2019年6月25日火曜日

介入レベルの調整が成功の要点

クラス会議を通しての学び。

クラス会議において、最も難しいのは、教師の介入の度合いである。
一般的に理想とされるのは、教師はほとんど全く入らないで子どもたちだけで成立する状態である。

しかしながら、それだと学ぶべきことを学ばずに終わる可能性が高い。
まして、導入初期段階から完全に手放してしまったら、ルールもないままに進み、対話に至らない。
クラスの人間関係が壊れ、状況が悪化するかもしれない。
(クラス会議初期段階の指導については、先日紹介した「教育技術 小一小二」5月号に詳しく書いた。)

教師の性格(性質)にもよると思うが、この介入の仕方はかなり自覚的な意識が必要である。

色々なことによく気付き、細かく手出し口出ししがちなタイプの人は、黙って見ている方に注力する。
(説教好き、しゃべり好き、牽引型リーダーシップの人もこちらである。)

何事も口出しせずに、人に任せる、あるいは従順なタイプの人は、自分の意見も少し入れていくことを意識する。
そうしないと、方向性のない話合いに終始しがちだからである。

介入の度合いが違うにせよ、基本の心構えは、子どもに任せるということになる。

この「子どもに任せる」が「子ども任せ」の放置になってはいけない。
あくまで、成長レベルに応じて任せていく、というのが大切である。
これは、普段の授業でも、あるいは子育てでも同じである。

どういうことか。

乳幼児の発達に例えて説明する。

例えば、赤ちゃんはトイレに自分で行けないから、おむつをするし、それを周りの人が替えてあげる。
これを放置する母親もいるようだが、それは完全に虐待である。
また、幼い上の子に下の子の一切の世話を任せて自分は遊びに行く、というようなことも、両方の子どもへの虐待である。
(参考漫画:『ちいさいひと 青葉児童相談所物語』)

一方で、いつまでも子どものトイレについてあげる必要はない。
発達段階に応じて、自立させていく。
トイレトレーニングは、子どもの性格に応じてあの手この手を尽くすものであり、万人に向く完全無欠のハウツーはない。
親が我が子のおねしょやおもらしを気にしすぎて、心配が過ぎると、逆にうまくいかなくなるということも周知の事実である。

つまり、やってあげた方がいい段階と、失敗の可能性も含めて任せていい段階がある。
これを履き違えると、とんでもないことになる。
よかれと思ってやっていることも、段階によっては成長を阻害する行為になる。

自分と自分の学級はどの段階か。
子育て視点だと、自分と我が子はどの段階か。

ここを見極めた介入レベルの調整が成功の要点である。

2019年6月22日土曜日

「学力向上」の本質とは何か

前号の続き。
宿題では学力向上も家庭学習の習慣も身につかないということについて。

学力が高い、ということの本質は何か。
元号が変わろうという今の時代「暗記テストで高得点がとれること」と答える人はもはやいない。
そういう時代が確実に存在したが、未だにその考え方だとしたら、シーラカンスばりに進化していない。

今求められている学力は、ずばり
「主体的・対話的で深い学び」
である。
つまり、本質的には「生涯を通して全てのものから学び続ける力」である。

筆頭に「主体的」がきている以上、強制的なもの、受動的にやらされてやるようなものは真の学力といえない。
この時点で「一律の宿題」「ひたすら黒板の文字を写す授業」「親にやらされてる習い事」等は完全にアウトである。
(「本を読め」というのもよくあるが、本なぞ本来読むなと言われても読むものである。娯楽の一種であり、音楽を聴いたりゲームをやるのと同じである。)

主体的に学ぶ力とは、自ら「学びたい」という思いから発するものである。
周りがやらなくてもいいとやめさせようとしても、勝手にやろうと追求する姿である。
私はよく保護者に、「昆虫好き」「電車好き」「石好き」等、大人からすると一見無意味に思える趣味・行為を見守るように伝える。
それは、ここに関連するからである。
一つの分野での成功が、長い目で見ると他に波及するからである。

対話的に学ぶ、というのも単なる形式ではない。
ペアトークや班での話合いをしたから対話的です、というようなものはまさに形式主義。

対話には、内面的な自己との対話が必須である。
自己と対話した上で、他者と対話することで、新たな自己との対話が生まれる。
新たな価値に初めて気付く。
「考え議論する道徳」が求めるものもここである。
やればいいというものではない。
対話には、内省的な活動と気付きが必須である。

