勉強が好きかと問われたら、どう答えるか。
常々「勉強は楽しい」と考えている。
小学生の頃から、得意ではなかったが苦にしていた記憶はなく、中学生ぐらいからは比較的好きになった。
中学の担任が国語の先生で、よく本をおすすめしてくれて、読書も始めるようになった記憶がある。
テストで高得点を狙って勉強するのは、ゲームの攻略に似た感覚である。
多少手間がかかることでも、攻略に必要なことをひたすらする。
その基本はあまり変わらない。
こういうことを言うと、結構な割合で、次のように言われる。
「そんなはずないでしょ。」
つまり、勉強がゲームのように楽しいはずがない、ということである。
「そんなことは嘘」と断言されることが結構ある。
もちろん、学ぶことの全てが楽しいという訳ではない。
例えば大学生の頃、数学で全く意味がわからず解法を丸暗記したことがあるが、それは苦痛であった。
意味がわからないことは苦痛につながりやすいのかもしれない。
自分自身は好きな教科だが、「算数が嫌い」という感覚自体は、何となくわかる。
わからないから嫌いになるというのは、大きな理由の一つである。
(もちろん、それ以外の理由もある。)
「歴史が嫌い」という人も、多分年号なんかを丸暗記させられた(そして内容はよくわからなかった)結果ではないかと思う。
逆に言えば、わかることは、基本的に楽しいことである。
だから勉強は、やればやるほど楽しくなる。
一方で、やればやるほど、わからないことが更に増えるという面もある。
「勉強嫌い」を世に生んでいるとしたら、今更ながらやはりこの「わからなさ」が肝である。
「強制」という点はどうか。
この言葉自体に良し悪しはない。
全く強制されなければ、色々な教科を学ぶことはない。
その中に、面白いと思えるものが見つかる。
そう考えると、「価値ある強制」というものは、存在する。
では、人々の勉強嫌いを多く生む「わからない」の原因は何なのであろうか。
授業に対するわからなさである。
これは教える側の授業技量の問題である。
ではなぜ、同じ教室で、ある教科における勉強好きと勉強嫌いが生まれるのか。
好きという子どもは、その授業でわかった、あるいは新たな発見があったからである。
そこは確かに、本人の資質に依るところが大きい。
では、わからない相手が悪いのか。
それを言い出したら、もはやプロではない。
まして公立の小中学校教員であれば、尚更である。
「わからない授業」が世に氾濫しているのであれば「教員免許がなくても先生に」という論になるのは至極当然である。
質を一切問わないのであれば、授業をすること自体は、誰にでもできることだからである。
一般的に勉強好きが増えるためには、授業でわかるという子どもが増えることが大切である。
ここで勘違いしやすいのが「噛んで含めるようなわかりやすい授業」を目指してしまう誤りである。
そういうことではない。
わからなさの中でもがき、最終的に自力でわかるような学ぶ力がつくこと。
これがないと「与えられたわかる」になってしまう。
外から付けただけの力で、やがて剥がれ落ちる。
最終的に自力で学ぶ方向にいかねば意味がない。
この「わかる」の目指す方向については、自力で読み取れる力をつけることであると考えている。
日本の教科書は、質が高い。
教科書をよく読めば、大抵のことがわかるようになっている。
「わからない」の原因の一つが、「内容を読み取れない」にある。
まずは、教科書の内容を自力で読み取れる力をつけることである。
(これはテストにも言える。苦手な子どもは、テスト内容自体が読み取れていない可能性が高い。)
つまりは、授業を聞いてよくわかったというより、授業の内容を自力である程度わかる力をつけたいのである。
予習の大切さが見直されているが、まさにここである。
自力で読める力をつけることである。
そのために、子どもが「自分で学ぶ」という習慣を、授業中に動機づけられるかどうかである。
そこが授業技量の分かれ目である。
単に宿題を出せばいいというものではない。
自宅で自ら学ぶのは、授業で動機づけられているからこそである。
最初は興味なかったけれど、やっている内に段々楽しくなってきた、やるようになってきたというのが理想形である。
その方向にもっていけるものであれば、方法は選択的な学習であろうが一斉授業であろうがどちらでも構わない。
それによる結果(=自ら学びたくなること)こそが大切である。
そう考えると、教える側が勉強嫌いの場合、ハードルが高い。
「仕方がないものだ」と思って教えるのと「学ぶことは楽しい」と思って教えるのでは、やはり教える側の動機に違いが出る。
(ただし、それでも「勉強好き」の子どもを育てられるという結果が出せるのであれば、全く問題ない。)
こんな文字だけのブログをわざわざ読むような人は、学ぶことが嫌いということは考えにくい。
学ぶのが好きという少数派側の可能性が高い。
この「学び好き」を、少しでも増やしていきたいのである。
特に社会に出てからの学びが、楽しくないはずがない。
学んだことが即実践できて結果として出るのだから、楽しいはずなのである。
だから、子どもに教える立場の人は、たくさん学びの場に出るのがいい。
学び好きの先生からは、学び好きの子どもが育ちやすい。
ごく自然なことである。
一方で「勉強嫌い」の子どもの気持ちを慮ることも大切である。
そのためにも、やはり様々な場へ学びに出た方がいい。
「さっぱりわからない研修会」「催眠術をかけられているかのような話」は、その点でとても有益である。
教える側には、時に教わる側の苦痛体験を思い出すことも必要である。
自分もそんなことをしている可能性を考えるきっかけになる。
学ぶことは楽しい。
本を読むこと然り、学びの場に出ること然り。
そして何より、その学びを用いた日々の実践から、最大の学びが得られる。
勉強しているからこそ、受けるテストに意味も価値も出るのである。
「進みつつある教師のみ人を教うる権利あり」(ジェステルリッヒ)
「学びは楽しい」と思える子どもが増える教育をしていきたい。
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