2014年10月30日木曜日

8の字跳び まずは少数精鋭を育てる

8の字跳び実践編。

跳び手を育てることについて。

8の字跳びをやることになるとする。
校内大会がある場合が多い。
市や県単位の大会があるとなれば、気合いが入る。
インターネットランキング等への参加がきっかけかもしれない。
色々な事情があると思う。

どういう事情で始めるにせよ、「クラス全員8の字跳びが大好き」という状況はない。
始める段階で、好き・得意が半分、嫌い・苦手が半分なら御の字である。
後者が多いことだって往々に有り得る。
やっていく内に良い方向にシフトするにせよ、全員「好き」にはならない。
苦手だけどやるしかない、と腹を括ってやる子どもになってくれたら、感謝感謝である。

この辺りは、歌や清掃の指導と似ている。
まずは、積極的にやってくれる少数に注目する。
休み時間等にもやりたいと言ってくる子どもを鍛える。
そうすると、その少数のメンバーはかなり上手になる。
すると、その少数精鋭が、他の子どもを引っ張り上げてくれる。
「苦手」という子どものカバーにも入ってくれる。

つまり、嫌い・苦手という子どもに最初から着目しない。
特に「嫌い」という場合は、周りの雰囲気に左右されやすいので、本人を直接指導しても無駄である。
無視するのではなく、目の端に入れながら、無理をさせない。
あくまで、一時的に積極的に関わらないだけである。
「大丈夫、その内うまくなるからがんばろう!」と軽く&明るく言っておけばよい。
軽い感じではあるが、長い目で見て、根拠のある励ましである。

まずは、先に少数精鋭を育てること。
成功の秘訣の一つである。

2014年10月28日火曜日

8の字・大縄 回し手は教師か子どもか

8の字・大縄へのブログアクセスが急上昇中である。
需要の高いこのネタでしばらく書いていく。

8の字も大縄も「回し手が8割」である。
特に初期段階ではこれがいえる。
大縄に関していえば、回し手が最低レベルまで育たない内は、中で跳ぶ練習はほぼ意味がない。

そんな大切な回し手だが、これを教師がやるか、子どもがやるかということは違いが大きい。

教師がやる場合を考える。
最大のメリットは、安定感。
初期段階から跳ばせられる。

また、教師も一緒にやっているので、一体感も得やすい。
学級経営における「縦糸」が強くなる。
短所は、自分が回しているため、個別の指導がしにくいことが挙げられる。

子どもがやる場合を考える。
最大のメリットは、子どもたちだけで運営できる点。
回し手さえいれば練習になる。
レベルが上がると、自分たちだけでまとまって真剣な練習ができるようになる。
学級経営における「横糸」が強くなる。
また、教師の手が空くので、外の視点で見ることができ、それぞれの場で個別指導できる。
短所は、初期段階でうまく回せないこと。
最低二人の回し手を育てないといけない。
育つまで、練習の進みも悪い。
いわゆる「初期投資費用」がかかる。

どちらが良いとは言い切れない。
状況やねらいによって、手段は異なる。
低学年か高学年かによっても違う。
たとえ中学生であっても、回した経験がなければ、いきなり回させるのは無理がある。
(正しい知識ゼロで練習に臨むのは、能率が非常に悪い。)
適切な手段の見極めが大切である。

自分の場合を例に示す。
最初は一緒に回す。
ペアで回す子どもは、色々と変える。
良い回し手になりそうな子どもの目安の一つは、上手に跳べること。
良い跳び方が分かっている子どもは、回し方にも気を配れる。
(例えば、僅か1cmでも空中に跳べば縄が通る、というような感覚。)
その内、休み時間などに子どもたちだけで回して遊ぶようになる。
そうしたら、うまく回せるペアが自然発生するので、あとは任せる。

低学年でも高学年でも、そうする。
時間がかかるかどうかの違いだけである。
ねらいが、クラスの絆作りという「横糸」の方にあるからである。

教師も一緒になって回すことで、一体感を味わうのもいいと思う。
それも一つの醍醐味である。

長期的なねらいと現在の状況に応じて、どちらを選ぶのか、意識的に選択したい。

2014年10月26日日曜日

君子固より窮す、小人窮すれば斯こに濫る

地元サークル木更津技法研での学び。
野口芳宏先生による『論語』の講義。
野口先生は、『孔子』(井上靖著 新潮文庫)という本を読んで、次の言葉のくだりの話に、深い感銘を受けたという。

