2016年6月30日木曜日

目標と目的

何度か書いている、目標と目的の話。

一応おさらいから。
どちらが上位概念か。
これは、「目的」である。
目的は一点の「的」である。
目標はそこに向かうための「標」(=木の立て札)である。

ここで、子どもに次のように問いを投げかけた。
「掃除をして、きれいにすること。
これは、目的か、目標か。」

読者の皆様も考えてみてもらいたい。
目的だろうか、目標だろうか。


これは、目的、目標、どちらにもなり得る。

きれいにすることを「目的」におくとする。
すると、それに向けて様々な「目標」が立つ。
「汚れているところを探そう」
「黙ってやろう」
「用具を工夫しよう」
・・・等々。
結果、きれいにするという目的が達せられるはずである。

では、きれいにすることを掃除の時間の「目標」の一つとする。
すると、その先の「目的」を見据えることになる。
きれいにして、何を目指したいのか。
例えば、場をきれいにすることで、「心を磨く」という目的が考えられる。
すると、「心を磨く」という目的に適う掃除の仕方(様々な目標)を考えることになる。
その中に「きれいにする」は必ず入る。
他にも、「人の嫌がりそうなところを進んでやる」とか、
「使う人のことを考えて行う」とか、
逆に「無心で行う」とか、
「黙って行う」とかも入るかもしれない。

何が言いたいかというと、全てが目標にも目的にもなり得るということである。
よく「手段の目的化」ということをいうが、あまりいい意味で使われない。
これは「目標の目的化」ともいえる。
立て札までいくこと自体が目的化している訳である。
(無論、これが必要な場合もある。)

掃除を例に挙げたが、あらゆる場面でいえる。

例えば「アクティブ・ラーニングの授業」それ自体が、目的化していないか。
ペア学習やグループワークのような「型」にはまっていないか。
それを通して、目指す姿は何なのか。

例えば、指導案に沿って授業をするということ。
もし教育実習生なら、これ自体が目的になってもいい。
しかし本来は、この授業をすることで、何に近付きたいのかが大切である。
そこを見据えていなければ、単に「面白かった」で終わりかねない。

長くなった。
要は、子どもに教えていることは、自分自身への教化である。
目的を持って日々を過ごしたい。

2016年6月27日月曜日

月曜日はゆったり始める

月曜日でも、やる気スイッチオンにしたい。
では、どうするか。

やればやる気が出るという仕組みなのだが、この最初の一歩が出ない。
やってもうまくいくのかという不安感があったりする。
(ちなみに、思考が全ての不安やめんどくささを引き起こすので、本来は無思考でやるに限る。)
特に日曜日の夜から月曜日にかけては、正体不明の不安感や焦燥感がある。

要は、自律神経の問題であるらしい。

交感神経が緊張を生み出す。
高速の運転中はこちらが顕著にはたらく。

副交感神経がリラックスを生み出す。
睡眠中はこちらである。

両方がバランスよく働いているのが良い状態だという。
大人も子どもも同様である。

月曜日にやる気が出なかったり不安感が出やすいのは、休日にこのリズムが崩れることが一因らしい。
自律神経は天候(特に気圧)にも左右されるので、曇りや雨だと働きが落ちる面もある。

意図的にこれを生み出していく。

自律神経によるもので唯一コントロールできるのが、呼吸。
深呼吸は副交感神経優位にできる。

脳にダイレクトに届く音楽や香りも有効であるという。

どれも、「ゆったり」がポイントである。
無理矢理やる気を出すと、ジェットコースター方式で、一気に落ちる。
だから、なだらかに上げて、なだらかに下っていくのが安定する。

月曜日。
やる気が出ないなら、まずは「ゆっくり」である。
子どもがだらっとしてても、ゆっくり調子を上げていく。

お互い、変な無理をしないことも大切である。

2016年6月25日土曜日

自ら運動の楽しさを追求する体育学習

タイトルは、本校体育部の研究テーマである。

自ら。運動の楽しさ。追求。
アクティブ・ラーニングの求める定義にも合致する。
大きいテーマであるが、目新しいものではないと思う。
だからこそ、授業内容の方でしっかり提案したい。

そもそも、運動の楽しさとは何か。
また、なぜ跳び箱運動をやる必要があるのか。
かかえ込み跳びである必然性は何か。
かかえ込み跳びという運動の本質的な楽しさとは何か。

