2018年7月30日月曜日

水をあげすぎない

これも「まぐまぐニュース」に取り上げられた記事。
https://www.mag2.com/p/news/363108

学級で、アサガオを育てている。
子どもは、毎日水やりをする。

これ自体はいい。

しかし、夜から朝方まで雨が降っていた日でもあげようとする。
なんなら雨の日でもあげようとする。
実際、梅雨入りしたから、水やりは不要な日がほとんどである。

アサガオに対する愛情なのである。
手をかけて育てたくて仕方無いのである。

しかしである。

「お腹いっぱいのところに、もっと食べてとご馳走を無理矢理食べさせられたらどうか」
という例えで伝えてみた。
しかも、笑顔で愛情に溢れた笑顔で流し込んでくるのである。
かなり怖い&辛い。

アサガオの鉢の底はあいており、不要な水は流れるようになっているので、あげすぎても別に大丈夫ではある。
ただ、水が不要であることには変わりがない。

相手のニーズを読むということである。
水を欲している時にはあげればよい。
アサガオは、自らに水を与えることができない。
だから、やってやる。
これは、親切である。

水が不要な時は、放っておけばよい。
やってあげることが、お節介になる。

教育でもいえる。
子どもが自分でできないことは、助けてあげる必要がある。
しかし、子どもが自力でやれることは、見守ってあげた方がよい。

必要な時に支援がもらえいないのは困る。
そういう時、子どもとて追い込まれたら、何とか自力で工夫をし出す。

手を出して欲しくない時に手を出す方が、教育的にはより悪い。
自分でできることすらできなくなる。
怠け者の作り方は、何でも与えて、何でもやってあげることである。
「自分では何もできない人間」一丁上がりである。

「何不自由ない暮らし」は、幸福とは限らない。
人には足りないものがあるから、それ得た時に喜びを感じるし、それを得るために工夫し出す。
工夫して、歯を食いしばって努力する過程すら、後で振り返れば幸せである。
世界で最高にうまい一杯は、最高級のワインでもブランデーでもなく、夏場に汗だくになって働いた後の一杯である。

話が逸れた。
アサガオにだって、最高にうまい一杯は、土が乾いた後の水である。
乾けば、根を張る。
より強くなる。

何でも不足なく与えることは、教育ではない。
変化の多いこの時代を、強く逞しく生きぬける子どもを育てたい。

2018年7月28日土曜日

話す 聞く は目的がある

今回も「まぐまぐニュース」に取り上げられた記事。
https://www.mag2.com/p/news/365086

先月、県内の小学校にて、「聞く」をテーマに校内研の講師をさせていただいた。
昨年度に引き続きお世話になっている学校である。

校内全ての教室の授業を見せてもらい、研修会の冒頭で話したことが
「黙る」
ということの大切さである。

この学校では、清掃の時間に黙働をしてきた実績があり、黙って掃除ができていた。
聞く力の素地ができているということである。

聞く力というが、実は先に黙ってないと聞けない。
「黙る力」が前提にある。
これは、自己コントロール能力であり、我慢、辛抱である。

話す力というが、実はおしゃべりとは性質が全く違う。
だから、おしゃべりを推奨しても、学習指導要領が目指すような話す力と聞く力はつかない。
(代わりに、気晴らしにはなる。)

一般的におしゃべりが得意な類は、言わずもがな中高生の女子である。
三人集まれば、言葉の機関銃乱射状態である。
とりあえずの相槌は必要だが、聞く必要はあまりなく、ひたすら好きなことをしゃべりまくれる。
だから楽しい。

おしゃべりは、無目的。
語弊がありそうなので付け加えると、方向性や達成目標がないのである。
しゃべることそのものが目的であるともいえる。
だから、ここには教育は不要である。

話さねばならない場面というのは、目的がある。
プレゼンを成功させて契約を結ぶ。
問いに対しての自分の解を伝える。
やる気を出してもらうためにスピーチする。
目的がある。
目的達成に向けて、意図をもって工夫して話せるのが、話す力である。

聞く場面にも、目的がある。
多くの場合があるが、聞くことの目的を一言で集約すると、
わかりたい
である。
(だから、自分のことをひたすらしゃべりたいだけのおしゃべり会では、聞く必要がない。)

わかりたくないと、聞けない。
聞く力は、わかろうとしないと、作用しない。
だから、能力自体があっても、対象に興味がないと、聞けない。
極論、聞きたくなるような話を毎回すれば、必然的に聞くようになる。