君子固(もと)より窮す、小人窮すれば斯(こ)こに濫(みだ)る

孔子の一団が災難に遭ってすべてを失い、食糧不足で立ち上がることもできないほどになった。
弟子たちが困窮の極みに達した時、弟子の一人が孔子をなじって次のように言った。
「君子であっても窮することがあるのか。」
その問いに次のように答えた。
「君子であっても窮することはある。
 小人は窮すれば必ず乱れる。
 しかし君子というものは、窮すれど乱れることはない。」
この言葉をきいて、弟子は孔子に深い感銘を覚え、一層奮起したという。


以下は講義を受けた私の感想。

例えば職場で、何か失敗をする。
自分はダメだと思う。
色々なことが嫌になる。

そもそも、この思考パターンが「小人」そのものだとわかった。
「窮する」状況に「乱れて」いる。

聖人君子であっても、失敗はする。
(この部分が勘違いしやすい。すごい人たちほど、深くきけばすごい失敗だらけである。)
困ることは起きるという前提である。
しかしそれにどう対処するかが、分かれ目なのだろう。

失敗した。
ではどうするか。
これを客観的に考えられることが、理想の人格に近付くことになる。

失敗から逃げるのが最低の対処法。
失敗に立ち向かう智恵を持ちたい。

2014年10月24日金曜日

「ついでに」読む

先日の木更津技法研での野口芳宏先生からの学び。

国語の素材研究について。

ある一つの文学作品なり詩なりを授業しようとする。
その時、作品自体をあれこれ読むのだが、そこにもう一作業入れる。
それは、その作者の他の作品を「ついで」に読むこと。
あくまで「ついで」なのだが、これが授業に深みを増すという。

例えば室生犀星の「はたはたのうた」を授業する。
それならついでに犀星の代表作「小景異情」も読んでみる。
興味が出たら他の詩も読んでみる。
そうすると、室生犀星のものの感じ方が何となくわかってくる。
そうすると、「はたはたのうた」の授業が変わってくる。

簡単でかつ楽しい作業なので、「ついでに」の精神でやるようにしたい。

2014年10月22日水曜日

比較の意味

前号と関連して「競う」「比較する」ことについて。

保育園などで行われる幼児の運動会は、ほのぼのしている。
何というか、せかせかしていない。
(そのせいで終了時間が相当延びるのも常ではある。)

そもそも発達段階として、「競争」に対して興味が薄い。

例えば、障害物競走を見る。
ささっとクリアしてゴールできる子どもがいる。
一方、すごくゆっくりな子どもたちがいる。
最下位の二人がすごく遅い。
一人が、最後の障害物を抜け出した。
そのままゴールするかと思ったら、待っている。
お友だちと手をつなぎたかったらしい。
二人でゴール。
いい光景である。
(ちなみに、ずっと以前に話題になった小学生の運動会の「全員手をつないでゴールすべし論」とは本質を異にする。)

リレーなど見ていても、相手のチームの子どもがバトンを受け取るまで待ったりしている。
まあ、レースが二転三転して、見ていて面白いものである。
勝敗に関心があるのは観客側で、当の本人たちは「どこ吹く風」である。

競争というのは「他者との比較」である。
これが「磨き合い」につながる場合は良い。
オリンピックで最高新記録が毎回出るのもこの原理である。
競争原理は、存在価値がある。

しかし比較によって自己肯定感が下がるのであれば、この場合は不要である。
比較によって行動が抑制される場合も同様。
比較によって本質的に不幸になる場合は、全て不要である。

ちょうどいいタイミングで、上越教育大学の赤坂真二先生のお話で関連したことをきいた。
「クラス会議」という一つの手法についての話だった。
うまく実践できる学級がある。
びっくりするぐらいの「クラス会議」ができる学級がある。
自分のところは大したことない。
その比較自体が、無駄だということである。
たとえば「クラス会議」の手法は、実践によってクラスが良くなることが本質。
そこだけである。
そんなこと気にしてないで、さっさと実践して欲しいということだった。