技ができればいいのか。
技ができなくてもいいのか。

自分がその技をできることが大切なのか。
仲間がその技をできることが大切なのか。
できたらそこで終わりなのか。

どうやってできればいいのか。
わかるとできるはどう違うのか。
教えるとは。
励ます、勇気付けという行為は運動の楽しさ追求とどう関わるのか。

色々なことを考えながら、今回の授業をつくった。
メインは自分たちの運動の映像分析と、協働による場作りである。
これを通して、どんな「学びを楽しむ姿」が表出するのか。
その辺りを見ていただけると幸いである。

なお、事前申し込みなしの当日受付も大歓迎。
急に予定が空いた、今気が向いたという方は、西千葉駅へ直行を。
私は9時から10時までの60分間、体育館での授業展開。
11時10分から12時40分までが協議会。

貴重な土曜日の午前を、有意義に使っていただければ幸いである。
ぜひお越しいただきたい。

2016年6月24日金曜日

転ばないで自転車に乗れる方法?

失敗と成長の話。

先日、子どもの自転車の練習に付き合った。
補助輪を外しての走行。
乗れる人には当たり前すぎることも、乗れない子どもにとっては大きな壁である。

30分ほどやったが、一度も転ばない。
そして、ほとんど進まない。
転びそうになる前にすぐ足を着くので、当然である。
こぐ以前のところである。
両足を離すのも一瞬である。

ここを見て、はたと気付いた。
そう、誰だってケガはしたくない。
大人も子どもも同じである。

しかし、ノーリスクでいくほど、ノーリターンであることが多いのが世の常である。
転ばないようにすればケガもないが、挑戦もない。(当然、成長もない。)
この辺りのバランスが肝である。

つまり、最低限の安全面は確保しつつも、そこから先はリスクをとる必要がある。
わざわざ石がたくさん転がっている場所で練習する必要はない。
しかし、普通に平坦な道でも、転べば痛い。
痛い思いをする過程で、成長がある事実も否めない。

ここではたと思い出した。
私がよく使っている道徳教材で、『生きてます、15歳。』という本がある。
https://www.poplar.co.jp/shop/shosai.php?shosekicode=80000080
この本に、全盲の女の子が、母親と公園で自転車の練習をする場面のくだりがある。
母親は、一つも手を貸さない。
周りから見れば「鬼母」である。
全盲の子に手を貸さないで自転車練習など、常識からすると有り得ない。
血だらけ傷だらけになりながら、練習を続ける。
しかし、やがて乗れる時が来て、二人で涙を流して大喜びする。

ここである。

助けて欲しい。
しかし、母親は助けてくれない。
「根性出せ」の一点張り。
しかし、めげずに続ける。
やがて、成功する。
失敗を糧とした努力の積み重ねによる成功体験をする。

母親は、手を貸したい。
でも手を出さない。
愛する我が子がひざやひじを血だらけになりながら転倒しているのを、黙って見守る。
相当な我慢が必要である。

この場面では、お互いがリスクを背負っている。
リスクが大きい分、見返りも大きい。
「失敗したくない」「ケガしたくない」なら、攻めずに自転車なぞ乗らなければ済む話である。
しかし、敢えていくことに価値がある。

何でもこれである。
学級経営だって、リスクをどれだけとるかである。
1から10まで先回りして手出し口出しをしていけば、安全かもしれない。
例年通りで当たり前のことを繰り返していっても、何とかなるかもしれない。
しかし、そこに子どもの成長があるかは、疑問である。

子どもに細かく手取り足取り教えてあげる時がある。
一方で、子どもの成長を黙って見守る時がある。
その見極めは、経験からしか学べない。
しかし、より良い方法を事前に学習しておくことも価値がある。

拙著『ピンチがチャンスになる切り返しの技術』も、ここである。
守りに入らない。
攻めれば攻めるだけ、ピンチに陥ることが増える。
それをチャンスにして這い上がるための本である。
学級崩壊に陥らないための本ではない。
最高の学級経営を攻めながら目指すための本である。

話が逸れた。
要は、最高の準備をした上で、しっかりリスクをとって挑戦していくこと。
子どもにとっても大人にとっても大切なことであると思う。

2016年6月21日火曜日

しんどい時は、騒いでください

私の尊敬する先生の話のシェア。

どの仕事でも、しんどい時がある。
特に学級担任は、問題を抱え込みやすい。
子どもや保護者相手に何かトラブルがあった時にも、自分個人の問題にしがちである。
学級がしんどい時にも、自分の学級経営の仕方が悪いからだと思いがちである。

