2015年9月29日火曜日

「よかったね」が言える学級

「おめでとう」「よかったね」が、周りから自然と出てくる学級。
学級の理想型の一つである。
仲間の喜びを一緒に喜べれば、一日の中で喜ぶことが一気に増える。
逆も然りで、妬みや悪口が出ると、嫌な気持ちになる機会が増える。

この反応の差はどこにあるのか。

思うに、「自信」が関わってくるように思う。
自分に価値があると認めることができれば、他人の良さも認められる。
ダメなところがあっても、お互い様と思える。
自信がないと、相対的に人を低くしようとして、それが悪口等になる。

まずは子どもに自信をつけること。
それは偉ぶるのとは真逆で、自分にもやれることがあると思わせること。
ダメなところは、とりあえず後回し。
(ただし、危険であったり人を傷つけるようないけない行動への指導は、後回しにしない。)
そんなところを重視して、後半の学級経営に臨みたい。

2015年9月27日日曜日

目で聞き、耳で見る。

タイトルは、次の本から見つけた言葉の引用。

『道遠し』毛涯章平著

この本で書かれている言葉を引用する。
==================
(引用開始)
思うに教育の営みは基本的な秩序や規律が必要である。
また当然なすべき課題は、厳しくそして周到に用意され、確実に実現されることを願いとする。
しかもその中にあって、教師は個々を深く見つめ、寄りそい、目で聞き耳で見る注意深さとゆとりをもって、
時には「前禽を失う」べく臨機応変の粋な計らいが生まれることを私は期待し、
それは教師の絶えざる精進から自然に発することを信じたい。
(引用終了 メルマガの読みやすさの都合上、一部こちらで改行)
===================
以下、私見。

「目で聞き、耳で見る」とは、一見すると奇怪な言葉である。
「目で見て、耳で聞く」はずである。
しかし、教師の仕事をしている人には、感覚的にわかるのではないかと思う。

要は、本質を見抜くということである。
一見、または一聞して、そのまま表面的に受け取らないということである。

例えばこの本の中では、次のような実例への対応が挙げられている。
あまり出来映えのよくない夏休みの作品への評価。
校長室の前の廊下をものすごい勢いで走っていく子ども。
中学の遠足で持ってきてはいけないお金を持ってきた子ども。

どれも、秩序や規律の面で見たら、だめなことである。
しかし、それぞれ、次のような面が見えると、捉え方も変わる。

多くの子どもが親に手伝ってもらっている中で、完全に自力でやってきた。
低学年で風邪をこじらせ、長期の入院を経てやっと退院したばかり。
祖母に、お守りを買ってきて欲しいと頼まれた。

それでも、規則は規則、だめなものはだめと切り捨てることもできる。
しかし、それではあまりにも「お役所仕事」すぎる。
一人の生身の人間を相手にするには、表面的な捉えでは対応できない。
相手の事情を慮って、「粋な計らい」の対応をすることだって、時にはある。

余裕がない時ほど、表面的な行動で相手を捉えてしまいやすい。
「嫌い」と言われれば、「失礼な」と腹を立てて叱ったり、黙って自分が傷ついたりする。
だらけていたら「やる気がない」とみなし、発破をかける。
「もうだめ」と言ってきたら「がんばれ」と励ます。

どれも、いいかもしれないが、良くないかもしれない対応である。
難しいのは、表面の行為と中身とが一致している場合と、そうでない場合が混在することである。
「こうすれば誰にでも絶対うまくいく!正解!」という対応法は、存在しない。
五感をフルに働かせて、真意を見抜く。
それが「目で聞いて、耳で見る」ということなのではないかと解釈した次第である。

2015年9月25日金曜日

子どもの「見ててね!」考察

子どもが、親、または教師に対して「見て!」または「見ててね!」と言う。
すごくよくあることである。

学校だと、体育や音楽など技能が上達した時などに特によく言う。
家庭だと、もっと些細なことでも言う。
自分のお気に入りのおもちゃを見て欲しい時などにも言う。
ちょっと指をけがした時などにも言う。

忙しい時だったりあまり頻度が多かったりすると、つい対応が適当になってしまいがちである。
しかし、子どもにとって、この「見て!」「見ててね!」は、ものすごく大切なことである。

