2016年10月31日月曜日

残業疲れも内容次第

今月、教育雑誌『授業力&学級経営力』で「残業ゼロの時間術」という特集で書かせていただいた。
http://www.meijitosho.co.jp/detail/21080

タイトルが恐ろしすぎてご遠慮しようかと思ったのだが、せっかくの機会なのでお受けした。
編集者の方にも、附属小学校の場合は勤務形態がかなりの期間、特殊であることも告げた上である。
記事の中でも、そこは冒頭でちゃんと述べている。
その上での話を書く。

実は、結構残業が続いている。
陸上練習期間である上に、教育実習が被っている。
まずこの2点があるだけで、勤務時間の定刻自体が大きく変わる。
さらに体育の新しい提案がある上に、次年度の公開研究会に向けての研究授業が並行している。
6年生担任としての学級経営や授業等の本業務も、もちろんたくさんある。
そうなると、勤務時間内で済まない仕事も当然出る。

一例を挙げれば、実習生を一人で四人担当すると、放課後に指導したり一人ずつ相談を受けたりする。
実習生が授業の悩みについて真剣に聞いてくれば、当然最優先で答える。
四時に子どもを下校させてすぐ始めたとして、そこから一時間から二時間はかかる。
すると、その業務だけでもう勤務時間の定刻である。
授業の準備や研究等の諸々の業務はこの後スタートである。
きちんとやれば、どうやっても残業ゼロにはならない。
そういう特殊な状況を除けば、残業ゼロにすることはできる。
ただ、今の私は、その選択をしないというだけである。
残業してでもしっかり仕事をしたい時期なのである。

実習生の指導。
真剣に授業について悩む姿が、若かりし頃の自分と重なる。
そうすると、どうしても応援したくなる。
今目の前にいる実習生の成長が学校教育の未来、子どもの笑顔につながると考えると、やる気も出る。
ここに時間をかけることは、むしろ楽しみである。
公立校に勤務している時も実習生を何度か持たせてもらったが、充実の一言である。
まして、現職教員として活躍している元実習生をみると、感無量である。
採用試験合格の知らせが届いた時も、我が事のように嬉しいものである。

授業研究も同様。
研究が子どもの成長や喜びにつながると思えば、俄然やる気が出る。
今回の教材はハードル走。
ハードル走は、苦手な子どもも多い分、はまればめきめき上達する。
どうやると子どもがこの楽しさを追求するのか、目の前で変化が見られるのは最高に嬉しい。
逆に、同じやり方でもうまくいかない子どもには、どうすればいいのか悩むこともある。
真剣にやって悩むのも、仕事の楽しみの一つである。

そういう風に仕事を楽しんでいれば、残業も苦ではない。
そして、一気にやる日を設けて、時に定刻退勤する。
一緒に残業した仲間と飲みに行ったりもする。
そうやって楽しんでやれば、疲れも残らない。

要は、勤務時間どうこうではく、やはり内容。
本人が楽しいかどうかがすべての鍵である。

「いいこと」を引き寄せるギブ&ギブの法則

全国の仲間の先生から、時々葉書が届く。
私が尊敬する人は、筆まめの方が多い。
(いただく度に猛省である。)

その中のある方から、ご友人が本を出したからということで、次の本を紹介していただいた。
『「いいこと」を引き寄せるギブ&ギブの法則』
https://www.amazon.co.jp/dp/4569829244

人に紹介するというのは気合いがいる。
責任が伴う。
特に、友人知人といった大切な人に紹介する時は、変なものはすすめられない。
つまり、私にこれをすすめてくれる時点で、間違いないと判断し、即購入した。

実際購入して読んでみると、大変読みやすくためになる。
ビジネス書だが、ストーリー仕立てである。
ストーリー仕立ては、一見まわりくどいようで、記憶に残りやすく、能率的といえる。
「放てば手に満てり」が基本の考え方。
つまり、持っているものを手放せということ。
さらにいうと、自分のもっているものを人に提供せよということ。
「無財の七施」の話は、知っていたが、より深く意味がわかった。
教育にそのまま適用できる話である。

