2013年12月30日月曜日

落差を問う 失敗の具体例

落差を問うことを軽んじた失敗の具体例を挙げる。

2学期、社会科のテストをした。
「終戦記念日」が何月何日などは、当たり前の知識だと思っていた。
しかし、これが大失敗だった。

よく考えれば、6年生は初めて歴史を学ぶ段階の子どもたちである。
終戦記念日を気にして毎年過ごしている訳がない。
「8月15日に玉音放送が流れ、戦争の終わりが国民に告げられた」
ここを読んでも書いても教えても、実はわかっていなかった。

大体「8月15日という日は覚えるべき」ということだって普通は考えない。
自分で調べさせて、なぜこのタイミングなのか、広島、長崎との関連等、諸々問うて初めて頭に入る。
当然、テストの段階では多くの子どもの頭の中から抜け落ちていた。
教師と子どもの落差を無視した報いである。

落差を常に意識する。
授業においての基本的かつ重要な構えである。

2013年12月28日土曜日

落差を問う

発問とは何か。

野口芳宏先生は、発問とは「落差を問う」ものであるという。
発問で問うべきは、落差である。
ここでいう落差とは、子どもの「不備・不足・不十分」のことである。
(逆に言えば、落差の生じないものは問う必要がない。)

子どもの理解度には落差があり、それを問うことで顕在化させる、という面がある。
理解の浅い状態の子どもを、発問でひっぱり上げる。
「わからない」が「わかる」になる。
向上的変容である。

もう一つ、「教師と子どもの落差」があるから問う、という面もある。
教師の側は「これぐらいわかっているだろう」と思う。
しかし問うてみると、これが意外と子どもの側はわかっていない。
発問でそれを確かめることができる。

長くなったので、次号に続く。
次号は落差を軽んじた失敗例を挙げる。

2013年12月26日木曜日

やる気を高める授業とは?

先日、上越教育大学の赤坂真二先生の講座で、次の発問があった。

「やる気を高める授業とは?」

これについて、参加者同士で説明し合う。
みなさんなら、どのように答えるだろうか。
考えてから読み進めていただくと、何かと深まると思う。
(ちなみにこの講座の参加者同士のききかたのルールが面白い。
「あなた、○○について詳しいとお聞きしましたが」と必ず前フリを付けて相手に尋ねる。
これも対話を弾ませる手法の一つだという。)

私は隣の方々に、次のように説明した。
1 目的意識(なぜ、何の為にやるのか)
2 見通し(やり方、目標)
3 安全・安心
授業にこの3要素があると、子どものやる気が高まると考えた。

この後、赤坂先生の考えが示された。
1 価値付け(なぜ学ぶのか、どんないいことがあるのか)
2 期待(成功への見通し)

大体近いような解釈であった。
やはり、なぜやっているのかわからない活動では、やる気が出ない。
「何の為に」が教育活動全般の基本である。
そしてこれは、教える側と教わる側にギャップが生じていることが多い。
時に伝えてわからせること、気付かせていくことが肝要である。

2013年12月24日火曜日

8の字跳び 大縄 必勝法レポート

クリスマスイブ。
明日は、サンタクロースが世界中の子どもにプレゼントを配る。
残念ながら、大人はいただけない。
クリスマスプレゼントほどの価値はないが、レポートプレゼントについて。

冬休みになると、8の字と大縄の記事に大量にアクセスが集まる。
多分、3学期に縄跳び大会がある学校が多いのだと思う。
調べてみたら、8の字跳びの1つの記事だけで15000ページビュー。
相当需要があると思われる。

もう少し調べてみると、ほとんどが「技術」についての記事に集中している。
てっとり早く上達させたいのは痛いほどわかる。
しかしながら、本当の意味で勝つためには、技術ではない。
マインドというか、精神面の方が大きいのである。
学級経営そのものである。
そちらをもっと伝えたい。
レポートには、技術を含めて全てまとめてある。