一つは、承認の欲求である。
できていることやがんばったことを認めて欲しい、褒めて欲しい。
「よくがんばったね。」「えらい、えらい。」「すごい!」というような言葉である。
または、心配して欲しい時にも使う。
けがしていたら「痛かったね」と共感して欲しかったり、「よく泣かなかったね。」と我慢を認めてもらいたかったりする。

もう一つは、安全の欲求である。
信頼できる大人が見てくれているといのは、子どもにとって何より心強いことである。
例えば器械運動で、もう完璧にできる技なのに、先生が見ていないと怖いのでやらないということもある。
(実際は補助もしないので、横に立っているだけである。)

大人の側からすれば、見てと言われたので見ているだけである。
しかし、子どもからすれば、結構な重大事である。
また「見て!」と言われたということは、逆に言えば子どもにある意味認められているともいえる。
それは結構な有難いことだと思う。

子どもが「見て!」と言ってきた時には「来たな」と思って、可能な限り温かい目で見てあげるようにしたい。

2015年9月23日水曜日

「私のやる気スイッチを押してください。」

先日、『やる気スイッチ押してみよう!』の共著者の飯村先生と話していて出た話題。

「私のやる気スイッチを押してください。」
セミナーとかで、結構よく言われるフレーズである。
そういうタイトルの本を書いているのだから、当然ある質問である。
「とりあえず、本を買ってください。」
とは言わない。
質問してくる人も読んでくれた人が大半である。
なので、真面目に答える。

前回の話と同様、これも万人に通用する方法はないが、色々方法は示せる。
その一つに、教師自身が憧れを持つことが大切だと思っている。
「あの先生みたいになりたい」という思いを持つと、突然変わる。
または「こんな学級をつくって、こんなことしてみたい」という具体的な思いがあると、変わる。
つまりは「何のためにやるのか」という動機付けである。

おすすめの書籍を紹介する。
『何のために』中村文昭著 サンマーク出版
http://www.sunmark.co.jp/book_profile/detail.php?cmn_search_id=978-4-7631-3337-3

タイトルの「何のために」は、やる気スイッチを入れる方法の中でも、核になる部分の一つだと思っている。
『やる気スイッチ押してみよう!』の第一章の「率先垂範」の中に、次の項目がある。
(1)口癖マジックワードは「楽しいね!」
(2)みんなが学校に来るのは何のため?
(3)教師が学校に来るのは何のため?
(4)背中で示し,誰かの「あこがれ先生」になる

この(4)で、中村文昭さんと「あこがれ先生プロジェクト」の紹介をしている。
つまり、この本を書くに当たって、私がかなりの影響を受けている人物である。
中村さんを全然知らない方は、一度でいいから本を読むか、できれば講演を聴きにいって欲しい。
やる気スイッチが入ること請け合いである。

ところで、私は『やる気スイッチ押してみよう!』のこの章で「夢を持つ」ことの大切さを書いている。
一方、参考にしているはずの中村さんは、真逆のことを言う。
「夢なんてなくていい。目の前の人を喜ばせていくことが大切。」と言う。

誤解なきよう言うと、中村さんは夢を持つことを否定していない。
紹介した本によると、「目標達成型」と「天命追求型」があるという。
タイプによるということである。

やる気スイッチの入り方一つとっても、人によって合う合わないがある。
自分に合う手法を選択すること。
何が合うのかはわからないのだから、疑わしくてもとりあえず試してみること。
脳は、新しいことに出合うと活性化するので、この行為自体もやる気スイッチが入る。
問題は、そのやる気自体がないことかもしれない。
そこは仲間を誘うとか誘われたら即決で行くとかして、「他律」の方法を使う。

やる気スイッチがOFFになっている人は、とりあえず『何のために』のご一読をおすすめする。

2015年9月21日月曜日

名人芸「こうすると絶対うまくいく」に要注意

「こうすると絶対うまくいく」というハウツーはない。
その時、誰が、誰に、どんな状況なのかによって、使う手法が変わる。
特に「誰が使うか」は外せない要素である。

以前にも書いたが、名人の手法をただ一挙手一投足、一字一句真似てやってみても、うまくいかない。
イチローの「振り子打法」を徹底的に研究してコピーしても、全然打てないというのと同じである。
「振り子打法」はバッティング手法の一つで、素晴らしい打率を生み出している事実はあるが、かなりの離れ業である。
難しすぎて、普通の人には使いこなせない。
「守破離」の「離」に当たる部分である。
「守」の基本的なバッティング練習を徹底して、「破」で自分流にして練習し続け、初めて至る境地である。
初心者がいきなり真似しても、全く参考にならず、場合によってはフォームが乱れて害悪にすらなる。