深い学びは、ここを掘り下げる力である。
答えの見つからないものを、ひたすら追い続ける力。
かつての有田和正学級の「追求の鬼」の姿である。
与えらえた課題、テストに正しく答える力を学力と捉えている限り、辿り着くことは一生ない。

工夫のない宿題は、これらすべての力を著しく失わせる。
「主体的」「対話的」「深い学び」のすべての力を真逆の方向に育てるからである。

そもそも、学力だけつけようとすれば学力が向上するものでもない。
全てを犠牲にしてひたすら塾通いに全力を注いだ子どもが、どう育つか考えればすぐわかる。

普段の生活の中で「何で?」と疑問をもち、「もっとうまくやるには?」といった工夫をすることが当たり前になっている必要がある。
それは、家庭生活の中でもできるし、学校の中では休み時間や給食、掃除、あらゆる時間でできることである
卑近な例として、机の中の整理整頓一つとっても「もっと快適に使いやすくするには?」と考える力である。
想像し、創造していく力は、日常生活の中にこそある。

学力向上の本質は、生涯を通して全てのものから学び続ける力。
全ての時間を学びの時間と意識することからである。
教師にとっては、学力向上のための授業研究以前に、学級経営から学ぶことが必須である。

2019年6月20日木曜日

宿題は強制残業命令

私は、何をするにも、一般的に見て「遅い方」である。
打合せ一つ出かけるのにも、もたもたする。
教室移動でいつも一番遅く教室を出る、あの子と同じである。

しかし一方で、一般的に見て「仕事がとても遅い方」かというと、そうでもない。

作業が遅いくせに、なぜなのか。

捨てるからである。
やらないからである。
そもそも、やらねばならない作業自体をなくしてしまうからである。

まず最初に「もしかして、これはやらないでもいいのではないか」ということを考える。
特に、慣例や当たり前になって長年続いているものは、真っ先に疑う。
なぜかというと、自分は作業が遅いので、ものが多いほど苦労すると知っているからである。
作業の能率化をはかって速くするより、作業自体をなくす方向で考える。

今回取り上げたい「当たり前」が、宿題の存在である。
「当たり前の宿題」は、教師と子どもと保護者に無用な苦しみを生む根源である。
例えばゴールデンウイークに宿題を出すのは、酷である。
そんなことをするから、休み明けの登校が(教師と子ども共々)嫌になるのである。
「宿題(残務)があるなぁ・・・」と思いながら過ごす休日の憂鬱さを思い浮かべられるかどうかである。

宿題とは、強制残業命令の異名である。
どんなに早く仕事を終えてる人にも、プライベートタイムに一律に強制される残業である。

自分がやられて嫌なことは、他人にしない方がいい。
いつも子どもにそう教えているのではないだろうか。

自分がやられたのだから耐えろ、というのは、中高生によくある先輩から後輩へのいじめと同じである。
「私たちもそうだった」という理由から、新一年生へ意味不明なルールに従わせようとする理不尽。
二年生からはこれが許可されて、これをしていいのは三年生からだけ、というような例のアレである。

子どもではなく、大人に問う。
学校の毎日の宿題が大好きで楽しみでたまらなかったという人が、どれぐらいいるのだろうか。
宿題があったから今の自分がある、という人が、どれぐらいいるのだろうか。

教師や親という立場の大人は、宿題の真の存在価値について考えたことがあるだろうか。
宿題がなぜあるのか。
なぜなくならないのか。
価値は何なのか。

「学力向上」とか「家庭学習の習慣」とか、ありきたりで無思考な回答はいらない。
嘘はいけない。
家庭学習の習慣とは、宿題で身につくものではない。
やる子はやるし、やらない子はやらないものである。

そこは、大人と同じである。
宿題で身につくものなら、少なくとも昭和生まれの日本人は全員相当に学力が向上して学習習慣が身についているはずである。
大人になった今も「三度の飯」より勉強が好きで好きでたまらない、やらずにはおられないはずである。

そんな現状、事実、エビデンスはない。
事実にきちんと正対して見た方がいい。
宿題実験の結果については、何十年にして何千万例の実験結果と実績、事実が目の前に大量の死骸のようにして横たわっている。

私は学級懇談会でもはっきり伝えた。
一般的に学校で宿題が出る真の理由は
「大人の安心感」
のためである。
断言するが「子どものため」ではない。
そういう「絶対善」にくるまれた美しい言い訳には、総じて疑ってかかるべきである。
「子どものため」というような美しい用語は、金科玉条、錦の御旗になりやすいので、見聞きしたら要注意である。

