2017年6月30日金曜日

実質的に勝つ

運動会の時期に書いた記事。

運動会では、表現などの一部を除き、競争がつきものである。
応援合戦や綱引き、リレー、学年団体種目などは、チームでやるものなので、指導者の側も熱が入る。

この時期になると、この「競争」の使い方、捉え方が大切であると切に思う。
6年前にメルマガに書いた記事だが、以下引用する。
=============
(引用開始)
大縄などの大会が校内であると、隣のクラスの記録が気になり出す。
まあ、大抵は「一番になりたい。勝っていたい。」と思っている。
それ自体は悪くないのだが、相手の記録が伸びることに恐怖心を抱くのは問題である。
それは、つまり暗に「自分達はそこまで伸びない」と自己暗示をかけていることになる。

逆の発想でいく。
つまり、周りのクラスに、もっともっと強くなって欲しいと願うのである。
心から願うのがポイントだ。
そうすれば、自分達もそれ以上になれる。
目指す頂が高くなるのである。
他のクラスで自分達以上の記録が出たと聞いたら、素直に喜ぶ。
達成しているクラスがあるので、現実的である。
自分達にもできるというイメージを持ちやすくなる。
自分達が突破したら、それを周りに伝える。
すると、周りがさらに強くなる。
正のスパイラルができあがる。
ちなみに本校では、週に1回全クラスの最高記録を放送することで、これを行っている。

大縄、8の字跳びの目的は何か。
クラスの団結を深め、より良い人間、より強い人間に育てることである。
隣のクラスの子どもまで良くなったら、一石二鳥ではないか。
人の成功を、心から喜ぼう。
(引用終了)
==============
今でもこの考え方は変わらない。
自分がもっているのは学級の子どもだが、所属はその学校である。
学校全体の子どもが良くなった方がいい。
当たり前である。
私は、できれば、学校だけでなく、全国の子どものためになれたらいいと思ってるので、このメルマガを発行したり、本を書いたりしている。
ブログ上で「大縄・8の字レポート」を配付したのも、そのためである。
(ちなみに今でも同じもので良ければ配付している。希望者はメールでご連絡いただきたい。
活用していただけた方が多数いて、嬉しい限りである。)

「勝ちにいくことに価値がある」とは、他の誰でもなく、私の言葉である。
これは「勝つことに価値がある」という言葉とは大違い。
それなら、どんな過程を経てどんな手段を使っても、勝てばいいということになってしまう。

甲子園のように、勝つことで選手も指導者の側も将来が開ける場なら、まだ話はわかる。
どんな辛い思いをしても勝ちたいと願うだろう。
また、オリンピックのような大舞台の話を持ち出す人もいるが、これも全く別。
それは、勝負の重みも目的も全く違う場である。
国の経済や威信も絡む。
そこで作戦や練習方法をばらして負けてしまっては、話にならない。
「勝つ」こと自体に大きな価値がある場である以上、やむを得ない。

ただ少なくとも、運動会や地域の縄跳び大会は、そんな場ではない。
目的は、あくまで「子どもを育てる」場である。
競争を通して、子ども同士が伸びることが大切である。
隣のクラスが失敗したり悩んでるのを見て「しめしめ」と思わせるようでは、真逆の教育である。
隣のクラスが強くなったのを見て「すごい!うちも負けてられない!」と燃えるのが正しい競争の利用である。

だから編み出した必勝法は、公開してしまう方がいい。
これについて、大反対する人がいるのも知っていて、敢えて言う。
そういう考え方の人は、けちくさいと思う。
度量が狭いなと思う。
技術は、共有されるからこそ技術の価値が出るものなのである。
それで特許を取りたいのでなければ、さっさとオープンにしてしまえばいい。

私自身、ここで失敗することを何度も経験している。
何かちょっと見栄を張って勝ちたい時は大抵、結果的に大負けするのである。
しかも負けた後の、後味も悪い。
最悪である。

