2015年7月30日木曜日

子どもが就きたい職業

面白い記事を見つけた。
様々な団体が調査しているので、一概にこれとはいえないが、興味深い結果である。
化学メーカーのクラレが何年か継続して行ってきている「将来就きたい職業アンケート」の最新記事である。

予想していただきたい。
中学1年生の男子と女子、それぞれ1位は何が来るか。
ベスト10にどんな職業が来るか。
結果がこれである。↓(PDF)
http://www.kuraray.co.jp/enquete/occupation/2015_s6/pdf/2015_s6data.pdf

教える側としては、嬉しい結果である。
もちろん、子どもにとって最も身近な職業であるというアドバンデージはかなりある。
しかし、だからこそ、そこが輝いて見えるのであれば、嬉しいことである。

思えば、何かと良さのある職業だと思う。
何年経っても、外を歩けば「先生!」と声をかけてもらえる。
(若干、落ち着かない面もあることは否めない。しかし、有難いことである。)
時には、卒業して何年経ってからも、感謝の手紙をいただけたりすることもある。
多分、なかなか他にはないタイプの職業である。

大変な面も確かにある。
それでも、魅力が多いからこそ、なり手もいるというものである。

いきいきと働く姿を見せて、「この仕事もいいかも」と思わせられたなら、少しいい仕事ができたといえるかもしれない。

2015年7月25日土曜日

「実力がついてから」は一生来ない

誰かに対し、次のような言葉をかける人がいる。
「よくやるね。自分にはできない。」

この言葉の相手に対する思いには、二つの解釈ができる。

一つは、「すごい人だ」という素直な見方のもの。
もう一つは、「恥知らずな奴だ」という穿った見方のもの。
両方混ざっているのかもしれない。

一方、言った方には、謙虚に次の思いがあるのかもしれない。
「自分には、実力が足りないからできない。」

これは、真実か。

これが真実であるなら、やる側も当然できないという論理になる。
誰もが認めるすばらしい実力なら良いということだからである。
この時点で、言った人は相手を認めていないのだから、資格喪失ということになる。
そして、その日を待つと、永遠に来ない。
いつでも実力は十分には足りていないけれど、とにかくやるしかないのである。

つまり何でも「実力がついてから」と言っていると、一生やれないというのが持論である。
「立場が人をつくる」という面もある。
そのかわり任されるからには、責任を持って全力でその役目を果たす覚悟だけは必要。
それさえあるなら、立候補だろうが推薦だろうがやればよいと考える。

授業研などもそうだが、「私なぞに」と謙遜する若い人には、具体的に何年後ならOKなのかききたい。
若い内にやった方が、後がたくさん残っているから、有益である。
謙遜している内に、現役時代は終了する。
特に、今の20代後半から30代は、担任をさせてもらえるのが、残り数年の可能性が高い。
周りを見ても、30代前半から教育委員会などの指導的立場にひっぱられる人がかなりいる。
つまり、現場経験が少ないまま、すぐに指導的立場になる可能性があるということである。
数少ないチャンスを今逃したら、もう一生来ないかもしれない。

成長を求めるならば、恥も痛みも覚悟の上で、飛び込む勇気が必要である。

2015年7月23日木曜日

逆上がりは足し算で考える

前号の続き。
こうもり振り下りから入る授業を提案する。
しかしながら、逆上がりの指導はできた方がいいと思っている。
決して逆上がりの指導を否定している訳ではなく、むしろかなり好きである。
そこで、自分がこれまで逆上がり指導をしてきた上での持論を述べる。