「聞く」をテーマに見させてもらうことで、自分自身の考えも深まった。
何事においても、とりあえずテーマを定めることが、力をつける近道になりそうである。

2018年7月26日木曜日

最近の若者は

ある日の夕方、帰りの電車での出来事。

その日も、下り電車の車内は帰宅する人たちでごった返していた。
私も満員の車内でやっと立っていた。
そして、ドア付近に杖をついた老婦人が一人立っていた。

私は「立ってるのが大変そうだけど、今の自分にはどうにもできないな」と思った。

ふと見ると、何やら妙にキョロキョロ周りを見回している高校生とおぼしき男子がいた。
どうやら、その方に座って欲しいと思ったようである。
車内は満員。
空席はなし。

それでも彼はその女性に近寄り「座りませんか?」と声をかけていた。
必要なら、誰かに頼んで席を譲ってもらうつもりだったのかもしれない。
女性は「大丈夫。ありがとう」と断った。

次の駅で、彼は席が空いたのを見計らい、周りの方にお願いして声をかけて、席を確保した。
「どうぞ」とその方を案内した。
しかし、女性は御礼を言いながら固辞した。
(見ていた私としては、ここはどうか座って欲しかったところである。)

女性は笑顔で「やさしいねぇ」とつぶやいていた。
彼は二度も断られて少々残念そうである。
しかし、大変素晴らしい行為である。

普通は、勇気がなくてなかなかできない。
まして、周りの人に頼んでまでやるなど、そうそうできない。
私を含めた多くの周りの大人が何もしない中、高校生がこのような行為をするのを清々しく見ていた。
(彼は私と同じ駅で降りた。
私も知っている地元の私立高校の生徒だった。)

最近の若者は、とかいい出したら、もう精神的に老いている。
「大人」より、よほど気概のある若者がいる。
そのことを、嬉しく思う。

2020年の東京オリンピック。
世界に向けておもてなしの国、日本としての姿勢を問われる。
その中心となるのは、この若い人たちである。

この高校生のように、正しいことを自然とできる素直さを見習いたい。

2018年7月25日水曜日

被災地の海開き

関心が高いニュースが入ったのでそちらの話題。

7月21日、福島県相馬市と宮城県石巻市で、8年ぶりの海開きが行われたという。
どちらも、私も何度か足を運ばさせてもらっている地であり、祭りが開かれた等の明るいニュースが入る度に嬉しく思っている。
海が、久しぶりの賑わいを見せているということである。

これらの地での「海開き」というのは、他の祭り等の再開とは、かなり意味合いが違う。
テレビでは、このイベントに携わっているご家族のドキュメンタリーを流していた。
海に対しては、幼い頃の楽しい思い出がある一方で、当然ながら「複雑な思い」があると言っていた。
最後の「これでやっと前を向いて歩き始められたと思います」
という言葉が胸に刺さった。

この地の人々が、今、海に向き合うというのは、どれほどのことなのか。
津波を目の当たりにした人にしかわからないが、とにかく前を向こうというその意志が強く感じられ、感動した。
微力ながら、今後も継続的に何かしら関わっていけたらと思った。

そしてまだ全国で、豪雨の被害が続いている。
私がお世話になっているある女性は、広島に息子がいるので、その助けに向かったという。
異常に暑いのに、あらゆる設備がまともに使えない状態。
「こっちに帰ってきて、暑いなんて文句が言えなくなった。」という。
「暑い」の苦しさレベルが、桁違いだそうである。
本当に耐えがたい苦しさだという。
私など、今のこの環境で、暑いなんて文句を言ってられないと思わされた。
(ただ文句を言わないことと、熱中症対策を怠らないこととは別である。)

正直、今回の洪水の被災地とて「まさか」だと思う。
熊本の地震の時だって「まさかそこが」という感じだった。
ニュースを聞く限りで、次はきっと関東地方だろうと思っていた。
(私の勤務地の千葉市と、実家のある横浜市は特に要注意であるという。)

つまりは日本全国、どこにいても「明日は我が身」である。
日本人全体で、どこに対してでも、助け合いの精神をもつことが、互いの身を守ることにつながる。
その一歩として、とにかく関心を持つことが大切である。

被災地への関心を持ち続けること。
できることは少ないかもしれないが、
「できる人が、できる時に、できることをする。」
という、ボランティアセンターの精神だけは忘れずにいたい。

