2020年4月30日木曜日

時間と空間の裁量権を得て

G.W.である。

外出もできずに残念なことだが、代わりに、当たり前を見直す時間を与えられている。

今まで「大変だ」と言っていたことから遠ざけられ、逆に「欲しい」と言っていたものが強制的に近寄ってくる。

欲しかったものでいえば、例えば自由な時間。
時間の使い方の裁量権である。

学級担任の本来の日常は、スケジュールががっちり決まっている。
朝の会から放課後まで、時間割が決まっており、自分の意思で選択できる時間はほとんどない。
それを「忙しい」「大変だ」と思う。
実際、考える間もなく過ぎ去るような、目まぐるしい日々である。

しかしそれが今、動画作成やテキスト作りなど、たくさんのタスクはあるものの、全て自分の時間管理下で進めることになる。
これは自営業の方にとっては当たり前のことかもしれない。
しかし、学校の教員にとっては慣れない、かなり特殊な事態である。

大変なものでいえば、例えば生徒指導。
したくてもできない。
まず目のまえに子どもがいないのである。
逆に、ネット上のやりとりや、目の届かないところでのトラブルという、余計に見えないところで問題が起きる。
ここへの対策を取ることは必要だが、大変でもできれば生身のリアルなやりとりがしたいものである。

この騒ぎで、期せずして飛び込んできたものがたくさんある。
例えば、在宅勤務を命じられると、時間だけでなく空間まで使い方に裁量権が出る。
つまり、自分で仕事場所の確保もしなくてはならないということである。
いつも無条件に与えられていた教室や職員室の有難みがわかる。

子どもたちの立場からすると、3月から4月いっぱいにかけて「自由」な時間が大量に確保された状況である。
「自由」としたのは、単に自由というには何かと制限があるためである。

約2か月である。
夏休みでもないのに、夢にまで見た長期休みである。

それで、休校続きの子どもが有意義に、幸せに過ごせていたか。
テレビやゲーム三昧で、某アニメキャラのようにゴロゴロする日々。
一方、才能を磨いている子どもは、磨いている。

裁量権が与えられるというのは、高度な知性を必要とする。
知性の有無で、この時間を宝にするかドブに捨てるかという雲泥の差が出る。
これは、子どもに限らず、大人も同じである。

また、大切なことに気付ける面もある。

よくよく考えれば、「睡眠欲」など、自然に生きていれば何の努力もなく確実に満たせる欲求のはずである。
(睡眠は脳の機能であり、欲求ですらないという学説もある。)

在宅勤務になって、逆に人間らしい生き方になった人も、少なくないのではないかと思う。
習い事や塾通いのぎゅぎゅうスケジュールで眠れなかった子どもたちが、健康な生活になったという面もあろうかと思う。

一方で、社会に出られない窮屈さも感じられる。
ずっと家にいるというのは、社会的な生物である人間にとって、やはり退屈なものである。
学校や職場の有り難みが改めて感じられる。

今まで「大変」と思っていたものが急に失われた気分はどうか。
今まで「欲しい」と思っていたものが突如手に入ったが、その味はどうか。
失われた当たり前の価値がわかり、欲しがっていたものが意外と扱いが難しいということに気付けた。
また、当たり前の中の要らないものも見えた。

このピンチは、当たり前を見直す大きなチャンスである。

2020年4月28日火曜日

利他の精神が最も「利己」につながる

我利我利主義と利他の精神について。

「利他の精神」などというと、滅私奉公の立派なことを言っていると思われるかもしれない。
そうではない。
利他の精神は、突き詰めていくと最も大きな自分自身への「利己」になる。
「利己」としたのは、利己主義における「自分さえよければいい」という利己と区別するためである。
もっと純粋に、己にとって利するという意味である。

どういうことか。

学級が最もわかりやすいので、学級でたとえる。

Aという学級がある。
ここでは、みんなが互いに自分のことだけを考え、自分さえよければいいという考えの子ども(と親)が集まった学級である。

基本的な価値観は、勝利と賞賛。
基本は相対評価であり、集団内のある特定の価値基準において、他者より優れていることが勝者の条件である。

価値基準の一例を挙げると、学力(点数や評定)、技能(再現性)、外見、人気、友人の数、同質性、親の社会的地位や収入、などである。

一見「仲良し」のグループ内でも、笑顔の裏は常に疑心暗鬼で、「普通」「みんな」からはみ出ることは許されず、殺伐としたいじめやマウント争いが絶えない。

敗北や失敗は悪という世界である。
弱肉強食の獣集団、あるいは既定のプログラムに無思考で従えるのが優秀とみなされるロボット集団の住む世界である。

Bという学級がある。
ここでは、みんなが互いに相手のことを考え、どうすればみんなが幸せに過ごせるかという考えの子ども(と親)が集まった学級である。

基本的な価値観は、個性の尊重と調和。
基本は個人内評価であり、いかに以前より伸びたか、他者へ貢献できたかが成功の条件となる。

価値基準の一例を挙げると、学力(伸びや他者への教え)、技能(創造性)、個性、貢献度、思いやり、などである。

いつもつるんでいるわけではなく、個でいながらも必要な時には協力し、助け合うのが当たり前の世界である。

もちろん競争もあるが、勝者は敗者に手を差し伸べる温かさがある。
個性の異なる人と人とがつながり調和しあう「人間」の住む世界である。

利他であるということは、究極、自分自身が最も恩恵を受ける。
集団全員が利他に徹していると、他者から自分も大切にされてしまうからである。

たとえ自分だけが利他の精神の場合でも、集団でいい方に目立ってしまい、結局重宝され、大切にされてしまう。
それをねらうわけではないのだが、そうなってしまうというのが利他の精神である。

「競争」の象徴といえそうな、セールスマンですらも同じである。
最も売れるセールスマンというのは、決して売り込みまくる人ではないという。
お客様のことを真剣に考え、お客様の幸せを優先するなら他社を紹介することも辞さない人である。
(自社の商品が悪いというのではなく、食品や化粧品のように、個人に合う合わないというのがある。)

何なら、お客様の幸せのために、商品と全く関係ないことのお世話までしてくれる人もいるという。
実際、車のセールスマンなのにお年寄り宅の庭の草刈りを手伝ったとか買い物に行ってあげたとか、そういう話はごまんとある。
(この人は、相手が運転できないから車を買わないのも知っている。でも、結局息子とかを紹介されてしまうのである。)

そういう人には「次何かある時はこの人」となるのは、至極当然である。
こういう人は、セールスマンではなく、「サービスマン」なのである。
利他の精神に満ち溢れ、他者貢献が好きでたまらない人である。
どうやっても、他から求められ、大切にされてしまう。

ここで大切なのは「自己犠牲」にならないことである。
他者貢献と自己犠牲は、似ているようで全く違う。
他者貢献は、やりたくてやる。(主体的である。)
自己犠牲は、やりたくないけどやる。(自主的である。)
この違いは大きい。

学校教育で求められるのは「主体的・対話的で深い学び」である。
主体的というのは、心からの行為である。
いやいやでもやる自主的とは違う。

そして利他の精神、他者貢献を目指す行動は、主体的になりやすい。
自分のやっていることが喜ばれたり、自分の中で価値を感じたりしやすいためである。

利他の精神は、我利我利主義の不幸スパイラルから抜ける唯一の手段である。
競争も、利他の精神でやれば、内実は全く変わったものとなる。

今自分には何ができるか、考えてみることからである。

2020年4月27日月曜日

収束後も見据えてオンライン学習を取り入れる

学級経営において、そして教育において大切なのは、見通しである。
「それをやっていると将来的にどうなるか」ということへの見通しである。

ごくわかりやすい例で言うと「100点だから褒める」を繰り返すと、100点以外に価値を置かないようになる。
短期的には100点を取ることが増えるが、間違いを恐れ、人間の価値を点数や偏差値ではかるような人間に育つ可能性が高まる。
(参考記事:『「100点答案」を褒めると勉強嫌いになる』プレジデントオンライン)
https://president.jp/articles/-/22234

短期的視点以上に、長期的視点が決定的に大切である。
今嬉しい、今楽しい、今結果が出るということをしがちだが、長期で見てマイナスということは非常に多い。
しかし、そうはわかっていても、目の前の短期的利益に飛びついてしまう。

心理学で「マシュマロテスト」という有名な実験があるが、まさにこれである。
大多数は、後でたくさん食べられるより、今一つ食べられる方を選んでしまうのである。

今の騒ぎにおいても、長期的視点が大切である。
今をしのげばいい、という考えをしてしまいがちだが、ウィルスが収束しても世界が終わる訳ではない。
今と地続きで世界は存在する。
この騒ぎの間に、どういう行動をとっていたかは、その後の世界に引き継がれる。