残念ながら、現任校では以前のように8の字と大縄に取り組んでいない。
なので、最新レポート、というのは存在しない。
ただ、毎回ブログ記事にアクセスするなら、まとまったものの方が見やすいと思う。
プリントして持ち歩けばよい。
(自分のものながら、私はそうやって活用していた。読み返すとはっと気付く。)

元々、自分自身取り組み方がわからず、人にきいて回っていた。
試行錯誤で、やり方を身に付けていった。
子どもと一緒に、相当大変な思いもした。
だから、これからやる人には、なるべく楽しく前向きに取り組んで欲しい。
そのために以前作ったレポートがあるので、それをなるべく多くの人にお渡ししたい。
23年度に大縄のセミナーで使った資料も付け加えて、配付する。
以前配った時には、「校内大会で優勝できた」など相当いい反響がいくつもあった。
必ず役に立つと思う。

ブログ上へのメールアドレスの公開は、迷惑メールも来るので避けたい。
メルマガ登録者なら、問題のある業者などはこないので、私も安全である。
そういう面からも、メルマガ読者だけにプレゼントしている。
登録してレポートをもらって、すぐに解除しても全く構わない。
(むしろ、無駄だと判断したものは読まない方がよいと思う。時間がもったいない。)

よければ、サイト上部のまぐまぐページからメルマガ登録をして、
2日に1回届くメルマガの下部にあるメールアドレスにメールを送って欲しい。
タイトルに「8の字・大縄レポート希望」と書いてくれるとわかりやすい。
たくさんの方の手に渡れば、幸いである。

できれば、コピーして同僚にも教えてあげて欲しい。
ライバルがレベルアップすると、自分の学級もレベルアップする。
そして、教えた方が得することが多い。
嘘みたいだが、紛れもない事実である。

自分が与えられるものは、惜しみなくどんどん与える。
クリスマスに学ぶべきは、サンタクロースの精神である。

2013年12月23日月曜日

誉める=価値の方向付け

前号の続き。
恐怖アピールを止めて、プライドを根付かせる動機付けについて考える。
掃除における次の3つの状態を例に考える。

A:先生が見ている時だけやる、という状態
B:誰が見ていようがいまいが、掃除はやる、という状態
C:きれいになっても、更にできることを自分で探してやるという状態

AからC、どれも動機付けがポイントである。
動機付けは、報酬により決まる。
千葉の戸田正敏先生の言葉を借りると、次のような表現になる。
「誉める=価値の方向付け」

何を誉めるかによって、価値の方向、つまり動機付けが決まるということ。
やたらめったら誉めるということは、価値の方向が定まらないと言える。
誉めるべきを誉める、ということが大切である。

Aの状態にするには、やっていない子どもに着目して叱り、やっている子どもを無視すること。
その場限りに取り繕ってやっている子どもには着目し「がんばってるね」と誉めること。
教師が一緒に掃除をしないのもポイントである。
一緒に掃除をしていると、本当に一生懸命やったかどうか、判別できる目がついてしまうからである。

Bの状態にするには、教師も一緒に掃除をする。
そしてやっている子どもに「きれいにすると気持ちがいいね」と笑顔で声かけをすること。
笑顔も声かけも「報酬」の一つである。
さらに、教室の隅や物をどかして掃除するなどの、汚い部分に着目する視点を持たせること。
きれいが良い、という意識を持たせることがポイントである。
ちなみにここでやっていない子どもに対しては、基本的に指導する必要はない。
叱ることで、ある種「サボると注目してもらえる」という報酬になりかねない。
Bの状態は「人に見られているかはどうでもいい」レベルであるから、基本的に叱る必要はなくなる。
冷たい視線を送る程度で放置し、やったら軽くほほえみかけるぐらいで良い。
見られることは目的化していないので、時に見回りにほとんどいけなかった、ということがあっても大丈夫である。