前号の大縄の実践も同様。
回数はどうでもいい。
回数を設定することでクラスがまとまることに意義がある。

どんな実践も、根本・本質・原点を見失わないようにしたい。

2014年10月20日月曜日

大縄100回ストーリー

最近、ブログでまた大縄の記事に関心が集まってきたので、大縄ネタ。

今年の夏、読者の方からいただいたメールを紹介する。
大縄だけでなく、学級経営に大切な要素が凝縮されたストーリーである。
ブログに載せるにはやや長文ではあるが、紹介する価値が高いと思うので引用する。

(以下、メールの引用)
===================
松尾先生

 ○○と申します。
 以前、松尾先生に大縄跳びに関する資料を依頼いたしましたところ、
 ありがたいアドバイスとともに、資料を送ってくださいました。
 お忙しいところ、本当にありがとうございました。

 私のクラスは今年度、6年生34名。
 大縄跳びは見よう見まねでスタート。
 はじめは、縄の長さも10mの縄でやらせていました。
 34名が入りきらないので、出席番号でとびとびの17名ずつ2チームに分けました。
 2チームで競いながら始めました。

 松尾先生に資料をいただいてから、さっそく20mの長縄を2本購入しました。
 もう2チームに分けていたので、チームはそのままで続けています。
 結果を記す折れ線グラフを教室前方に貼り出しました。
 跳び方、回し方の指導もしました。
 回し方では、実際に松尾先生のクラスの子の回し方を見せました。
 教職ネットマガジンの映像です。
 とてもよくイメージがつかめました。
 2チーム4名の回し方が格段によくなりました。

 記録は,松尾先生のクラスのようにはなかなかいきません。
 でも、着実にグラフは右肩上がりになりました。
 視覚化するといいなあと実感です。

 7月。女の子が1名、家庭の事情で急に転出することになりました。
 彼女が来る最後の日。
 お別れ会のプログラムの中に大縄を入れました。
 それまでの最高は、たしか73回と59回だったと思います(ちょっと今、手元に記録がないので)。
 彼女が入っている方は、59回のチームでした。
 この日、ささやかですが、ドラマが作れました。
 両チームとも、100回ジャスト連続で跳べました。
 100回は初めてでした。
 しかも、2チームとも100回。
 はかったようにぴったりでした。
 私も声を枯らして数えていたので、間違いありません。
 始めに79回のチームが100回を達成。
 大歓声が体育館に響きました。
 もう一つのチームも、100回に近づくにつれて、一緒に応援していました。
 これがよかったです。
 そして、刺激をもらったようです。
 次に跳び始めた彼女の入っているチームもどんどん連続で跳び、
 100回ちょうどでとまりました。
 これも全員が大歓声でした。
 互いがいい意味で競い合うことができました。

 ハイタッチやらハグする姿があちこちで見られました。
 子供たちもとてもうれしかったことと思います。

 1学期の思い出を振り返らせたとき、作文に最も多く書かれたのが、この大縄跳びでした。
 大縄跳びは、実は毎日続けられていなくて、週に2回か3回のペースです。
 でも、2学期以降も、できるときを見つけて続けていきます。
 「500回いけるかも」と言っている子供もいますが、
 私としては、たとえ100回でも、クラスが一つになるという目的に近づければ言うことないです。

 次回はたぶん、ガクッと落ちることになると思います。
 でも、それもグラフに記して、ありのままを記録しながら全力でやっていきたいです。
 まだまだクラスは一つになっているとはいえません。
 私自身がプラスの気持ちでこれからも頑張っていきます。

 またこれからも先生のメルマガなどで学ばせていただきます。
 私も年齢の関係で、あとクラスが何回持てるかわかりません。
 クラスを担任できることに心から感謝して、悔いを残さず完全燃焼したいです。
 そして子供の力を引き出したいです。
 言葉にするのは簡単ですが、どこまで実践できるかなあと、弱気になることもしょっちゅうですが。

 お忙しい先生に拙文を送りまして、申し訳ございません。
 どうもありがとうございます。
=====================
(以上、引用終了)