自分さえよければいい、という姿勢をとっていた後に、放っておいた苦しんでいた人と仲直りするのは、難しいと考えられる。
今最も苦しんでいる人のことを考えた対応が望まれる。

社会でいうと、今仕事ができずに困窮している人に、できることをする。
例えば消費の落ち込みによる廃棄食材などはインターネット上で出回っており、購入することで少しは助けることができる。

学校現場でいうと、虐待リスクが考えられる子どもへの対応は、急務である。
電話する、玄関口であっても家庭訪問するといったことは、行為は小さいが効果は大きい。
(学力への対応も大切なのだが、これは後述する。)

今はできないことに目を向けがちだが、今でもできること、今だからこそできることに目を向けることが大切である。

更に言うと、どういう未来を予測しているかでも、行動が変わってくる。

今のウィルス騒ぎが、いつ収束するかということと同時に、収束後の世界についての捉えも様々である。

1つ目の考え方は、以前の世界を取り戻すことから始める、という考え方。
傷を癒やしながらリハビリをしていくという、復興的な考え方である。

もう一方の考え方は、全く違う世界が始まるという考え方。
アオムシが蛹になった後に蝶になるように、全く別種の世界が始まるという、革新的な考え方である。

どちらを想像しているかで、今の対応が変わる。
学校でいうなら、再開後に今までの遅れを取り戻すと考えるか。
あるいは、再開後もオンラインを取り入れた全く新しい教育が始まると考えるか。

私は、後者の考え方の立場で動いている。
だから、今の状態で、再開後も生かせるオンライン教育の在り方を探るべきだと考えている。
オンラインで済むものはオンラインで行い、学校は対面による交流を中心とした学力をつける方向にシフトできるのではないか。
また、学習の個別化も進むのではないかと考える。

さらに、行事の在り方も精選されてくるだろう。
懇談会やPTA総会のような場の在り方も変えられる。
例えば、オンラインPTA総会は、あり得ないだろうか。
顔を突き合わせないと決まらないというものもあるので、全てをオンラインにはできないが、そうしてもいい会議はかなりある。

保護者との連絡帳でのやりとり、欠席連絡等も、オンラインであってはならない理由はない。

一方で、何でもかんでもオンラインで利便性を追求すればいいという訳でもない。
欠席の子どもが心配な場合、担任は電話あるいは家庭訪問すべきである。

つまり、オンラインとオフラインが対立するのではなく、共存する新しい学校教育が始まる可能性がある。

ところで、ここに関して、参考になりそうな資料がある。
本校が取り入れているMicrosoft社が出しているteamsというシステムの、導入の手引きである。
オンラインの導入を真剣に検討している学校も多いと思うので、参考までにそのPDFのURLを載せておく。
https://aka.ms/RemoteLearningK12

ちなみにこの手引書を作られた鈴木さんという方が、4/28 (火)11:30-12:30に、
『Microsoft Teamsを利用してこれから始めるオンライン授業のノウハウ』
というオンラインセミナーで講演をされる。
↓Empowered JAPAN 緊急ウェブセミナー特設サイト
https://www.empoweredjapan.com/

後に録画も配信されるそうである。
例えば校内研修などの一環でライブで視聴して、その場でチャットで講師へ質問を送るなどを行うのもありである。
(ちなみに、本校の情報担当教諭のおすすめ方法である。)

いつ収束するかが、全く見えない。
一方で、収束した後を想像することはできる。
そのために、ただやり過ごすのではなく、今できること、今後もできそうなことをやる。
今は変化への準備期間として、大切に過ごしたい。

2020年4月26日日曜日

無自覚の潜伏期間の恐ろしさ

今回のウイルスの脅威がかなりの長期間、おさまりそうにない。
ウイルスそのものの存在意義や歴史について気になり、次の本を読み返してみた。

『文庫 銃・病原菌・鉄 (上) 1万3000年にわたる人類史の謎 』
草思社文庫 ジャレド・ダイアモンド 著 倉骨彰 訳
https://www.amazon.co.jp/dp/4794218788

この本に書いているのが、ウイルスというのは、生物と同じでどれも子孫繁栄のための策略をもっているということである。
特に拡大が爆発的になるのは、一般的な風邪やインフルエンザのように、咳やくしゃみを伴うもの。
いわゆる飛沫感染という策略である。
集団内に効率的に広がる。

さらに、突然大流行する感性症の特徴として、「進行が急性」という点がある。
一旦病状が出ると、短期間で感染者は死亡するか、完全回復するかというどちらかになるという。
そしてそのウイルスへの抗体を持ったものは、今後一生同じ病気にはかからない。
はしか、風疹、おたふく風邪、百日咳、天然痘などにも、共通の特徴であるという。
見返すと、今回のウイルスにも完全に当てはまっている。

以下は、本からではなく、私見である。
本ブログの中心テーマである、学級経営と関連すると考えて書く次第である。
(私は医療の専門家ではないが、その分野に関しては専門家である。)

病気の中で怖い、厄介だと思われる要素を、思いつくままに考えてみる。

1潜伏期間が長い
2感染力が強い
3病状が重い(致死率、後遺症等)
4治療法が見つかっていない、あるいは症状を緩和できるが根本的には治らない

今回のウイルスは、これら多くが当てはまる。
恐ろしい病気の筆頭であるがんは、ウイルス性ではないために、「感染力がない」という一点だけが全く違う。
感染力の有無は、社会的脅威においての重要な要素である。

そして今回最も厄介なポイントは、この「潜伏期間」である。
長引くのも、治療法が見つからないこと以上に、この潜伏期間によるものが大きい。
感染力という要素と潜伏期間が長くあるという要素の組み合わせは、非常に厄介である。

潜伏期間が長いと厄介なのは、感染後の自覚症状が全く出ないことである。
感染してすぐ発症し、病状が悪化するのなら、外へは広がらない。
その場合、感染した本人が気付き、日常行動をとれなくなるためである。

この「自覚症状がない」というのは、何事においても厄介である。
一見何もないように見えるので、症状が内部で悪化していることに気付けない。

ここが、教育、あるいは社会においてもいえることではないかと考えた。
一見すると、何もすぐに症状が出ないために、無自覚に取り入れ続けてきてしまったもの。
長期にわたって感染し広がり続け、ずっと後になって病状が出てきたもの。
あるいは、それに適応したもの。

潜伏期間は厄介である。
感染していることに気付けず、気付かず蝕まれ、広めてしまう。

2020年は、これまでの生活習慣をはじめ、あらゆることを見直す時期に来ているといえる。

2020年4月24日金曜日

感染拡大を防ぐ「脱・我利我利主義」

最近読んだ本と、最近考えていたこととがリンクしたので書く。

次の本からの気付き。
『村を育てる学力』東井義雄著 明治図書
https://www.meijitosho.co.jp/detail/4-18-063041-9

教育界の古典的名著である。
(手に入れるなら今、復刊直後のチャンスである。
普段だと、中古で1冊5000円は下らない。)
この本の中に、次のような記述がある。

あるご家庭で、我が子が使った教科書を、近所の下の年齢の子にあげたいと言った。
それをとても嬉しく思ったということをその子の母が次のような詩にしたのである。
詩の一部を抜粋して引用し、紹介する。
=================
(引用開始)
おとなは、
自分や自分のこどものことだけしか考えていないのに
こどもは
友だちのことまで考えていると思うと
はずかしいやらうれしいやらで
(引用終了)
==================

ちなみに、教科書は今では当たり前のように無償で供給されている。
これは「義務教育諸学校の教科用図書の無償に関する法律」で定められているためである。
文部科学省のH.P.によると、無償化されてからまだ40年も経過していないようである。
(参考 文部科学省H.P.)
https://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/kyoukasho/gaiyou/990301m.htm

この当時は違ったということである。
全体として、貧しい村なのである。
そして、そんな貴重な教科書を、我が子が他人にあげるという。
母は「うれし涙をにじませていた」というほどに嬉しかったという。
母子ともに、素晴らしい心である。

しかしながら、話はこれで終わらない。
この話には、曰く「書かざれる涙の後半」があったのである。

ここに、その家のおじいさんの鶴の一声が入る。
「うちのぜにで買うた本、人に貸さいでもええ。」

これである。
このたった一言で、この素晴らしい教育の機会は闇の中に葬られた。
まだ命を燃やせる機会のあったはずの教科書も、永遠に眠ったままである。

東井義雄はこの老害的言動を「我利我利主義」と批判している。
そして「これこそ、学校教育の壁でもあるのだ。」とも述べている。
このような経験が「村を育てる学力」といったものを考えずにおられなかった理由の一つだという。