教育界でも「名人」と呼ばれる人の手法をそのまま真似しても、大火傷することが多い。
例えば社会科の名人、有田和正先生の実践を、教材研究はほどほどに表面的に真似してみるとする。
意見がとんでもなく拡散して、とてもではないが対応できない。
ぐちゃぐちゃのまま終了である。
または、出た意見を無視して、無理矢理教師の解に落ち着けるのがオチである。
どんな意見にも対応できる深い教材研究と対応力に裏打ちされて、初めて成立する。
本気で学んで真面目にやれば、少しずつ理想に近付くことは可能である。
しかし単なる「うまくいく方法」を求めて真似すると、がっかりでは済まない悲惨な結果になるかもしれない。
(この辺りがわかっておらず、名人芸に対し「〇〇先生の方法は全然ダメ」と吹聴する残念な人も、中にはいる。)

手法は、使い手がつかいこなせることがまず第一である。
次に、使う相手も考える。
「追究の鬼」を目指して何年も鍛え上げられてきた子どもと、初めて追究活動をする子ども相手では、当然やり方が変わる。

ただ、特に学びの初期は、たくさんの手法を知ること自体は大切である。
それで、火傷する経験も避けられない。

何はともあれ、やってみること。
うまくいかない点を、修正して、またやってみること。(または、合わないと思って見切ること。)
その繰り返しで、初めて自分の「技」として身についていけるのではと思う次第である。

2015年9月14日月曜日

蜂に刺されての雑感 攻撃性と孤独感

今回は、お盆に書いた記事で、少し力を抜いた雑感、エッセイである。

先月、土木作業中に、背中を蜂に刺された。
スズメバチではないようなので良かったが、痛い&痒い。
地バチの巣に知らずに近付いたのかもしれない。
とにかく、こちらに悪意はないし存在に気付きもしなかったが、攻撃された。
相手からすれば、「敵」だったに違いない。

そもそも、蜂はなぜ針を持っているのか。
巣を守るためである。
巣を襲う輩を撃退するためである。
人間はこれに進んで近付かない分、見つけ次第駆除する。
刺すから嫌われ、駆除されるのである。
悪循環である。
(余談だが、蜂の針は産卵管の変化したものである。
 したがって針を持っているのはすべてメスの蜂である。)

燕は、針のような攻撃用の武器を持ってない。
しかし、敢えて人間の家の軒先に巣を作る。
巣を守るためである。
燕の天敵が、人間嫌いであることを利用しているという。
軒先は、一番人目につくので、最高である。
燕自体は、人間を攻撃しない。(巣の下にフンが多いのは若干厄介ではある。)
「縁起がいい」とすら言われ、歓迎ムードである。
だから、人間はこれを駆除しない。
燕に攻撃用の武器はないが、それ故に巣が安全である。

スズメバチが、もし針を持っていなかったり、攻撃してこない存在ならどうか。
家の軒先はさすがにちょっとダメだろう。
しかし、今ほど積極的に駆除されることはないはずである。

人間関係も、これに通ずるものがある。
攻撃的な人には、近付きたくない。
自分に実害を及ぼす。

そうすると、周りは離れていく。
攻撃的な人ほど、孤独感を感じやすいのかもしれない。

クラス一の暴れん坊。
それは、一番、孤独感を感じている子どもかもしれない。

2015年9月12日土曜日

天国から地獄へ

前号の続き。
次の本の内容を少しだけ紹介する。

『思春期の子どもとつながる学級集団づくり』赤坂真二編著 明治図書
http://www.meijitosho.co.jp/detail/4-18-185824-7