逆上がりを指導していて、私は一つ自分の理論としてずっと持っていることがある。
それは「逆上がりは足し算で考える」という理論である。
仮に、ある人が逆上がりに必要な物理的な力を「100」とする。
何が足し算なのかというと、蹴る力と腹筋で前屈する力(正確には、表裏一体の背筋も含まれる)である。
蹴りが強い(上方かつ後方の回転方向へ蹴ることができる)なら、腹筋は弱くても回れる。
例えば 「蹴り70+腹筋30=計100」 という状態である。
逆に、蹴りが弱くても、腹筋が強ければ回れる。
この場合、「蹴り30+腹筋70=計100」 という状態である。
ここに身体を上手に使うための「逆さ感覚」や「回転感覚」「腕支持感覚」などの感覚も必要になる。
例えば蹴る力も十分、腹筋の力も十分なのに、できない子どももいる。
これは、例えば逆さまになるのが苦手で、逆さになった途端に、力が発揮できないという状態が考えられる。
この場合においては、逆さ感覚をつけるための別アプローチの指導が必要になる。
しかし、物理的な力でいうと、必要なのは地面を蹴る力と腹筋の二つの合力である。
あくまで経験則の話ではあるが、この点は結構確信を持っている。

極端な例で「懸垂逆上がり」を考えるとわかりやすい。
あれは、蹴る力0の腹筋100である。(蹴って上方へいかない分だけ、腕も多少曲げる必要はある。)
下半身が軽くて頭だけが極端に重い幼児は、これが結構できたりする。
逆に言えば、通常の逆上がりであれば、うまく蹴る力さえあれば、腹筋はほとんどいらない場合もある。
だから、単純に「太っているからできない」ということにはならない。
(しかしながら軽い方が当然楽であり、幼児期の方が有利である。)

そう考えると逆上がりの反復練習は、筋力を鍛えつつ、蹴るタイミングと感覚をつかむ練習といえる。
だから『飯田・根本式段階別さか上がり練習法』や、帯・タオル・ベルト等を使う練習には効果がある。
前者は主に蹴る力の方を補助し、後者は主に腹筋の弱さを補助している。
前者は跳び箱と踏切板が蹴る方向を修正し、身体の移動距離を短くしてくれる。
傾斜が急なほど、高い位置から蹴ることができ、物理的な力が少なくて済む。
後者は腹筋が弱くても、鉄棒に身体が巻き付くようにしてくれる。
ひもの長さが短いほど、強制的に回転の中心部分にへそが近付くため、楽に回れる。
これらの指導は相当研究されており、一概には言えないかもしれないが、単純化して伝えるとそういう感じである。

ただ、これらの力が、反復してもなかなか身につかない子どももいる。
上達が目に見えない時に努力を継続させること自体、高い指導技術が必要である。
逆上がりに固執せず、様々な方向から鉄棒運動を好きにさせたり、得意にさせたりしたい。

2015年7月20日月曜日

「逆上がりができない」状況をどう捉えるか

逆上がり。
これができないと人生にどんな悪影響や問題が出るのか。
結論、できなくても社会に出れば必要性は低く、特に問題はない。
将来体育を教える立場になるとか、アクション映画さながらの高いところからぶら下がる状況になるなら話は別である。
普通に生きていれば、多分ほとんど使う状況はない。

では、やる価値がないのかというと、全く逆で、価値は高いと考えている。
学校教育は、そのまま実生活での実用性を第一とするものではない。
家庭科のようにそのまま実生活に直結するものも勿論あるが、そうでないものの方が圧倒的に多い。
戦時中の学校のように、実用性の必要に迫られて余裕のない状態では、学問的な教育は後回しにされてしまう。
海外の厳しい環境下の子どもたちも同様である。
本来、労働とは別に学問の機会が保証されて然るべきである。

話がやや脱線したが、要は実生活に直で役立つかどうかが価値ではないということ。
様々な種類の学習を通して、「人格の完成」という大きな目的に近付けていく。
その過程には「協力」「努力」「工夫」「論理的思考」「体力」など、様々な力が総合的に育っていく。
途中には「感動」もきっとある。
このような向上的な変容があれば、価値があるといえる。