「外から安く買う」のではなく、「知人から高くても買う」のがなぜいいのか。
マーケティング理論とも関連して説明されていて、すとんと理解できる。

本ブログ読者の皆様にもおすすめの1冊である。

2016年10月29日土曜日

「なぜ」より「どうしたら」で問う

子どもが何かしらの問題行動を起こす。
例えば低学年で「お友達を叩いてしまった」でも何でもいい。
その時、どう対応するかは無限にあるが、かなり多いのが次の対応。

「なぜ(または『どうして』)叩いちゃったの?」(WHY)

気持ちをきこうという点ではいいのだが、これは答えにくい。
どう答えていいかわからず、黙ることになる。
または色々考えてうだうだ話し始めるが、要領を得ない。
「幼稚園の頃にいじわるをされた」というような無理矢理感のある理由をこじつける場合もある。

尋ねた側は恐らく「何があったの?」(WHAT)がわかればいいのだが、「なぜ」だと、行動の根本的な原因を問うことになる。

「なぜ廊下を走ったの?」も同様で、高学年なら色々理由はつけるが、本音は
「走りたかったから走った」のである。

そんなことより、尋ねるべきは
「次はどうしたらいい?」(HOW)
である。
繰り返されるのが問題なのだから、次にうまくいく方法を準備することが肝要である。
例え行動の原因が明確にわかっても、解決には至らない。

これは、実習生への指導にもいえる。
例えば指導案や指導の様子を見て、何か不備があったとする。
(その勉強をしに来ているのだから、不備は当たり前である。)
ここで「なぜ?」をあまりしつこく聞いてもしょうがない。
それよりも「どうしたい」「どうしたら」という視点で尋ねてみる。
答えは、それぞれ自分自身の中にある。
上から目線で「指導しよう」などと思うよりも、実習生自身が頭の中から引っ張り出すことである。

そんなことを意識していると、自分自身にも問いが返ってくる。
どうしたら、自分は実習担当として、実習生に良い影響を与えられるか。
結局、背中で見せるしかないというのが答えである。
不備を指摘すればするほど、自分のことのようで反省の日々である。

2016年10月27日木曜日

サークル活動で他律的自律

「木更津技法研」というサークルがある。
野口芳宏先生のご自宅で月1回の学習会を行う。
私も、今の学校に異動するまで、毎月参加していた。

今でも参加したいのだが、勤務地が遠く退勤時刻が遅い以上、どうしても例会の時刻に間に合わない。
土日開催の特別な行事には参加できるのだが、平日の例会には参加できていない。
通勤時間がかかるというのは、思った以上に様々なことを諦めることになった。
自分を磨く最高の場であっただけに、残念無念である。

そこで、友人たちと勤務校の近くで新しくサークル活動を始めた。
少人数の小さな会である。
月1回の例会で、実践報告等をし合う。
大きなことはしないが、学びがある。

外での学びにも色々ある。
セミナーに参加すると、いい方法などたくさん知れてためになる。
最新の知識が得られたりもする。
これは「受け手」としての学びになる。
これはこれで必要である。

しかし、サークル活動は、受け手ではなく、「送り手」として主体的に学べる。
新しい知識を得ること以上に、自分の実践を見てもらい、振り返る機会になる。
また、メンバーの実践発表が、自分にとっての刺激になる。
はるか遠い立場の講師の話ではなく、身近な仲間の実践である。

大きなことをした訳ではないが、一歩前進した感があった。
忙しいと、どうしても外に目が向かなくなる。
自分の校内のことで手一杯である。

先に紹介した野口芳宏先生からは、いつも忙しいに決まっているのだから、先に予定を入れ込めということを教わった。
忙しくなってからだと、色々言い訳をしてやらなくなる。
だから、先に予定として決めて入れておく。
そうすると、やらざるを得なくなる。
「他律的自律」である。

サークルメンバーの実践発表で「学級通信を毎日出します」と保護者に宣言したというのがあったが、これも同様である。
そうせざるを得ない場に自分を追い込む。
私の勤務校だと、教育実習生をたくさん見ながら、並行して研究をせざるを得ない状況に追い込まれる。
やらざるを得ないという状況が自分を鍛えてくれる。
ある意味で「有難い」ことである。

