2023年2月25日土曜日

「強制は悪で選択は善」は本当か

 前号でも少しふれたが、学校における「強制」について考える。


強制されないということは、「しない」「選ばない」という選択肢がある状態ともいえる。


「選択=善」。

ここについては、比較的同意を得やすい。

選べないより選べる方がいい。

常識的である。


しかし、実際はそうとは限らないというデータがある。

経済心理学で有名な「ジャム実験」である。

(参考文献

『選択の科学コロンビア大学ビジネススクール特別講義』

シーナ・アイエンガー著  櫻井祐子 訳(2014)


簡単に言うと、選択肢が多すぎると決定を回避する確率が高まるという心理である。

この論自体についても賛否があるが、少なくともこの実験の状況下においてはそれが正しかったようである。


この本の中では、選択に関する興味深い実験がたくさん紹介されている。

私が特に興味をもった内容が

『第2講 集団のためか、個人のためか』の中の「取り決め婚と恋愛婚のどちらが幸せか」

である。

(ちなみに続く第3講は『「強制」された選択』である。)


インドにおける結婚の幸福度調査の話である。

予想通りだが、結婚1年目以内の夫婦においては「恋愛婚」の方が幸福度は高い。

しかし、これが10年を越えると、大きく逆転するのである。


現代日本人の感覚からすると「取り決め婚」はなかなか受け入れ難い。

しかし生前に私の祖母に尋ねたところ、祖父母の時代は取り決め婚が当たり前だったようである。

私の祖父母もそうであったようだが、互いにいい関係であったし、実際に祖母の話を聞いても幸せだったようである。


現代はどうだろうか。

恋愛婚が中心ではあるが、長期の幸福度に関してはどうであろうか。

時代背景が全く異なるため、祖父母の時代との単純比較はできないが、選択できる方が幸せとは言い切れないようである。


この本には、これとは異なる「強制」「選択」の調査の結果もある。

死に関する決定権である。

例えば脳死状態の愛する家族を、このまま生存させるか、生命装置を切るか。

ナチスにおけるアウシュビッツの「生かすのは息子か娘かどちらか選べ」というような苦痛しかない選択の場合。


これら苦痛しかない選択の場合は、強制あるいは選択権がない方が、後々の精神的ダメージは少なくなる。

選択が必ずしも善であるとは限らない一例である。


また、権威ある人の「これを選べば大丈夫」という太鼓判の一押しも、自分だけで選択をするよりも良い心理結果を生むという。

自分で選んだのではないが、選択眼のある人が言ったのだから大丈夫という自信につながるという結果である。


強制か選択かということ自体に、善悪はない。


最初は無理にやらされたけど結果的に好きになったという例だってごまんとある。

自分で選んだからこそ愛着が湧く、好きになるということだってある。


自分で選択したけどどれも好きにならなかった、深く後悔したということだってある。

強制されてやらされて、心の底から嫌ということだってある。


では、学校における「強制」はいかにあるべきか。

「強制」のない学校というのは考えられるのか。

「選択」をいかに取り入れていくべきか。


「強制は悪」「選択は善」と単純思考に陥らず、考えていくべきことである。

2023年2月18日土曜日

学びは楽しい

勉強が好きかと問われたら、どう答えるか。


常々「勉強は楽しい」と考えている。

小学生の頃から、得意ではなかったが苦にしていた記憶はなく、中学生ぐらいからは比較的好きになった。

中学の担任が国語の先生で、よく本をおすすめしてくれて、読書も始めるようになった記憶がある。


テストで高得点を狙って勉強するのは、ゲームの攻略に似た感覚である。

多少手間がかかることでも、攻略に必要なことをひたすらする。

その基本はあまり変わらない。


こういうことを言うと、結構な割合で、次のように言われる。

「そんなはずないでしょ。」


つまり、勉強がゲームのように楽しいはずがない、ということである。

「そんなことは嘘」と断言されることが結構ある。


もちろん、学ぶことの全てが楽しいという訳ではない。

例えば大学生の頃、数学で全く意味がわからず解法を丸暗記したことがあるが、それは苦痛であった。

意味がわからないことは苦痛につながりやすいのかもしれない。


自分自身は好きな教科だが、「算数が嫌い」という感覚自体は、何となくわかる。

わからないから嫌いになるというのは、大きな理由の一つである。

(もちろん、それ以外の理由もある。)