要は、利己主義が結局集団全体をも殺すということである。
我利我利主義は、隣人にも集団感染し、最終的に自分自身の身をも食い尽くす。
ウイルスと同じである。

学校教育は、この時代から変わっているだろうか。
相変わらず、競争ばかりを煽り、点数や賞賛を追って、他人に勝つことを教えていないか。
それが、自分と家族さえよければいいという、利己的な人間を生み出してきていないか。
学校教育が変わらない限り、世の中の我利我利主義も変わらないのである。
このおじいさんの考え方も、学校教育を受けてきた一つの結果である。

ウイルス騒ぎが収まらない。
感染防止の大切な考え方は
「うつされないようにする行動」以上に「うつさないようにする行動」だそうである。
全員が「自分が感染しているかもしれない」という前提で行動をすることで、感染拡大防止につながるという。
そう考えることで、必然的に手洗いをしたり、換気を気にしたり、余計な人混みにでかけたり接触したりしなくなる。

つまり、自分さえよければいいという我利我利主義ではなく、常に他者視点、利他の視点で考えよということである。
(一方で、マスクの使用については、その効果や使い方に疑問符が出ている面もある。
何事も節度である。)

ウィルスによる分断の力は大きい。
当たり前のことが、当たり前でなくなっている。

しかしながら、これは当たり前だと思ってきたことの価値や恩恵を見直すチャンスでもある。
学校、学級という集団はどうあるべきか。
教育では、我利我利主義ではなく、自分を本当に生かせる利他の精神をこそ教えていきたい。

2020年4月23日木曜日

一年間の方針を決める

新年度、新しい学年にあたっての心構え。
経験上、担任、あるいは学年主任といった立場の話で書く。

同学年は、チームである。
単なる群れや集団と、チームには、明確な違いがある。

群れや集団は、同じ場に集まっているだけである。
一方、チームというのは、同じ目的を共有している。
この「目的の共有」ができるかどうかが、一年間の明暗を分ける。

ここは学年主任の腕の見せ所である。
学年主任の仕事について書いた本は市場に少ないので、私の親友の書いた以下の本がとても参考になる。
『学年主任の仕事術 学級経営も学年運営も上手にこなすコツ 』飯村友和著 明治図書
https://www.amazon.co.jp/dp/4183312205

しかし、学年主任に頼ってばかりではいけない。
学年主任の出した方針に対し、意見を言う権利も義務もある。
というより、学年主任の立場からすると、何か意見を言ってくれないと不安になる。
遠慮なく言うべきである。
もし言うと嫌がる、怒る、あるいは威圧するというような学年主任(あるいは管理職)であれば、適当に距離をとって適当に対応するのが吉である。
(残念ながらこの手の人間の性質は、よほどのことがないと変わらない。こちらが対応を変えるしかない。)

チームとは、文字通り一丸となって目的に向かって突き進むものである。
2019流行語大賞は「ワンチーム」である。
目的がブレてる、あるいは共通理解されて共有されていないようでは、到底「ワンチーム」にはなれない。

学級経営も学年経営も、チームプレーなのである。
決して個人プレーではない。
個人でスターになろうとしても、なれない。
周りの支えがあってこそである。

私はサッカーをやっているので、サッカーで例える。
どんなに優秀なストライカーであっても、ディフェンダーとゴールキーパーが頑張ってくれないと、そもそもハーフラインから前にボールが来ない。
ハーフが頑張ってボールを配ってくれないと、スルーパスも来ない。
よって、シュート以前の問題である。
全く活躍の場は来ない。

仲間があってこそである。
自分一人で何とかなるものではない。
学年はもちろんだが、事務室や給食室、用務員の皆様など、全てがチームの一員である。
それらの人々がいないと、成立しない。

それらすべてを統括するのが、全チームの総監督である校長である。
校長の方針から降りてきて、学年というチームが成立し、学級というチームが成立していく。
学校経営方針を無視した学年経営や学級経営は、あり得ない。

チームを考える時、大方針は何なのか。
そこの確認からである。

チームリーダーの立場であれば、メンバーに方針を示すこと。
これが最優先の仕事である。
学年主任から各学級担任へ。学級担任から子どもたちへ。
どの規模のチームでも同じである。

方針はどちらなのか。
これがあるから、自由に動ける。
大体の方向性だけわかれば、自由に動ける。
それぞれが東西南北バラバラの方向に散って行ってしまったら、チームとして機能しなくなる。
船長は宝島という目的を共有し、海賊船の方向性を示すのである。

まずは、方針の確定。
リーダーが原案を示し、それをチームメンバー全員で話し合うこと。
この時間を確保することが、チームの今後にとって何よりも大切なことである。

2020年4月22日水曜日

知識を消化吸収して技能と化す

学ぶことと実践することの断絶について。

今、たくさんの本を読んで勉強している人もいるかと思う。
特に今年、初めての担任や新しい学年をもつという人は、不安である。
だから、本をまず読むのが入口として常套手段である。

ただ、この本で読んだ知識を、実際に使うとなると、色々とうまくいかないこともある。
読んでよく知っているはずのに、できないということがよくある。

これは、知識の「消化」という過程を経ていないためである。
よく「読んだのですが、まだ消化不良で」という言葉を使うが、正にそれである。

知識というのは材料に過ぎない。
それを分解して再構築して、初めて自分用のものになる。
消化から吸収の過程である。
人体の仕組みと同じである。

食べ物の消化吸収に例えて説明する。

例えば「コラーゲン入り」と書いてあるグミなりゼリーなり健康食品なりを食べたとする。
何か身体にいい気がする。
お肌がプルプルになる気がする。
(そして、「身体にいい」という名目で、どんなに食べても何だかカロリーが相殺される気がする。)

しかし、冷静に考えると、そんな訳はない。

コラーゲン入りのグミのコラーゲンだけがそのままポンと体の一部になる訳ではない。
食べたものは、全て胃で消化されて、全く別の原料になってから身体の隅々へ行き渡る。
細胞となって人体の一部として入れ替わるまでには、更に長い時間を要する。
だから、同じ「コラーゲン」という物質が入っている食品であっても、どのような消化吸収の過程を経るものなのかで、効果は全く異なる。

知識も同様で、そのままでは自分のものとしては使えない。
消化吸収するには、使ってみることである。
やがて、その知識や技術はその人のもつ「技能」となり、文字通り血肉化する。
歩くように、呼吸するように、意識しないでも使いこなせるようになる。

また、知識自体の質も大切である。
先のコラーゲン同様、名前が同じでも品質が全く異なる。
本に書いてある知識や技術で言うなら、どのような根本的思想の元で語られたものなのかということが重要である。
例えば「人を騙す」「操作する」という根本思想のものが、子どもへの教育に相応しいはずがない。
それが血肉化した時、どんな自分になってしまうかということである。

逆にいえば、どんなに元が良いものであっても、読んだ本人の消化吸収の仕方次第といえる。
知識は、変化してどんなものにもなり得る。
知識を生かすも殺すも、本人次第である。

「ノウハウコレクター」と言われてしまう場合、この消化吸収ができていない。
知識だけが膨らんで、自分では使いこなせない。
更に、知識が増えるほど、失敗が怖くなるから、余計にできないという悪循環に陥る。

材料ばかり集めて放っておいても、在庫過多である。
早く調理して食べて自分の栄養にしてしまう方が得策である。

じゃあ本を読まない方がいいのかというと、とんでもない。
十分な材料がなければ、料理することも食べることもできない。
まずは材料を集めるところからである。

あることに熟達していると言われるレベルの人は、長い年月をかけてこの消化吸収の過程を繰り返してきている。
だから、もうどんな材料でも自分なりに消化吸収する技術がある。
変幻自在なのである。

まずは知識を得て蓄えること。
次にそれを技術として使うこと。
使い続ければ、やがて技能になる。

今、関東は桜が満開である。
桜をはじめとする春の花は、厳しい冬を越えて蓄えておいた力を、爆発させるように咲く。
つまりは、花を求めるよりずっと先に、地道に根を広く深く張っていくことが大切なのである。

次年度も、全国たくさんの教室で笑顔の花が開くことを願う。

2020年4月21日火曜日

低・中・高学年別 子ども集団の傾向

以前、「みんな」で捉えることの危うさについて書いた。
さらに「人は時に応じて正反対のことを言う」ということについても書いた。

よって、今回は、「みんな」で捉えることの有用性について書く。

「みんな」という生き物は存在しない。
一方で、傾向はある。
「傾向」とはgoo辞書によると
==================
物事の大勢や態度が特定の方向にかたむくこと
==================
とある。

その集団に特定の傾向があるというのは、100%ではないが、集団の構成員の複数がその性質を示すような場合を指す。
つまりは、一定の妥当性のある「ステレオタイプ」ともいえる。

例えば
「腕力において、平均的に見て、男性の方が女性より強い」
といった見方は、もちろん全員には当てはらまらないものの、平均値としては事実である。
オリンピック等を見れば、世界的に見ても明らかである。
一方で、重量上げの女性メダリストに一般的な男性が勝てるかというと、そんな訳がない。
あくまで平均的な話である。