そんな時、どうするか。
「非常事態には、落ち着いて」がセオリーではある。
しかし、私は次の言葉に感銘を受けた。

そういう時こそ敢えて
「しんどい時は、騒いでください」
なのだという。

どういうことか。
つまり、騒げば、周りに知られる。
問題がチームに共有化されるのである。
まして、学年の若手が苦しんでいるとわかったら、学年主任やベテランの先生は放っておけない。
問題が顕在化し、チームでの対応が可能になるのである。

以前に、学級の子どもの「助けて力」について書いたが、あれと同義である。
「助けて」と言っているのがわかれば、助けられる。
一番困るのは、すごく困っているのに、一見何も問題ないように平気なそぶりでいられることである。

苦しい時は、苦しいと言っていい。
そんな風に言ってくれる上司や同僚がいる職場なら、どんなに働きやすいことか。
そんな職場が増えたなら、心や体を壊して倒れてしまう人が、どれだけ救われるかわからない。

トラブルは自分で何とかしろというのは簡単である。
言う側は鍛えるつもりなのかもしれないが、倒れそうな人にはきつい言葉である。

しんどい時は、騒いでください。

人としての優しさの本質を突いた言葉であると思う。

2016年6月18日土曜日

「素晴らしい」を解釈する

前号の続き。
G.W.関連の話で、こどもの日に続き、みどりの日の話。

みどりの日は、自然の恩恵に感謝する日である。
当たり前のようで、意外とできていないことが多い。
いや、当たり前だと思っているからこそ、感謝を忘れる。
「有難う」の反対は「当たり前」というのは今では有名な解釈ではあるが、その通りだと思う。

解釈が大切である。
自分の世界は、自分の解釈で成り立っている。
(これを認めるには、同時に他人の世界は他人の解釈で成り立っていることも尊重する必要が出る。)
解釈は、情報が自分のフィルタ(観)を通ってきたものである。
百万人が同じ情報に触れていても、観によっては百万通りの異なった解釈となる。

「素晴らしい」という言葉がある。
「素」で「晴れ」。
「素」はそのまま。
ただ、晴れているという情景が思い浮かぶ。
そのまま、青空の下で生きていられること自体が、素晴らしいことである。
普段自覚しないが、空気も含めた自然に生かされていることは、有難いことである。
仕事があることも、目の前の子どもたちの存在も、そのまま「素晴らしい」「有難い」ことだと気付く。

「困った時は空を見上げる」というようなフレーズが、様々な歌詞によく使われる。
晴れて澄み渡った空の下、生きているだけでも素晴らしいことである。

熊本は相変わらず地震が起きるし、復興にも時間がかかるようである。
しかし「止まない雨はない」という言葉もあるように、必ず晴れる時が来る。

福島の被災地ボランティアに行った際、次の二つの言葉が心に残っている。
「できる人が、できる時に、できることをする。」
「被災地を忘れない。」

被災地のことを忘れず、できることとして、応援メッセージは送り続けたい。
そして、何はともあれ今生きていられること自体の素晴らしさに、有り難みを感じられるようにしたい。

2016年6月15日水曜日

子どもの人格を重んじ、幸福をはかるとは

うっかり転載し忘れた、メルマガ上で1ヶ月以上前の記事。

みどりの日と、こどもの日の話。

みどりの日は、自然に親しみ、恩恵に感謝する日。
みどりの日は、もともと4月29日で、昭和天皇誕生日だった。
2007年にこの日を昭和の日と制定するに際し、5月4日に変更されたという経緯がある。

こどもの日に関して、電子辞書の広辞苑から引用する。
=========
(引用開始)
【こどもの日】
国民の祝日。
5月5日。
子供の人格を重んじ、子供の幸福をはかる趣旨で制定。
もと端午の節句。
(引用終了)
=========

(気になるのが、この「こども」という平仮名表記。
調べると、理由が色々とある。
よいと思う人、仕方ないかと思う人、漢字に戻すべきだと思う人。
色々いていいが、そもそも気付かなかったという人も結構多いのではないかと思う。
考えは述べられた方がいいように思う。)