Cの状態にするには、そういう子どもをまず一人見つけてその場で誉め、全体の前でも取り上げて誉めること。
できればこの人選は、普段他の行動では目立たない子どもがベスト。
いわゆる「あまり目立ちたがらないけどきちんとしている」と周りが認めている子どもがいい。
本当に真面目な子どもである。
そこにスポットライトを当てて、思い切り誉める。
ああいう行動が「かっこいい」のだと価値を方向付け、プライドを持たせる。
掃除以外の時間でも、他人の為に無償でやっている行動をめざとく見つけて誉める。
教室の中にもそういう場(罠)をしかける。
変な話、紙くずを一つ床に放置しておき、拾う子どもがいるか何気なく見ておき、いたらすかさず誉める。
(あえて落とさなくても、整理整頓が苦手な子どもの机の周りに多分落ちている。)
とにかく「世のため・人のため」がかっこいいという価値付けをするのがポイントである。

掃除を例に説明をしたが、あらゆる指導の場面に応用できる。
誉める方向に人は伸びる。
「誉める=価値の方向付け」とは、至言である。

2013年12月21日土曜日

プライドを根付かせる

恐怖アピールは即効性があるが、根本的な解決になりにくい。
やる(やらない)理由が消極的(マイナス)であり、「やる気」の逆に位置するからである。

以前紹介した北海道の中学校教師の堀裕嗣先生は、この辺りを次のように表現していた。
「厳しく言ってやらせるよりも、プライドを根付かせていく。
プライドが子どもを高める。」

つまり、やる(やらない)理由を積極的(プラス)に位置付ける。
プライドがあるから、やる(やらない)という状態にする。

これは、あらゆる行動に関係する。

例として「掃除をやる」という状態を考える。
「掃除をしない」という状態は脱して、「やる」という前提で考える。
なぜ掃除をやるのか。

A:先生が見ている時だけやる、という状態
これは「先生に怒られない(誉められる)」ことが動機付けになっている。
やる理由が「先生」である。
つまり、その先生がいない状態になれば、やらない。
きれいか汚いかということは、どうでもいい状態である。
そこにプライドは無い。

B:誰が見ていようがいまいが、掃除はやる、という状態
これは「きれいにすると気持ちがいい」「掃除は当然やるもの」ということが動機になっている。
歯磨きの習慣みたいなもので、きれいにしないと自分自身の気持ちが悪い状態である。
プライドというレベルではないが、マイナスの状態は避けたいという状態である。

C:きれいになっても、更にできることを自分で探してやるという状態
これは「人の役に立ちたい」という思いが動機付けになっている。
奉仕の精神であり、もはや誉められたり認められたりすることもどちらでもいい状態。
掃除の時間でなくてもきれいにしようとする状態である。
それをしている自分が好きで、プライドが持てている状態である。

AからC、どれも動機付けがポイントである。
どのように動機付けしていくのか、長くなるので次号で考えていく。

2013年12月19日木曜日

「恐怖アピール」を考える

子ども時代、「これぐらいできないと将来困るよ」と言われた経験がある人も多いと思う。
優しく言っているようで、やんわり脅している。
この手のアプローチを「恐怖アピール」という。

「○○しないと(すると)大変な目にあう」というタイプの手法である。
恐怖アピールは喫煙や飲酒、薬物乱用の防止など犯罪防止の指導でよく使われる。
命に関わる部分であり、ごく強い指導が必要な部分だからである。

昔からの言い伝えにも、恐怖アピールは多い。
「雷が鳴ると、へそを取られる」
「夜に爪を切ると、親の死に目に会えない」
「夜更かししてると、おばけが来る」

どれも、直接言うと次のようになる。
「お腹を冷やさないよう、温かくしなさい。」
「深爪しないよう、爪は明るい時に切りなさい。」
「夜更かしは身体に悪いから、早く寝なさい。」

昔からの言い伝えには、実はそういった思いやりや愛情の裏付けがある。
こちらは命には関わらないが、子どもに直接優しく言ってもきかないから、恐怖の形にしたものである。