ところどころ、学級経営においても大切なポイントが散りばめられている。
最初のステップからの上達の方法も示されている。
「100回未到達」の時点からの実践報告が、多くの方に参考になると思う。
「目指せ1000回」とは違い、また参考になると思う。

ところで、なぜ突然「両チームジャスト100回」というドラマが生まれたのか。
これはひとえに「信念」の一言につきる。
こういうドラマは、「信念」を持って臨むと、たびたび起こる。
つまり、偶然ではなく必然である。
精神論のようだがそうではなく、信念があると行動がついてくる。
行動があると結果がついてくる。
天地自然の理である。

そして、引用文の中にもあるように、回数は問題ではない。
100回だろうが1000回だろうが、そこは関係ない。(そもそも、他との比較に意味がない。)
目的は「クラスが一つになる」。
そして、「子どもの力を引き出したい」。
これである。
これを外すと、無意味どころかマイナスにすらなり得る。
完璧にここをおさえている点に感動した。

また、この先生は、私よりはるかにベテランの先生である。
すごい先生は、みな謙虚である。
本当に頭が下がる。
私自身、こういう方にずっと教わりたいと思う。
そして、年齢に関係なく、ひたすら学び続けたいと思う。

技術論なら、聞いていただければいくらでも伝えられる。
しかし熱意だけは、本人の内から湧き出るものしかない。
「やる気スイッチ」が教師自身に入っていることが、最大の成功要因である。

2014年10月19日日曜日

「やる気スイッチ」好評の御礼とお願い

今回は敬体で書きます。

「やる気スイッチ」の本がお陰様で好評です。
読者の皆様のお陰です。
ありがとうございます。

読んでくださった方がいらっしゃいましたら、ほんの少しでいいのでレビューを書いていただけると幸いです。

明治図書オンライン↓(こっちはレビューが0です!)
http://www.meijitosho.co.jp/detail/4-18-164614-1
アマゾン↓
http://www.amazon.co.jp/dp/4181646149/ref=zg_bs_tab_pd_bsnr_2
よろしくお願いいたします。

2014年10月18日土曜日

授業で最も「おいしい」のはどこか

授業で最も「おいしい」のはどこか。
それは「子どもが間違えるところ」である。
AかBか問うた時、「意見が真っ二つに割れるところ」である。
もっというと「間違えている方がやや多数派」だとさらに面白い。
うまくやれば、逆転現象が起きる。

先日、校内で他クラスの国語の授業を参観した。
教材名は「きつねのおきゃくさま」(教育出版2年上)。
(ちなみに、教務主任が飛び込み授業をかって出た。
そういう先生が校内にいるのは有難いことである。)

物語を知らない読者の方のために解説すると、
1 はらぺこきつねがひよこを見つける
2 食べようと思ったがひよこがやせててとってもフレンドリーなので家で育てる(「太らせてから食べよう」)
3 あひるとうさぎも同様に育てる内に、情が湧いてくる
4 おおかみが、育てた3匹をねらって襲ってくる
5 きつねは命がけで3匹を守って死ぬ
大体そんなお話である。

次の問いを出した。
「きつねが戦ったのはなぜですか。」
子どもから大きく次の二つの答えが出た。
A 3匹を守るため
B えさをとられたくないから

AかBか問うと、1:2の割合でBが多数派。
最も「おいしい」展開である。

この後、きつねがおおかみに挑むことの無謀さについて考えることを中心に授業が進んだ。
それでも頑なにBの立場を貫く子どもが多かった。

ここをしっかり理解するには、前半部の丁寧な読み取りが不可欠である。
つまり、きつねが3匹を育てる中で、気持ちがどう変化していくかを本文を根拠に正確に読む。
最終的に「食べる気」がどれぐらいあるか、また「きつねの愛情の変化」を正しく読み取れれば、先の誤読はいなくなるはずである。
残念ながら今回はその時間はなく、一旦授業が終了した。
その後、担任の先生がどう展開するのか、非常に楽しみである。

授業の中心発問は「意見が割れる」ものを選ぶ。
子どもの「不備・不足・不十分」を見抜いて問う。
「一読しても気付かない」「問われなければ気付かない」ものを選ぶ。
補助発問は必要最低限に抑える。
一読してほぼ全員が分かるものは授業で扱う価値がない。
前菜でお腹いっぱいになってメインが食べられないような事態は避ける。