その点において、「逆上がり」の学習はなかなかの優れもの教材である。
逆上がりが他の教材より優れている点は、獲得までのステップが明確であるということ。
目指すべき到達点と途中の段階がかなりはっきり見える。
そして、ここは長所でもあり短所でもある点だが、結構時間がかかるという点。
何十回、何百回という練習を繰り返していく中で、タイミングをつかんでいく。
一定の筋力も必要になるが、やっている内に、必要な筋力も徐々についていく。
日々の努力が「できそう」に近づいていける。
また、「できた」「できない」が身体の表現として本人に明確にわかる点がいい。
できた時の達成感がある。
できた結果、自己肯定感が高まる。

ただ前提として、できるようになること=技能の高まりが大切になる。
たとえ補助付きでもいいから、できたという達成感が欲しい。
そのための指導のステップとして、
『飯田・根本式段階別さか上がり練習法』や、
帯・タオル・ベルト等を使う練習がある。
「スモールステップ」で達成感を維持でき、大変に有効な指導法である。

問題は、高学年になっても、逆上がりができないままの子どもがいることである。
体育を中心に研究している学校ではクラス全員できることもあるが、他においてその状況は割と稀である。
結構、逆上がりができないまま進級することが多いようである。
そうすると、高学年担任は困る。
高学年としての高度な技や組み合わせ技に取り組ませたいのに、まずもって少し高い鉄棒には上がれない。
そして、鉄棒嫌いであることが多い。
重度だと、毎回見学する場合もある。
結果、教師の側も鉄棒指導が億劫になるということもある。

立ち返ると、逆上がりの位置づけである。
先に述べたように、逆上がりができないと絶対にいけない理由はない。
ただ、鉄棒運動へは意欲的に取り組めた方がいい。
そのための道は一つではない。
別のアプローチからも鉄棒運動を好きにさせたり、得意にさせたりすることはできないか。
今回、こうもり振り下りから入る鉄棒運動の単元を提起したのは、ここのあたりの問題意識による。
(そして、絶対にこうもり振り下りからやらないといけない理由も勿論ない。)

なるべく低学年の内に、様々な動きに取り組ませることが肝要である。

2015年7月18日土曜日

はたらくは「傍楽」

メルマガ上で6月の記事。
毎年書くのも何だが、6月は病気の多い時期である。
教員だけでなく、社会全般で5月と6月に病休に入る人が多いというデータがある。
働けるのは有り難いことだが、身体をこわしてしまうのは避けたい。
残業も積み重なると、後に響く。

残業は、仕事が終わらないからやる。
無理矢理させられている人は割合としては少ないと思う。
がんばってるのに、何か虚しく感じることもある。

はたを楽にさせるから、はたらくという。
喜んでもらえることで、自分も仕事を楽しめる。
これが、がんばってるのに認めてもらえないとなると、しんどい。
しかし、以前書いた通り、ちょっとやそっとではほめられない、認められないのが大人の社会である。

よく周りを見てみると、自分よりもがんばってる人がいる。
特に面倒なことを進んでやってくれている人がいる。
認めてもらえない自分は、その人に声をかけているか。
余裕がなくなって、自分だけになっていないか。

はたを楽にしてくれている人に、感謝が足りないことに気づく。
周りに目を向けると、感じ方も変わるかもしれない。
自分が楽をさせてもらっていることに気付くと、元気が出る。
倒れそうな時は、目を上げて周りを見てみたい。

2015年7月16日木曜日

叱ることについて

未来のゴールを見据えて現在のなすべきことを考える。
叱りすぎて子どもが将来自信をなくしていたら失敗である。
一方で、良くない行為も叱られずに過ごして大きくなっても、ここに問題が残る。

社会に出たら、結局叱られるのである。
褒められることの方が圧倒的に少ない。
みんな、そんな余裕はないのである。
びしばしやられないで、見切られることもある。
(その意味で、部活動で時折見られる理不尽なほどの上下関係は、社会のトレーニングになっているかもしれない。)

叱らない教育は、精神衛生上よい。
これをベースにやれたらいい。
ただ、他人に迷惑をかける行為やマナー、モラルに欠く行為は、遠慮なく叱る。
一度目は教えても、二度目、三度目となれば話は別である。