しかし、その他一般の指導の場面でこれを使うのは考えものである。
「怖いからやる(やらない)」になっていないか。
「これぐらいできないと将来困る」、それは本当か。
できなくても大丈夫なことがかなりある。
あいさつ一つとっても、社会人は全員きちんとできるのかというと、自分自身を含め、かなり怪しいと思う。

嘘はいけない。
勉強などは「できた方がいい、楽しい」ぐらいの方が表現として適切でないかと思う。
そうしないと、子どもができない場合に無理に追い詰めることになる。
(自分の指導力がないのは、別問題である。謙虚に学び続ける必要がある。)

概念的な話になったので、次から具体的に考えていく。

2013年12月17日火曜日

ハイタッチで心を合わせる

大分前の話になるが、夏休み中、体育の研修会で良い話をきいた。
サッカーの国際女子主審を務めている方の話である。

様々な国の選手を見て、日本人の良さや弱点が見えるという。
礼儀正しさは良い点の代表格。
一方、感情コントロールが苦手なのが、特にU-15(15歳以下の選手)に特徴的だという。

その辺りをふまえ、子どもにぜひして欲しい指導とは何か。

「相手の目を見て握手ができる」

これだそうである。

日本人は、どうしても握手の習慣が少ない。
湿度の高い環境が、直接肌のふれる握手より、お辞儀の文化を発達させた面もある。
お辞儀も良い文化だが、身体的接触がない。
どうしても温度が伝わりにくい。

目を見ることも、握手をすることも、相手を尊重する行為である。
試合中のラフプレイや暴言も減る。

しかしながら、握手は結構レベルが高い。
そこで、もう少しやりやすいものとして「ハイタッチ」がある。
触れるのは「パチン」と一瞬だが、強さや高さで感情伝達ができる。
目を合わせる練習にもなる。

どうしても抵抗がある場合は、最初はE.T.みたいに指先でもよい。
スモールステップで、段々上げていく。
無理はしないことが大切である。

朝でも帰りでもいつでもいいので、こういう文化を作ることも教育効果があるように思う。

2013年12月15日日曜日

「頂きます」と「御馳走様」

前回の続き。

「食の教育は、感謝に始まり感謝に終わる。」
この言葉を聞いて、以下のようなことを考えた。

漢字に直すと「頂きます」「御馳走様」。
「頂く」は、頭上高くに位置させることで、神事に用いる言葉である。
命を取り入れる行為である。
「馳走」は、あれこれ走り回って世話をすること。
食材を育てるところから運搬、調理まで様々な人の手を渡って口に入る。
そこに「御」と「様」という敬意を示す言葉が付く。
とにかく、感謝に尽きるということである。

食育では、ここを落とさない。
例として、食べ物で遊ばない、粗末に扱わない、不平不満を言わない。
わかりやすく言うと、関わる人全てが見たり聞いたりして嫌な思いをするようなことを避ける。
御飯を残すのは仕方無いが、お椀に御飯粒がべったり残っているのは、指導すべき事柄である。
粗末に扱っているし、洗うのも大変である。

まだまだあるのだが、長くなったのでここまで。
こんなことを話し合ったということで、ご紹介した。

2013年12月13日金曜日

食の教育は、感謝で始まり感謝で終わる

サークルでの学びシェア。
現在、地元サークル「木更津技法研」で、様々な「教育問題」をテーマに話し合っている。
その中の一つに「食育」についての話し合いがあった。

給食が、余る。
小学校も高学年だとよく食べるようになるだろうが、低学年の内はかなり残るのではないかと思う。
これには一つ明確な理由があるという。
給食では一食分の最低カロリー量が決まっていて、それを越えないといけない宿命だという。
だから「パン+うどん」というような献立になることがある。
給食以外では、まずあり得ない組み合わせである。