平均的な話ではあるが、ものごとの集団的傾向として見るのには役立つ。
ざっくりな捉えの方向を間違えないために有用である。
(一方で、そこに当てはまらない個が確実にいることを忘れないのが鉄則である。)

学級経営について、経験則だが傾向がある。
こうすれば成功する方法ではなく、ここを外すと失敗する方法と考えると使いやすいはずである。

低学年の学級は、自由にさせすぎて失敗する。
集団傾向が元来自由な性質なので、最初だけきちんと教え導く必要がある。
特に技能を身に付けるべきところでいきなりやらせたら、滅茶苦茶である。
話をきちんと聞いてあげつつ、正しい方向にそのエネルギーが向くよう導いてあげる必要がある。
単なる群れを、集団、チームへ成長させていく必要がある。
「先生大好き」「うちの子、先生の言うことなら聞くんです」という時期である。
(ここで勘違いして、逆に異様に規律を強くすると、次年度以降で危険である。あくまでほどほど、中庸である。)

中学年の学級は、抑えすぎか自由にさせすぎで失敗する。
どこまで許容されるか、大人を試す時期である。
低学年の時と違い、一通りのルールや常識について共通理解している。
その上で、越えてくるのがこの時期。
これはいいけどこれはやりすぎ、というラインを教える時期である。
「丁度いい塩梅がいい加減」な時期である。
先生との関係と友達関係が半々という塩梅の時期である。

高学年の学級は、抑えすぎで失敗する。
自ら動いて変えていくという力を、最も意識的に伸ばすべき時期である。
中学年までで「忖度」的なものを身に付けすぎてしまい、動けなくなっていることもある。
周りの目を気にする時期であり、集団の中の自分の位置付けが死活問題なのである。(特に女子にこの傾向が強い。)
先生との関係よりも、友達との関係が最重要となる時期である。
つまり、先生という立場に、ルールの担保や安全確保といった保安的役割を求められる部分が強い。
あまりべたべたするよりも、大人になろうとしているのを認めて接する時期である。

この辺りの接し方については、拙著にも色々書いてある。
詳しく知りたい方は、読んで参考にしていただければ幸いである。

【参考】
◎『お年頃の高学年に効く!こんな時とっさ!のうまい対応』
https://www.amazon.co.jp/dp/4181406237
◎『ピンチがチャンスになる「切り返し」の技術』 重版10刷になりました。
https://www.amazon.co.jp/dp/4181907120

これらはあくまで「みんな」的傾向ということも忘れてはいけない。
低学年にもほとんど教えず自主性に任せる子どももいるし、いっぱい接して丁寧に教えてあげるべき高学年の子どももいる。
最終的には、あくまで個である。

さらに、個は集団によって変質する。
ある子どもがAの集団では引っ込み思案なのに、Bの集団ではリーダーということもざらである。
集団と個を分断せず、連動するものとして捉えていきたい。

2020年4月20日月曜日

「困難」から一年を振り返る

昨年度末にメルマガで書いた記事。
今の困難な状況について、書いたものである。


全ての出来事には意味があるという。
いいことも嫌なことも全てである。
(そもそも、いい悪いという判断自体が、事実ではなく、主観によるものである。)

今年度の学級経営を振り返る。
自分自身は、どうだっただろうか。

私の経験則による話であるが、きつかったことのあった一年間ほど、成長が大きい。
正直、私にとって、今年度の学級、学年は、「ボーナス」的な一年であった。
恵まれすぎた環境である。
だから、その分、外に困難を求めることができた。

かつて、ものすごくきつかった年もある。
かつて、ものすごく苦労した子どももいた。
ただ、振り返れば、それは「神様」からのプレゼントだったのである。

今、かなりの幅を対応できる。
それは、紛れもなく、神様からのプレゼントのお陰である。

今年一年の「困難」を思い返してみて欲しい。
それは、克服できただろうか。

実は、毎年克服してきたことが、次の年度から基準(普通)になる。
学級担任を例に挙げる。

次の事項への対応に、自分はどれぐらい「大丈夫」と思えるか。
・授業中に席につけずに動き回る子ども
・全く勉強する気のない子ども
・平均的にみて、学力の低い子ども
・平均的にみて、学力の高すぎる子ども
・衝動的に暴れ出したり、暴言を吐く子ども
・やたらと反抗的な子ども
・無気力な子ども
・話しかけても全然反応しない子ども
・いつも一人ぼっちになってしまいがちな子ども
・いわゆる「空気を読めない」「浮いてしまう」子ども

全部「大丈夫」と言える人は、恐らく十年くらいの経験はあるのではないだろうか。
更に、苦労しながら克服してきたのではないだろうか。

もし克服できなかった事項があるとしても、大丈夫。
また次、確実に来るのである。
神様は、克服するまで何度でも同じ課題を与えて、再チャレンジさせてくれる。
(嬉しいような嬉しくないようなサービスである。)

保護者との関係にもこれは言える。
同僚や管理職との関係にもいえる。
正直、かなりきついこともある。
しかし、全ては、人生における克服課題である。

大事なことは、成長することである。
そして、やられずに生き抜くことである。
途中でリタイアしたり逃げたりしても、生きている以上は、決してゲームオーバーではない。

今年が何とか終わったなら、とりあえずこの章はクリア。
新たな課題に挑戦にせよ、同じ課題にリトライにせよ、とにかく次のゲームスタートである。

ともあれ、多くは今週が修了式である。
喜びも試練も与えてくれた「神様」たちに感謝して、今年度を終わりにしたい。

2020年4月19日日曜日

どちらが正解か、どちらも正解か

よく何かにつけて「どっちが正解ですか?」ときかれる。
これは、本質的には、大抵の場合、どちらも正解である。

例えば
「黙って話を聞く」と「周りと話をしつつ聞く」
は、どちらが正解か。

一般的には前者だと思われるかもしれない。
とても重要な話をする時などは、そうである。
しかし、例えば結婚式の宴の途中のお祝いスピーチの場面を想像する。
スピーチをお願いされた立場からすると、聞いている人も、知らない人だらけである。
あまり集中してしーんと聞かれてても、話しづらい。
そのまま飲食を続けつつ、わいわい反応してくれている方が圧倒的に話しやすい。

教育メルマガなので、学級で考えてみる。
これは「黙って聞く」に軍配が上がりそうである。
しかしながら、これもレベルがあって、どういう学級かによる。
普段からよく聞く力があって、話者がほどよい雰囲気の中で話せるのであれば、黙っていることが必ずしも正解ではない。
一方で、聞く力がついておらず、「バラバラ発言事件」頻発の学級であれば、黙って聞く指導がまずは第一である。

つまり、ほとんどの場合、あらゆることについて、万能の正解はないのである。
「叱ってはいけない」「褒めた方がいい」「怒ってはいけない」というが、これも場合によりけりである。

物事には、常に正反対の論理が存在する。
同じ人が真逆のことを言うこともある。
本来、それでいいのである。

古来から、賢人は、わざと前と逆のことを言う。
「ではどちらが正解なのですか」と弟子がきく。
その超越した解を聞いて、弟子は納得する。

哲学は常にそれである。
例えば「生きる」を考えるのには「死ぬ」を考える必要がある。
「死は忌まわしいもの」「目を背けるべきもの」という前提に立ってしまうと、生きるということの意味がわからなくなる。
どちらが正解とかではない。
両方必要なのである。
そのわからなさが嫌だという人もいるが、それが真実なのである。

中庸である。
どちらもある。
そのバランスをとる。
あるいは、極端をとって、もう片方の極端も認める。

何かと絶対解を見つけたくなるが、中庸こそが大切と考える昨今である。

2020年4月18日土曜日

勉強は何でするの?