必勝法をきちんと公開すると、子どもがオープンになる。
「隣が高まるから自分達ももっと高まる」というマインドが前提である。
一番いい状態だと、子どもが隣のクラスの友達を見て、その友達にアドバイスをするようになる。
同様に隣のクラスに教えてもらったり真似したりして、更にレベルアップする。
そうなると、本番も正々堂々と清々しく勝負できる。
そして、逆説的だが、結果的にこれを多く出せたチームが勝つことが多い。
必勝法をより多く編み出したチームが、やはりそれを使いこなせるのである。
さらに、伝える過程で、自分たちの不備にも気付くのである。
算数を友達に教える時と同じである。
要は、運動会だけでなく、日常の授業がすべてということである。

勝負の相手は、常に自分。
そのために、周りにも一緒に強くなってもらう。
強くなろうとしないと、その過程すらも起きない。
それが「勝ちにいくことに価値がある」という言葉の本質である。
あくまで「私」に勝ちにいくのである。
あらゆる場面で応用の利く考え方であると思い、紹介してみた。

2017年6月28日水曜日

子どもは真似の天才

いつも気になっていることについて。

最近、朝もテレビを見なくなった。
理由は、ネットと違い、テレビは情報を選択できないためである。
見たくない、聞きたくない情報が入るからである。

朝のニュースは、家族全員が見ることになる。
子どもも見る。
ニュースを知ること自体はいい。
ただ、見ない方がいいニュースの割合が多すぎる。

何かというと、殺人等の各種重犯罪や、凄惨な事故である。
社会を知る手段はあってもいいが、割合の問題である。
爽やかなニュースを流してくれればいいが、テレビは視聴率が命。
そうなると、スキャンダラスなものがいいということになる。
子どももが朝一起きてリビングで最初に触れる情報が殺人や放火では悲しい。

子どもは、見たままを学習する。
「真似の天才」なのである。
そこへの善悪や評価は関係ない。
(大人も同じだが、子どもの吸収率の方が高い。)
心理学でも「観察学習」というのがあり、脳は判断なしに、そのまま真似た行動をすることがわかっている。
繰り返し見るテレビ番組の影響力は、絶大である。
見る番組によっては、そこでプラス行動を学習する面もある。

日常の学級経営においてもいえる。
直して欲しい行動や叱責を繰り返し伝えると、その行動そのものを学習することになる。
逆に、望ましい行動や褒めることを繰り返し伝えても、同様の効果が得られる。
叱責に意味があるのは、特にそれを悪いことと自覚していない時である。
だから、叱るより褒める割合の方が10倍ぐらい多い方がいい。
(特に子育ての場面においては、現実的にはそうも言ってられないのが事実ではある。
 親子のバトルは果てしない。)

わざわざ悪い行為を繰り返し伝えない。
良いところをもっと指摘する。
子ども同士の関係にはもちろん、大人にもいえることである。

2017年6月26日月曜日

教育力のある子ども集団を育てる

5月に他県の教育委員会に招かれて行った、研修講座で話した内容。

学級における2対6対2の話をした。
問題行動や遅れの目立つ2割にひっぱられないこと。
自主的に動く2割の行動には特に着目して広めること。
6割がどちらに動くかで決まるということ。
結果的に、困難の多い2割も救われるということ。

かなり基本的なことだが、失敗の大半はこの対応にある。
特に5月から6月は、子どもも問題行動を起こしやすい。
大人も子どもも疲れる時期なのだから、自然なことである。

親は、我が子がどうかということに最も着目する。
当然である。

担任は、クラスの子ども全員、一人一人がどうかということに着目する。
一人でも問題を抱えている子がいれば気になるし、全体としても気になる。

その辺りの意識の差をもつこと。
親が我が子を中心に見てくれと要求するのは、ある意味当然である。
その願いをまずは受け止める。

その子だけをかまっていれば、当然他の子やその親から見てくれと要求がくる。
だから、全体を見る目が必要で、一人で学級を抱え込まない事が大切である。
周りの助けを得る。
何より、子どもの助けを得る。
手のかかるところにばかり着目していると、そこを落とす。