子ども一人が食べる分量はかなりの個人差がある。
少食の子どもよりも食欲旺盛な子どもが多い学級なら、食べきれる。
そうでない場合は、余る。
普通に指導していれば、そうなるだけの話である。
(無理に食べさせることも、逆に無駄に残させることもできる。これはどちらも問題である。)

食料不足の戦後間もない時代に教師をしていた世代の方々からすれば、あり得なかった悩みだという。
だから、完食か余るかというようなこと自体は、大きな問題ではないという意見でまとまった。
(余る分量を作らざるを得ない学校給食の法的な問題はあるかもしれない。)

野口芳宏先生が次の言葉でまとめられた。
「食の教育は、感謝で始まり感謝で終わる。」
つまり、「いただきます」から「ごちそうさま」である。
次号、これについて自分なりに考えたことを紹介する。

2013年12月10日火曜日

子どもに失礼じゃないか

山口県の福山憲市先生からの学び。
ふせんに次の言葉がメモしてあった。
「『子どもに失礼じゃないか』といつも考える」
どういう状況でこのメモを書いたか覚えていないのが残念である。
とにかく、福山憲市先生の言葉だったことだけは確かである。

振り返ると、結構子どもに失礼なことをしていることが多い。
「礼儀正しく」を教えている以上、こちらも子どもに礼儀を尽くすのが当然である。

例えば、言葉遣いや呼び方。
相手がどう感じるか考えているか。
名前をきちんと呼んでいるか。
ぞんざいな言葉を使ったりしていないか。
気を付けないと、危ない。

例えば、日記を見る時。
忙しさに、ついやっつけ仕事になっていないか。
子どもとつながる大切な時間である。
一生懸命書いた日記は、きちんと読んでコメントしてあげたい。

例えば、宿題。
「やってきなさい」といったからには、確認をする。
やった子どもを誉める。
やらなかった子どもに厳しい割に、やった子どもの方を見ないようなことがないようにしたい。

例えば、学級で何事もなくスムーズにいっている時。
それが普通になっているのは、子ども達がきちんとがんばっているからである。
「当たり前」になると、「感謝」がなくなる。
ここも気を付けないと、危ない。

私の知っている尊敬する先生方は、誰に対しても謙虚で礼儀正しい。
未熟なりに見習って、近付きたい。

2013年12月8日日曜日

反応も型から

芸事のステップは「守破離」。
まずは「守」、つまり型を身に付けるところからである。

発言に対する反応も、自然にできれば問題ないが、教えないとできないという面がある。
反応の「型」を指導する方法を一つ紹介する。

以前受けた講座(講師は大阪の金大竜先生)で、次のような指導場面があった。
「あ~」
「へぇ~」
「なるほど~」
と3つの言葉を板書する。
3つの内の一つを指したら、参加者は一斉にその言葉を言う。
これを何回か練習する。

参加者の一人が前に出てスピーチをする。
何か言う度に、講師がその内の一つを指す。
そこに一斉に反応する。

「私の趣味は○○です。」
「へぇ~」
「○○なところが好きです。」
「なるほど~」
「○○もいいです。」
「あ~」
といった具合である。

まあ、ちょっとしたゲーム感覚である。
肯定的な反応なので、話しやすいようである。

これを、学級会でやってみた。
お楽しみ会のアイデアを出すという場面である。
すると、いつも以上に意見が活発に出た。
いつまでもこれではいけないが、反応の一つの練習であることを伝えた。
4月からやっておけば、今の時期には自然にできるようになっていたかもしれない。

一つの型として、紹介してみた。
試してみていただければ、効果が実感できると思う。

2013年12月5日木曜日

その「問題」は問題か

先日参加した「学級作りプログレッシブセミナー」での学びからシェアする。

会の終わりに、参加者と講師とのQ&Aの場があった。
その中で「授業中の立ち歩きがある子どもをどうするか」という質問が出た。
講師の一人の堀裕嗣先生が、次のように回答された。
「そもそも、立ち歩きは問題なのか。
立ち歩くのが問題なのは、立ち歩かない授業が前提。
恐らく、座って聴く一斉授業が前提になっている。
体育の授業で立ち歩くのが問題になることはあり得ない。
そこから考え直すことはできないか。」
聞いた記憶なので、正確ではないが、そのような回答だった。