今、子どもたちに、家庭学習の時間がたっぷりある。
こういう時こそ、本物の勉強のチャンスである。

与えられた課題を待っているより、自分で見つけて取り組む方が、当然上等である。
大した宿題もない今こそ「大好きな〇〇」についての勉強チャンスタイムである。
たとえインターネット環境がなくても、図鑑一つで、家の中でもできる。
幼くても、志のある子どもは、こういう機会に勉強をしている。

さて、これは大人にこそいえる。
勉強は大切である。
言わずもがなである。
だから「勉強しなさい」と言う。

それに対し、子どもに「なんで?」と聞かれたとする。

どう答えるか。

「将来必要だから」系では、子どもは納得しない。
子どもは「今」に生きているのである。
大人のように、老後の死ぬ間際の心配までするような思考回路の構造ではない。

「何で勉強するの?」

これに親や周りの大人が答えられない以上、目の前のだらだらしている子どもが自ら勉強をやるようになることはない。
(放っておいても、将来的に気付く子どもは自分で気付く。
気付かない人は、大人になっても気付かない。)

勉強をする理由については、様々な偉人・賢人が述べている。

私が好きな言葉は、作家の中谷彰宏氏の言葉である。
「勉強していないと、見えるものも見えない」
「知識が0の人と100の人は会話にならない。1あれば会話になる」
というもの。

賢人バルタザール・グラシアンも
「知識がなければ、この世は闇だ」
と述べている。

要は、知識があるからこそ、見えるようになるということである。
(逆もあるが、長くなるのでここでは深入りしない。)

雨が降っている。
それを「今日はしやしやと降っていますね」と表現するのは、日本語を知っているが故である。
「霧雨ですね」「小ぬか雨ですね」と返せるのは、言葉を知っているからである。
言葉の豊かさが、感性を規定するという面がある。

絵を見る。
ある人は「絵が上手」と思って終わり。
ある人は、その作者の作品をたくさん知っていて、比較して鑑賞することができる。
見えるものが、全く違う。

知識が、知性を生む。
知性とは、人間の人間たる証である。
勉強は、人間として生きていく上で、とてつもなく大切なのである。

勉強しなさい。
言われてやることほど、つまらないものはない。
子どもは、大人が勉強しているのを見て、真似したくてするものである。
(もし親が勉強嫌いなら、もう我が子がやらないのを認めてあげるしかない。)

勉強は、知への欲求行動であり、始まったら止められない。
勉強は、すればするほど知らないことが増えて、すればするほど楽しくなるものである。

2020年4月17日金曜日

本物の自信をもった子どもの育て方

自信をもつということの本質的な大切さについて。

「子どもに自信をもたせよう」という。
実は、これが教育において最も大切なことである。
ただ、これが曲解されていることが結構ある。

「〇〇ができる」自体が自信をもたせることと考えると、ここを間違う。
それは、競争原理によって担保されるものであり、自信の一部でしかない。
ゼロサムゲーム、勝ち負けの世界である。
そこだけ見ると、優れた私と劣ったあなた、あるいはその逆という思考法になる。
何かの選抜になったとか、どこそこの有名校に入ったからすごいとかいう一般的かつ下衆な価値観の持ち主に育つ。

「私は〇〇ができる」は大切なのだが、それはあくまで社会に貢献する力だからこそ、社会的に価値があるのである。
どんなに速く走れても、どんなに英語が堪能でも、どんなにピアノが得意でも、それが社会にとって何の役に立つのかである。
社会の役に立たないのならば、それは大好きなゲームの中におけるレベルアップやクリアと変わらない。
自己満足するし楽しいし嬉しいけど、それだけのものである。
完全に趣味の世界である。(それはそれで、自己の内部においての価値はある。)

「私は〇〇ができる」をそこからどう導くかが、自信をもたせる教育の本質である。
それを生かして、人を喜ばせることができる場にもっていく。

極端な話、ゲームが得意というようなことだって、その攻略法を公開すれば、同じゲームをする他の人のためになって感謝される。
今では、YouTubeで動画をアップすることもできる。
それで誰かが元気づけられたり、勇気づけられたりするのであれば、社会的な価値があるといえる。
(逆のものも多いのは、悩ましいところである。)

「私は○○ができる」は同時に、「私は△△ができない」を明白にする。
つまり、「私には△△ができるあの人が必要」と自覚できる。

職能的に言えば、建築家と農家とコンピュータープログラマーは、一人の人間がやれることではない。
無理をすればやれるかもしれないが、専門家が3人別にいて、互いの職能を提供した方が圧倒的に効率も質も良い。
これが、役割分担がなされる「社会」の形成原理そのものである。
(教師はこの辺りで失敗しがちである。何でも屋を求められる故に、線引き、外注が苦手である。)

つまり、自信をつけるとは、相互扶助、個性尊重の精神を養うことにつながる。

そして「〇〇ができる」は、技能そのものとも限らない。
例えば「あなたがいると何かふわっとした気分になる」「何か元気になる」というような存在感の人がいる。
もう、この存在感自体が価値である。
これは、自覚さえできれば、最も根本的で強力な「絶対折れない自信」になる。

ちなみに、心理学の世界では、これら2種類の自信には別々の名前がついている。
「〇〇ができる」の方は、「セルフエフィカシー」といって、「自己効力感」というように訳される。
存在に価値があると感じられる方は「セルフエスティーム」といって「自尊感情」や「自己肯定感」というように訳される。

どちらも大切である。
社会的には、セルフエフィカシーが高ければ、重宝される。
一方で、セルフエスティームが高ければ、自分自身に優しくなるので、人にも優しくできる。
どちらも、社会で生きていく上で必要ということになる。

では、現在の教育において、どちらが足りていないか。
これは、やはりセルフエスティームの方である。
何ができるとかではなく、あなたの存在自体に価値がある、と伝える方に注力すべきである。

これは、自然には身に付かない。
幼い時は天真爛漫なので無邪気に信じているのだが、成長の過程でどんどん失われる。

とにかくたくさん競争させ続ければ、勝てば官軍負ければ賊軍の原理が働く。
セルフエフィカシーの方は、勝てば一時的に上昇し、負ければ当然これが下降する。
セルフエスティームの方はというと、どちらにせよどんどん下降する。
「勝たない自分には価値がない」ということになり、精神的に常に危険に晒された状態になるからである。

勝ったり成功したりすれば褒める、負けたり失敗したりすれば叱る、ということを繰り返せば、これが加速する。
さらに「あなたにできるわけないでしょ」の一言で、両方の自信が地の底まで失われていく。

本当に自信のある子どもを育てている親は、やり方が違うのである。
幼い頃から「あなたは価値がある」と同時に「あの子も価値がある」と教育していく。
だから、我が子と同じクラスの他の子どものことも、尊重している。
当然、子どももそういう思考法になる。
そんな中で他者と競争をすれば、勝っても負けても相手へのリスペクトの気持ちをもつ。(武道の本質である。)
自信をもちつつ、他人を思いやる子どもに自然になってしまう。
これは止められない。

さらに「親である私にも価値がある」ということを、背中でも見せていく。
そこに、親子という立場の上下はあれど、人間としての上下関係がないのである。
尊大にも卑下にもしない。
親から子に対して、リスペクトの精神がある。
(子が親に対してそうなるのには、やや時間がかかる。幼いからである。
特に中学などの反抗期には、一旦諦めてスルーである。)

つまりは、子どもに自信を持たせる教育には、大人の側が本物の自信をもつという前提が必要である。
その時に必要な自信は、セルフエフィカシーよりも、むしろセルフエスティームの方である。

自信のある親や教師は、どういう姿、行動をとるべきか。
混乱期の今こそ、自信のある背中を見せて生きていきたい。

2020年4月16日木曜日

自分の頭で考える

ウィルスに関わる世界中のデマがすごい。
日本ではトイレットペーパー騒ぎが記憶に新しい。
アメリカでは、アルコール消毒代わりにウォッカが効くというデマが出回ってたという。

咳をしただけ、あるいは特定の国の人というだけで、犯罪者のような扱い。
さらには感染とは全然関係ない人がデマの被害に晒され、名指しで批判されている。
(関係があるとしても、批判している人には全く関係ないことである。)

人権侵害も甚だしい。
まさに言語道断である。
戦争中の混乱とほぼ同じである。

どうしてこうなるのか。

ずばり、自分の頭で考えていないからである。
他人の頭で考えたことを、鵜のみにしているからである。

この便利すぎる世の中において、「自分の頭で考える」ということが、習慣から消えているのではないか。
一時期、人間がAIに乗っ取られるということが話題になっていたが、つまりはこういうことである。

今は道案内一つとっても、機械がしてくれる。
それによって、自分の頭で道を覚えなくなった。
電車の乗り換え予定はアプリが教えてくれるから、提示された選択肢から選ぶだけで、時刻表を読む必要も考える必要もない。
自分自身を振り返っても、これらのことは例外ではない。

何も考えなくても、ネットニュースが情報を瞬時に伝えてくれる。
「専門家」の意見も最新で手に入る。
「専門家」のものが「みんな知ってる」という「常識」に早変わりである。
(やたらと「 」を多用しているのは、それが本来の意味からすると、誤用だからである。)

「みんながこう言ってる」というのは、大抵怪しい。
怪しいというより、嘘である。

教師の立場の人ならわかると思うので、思い返してみて欲しい。
子どもの「クラスのみんなに悪口を言われる」という相談の99%は、その子の属す三人組の中の一人か二人からの悪口である。

ある保護者に「みんなこう言ってます」と言われた場合、99%がその人ともう一人程度の意見である。
(本当に気合いの入った人は、あくまで「私の意見」として正面から堂々と伝えてくる。)