「歴史が嫌い」という人も、多分年号なんかを丸暗記させられた(そして内容はよくわからなかった)結果ではないかと思う。


逆に言えば、わかることは、基本的に楽しいことである。

だから勉強は、やればやるほど楽しくなる。

一方で、やればやるほど、わからないことが更に増えるという面もある。


「勉強嫌い」を世に生んでいるとしたら、今更ながらやはりこの「わからなさ」が肝である。


「強制」という点はどうか。

この言葉自体に良し悪しはない。

全く強制されなければ、色々な教科を学ぶことはない。

その中に、面白いと思えるものが見つかる。

そう考えると、「価値ある強制」というものは、存在する。


では、人々の勉強嫌いを多く生む「わからない」の原因は何なのであろうか。


授業に対するわからなさである。

これは教える側の授業技量の問題である。


ではなぜ、同じ教室で、ある教科における勉強好きと勉強嫌いが生まれるのか。

好きという子どもは、その授業でわかった、あるいは新たな発見があったからである。

そこは確かに、本人の資質に依るところが大きい。


では、わからない相手が悪いのか。

それを言い出したら、もはやプロではない。

まして公立の小中学校教員であれば、尚更である。


「わからない授業」が世に氾濫しているのであれば「教員免許がなくても先生に」という論になるのは至極当然である。

質を一切問わないのであれば、授業をすること自体は、誰にでもできることだからである。


一般的に勉強好きが増えるためには、授業でわかるという子どもが増えることが大切である。


ここで勘違いしやすいのが「噛んで含めるようなわかりやすい授業」を目指してしまう誤りである。

そういうことではない。

わからなさの中でもがき、最終的に自力でわかるような学ぶ力がつくこと。

これがないと「与えられたわかる」になってしまう。

外から付けただけの力で、やがて剥がれ落ちる。

最終的に自力で学ぶ方向にいかねば意味がない。


この「わかる」の目指す方向については、自力で読み取れる力をつけることであると考えている。


日本の教科書は、質が高い。

教科書をよく読めば、大抵のことがわかるようになっている。

「わからない」の原因の一つが、「内容を読み取れない」にある。

まずは、教科書の内容を自力で読み取れる力をつけることである。

(これはテストにも言える。苦手な子どもは、テスト内容自体が読み取れていない可能性が高い。)


つまりは、授業を聞いてよくわかったというより、授業の内容を自力である程度わかる力をつけたいのである。

予習の大切さが見直されているが、まさにここである。

自力で読める力をつけることである。


そのために、子どもが「自分で学ぶ」という習慣を、授業中に動機づけられるかどうかである。

そこが授業技量の分かれ目である。

単に宿題を出せばいいというものではない。

自宅で自ら学ぶのは、授業で動機づけられているからこそである。


最初は興味なかったけれど、やっている内に段々楽しくなってきた、やるようになってきたというのが理想形である。

その方向にもっていけるものであれば、方法は選択的な学習であろうが一斉授業であろうがどちらでも構わない。

それによる結果(=自ら学びたくなること)こそが大切である。


そう考えると、教える側が勉強嫌いの場合、ハードルが高い。

「仕方がないものだ」と思って教えるのと「学ぶことは楽しい」と思って教えるのでは、やはり教える側の動機に違いが出る。

(ただし、それでも「勉強好き」の子どもを育てられるという結果が出せるのであれば、全く問題ない。)


こんな文字だけのブログをわざわざ読むような人は、学ぶことが嫌いということは考えにくい。

学ぶのが好きという少数派側の可能性が高い。


この「学び好き」を、少しでも増やしていきたいのである。

特に社会に出てからの学びが、楽しくないはずがない。

学んだことが即実践できて結果として出るのだから、楽しいはずなのである。


だから、子どもに教える立場の人は、たくさん学びの場に出るのがいい。

学び好きの先生からは、学び好きの子どもが育ちやすい。

ごく自然なことである。


一方で「勉強嫌い」の子どもの気持ちを慮ることも大切である。

そのためにも、やはり様々な場へ学びに出た方がいい。

「さっぱりわからない研修会」「催眠術をかけられているかのような話」は、その点でとても有益である。

教える側には、時に教わる側の苦痛体験を思い出すことも必要である。

自分もそんなことをしている可能性を考えるきっかけになる。


学ぶことは楽しい。

本を読むこと然り、学びの場に出ること然り。

そして何より、その学びを用いた日々の実践から、最大の学びが得られる。

勉強しているからこそ、受けるテストに意味も価値も出るのである。


「進みつつある教師のみ人を教うる権利あり」(ジェステルリッヒ)