教育力のある子ども集団を育てる。
そのためには、きちんとやる子を落とさない。
基本的なことだが、大切なことなので、改めて書いてみた。

2017年6月18日日曜日

公開研究会 文科省の先生の話が聞けるチャンス

公開研究会の案内。
http://www.el.chiba-u.jp/kenkyu.html

以前にも紹介したが、私は、次の金曜日に4年生の「ネット型ゲーム」の授業展開を公開する。
ネットをはさんでボールをやりとりし、相手陣にボールを落としたら得点というシンプルなルール。
これだけのルールでかなりバレーボールに近付くとは思うが、そこからは工夫次第。
どんな作戦やルールを子どもたちがつくりながら展開がしていくかを見ていただきたい。

同日には2年生の表現リズム遊びも展開される。
ちなみに千葉市は、表現運動を長く研究している地域である。
千葉市から着任した同僚の授業展開なので、こちらもご覧いただきたい。

そして、今回お伝えしたいのが、午後の「教育フェア」。
選択式だが、ぜひとも体育に来ていただきたい。
2020年パラリンピックの種目である「シッティングバレー」を体験していただく。
1980年より正式に認定されている種目だが、意外と一般に知られていない。
障害の有無に関わらず楽しめる、ユニバーサルデザインな種目である。
運動が苦手という人ももちろん大丈夫。
勝負の分かれ目は「作戦」と「チームプレー」。
ぜひ一緒に「アクティブ・ラーニング」の授業を体験していただきたい。

なお、一日を通して、文科省の高田彬成先生にご指導をいただける。
高田先生は「体育科教育」等の体育専門雑誌執筆を始め、数々の場で講演もしている体育界の「オピニオンリーダー」である。
現在の体育科教育の第一人者といえる。
なぜそんなビッグネームを本校体育科のためだけに呼べたかというと、それはいわゆる「縁」と「運」である。
人が人を呼び、繋がる。
私は、ご存知の通り運がいいので、「運」ばれてきた縁で繋がれた訳である。

次期学習指導要領のことについても質問できる大チャンスである。
授業後の分科会はもちろん、教育フェア1のシッティングバレーの後でもご講義をいただく。
ちなみに、教育フェア1がジャージ着用なので、そのままの恰好で参加していだたいてOKである。
文科省の有名な先生の話を、実技を交えて聞けるまたとないチャンスである。
(そして、シッティングバレー自体が、単純に楽しい。)

6月23日(金)は「本校児童のために、文科省の先生へ次期学習指導要領の体育を学びに出かけます」で決まりである。
学校にとっても、必要な学びのはずである。
特に体育主任なら、尚更言いやすい。
年休よりも、「出張」で堂々と来て頂きたい。

また、2日目は体育の授業が1本と、全体講演もある。
こちらは、5年の「バスケットボール」の授業展開である。
私の同僚が尊敬してやまない、印西市の鈴木弘之先生が講師である。
私も初めてお話が聞けるので、この日も楽しみである。

なお、2日間にわたり、体育館前では明治図書や各出版社のブースが出店される。
私の著書もあるので、まだの方はお手にとっていただきたい。

皆様と直接お話する機会がもてれば幸いである。

2017年6月16日金曜日

クレームは、願い

先月、厚木市教育委員会にお呼ばれして、講座をもたせていただいた。
その内容から。

「学級経営」と「切り返しの技術」をテーマにお話をさせていただいてきた。

色々話したが、切り返しワードの要点は一つで、

お互いの願いを近づけること
である。

例えば「クレーム」は「文句」ではなく、「願い」そのものである。
そのままネガティブに受け止めると、自己防衛と弁護に走りたくなる。
願いなのだから、まずは受け止めて、こちらの願いも伝える。
この願いをます受け止める、という過程が、言うは易く行うは難しのポイントである。