なるほど、目から鱗の回答である。
私自身は、立ち歩き自体で悩んだことはない。
むしろ「必要な時は席を立ってでも友達や先生にききに行くように」と指導している。
わからないことを人にきけないこと、そのままにすることの方が問題だと思っている。

先日紹介した本にも、次の言葉が載っていた。
「状況というのは、それが問題だとみなされた時だけ問題になる。
しかし多くの場合、別の見方をすれば正しい対応策が一目でわかり、
そもそも問題ですらなかったということになる。」
(「人生のすべてを決める『鋭い直感力』」リン・A・ロビンソン著 本田健訳 三笠書房 より引用)

また、野口芳宏先生も同様のことをよく仰っている。
「目の前の『現象』にとらわれず、 『根本・本質・原点』を見極めること。」

今、自分が直面している「問題」は、そもそも問題であるかどうか、見極める必要がある。

2013年12月3日火曜日

アンパンマンのヒーローたる由縁

アンパンマンの作者、やなせたかしさんがご逝去されて、もうすぐ49日である。
学級経営において、何かと使うことが多いアンパンマンの話を紹介する。

アンパンマンが生まれた背景が深い。
やなせたかしさんは戦時中の生まれである。
第二次世界大戦では出征している。
飢餓経験もある。
食糧が無い時代、他人に食糧を分ける行為は、自らを犠牲にする痛みを伴う行為であった。
自己犠牲をいとわず与えていただいた食べ物のありがたさを身に染みて知っていたらしい。

アンパンマンは、自分の顔の一部をむしって相手に渡す。
懐から出すのではなく、自分の顔が欠けるのがポイントである。
この状態だと力が出なくなるので、リスクを背負う行為である。
リスクを背負ってでも、弱っている相手を励ます。

次は、やなせさんの言葉である。

================
逆転しない正義とは献身と愛だ。
それも決して大げさなことではなく、
眼の前で餓死しそうな人がいるとすれば、
その人に一片のパンを与えること

自分はまったく傷つかないままで、
正義を行うことは非常に難しい。

正しいことをする場合、
必ず報いられるかというと、
そんなことはなくて、
逆に傷ついてしまうこともあるんです

ぼくらも非常に弱い。
強い人間じゃない。
でも、なにかのときには、
やっぱりやってしまう。
ヒーローというのは、
そういうものだと思います

困っている人、飢えている人に
食べ物を差し出す行為は、
立場が変わっても国が違っても
「正しいこと」には変わりません。
絶対的な正義なのです
================

「叱る」という行為について、似たような記事を少し前に書いた。
相手の為を思って叱って、逆に恨まれることもある。
それで叱るのをやめるのかというと、やめない。
「なにかのときには、やっぱりやってしまう」というのが教師である。
そうなることはわかっていても、やる。
正しいことをしようとすると、痛い。
アンパンマンというヒーローから学べることは、結構深いと思う。

100知って1を教えられる

校内授業研があり、社会科で市の税金の使われ方の授業をした。
反省点も多くあった分、学んだことも多かった。

市の予算の使われ方のグラフを読み取る中で、子どもから次の意見が出た。
「復興支援への費用が少なすぎる」
日本の抱える問題に目を向けた大切な意見である。

市税は主にその市の住民のために使われる、という基本がある。
市民の理解を得ないと、やたらに外へ使うことはできない。
人々の幸せのため、というのなら、復興支援が先ではないかという子どもの意見ももっともである。
一方で、自分達の学校設備をもう少し充実させて欲しいという願いもある。
予算の用途決定の難しさを一部でも感じられたようである。