人格を重んじる。
幸福をはかる。
それぞれ、具体的に、どういうことだろうかと考える。

世の中の解釈は色々ある。
小学校教員という立場から、考えてみる。

人格を重んじる。
ずばり、「一人の人間として認める」ということ。
子どもが子どもなのは今だけであって、いずれは大人である。
一時的に、子どもと先生という関係で前に立っているだけである。
自分の方が優れているとかで¥はなく、「先に生き」ている者として、伝えるべくを伝えるだけである。
また、違いを認めるということでもある。
一面的に見ないということである。
評価にも、多様さが求められる。

同時に、「相手を一人の人間として認める」ということも教える必要がある。
周りの人に対しても、ぞんざいに扱わない。
ものを渡す時に一言声をかけたり、何かしてもらったら「ありがとう」と言う。
友だちだろうが先生だろうが、地域の人だろうが店員さんだろうが、全て同じである。
そこを差別しないことも教える。
差別する人間は、差別されても文句が言えないことも教える。

幸福をはかる。
ずばり、世に求められる人に育てることである。
学力をつけることも、体力をつけることも、ここにあたる。
あいさつや礼儀を身に付けるのも同様。
目的はここである。

こどもの日の定義は、なかなかに意味が深いと思う。

被災地のこどもたちにも、この権利がある。
熊本大附属小にも、子どもがいる。
千葉大附属小では、運動会での被災地募金活動と、子どもたちによる応援メッセージを送ることに決まった。
(附属小というのは、他より後回しにされがちということである。)
広く子どもたちの幸福について考える機会にしたい。

2016年6月13日月曜日

「私は自動販売機ではありません」

教師の仕事の大きな部分は、授業をすること。
それ以前に学級づくりも、大切な仕事である。

内実が大切である。
つまり、何をねらって授業をしたり、学級づくりをしているかである。

例えば、算数の授業。
四則演算ができるようにする。
これは大切であるが、いうなれば「教科内容」である。

もっと大きな視点でみると、「学校教育内容」というものがある。
学校教育のねらいからすれば、社会で生きる力を身に付ける必要がある。
算数でも何でも、その力はつけられる。

どの教科でも絶対に外せないのが「礼儀」の指導である。
礼儀というと、堅苦しくきこえるかもしれない。
突き詰めると、礼儀とは「人を大切にすること」に尽きる。

算数の授業で問題を解き、教師のところへ持ってこさせる。
その時に、教師に無言で差し出して、無言で帰るというのを普通にしているとする。

これは、一つの教育である。
つまり、教師を人としてみなさなくてよいという学習になる。
自動販売機とかと同じである。
そういう子どもに対し、私は冗談半分で「ドウゾ。ヨクデキマシタ。」とロボっぽくノートを渡す。
または無言で○や×をつけて返す。
(通常は必ず一声称賛や励ましの言葉をかける。)

その後で、次のように話す。
「今、無言でノートを返された人たちは、理由を考えてください。
私は機械じゃありません。
人間です。
人間相手に、無言でものを渡すのですか。
人を、自動販売機か何かと勘違いしていませんか。
そういう人に限って、自分を大切にしてくれないと、やたらに騒いだり陰で文句を言ったりするものです。
そういう人を、わがまま、身勝手といいます。
私はあなたたちを、人間だと思っています。
だから、一人の人間として対応します。
みなさんも、私を人間だと認めるなら、そうしてください。」

きついようだが、大局的にみると、これは「優しさ」に含まれると思う。
間違えているので、その場で正す。
間違えていること自体に気づいていない訳である。
礼儀以前の問題で、知らないのである。
放っておけば、そのまま大きくなるわけで、人から「無愛想な奴だ」と思われる。
それは、不本意な話である。
結局、困るのは本人である。

教える側は、一時的に疎まれり、面倒がられたり、あるいは嫌われたりもするかもしれない。
それでもやる。
口うるさいと思われても構わない。
やることをやる。
なぜなら、それが自分の役割であり、仕事だからである。
子どもが悪くなったら、マイナスの教育なのである。
大局的に見て、社会に出た時に良いと思われる方向に導く。