「学びは楽しい」と思える子どもが増える教育をしていきたい。

2023年2月11日土曜日

愛国心は自分と他人を大切にする基盤

 建国記念の日である。

第二次世界大戦後に旧紀元節が廃止された後、1966年に復活し、翌年より実施された祝日である。


6年生担任の場合に限らず、必ず子どもたちへする問いかけがある。


「世界で最も長く続いている国はどこでしょう」


これは師の野口芳宏先生の実践の追試である。

これを聞いて適当に予想を聞く。

有田和正先生の有名な言葉「予想はうそよ」であり、完全な当てずっぽうでよい。


「1位はどこで2位はどこで、それぞれどれぐらいだと思う?」とも予想しておく。


大体中国とかイギリスあたりがあがる。

中国は「4000年の歴史」という言葉があるし、イギリスは王が統治しているイメージがあるからだろう。

アメリカという意見も毎年出る。

世界史については未習で、アメリカ合衆国の建国が比較的新しい1776年ということは全く知らないだろうから当然である。


長く本メルマガの読者の方なら耳タコというぐらい書いた話だが、ずばり答えは日本である。

今日で皇紀2683年である。

西暦より660年長い、と認識しておくとすぐに出てくる。


その長さについては諸説あるものの、2位以下の国に比べても断トツに長く、世界最古の王室という点はギネスブックも認定の事実である。


参考:図録世界の王室 何でも長さランキング(本川 裕 「社会実情データ図録」サイト内より引用)



なぜ他国の王室が続かないかというと、王が途中で殺されてしまったり国自体が侵略により滅んでしまうためである。

地政学の視点から言って、地形というのは国が栄えるにあたり最も重要な要素である。

侵略されやすい地続きの国々と違って、四方を海に囲まれた日本とイギリスの王家が長く存続していることは偶然ではない。


その点、第二次世界大戦は本当に存続の危機だったといえる。

天皇がGHQにより処罰されて皇室の制度が禁止されれば、その時点で歴史に終止符が打たれたかもしれない、という事態である。

日本を占領しているGHQにとっては、天皇ほど邪魔な存在はなかったはずである。

これがなぜそうならなかったかという背景も、是非子どもたちに歴史で学んで欲しいところである。


愛国心を育むことは学習指導要領上でも明記されている。

そして国防は国の最重要事項である。


日本の一部には未だに「愛国心をもつこと」=「戦争賛美」という残念な思考パターンがある。

これはある時期の教育の結果である。

私の子ども時代の教育にも、その傾向が確実にあった。

国旗掲揚→愛国心→戦争という荒唐無稽な思考パターンである。

(特にこの教育を受けた世代は、外で学ぶ機会を自ら設けないと、このプログラムが書き換わることはないかもしれない。)


これは、全く違う。

国を愛することの本質は、自分自身を愛することである。


前号でも書いたが、確かにどの国にも、歴史の中で肯定しがたい事実がある。

侵略したこともされたことも、決して喜ばしくない事実である。

世界中でたくさんの人が死んだ戦争を肯定できるはずがない。

大航海時代に遡るまでもなく、各国間の略奪もある。


だからといって自国とその歴史を否定するのは、自分自身を否定する行為である。

自国というのは、自分の属する最小コミュニティである家族と同様、アイデンティティの一つである。

家族や家の過去にどんな歴史があろうが、それ自体を否定して自分自身を傷つける必要はない。

人間はただでさえネガティブ情報に着目する本能があるのだから、良いところに着目する教育をする方が健全である。


愛国心をもつことは、戦争賛美の方向では決してない。

むしろ、自国を尊重することは、そのまま他国をも尊重することであり、平和への希求ともいえる。

(「自国ファースト」とも全く違う。自分さえよければいいという姿勢は周りを侵害し、結果的に自分自身を傷つける。)