叱ることは、辛い気持ちになる。
叱った後に、自分が嫌になることも多い。
それで自分がダメだと思ったりして悩む人もいる。
ほめるのがいいという記事を読んだりや話をきくと、凹む人もいる。

実際は、ほめることと同じくらい、叱ることも大切である。
どちらも、程度の問題である。
少なくとも、社会では叱られる機会の方が多い。
ほめることを多くしようとして、たくさん叱ってしまう。
それぐらいのバランスで、実社会に向けてはちょうどいいのではないかと思う。

2015年7月9日木曜日

仕事術 メモ&次年度の文書作成

たまには仕事術の話。

私は、メモをよくとる。
メモ魔というほどでもないが、かなりメモをする。
付箋は大活躍である。
本を読んでも話を聞いても歩いていても、とにかく気付いたことは付箋にメモをとる。
(このメルマガネタも、付箋の気付きメモから生まれているものがかなり多い。)

さて、メモで大切なものの一つが、自分の校務分掌のメモ。
例えば運動会の提案をして職員会議で通る。
通った後になって、あれが必要、これも必要と気付き、色々と追加連絡が出る。
その場では何とか凌ぐが、来年度も確実に同じことが起きる。
(特に、提案にないのに協力的な人の義理人情で何とかしている部分については、確実に改善が必要である。
 義理人情に頼るのは、本当のピンチの際の最終手段にとっておきたい。)

どうするか。

その都度、来年度に備えて、提案文書のデータに書き加える。
ただ、これは結構面倒である。
そこで、メモの出番である。
とりあえず紙でも何でもメモしておく。
そして、ワードなどで「運動会メモ」などというファイルを作り、つれづれ書いていく。
形式とかは気にしない。
書く場所も順番も気にしない。
とにかく、書いておく。

それで、行事が終わった後に、反省をまとめる際、このメモも見返す。
反省には出なかったものの、主担当の自分には気付いていた点がある。
それで、次年度の仮の提案文書(異動があるため、人名部分はいじらない)を作る。
そこまでやって、今年度のその行事の仕事は一区切りついて終わりである。
一手間、いや、結構な手間だが、次年度も自分がやると思った時の労力を考えると、かなりのコスト節約である。
新しくその分掌担当になった人も楽である。
来年度の見通しももてて、その行事も今年度よりうまくいくはずである。
(経験上、最もうまくいかないのが、見通しの悪い時である。つまり、異動したての年である。)

割とやっている人も多いことだと思うが、そんなことももしかしたら役に立つかと思い、僭越ながら紹介してみた。

2015年7月7日火曜日

自分の所属に誇りを持つ

自分の所属に誇りをもつことは、自信を持つことにつながる。

例えば、〇〇家の人間であるという自負。
〇〇学校の児童・生徒であるという自負。
〇年〇組の生徒という自負かもしれない。
大きくは、日本人であるという自負かもしれない。

自負すれば、自然と行動もそれに相応しいものになっていく。

逆に「どうせ自分なんか」という状態は、負の行動へ導く。
また、自分の所属をけなすことも同様。
自分の所属のメンバーに対しても同様
「互いを尊重する、または尊敬する」という態度が、結果的に自信につながる。

単純なことだが、意外と逆にいきがちな部分である。

2015年7月5日日曜日

成功は運のせい 失敗は自分のせい

タイトルは、松下電器(現パナソニック)創業者、松下幸之助の言。

成功したら、周りのお陰。失敗したら、自分に原因がある。
全員が、そう考えることで、成功も失敗も生かされる。
うまくいったのは、周りの人々と運のお陰だと考える。
そうすると、自分の小さな失敗も生かされる。

失敗したら、自分に何か改善できる点はなかったかと考える。
例えばメンバーの誰かがミスしたとしても、自分にフォローできるものがあったはずである。
または、ミスの原因を自分が作った可能性もある。