おいしいものはおいしくいただく。
また、その価値や食べ方を知って食べた方が、よりおいしくいただける。
授業も料理も、そこは同じである。

2014年10月16日木曜日

作品を作者から独立した存在として認める

木更津技法研での野口芳宏先生からの学び。
以前も似たことについて書いたことがあるが、読者の皆様のためになりそうなので書く。

「書誌学」という学問がある。
ウィキペディアによれば、
「書籍を対象とし、その形態・材料・用途・内容・成立の変遷等の事柄を科学的・実証的に研究する学問のこと」
とある。

例えば、ある詩人の作品を授業するとする。
その時、作品そのものだけでなく、作者である詩人の人生を徹底的に調べる。
すると、詩の背景にあるものが見えることがある。
これはこれで大変意味のあることである。

具体例として、次の短歌を見てみる。

くれなゐの二尺伸びたる薔薇の芽の針やはらかに春雨のふる

正岡子規の作品である。
これを「病床につき、寝たきりのまま庭を見てつくった」という背景を知ることで、見え方が変わる。
より深く味わえるともいえる。

ただ、これは作品を純粋に鑑賞している姿勢とは異なる。
「病床についた稀代の俳人正岡子規の作品」として見ていることになる。
これが、例えば私が作った短歌だとしたら、大分解釈が変わることになる。

つまり、授業において、作品は「作者の手から独立した存在」として認めるべき、という考えである。
子どもは作者がどんな人生を送ったかをいちいち調べて読む訳ではない。
だから、その作品そのものと向き合って鑑賞する態度が大切だということである。

国語を研究しつづけてきた大家の先生の言葉だからこそ、説得力がある。

余談だが、俳句で句会をする時には、作者が誰だかわからない。
誰が作ったかではなく、作品そのものを選ぶ。
作者は抜きにして、優れた作品が選ばれる。
だから、作品そのものを真剣に見ることになる。

書誌学に疎いことを気にして「私には良い授業ができない」などと言わず、
まずは目の前の作品を自分自身が全力で味わうことが大切である。

2014年10月14日火曜日

「褒める」は縦で「感謝」「共感」は横

褒めるシリーズ第3弾。

前号に書いた通り、「褒める」「叱る」はよく効くが、劇薬の効果がある。

「褒める」の代わりに意識的に使いたいのが、「感謝」と「共感」である。
これらは、「褒める」に比べ、やんわりと効く(ような気がしている)。
「漢方薬」のイメージである。

具体例を挙げる。
例えば、掃除の場面。
一生懸命やっている子どもに対して。
「すごいね」「えらいね」「上手だね」は、褒め言葉。
一方「ありがとう」「○○さんがいてくれて助かる」は、感謝。
また「きれいになって気持ちいいね」や、一緒に掃除をして目を合わせた時に微笑めば、共感。
(ちなみに掃除等の場面で「共感」するには、相手と一緒の作業をしていることが前提条件である。
もし一緒に作業をしていない状態で同じ行為をすれば「褒める」に近くなる。)

褒め言葉が上から下の縦関係に対し、感謝と共感は並列の横関係である。
ちなみにこれはアドラー心理学で言われていることで、この考えでは横関係が望ましいとされている。

個人的には、やはり褒めることも叱ることも必要だと思っている。
ただ、教師と子どもの縦関係がある程度築けたら、なるべく感謝と共感を増やしていきたい。

自分がどちらを多く使っているか、意識して観察してみるのも面白い。

2014年10月12日日曜日

「褒める」の効能 取り扱い注意

「○○したら△△をあげる」という△に「品物」が入っても「褒め言葉」が入っても結局は同じである。
「品物報酬」は、単に物欲が強い人ほど効果が高い。
一方の「褒め言葉報酬」は、教師や親の期待に応えようという素直で真面目で、かつ愛情に飢えている子どもほど、効果が高い。
また、加えて○に「負の行為」が入ると△には「罰」というのも、同様に効果がある。