つまり、教師の側からすると
「宿題を出した」

「家庭学習の習慣づけに働きかけている」&「学力向上を意識して実行している」

「学校の役目を果たしている」
という構造になる。

実際、全くそうはならない。
「家庭学習の習慣」と「学力向上」の形だけを追い、本質を全く無視している。
そもそも家庭教育に口出しすること自体ナンセンスである。

学力は授業でつけるのが学校教育のプロたる教師の仕事である。
(教育のプロはいないかもしれないが、学校教育のプロは教師である。そうでないと、資格自体の意味がない。)
学力向上の責任を家庭教育へ丸投げするなど、プロたるプライドをもっていない何よりの証拠である。
宿題を出すなら、本当に家庭でしかできないものに限定して出すべきである。

保護者の側からすると
「宿題が出た」

「我が子が家でも勉強する」

「安心」
となる。

実際、全くそうはならない。
むしろ真逆の効果と結果を生む。
「宿題を(言っても)やらない」→「イライラ」→「叱責」がゴールである。
すんなりいくような子どもには、学力面でも生活習慣面でも、根本的に宿題自体が必要ではない。

そもそも家庭教育に教師を介入させようとすること自体ナンセンスである。
学校教育と家庭教育の役割の境界線が引けていない証拠である。
学校教育に対して無茶な要求が平気でできる人がいるのも、そういった境界線が引けていないからこそである。
教養と節度の問題である。

つまり、宿題を出すという行為は、教師にとっても保護者にとっても「ドSにしてドM」である。
子どもも苦しめて、自分たちも苦しんでいる。
客観的にみると、悲劇でありかつ喜劇、コントである。
(ちなみに、一番迷惑している罪のない犠牲者の配役は「子ども」であることは言うまでもない。)

意味のある宿題が全く存在しないとは言わない。
いや、むしろやり方次第では大いに意味がある。
かつての筑波大附属小の有田和正学級のような、子どもが真に追求するような自ら望む宿題もある。

しかしそれは、宿題を出す前段階の、素晴らしい授業がベースにある。
「学校から帰ってぜひ、何としても調べてみたい!」と子どもが熱望するような課題を授業で残すのである。
そこまでやれる先生が出してくれる宿題なら、反対のしようがない。
むしろ我が子にもどんどん出して欲しいほどの大歓迎である。
子どもの「やりたい」で行うものが、宿題の本質的にあるべき姿である。

自学をさせている人はここを目指しているのかもしれないが、教師の側に尋常でない熱量と勉強量が必要である。
(そもそも「自学をさせる」「自学の宿題」という日本語に矛盾を感じるのは私だけではないはずである。)

しかし残念ながら、世に聞く多くの宿題、あるいは自学は、無駄であるどころか、有害であると感じる。
ほとんどが単なる授業のやり残しによる強制残業、あるいは教師の自己満足によるものであり、工夫がない。
先の有田先生のように、素晴らしい宿題を出している例が全くないとは言わない。
しかし、ほとんどは単なる慣習、あるいは善意による迷惑であるとしか思えない。
(善意による有り難迷惑が、一番質が悪い。)

今の世の小学生は、放課後、文字通り「忙しい」のである。
何十年も前の平成初期や昭和の時代とは違うのである。
小学生が「心を亡くす」ほどに強制的に勉強や習い事ばかりさせるのには、はっきりと反対である。
そんな暇があるなら、もっと遊べといいたい。

宿題が、学級通信のように、一部の熱量のある人のものになればいいのである。
よほどの哲学や気合いがないのであれば、出さない方がよい。
大人も子どもも、不幸な人が増えるだけである。

「当たり前」の宿題こそが、捨てるべき仕事の「いの一番」であると、世に提案したい。

2019年6月18日火曜日

クラス会議で授業参観

4月に、授業参観でクラス会議を公開した。
よくよく考えると、学級会の様子を授業参観で見せるというのは、意外にも初めてである。
(多分、皆さんの周りにもあまりいないのではないかと思う。)

なぜかというと、普通4月の授業参観というのは、担任の授業の様子を見に来る機会だからである。
しかも、子ども同士の信頼関係ができていて、学級会が成立する状態になってないと公開しづらい。
私の場合、持ち上がりなので、保護者は私の授業を何度も見ているし、子ども同士も互いをよく知っている。
持ち上がりならではできたことである。

議題の選定も授業の直前に出てきたものを扱った。
当たるも八卦当たらぬも八卦という感じだが、クラスの子どもたちが選んだものなら間違いない。
そういう信頼ができるのも、やはり持ち上がりならではである。

