2013年11月29日金曜日

自信をつける

チャンス・チャレンジ・チェンジシリーズ。
前号の「ノミの天井」の話の続き。
怖がって跳ばない状態をどうするか。

一番いいのは、最初から天井を設けないこと。
天真爛漫な幼児期は、この状態である。
できないと思っていない。
「仮面ライダー」にだって「ヘラクレスオオカブト」にだってなりきれる。
(やがて、人間である以上、さすがに将来カブトムシにはなれないことには気付く。)
限界知らず、天井知らずの無敵状態である。

実際は、社会に生きる中で、自然と自分で天井を作っていく。
ちょっと高く跳んで箱から飛び出すと、叱られたり変わり者扱いされる経験を積む。
「適当」な高さに跳ぶことを覚え、習慣化する。
それ以上は私にはできないと思い込むようになる。
必要以上に怖がって引っ込むようになり、できるはずのことまでやらなくなる。

この状態から回復するには、周囲の励ましが必須である。
「あなたはできる」と繰り返し伝える。
加えて、跳べなかったはずの仲間が跳んでいるのを見る。

そこで初めて、ちょっと自分も跳んでみようかなと思う。

跳んだだけで称賛され、痛いはずがそうでもないと気付く。
もっと高く跳べるかなと思う。
これを繰り返す。
やがて、本来自分が持っている能力に気付いていく。
「自信がつく」という状態である。

ノミの話で何だか申し訳ない気もするが、教育の抱える問題点に合致する話だと思う。

2013年11月27日水曜日

ノミの天井

朝の話等で使える話として一つ。
「ノミの天井」の話。

ノミを飼育ケース内で育てる。
普通の昆虫飼育ケース程度のサイズである。
ノミの生来備わったジャンプ力からすれば、跳ぶ度に確実に天井に叩きつけられることになる。
何度も痛い思いをする内に、小さく跳ぶことを学習する。
しばらくその環境で育て続けると、箱の天井をなくしても、本来のように高く跳ぶことはできなくなるという。

ノミに生来備わった驚異的ジャンプ力が、失敗経験によって失われるという話である。
ノミに「天井はもうないよ」と教えてあげることはできない。
もうずっと、跳べないままである。

これを、人間の場合で考える。
飼育ケースとは「環境」であり「常識」である。
生来のジャンプ力は「才能」。
ジャンプは「挑戦」。
天井にぶつかるのは「失敗」と「苦痛」。
小さく跳ぶようになるのは「学習」。
天井をなくしても跳べないのは「恐怖」による「限界」の自己設定。

この状態から回復させるにはどうすればいいのか。
長くなるので次号に続く。

2013年11月25日月曜日

評価が子どもの能力を引き出す

前号の続きでもう一つ。

チャンスにはチャレンジしようという話題で、サッカーのシュートの例を挙げて説明した。

家本芳郎先生の本に、同じような例が書かれていた。
教育書なのにサッカーの話題を例にして説明している辺りに、共通点を感じた。

要約して以下に紹介する。

サッカー・ファンにもレベルがある。

オリンピックの試合で日本を応援する場面。
選手がシュートを外した時にわかる。

お茶の間でサッカーをよく知らずに見ている人の中には「何やってんだ!」と罵声を浴びせる人がいる。

一方、オリンピック会場で観戦しているファンは、熱心でレベルが高い。
だから、観客席では「惜しかったなぁ」という表情が映し出される。

つまり、同じ行為に対し、両極端な評価がくだされている。
「初級ファン」と「上級ファン」がいる。

評価が選手、あるいは子どもの能力を引き出す。
(生徒指導おもしろチャレンジ20 家本芳郎著 学事出版より)

同じ行為にも、どんな評価をくだすかである。

2013年11月23日土曜日

成功の方程式

チャンス・チャレンジ・チェンジをテーマに書き続けている。
自分の中でテーマにしていることは、情報がひっかかる。
本を読んでて、同じようなことが書かれていた。

以下、IBM創立者のトーマス・J・ワトソンの言葉である。
「成功の方程式を教えてほしいというのか。
 実はとても簡単なことだ。
 失敗の数を倍に増やせばいいだけだ。」
(人生のすべてをきめる鋭い『直感力』 リン・A・ロビンソン著 本田健訳 三笠書房 より引用)