2018年7月24日火曜日

無理な要求もとりあえず持ち帰る

「まぐまぐニュース」で取り上げられて反響があった記事。
https://www.mag2.com/p/news/361299
(ちなみに付け加えると、私が「モンスターペアレント」などという言葉を安易に用いることは、基本的にありえない。
今回の記事でも、一言も使っていない。
それでもタイトルに好んで使われるのは、キャッチーなフレーズの方が見てもらえるからである。
インターネット上のニュースのヘッドは、編集部側がすべてつける。
だから、事情はとてもわかるし、お陰でたくさん見てもらえている面もある。
ただ、もうこれは今までもたくさんあって、今さらだし訂正してもらう気もないのだが、誤解されそうという点において、そこは結構悩みどころである。)

次の本を読んだ。

「話のおもしろい人」の法則
野呂エイシロウ著 アスコム
https://www.amazon.co.jp/dp/4776208210

その中で、一流ホテルについてのくだりがあった。
「つまらない人は、すぐ断る」という項目である。

一流ホテルは何が一流か。
メニュー?
部屋?
それもあるかもしれない。
それ以上に、対応が一流なのだという。

ある企業の社長が、とあるホテルを定宿にしていた。
たった数泊にも何百万円も支払う。
そんな「上客」である。

その方が朝にレストランにいくと、以前とメニューが変わっている。
料理長に以前のメニュー(スクランブルエッグ)を頼むよう伝えると、ウェイターは「できません」の一点張り。
新人だったらしく、相手が誰かすらもよくわかっていない。
支配人が出てきて平謝りして対応し、事なきを得たという。

さて、どちらが間違っているのか。
これは、やはりウェイター側である。
相手が「上客」だからという問題ではない。
ウェイターという立場上、誰が相手であろうと、この場合まずは「少々お待ちください。確認してまいります。」である。
自分の判断だけで断るということが許されない。
できうる最高のおもてなしが、一流ホテルのレストランのウェイターの仕事である。

その後の対応の判断は、料理長なり支配人なりに任せればいい。
無理なら無理と伝えるし、できることならできると伝える。
今回の場合だと、常連のお客様に対して、サービス可能な範囲の対応である。
そこへの判断は責任者の仕事である。

新人教育が行き届いていないこと自体も、支配人の責任である。
「お客様の要望はいきなり断らない」という、サービス業の基本が徹底できていなかったのである。

翻って、教育現場を考えてみる。
保護者が、一見「無理」な要求をしてくる。
どう対応するか。

いきなり断るというのは、賢明ではない。
保護者は「お客様」ではないが、子どもの成長という共通の目的をもった「仲間」である。

だから、可能な限りは願いを叶える方向で考える。
自分の守備範囲を越える要望には、とりあえず「学年(学校)で相談します。」である。
学年主任なり管理職なりに相談して、判断を仰ぐ方がよい。

下手に自分で判断すると、火傷をする。
何とかなる要求に無下に「ノー」を出してしまうと、学校自体にマイナスが及ぶ可能性がある。
一方、断るべき要求に「イエス」を出してしまうのが更に痛い。
「○○先生はやってくれた」という痛い前例を作ることになる。
判断が難しいものは、即時対応せずに「持ち帰り」が基本である。
(確実にわかりきったようなことを管理職に聞くのもNGだが、間違った対応をされるよりましである。)

教員でも新人のうちは特にミスをしやすい部分なので、書いてみた。

2018年7月22日日曜日

学級経営とトイプードル

学級経営の話。

先月、地元の市の研修会で学級経営についての講師をさせていただいた。
話の中で学級担任のもつ「こわさ」の効用についても話した。
参考:「教師の寺子屋」過去記事 教育における「おそれ」の必要性

http://hide-m-hyde.blogspot.com/2018/04/blog-post_26.html

その中で、質問を受けた。
「怒ってもこわさが出せないのですが、どうしたらいいでしょうか。」
初任の若い女の先生である。

ここへの答えは決まっていて
「あなたは無理に怒らない方がよい」
である。

言ってることが全然違うと思うかもしれないが、個々のキャラクターの問題である。

犬に例えて考えてみるとわかりやすい。
めちゃくちゃ怒って吠えまくっているトイプードル。
静かに鎮座しているドーベルマン。

目の前にした時、どっちが怖いか。

明らかにドーベルマンの方である。
もう、もっている特性が全然違う。

どんなに怒って暴れ回って吠えても、トイプードルである。
キャンキャン吠えてるから「はいはい、落ち着いてね。」という感じである。
自分より身体の大きな高学年男子に、迫力をもって立ち向かえるかどうかである。
(ただし付け加えると、身体や年齢・性別等の性質に関わらず、すごく迫力のある人もいるにはいる。)