要は、二人以上の意見は「みんな」になる。

そして専門家の意見は、一発で「みんなの常識」になる。

このウィルス解決の道標を示してくれる専門家は、現在いないのである。
みんな必死に研究してくれていて、何とかしようと試行錯誤中である。
だから、これら誠実な研究者の方々に、今現在、我々民衆が助けを求めても、どうにもしようがない。

上が頼れない、専門家不在となると、混乱する。
何が起きるか。
マスメディアを中心とした、デマゴーグを流すにわか情報屋、商人や詐欺師にとってのチャンスである。
ここに現在はSNSの負の面が強力に作用する。

これに我々民衆は、コロッと騙される。
「溺れる者は藁をもつかむ」からである。
マス(大衆)メディアは、人心操作そのものこそが専門である。
混乱期には、非人道的で滅茶苦茶なことでも、刷り込むことができる。
日本は、戦争の経験からも、よくわかっていることである。

マスメディアは、「流行」を普段から意図的に作っている。
流行アニメや映画、アイドルを売り込むのもお笑いの一発ネタを子どもまで広めるのも、タピオカミルクティーを流行らせるのも、メディアである。
普段から「オトク情報」「美味しいもの」「楽しいもの」を提供してくれているから、民衆のメディアに対する警戒心の壁は相当低い。
実際、いいものも相当数含まれているから、そうでないものと見分けがつかない。

特に「みんな」に受け入れられて売れているものや、感動するものは、無条件に「良い」という視点をもちやすいので、要注意である。
子ども時代から当たり前として受け入れているから、裏にある意図や商業的な真のねらいに気付けない。
流行の真っ只中に一緒に流されていると、自分の立ち位置が見えない。

自分の頭で考えていないのである。
「みんがいい」というものは、正しい、価値があると信じ込んでしまう。
Google検索で上位に来たものはいいし、ランキング上位のものがいい。
人気投票で上位に来たものは全て優れている。
ブランドものだからいいものだ。
あの著名な人が言ってるのだから間違いない。

結果、一極集中で攻撃したり行列ができたりする、昆虫かあるいは動物の群れと同じ動きになる。
「みんながやっているのだから間違ない」のである。
これは人間の動物化というべきか、逆に機械化というべきか。
いずれにしろ、人間の人間たる部分から遠ざかっていることは間違いない。

自分の頭で考えるのである。
学校教育で最も強調していることである。
しかしながら、実態は、自分の頭で考えるよりも、誰かの頭が考えた正解を探り当てる力をつけているようである。
忖度という言葉が流行するぐらい、上司や人目ばかりを気にして生きる社会人を、せっせと育てている現状がある。

自分の頭で考える。
何でも無条件に言うことをきく「お利口さん」を育てても、これはできない。
かといって、何でも自分のことしか考えない自分勝手な人間にしても、「買占め行為」のようなことになってしまう。

子どもには自己選択・決定権を与えつつ、自分と社会の両方の幸福を考えるように教育していく必要がある。
宮沢賢治の「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」の言葉の通りである。

自分の頭で考える。
言うは易く、行うは難しの、重要項目である。

2020年4月15日水曜日

学級経営の肝「下手うちをしない」

学級経営について。

学級経営に限らずだが、何事も「下手うち」をしないことが成功の大原則となる。
基本的には「樽の原理」が適用される。

樽の原理とは、次のようなことである。
樽の中の一枚だけが低い(上部が空いている)とする。
すると、そこから中身が全て流れ出し、中身は一番短い樽木の高さまでの量になる。

ビタミンやアミノ酸の摂取可能量は、この原理で考えるとわかる。
例え一つの種類でも足りないものがあれば、他の成分がどんなに豊富にあっても、そこまでしか摂取できない。
製品の中の一つの部品のみが極端に足りないようなもので、それだけで残り全てが製品として成り立たない。

再三述べているように、学級経営においては、必ず上手くいく鉄板の方法というのは、ない。
一方で、上手くいかない方法なら、かなり汎用性がある。
「これをやれば高確率でアウト!」というものである。
下手うちである。

『切り返しの技術』でも『高学年』も、そこが一番の「売り」であり読んで欲しいポイントである。
参考:『お年頃の高学年に効く!こんな時とっさ!のうまい対応』
https://www.meijitosho.co.jp/detail/4-18-140623-3

何が「下手うち」なのかがわかれば、それをやらなくなる。
例えば、「馴れ馴れしい」「乱暴な言葉遣い」というのは、下手うちになりやすい。
これは、今学校に来られないせいで主流となりつつある、ネット上で用いる言葉でも同様である。

親しみと馴れ馴れしさを混同すると、特に低学年では指導が通らなくなる。
乱暴な言葉遣いは、威圧ととられやすい。
雑な言葉遣いは、雑な扱いをされているととられやすい。
高学年女子への男性教師の「〇〇ちゃん」という呼び方も「キモい」(使いたくない言葉だが、実際こう言う。)ラインに引っかかりやすいので、多くの場合アウトである。

誰でも必ずしも当てはまる訳ではないが、これらは「高確率」なのである。

また高確率でなければ大丈夫という訳でもない。
アウトとなる対象が「たった2割」の行為があるとする。
8割の子どもは大丈夫な訳である。
しかし、これらの行為が複数、例えば3つある人の場合、
0.8×0.8×0.8=0.512である。
つまり、約半数近くの人が「アウト」と感じることになる。

そうなると、何が下手うち行為なのかということが気になる。
実際、下手うちになる行為を挙げるときりがない。
こういう雑多なことは、原則を考えて大まかに押さえておけばよい。

一般的にアウトになりやすいと思われる傾向のある行為の原則を考えて羅列してみる。
・子どもをなめている、見下している
・過度に支配的、管理的、操作的(この場合、表面的には反発してこない。)
・閉鎖的
・結果主義、点数主義
・差別的
・不機嫌
・媚びる、阿る
・やたらと叱る、怒る
・おどおどしている
・方針がわからない
・年齢や経験に不相応な勉強不足、技術不足

要は、理想的なリーダーの逆の行為である。
中には昭和的な「めちゃくちゃ怒鳴り散らすけど尊敬できる」みたいな人もいるにはいるが、ついてこられる人の方が例外である。
一般的な子どもを預かる立場としては、あまり理想的とはいえない。

いつも通りだが、逆を考えればうまくいきやすい。
・子どもに対してリスペクトの気持ちがある
・オープン
・ルールを保障しつつ、必要な自由も保障する
・学習の過程を重視する
・平等(ただし何でも「皆さんご一緒に」の悪平等ではない。)
・上機嫌
・凛としている
・穏やか
・堂々としている
・方針がはっきりしている
・よく勉強し技術を磨いている

まあ、書けば「それはそうだが、それができないから苦労している」というようなものばかりでもある。
それでも、それが理想型なのである。

万人に好かれる必要のない職業では、ヘイトスピーチや過激な発言が有利に働くこともある。
例え一部を完全に捨てても、一部の強烈な支持者を得る方が有用だからである。

しかし、担任教師の仕事は、一人たりとも捨てることはできない。
強烈な支持者を得ることも大切だが、強烈な反対者がいることのマイナスの力の方がはるかに大きい。

だから、なるべく下手うちを知って、それをしないこと。
ここに注力するのが、いわゆる学級崩壊等を防ぎ、万人に対応できる学級経営の肝である。

2020年4月14日火曜日

「ノミの天井」リカバリー

6年以上前になるが、「ノミの天井」という話を紹介したことがある。

参考ブログ:教師の寺子屋「ノミの天井」
http://hide-m-hyde.blogspot.com/2013/11/blog-post_27.html

ここに関連して、面白い話を先日きいた。
何と、このノミの天井状態から、復活する方法があるという。
以前紹介した「励ます」とは別のアプローチである。

もはや自分には虫かごの天井以下までしか跳べないと完全自信喪失状態のノミA。
彼を本来の自分へ回帰させる出来事とは。

それは、ノミBとの出会いである。
ノミBは、脅威の跳躍力の持ち主。
自分の身長の150倍もの高さまでジャンプする。
人間に例えるなら、軽々都庁を飛び越えるほどの跳躍力を誇る。
こういうとすごいように聞こえるが、ノミ界ならごく一般的な、いわゆる普通のノミである。

このノミBと共同生活させる。(もちろん、天井なしの環境である。)
ノミBは、普通にびょーんと跳ぶ。
ノミAびっくり。
ノミAは試してみるが、跳べない。
「やっぱり自分はダメなんだ」
落ち込むノミA。

そんなノミAの悩みも知らず、普通に跳びまくるノミB。
何ならノミCとかノミDとかも入れてみる。
(書いてて痒くなってきた。夏場でなくて良かった。)