「失敗が大切」「失敗への評価が大切」ということで、ここまでの記事と共通点を感じた。

2013年11月21日木曜日

失敗への恐怖心の克服 

失敗への恐怖心をどうなくしていくか。
授業研の場面を例に考える。

ある子どもを指名する。
教師の求める答えとは違う答えを言う。
この時の反応である。
がっかりした反応をしていないか。

正答を求める「答え合わせ」をするなら、さっさと教師が教えてしまえばよい。
時間の無駄である。
そうでなくて、「面白い誤答」「価値ある誤答」をこそ求める。
(くだらないとしか思えない誤答もあり、そこは見極める。
基本的に、子どもが真剣に考えて答えた誤答なら、何かしらの価値があると思って良い。)
以前紹介した「授業はクイズ番組」という考え方である。

いかに、失敗に価値付けをできるか。
サッカーやバスケでシュートを大きく外した時の声かけはいつでも「ナイスシュート!」。
入ったかどうかは、結果論である。
数をうてばいつか入るのだから、うったこと自体がもうすばらしいと考える。

誤答も「面白い考えだね!」とか「それは、良い間違い!」と断定する。
良い間違いとは、例えば算数なら、テストでたくさんの子どもがやりそうな間違い。
それを、授業中に示してくれることは、非常に価値がある。
それにより、他の子どもが今後同じ失敗をするのを防げる。
「○○さんのお陰で、すごく勉強が深まったね!このままいったら全員危なかったね!ありがとう!」
と、クラス全体に共有する。
正答を言うのは、教師がいるのだから誰でもできる。大した価値はない。
良い間違いを示してくれる子どもは、一番のヒーローであるべきだ。
そういう風土、空気作りをして、初めてチャンスにチャレンジする子どもになっていくように思う。

結局は、担任が、風土、空気を作る責任者である。
その責任の重さを自覚し、反応していく必要がある。

2013年11月19日火曜日

失敗への恐怖

「チャンス・チャレンジ・チェンジ」のその6。

チャレンジできないのは失敗への恐怖。
もっと突っ込むと、自尊心が傷付けられる恐怖。

恐怖を感じさせなくするのがポイントである。
失敗を成功へのステップと捉えるようになれれば良い。

理想を言うと、失敗しても「得した」と思えれば良い。
チャレンジして失敗した子どもが「損をした」と思うようではいけない。

子どもが失敗をどちらに捉えるかは、「学習」の結果である。

これは、担任の普段の反応一つにかかっている。
次回、具体的に授業研の場面を例にして説明する。

2013年11月17日日曜日

東北へのボランティア活動での学び

東北地方へのボランティア活動に参加させていただいた。
動機は、子どもに教える上で必要だと感じたからである。
東日本大震災については、何かにつけて学校でも扱う。
安全担当などになると、尚更である。
現況を見て、自分なりの考えを持ちたいと思っていた。
動機は立派な善意とかはないので、そこだけは強調しておきたい。
正直、少し参加しただけでどうこうなるものでもないのも知っている。
しかし、せっかくのチャンスがあったので、参加させていただいた。
百聞は一見に如かず、である。

内容は、宮城県の海岸での遺骨や遺品の収集。
震災後、未だ見つからずに、海の底や浜辺に眠っているという。
過日の大型台風によって、また新たに漂着しているとのことだった。
特に遺骨が見つかる、というのは、遺族や関わった人々にとって大きな意味がある。

現地のボランティアスタッフの方から説明があった。
被災地では、復興に向けての作業が続いている。
しかしながら、2年8ヶ月たった今、国が遺骨収集に当てる費用の確保は難しいという。
どうしても、護岸工事や整地などの復興作業が優先になる。
したがって遺骨収集などは、ボランティアの手に頼るしかないとのことだった。

朝に作業を始めて、ひたすら浜を掘り続けた。
衣類はよく出てくるが、肝心の遺骨は発見できずじまいだった。
(遺品の類は少し見つかった。)

終了後、スタッフの方から説明があった。
遺骨は出てこなかったが、それは「そこにはなかった」という証明になり、発見へ近付いたことになる。
(これを聞いた瞬間、エジソンの「失敗ではなく、うまくいかない方法の発見」という言葉を思い出した。)
また、被災地の方々に「今も探しています」というメッセージを贈る意味もあるという。
被災地側にとって、「忘れ去られているのでは」という思いが一番辛いという。
だから、ボランティア活動に参加したら、帰ってそれを周りの人々に伝えるまでが活動、とのことだった。