一方のドーベルマン。
ちょっと低く唸られただけでも「身の危険」を感じる。
見た目も声も力の強さも、何もかも違いすぎるのである。

いくら何でも自分が可愛さ押しのトイプードルや、警察犬にすらなるドーベルマンに例えられたら心外かもしれない。
それはわかりやすく極端な例にしただけである。
トイプードルレベルからドーベルマンレベルまで個々の雰囲気に幅があるということである。
トイプードルほどでなくても、自分はそれほど怖い類ではない可能性がある。
ドーベルマンほどでなくても、自分は生来怖い雰囲気をまとっている可能性がある。

一方、元々が怖い雰囲気の人だと、これも苦労が多い。
腹が立つ頻度はみんなと同じなのに、怒った時の迫力がありすぎる。
普段にこにこ優しくしてても、少し怒ったら怖いと言われてしまう。
小さな子ども相手の場合は、むしろこっちの方が何かと大変かもしれない。
(だから、保育園や幼稚園の先生に男性が少ないというのもあるかもしれない。)

要は、自分がどちらかというとトイプードルやポメラニアン寄りかもと思ったら、そこを利用すればよい。
柔らかい雰囲気というのは、人を惹きつける大きな要素の一つである。
「好き」から「憧れる」レベルまでいけば、進んでいうことをききたくなる。
好意をもった相手に「やめて欲しい」と言われれば、素直にやめたくなる。

ちょっと注意するだけで、叱る必要がなくなる訳である。
このタイプの学級経営をする人を実際何度か見たことがあるが、ある意味「最強」である。
また子どもと互いに「困った」を伝えやすいのも、こちらの雰囲気をもった人である。

一方の元々迫力がある人は、統率のとれた学級経営がしやすい。
学年団に一人いると、生徒指導における貴重な力になる。
柔らかい雰囲気だけではカバーできない部分を埋めてくれる。
こちらもやはり大切な人材である。
家庭教育における父、母、祖父母との役割分担のようなものである。

自分はどこを目指すかが大切である。
せっかく柔らかい雰囲気があるのに、ドーベルマンのやり方を目指してもそこには辿り着けない。
怖さが長所の一つなのに、トイプードルのやり方を目指してもうまくいかない。

個性とは、そういうものである。
子どもが異なる個性集団であるのが望ましいように、教員集団も個性派ぞろいが望ましい。
初任者からベテランまで、幅広くいるのがいい。
柔らかい人から厳しい人まで、幅広くいるのがいい。
真面目な人からふざけるのが好きな人まで、幅広くいるのがいい。

自分のもっている役割・特性は何なのか。
自分の天性としてもっているものが生きる方向を自覚し、活用することが何より大切である。

2018年7月21日土曜日

働き方改革と会議のあり方

働き方改革に関わって、会議のあり方について。
会議は残業に関するかなり重要な要因である。

前にも紹介した次の本から引用する。

『私の作文教育』 宇佐美 寛 著 さくら社
http://www.sakura-sha.jp/book/jyugyo/sakubun-kyoiku1/
==========================
(引用開始)
会議での提案は、「〇〇をどうするか考えてください。」や「〇〇を検討しよう」であってはいけません。
それは評論にすぎません。
「自分は〇〇を……という状態に変えたい。『イエス』と言って賛成してくれ。」という論理であるべきです。
明確な政策意思への承認を求めるのです。
(引用終了)
===========================

実に明快な文章・論理である。
長時間労働に悩むすべての世界にはびこる、無意味で長い会議の問題点をずばり突いている。

ずっと前にも書いたが、野口芳宏先生も同様のことを仰っていた。
野口先生が若かりし頃の、PTA旅行の行く先を決定する際の会議での話だが、当時のPTA会長に厳しく諫められたという。
A案とB案があるからどうしましょうではない。
既に最良のA案に絞っているから提案といえるのである。
それを深く反省し、学んだということを伺った。
(それを素直に吸収できるところが、すごいところでもある。)