2017年6月14日水曜日

「これやっときゃ大丈夫」は、ない

だいぶ長い間ひっぱっているが、小学館セミナーでの学び。
いいものは広めるべきなのでシェア。

メイン講師の一人、菊池省三先生の言葉。

「これやっときゃ大丈夫」は、ない。

それがもしあるなら、戦後何十年でとっくに発見されているはず、ということである。

菊池省三先生といえば「ほめ言葉のシャワー」が有名だが、その人が言うのだから、説得力がある。
(私も同じことを何度も言っているが、やはりそこは実践の長さと深さの差である。説得力が違う。)
自身の実践が広まってくるほど、誠実さをもって強調したくなる言葉であると思う。

うまくいっている人の話だとか、著名な先生の言うことだと、鵜呑みにしすぎてしまうことがある。
「鵜呑み」とは読んで字の如く、鵜がするように対象を噛まずに丸呑みすること。
「よく理解せずに受け入れること」の比喩である。

何度も言っているが、「ほめ言葉のシャワー」は、すごい。
ただし、菊池実践は、相当に深い。
そこだけ真似しても、全く形にならない。
「ほめ言葉のシャワー」が菊池実践のシンボルとして広まっているだけである。
本当にやるなら「菊池道場」等に入るなり、菊池実践の本を何十冊も読んだりセミナーに出かけたりして、深める必要がある。

学級経営において、「鉄板」の手など、ない。
千手観音よろしく、多くの手をもつことである。
千手観音が多くの手をもつのは、どのような生命をも漏らさず救済しようとすることからであるという。
こちらは神様ではないので、すべてを救うことは難しいかもしれないが、最低でも学級の子どもの人数分の手は必要になる。

だから「これやっときゃ」がない以上、たくさんの手法を学んでもつしかない。
「意図的な経験」を意識して何十年もやっている、本物のベテラン教員の方が、若手より対応の幅が広い理由である。
時代が激変しようがそうでなかろうが、教える立場にある以上、一生学び続けるしかない。
私の尊敬する野口芳宏先生は齢八十を越え、未だ学び続けている。
だからこそ、多くの人の尊敬を集め、教えをこう人が絶えないのだと思う。

「これやっときゃ大丈夫」は、ない。
人前に立つときは、緊張感をもって準備をし、その上で楽観的に目の前の事に当たりたい。

2017年6月12日月曜日

自分の周りにいる人こそ自分自身

以前紹介した『人生はあるあるである』からの気付き。

この本に「自分の周りにいる人こそ自分自身」という小タイトルの話がある。
給料が安いとか上司が悪いとか、不満を言う人はどの社会にもいる。
しかし、これは当然だという。
例えば、相手から雑な扱いを受けた時。
「自分はいい加減な対応でいいと思われている。」と考える。
つまり、もっと頑張らねばならない。

相手の対応の悪さで怒っている若手には
「お前がナメられてんねんで」
と教えてあげるという。

私も共著『やる気スイッチ押してみよう!』の中で、
「苦手な相手は鏡」ということを書いている。
全く同じことである。

相手に、不平・不満を抱いたら、自分が至らないということ。
子どもにダメなところがあったら、自分をふり返ること。
だらしなさに腹が立つようなら、自分の中にもそれがある証拠である。
もっと努力すればいいのにと思ったら、自分はどうかと考えること。

相手を批判するのは簡単。
しかし、批判して人を指さす時、「人差し指」は文字通り相手をさしているが、小指と中指と薬指は、自分を指さしている。
批判している相手の三倍は自分のことである。
何か言いたくなったら、ぐっと我が身をふり返るようにしたい。