いつも通り、前回までの振り返りをし、次に議題を選定した。

振り返りは、2日に1回の自由席替えはどうだったか、という点である。
「色んな人と話す機会ができていい」
という意見がある一方
「すぐ変わるから落ち着かない」
という意見とで、半々である。
次週から、週1回のお試しに変更される。

議題は、遊具の使い方についてだった。
人気の遊具を順番待ちをしている時に、なかなか替わってくれないことがあるというもの。
「ルールは1回ずつ」というはずなのに、というものだった。

さて、これがなかなか面白かった。
わかって黙って聞いていたのだが、そんなルールは、実はない。
自分たちの中で何となく作っていたのである。
それが、人によって2回だったり3回だったりする。
それを「学校ルール」と信じ込んでいたようである。

議論していく中で、「あれ?5回まででしょ?」というような話になって、初めて変だと思ったようである。
ここは教師の出番なので「あの遊具について学校で定めた使い方のルール等は、特にないです」と伝えた。

ここから、本質的な話合いになった。
そもそも、ルールだからこうする、というような問題ではない。
みんなが気持ちよく楽しく遊べる、という一点である。

結局「注意・声かけ」「看板づくり」等々のアイデアを、
「とりあえず全部試して一週間様子をみる」
ということで落ち着いた。

こういうプロセスを踏むと、ルールやマナーに対する見方が変わる。
すべては、集団の全員が気持ちよく過ごすためのものであるとわかる。
学校生活への基本姿勢が、従属から主体にシフトする。

主体的・対話的で深い学び。
これを目指すなら、教師はなるべく引っ込む授業の仕方、生活の仕方を基本に考える必要が出る。
あらゆる場面で、可能な限り「コーディネーターに」回ることである。
それは、傍観するのではなく、必要な時に適切な支援を入れる仕事である。

教室における教師の在り方をどうするか、というのは、これからもっと考えていきたいテーマである。

2019年6月14日金曜日

脱・ハイリスクアプローチ

大学での学びのシェア。
「シェア」と表現する場合、ただの伝達と違い、本人の気付きなどが入る。

健康教育に関連して、学級経営への気付き。

「ヘルスプロモーション」という概念がある。
直訳すると「健康の増進」である。

世界保健機関の定義では
「人々が自らの健康をコントロールし、改善することができるようにするプロセス」
(World Health Organization,1986)とされている。

30年以上前から定義されている概念であるが、一般的には耳慣れない言葉である。

さて、ここに関して、医学でも古くからは
「ハイリスクアプローチ」がされてきたという。
つまり、重度の病に侵されている人へのアプローチである。
既に健康を害している人への治療行為である。

これが大切なのは言うまでもない。

しかし、ここに注力している限り、常に「不健康予備軍」が新たに重度の病気になるという。
「病気ではないが不健康な生活習慣」という状態にいる層は、正規分布の中央周辺であり、かなりの割合になる。

つまり、この中間層に対してもアプローチしていく必要がある。
これを「ポピュレーションアプローチ」という。

これを調べると
「多くの人々が少しずつリスクを軽減することで、
集団全体としては多大な恩恵をもたらす事に注目し、
集団全体をよい方向にシフトさせること」
とある。

これが、学級経営のアプローチと非常に似ているのである。

ハイリスクアプローチで注力していると、学級経営に困難が生じやすい。
いつも目立つ「あの子」に教師が注目するため、真面目にやっている大多数が置き去りになる。
そうすると、真ん中の層が、ハイリスク群側へ徐々に移動する。
その方が、自分も注目されるからである。
やがて、全体レベルが下がり、手に負えなくなる。

ポピュレーションアプローチでいくと、「全体」が優先になる。
全体的に良い方向にシフトさせようとするので、ハイリスク群も良い方向に行く。
こうすると「安定」する。

一方、私が様々な場所で提唱しているのは、
「ハイパフォーマンスアプローチ」(注:松尾造語)
とでもいうようなやり方である。
先の健康の話でいうと、平均以上に健康的でパワフルな人の生活習慣に注目するやり方である。

まず高パフォーマンス群に注目する。
そうすることで、全体の「理想モデル」を示す。
それを周りが真似する。
全体がシフトする。
高パフォーマンス群は、更に上の課題に挑戦する。
更に全体がシフトする。

単純化すると、こういう構造である。
実は、何ら目新しいことではなく、社会の多くのものが、こうやって発展している。

生活レベルで例えると、今やうまいラーメン屋、美味しいスイーツの店は、乱立している。
昭和の時代では考えられないハイレベルの店が数多くある。
それは、先駆者を真似て、周りがどんどんレベルアップしたからである。
全体の平均レベルが上がった結果である。