提案者が強烈にイエスを求める状態でないものは、会議に出すべきではなということである。
それぐらいにしてから提案するのが礼儀である。
そうではない程度の「テイアン」という名の惰性で出す義務の文書なら、会議にかける必要すらない。
「例年通り」という文書による報告で終了である。
みんなの時間は、有限なのである。

そして、実は職員会議は超ハイコストである。
そもそも職員会議そのものの存在意義から見直すべきである。
費用対効果が悪すぎる。
例えば40人が出席の2時間の職員会議。
コスト計算をしてみると、人件費だけで概算20万円ほどかかることになる。
ものすごい費用である。
20万円もの価値ある話合い。
相当な価値の創出が見込まれる。

時間価値を低くするために、全員が残業地獄で規定の2倍の勤務時間(月320時間勤務)だとする。
そうだとしても、10万円の費用である。
(ちなみにこの試算は、厚生労働省の定めた過労死基準ラインの週80時間労働を全員がしている状態である。)

先の宇佐美氏の論理に従って再度考える。
どうせイエスと答える気なら、そもそも会議に出る必要がない。
「委任による承認」で出席不要である。
提案文書をよく読めば済む話である。

何のために敢えて自分が会議に出席しているのか、考えてみることである
提案に対し「言わずにおられない」ほどのことであれば、出席の意味がある。
一方で、よく調べて考えずに思いつきで提案に反対をすることは、大量の人員の時間と費用の浪費でもある。

まとめると、会議は学校や会社の貴重なリソースを大量につぎ込むハイコストな機会である。
だからこそ、曖昧な提案や意識の低い参加は避ける。
新たな提案による改革をしたい場合にも、会議の前段階の時点での下調べと周知(そして衆知)が必要である。

働き方改革において、会議のあり方を考えることは、インパクトのあるものになること必至である。

2018年7月13日金曜日

働き方改革と個人の価値観

前号に引き続き、学校での働き方改革を考える。

職場を思い浮かべれば、ばりばりやる人、ほちぼちの人、あるいはそうでもない人もいるかもしれない。
毎日夜遅くまで残業している人、定時で帰る人、短時間勤務の人、色々いる。
いつでも精力的でばりばりやる人、決められたことを自分のペースでぼちぼちやる人、マイペースでゆったりな人。
あるいは、それらが混在している人。(人は気分で左右されるので、これが一番多いはずである。)

実は、どの人も学校にとって大切である。
全員がばりばりタイプだと、成果が上がるが子どもも教員も気疲れする。
全員がぼちぼちタイプだと、業務は成立するが変化も活気もない。
全員がゆったりタイプだと、リラックスできるが業務が成り立たない。

職場も学級も、色々なタイプの人間がいた方がいい。

残業するかどうかも、これである。
みんな残業が当たり前の職場だと、帰りたくても帰れない人が困る。
みんな定刻退勤が当たり前の職場だと、残ってやりたい人が困る。

早く帰るのも遅く残るのも本当に個人の自由というのが理想である。
どちらも人に強制をしないことである。

そういう気風が流れているか。
気風は、意識的に作られるものである。

「忙しい」とか「大変」とか「〇〇してあげてるのに」とか言うのは、残業するにあたってはマナー違反である。
周囲への攻撃(口撃)行為に等しい。
そうすると、残業しない人はがんばっていないという、ダメな気風ができる。
(ただし、苦しんでいる仲間が愚痴をこぼすのを聞いてあげるのは大切である。
あくまで、自分自身の姿勢の話である。)

一方、夜遅くに教材研究しながら「明日これを使って子どもに授業をしたい」と楽しそうに働いているのはいい。
「自分の都合」で残業しながら、いきいきしている。
嫌味も文句もいわずに、爽やかにありがたく残業させていただいているなら最高である。
(学校や会社によっては、残業完全不可もあるのだから、できること自体有難いことである。)

早く帰るに当たっては、周りの人への感謝が大切である。
周りの人の仕事のお陰で自分の仕事が成立していることを念頭に置いておく。
がんばっている人に感謝してありがたく定時に礼をしてさっと帰らせていただく。

「私はこうなのに」「俺のようになれ」は、迷惑である。
極論、自分が残りたいから残っているし、自分が帰りたいから帰っているのである。
どんなに理由・理屈を付けてもそうである。