2017年6月11日日曜日

公開研究会ご案内
今日は本校の公開研究会の案内。

6月23日(金)・24日(土) 
千葉大学教育学部附属小学校 第50回公開研究会
http://www.el.chiba-u.jp/kenkyu.html

私は1日目に4年生の「ネット型ゲーム」の授業展開をする。
午後には、教育フェアで「アクティブ・ラーニングの体育」をテーマに実技研&理論研修の予定である。
この日の講師は文部科学省スポーツ庁で体育の教科調査官をされている、高田彬成先生をお迎えする。
授業研と協議会だけでなく、教育フェアまですべてご協力頂く予定である。
特に午後の教育フェアは、体育の初心者はもちろん、新学習指導要領における体育を学びたい方すべてにおすすめである。
私の授業以上に、そちらへのご参加を強くおすすめしたい。

一応自分の授業の宣伝も。
全体の研究テーマ「学びを楽しむ授業」を受け、体育部の研究テーマは
「自ら運動の楽しさを追求していく体育学習 ~サンドイッチ型を通して~」
http://www.el.chiba-u.jp/index_taiiku.html
今回は「ネットボール」という名称で、ネット型ゲームを「つくる」という趣旨で授業展開する。
バレーボールに似た動きになってくると思うが、ルールは全く違うものになる予定である。
誰もが楽しめる「共生」を意識した体育の授業展開を考えている。

以上、ご案内まで。

2017年6月10日土曜日

鯉幟のように

こどもの日に書いた記事。
(うっかり、季節柄のものなのに、アップし忘れていた。)

祝日法には次のように規定されている。
「こどもの人格を重んじ、こどもの幸福をはかるとともに、母に感謝する」

母への感謝も内容の一つである。
なぜか。
簡単に言うと、母こそ子が存在するルーツだからである。
子どもの成長を願い祝うということは、そのまま母親の存在の肯定につながる。
あまり認知されていないが、この祝日に「母に感謝する」の部分を入れたことは、特筆すべきことである。
(父は残念ながら入っていないが、子どもにとって母親の存在は特別である。
 その点において父は母に完全コールド負けである。)

ところで、こどもの日に関連することといったら何か。
列挙すると
1鎧兜・五月人形
2鯉のぼり
3菖蒲湯
4ちまき
5柏餅

ここに込められた願いを考えると、次のように分類できる。

1、2、3,4は子どもの成長を願うものである。
5だけは、親のため。
柏の葉は新芽が育つまで落ちないために、子が育つまで親が生きながらえるという意味がある。
親が生きることが、子の成長に間接的につながるという考えである。

他の視点で分類する。
2の鯉幟だけが異質である。
どういう視点か、少し考えてみて欲しい。

私の尊敬する野口芳宏先生の言葉に、次のものがある。
「子供には、支援よりもむしろ鍛えを。」

つまり鎧冑も五月人形も菖蒲湯もちまきも柏餅も「子どもを守る」という支援・厄除けの視点である。
鯉幟だけが「逆境を乗り越え逞しく生きよ」という鍛錬の視点である。

子どもは、守られるべき存在である。
一方で、子どもは、自立に向けて成長すべき存在でもある。

以前、オンライン記事で書いたが、鍛える視点、叱る視点を欠落させないことである。
(参考『子どもを「大切に大切に」しながらダメにする親』プレジデントオンライン
http://president.jp/articles/-/17690?page=4)

学級経営においても、この基本は外さない。
勉強ができないで困っていたら、教えてあげればいい。
でも、教えた後は、自分で解けるように見守る段階が必要である。
たとえ子ども同士で教え合わせる時にも、この視点をもたせる。
親切な子どもほど、相手が自力でやろうという段階でもまだ手出しや口出しをしてしまう。
教師でも同様である。

子どもを、何かができない存在として見ない。
子どもは、何かができるようになる存在である。
だから、鍛える。

鯉幟は、激流を昇って鍛えられることで龍になる。
子どもも、いつまでも子どもではない。
必要な部分は守りながらも鍛えて鍛えて、逞しく育てたい。

2017年6月8日木曜日

所属にプライドをもつ

私は「ビジネス発想源」という人気メルマガを読んでいる。
だから、そこでおすすめされている書籍は、結構即買いしている。
今回ネタにする本も、そこで紹介された本である。