私にはこの場があるので、発信させていただいた。
もちろん、学校でも伝えていくつもりである。

ボランティア活動は「やれる時に」「やれることを」「やれるだけやる」ことだという。
無理をしすぎず、かつきちんと続けていきたい。

2013年11月15日金曜日

チャンス・チャレンジ・チェンジ その5

ここまで、チャンスにチャレンジしてチェンジできる子どもを育てる、という話を書いてきた。
しかし、これを本当にやるべきは、子どもではない。

実は、教師がやることが先である。
子どもは教師の言葉ではなく、背中を見ている。
「率先垂範」があってこそ、子どもはチャレンジしようと思う。
どんなに言葉でいいことを言っても、それが行動にできていないなら、響かない。

チャンスがあったら、チャレンジする。
そして、自分自身がチェンジする。
「主体変容」である。
嫌でも子どもも変わる。

まずは、今まで何となく先延ばしにしてきたことに、一つ手をつけてみたい。

2013年11月13日水曜日

チャンス・チャレンジ・チェンジ その4

前号の続き。

「跳べないことを見られるのが怖い」というのは、自尊心が傷つくことによる精神的苦痛である。
変にプライドが高く、自意識過剰という場合もある。
これは、本人そのものが変わるより、周り全体を変える方がてっとり早い。
(人間は環境によって作られるため。)
「失敗しても大丈夫」な風土作りが普段から必要となる。
「○○さん、がんばって!!」と心から応援してくれる風土である。
この雰囲気は、体育の時間だけでは醸成できない。
授業を中心とした、まさに日常の雰囲気作りにかかっている。

逆に言うと、いわゆる崩壊している状態では、あらゆるチャレンジは不可能である。
チャレンジによるリスクが大きすぎる。
そういう状態で「がんばりなさい」というのは、無茶である。

チャレンジできる環境は、安全・安心な雰囲気作りから。
学級担任の第一優先の仕事である。

2013年11月11日月曜日

チャンス・チャレンジ・チェンジ その3

チャレンジするために、考慮すべき条件が一つある。
それは前々回書いた「恐怖心」である。

チャレンジできない最大の理由は、恐怖心。
恐怖心を取り除けないと、チャレンジは難しい。
恐怖心の原因を考える。

例を挙げると、「跳び箱自体が怖い」場合と「跳べないことを見られるのが怖い」場合は、恐怖の根本が違う。

前者は、肉体的苦痛が予想されることによる、精神的苦痛である。
他の動物にもある恐怖心で、生命を脅かすことへの本能的恐怖である。
これは「安全」の確保が必須である。
落ちても痛くないように周りに何か敷く、補助をする、スモールステップで行うなど、失敗しても痛くない手をうつ。
体育においては、痛い思いはなるべくさせない方がいい。
たまたま野生児のような性格の子どもならいいが、そうでない場合、挑戦意欲そのものが削がれる可能性が高い。
「根性論」ではどうにもならない。
また、筋肉が無駄に緊張し、パフォーマンスが下がるので、尚更良くない。
クラスで一番かよわい子どもを基準に指導方法を考えるのが鉄則である。
(逆に野生児的な子どもは止めても自分からどんどん挑戦するので、安全面に一層配慮する。)

では、後者の「跳べないことを見られるのが怖い」という場合はどう考えるか。
長くなるので、次号に続く。

2013年11月9日土曜日

チャンス・チャレンジ・チェンジ その2

チャレンジをしよう、という話の別バージョン。

私は、学生時代にサッカーをやっていて、今もフットサルで続けている。
ポジションはフォワード(前で点を取るポジション)。
だから、Jリーグやワールドカップなどを見てもフォワードの選手が気になる。

学生時代、三浦知良選手や岡野雅行選手のプレーが大好きだった。
ゴールを量産する選手には「ごっちゃんゴール」が結構多い。
現在大活躍中の本田圭佑選手も、かなりがこれである。
何かというと、要するに他選手が打ったシュートのこぼれ球を詰める、というものである。
敵がうっかりミスした球をしっかり奪って、という場合もある。
一見、単なるラッキーに見える。
「あの人は運がいいだけ」みたいに思われることもある。

しかし、これはチャンスに何度もチャレンジしている結果である。
100回に1回、1000回に1回でも、可能性がある限り詰める。
これは99回、あるいは999回の「失敗」を経験しても続ける、という意志の強さである。
(そんなことをかつてあるCMで三浦選手が言ってたのを今思い出した。)
チャンスは、自分で引き寄せる。
そのためには、チャレンジが欠かせない。