他にも子どもからはたくさんの疑問が出たが、それを捌ききれなかった。
資料の情報量の多さに対し、自分の教材研究が甘かった。

100知ってやっと1教えられる。
知ってはいたが、実感として響いた日だった。

2013年12月1日日曜日

ユーモアと挑戦する空気作り

チャンス・チャレンジ・チェンジシリーズ第10回(ぐらい)。
ノミの天井の話の続き。
小さくしか跳べなくなった状態からどう自信を形成していくか。

他の仲間が上手に跳んでいるのを見る、というのが一つのポイントである。

仲間が高く跳ぶようになった。
羨ましい。
そしてどうも、跳んでも天井にはぶつからないらしい。
うまく跳べなくても大丈夫なようだ。
それなら、自分もやってみようかな。

こういう流れを作る。

何度も書いているが、全ての活動のベースは安心感。
リスクの大きすぎることにはなかなかチャレンジできない。
安心・安全だからこそ「挑戦する空気作り」が醸成される。

例えば「授業中に発表できない」場合は、失敗の際のリスクが高いからと考える。
正解以外は認められないとか、間違えた発言をした人が笑われるとか。

ここを打ち破る切り込み隊長のは、担任の役割である。
「正解」以外の解にどう反応するか。

発問が「攻め」の技術であるなら、反応は「受け」の技術である。

変わった発言を、本当に面白がって、「すごい!」と反応できるようにする。
社会科の授業名人の有田和正先生などは「教師のユーモア」の大切さを強調しているが、正にそこである。
先日講座を受けた、富山の老月敏彦先生も「ユーモアで乗り切る」大切さを話されていた。

挑戦する空気作りは、失敗を楽しめる空気作りと一対である。
まずは教師がユーモアを持って、失敗を乗り切れる空気を作りたい。

2013年11月29日金曜日

自信をつける

チャンス・チャレンジ・チェンジシリーズ。
前号の「ノミの天井」の話の続き。
怖がって跳ばない状態をどうするか。

一番いいのは、最初から天井を設けないこと。
天真爛漫な幼児期は、この状態である。
できないと思っていない。
「仮面ライダー」にだって「ヘラクレスオオカブト」にだってなりきれる。
(やがて、人間である以上、さすがに将来カブトムシにはなれないことには気付く。)
限界知らず、天井知らずの無敵状態である。

実際は、社会に生きる中で、自然と自分で天井を作っていく。
ちょっと高く跳んで箱から飛び出すと、叱られたり変わり者扱いされる経験を積む。
「適当」な高さに跳ぶことを覚え、習慣化する。
それ以上は私にはできないと思い込むようになる。
必要以上に怖がって引っ込むようになり、できるはずのことまでやらなくなる。

この状態から回復するには、周囲の励ましが必須である。
「あなたはできる」と繰り返し伝える。
加えて、跳べなかったはずの仲間が跳んでいるのを見る。

そこで初めて、ちょっと自分も跳んでみようかなと思う。

跳んだだけで称賛され、痛いはずがそうでもないと気付く。
もっと高く跳べるかなと思う。
これを繰り返す。
やがて、本来自分が持っている能力に気付いていく。
「自信がつく」という状態である。

ノミの話で何だか申し訳ない気もするが、教育の抱える問題点に合致する話だと思う。

2013年11月27日水曜日

ノミの天井

朝の話等で使える話として一つ。
「ノミの天井」の話。

ノミを飼育ケース内で育てる。
普通の昆虫飼育ケース程度のサイズである。
ノミの生来備わったジャンプ力からすれば、跳ぶ度に確実に天井に叩きつけられることになる。
何度も痛い思いをする内に、小さく跳ぶことを学習する。
しばらくその環境で育て続けると、箱の天井をなくしても、本来のように高く跳ぶことはできなくなるという。