『人生はあるあるである』
レイザーラモンRG 小学館よしもと新書
https://www.amazon.co.jp/dp/4098235048

次の一文に、心がひかれた。
===============
(引用開始)
ただ、一生懸命に働いたのは店長に気に入らたいからじゃない。
僕は自分の所属している団体がダサいと思われたくなかったのだ。
そして店長が嫌だからといって、ダラダラ接客するということは、その店にいる自分がダサいということだと思っていた。
(引用終了)
=================

全く同感である。
一生懸命働かないのは、ダサいのである。
自分の所属団体がダサいと思われるのは、プライドが許さない。
今までも、そう思ってきた。
「この学校に入れたい」「この学校に異動したい」
そう思われる学校にするために貢献したいと、どの職場にいる時も強く願ってきた。

幸いにも、最近ちょくちょく「附属小学校に異動したい」という声をきく。
その声を県内、県外の職員へ広げることが、一つの目標である。
教育実習の学生に「この学校でいつか働きたい」と思わせることが目標である。
私がかつて、指導教員の先生に抱いた憧れを、下の代にも伝えたいのである。

所属にプライドをもつ。
それは、一番小さな団体は家族であるし、さらに小さくすると自分自身である。
大きくすれば、学校、、地域、県、関東、そして何より、日本国である。

所属へのプライドをもって、仕事にあたりたい。

2017年6月6日火曜日

だらだらを勉強させない

小学館セミナーでの学びシェアの続き。

陰山英男先生の言葉。
「だらだらを勉強させない」
どういうことか。

私のメモだが、次のような話をされていた。
「だらだら分数の勉強をしているのは、分数の勉強をしているんじゃない。
だらだらの勉強をしているんだ。」

以前紹介したことのある、野口先生の「教材内容と教科内容と教育内容の違い」の考え方に近い。
つまり、分数の計算の学習自体は、教科としての内容。
しかし、だらだら勉強をしているのは、「だらだら」の勉強なのである。
「だらだらやる」という学習となる。
「24時間道徳」と同じ考え方である。

同じことが、仕事にもいえる。
今日出勤するのは、何のためなのか。
労働対価としての給与をもらうためなのか。
一日を過ごしてゴールデンウィークに近付くための、単なる忍耐の時間なのか。
社会に出て自分を役立て、人に喜んでもらうためなのか。
目的意識の違いで、得られるものは全く変わる。
(ちなみに、どんな働き方をしようが前2つは手に入る。)

話を戻して、子どもにマイナスの学習をさせない。
ただ教科内容を教えれば良いというものではない。
学生時代、こちらが聞いていようがいまいが、ひたすら喋るだけの授業を受けたことがあると思う。
歴史の時間なのに「内職」として英語の学習をしていたり、ひどいと弁当を食べていても黙認されていることもある。
これは「授業を聞かないで自分勝手にしてもよい」
「自分の受験に関係のない学習は無意味」
という学習をさせていることになる。

子どもに何を学習させているのか。
教科内容だけでなく、教育内容にまで目を向けるようにしたい。

2017年6月4日日曜日

学級経営に上下なし

私の同僚に口が悪いのが何人かいる。
(先に言っておくと、割と仲良しである。)
『切り返しの技術』を読んで、こんなことを言われた。
http://www.amazon.co.jp/gp/bestsellers/books/500322/ref=pd_zg_hrsr_b_1_5_last

「お前の本、いいこと書いてるな。
そんなに学級経営うまくねーのに!」

腹立たしいことこの上ないが、まさにその通りで、ぐうの音も出ない。
そう、勘違いされることがあるが、そんなに何でも楽勝でうまくいっている訳ではない。
常に試行錯誤しながら、目の前の子どもたちと真剣勝負の日々である。
喜怒哀楽がもろに出るし、昨日はすごく喜んでると思ったら今日は落ち込んでいる。
だから、この同僚の言うことは、(半分残念ながら)本当である。