何のためにやるのか。
先の「○○したら△△をあげる」の思考パターンを刷り込めば、「何のために」は「ご褒美のため」と即答である。
逆に、褒美につながらない=教師が見ていない行為は、価値を失う。
(そう考えると「褒め言葉のシャワー」という実践は、「無条件」で「みんな」に褒められる点が秀逸である。)

何のためにやるのか。
本来は、それぞれの行為毎に明確な目的があるはずである。
掃除を一生懸命やるのは、「自分を磨くため」かもしれないし「人の役に立つため」かもしれない。
隣の友達を助けるのは「人の役に立つのが嬉しいから」かもしれない。
これが「先生や人に褒められるため」では、やはりレベルがまだ低い。
褒めることを報酬にする習慣付けをすると、褒められることが目的化するという弊害が出る可能性がある。

親や教師の褒める行為は、切れ味鋭い諸刃の剣である。
長所と短所とを含んでいる、劇薬である。
何気なく放った一言が、子どもの心に深く入る。

それを自覚し、使いこなすことは、容易ではない。
医者が薬を処方するのと同様、その効果を考えて使用しないと、マイナスの効果も生む。

褒めるという行為は、叱るという行為以上に、取り扱い注意である。

2014年10月10日金曜日

「褒める」は劇薬

自分の参加しているML上で「褒める」が話題になっての一考察。

一般的に「褒める」という行為にはみな肯定的である。
「ものすごい叱られ方をされた」ということが問題になっても、
「ものすごい褒められ方をされた」ということが問題になることは少ない。
(相手を褒めた「つもり」が問題に、ということは稀に有り得るが。)

「褒める」は「陽」で、「叱る」は「陰」のイメージである。
しかし陰と陽は一対で一つの完全体である。
片方だけでは存在しない。
つまり、どちらかが良くてどちらかが悪いというものでもない。
どちらにも長所がある一方、どちらにも短所がある。

褒めることに、果たして短所があるのか。
褒めるブームに逆らうような気もするが、反対意見が全く出ない、出にくいという類のものは、自分の頭で考えないと危ない。
「前提を疑え」である。
よって、褒める行為の短所を考えてみる。
(長所は一般に山ほど言われているので、ここでは割愛。)

いくつか考えられるが、ここでは最大の短所一つだけについて述べる。
一番の短所、それは「褒められるからやる」という価値観の人間を育ててしまうことである。
つまり、報酬で動くということである。
親や教師に褒められるというのは、子どもにとって最大の報酬になりうる。
報酬と行為をセットにするというのは、調教の手法であり、効果は高い。
(ちなみに報酬には「罰」のような「負の報酬」も含まれる。)
褒められることが目的化すると、褒められないとやらないということにもつながる。
よく「ご褒美でつるのはいけない」といわれるが、褒め言葉も立派なご褒美の一つである。

長くなるので次号に続く。

2014年10月8日水曜日

最新の情報は頭の中にあり

ある若い科学者の方とお話する機会があった。

その方曰く、
「雑誌や論文に発表されている時点で、それは最新の情報ではないのです。」
というお話をうかがった。

つまり、本などの形で世の人が見ている時点で、書いた本人の頭の中は先に進んでいる。
「最新の情報は、その人の頭の中にあります。
だから、直接会いに行って聞きます。」
ということだった。
特に日進月歩、一人勝ちの科学の分野は、シビアである。
発表が一日早いか遅いかで、今までの苦労が水泡に帰し、天国と地獄の結果に分かれる。

そういったシビアさこそないが、なるほど、これは特に本やセミナーに通じる考えであると感じた。
この夏に発刊された「やる気スイッチ押してみよう!」についても、同様のことがいえる。
私と共著者の飯村先生と二人で本について話した時のこと。
二人で意見が一致した点が二つある。
一つ目が、有用なとてもいい本に仕上がったという点。
二つ目が、一方で、もう自分の中では理論が進化しているという点。

つまり、本を書いている時期と出版される時期のタイムラグがかなりあるということである。
だから8月16日の「やる気スイッチセミナー」では、本に書かれていない内容が結構入った。
本は、体系的にまとまった情報が入るので有益である。
一方で、セミナーは、情報量としては本より少ないが、最新の情報が入るので有益である。