どちらにせよ、周りへの感謝と、自己の反省は必須。
うまくいったら、多くは人様のお陰。
うまくいかなかったら、ほぼ自分の責任。

チームメンバー全員に必要な考え方だが、誰よりもこれを意識すべきは、責任者である。
学級なら、担任である。
これは、毎日の授業にも当てはまる。
授業をよく理解していたら、子どものお陰。
授業をよく理解できていないとしたら、担任の責任。
そう考えると辛いし苦しいが、それが真実。
自省していきたい。

2015年7月3日金曜日

同じ人間として対等にみる

「子どもはやがて大人になる」
こういう見方をすると、普段の接し方も変わってくる。
同じ人間として対等に接する意識になる。
年齢や立場に上下や違いはあれど、それは人間としての上下ではないという見方になる。

そうすると、ほめることが減る。
「?」と思った人もいるかもしれないが、「ほめる」という行為は、原則として上下関係がある。
(アドラー心理学の考え方で、以前何度か書いた。)
上の立場の人が下の立場の人に対して「ほめる」を行う。
「よくできました」「上手」「がんばりましたね」。
どれも、恐らく職場の上司や年長者に対して言うことはないと思う。
ほめるという行為は、上から下への報酬の一種である。
(これ自体は意味のあることだが、子どもが報酬のために行動するようになると、何かと不都合が生じる。)

人間として対等という観点で見ると、ほめるというより感嘆する、感謝することが増える。
「すごい」や「ありがとう」「嬉しい」という言葉が増える。

例えば、仮に子どもが漢字テストで100点を取ったとする。
「よくできました」と言われたら子どもは嬉しい。
しかしこれを、対等の観点で伝えると、
「自分の子どもの頃は漢字100点なんてなかったなぁ・・・(遠い目)。すごい・・・。」
というようになる。(実話。)

別の例で掃除であれば
「真面目にやってるね。あなたはえらいね。」
というところを
「真面目に掃除をやってるね。あなたがいてくれて助かる。」
となる。

これがいいのかどうかは、知らない。
ただ、本当にそういう風に感じて伝えることが多い。

また、この人間として対等に見て接するということは、指導をしないということとは違う。
教育が仕事である。
育つように教えるべきは教える。
特にマナーのようなことは、子どもは経験上知らないのできちんと伝える必要がある。
ダメなことをダメときっちり叱るのも、一人の対等な人間として認めているからこそである。
人間以外の動物にマナーや倫理を伝えようとしないのは「馬の耳に念仏」だからである。
(人間であっても、そういうことがあるので、伝えないことはある。)

子どもは子どもである。
しかしながら、子どもは大人になる人間である。

当たり前だが、そんなことが結構大事なのではないかと思う。

2015年7月1日水曜日

結果には、原因がある

給食を配膳中、ぶつかってひっくり返す。
これが何度か起きたとする。
どうするか。

気を付けるように言う。
しかしまたやる。
叱る。
これが悪循環パターン。

ここでは、失敗の原因に目を向ける。
給食をひっくり返したというのは、なるべくしてなった結果と捉える。

例えば、動線に目を向ける。
人が交互に行き交っていないか。
狭いところを通っていないか。
そもそも、机の配置が悪くないか。
運ぶ人数が多すぎるのではないか。
・・・・

挙げればきりがないが、かなり要素があると思う。
つまり、それだけ要素があれば、なるべくしてなった結果だといえる。

ここで、結果に着手しても無駄である。
気を付けるように言うのは、それにあたる。
原因の方を指導する必要がある。

当たり前すぎることだが、結構見落としがちである。
特に体育では、運動の状態そのものに注目しがちだが、その前の予備動作に原因があることが多い。

これは、様々な場面でいえる。
なぜその状態なのか。
それは、物理の法則と同じである。
高いところから落としたら、振り子が大きくふれるのと一緒である。
自然の結果である。

そういう視点でもって見ると、解決策が見えてくるかもしれない。
  • SEOブログパーツ
人気ブログランキングへ
ブログランキング

にほんブログ村ランキング