校内に、やらなくてはいけない仕事は「無限」にある。
だからこそ、どこかで線引きをして、自ら外へ出て学ぶ時間を設定する必要があるのではないかと思った次第である。

2016年10月25日火曜日

「何のため」を問い直す

教育実習をやっていると、色々と実習生から質問を受ける。
新鮮な視点から尋ねられるので、こちらも勉強になる。

例えば、「今日のめあて」は書かないのですかというのがあった。
なるほど、確かにやっている学級は結構多い。

やってもいいのである。
ただ、現在の学級には必要がないと判断し、やっていないだけである。
代わりに、学級目標は毎日読む。
必要と考え、活用しているからである。
学級目標だって、必要がないならなくてもいい。
学級通信や日記、宿題等も同様。
必要に応じてあるものであって、ねらいに応じての選択である。

学校の中には様々な「常識」がある。
注意しないと、何のためにやっているのか、ねらいが何なのかわからないでやっている場合がある。
要るのか要らないのか判断しないで「前からそうだから」というのは振り返る必要がある。
これは、学校以外の様々な企業にも当てはまることだと思う。

その点、外からの視点というのは貴重である。
教員でない友人と話すと、「あれ、何であるの?」という疑問を結構抱いていることが多い。
また、自分の勤務している県で常識でも、他県はやっていないということも多い。
問題は、「常識」だと思い込んでいるため、話題にも上がらないことである。
例えば、他県には制服の公立小学校が結構あると知った時、驚いた。理由を聞いてまた驚いた。
常識だと思っていることは、ゼロベースで疑ってかかる必要がある。

それがあるのは、何のため。
時々振り返って考えると、面白い発見がある。

2016年10月23日日曜日

自分と相手への合理的配慮

前号のインクルーシブ教育の話の続き。

本人の困り感に共感するのは難しい。
外から見て明らかに困難が確認できるものは、配慮されやすい。
しかし、内面的なものは目に見えない。
下手すると「単なるわがまま」と混同されてしまうのが辛いところである。

ここに「合理的配慮」が必要である。
簡単に言うと、
「AさんにやってもBさんにはやらない」というようなことである。
Aさんには必要なことだから配慮する。
Bさんには必要ないことだから配慮しない。
講師の先生はこれを「横並びからの脱却」と表現していた。
一律に同じ指導・支援をしないということである。
ただ、合理的である反面、何でもかんでも個の要求通りにはできないという面もある。

つまりは、自己理解と他者理解の両方が必要ということであると解釈した。
Aさんにはこれが自力ではできない。
だから、助ける必要がある。
しかし、Aさんにとって必要な支援が、自分には提供できない。
だから、他の人の助けが要る。
それは、周りの子どもかもしれないし、同僚かもしれないし、外部機関の人かもしれない。
そういう思考ができないと、無闇に「頑張る」という方向になってしまう。
頑張ってもダメなことだから合理的配慮が必要なのである。
(なお、よく頑張れる人は、他者にも頑張ることを強要する傾向があるので、注意が必要である。)

相手に合理的配慮が必要なのと同様、自分にも必要である。
自分にできることは何なのかを理解する。
それを考えるために、自分にできないことは何なのかを理解する。
コインの裏表と同じで、二つでワンセットである。

自分と相手、それぞれできないことを見極め、できることに全力を尽くしたい。

2016年10月21日金曜日

インクルーシブ教育と違いへの理解の困難

研修で、特別支援学校の先生のお話を聞く機会があったので気付きのシェア。
「インクルーシブ教育」と「合意的配慮」がテーマだった。

インクルーシブ教育が「すべての子どもにとってよいもの」である以上、個人差の存在が前提である。
障害を含めた違いを包含(インクルーシブ)する教育である。
(他の教育用語同様にやたらカタカナなのは気になるが、内容は共感できる。)

つまり、違いが前提にある。
磨き合う集団は、違いを認め合うことが絶対条件である。
違うからこそ、磨き合える。
本当に磨き合う集団ならば、インクルーシブ教育が成立しているはずである。

この、違いを認めるというのが、学校(特に公立校)にとっては大変難しいという話だった。
学校というのは、「同じ・公平」が求められるという。
誤解を怖れずいえば、「違いを認めないこと」を奨励している。

例えば「運動会で手をつないでゴール」のような行きすぎた例が取り沙汰される。
学校側は「そんなことはない」と言うが、実際「同じ」を求める傾向は確かにある。
時間や内容の枠が決まっている以上、ある程度揃わないと、事が進まないのである。