愛国心をもつとは、誰しも自分自身とそのコミュニティが大切で、尊重される存在だということを認めるためのベースである。

また、こちら側、例えば家族が傷つけられるのを黙って見ている訳にはいかないことが、世界が未だに平和にならない原因でもある。

自分や家族が傷つけられそうになったら抵抗するしかないのだから、互いに傷つけないようにうまく関係調整することが最優先事項である。

また、飢えて死にそうになっている人がもしいたら、裕福な自分のところへ米やパンを死ぬ気で盗んだり奪い取ったりしにくるかもしれないことも、考えるべきことである。

戦争そのものの存在を否定しても意味がないというのは、そのためである。


ロシア・ウクライナ間のような哀しい戦争が今でも各地である。

これを避けるためにも、自国を愛し同時に他国も尊重する姿勢が必要である。

自分自身を傷つけることを肯定すると、他を傷つける行為を肯定することに繋がるからである。


自己防衛の不安から攻撃行動をとったり、自暴自棄でやけになったりした状態からの行動が一番怖い。

だからこそ、自分と周りを大切にするということは、強調して教えるべきことである。


教えるべきを教える。

建国記念の日は、本当の愛国心とは、世界の平和とは何かを考え、教える契機である。

2023年2月4日土曜日

自縄自縛を解く

 「自縄自縛」という言葉がある。

文字通りの意味は、自分のなった縄で自分自身を縛るということ。

転じて、自分の心がけや言動によって、自分自身が身動きとれなくなって苦しむことである。


学校教育におけるあらゆる問題は、まさにこの自縄自縛に端を発しているものがほとんどである。


たとえば、採用試験の倍率低下に歯止めが止まらない。


参考:外部サイト「大人んサー」

「小学校の採用倍率、1倍台が続出、全国平均は過去最低更新…教師人気は回復できるのか?」


一部には定員割れを起こしている県もあるということで、各誌ニュースにも取り上げられている。


教育実習や採用試験の在り方の検討など、様々な対策が講じられている。

これらの諸対策は、確かに大切である。


しかしながら、ここの根本・本質は、教員という職業への

「メリット・デメリット」

をどう感じているかのバランスの問題である。


その職業に対して感じるメリットがデメリットを大きく上回ると多くの人が判断しない限り、倍率上昇は望めない。

学生に限らず、教員免許はもっているけどやらないという人が多く存在している事実が、それを象徴している。


平たく言うと、そのための方向は二つである。

A メリットを大きくする

B デメリットを小さくする


企業でも家計でもそうだが、利益や貯蓄を増大するには

A 収入を増やす

B 支出を減らす

のどちらかしかないということと同じである。


今、低倍率問題を解決するのは、どちらの方向で考えればいいのか。


Aである、と言いたいところだが、恐らくBの方が現実的である。

教員の仕事の魅力は、恐らく多くの学生たちがわかっている。

子どもと共に成長し泣き笑いする感動やら何やらがあること自体は、自分自身も学校の子どもという体験をしている以上、伝わっているはずである。


また、給与を含めて教育公務員という立場が、不安定なこのご時世でそう悪いものではないことも、恐らく十分に伝わっている。

「給与を大きく上げれば人は増える」というのはその通りだが、これは手段として最も現実的でないともいえる。

「全員の成績を上げるには全員の勉強量を増やせばいい」というのと同じ理屈であり、量に頼った力技である。

(それが本当にできるなら、恐らくとっくに現場の人員を増やしているはずである。

猫の手も借りたいという現状の昨今、多人数にそんな高給を支払える余裕は尚更ない。

飲食店と同じで、人件費こそが最も高コストだからである。)