ある日、ノミAは無数のノミ仲間と一緒に遊んでいる内に、自分がいつもよりだいぶ高く跳べていることに気付く。
ノミAは思う。
「あれ。自分も跳べるんじゃね?」
かくして、試してみたら、跳べる。跳べた。びょーんといけた。

まさに「クララが立った!」の瞬間である。
要は、自己催眠をかけていた訳で、元々その能力自体は身体に備わっていたので、当然といえば当然のことである。
(同様に「疾病利得」がある場合も、無意識に身体能力等が制限されることがある。)

ここのポイントは、ずばり「仲間」である。
人間も、どんな仲間に囲まれているかで、自分の能力を規定するところがある。
進学校に行ったら毎日数時間勉強するのがみんな当たり前だし、部活動の強豪校へ行けば、厳しいトレーニングもみんな日常である。
それを普通にこなす人間がいる。
そうすると、自分もできる気がしてくる。

小学校などでも同様の現象は起きる。
なわとびがわかりやすい。
体育で、誰か一人が二重跳びを成功させると、次々にできる子どもが続出する。

ちなみに現任校では、前年度、はやぶさのような高度な技を平気でビュンビュンやる子どもが何人もいた。
三重跳びをする子どもまで出てきた。
一年生で前跳びの1回旋1跳躍の「よちよち歩き」から始めた、二年生での出来事である。

これは、物凄い勢いで練習する先駆けの子どもたちが存在したためである。
「○○さんができるなら、自分もできる!」と思い込み、集団が次々とできるようになってしまったのである。
潜在能力と思い込みの力、恐るべし、である。

自分の本来もつ能力を引き出すには、仲間。
これに尽きる。

さて教育にはもちろんだが、これは大人にも当てはまる。
自分は、どんな仲間、人に囲まれているか。
「人間」の言葉の指す通り、誰と過ごすかは、人生を規定する大切な要素である。

2020年4月13日月曜日

手洗い指導を見直すべし

今回は、正月三が日に投稿した「リスクマネジメント」の話と関連して。

再度紹介するが
投資におけるリスクとは「想定外の振れ幅」
のことである。

この考え方は、投資以外のリスクマネジメント全般に役立つ。

今回のウイルス騒ぎは、まさに「リスク」の塊である。
新型であるために正体不明で謎が多く、何が起きるか想定ができないからである。
実際、潜伏期間が2週間という厄介な性質ももっていて、これがさらに想定外の事態の振れ幅を大きくしている。

投資であれば、リスクに対抗する手段として、一番は手出しをしないことである。
つまり、無用の危険の可能性が感じられることには近寄らないに限る。

かの野口英世は、当時謎の病原菌である黄熱病のウイルスと闘って亡くなった。
これは、リスクをとってでも謎を解明しようという医師の、特別な英雄的姿勢である。

一般人であれば、これらのリスクから遠ざかるに限る。
つまり、ウイルスに触れない、そしてばらまかないことに尽きる。
自衛こそが、直接的な他者貢献になる。
きちんと手洗いをするのは、自分のため以上に、他者のためでもある。

ちなみに駅のトイレなどで見るのだが、信じられないことに、大人でも普段から手を洗わないで出る人が実は結構いる。
知ると怖い真実である。
これは、家庭教育と学校教育の失敗の結果ともいえる。

普段から学校でも、トイレの後に手を洗わないのは「犯罪的行為」と教えている。
これが、冗談ではなく真実味を帯びてきているのが昨今である。

保健分野における公衆衛生の指導は、普段から養護教諭が最も熱心に行っている。
今回の騒ぎは、学級担任が保健指導を見直すチャンスでもある。
ピンチの時だからこそできる指導を心がけていきたい。

2020年4月12日日曜日

「言われたらすぐ」から「言われる前にせよ」

「武士道に学ぶ子育て」シリーズ。
今回は、中でも特に一番心に響いた話。

講師の石川先生は、武家の娘として、お手伝いをかなり小さい時からさせられたという。
これは、水戸の松平家も同じだという。
雑巾がけ一つにも、怖い教育係がついている。

子どもも生活の中で「労働力」として加算されるのである。
これは、自分の必要感へつながる。

言葉でなく、活動を通じて実感することができる。
「あなたはかけがえのないもの」ということを言うよりもわかるという。

同じく、子どもに、自分たちの使ったものをきちっと片づけさせる、きれいにさせることは大事である。
良いことは、教えてすぐに実践させる。

ちなみに、「~させる」という言葉は好きではないが、最初の一歩はやはり「~させる」である。
いきなり主体的に行うようにはならない。
(それができれば一番楽ではある。)

「言われたらすぐできる」ができるようになると、次はレベルアップを要求する。

母親にはガミガミ言われなかったという。
一方で、静かに「もうわかるでしょ・・・」と言われる恐ろしさがあったという。

例えば「新聞を郵便受けに取りにいく」というような簡単な仕事も、最初は言われて行っていた。
最初の頃は毎日
「夕刊とってちょうだい」
と言われ、
「はい!」
と返事してすぐに取りにいったという。

しかし数回やって、同じ時刻に言われるのを待っていると、ある日母親に
「・・・何やっているんですか」
と言われたという。
要は、もうわかるでしょう、ということである。
これが「主体的」の前のステップである「自主的」を求めるという段階である。
(好き嫌い関わらず、やるべきことだからやる、という段階である。
「主体的」は、やりたくてやる、周囲に止められてもやるという最高レベルである。)

この話には、学級経営に応用できるものがたくさん含まれている。

掃除や係について。
きちんと教えてやらせないというのは、子どもの成長を奪っているといえる。
そして「あなたがいないと困る」というメッセージになる。

また、子どもが教師にいつまでも言われてやっているようでは、話にならないということも同様。
やがて教師がいなくてもやっていける状態を目指し、指導していく。
「これまでの指導を必要としない人間にする」というのが目標である。
そして常に子どものレベルアップを求めるために、こちらの要望レベルは徐々に上げていく。

厳しさと優しさ、愛情。
これらは、共存するものだというのが、日々の実感である。

2020年4月11日土曜日

武士道は、型にはめられるところから

「武士道から学ぶ子育て」の石川真理子先生からの学び。

武士道は、型にはめられる。

これだけきくと、今の世間的にはマイナスイメージである。
しかしである。
これは、物事の基本を学ぶという段階において、大変意義深いことである。

バレエでもピアノでも全て同じ。
型を身に付けることによって、個性が出てくる。
型を押し付けることによって、個性が際立ってくる。

実は、個性を伸ばすための武士道教育だという。
尖っている部分をより尖らせる教育藩校の武士教育では、才能のありそうなこと、得意なことを習う。

これは、裏を返せば「凹みも際立つ」ということである。
その集団の中での、自分の凹みもわかる。
すると、補い合うことがより必要になる。
凸の出番である。
凹があるからこそ、凸も生きるというものである。

ここで気付いた。
せっかく尖らせても、凹を埋めようとすると、尖りが弱くなる。
つまり、対比、ギャップである。
短所の凹みが大きいほど、長所の凸が生きるという面がある。
下手に凹を埋めないことである。

いわゆる短所と思われるものも、すべて特徴である。
与えられた才能を、生かし切ること。
頂いた魂をどう燃焼させるかというだけである。

個性伸長と型は、相反するものではないということ。
武芸における「守破離」の段階は、やはり大切と感じた次第である。

2020年4月10日金曜日

新年度の不安を和らげるには

新年度への不安を抱える人のために。

大学院の研究と関連して、教師のストレスや同僚性について研究している。
そうすると、それらの関連研究をたくさん読む。
色々と読み進めていくと、面白いことがわかった。

教師のストレッサーについての研究がたくさんあり、次のようなことがわかっている。

小学校教師の悩みの原因の一番は、子どもとの関係に関すること。
子どもを教える仕事なのだから、当然である。
一方で、ストレスを取り除くための第一要因は、同僚や管理職との関係性。

つまりは、ストレスなく働くには、二つの内のどちらかに対処すればよい。

一つ目は、ストレスの根本原因への対処で、学級経営能力自体の向上。
しかしながら、この能力の向上には時間がかかり、結構難しい。
ある程度の経験年数が必要になる。
初任者の頃から学級経営がうまくいったという話は、きいたことがない。
何十年経っても、日々修行中である。

もう一つは、ストレス耐性の向上で、同僚性を高める方向。
これは取り組みやすい。
とにかくコミュニケーションをとることである。

後輩なら、先輩に教えを乞いつつ、自分のできることを一生懸命にすること。
どんな人でも、そういう後輩に対しては、否が応にも面倒を見たくなる。
自分の先輩にあたる人のことが嫌い、あるいは嫌われている気がするというのは、ストレス対処としては致命傷になる。

自分が経験等で上の立場であるならば、気にかけていることを伝えること。
こちらから気軽に声をかけること。
本人の性格や経験年数によっては、あまり干渉されるのは嫌がるので、その辺りは注意が必要ではある。
同僚のことなど知ったことではないという姿勢は、同僚の学級が荒れる原因となり、ひいては自分自身にそのしわ寄せが及ぶ。