他分野の方とお話すると、いつも気付きが多い。
時に自分の専門分野以外の職業の方と接する機会を持つことも大切である。

2014年10月7日火曜日

8の字跳び実践 メルマガ配信中のお知らせ

現在、ブログアクセスが8の字・大縄の記事に集中してきている。
それを受けて、メルマガ上で8の字跳びの実践を中心に配信している。

まだ記録の低い初期レベルからの実践記録になるので、取り組み始めの人には特に参考になると思う。
興味のある方はぜひメルマガにご登録を。

2014年10月6日月曜日

「まずは」人気の先生になろう 考察

「まずは」次の本を、項目だけでも読んでいただきたい。

『どの子の信頼も勝ち取る!まずは人気の先生になろう!』
飯村友和著 明治図書↓
http://www.meijitosho.co.jp/detail/4-18-052640-6

過去何度か紹介している、親友の飯村友和先生の単著である。
大変実用的な本で、自分もよく活用させていただいている。
例えば紹介されているマジックも、びっくりさせるより腰砕けな感じで、とっても使いやすい。
本当に「新卒3年目」までの先生を対象にしているので、使いやすい。
何でもそうだが、本当にわかりやすいものは、誰にとってもわかりやすい。
よくプレゼンや説明は「中学生でもわかる言葉で」という。
難しい教育哲学の本は、後回しでも良いと思う。
「名人」の本は必ず読んだ方がいいが、実践するとなるとかなり難しいことは誰しも経験済みだと思う。
背伸びも意味があるが、読みやすくやりやすい本からとりかかる方をおすすめする。

前にもどこかで書いたが、この本のタイトルの「まずは」の部分が大切である。
特に、新卒3年目までは、人気の先生を目指すのがいい。
実年齢として若く、子どもと年齢が近い。
入りから子どもの目の輝き、期待が違う。
保護者は不安に思う点もきっとあるが、それも「人気の先生」なら子どもがカバーしてくれる。

ベテランにも、「人気の先生」は存在する。
しかし、若手の「人気の先生」とはかなり内実が違う。
こちらは、子どもが担任発表で大喜びするというより、学校だけでなく保護者や地域から全幅の信頼を得ている場合が多い。
安定感抜群で、子どもがぐんぐん力をつける。
子どもの方は、最初は少し「おじさん(おばさん)先生か~」となることもあるが、徐々に惹きつけられていく。
一言でいうと「かなわない」実力者である。

そしてどんな「人気の先生」だって、万人受けはしない。
人間である以上、必ず合う合わないがある。
全ての子どもの好みを一人でカバーするなど、不可能である。
(もしできていると思っていたら、それはかなり危ない。)
また、「信頼しているけど好きじゃない」ということだって有り得る。

何でも、やってみたら視点が変わる。
在学中は鬱陶しいほどに寄ってきていた子どもが、卒業後はさっぱり音信不通、ということはよくある。
逆に、自分は嫌われていたのではと思っていた子どもが、きちんと毎年連絡をくれたりもする。
心の奥までは、わからない。
好かれていようが嫌われていようが、ただ、今やれることをやるだけである。

それを踏まえた上で、「まずは人気の先生」を目指すのがいいかと思う。
「人気の先生」になることも、一つの大切な経験値である。

2014年10月4日土曜日

高熱に思う「感謝」と「予防」の大切さ

熱を出した。
39度を越える高熱が2日続いた。
どんなに高熱でも、1日で治るというのが常だった。
単なる風邪で2日高熱が続いたのは、小学生の時以来である。
さすがに辛かった。
また、なぜか「土日に発熱」という傾向が強かったのが、平日ど真ん中になってしまった。
2日間も学校を休まざるを得なくなってしまった。
出席するはずだった大切な会もパスせざるを得なくしてしまった。
残念な話である。

さて、熱を出したり大きなケガをすると、必ず2つのことを思い出す。
似たようなことを書いたことがあるが、忘れてしまうことなのでまた書く。

一つは、日常への感謝である。

当たり前のことへは、感謝しにくい。
空気のように当たり前にあるものには、存在すら意識しない。
なくなった時に、初めてその大切さに気付く。
風邪を引くと、身に染みる感謝がたくさんある。