そうすると、元々高級だったものが、安価でいただけるようになる。
一部の人しか手にできなかった良いものが、多くの人にとって手が届くようになるのである。
つまり、全体に恩恵がもたらされる。

これをやると、実は先の例でいう「ハイリスク」群も救える。
全体的に自分に余裕ができるので、ひどい状態を放置しなくなる。
または「そういうのもあるよね」と許容する幅ができる。
「自分を守ることで手一杯」から「人を助けられる」という状態になる。
そうすると、互いに感謝の感情ももて、集団としての質が高まる。

ポピュレーションアプローチを目指すなら、ハイパフォーマンス群に注目していくのをおすすめしたい。

2019年6月12日水曜日

アクティブラーニングの成立条件

大学の講義を受けての気付き。

大学では「学習者主体」のスタイルがとられている。
「アクティブラーニング」が大学の授業段階で実施されている訳である。
大変良いことだと思う。
例えば教育における現代的課題を提示されて
「これについて話合いなさい」
という授業。

これが成立する。
こういう話し合う授業は面白い。

しかし、これには前提が必要である。
学習者が、課題に対して、ある程度以上の知識や見解を備えていることである。

教育に関する知見は、全ての人がある程度もっているので、話合いが成立しやすい。
なぜなら、教育を受けたことがないという人がいないからである。
色んな立場で述べることが可能である。

しかし、例えば医学に関する知見は、誰しもがもっている訳ではない。
手術を執刀した経験など、ある訳がない。
だからいきなり「現代のがん治療における展望について議論しなさい」等といわれても、無理である。
新聞やニュースで知る程度の浅い知識で、その場の思いつきを話し合うしかない。
深まらない。
それなら、きちんと講義をしてもらったり本を読んだりして、知識を深める方が本質的に役立つ。

この辺りを理解しないで、いきなり子どもに課題を丸投げをしてしまうと、失敗する。
話合い中心の授業自体は楽しいのだが、往々にして深まらないことが多い。
それは、基礎的な知識の不足が原因である。
見解の狭さ故である。
(逆に知識がある故に見えない、という事態もある。)

算数の「筆算」の単元を例に考える。
まず「筆算」のやり方は、議論すべきところではない。
それを本当にまっさらな状態でやったとすると、固まる。
あるいは、不適切な様々な方法が出てしまう。
(今は大概、やり方自体を最初から知っている子どもが多数いるので、その子が説明してそれらしい終わり方になる。)

教科書に載っている筆算のやり方は、きちんと知識として教えるところである。
技能として習熟させるところである。
ここに議論の余地はない。
発展として桁が上がった時にどうするか、という段階なら有り得るが、ほどほどにしないと混乱する。

議論させるならば、もっと面白い課題である。
答えが一義的に定まらないようなものである。
筆算のやり方のように、最初から答えがはっきりしているなら、議論の余地はない。

道徳科の授業で本気で議論する姿を求めるなら、様々な見方ができるものにしないと「予定調和」になる。
「どうせみんな仲良くしましょうってことでしょ」と見透かされる授業では、本物の「演技者」を育ててしまう。
例えばロールプレイをするにしても、道徳的態度を演技することを教えてはいけない。
役割をもつことで、異なる立場の人の気持ちに寄り添うことが大切である。

教えるべきことと、話合うべきことを混同しない。
相手の知識・理解レベルに合わせた課題を提示する。
授業構成を考える上で忘れてはいけないことである。

2019年6月10日月曜日

安易な「約束」に要注意

教室でよくある風景。

「もうしないと約束できますか。」

もしこれを使う時は、かなり気を付けないといけない。
なぜなら、これは「約束」という言葉を使っているからである。

約束とは、双方の取り決め、規定のことである。
つまり、破った場合、何らかの不利益、罰則等が生じることが前提である。

そして学校の人間関係における約束に、罰則はつけられない。
約束破りは、信頼関係が傷つくだけである。
つまり、子どもと「もうしない」約束をすると、確実にこちらが不利益を被る前提になる。