私の書いたものの項目だけ羅列すると
1(1)思春期には性差を意識した指導を心がける
 (2)子どもとの良好な関係を築くために『信・敬・慕』を意識
2(1)まずは男女を混ぜる グループを混ぜる
 (2)思春期の陰湿ないじめと向き合う
 (3)思春期の子どもの自主性を尊重し、主体的に動けるイベントを
 (4)天国から地獄へ 思春期の子どもは「隠す」 教師は見えない
 (5)同じ轍を踏まないために 子どもを観る視点を増やす

この中の2(4)天国から地獄へ について。
この項が、私の今回の原稿の肝である。

この中で、次の言葉を紹介している。
==================
「自分は子どものことが結構見えている」「なかなかの力量だ」などと慢心した時は、
すでに相当な転落が始まっています。
==================

自戒を込めて書いた文章である。
思春期の子どもは、隠すことのプロである。
この点において真正面に取り組んでは、到底大人が太刀打ちできるものではない。
一見うまくいっているように思える学級経営が、実は深い闇をはらんでいることが多々ある。
それを知って学級経営をするのと、知らないのとでは大違いとなる。
だから、失敗例を知っておくといい。
進んで自分からわざわざ大ケガする必要はない。
「人の振り見て我が振り直せ」である。
「対岸の火事」と思わず、「他山の石以て玉を攻べし」である。
ぜひ自分の糧にしていただきたい。
それでこそ、執筆者陣が自らの失敗を公開した甲斐がある。

私自身、この言葉を常に胸に抱いている。
傍目にも危ないような時は、本人も自覚しているから慎重になるので、安全である。
周りからもてはやされている時は危うい。
うまくいっているような気がしている時は危うい。
周りより自分が優れているなどと微塵でも思った時は、一番危うい。
(周りの先生を批判している覚えがある時は、危険信号である。)
もうそこからジェットコースターばりに真っ逆さまである。
高く持ち上がった分、構えてない分、大ケガをする。
二十代半ばから三十代半ばの十年間に特にやりがちな失敗である。
大体が、周りのサポートにも気付いておらず、感謝も足りていないことが多い。

一つ、勉強の材料として、本書を使っていただければ幸いである。
『やる気スイッチ押してみよう!』
http://www.meijitosho.co.jp/detail/4-18-164614-1
の方も、もし未読なら、ぜひご一読いただきたい。

2015年9月10日木曜日

思春期の子どもの指導 失敗パターンを知る

思春期の子どもの指導。
得意だろうか苦手だろうか。
例えば、夏休み明けの高学年の女子や、中学生男子への指導。
あるグループの女子が突然格好が派手になって、言うことをきかなくなる。
男子がいきなりピアスをしてくることもある。
「ピアスはダメです」と直接言うかどうか。
この辺り、どう指導していいのかわからない人も多いのではないかと思われる部分である。
失敗すると「学級崩壊」にもつながりかねない重要ポイントである。

そこにいくつかの道標を示す本がある。
次の本からの紹介。

『思春期の子どもとつながる学級集団づくり』赤坂真二編著 明治図書
http://www.meijitosho.co.jp/detail/4-18-185824-7

「学級を最高のチームにする極意」シリーズの最新刊である。
この本は、私を含めて12人の執筆者が、思春期の子どもへの指導の理念と実際について、具体例を交えながら書いている。
この本には特に秀逸な点が一つあって、「痛い失敗例」がかなり載っている。
痛いどころか、大ケガの失敗例である。
正直、あまり人には知られたくない失敗例である。
執筆者の中には「〇〇先生は学級経営のスペシャリスト!エグゼクティブティーチャー!」みたいに思われている先生も結構いる。
この人たちも、大失敗しているのである。
特に、執筆者の中の一人であり『やる気スイッチ押してみよう!』の共著者でもある飯村友和先生のタイトルは、
「高学年女子の指導 こうすれば失敗する!」であり、失敗例に特化した内容である。
私も、過去にやってしまった天国から地獄への大転落の例を公開している。

なぜそんな恥を公開しているのかというと、編著者の赤坂先生の方からなるべく入れるよう指示があったからである。
うまくいった例は、たくさんある。
しかし、汎用性が低いことが多い。
一方で、うまくいかない方法は、かなり汎用性がある。
(ずっと以前、メルマガで伝えた「失敗学」の考え方である。)
つまり、失敗例をたくさん見ることで、失敗パターンを知ることができる。
「良くする方法」よりも「悪くしない方法」を知る方が先決である。