例えば、体育の場面。
ものすごく着替えがゆっくりな子どもがいる。
待ってあげたい。
しかし、時間が決まっている。
20分遅れられると、活動時間が半分になってしまう。
しかも、原則として、そういう子ども一人を教室に残して先に始める訳にもいかない。
しかし、遅いのも「違い」である。
ここを認めながら成立させよということである。
大変な困難が伴う。(困難というより、手立てが見つからないと、努力しても不可能である。)

こういうことを言うと、「本人の気持ちの問題」だと考える人もいる。
ここが大変難しく、本人的にフルスピードであったりする。
ここは、本人にしかわからない。
普通にできる人にとっては、ふざけているようにしか見えないのが辛いところである。

例えば、私は字をきれいに書くことが苦手である。
真面目に書いているけど、ダメなのである。
この気持ちを理解してくれる人とそうでない人の理解度の違いは、天地の差である。
ほとんどの人が、頭では理解しているつもりで、「でも、本当はやる気の問題よね」と思っている。
ここを本当に理解できるかである。

違いを認めるというのは大変な気合いと覚悟と、深い人間理解がいる。

長くなったので次号に続く。

2016年10月16日日曜日

磨き合う集団の最低要件を考える

磨き合う集団の最低要件は何か。
例の如く、逆思考でアプローチする。

磨き合う集団でない状態。
磨き合わない集団。
または、貶め合う集団。

磨き合わない集団は、個人プレーが顕著な特徴である。
自分さえ良ければいい。
関心の対象が自分のみで、他への興味・関心がない集団である。
集団の様相は、単に集まっているだけの「群れ」であり、烏合の衆である。
以前紹介した新型の「静かな学級崩壊」がこちらのタイプである。

貶め合う集団。
こちらは、興味の対象が他人である。
相手を落として相対的に自分を高める。
競争の際も「人に勝つ」という過程が目的化している。
悪口や噂話、嫌がらせや陰湿ないじめや暴力が顕著な特徴である。
集団の様相は、互いが自分の居場所を確保するために押し合いへしあいしている。
一般的にイメージされる学級崩壊の状態である。

では、ここから逆に磨き合う集団を考える。
興味の対象は、自分及び他者。
自分が良いだけでなく、仲間も良いことを求める。
相手を高めることで自分も高める。
得意の相互提供で成り立つ。
健全な競い合いや教え合いの姿が見られる。
感謝や尊敬、人が喜ぶことや困っている人へのいたわりが顕著な特徴である。
集団の様相は、協力することで成し遂げる共通の目的を持ち、居場所は自由ながらもある程度のまとまりを持つ。

つまり、磨き合う集団には
1 共通の目的がある
2 個の違いを認め、各々の得意分野を生かせる
3 他者への関心(思いやり)がある
というあたりが最低要件である。

1は学級目標等が担保する。
2は各教科や生活の多様な場面で発揮できる。
3が最も難しいが、本来、他者への関心は本能である。

2で自分ができる何かをして、人に喜んでもらうという経験は3につながる。
だから、子どもたちにできそうなことは、遠慮なく頼んでどんどんやらせた方がいい。
自己有用感が高まる。
そのチャンスを教師が奪わないことが大切である。

得意の提供ができる場面を多様に用意して、磨き合う集団づくりを進めたい。

2016年10月11日火曜日

学級という集団の目的

学校教育法第二十一条の目標を読む。
http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S22/S22HO026.html
それぞれ、次の活動や教科が中心に担っていると解釈した。

一  学級づくり
二  生活科・体験学習・環境学習
三  社会科・国際理解
四  家庭科・社会科
五  読書・国語
六  算数
七  理科
八  保健体育
九  音楽・図工
十  キャリア教育

なお、道徳は「教育活動全体を通じて行われる」ため、一~十のほぼ全てに関わる。
無論、他の教科等もそれぞれ横断的に関わる点があるのだが、中心はこのように読めた。

そう考えると、やはり学級づくりと道徳教育が、かなり重要な位置を占める。
二以降の学習を効果的に成立させる「磨き合う集団」にするためには、ここが外せない。

そもそも、学級とはいかなる集団なのか。
学級は、学習するための集団である。(この場合の学習は学力全般を含むが、それに限らない。)
磨き合う学習がなされない集団は、学級とはいえない。
まとまっているだけではダメである。