なぜか。

約束を守るか否かの決定権が、すべて子どもの側にあるからである。
そして、破った場合、確実に信頼関係を損ねる。

信頼関係を築くのは、教師の仕事の一つである。
つまり、その手の約束をすると、こちらの不利益しかあり得ない。
約束したからといって、何のメリットもない。

そしてこれが、子どもの側にもいえるのである。
双方にとっての「不平等条約」のようなものである。

子どもがやることは、衝動的である。
情に訴えても、無駄である。
どんなに信じていても、やるときはやる。

だから、下手な約束はさせない方がいい。
子どもの側にも、マイナスになる罪悪感を生むだけである。

約束しても大人の側に「ま、またやるだろうけどね。」ぐらいの余裕が必要である。
子どもの側も「またやってしまうかもしれないけど、ごめんなさいね。」ぐらいの余裕が必要である。

それなら、安易な「約束」はしない。
約束をしたら、破られる可能性を含んでおく。
大人の人間関係にも当てはまる原則である。

2019年6月8日土曜日

座席配置と「いたずら書きの法則」

今年度、座席配置を変えている。
4人組で1つの班にし、それを時計周りに8つ、円状に配置し、中央を空けた形である。

↓イメージ図

  前面黒板
7班 8班 1班
6班    2班
5班 4班 3班
  後方ロッカー

全座席を前方、黒板の方に向けて配置するいわゆる「講義型」「スクール型」をやめてみたわけである。

そもそも、日本の学校ではなぜスクール型が一般的なのか。
それは「一斉伝達」を前提にしているからである。
知識の伝達を基本スタイルにしているためである。
この配置では、常に教師の方を向いて話を聞くことになる。
子どもが全員自分の方を向いているため、教える側も伝達に集中できる訳である。

この基本型を変えることによって、常に仲間の顔が見える状態になる。
一方で、黒板の方を常に向かない=教師の方を常に見ないことになる。

これは、単に型を変えただけでなく、一つの決意である。
「教育観」あるいは「子ども観」の変換である。
型を変えると、現象が変わる。

一番の懸念事項は、スクール型のメリットが享受できなくなることである。
つまり、教師の方を向かなくなり、おしゃべりがしやすくなる。

今年度は、持ち上がりである。
「話を聞かない」という状態が、逆に想像できない状態である。
つまり、どんな型であれ、話は聞けるだろう、ということが前提にある。
安全が既にある程度確保されている状態といえる。
「安全・安心」があるからこそ、思い切って挑戦できたという面がある。
(異動先で初めて会う子どもたち相手なら、なかなか勇気が出ないかもしれない。)

実際、やってみてどうだったか。
子ども同士の会話が増えたか。
増えた。
ただし、増えたのは単なるおしゃべりの方ではなく、話すべき時に話すようになったのである。

どういうことか。

私はこれを
「いたずら書きの法則」
と名付けた。

皆さんは、子ども時代、あるいは学生時代に、授業中に落書きをして遊んだことはないだろうか。
あるいは、それがうっかり見つかって叱られた(というより怒られた)ことはないだろうか。

あるはずである。
いや、あって欲しい。
音楽や文学の偉人たちに、ヒゲの一つぐらい書いたはずである。
あるいは、ノートや教科書の角にパラパラ漫画を黙々と描いていたはずである。
(遠目に見ると、すごく学習に集中している感じなのもポイントである。)

なぜやるかというと、暇だからである。
そして、本来それをやってはいけない状況だからである。

これが、いつでもやっていい、大いにやりなさい、と言われると、それほど楽しくなくなる。
隠れてやるから、楽しいのである。

おしゃべりや立ち歩きにも、似た構造がある。
いつでもやっていい、という状態だと、価値が下がるのか、その行動が減るのである。

これは、なかなか信じてもらえないし伝わりにくいのだが、実際に教えていて確信している現象である。
立ち歩きがひどい、という子どもは、大抵、「じっとしていないといけない」という強迫観念にかられている。

某お笑い芸人の「押すなよ、押すなよ!」という「振り」と同じである。
「動くなよ、動くなよ」という言葉は「動かずばやまじ」という状態を引き起こす。

逆に「歩いていいよ」というと、必要な時以外は割と席に着くようになる。
これは拙著『切り返しの技術』にも書いた話だが、真実である。
https://www.amazon.co.jp/dp/4181907120

1回や2回、あるいは10人程度の話ではない。
千葉県内限定とはいえ、ありとあらゆる地域、学年で実際に起きた共通現象である。
特別支援教育に詳しい方なら、その心理メカニズムについて解説できるのではないかと思う。

つまり「いたずら書きの法則」とは、次のような法則である。
法則1 やってはいけないと言うほど、その行動を強化する
法則2 いつでもやっていいと言うと、必要な時以外にはあまりやらなくなる

いたってシンプルである。
「スクール型」には、おしゃべりを止めさせて話を聞かせたいという根拠がある。
しかしながら、それがもしかしたら逆効果を生んでいるかもしれない。