それぞれ個人の価値観がある。
そして「正義」は、価値観の数だけある。
正義の押しつけは犠牲を生む。

例えば私などでも拙著『捨てる!仕事術』で書いたことは、あくまでアイデアである。
私のようにやるのが本当に良いかどうかは、別問題である。
そういう働き方や考え方がありえるというのを知ることで、自分の働き方の幅が広がるということに価値がある。

個人の働き方を考える上では、自分の中の視点を増やすことが肝要である。

2018年7月11日水曜日

働き方改革と学校

今話題のキーワード「働き方改革」を学校で実行することについて。

「働き方改革」の中心は、長時間労働の是正である。
一方で、企業としては、長時間働くことで利益を何とか確保してきた経緯があり、俄には取り入れにくい。
ただでさえ不況にあえいでいるのに、社員の労働時間まで規制されてはかなわないというのが本音だろう。
社員の側も、規定勤務時間内に仕上げることが不可能な量の仕事を抱えているため、歓迎できない。

そもそもは、それを滅私奉公とサービス精神でまかなっていたのが、仕事の量が異常に増えた根本的な原因である。
与えれば与えるだけこなすものだから、使う側からすれば極めて「便利」である。
どんなに与えても「無料」サービスで働いてくれるので利益が上がり、同時に社員の作業量は無限に膨れあがる。

学校の教員の残業が異常に多いのも、これら一連のガンバリズムループの負の遺産である。
労働組合も各地で正常に機能しているとはいえず、世論やお上の無理な要望やお達しに「NO」といえない仕組みになっている。
何とか成果を出すために、高校で問題になっている朝課外(通称「0時限目」)や夕課外という力技な発想になる。

土曜スクールも同じ発想源である。
質的充実を量でまかなう発想を一切止めないと、作業量膨張の無限ループに必ずはまる。
(飲食店でも量を増やす、安くするというのは最も安易で即効性の効果が出る方法である。)

ただし働く側も、やればやるだけ成果が出る状況だと、何時間でも働けるという面がある。
好きなことで、やり甲斐と喜びさえあれば、どんなに働いても実は疲れない。
(逆に嫌だと思うと5分働くだけでも疲れる。)
子どもがゲームに熱中しているのとほぼ同じ状態である。
だから、法的に規制されると困るという声も当然上がる。

中学校現場(また一部の小学校)で話題の「ブラック部活動」問題も基本構造は同じである。
規定時間内の練習では不可能なニーズに教員がこたえる形になっている。
当たり前だが、土日は本来勤務日ではない。
だから、今回の改革も、きちんと規定の枠内でやりたい人には歓迎できる。
しかし、もっとやりたい人(生徒、保護者、教員)にとっては、規制されるのは迷惑千万である。

突き詰めると、最善の働き方とは、個々のニーズに規定される。
個人で選べるのが一番なのだが、利益や勝負が絡んでくると、たくさんやりたい人とそうでない人の間に摩擦が生じる。

そう考えると「ベーシックインカム」の考え方は、あながち夢物語とはいえない。
この考えは、全国民に、働かないでも暮らせる程度のお金が税収入により基本支給される制度のことである。
高い労働意欲のある人々が利益を大量に生みだし、他の人々の生活をまかなう形になる。
よく働く人にとっては、働くほど感謝されて、足を引っ張られないというのがいい。

かつて読んだ『働かないアリに意義がある』という本に書かれていたことを思い出した。
働き者のアリは、全体のごく一部である。
この働き者のアリは、コロニー全体のために、常にひたすら、がむしゃらに働く。
一方、きちんと働きつつ、時々うまくさぼるのが大半。
そして一部のアリは、ただひたすら怠けているだけである。

しかし、この怠けているのが、非常事態になると立ち上がり活躍することがある。
怠けアリはコロニーにとって「余裕」の部分なのである。
常時全員が目一杯働いていると、非常事態に対応できないのである。
だからどのアリも、コロニーにとって生きている価値があるといえる。

結局、たくさん働こうが働くまいが、本来は個人の自由なのである。
労働に関する議論の決着は、集団の価値観が決めるだけなのである。
集団の「利益」や「勝利」の価値観が強めの時代や場なら、たくさんやりたい側が世論的に有利になる。

一方、個人の「幸せ」や「生活」を重視する時代や場なら、そうでない側が世論的に有利になる。
ここまで少し力技でやりすぎた感があったので、ちょっとそうでない側に寄せた感じである。