子どもにも保護者にも、おもねらない。
言うべきことは言う。
志を持って、仕事にあたりたい。

2016年6月11日土曜日

何のために仕事をしているのか

先日、講座の打ち合わせを兼ねて気の置けない友人たちと一席設けた。
その際、「何のために仕事をしているのか」についてが話題になった。

教師の存在意義は、子どもである。
子どもがいないなら、存在意義がなくなる。

例えば、いわゆる「手のかかる」子ども。
大変である。
つまり、教師を「大変」させてくれる存在である。
(そういう子どもを「神様」と呼んでいる。)
そういう子どもと取っ組み合った一年は、振り返ると本当に充実感がある。
何もしなくても勝手に成長してしまうなら、楽だが味気ないともいえる。

例えば、前年度に「学級崩壊」を体験してしまったクラスの子どもたち。
子どもたちは、立ち直ることを求めている。
リーダーを求めている。(しかし、表向きは無気力、または反抗的であったりする。)
求められているとわかれば、がんばれる。
ピンチは見方によって「大変」のチャンスである。

例えば、いわゆる「安定した」子どもたち。
普通にしておけば、普通に過ごせる。
そこに、あえて火を付ける。
大変だが、そこに何かしらの変化を起こせる。

要は、子どものためになること。

どの学校にも、本当に子どもに寄り添って、一緒に泣いて笑って怒って喜んでいる先生がいる。
その先生に出会って、その後の人生が前向きになった子どもがいる。
それが、周りに知られている必要はない。
目立つ必要もない。
「何のために」が、しっかりとある。

地道に、目の前の子どものために何ができるか考えること。
それをやること。
「何のために」に迷ったら、目の前の子どもを見る。
教師の仕事の存在意義は、そこにしかないと思い至った次第である。

2016年6月9日木曜日

殻を破る~エビファイト~

前号の「大変」の話の続き。
エビの脱皮の話。
(元ネタは飯村友和先生のセミナーからである。)

先日、潮干狩りをしてきた。
木更津は今ハイシーズンで、休日は観光客でごった返す。

砂浜に、脱皮中のエビを見つけた。
ちょうど少し前に、飯村先生から「殻を破る」という話を聞いたばかりであった。
なので、とりあえず動画に撮ってみた。
(ちなみにこれが「情報がひっかかる」という状態。
飯村先生のセミナーの話がなければ、あっさりスルーするところである。)

なるほど、確かに無防備である。
脱皮直後の体は透明で柔らかく、いかにも脆そうな印象。
しかも、1分2分では脱皮は終わらない。
かなりの時間がかかる上、脱皮中は殻が邪魔で動きも鈍い。
相当なハイリスクである。

これだけのリスクを背負ってでも、自分の殻を破って脱皮するエビ。
それは、より大きく、強くなるための必須行為である。
本当に「大変」だが、そこに価値がある。

「がんばれ、エビ。」と思いながらその場を去った。

そして、翌週の給食はエビフライ(大好物)であった。
大変な思いをして大きくなったエビに、感謝して有難く頂いた次第である。

2016年6月7日火曜日

「大変」な方を選ぶ

子どもの動きが気になる時にする話。

「大変」と黒板に書く。
大変とは、「大きく変わる」ということ。
「大変な方を選ぶと、大きく変わっていけるよ」と話す。

例えば、歌。
歌わないのは誰でもできる。
しかし、自分から声を出すのは、大変なことである。
しかし、そこから自分の殻を破れる。
変われる。

もっと小さいことでもいい。
隣の人が物を落とした。
拾ってあげるか否か。
拾ってあげる、拾ってあげない。
どちらの選択もできる。
大変なのはどっちか。
(大したことではないが。)
これは、拾ってあげる方が大変。
拾ってあげることで、隣の人との関係が変わるかもしれない。
大したことではないので、変わらないかもしれないが、少なくとも良い方には傾く。

掃除を一生懸命やるか適当にさぼるか。
漢字テストの練習を満点に向けてやるか適当にしておくか。
算数の授業で自分だけどんどん進むか人に教えるか。

どれも、大抵、大変な方に価値がある。
成長の種がある。
つまり、ピンチはチャンスになるということでもある。

大人にもいえる。
人生は、選択の連続である。
自分は、楽な方を選んでないか。
大変な方を進んで選べているか。

子どもに求める前に、自分がやるというのが、「大変」な選択である。

2016年6月5日日曜日

休日「お父さんは、何で仕事してるの?」の返答に窮す

たまにはエッセイ。

最近になって、5歳の娘があらゆることに「何で?」と尋ねるようになってきた。
「ナンデ期」の到来である。(年齢的にはちょっと遅い。)