あくまで、実験段階である。
しかしながら、現在はまっている感じを見ると「中らずと雖も遠からず」という状態にはなっているのではないか。
クラス会議をやるのにも、椅子をさっと動かすだけで、大変便利なのである。
ぜひ6月28日、29日の公開研究会にでも、様子をご参観いただきたい。
http://www.el.chiba-u.jp/kenkyu.html

眉唾の方も多いと思うが、何かで「いたずら書きの法則」を試してみてはどうだろうか。

2019年6月6日木曜日

「学びに向かう力、人間性等」は教えられるか

文科省より示された「育成すべき資質・能力の三つの柱」は次のものである。

1「知識及び技能」
2「思考力、判断力、表現力等」
3「学びに向かう力、人間性等」

これが昨年度の最終号、1585号のメルマガで紹介した「道徳の3階層」の構造に似ていると考えた。
つまり

1「知識及び技能」=法律
2「思考力、判断力、表現力等」=躾、礼
3「学びに向かう力、人間性等」=求道

とみなす。
そうすると、身に付けさせたい資質・能力の構造を読み解くヒントになりあそうである。
以下、1585号をもとに、3つを読み替えて文章を書いてみる。

知識及び技能すらないという状態は、基本的な学力が充足されていない状態である。
逆にこれらを身につけられる人とは、幼少時に親や目上の人からよく与えられ、受け取れた者だけである。
家庭環境に関わる、貧しさ等の理由で機会にすら恵まれなかった子どもには、ここが身に付けられない。
また、技能についても、それを持っている人が身近にいないと、知る由もない。

よって、知識及び技能の身についていない子どもに対しては、「学びに向かう力、人間性」で説いても無駄である。
自力で解決できないからこそ、周りや模範解答を見て何とか解決しようとするのである。
あるいは、知識不足の子どもが学びを投げ出すのも、やる気の問題ではない。
根本は基礎的な知識、技能の不足であり、量的な不足でもある。
ここを理解して、与えるしかない。
そして、教えてすぐ何とかなるなんて思わないことである。

「思考力、判断力、表現力等」とは、社会性そのものである。
ここは、まずその基準を示し、与えること。
こちらも「もっとがんばって」は無駄。
こうやるとうまくいくという範をまずは示し、身に付けさせるべきものである。

ある分野における独自の表現方法なぞは、「教える」以外に知る由もない。
説教ではなく、しっかりと教える。
反復させ、型にする。

「思考力、判断力、表現力等」を身に付けられていない部分は、本人の「悩み」として表出する。
「知識はたくさんあるのにうまく表現できない」ということになる。
そう考えると、この方法をきちんと教えることは、必須である。

最上級の「学びに向かう力、人間性等」とは、高みを目指して生きる「道」のこと。
これこそが本物の学力である。
「道」とは正解がなく、常に続くものを指す。
書道でも武道でも、文学でも科学でも工学でも芸術でも同じである。

これらは、自分で究めていくもので、正解もゴールもない世界である。
よって、「型」を越えた時点から教えることが不可能な領域である。
また、口にして教えた時点で、もうそれが入らなくなるというので、要注意である。

では、学力の最上級である「学びに向かう力、人間性等」を、どうやって教えるのか。
これは、背中で示すしかない。
むしろ、本人が勝手に選んで、勝手に真似されるものである。
よって、教えること自体が不可能と考えてよい。
自分を鍛える「修養」以外に道はないということである。

こう考えると「学びに向かう力、人間性等」を教える、ということへの違和感が溶ける。
なるほど、道理で教えらないはずである。
この考えに則れば、教えるという方法で担保できるのは、
1「知識及び技能」
2「思考力、判断力、表現力等」
までである。

三つの柱の中で最も重要視されている
3「学びに向かう力、人間性等」
については、大人が背中で示すしかない。
要は、大人の自分自身の学び方や、人間性が子どもの「教育」そのものになるということである。

新しい時代を生きる子どもを育てるために、何をすべきか。
注力すべきは、教える相手の子ども以前に、我々大人の方である。

2019年6月4日火曜日

善人思想

ここ何号か書いてきた、鍵山教師塾での学び。

「善人思想」が一番怖い。
そういう話があった。

どういうことか。

以前「善魔」という言葉を紹介したことがあるが、あの話に近い。

「いいことをしている」あるいは学んでいる、という自覚をもつ。
すると、それをしていない、あるいは理解しない人に対し、悪く思ったり、不甲斐ないと思ったりする。

これが一番恐ろしい。

自分が正しいという思い込みは、大抵間違っている。
私も色々書いてきているが、今書いているこれも、あくまで多くの考え方の一つに過ぎない。

文化が違えば、善の基準も違う。
相手にとっての「絶対的な善」が全く理解できない、という事態も起き得る。
(宗教対立が最もわかりやすい。)