ただ、私は実感をもって言えるのだが、みんなそうではないかと思う。
本を何十冊も書いているとかいうと、神様のような学級経営を想像する。
「毎日、みんなきらきらとした笑顔で、先生も輝きながらいきいきと、・・・」
私は、そういう風に思っていた。
今は、「そんな訳ない」と思う。

世の中には色々な学級経営方針や手法がある。
その中には「褒める」を中心にしたものもあれば「叱る」を中心にしたものもある。
「一斉指導」の実践が多い人もいれば「個別指導」の実践が目立つ人もいる。
しかしどの人だって褒めるのと並行して叱っているし、叱るだけでなく褒めている。
一斉指導をしながら個別指導をしている。
苦しみながらも喜びを見出している。
だから何度も言っているが「これをやっているだけで万事うまくいく」というのは、ない。

学級で相手するのは、プログラム通りのロボットではなく、個々の人間である。
個性的すぎる。
本で書かれることは、その中に「これは共通して言えることが多い」という程度のことである。
そこを手法として紹介しているにすぎない。

話を戻すと、だから私も学級経営がうまいなどと口が裂けても言えないのである。
大失敗もたくさんしている。
逆にいえば、大失敗という資産がたくさんある。
だからこそ、人様に色々なことが紹介できるのである。
「ピンチはチャンス」の経験があるし、「どうにもうまくいかない目の前の子どもが、神様」という実感がある。

うまくいったと思おうが思うまいが、どちらも見方でしかない。
学級経営に上下はなく、みんな常に「それはそれでよし」なのである。
そうでないと、全国のすべての子どもたちに申し訳ないことになる。
とにかく、目の前の状況を楽しむこと。
そのために、「切り返しの技術」は必ず役立つ。
学級経営は下手くそかもしれないが、間違いなくいい本であるので、自信をもって多くの人におすすめしたい。

2017年6月2日金曜日

5月から6月に大変なのは、普通。


どの学級でも、何かと落ち着かなくなる時期である。
最初の三日間、一週間、一ヶ月というのは、一つの勝負どころでもあり、区切りでもあり、崩れ時にもなる。

この時期は、最初のルールが乱れてきたり、何かうまくいかない感じになる。
それが普通と思っているか、自分だけの異常事態と捉えるかで、大分違う。
エネルギー満タンで、自信とやる気に満ち溢れている人なら、後者の捉えでも構わない。ガンガン進んでほしい。
大部分の方は、ちょっと疲れていると思うので、それが普通なんだという捉えの方が、健全である。

普通だから何もしなくていい訳ではない。
ピンチな感じの今こそ、改善のチャンスである。
勉強にも今まで以上に身が入る。
教育雑誌一つを読んでも、普段なら読みとばすような記事が引っかかるはずである。
アンテナが高くなるとか、フックがあるとかいう状態になる。

また、たまたま自分のクラスが安定しているという場合もある。
この場合は、危機感がない分、実はより危険なので、とりあえず総点検した方がよい。
うまくいってると、他の苦しんでいる担任にアドバイスをしたくなるが、まあやめた方がよいというのが本音である。
実は、安定していると思っている本人が一番危ない。
更に、安全地帯からのアドバイスは、相手が落ち込むか腹が立つかのどちらかである。
「わかるよ。大変だよね…」と共感してくれた方がありがたいし、真実である。

いずれにしろ、この期間にすべきことは、休養よりも勉強というのが専ら持論である。
今必要なのは、回復することなのか、先に備えて磨いておくことなのか。
自分にとって必要な行動を選択してとるようにしたい。

歴史の鉄則 便利と義務

最近読んだ本からの気付き。 次の本から、一文を引用する。 『サピエンス全史 上 文明の構造と人類の幸福』 ユヴァル・ノア・ハラリ 著 柴田 裕之 訳 河出書房新社 http://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309226712/ ======...

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