「学級崩壊させない・防ぐ・予防する」等は、結構な数の本のタイトルに使われている。
それだけ、現場教員が集団の形をキープするのに腐心しているということである。
しかし、本来ここが目標ではないはずである。

磨き合う集団をつくる最低要件を考えていく。

2016年10月9日日曜日

学歴と受験・就職

前号の続き。
子どもに学歴は必要か。
結論、これは「必要な人と必要でない人がいる」というのが正直なところである。

確かに、学歴が全く意味をなさない職業もある。
特にユーチューバーやブロガーなど、近年新たに誕生した仕事には、学歴はあまり意味がないかもしれない。
起業家の中にも、中卒、高卒の人が結構な数いる。
しかも、これからさらに多くの職業が生まれ、既存の仕事がなくなっていくというから、先が全く見えない。

一方で、学歴が必須であったり、確実に強みとなる仕事も山ほどある。
少なくとも「就職活動」を考えるのであれば、かなり意味がある。
東大卒だから優秀とは限らないかもしれないが、東大に入れるだけの学力をつける努力をする力は、並大抵のものではない。
十分に採用の際の参考になる。

だとしたら、教員は何をすべきか。
これは、つけられる学力をきちんとつけてあげるべきだろう。
無責任に「勉強ができなくてもいいよ」とはいえない。
しかるべき努力をすればつく学力(体力も同様)については押さえさせたい。
それによって、「自分もできる」という自信がつくことが何より大切である。

さらに学習塾とも対立せず、うまく連携をとるべきだろう。
学習塾は「自分では家での勉強の計画や実行ができない」という子どもにとっては、原動力になり得る。
また受験を考える上で、子どもの志望校ごとに受験対策を立てられるのは学習塾の強みである。
受験対策の一点に全力を注げる以上、ここについては、プロフェッショナルである。

そうなると、学校の大きな仕事は何か。
「学校教育法」第21条にはその目標が10項目示されている。
最も大切である第1項目の文の最後は「主体的に社会の形成に参画し、その発展に寄与する態度を養うこと。」である。

社会性を養うこと。
そのための集団をどうつくるかである。
ここが最も大きい仕事である。

主体的に社会の形成に参画し、かつ学力をつける集団づくりについて考えていく。

2016年10月7日金曜日

子どもの将来に学歴は必要か

次の本を読んだ。

『悩みどころと逃げどころ』
ちきりん 梅原大吾 共著 小学館新書
https://www.shogakukan.co.jp/books/09825274

「世界一のプロゲーマー」梅原大吾さんと、「社会派ブロガー」ちきりんさんの対談本である。
以前この梅原さんの本を読んで、大変面白かったため、今回も買って読んでみた。

世界一のプロゲーマー。
「ストリートファイター」シリーズ専門の、格闘技ゲーム限定のプロである。
「高橋名人」以外にそんな職業の人を意識したことがなかったので、衝撃であった。

梅原さんは、ゲーム一筋で生きてきたため、学歴がない。
一方のちきりんさんの方は、国立大学を出た後、アメリカの大学院で修士号をとるという学歴の持ち主。
真逆の二人なので、対談の全てが真逆の論理展開である。
この対談本での、学歴論争が面白い。

学歴は必要か。
持たない梅原さんは「必要」といい、持つちきりんさんは学歴の力に否定的である。
梅原さんの言葉を引用する。
==========
(引用開始)
ちきりんさんは自分に学歴があるから気がつかないんですよ。
僕がいた世界では、バイトでさえ学歴で人を判断する人が多くて、それが本当に屈辱的でした。
(引用終了)
==========

梅原さんは、一時期プロゲーマーをやめて就職しようとした時、学歴でものすごい差別を受けたという。
ちきりんさんは、学歴で優遇された覚えもないし、それを意識したこともないという。