働き方改革という大きな法案も、額面通りに受け取らずに一歩離れて見つめてみたい。

2018年7月9日月曜日

資質・能力についての雑感

何かと話題になる資質・能力について。

資質には「生まれつきの性質」という意味がある。
つまり、資質・能力を伸ばすということを考える際、実はその才能が問題になる。

たまたま、走らせると速い子どもがいる。
別にトレーニングを積んできた訳ではない。
たまたま、そうでない子どもがいる。
別に、運動をさぼっていた訳ではない。

他にも、そういうのはたくさんある。
全員に何かしらの才能はある。
一方で、全員に全ての才能がある訳でもないというのが事実である。

私の知人に、小学生の頃から
「農家のお嫁さんになって、牧場で牛を飼いたい!」
という夢をもっている子どもがいた。
動物の中でも、特に牛が、好きで好きでたまらないのである。

かなり特殊である。
「ケーキ屋さん」とか「お花屋さん」とかに憧れるのはわかる。
「犬猫が好きで獣医さん」とかも何となくわかる。
牛で牧場経営である。
小学生が抱く夢としては、かなりニッチな方である。

実際、この人の現在は、北海道の農家に嫁ぎ、牧場経営をしている。
これは、そもそも牧場経営における資質・能力があったといえる。
ここに興味をもつこと自体が才能である。
発掘される出来事があったとはいえ、才能としてもっていた訳である。

資質・能力を考える際に、ここは結構重要ではないかと考えている。
つまり、個の資質・能力を伸ばすということは、個の持つ特性を伸ばすという解釈ができる。
資質のあるところ、または見えないけれど埋もれているところを伸長するのである。
それは、動物嫌いの人を動物好きにさせることではない。
元々好きという才能、あるいは知らないけど好きになりそうというところを掘り出し、さらに生き生きとさせる方である。

この辺りを考えると、例えば運動嫌いをどうするかという問題も悩ましい。
「嫌い」を「嫌いでもない」ぐらいにすることはできるかもしれない。
しかし、それが本当に世に求められていることなのかというと、甚だ怪しい。
どちらかというと、もっている才能を最大限に伸ばして欲しいという方である。
一方で、「国民みんなに運動を」というところも求められている。

結構厳しい要望である。
にんじん嫌いに、にんじんを好きにさせるのと同じようなことで、これは難しい。
嫌いなものは、嫌いなのである。
何とか食べられる、程度には変えられるかもしれないが、「大好き」はおろか「好き」にもまず至らない。

個に関する「資質・能力」を考える時には、ここを無視できないという前提は必要である。

では、個の問題ではなく「これからの時代に求められる資質・能力」という場合、何なのか。
「学びに向かう人間性」といった抽象化された曖昧模糊な言葉のままでは意味不明である。
この辺りをはっきりさせていくのが「研究」の役目だといえる。

勤務校もご多分にもれず資質・能力がテーマの中心内容の一つである。
先日の公開研究会が、皆様にとっても何かしらの考える機会になればと思う。

2018年7月3日火曜日

論理的思考を鍛える

「指導案がなかなか書けない」という悩みをよくきく。
そもそも「作文が苦手」という人もいる。

なぜなのか。

論理的な思考が苦手だと考えられる。
論理的思考が得意だと、作文や議論といった表現活動は容易になる。

論理的な文章とはどういうものかがよくわかる本を紹介する。

『私の作文教育』 宇佐美 寛 著 さくら社
http://www.sakura-sha.jp/book/jyugyo/sakubun-kyoiku1/

著者の宇佐美氏は、千葉大学名誉教授である。
私も学生時代、お世話になった。
私の書いた作文を「悪文」として講義で全員に配付されたこともある。
(十数回しかない講義の中で「選ばれた」ことはある意味ラッキーである。)
まあ、そんな「公開処刑」みたいなことがあって、結構論理的な文章というのを意識し出した。
数回の後に、今度は「なかなか良い」ということで紹介された回もあったらしいが、私は、本当にたまたまその回だけ欠席だった。
出席した友人曰く「松尾君は、間が悪い男だ。」とご講評いただいたという。
何かと思い出深い先生である。

さて、この本から次の文章を紹介する。
==============
(引用開始)
 原文(疑問・批判の対象)にはAと書かれている。ところが、Aとはかなり違っているBというものが有る。
 なぜ、原文は、Bではなくて、Aなのか。