問題はBの方の、デメリットの大きさである。

学生たちは、何が嫌なのか。


「長時間労働」を筆頭に「部活動指導」「授業がきちんとできるのか」「保護者対応をできる気がしない」「給与が低い」等々。

不安の内容を聞くと色々だが、全てはたった一つに集約される。

要は


「やらねばならないことが多すぎる」


これではないかと思われる。

報酬や裁量権の大きさに対して理不尽だと感じているのかもしれない。


教員の問題は、残業時間そのものに焦点が当てられることが多い。

苦しさの本質はそこではない。

余計な業務量の多さそのものが問題なのである。


大切なのは、日々に集積したささいな、小さな業務群の量を包括的に減らす工夫である。

あるいは、理不尽なことへは対応をしないと決めることである。

それが常識にならないと、デメリットは伝わり続ける。


全ての人にとって、使える時間(=命)というリソースは、限られている。

どれも「いいことだから」「仕方ないから」と言ってやっていたら、あっという間に尽きる。

一見「いいこと」に見える余計なことを全てしているから、自縄自縛に陥る訳である。


「やらなくてもいいこと」の線引きができるかどうかである。


学校側が、ルールとして設定できる線引きもある。

例えば業務時間外でも電話に出ることが当たり前になっていれば、そこは当然「いつまでも帰れない職場」になる。

ここに、けじめとしての線を引いてもらう。

対外関係のアンケートやコンクールにもれなく協力していたら、これも大きな負担になるため、線をひいてもらう必要がある。


しかしこれらは管理職的な仕事であり、一般教員の立場からでは、どうにもしようがないことである。


自分たちでできる業務の工夫がある。

「理不尽にやらねばらないことが多すぎる」に自ら着手すればよい。

これこそが、実は自縄自縛によるものである。


なぜ理不尽なことややらねばらないことが多く存在しているのか。

ずばり、子どもや周囲の人に対し、その理不尽を自分が求めているからである。


無限に例を挙げられるが、『不親切教師のススメ』で書いたものや各種関連記事は、そこを訴えている


どれも、現代においては非合理で理不尽である。

理由はわからずとも「慣例」としてやらせる。

慣例は人権に優先する。

例えば「みんな」がやっているのだから、個人の「休み時間」は関係ない。

意味があるかは別として、周囲のみんながやっていることは日々やらねばならない。


そういうことである。

やっている側も、同じように感じていることはないだろうか。


つまり、普段自分が人にやらせていることにより、自分もそのルールに縛られることになっている。


慣例であれば、理不尽にも耐えねばならない。

それがやりたくないものであっても、屈辱的であっても、耐えねばならない。

みんながやるのであれば、私も絶対にやらねばならない。

規律が何より大切だ。

自分勝手はいけないことだ。

何より和を大切にし、乱してはならない。

・・・・・


道徳的である。

それも、考え、議論する余地を与えない道徳である。


自分が理不尽だと思って不満を抱いていることであれば、何でもいいのである。

自分も子どもや周囲にそれをやっている可能性が高い。


「コロナ対策」と銘打って、不必要なまでの過剰な感染症対策や消毒作業を命じられて日々行っているとする。

その場合は恐らく、子どもにも厳しくそれを求めているはずである。

「そこまでやらなくても」と心の奥で思うほどにやらせているのなら、自分自身も普段それをやらされているのである。

自分が一生懸命やっている分だけ、相手にもそれと同等の基準を求めてしまうという当然の心理である。


例えば「子どもたちが言うことをきかない」でもいい。

それは自分が普段から無理矢理言うことをきかせようとしている姿勢の裏返しである。

その根本は、自分自身が心の底で管理に対し反発しているからかもしれない。


例えば「子どもが勉強をせずにだらしない」でもいい。

それは自分が普段から「勉強をさせて成果を上げねばならない」という強迫観念で強制している証拠である。

そして、自分自身が勉強していない現実を見たくないのかもしれない。


例えば「保護者の要求が激しい」でもいい。

それは、普段子どもや家庭にこちらが激しく求めている証である。

根本は、やはり自分自身が管理職や周囲から強く要求を出されて苦悩している可能性がある。


あるご家庭に「もっときちんと見てください」と言えば、周囲も「先生、もっとよく見てください」と返ってくる。

それも、直接ではなく、間接的に返ってくる。

Aさんの家に言ったことが、Bさん、Cさんの家に周り回って、やがてDさんの家から来るのである。


「宿題をきちんとやりなさい」と全員に強く指導する。

そうすれば「宿題をきちんと見なさい」と全員がこちらにも強く要求してくる。

作用反作用の法則で、当然のことである。


不親切教師のススメ』では、この苦しみから脱する提案をしている。

苦しみの根源は、教師の善意による過剰な親切である。

その善意が、人を苦しめているかもしれないという自覚をもつか否か。

それこそが自らの苦しみの根本的解決への道標である。

例えば7章で「子どもの家庭を覗かない」ということを提案しているのは、そのためである。


その過剰な親切をやめれば、自縄自縛が解ける。

自分自身の手で、自分自身を縛る縄をきつく握りしめ、引っ張っている事実に気付くことである。

その手を緩めれば、さらっと縄が解け落ちる。


そして無理なく教室での生活を子どもと一緒に楽しんでいる教師の姿を事実として示すこと。

「先生って、いつも暇そうだね!」と子どもに言ってもらえる&世間に認識されるようになったら、ある意味大成功である。


全国の教員が一斉にその気になれば、すぐにでもできることである。

絶対に解けないと固く信じているその手を緩めてみる。

隣の人の縄があっさり解けるのを見た人が、自分もそうしようと真似して緩めて解く。

この連鎖である。


採用試験の倍率を上げる鍵は、実は私たち現役教員の手にこそ委ねられているかもしれない。

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