本当に相手の立場に立つというのは、難しい。
見えている景色が違う。
難しいからこそ、相手の立場を慮る、豊かな想像力が必要である。

子どもの将来に、学歴は必要か。
改めて考えさせられるよい機会になった。

2016年10月6日木曜日

お悩み相談「前担任のカラーが入って困っています」

読者の方から質問があったので、回答した。
他の読者の皆様にも参考になりそうなので、「寺子屋」としてシェアする。

======================
学級開きの際から、前担任のカラーが入っていて困っています。
前担任が「怖さ」で従わせていた場合、次の担任に従わないことがあると思います。
このような場合、何から、どのようにスタートしていけばよいでしょうか。
また、お試し行動、注目引きなどが続く場合の対応について教えてください。
=================
では、回答します。

前担任がどうであれ、自分の強みで勝負していきます。
ご自身の強みは、何でしょうか。

例えばエゴグラムでは、人間の持つ性格を次の5種類に分けます。
1厳格性(父性)
2包容力(母性)
3現実検討の力(大人の心)
4遊び心(自由な子供心)
5従順な心(従う子供の心).

これら5つのどれかではなく、みんな5つあってどれかが強いということです。
一般に、学級担任などのリーダー的立場の人は3が強いことが求められます。
恐らく、前担任は1が強いのでしょう。厳しい指導に頼りがちになります。
ただ1のタイプは、規律の乱れすぎた学級を経験して、それを嫌だと思っていた子どもたちからは頼られます。

ここからも自分の強みが見えるはずです。
2が強いタイプなら、子どもの話を聞いたりしてつながれます。
3が強いタイプなら、問題解決をすることで信頼されるようになります。
 ここには授業力も含まれます。
4タイプなら子どもと遊ぶことでつながれるでしょう。
5タイプなら素直さや純粋さ、真面目さで引っ張れます。

先生自身の得意分野に引き込むことです。

そもそも、子どもはどうして先生に従うのでしょうか。
従わせる必要は何でしょうか。
言うことを聞かないのは4の子ども性の顕著な特徴の一つです。
子どもは、4と5の両面があり、かつどちらかが強いものです。
「従わせないでこちらの意図する方へもっていく」という考え方もありです。

「力のつく授業」
「たくさん子どもと遊ぶ」
「話をたくさん聞く」
どれならできそうでしょうか。

力のつく楽しい授業をしてくれる教師は、「先生」として認められます。
遊んでくれる教師には、反抗しづらいというのがやんちゃな子どもの本音です。
話を聞いてくれる教師は、安心できるというのが大人しい子どもの本音です。

学級開きに関しては、下記の本が使えると思います。
https://www.amazon.co.jp/dp/4181852156
私の書いたものもあるので、参考にしてみてください。

また、子どもの価値観はころころ変わり、柔軟性があります。
怖さで従う価値観は、命に関わる緊急時以外は役に立たないので、さっさと壊してしまいましょう。
日常的に価値づけをしていきます。
ノートへ価値語を記す実践をやっている先生もいますが、それも有効です。

お試し行動や注目引きについては、「意図的な無視」の対応が原則です。
予め「あなたとみんなのために、良くない言動はわざと無視することがあるよ」と伝えておくのがポイントです。
「気になる子を気にしすぎない」というのが大切です。
こちらについては同シリーズの下記の本にも書いてあるので、よければお読みください。
https://www.amazon.co.jp/dp/4181856119/

=======================
以上が質問に対する回答である。
何かのお役に立てば幸いである。

2016年10月2日日曜日

『ハンバーガグー!』

私は通勤時に電車で本を読む。
電車の中というのは、公共の場である。
よって、人目を気にするため、必要なことがある。

それは、かっこつけて読めることである。
いや、正確には、変な奴だと思われない程度でいい。

そのため、読んでいる本の表紙やタイトルは大切である。
『これであなたも激モテ』というようなタイトルの本はダメである。
何かこれを真剣に読んでいる時点で、ちょっと、いやかなり恥ずかしい感じが否めない。
(ちなみに私の友人の変な奴代表の某氏は、この手の本が学級経営にとても役立つと豪語していた。
意外と当たらずとも遠からずである。)
「ブックカバーをつければよい」というツッコミがありそうだが、それは自分的に邪道なので却下である。

もう一つ大切なのは、面白すぎないことである。
読んでて吹き出したり爆笑してしまうようなものは困る。
以前、電車の中でうっかり柳沢慎吾の「始球式」の動画を見てしまい、辛かった覚えがある。
なので、電車の中で「爆笑系」の本やメディアは厳禁である。