私の疑問は、このような構造なのである。つまり、先に「批判含み」と称した疑問なのである。
(引用終了)
===============

この構造を常に意識していれば、論理的にアイデアを考えられる。
Aを批判するには、AだけでなくBを知らないとできない。
Aしか知らないというのは、Aすらよく知らないという状態に等しい。
Aに関わる良いアイデアが出ないのも、A以外の状況を知らないからであると考えられる。

この文章のみだとわかりにくいかもしれないので、例を出す。

例えば、学校に髪を染めてきてはいけないという意見(A)がある。
一方で、髪の色について完全な自由という学校があること(B)も知っている。
また一方で、ゼロトレランスを取り入れて、従わないと退学になる学校もあること(C)も知っている。

Aの意見を主張したい場合、Aと全く異なるBの意見も知っている必要がある。
そうでないと、Bの意見を出された時に、全く太刀打ちができない。
また、Bと真逆のCの意見を隠し持っておくことで、更に論理を強くすることもできる。
違う使い方もできて、BやCで主張したい場合もこの応用である。

つまり、髪を染めてくる生徒を指導するのに「染めてはいけない」の一辺倒の論理では通用しないということになる。
「染めてもよい」という意見や「自分もやっていた」というような立場の意見があった方が応用が利く。
「真面目一辺倒」で生きてきていると、この辺りの規則破りへの対応に苦戦する可能性が高いといえる。
(男兄弟のない環境で育って母親になった人が、男児の意味不明で下品な行動を理解できないという状況と同じである。)

何にでも応用が利く考え方である。
アイデアに煮詰まった時には、何かと使える考え方だと思い、紹介してみた。

2018年7月1日日曜日

最高の学級づくり 仲間づくりの真実

前号の話と関連して、子どもの言動の真意を読むことについて。

次の本からの気付き。
『最高の学級づくり パーフェクトガイド』赤坂 真二 著 明治図書
https://www.meijitosho.co.jp/detail/4-18-169515-6

この本の中の第6章
「少しの丁寧さが思春期との絆をつくる」
がとても印象に残った。

不安定さは、突然「見えるようになる」ことからくるという。
要は、不安定だから、つるむ。
グループ化する。
守る手段なのである。
これを無理矢理解体しようとしても、無駄な訳である。

また、次の言葉も至言である。
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(引用開始)
教師の直接介入による仲間づくりは、ほとんど功を奏することがないと自覚し、
協力的活動や仲間支援活動などを仕組み、間接的支援にコストをかける。
(引用終了)
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そうなのである。
実は、仲間づくりにおいて、教師の直接介入は、全くと言っていいほど、うまくいかない。
「〇〇さんと仲良くして」なんて、正直無駄である。

大人同士の人間関係で考えればすぐわかる。
仲良くしようと心がけても、考えが合わない相手はどうしても合わない。
表面的な言葉で取り繕うほどに、内面的な関係は悪化する。

それより一緒に作業をしている間に、いつの間にか仲良くなっているということの方が圧倒的に多い。
スポーツでも掃除でも何でもいいから、一緒に作業をやる方が関係は深まる。

教室で考えると、別に道徳科の授業の時間に「仲良しが大切」と言われるから仲良くなるのではない。
(道徳科の授業は、価値観を広げる意味がある。)
あいさつ運動をしたから仲良くなるのでもない。
普段の遊びや協働作業の中で自然と仲良くなるのである。

教室を見ると、わかっていればやらないはずの不適切な対応がたくさんある。
誰から学べばいいのか。
本来は、身近なベテランの先生がいればいい。
しかし、学校教員の若年化が加速する今、お手本を示してくれるベテラン不在のことも多い。

ならば、外に学べばよい。
なるべく痛い思いをして、そこから挽回の手立てをとっている人がいい。
何度も転んで何度も立ち上がっている人である。
もっというと、万が一転んでもケガをしない方法を知っている人である。

そんな「スベリのプロ」赤坂真二先生が、がっつり1日教えてくれるセミナーが1週間後にある。
このチャンスは、本当に滅多にない。
ピンチをチャンスに変えるその瞬間つかめるのは、行動力のある人である。

7月8日(日)10:00~16:00 会場:市川グランドホテル
 「最高の学級づくり パーフェクトセミナー」講師:赤坂真二先生
https://www.kokuchpro.com/event/07116f254ad2ad5e2d7fef184f3c9458/
二度とないチャンスに話を聞いてみることを強くおすすめする。
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