まだまだあるが、今回も長くなったのでここまで。

2013年11月7日木曜日

チャンス・チャレンジ・チェンジ その1

タイトルは、昨年度の学級のキャッチフレーズ。
ここに関連した話題を。

最近、学級でよく話すテーマが「チャレンジ」。
失敗が怖くてやれない、という心理を何とかしていきたいという思いからである。
優秀で真面目な子ども達であるほど、ここが課題になりやすい。

失敗がなぜ怖いのか。
失敗すると、人に笑われる(気がする)からだと言う。
多分、全国どこできいても、同じ答えが返ってくると思う。
要は、自尊心が傷つくのが怖いからである。
「恥ずかしい」というのは人間独自の感情である。(特に日本人は文化的にこの思いが強い。)
他の動物がチャレンジしない場合は、「失敗体験による命の危険」を学習するからである。
例えば飼っているペットが「何かを異常に怖がる」のは、そこで痛い思いをしたからである。
または、未知で危険を感じるからである。

しかし以前紹介した「超入門 失敗の本質」にもあるが、最大のリスクは「変化しないこと」である。
そこで先日、子どもに以下のような話をした。

猿はどこで暮らしているか。
木の上である。
理由は、安全・安心だから。
木から平野へ降りると、猛獣もいるし食糧も安定しない。
全てが不安定である。
それでも降りた好奇心の強い者がいた。
(ここでの「チャンス」は「好奇心」である。)
降りた者の中には、やはり猛獣に襲われた者もいる。
しかし中には平野での暮らしに適応(チェンジ)していった者も出た。
それが、人類である。
魚が陸に上がって両生類になった時も、鳥が空を飛ぶようになったのも、全て同じ。
現状を捨て、チャレンジと失敗を繰り返した結果である。

この話をきいたところで「そうは言ってもねぇ~」というのが大方の本音だろう。
なので、この類の話はあの手この手で何度もする。

長くなるので、次号に続く。

2013年11月3日日曜日

誉めると叱るは表裏一体

「愛があるから叱るのだ」という野口芳宏先生の言葉を以前紹介した。
叱る場合、相手が素直ならいいが、そうでないと逆恨みされることもある。
つまり、あいはあいでも「気合い」がいる。
叱る行為には、自分が傷付くことも辞さない覚悟がいることになる。

誰でも、自分が可愛い。
自然、学校でも叱らないで誉める教育が広がり、今日に至る。
いいところを見つけ、誉めて伸ばす。
良いことは良い。
それを認める。
このこと自体はいい。
相手も自分も気持ちがいい。

しかし、物事は表裏一体である。
文房具屋でコピー用紙を買う際、
「表だけしか使わないので、裏は結構です」と言っても、
「サービスで裏もつけときます」と返ってくる。
(ちなみに、これは有田和正先生の本にあるユーモア話の一つである。)
どちらか一方だけ、というのは、物事の道理に反する。

いつも誉められまくる一方、悪い面は叱られずに容認されて育つ子ども。
子どもは、毎日楽しいだろう。
全てを認めてもらえるのだから当然である。
先生のことも大好きになるに違いない。
しかし、末恐ろしいことになることが容易に想像できる。
社会に出て、そんなことがあり得るだろうか。

悪いことは悪い。
それを教えるのも教育の大切な仕事の一つであると思う。

誉める実践を推奨している素晴らしい先生方は、叱ることもセットで行っているはずである。
そこを見ないで、誉めるところばかり真似していたら、逆効果である。

誉める教育が脚光を浴びる中に、一抹の不安を感じ、書いてみた。

2013年11月1日金曜日

陰徳を積む

「良い行いを報告する」という実践を紹介した。
これは、教師の側からすると大変都合が良い。
しかし、本来良い行いというのは、人知れず行うのが基本である。

人知れず行う良い行為を「陰徳」という。
読んで字の如く、陰で積む徳のことである。
誰に知られる為でもなく、ただ良いと思うからやる。
純粋なる善行である。

どんなに陰でやっても、必ず二人が見ている。
一人は、天の神様。
もう一人は、他ならぬ自分である。
これは、悪事であっても同様。
良いことをすれば良く、悪いことをすれば悪くなる。
実に理に適っている。
正に「道理」である。

ちょうど前回の記事を書いた後に、栃木県の山中伸之先生のブログ「実感教育」を見たらこのことが出ていた。
なるほどこれも大切なことであると思い、紹介させていただいた。
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