こういうダメな姿勢は、自分の学級自体にも悪影響を及ぼす。
同学年の先生を馬鹿にしたり見捨てたりしているような担任の先生を見て、子どもは何を学ぶか。
子どもは、担任同士の姿勢から、自分たちの仲間へのコミュニケーションの方向性を学ぶ。
当然、自分の学級の子ども同士も、陰口を叩いたり、無関心を決め込んだりするようになる。

つまり、新年度の不安を和らげるためには、自分の準備はもちろんだが、同僚性命なのである。
異動してきたり復帰してきたりする人がいるのならば、当然迎え入れる側が主に助ける立場である。

こんなことを言うのも何だが、初任者の学級は、どうせ「うまく」はいかないのである。
初めてのことへの挑戦なのだから、紆余曲折するに決まっている。
この辺りの「あきらめ」=「明らかに認める」という姿勢が大切である。
初任者は、その上で、全力を尽くすのである。
実習生の初めての精錬授業への心構えと同じである。

だから、初任者の学級でうまくいかないことがあったら、先輩の出番である。
「そんなことは当然織り込み済み」ということで、何があっても(とはなかなか言えないかもしれないが)喜んで助ける。
自分の初任者時代を思い返せばわかることである。
私の初任者時代など、周りのサポートだけで進んでいた感じである。
(当時の本人に、助けてもらっている自覚がなかったのが残念無念である。)

お互いに助ける、助けられるが当然。
できることで返していく。
いつも学級のことで助けてくれる先輩のベテラン先生に、学級のことで手助けしてお返しするのは難しいかもしれない。
でも、そのベテラン先生はPC関係が苦手かもしれない。
そこでお返しすればよい。
肉体労働でも何でも、できることで返せばいいのである。
毎日「おはようございます!」と笑顔で元気に職員室に入ってくるだけで、職員室を明るく元気にすることができる。

この姿勢が、そのまま各学級の子どもに鏡のように反映される。
学年間の先生の協力関係がいいと、子ども同士も良くなってしまうのは、至極当然なのである。

まとめる。
新年度の不安を取り除く方法。
1 自分の考え得る全力の準備をする
2 同僚との関係性を大事にする

不安を取り除くのは、他の誰でもない、自分の行動次第である。

2020年4月9日木曜日

新年度の準備をどうするか

4月に入り、新学期も始まるところで、ブログを再開する。
学級開きもできない状態で投稿するか迷ったが、全国には必要な人もいるだろうと考ええて再開する。



人間は、基本的に保守的にできている。
今いる場所から動かないのが一番安全と考えるからである。
特に農耕民族はそうである。

新しいことは怖い。
なぜか。
見えない、先が見えない、何が起きるかわからないからである。
つまり「不安」の二文字が示すように、安全でないと思えるからである。

不安は、起きるかどうかわからないようなことに対してのみ起こる感情である。
もし確実に起きることであれば、不安ではなく恐怖を感じる。
(今回のウイルス騒ぎは、恐怖を感じるべき部類であり、楽観は許されない。)
不安による予測した出来事というのは、9割以上起きない。

また、不安は、暇な時にこそ起きる感情である。
だから、長期休みの時には、不安になりやすい。
忙しい時には、起きるかどうかわからないような未来の出来事に構っている暇はない。
今目の前の出来事に対して必死な時には、起きようのない感情である。

さて、このメルマガ読者の中には、新しい学年・学級への不安を抱いている人も多いと思われる。
初任者等で初めて担任をする人なら、尚更である。
新しい学級を目の前に、どうすればいいのか。

基本的に、新年度にまず学級担任がすべき仕事は二つである。
それは「人間関係づくり」と「仕組みづくり」である。

人間関係づくりは、単純化して2方向ある。
これには過去にこのブログでも紹介した「縦糸・横糸理論」がある。
(この理論については人によって色々な捉え方があるので、その違いは割愛。)
縦糸とは、教師と子どもの関係。
横糸とは、子ども同士の関係。

学級の最初は、縦糸の方に力を入れる。
縦糸がつながらないと、教えが入らないためである。
学級が崩れた状態というのは、この縦糸が過半数の子どもと切れた状態を指す。

縦糸も、後々で横糸をつなぐためである。
最終的には横糸が強いほどに子どもは育つ。
自分たちで協力して動くようになり、教師が引っ張る必要がなくなってくるからである。

最初は、縦糸。
教師との「信・敬・慕」の関係づくりである。

信頼に足る先生か。
尊敬に値する先生か。
慕いたくなる先生か。

信頼は、子どもとの約束を守ることや、自分を守ってくれたという経験から生じる。
一朝一夕では築けないが、第一印象が後々に響くので、初日が大切である。
そして積木と同様、築くのは地道で大変な割に、一発で崩れていまうのがこの信頼である。
差別的な言動や、いざという時に守ってくれなかったという一回の経験だけで、跡形もなく崩れ去る。

尊敬は、相手を認めることで生じる。
学校なら、授業である。
自分を伸ばしてくれると実感できる授業や実践をしていれば、自ずと尊敬の念は抱かれる。
一方で、教師の独りよがりな実践は逆効果である。

慕う気持ちは、関わりの量が命である。
休み時間に一緒に話したり遊んだりして関わること。

これは子ども同士の横糸強化にもつながる行為である。
横糸は子ども同士をつなぐ活動を、心理的安全を確保しながらどれだけ組めるかが肝となる。
侵害行為がある子ども同士では、横糸はつながらない。
安全・安心が何よりのベースである。
その土台が「話を聞く」ということである。

これらの要素を意識して、初日から3日間で何をするか決めておく。
「学級開き」に関する書籍は多数あるので、読んでみるとイメージがつかめるかもしれない。

次に、仕組みづくり。
朝登校してから下校するまでにある諸々の基本的な仕組みを作る。
一年生だと、登校してから机やロッカーのどこに何を入れるとかいうことを細かく決める。

これは、可能な限り大枠だけ考えておいて、後の細かい部分は子どもと相談しながら作るという姿勢がよい。
なぜなら、前年度までのそれぞれの学級の仕組みが違うからである。
それぞれの良さを取り入れつつ、子どもたちとともに新し仕組みを一緒に作っていくとよい。

朝の会、帰りの会の内容。
日直の仕事。
係。
給食当番と配膳、おかわり等。
掃除。

まだまだあるが、要は「特別活動」に示されているような内容である。
生活に必要な最低限の仕組みを決めておく。
そうしないと、学級生活が安定しないからである。
「万が一担任が休みでも、授業以外のことはとりあえず一日は回る」というような仕組みを考えるとよい。

仕組みと関わって、最初の週の分の授業準備はしておく。
最初だから、いきなり教科書でなくてもいい。
少しトピック的に楽しいものをやりつつ、あわせて学習のルールを入れていく。

これだけだとイメージが湧かないと思うので、具体的な例を挙げる。
例えば授業をやりつつ、誰かが発言した後に次のように語る。

「今、〇〇さんの発言中に、みんな黙って聞いてましたね。
素晴らしい。
これが一番大切なことなのです。
誰かが発言している時には、自分が喋りたくても黙ってきく。
みんな、自分を大切にして欲しいですよね。
当たり前です。
そのために、相手を大切にするのです。
(黒板に簡単な関係図を書きながら)
みんなが互いに相手を大切にしていれば、自分も大切にされますね。
互いの存在を大切しあえる、そういうクラスを作っていきたいですね。
だから、誰かが話している時は、お話泥棒をせずに、黙ってきくようにしましょう。」

これは一例だが、このように学級でのあり方や、授業のルールをはさんでいく。
一気にやらずに、かつなるべく最初の3日間の内に一つずつ入れていくのがポイントである。

最後に、不安の最大の原因について記す。
それは「うまくやらねばならない」という気持ちである。
うまくなんてやらなくていいのである。

大切なのは、うまくやることではない。
きちんと準備をした上で、後はどうなろうが出会いを楽しむことである。

どうせ計画通りになんていかない。
準備していた途中で、急にクラスの〇〇さんが教室を飛び出すかもしれないのである。
けんかをするかもしれないのである。
そこまで想定しきららない。

起きたら起きたで、さあどうしようと目の前の子どもと一緒に考えていけばいい。
その日々の積み重ねこそが、学級の強固な信頼を築いていく。

いずれにしろ、学級をもった経験がないなら、関連の本一冊だけでも読んでおくことをおすすめする。
出会いの準備さえしておけば、後は何が起きても、その場の対応である。
あくまで準備はした上で、あまり型にはめてうまくやろうと考えずに、楽しむ姿勢をもって新年度の出会いに臨みたい。
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