ダイエットに例えるなら「痩せる方法」よりも「病気やケガで途中で倒れないための方法」が優先であるのと同じである。
「ローカロリーのものだけ食べて運動し続ければ、カロリーを大幅に消費して確実に痩せます。ただし大きく健康を害します。」ということである。
ここの失敗パターンは「身体への負担を無視」「継続性を無視」である。
当たり前のことだが、結構やりがちな失敗である。
(余談。多くの流行ダイエット法は「簡単・短時間・効果あり」を謳い文句にするが、共通の問題点は「健康」と「継続性」である。
 効果が出ても、健康的かつ永続的に持続できなければ意味がない。
 継続できる人なら、普通の筋トレだけで成功する。)

「こうすれば失敗する!」を知ることは、大変価値のある知識である。
飯村先生はこの本の中で「あえて地雷を狙って踏んで歩いているようでした」と書いているが、まさにそれである。
早く向こうにたどり着く方法より、地雷がどこに埋まっているかを事前に知ることの方が優先である。

またこの本を読む中で「みんな、そこまですんなりうまくいってない」という点も見ていただきたい。
痛い思いをあまた通過しての、今である。
たくさん本を書いていたり、セミナー講師をしていたりする人を見ると、何かすごくうまくいっている人のような錯覚を覚えることがある。
しかしみんなこれまでに手痛い失敗をたくさんしているし、現在だって何かと苦労は絶えない。
そう考えて本を読んだりセミナーに参加したりして「自分もやれるかも」という勇気を持っていただけたら幸いである。

騙されたと思ってご一読いただきたい。
長くなったので、次号で内容を少しだけ紹介する。

2015年9月8日火曜日

できる人が、できる時に、できることをする。

前号の続き。
被災地からの学び。

今回の一番の収穫は、現状のごく一部を少しでも知ることができたという点である。
「百聞は一見に如かず」の言葉の通り、直に触れることで初めてわかることがあった。

世間一般の「4年以上経ち、東北もだいぶ復興してきた」というのは、全くの誤認である。
福島の現状は、放射能の「除染」が進まないと、全く立ち入ることができない。
(先日、一部の地域で避難勧告が解除されたが、それに対してもまだまだ課題が多いようである。)

徐染作業は、気が遠くなるような困難さがある。
表面の土をすべて取り除く。
取り除いた土をどうするかも課題で、福島では、各所で黒い袋が山積みになっている。
竹などの土中に根を広く張る植物が生えていると、そもそも土の表面を除く作業にたどり着けないので、その伐採からスタートである。
これは、すべて人力である。

しかも、ボランティアの数は年々減る一方。
先の「復興十分進んできたでしょう」という誤認はその原因の一つであるらしい。
実際、そういう地域もあるが、福島は、全く人手が足りていないのが現状とのことだった。
ボランティアの作業内容自体も、地味で地道な作業である。
正直、これでどれぐらい前進したのであろうと思うほど、気が遠くなるほどやることがたくさんある。
しかし「千里の道も一歩から」で、一歩動けば一歩分、確実に前進している。

道徳資料等でよく使われる、次の話を紹介する。
「ハチドリのひとしずく」

森が燃えていました
森の生き物たちは われさきにと 逃げて いきました
でもクリキンディという名のハチドリだけは 行ったり来たり
口ばしで水のしずくを一滴ずつ運んでは
火の上に落としていきます
動物たちはそれを見て
「そんなことをして いったい何になるんだ」と笑います
クリキンディはこう答えました
「私は、私にできることをしているだけ」


正直、被災地に何かしらの影響を与えられるのだろうかという疑問が、心のどこかにあった。
やってみて、一つの解が見えた。
被災地の中の一人の方が、本当に困っていることをやらせていただく。
ボランティアセンターに掲げられていたのは、次の言葉。
「できる人が、できる時に、できることをする。」
その積み重ねがあれば、きっと何か変わってくるだろうという、そういう感じがした。