そんな「電車の中で読んではいけない本」を購入した。
次の本である。

『ハンバーガグー!』てぃ先生 著 KKベストセラーズ
https://www.amazon.co.jp/dp/458413720X

著者はツイッターで人気の男性保育士。
保育園での園児との爆笑&じんわり温かいエピソードの数々。
子育てと教育に携わる人に強くおすすめしたい一冊である。
(ちなみにこの一見すると意味不明の本のタイトルは、ある園児の言葉。
ハンバーガー&ハンバーグが混ざった造語である。)

私の好きな話は「プリンセスごっこ」。
複数の女子園児による、優雅なプリンセスごっこが展開される。
そんなプリンセスたちの今日の食事メニューは、味噌汁。
実に庶民的。
著者のてぃ先生は、プリンセスをお昼寝から起こす際に「小鳥」の役を命じられるのだが・・・。

最近子どもと接する時に元気が出ないという人には、特にお勧めの一冊である。

2016年10月1日土曜日

夏休みの作品をどう見るか

1月前のメルマガ記事からなので、時期外れなのはご容赦を。

以前書いたこともあり、ラジオなどでも話したことのある内容ではあるが、大切なことなので再度。

夏休み、様々な宿題が出ている。
それを子どもは一生懸命やってくる。
当然、親も一緒に一生懸命やらざるを得ない。
中には「親と共に取材してくる」というような、絶対に親がやらざるを得ない課題のこともある。
それも、もはや暗黙の了解のようになっている。

この大量に出される夏休みの宿題には、様々な問題が絡む。
そもそも、夏休みの作品を出さないで済む学校ならいい。
実際、そうもいかないところが多い。
色々、学校には地域の〇〇研究部会や各種コンクールから依頼が来ているのである。
学校としても、出さない訳にはいかないという事情がある。

もちろん、ここにはいい面もある。
力のある子どもにとっては、コンクールというのはいい力試しの場である。
試合があるから練習をがんばれるのと同じである。

問題は、そうでもない子ども。
やりたくないのに無理に絵を描いたり作文をしたりするのはかなり辛い。
だから、最近は絵やら工作やら研究やらを「選択」できるようになっていることも多い。
どれか一つぐらいはがんばってやっておいでよということである。

さて、そうなると、先に述べたように自力では難しいので、親が登場せざるを得なくなることもある。
(介入しすぎて、完全にその子どもの作品ではなくなっていることもご愛嬌。)
絵や工作、自由研究から読書感想文まで、ジャンル問わずである。

担任としては、普段指導しているだけに、子どもがどのような技能レベルかは大体把握している。
自力では到底できないであろう力作も中にはある。
それでも笑顔で子どもに「よくがんばったね」というのが通例である。
悪戦苦闘したであろう親の心情も慮ると、それしかいいようがない。

そこで気になるのが、どう見ても、周りと比べて出来映えがよくない作品。

ここをどう見るかが肝である。

本人自身、周りと比べても、自分のはダメだなと感じているかもしれない。
ただ、この子どもの作品は、先の視点からいくと、親の手が入っていない可能性が高い。

それは、意図的かもしれない。
親が「夏休みの宿題は子どもの宿題。親が手を出すべきでない」という方針をもち、子どもがすべて自力で作ったのかもしれない。

それは、必然的かもしれない。
親が病気などの諸事情で全く宿題を見られる状況ではなく、子どもがすべて自力で作ったのかもしれない。

はたまた、別の事情かもしれない。
ただ、子どもが独力で作ったらしいということだけが、高い確率で予想される。

学校の宿題そのものは、コンクールではない。
あくまで、その中でコンクール出品となる過程があるだけである。
だから、本来は出来映えどうこうを問うべきではない。
子どもが、それを通して、何を表現したかったかがすべてである。
本来は自力でやったかどうかが一番大切である。

その視点で見ると、褒める点がたくさんみえる。
その崩れかけた部分から、たどたどしい文章から、読み取れるものがある。
何とか接着したであろうそのボンドの跡から、本人の汗が見える。

表面的に見ない。
一面的に見ない。
夏休みの作品に限らず、子どもをみるすべての時において大切なことである。
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