いが嬉しい。

お昼の後は作業再開。
黙々と進める。
きれいに切り分けられ、累々と積み上がった竹は、壮観である。

一人で、一回でできる量は、本当に少ない。
しかし、それが積み重なり、何十人、何百人、何千人、何万人となれば、話は別である。
リレーのように長く長く続けていけば、話は別である。

主催者の方は、埼玉県の高校の先生である。
震災の後、何かしたくてとにかく現地に向かったという。
そして、被災地の被害を目の当たりにし、「これは仲間がいないとどうにもならない」と思ったという。
その後、仲間を集めて足を運ぶこと数十回。
教え子も参加し、高校生だけでも延べ数百人は参加したという。
その中の三人が今回も参加していた。
「先生に出会って人生が変わった」という。
教育の究極は、感化・影響。
まさに教育者である。

現地でも学べたが、参加者からも学べた。
現地でどんどん動く他の参加者の背を見て、自分の力のなさも痛感した。
しかし「ハチドリのひとしずく」のように、小さくてもやれることをやるしかない。

メルマガを用いて発信できるのが、私の唯一の強みである。
お陰で、メルマガの中の一人の同志が参加してくれた。
これを読んで、何かしようと思ってくれる人がまた一人でも増えていってくれたらこの上なくうれしい。

ちなみに、次回は
6月3日(土)
開催である。
興味のある方は、ご連絡をいただきたい。

2017年5月7日日曜日

実践をふり返る重要性

昨年度末、拡大サークルを実施した。
そこで「今年度をふり返って」ということで、色々1年間をふり返ってみた。

新たに始めたことと同じぐらい、やめてみたこともあった。
失敗も多かったが、失敗したことでわかったこともたくさんあった。

例えば、学級通信。
やめてみた。
1年間出さなかったのは、15年目にして初めてである。
結果はどうだったか。
手間がなくなった分、得るものも減った。
保護者に、学級の様子を理解してもらいにくい。
保護者や子どもに、自分の考えを整理して伝える場がない。
しかし、だからといって学級経営が成り立たなかったというと、そういうこともない。
結論。
私の学級経営には、学級通信が必要である。
結構大変な分、リターンが大きい。
よって、4月からの学級ではまた学級通信を発行している。

こういうことは、いちいちふり返ってみないと流れてしまう。
だから、ふり返りには意味がある。
今回、私は幸いにもサークルという場が与えられ、「他律」によってこの活動ができた。
家にノートに書き出すだけでもいい。
この1年をふり返ることで、次年度の輝きが変わってくる。

ゴールデンウィークで1ヶ月をふり返り、再整理したい。

2017年5月5日金曜日

「プリ〇ュアカレーが食べたい」子どもの心理

子どもの日ということで、子どもにちなんだ緩い話。

カップ麺。
レトルトカレー。
マック。

何かというと、「子どもが好きな食事」御三家である。
どれも、インスタントでファストである。

何度か紹介したかもしれないが、私の好きな話。
授業参観での作文発表の一場面。
「僕のお母さんは、料理が上手です。
 一番好きなのは、納豆ごはんです。」
最高である。

子どもは意外と、「愛情のこもった手料理」を有難がらない傾向がある。
普段きちんとしたものを食べているからこそ、という面もあるかもしれない。
例えば私の幼なじみのI君は、小学生の頃、レトルトカレーを食べたことがなかった。
なので、彼の誕生日プレゼントに、インスタントの激辛カレーをプレゼントしてあげた。
彼の親がどんな反応をしたかはわからないが、今になって悪いことをしたと反省しきりである。

別の話。
私の知り合いの母子の話で、夕飯で娘(3歳)にカレーを作って出した時のこと。
食卓にはつくものの、なかなか食べない。
おもむろに席を立ち、食品棚からインスタントカレー(「プリ〇ュアカレー」)を取り出して一言。

「こっちがいい。」

母ブチ切れ。
どの家も、「そんなもん」である。

ただ面白い話で終わらせないで、考察してみる。
要は、子どもの「好き」に振り回されすぎないということ。
子どもの「好き」が「良い」とは限らないということである。
時に我慢をさせたり、好まないがやらせる必要もあるのではないかと思った次第である。

2017年5月3日水曜日

1年間でどれだけリスクをとったか

ある保育園の、卒園式での話。

卒園式は2部に分かれており、第1部が卒業証書授与などのいわゆる卒業式。
第2部がユニークで、学習発表などを行う。

この中では、竹馬、鉄棒、跳び箱、リズム体操などが行われた。
どれも、全然できない状態からスタートしたことを知っているため、当日の保護者の驚きは大きい。
竹馬では、自分の背丈より高い位置にステップがあるものに乗ってどんどん進んで行く。
跳び箱では、小学校用の跳び箱で3~8段の中から、自分が克服した段数を跳ぶ。

高い竹馬に乗れること、高い跳び箱を跳べること自体に価値がある訳ではない。
自分にとって「高いもの」を越えようと挑戦して克服したことに価値がある。
だから、絶対的に見て高さや段数がどうだろうが構わない。
子どもたちは、自分にとっての「壁」を克服した経験をもつ。
大きな壁を先生や仲間に助けながら克服していく経験をもつ。
「下から見たら果てしなく高いようで、登ってみたらそうでもなかった」ということも知る。
よく「体育で逆上がりができることの価値は何なのか」と問われるが、その答えの中の一つがここにあるように思う。

ここに挑戦することは、先生たちにとっても、かなりのリスクである。
途中でケガをすることもあるし、卒業式本番で失敗するかもしれない。
練習中には嫌がったり挫けたりする子どもたちを、文字通り叱咤激励しながら成長させていく。
褒めてニコニコしているだけでは済まされない辛さがある。
それでも、敢えてリスクをとってくる。
きらきら輝く子どもたちの姿から、その苦労と感動が透けて見える。
結果、会場には何ともいえない感動が生まれる。

人間、楽なことでは感動も成長もしないのである。
困難が読み取れるからこそ、心を動かすものがある。
リスクに対する正当なリターンである。

1年が終わるが、どれぐらいリスクをとって、挑戦してきたか。
1年をふり返る時、その充実度を決めるのは、ここにあるかもしれない。

2017年5月1日月曜日

子どもは自力で伸びる

卒業式の辺りで書いた記事。

毎年この時期に考えることが、この一年で何の力がついたのかということ。

単発では色々なことをしてきているが、どれだけ残っているかを考える。
誰がもっても、とにかく一年は終わるのだから、自分がもった意味を結構考える。

中には「先生のお陰で…」と有難い言葉をくれる子どもや、保護者の方々もいないわけではない。
しかし、どう考えても、本人の自力で伸びたとしか思えない。
少し肥料や水を与えたかもしれないが、伸びたとしたら本人の自力である。

そう考えると、教師のできることは、限られてくる。
教えるとは言うが、相手が習っても、学ぶかどうかは、本人次第である。

私は毎日日記を書かせるようにしてきたが、これは幾ばくか意味があったように思う。
気付きは、自分の中から生まれるものだからである。
万能の手段ではなく、効果の薄い子もいる。
書かない子どもに何とか書かせる試行錯誤も価値はあるが、別の分野に力を入れた方がよい。
結局、自力だからである。
種が違うと、育て方は違う。
当たり前の話である。

私も「お陰」ぐらいに力は添えたが、伸びたのは自力。
つい忘れてしまいがちな自分への備忘録である。
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