私は、正直、そんなにたくさん現地に足を運んで働くことはできない。
しかし、その分、情報発信はできる。
子どもたちにも伝えられる。
一人一人が、自分にできることを、自分の方法でやるというのが大切なのではないかと思う。
「掃除に学ぶ会」で見た「一人の一歩より百人の百歩」という言葉に通じる。

自分の力は小さい。
ただ、それが集まり、さらにこれが積み重なることで、何かが変わってくるのかもしれない。
この前にも後にも、数え切れないほどのたくさんの方々が、数年にわたって交代しながら繰り返し続けていくことになる。
必ず何か変化がある。

自分は、今回被災地に対してできたことはほとんどなかったが、被災地から学ぶことは多くあった。
この学びを今回で止めずに、被災地に学ぶということをこれからも少しずつ続けたいと思う。

2015年9月6日日曜日

修養 掃除に学ぶ 被災地に学ぶ

前号の続き。
修養をどうするか。

先月、友人を誘って「掃除に学ぶ会」というものに参加してみた。
掃除「を」ではなく「に」である。
掃除から学べることは、たくさんあった。
学んだことだが、ここには書けない。
やった人の個人的なものとしてわかる学びである。
もっと正確に言うと、やった人によって、学べる内容が違う。

「被災地に学ぶ会」にもセットで出てきた。
折しも、その日は原子炉から最大がれきが撤去され、原発の後処理に大きな一歩があった日でもあった。
福島の現状はすごい。
何がすごいかというと、4年も経ったのに、街が震災当時と同じ姿なのである。
しかも、人は住んでいない。
草木が生い茂っていることだけが目に見えてわかる変化である。
他の被災地とは一線を画す姿である。

被災地の人のために少しだけ働いたことは事実。
しかし、実際は被災地とそこの方々から学ばせていただいたというのが真実である。
一つの修養になった。

教え方の研究は大切である。
一方で、一見直接教育とは関係のない会からも、学べることは多い。
研究と修養、両方をバランス良く行いたい。

2015年9月4日金曜日

研究と修養 

夏休みの自由研究。
ひまわりの観察。
色とものの温まり方の関係。
かびの生え方。
とにかく、子どもは、何かを対象に研究を行う。
研究の対象物は、他にある。

校内研究。
自主的に学ぶ子どもを育てるには。
学ぶ意欲を育む体育学習の在り方。
これも、対象物は外にある。

要は、研究というのは外、他を対象とする。

一方、修養という言葉がある。
修養は、他でなく、自分自身を対象とする。

普段多いのは、圧倒的に「研究」の方である。
なかなか修養をする機会はない。

各地で教員対象のセミナーが開かれるが、やはり多くは研究である。
「教師としていかに生きるか」というようなテーマは少ない。

要は、直接的に教育に関係のなさそうな会に出てみるという提案である。
それが、修養になる。
例えば、お茶の体験教室に行ってみる。
お茶の出し方も学べるかもしれないが、それ以上に人としてのありようを学べるかもしれない。

これは、余裕がないと難しいが、予想だにしない学びが確実にある。
未知の領域は、学びの宝庫である。

(長くなるので、次号に続く。)

2015年9月2日水曜日

学級崩壊の3種類

学級崩壊の種類について、こんな3種類の分類の仕方を聞いた。

従来型の学級崩壊は、担任との関係が悪く、反抗的になって起きるものが多かった。
常に騒々しく、担任に対しても反抗的。
絵に描いたような「ザ・学級崩壊」の図である。

次に出てきた「新型」と呼ばれるタイプはこれと全く内実が異なる。
担任のことが好きなのである。
担任のことが好きすぎて、わがままを言い放題の状態である。

もう一つのタイプは「静かなる学級崩壊」。
これは、完全無視で「シーン」としている。
それぞれが、授業を完全に無視して黙々と自分の作業をしている状態である。
妨害がある訳でもなく、ひたすら無視である。

同じ「学級崩壊」の状態でも、内実は全く異なる。
もし自分の学級が陥るとしたらどのタイプか、考えてみると、何かと見直しの参考になるかもしれない。

歴史の鉄則 便利と義務

最近読んだ本からの気付き。 次の本から、一文を引用する。 『サピエンス全史 上 文明の構造と人類の幸福』 ユヴァル・ノア・ハラリ 著 柴田 裕之 訳 河出書房新社 http://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309226712/ ======...

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