まず何より、健康。
「普通に立って歩ける」ということは、有難いことである。
「痛みにさらされていない」ということは、有難いことである。
自分の体を苦もなく自由に動かせることは、当たり前すぎて有り難さに気付かない。

次に、家族。
一人でセルフ看病をしたことのある人は分かると思うが、何をやるのも辛い。
特に、食事など、面倒この上ない。
飲み物や薬が足りなかったら自分で買い物に出ないといけない。
氷枕の用意も交換も、病気の時は何もかもが面倒である。
これを一手に担ってくれる家族がいるのは、この上ない有り難さである。
心配してもらえるのも有難い。
よくよく考えると、病気でない時も、普段から何もかもやってもらっていることに気付く。
感謝が足りていないことに気付く。

職場もそうである。
熱が出たと言えば、管理職から同学年まで誰しもが「ゆっくり休んで寝てなさい」と言ってくれる。
「這ってでも来い」などという人は誰もいない。
必要な時に快く休んでいいと言ってくれる職場にいる有り難さも、気付けていない。
学年のサポート体制も然りで、いつも当然のように色々なことをやってくれている。
有難い限りである。


さて、「感謝」と併せてもう一つ気付くのが、「予防」の大切さ。
予防を軽視した慢心が失敗を生む。
今回の件に関していえば、一週間前から喉がかなり痛かった。
いつもなら「一病息災」の原則で即耳鼻科なのだが、あいにく少しばかり忙しかった。
「大丈夫、大丈夫。」で乗り切って時間を節約したつもりが、この様である。
少しの先手(予防)を怠ったために、大きな代償(治療)を払うことになった。
学級経営にも通ずる話である。

失敗は成功のもと。
神様からのメッセージだと思って、改善していきたい。

2014年10月2日木曜日

「やる気」以前の問題の可能性を考える

前号の続き。
「できない」の原因を考える。

以前も紹介したことがあるが、例えば「動作性IQ」が極端に低い子どもがいるとする。
(特別支援教育のスペシャリスト、川上康則先生からの学びである。)
何度テストをしても、漢字が書けない。
「やる気がない」「練習不足」と思いたくなる。
実際、漢字練習もあまりやってこないし、字もぐちゃぐちゃである。
しかし、真実は「文字が記号にしか見えない」という視覚的な情報処理の問題があったりする。
見えないものは見えないのである。
「そんなはずはない」と思うが、そうなのである。

逆の例で考えればわかりやすい。
例えば私には絶対音感がない。(多分、読者の方々もない人の方が多いと思う。)
だから、単体である一つの音を聞かされても、何の音かはわからない。
絶対音感のある人には、当たり前のようにわかることであるという。
「あかさたな」が聴き分けられるのと同じで、意識する必要すらないことらしい。
絶対音感のある人に言わせてみれば「わからないはずはない」のである。
視覚的にいうと、そんなもの「犬」と「太」の漢字の見分け方以上に簡単なことなのだろう。

しかし、私にはどうしてもわからない。
むこうから言わせてみれば「何でわからないの!?」だと思う。
わからないこと自体が理解不能だろう。
「絶対音感はみんなが持っているものではない」という概念がないとしたら、
「やる気がない」「練習不足」とみなされるかもしれない。

だから、自分と相手の情報処理の方法が違う場合、自分の感覚で考えても伝達がうまくいかない。
ただひたすらやらせてみてもダメである。

「できない」の源は何なのか。
この見極めさえできれば、問題は半分解決したも同然である。
逆に言えば、この見極めを誤れば、全て間違った指導にもなり得る。

教室には本当に「経験不足」なだけの子どもも混在する。
この子どもには経験値をどんどん積ませた方がよい。
叱咤激励も時に必要だろう。
一方で、逆効果になる子どももいる。
ここの辺りの見極めが、難しいところである。

何事も「根本・本質・原点」に着目することが大切である。

敬老の日は、あっていい日

祝日ということで、特別に連日投稿。 敬老の日である。 その意義は言わずもがな。 しかし、この敬老の日に対しても、様々な意見がある。 平たく言うと 「本来、いつでも敬するべきであり、この日だけ敬って祝ってはい終わりというのはけしからん」 というものである。 なる...

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