ナンデ期の大切さを説く自分としては、「何ででも!」とは答えないよう心がけている。
(毎度きかされる母親側はたまったものではないらしいが。)

さて、とある休日の話。
窓の外は春の嵐が吹き荒れる中、私は部屋に籠もってパソコンに向かい、いそいそと原稿書きやら何やらの仕事をしていた。
外に出られない娘は退屈でたまらない様子。
ちょいちょい、部屋に入ってくる。
その度、休日にも相手をしてやれない極道親父ぶりに心が痛む。

ふうと一息ついたその瞬間、娘の「何で」がやってきた。
ずばり、次の問い。

「お父さんは、何で仕事してるの?」

このタイミングで、何て本質的かつストレートな問いをぶつけてくるのだろう。
・・・なぜなんだ。
なぜ私は休日に娘をほったらかして仕事をしているのか。
家族のためだよと答えたかったが、それでは既に今この現時点で完全に矛盾を起こしている。

しかも、書いているのは、「道徳」の原稿。
道徳とは何なのか。
人の進むべき正しい道とは。
今しているこの行為自体が、完全に反道徳、アウトローではないのか。

・・・・
しばし絶句した後、やっと出たのが、次の一言。
「何でかなぁ。不思議だね。」

我ながら、大馬鹿野郎な情けない答えである。
どこのどいつがどの面下げて『ピンチがチャンスになる「切り返し」の技術』なんて本を書いているのか。
完全にピンチのままではないか。

なぜなんだ。
なぜ休日も働いているんだ。
しかも、やや本業から外れているではないか。

生暖かい春の嵐吹き荒れる中、汗が一筋、背筋を流れ落ちていくのを感じた。
娘は、「ふ~ん」と言って部屋を出て、その後おやつのチョコを口いっぱいに頬張っていたそうな。

2016年6月3日金曜日

殻を破る~エビファイト~

前号の「大変」の話の続き。
エビの脱皮の話。
発想の元ネタは飯村友和先生のセミナーからである。

先日、潮干狩りをしてきた。
木更津は今ハイシーズンで、休日は観光客でごった返す。

砂浜に、脱皮中のエビを見つけた。
ちょうど少し前に、飯村先生から「殻を破る」という話を聞いたばかりであった。
なので、とりあえず動画に撮ってみた。
(ちなみにこれが「情報がひっかかる」という状態。
飯村先生のセミナーの話がなければ、あっさりスルーするところである。)

なるほど、確かに無防備である。
脱皮直後の体は透明で柔らかく、いかにも脆そうな印象。
しかも、1分2分では脱皮は終わらない。
かなりの時間がかかる上、脱皮中は殻が邪魔で動きも鈍い。
相当なハイリスクである。

これだけのリスクを背負ってでも、自分の殻を破って脱皮するエビ。
それは、より大きく、強くなるための必須行為である。
本当に「大変」だが、そこに価値がある。

「がんばれ、エビ。」と思いながらその場を去った。

そして、翌週の給食はエビフライ(大好物)であった。
大変な思いをして大きくなったエビに、感謝して有難く頂いた次第である。

2016年6月1日水曜日

「大変」な方を選ぶ

子どもの動きが気になる時にする話。

「大変」と黒板に書く。
大変とは、「大きく変わる」ということ。
「大変な方を選ぶと、大きく変わっていけるよ」と話す。

例えば、歌。
歌わないのは誰でもできる。
しかし、自分から声を出すのは、大変なことである。
しかし、そこから自分の殻を破れる。
変われる。

もっと小さいことでもいい。
隣の人が物を落とした。
拾ってあげるか否か。
拾ってあげる、拾ってあげない。
どちらの選択もできる。
大変なのはどっちか。
(大したことではないが。)
これは、拾ってあげる方が大変。
拾ってあげることで、隣の人との関係が変わるかもしれない。
大したことではないので、変わらないかもしれないが、少なくとも良い方には傾く。

掃除を一生懸命やるか適当にさぼるか。
漢字テストの練習を満点に向けてやるか適当にしておくか。
算数の授業で自分だけどんどん進むか人に教えるか。

どれも、大抵、大変な方に価値がある。
成長の種がある。
つまり、ピンチはチャンスになるということでもある。

大人にもいえる。
人生は、選択の連続である。
自分は、楽な方を選んでないか。
大変な方を進んで選べているか。

子どもに求める前に、自分がやるというのが、「大変」な選択である。
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