例えば、全国で早朝より公共のトイレ掃除をしている団体がある。
冬場もやる。
しかも、素手でやる。
これを「理解」できるか。
まして、掃除の文化のない国なら、尚更である。
やったことがなければ、到底「理解」は不可能である。
やってみても、理解できないかもしれない。

これにしても「いいことをしている」と頭の片隅でも思ったら、もうやらない方がいいという。
あくまで、修行の一環であると考える。
やらせていただく、と本心で考えられるための道である。

つまりは、何にしても「道」である。
正解がない。
ただ、自分が、正しいと信じることを、淡々と行うしかない。
それが「変人」のように、後ろ指をさされても、である。

人が違う道を行っていても、後ろ指をさすことはしない。
その人にとっての道だからである。

「おしつけ」、即ち教育をする場合、その文化をある意味で「強要」することになる。
学級の40人、加えてその両親が、教師と同じ文化を共有しているはずがない。
だから、おしつけられない部分は、無理をしないことである。
掃除などは、「道」の類なのである。
よって「指導」が難しいのは、当たり前である。

異なる意見が出てきて当たり前。
絶対善が存在しない以上、反対が出ないなんて、有り得ないと割り切る。

そういう心持ちで、なぜ自分がそれをやるのか、理由を語れるようにはしておきたい。

2019年6月2日日曜日

雛鳥は親鳥に習って飛ぶ 

前号で、昭和や平成までの「べきねば」を捨てようということを書いた。
しかし、「そんなこといっても、捨てられない」という呟きがそこかしこから聞こえる。

それは、テレパシーでも超能力でもなくて、誰に聞いても同じ答えだからである。
一般の教諭はもちろん、かなりの権力のある、偉い立場にある方々に聞いても同じ答えが多く返ってくる。

「上が・・・」
「今までも・・・」
「それが当たり前」
「常識的に・・・」
「みんなそうだし・・・」
「わかるんだけど・・・」
「難しい」
「無理」
「時期尚早」
「様子を見てから・・・」
どの立場の人に聞いても、大体この類の答えである。

これを「同調圧力」という。
「みんなそろって」の精神である。
はみ出てはいけない。
どんなひどい目に遭うかわからない。
安全第一である。

しかしである。
籠の中の鳥は、自由といえるのか。
大空を羽ばたく力が本当はあるのに、飛べない。
安全かもしれないが、自由も挑戦も全くない。

ところで、子どもに対して、次のように言ったことはないだろうか。
「もっと自分から出て!」
「積極的に手を挙げて」
「やりたいことをやっていいんだよ」
「もっと自分の意見を言って」

そして、周囲に「うちのクラスの子どもは積極性もやる気もなくて」。
おいおい、と言いたくなる。
大人がそうなのだから、当たり前である。

子どもは大人の「鏡」である。
集団圧力に屈している大人に「習う」のである。

「習」という字の字義は
「雛鳥が翼を動かして飛び方をならう。」
である。(「新漢語林」より引用。)
そして習という字には「その通りにする」という意味がある。

雛鳥が自由に羽ばたけるようにならないとしたら、親鳥が羽ばく姿を見たことがないからである。
飛び方がわかる訳がない。

しかし一方で、野生の動物は、親がいなくてもそれらの動きができるようになるものも多い。
「本能」のなせる業である。

人の手が入ると、この本能が失われる。
動物園で生まれた動物を野生へ戻すのが難しいのと同じである。
余計な世話をし続けると、本能が死ぬ。

教育は、ある意味で本能を殺す作業である。
本能のコントロール方法を教えるのはとても意味があるが、必要な本能まで制御してしまっていないか。
例えば「みんなそろって」は、本能の姿ではない。
子どもは、みんな、個性的な存在である。
そして、私たちも、元子どもである。

何を恐れているのか。
ワクワクすることは、ドキドキするのである。
希望と不安は、セットである。
不安を抱くのは、うまくいくかもしれないという希望があるからこそである。
希望は不安という衣を纏って現れる。
不安の中身、本質は、希望である。

今年度、本当に自分がやりたいことは何なのか。
そのチャレンジする姿に、子どもも習うことがあるはずである。
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