ノミに生来備わった驚異的ジャンプ力が、失敗経験によって失われるという話である。
ノミに「天井はもうないよ」と教えてあげることはできない。
もうずっと、跳べないままである。

これを、人間の場合で考える。
飼育ケースとは「環境」であり「常識」である。
生来のジャンプ力は「才能」。
ジャンプは「挑戦」。
天井にぶつかるのは「失敗」と「苦痛」。
小さく跳ぶようになるのは「学習」。
天井をなくしても跳べないのは「恐怖」による「限界」の自己設定。

この状態から回復させるにはどうすればいいのか。
長くなるので次号に続く。

2013年11月25日月曜日

評価が子どもの能力を引き出す

前号の続きでもう一つ。

チャンスにはチャレンジしようという話題で、サッカーのシュートの例を挙げて説明した。

家本芳郎先生の本に、同じような例が書かれていた。
教育書なのにサッカーの話題を例にして説明している辺りに、共通点を感じた。

要約して以下に紹介する。

サッカー・ファンにもレベルがある。

オリンピックの試合で日本を応援する場面。
選手がシュートを外した時にわかる。

お茶の間でサッカーをよく知らずに見ている人の中には「何やってんだ!」と罵声を浴びせる人がいる。

一方、オリンピック会場で観戦しているファンは、熱心でレベルが高い。
だから、観客席では「惜しかったなぁ」という表情が映し出される。

つまり、同じ行為に対し、両極端な評価がくだされている。
「初級ファン」と「上級ファン」がいる。

評価が選手、あるいは子どもの能力を引き出す。
(生徒指導おもしろチャレンジ20 家本芳郎著 学事出版より)

同じ行為にも、どんな評価をくだすかである。

2013年11月23日土曜日

成功の方程式

チャンス・チャレンジ・チェンジをテーマに書き続けている。
自分の中でテーマにしていることは、情報がひっかかる。
本を読んでて、同じようなことが書かれていた。

以下、IBM創立者のトーマス・J・ワトソンの言葉である。
「成功の方程式を教えてほしいというのか。
 実はとても簡単なことだ。
 失敗の数を倍に増やせばいいだけだ。」
(人生のすべてをきめる鋭い『直感力』 リン・A・ロビンソン著 本田健訳 三笠書房 より引用)

「失敗が大切」「失敗への評価が大切」ということで、ここまでの記事と共通点を感じた。

2013年11月21日木曜日

失敗への恐怖心の克服 

失敗への恐怖心をどうなくしていくか。
授業研の場面を例に考える。

ある子どもを指名する。
教師の求める答えとは違う答えを言う。
この時の反応である。
がっかりした反応をしていないか。

正答を求める「答え合わせ」をするなら、さっさと教師が教えてしまえばよい。
時間の無駄である。
そうでなくて、「面白い誤答」「価値ある誤答」をこそ求める。
(くだらないとしか思えない誤答もあり、そこは見極める。
基本的に、子どもが真剣に考えて答えた誤答なら、何かしらの価値があると思って良い。)
以前紹介した「授業はクイズ番組」という考え方である。

いかに、失敗に価値付けをできるか。
サッカーやバスケでシュートを大きく外した時の声かけはいつでも「ナイスシュート!」。
入ったかどうかは、結果論である。
数をうてばいつか入るのだから、うったこと自体がもうすばらしいと考える。

誤答も「面白い考えだね!」とか「それは、良い間違い!」と断定する。
良い間違いとは、例えば算数なら、テストでたくさんの子どもがやりそうな間違い。
それを、授業中に示してくれることは、非常に価値がある。
それにより、他の子どもが今後同じ失敗をするのを防げる。
「○○さんのお陰で、すごく勉強が深まったね!このままいったら全員危なかったね!ありがとう!」
と、クラス全体に共有する。
正答を言うのは、教師がいるのだから誰でもできる。大した価値はない。
良い間違いを示してくれる子どもは、一番のヒーローであるべきだ。
そういう風土、空気作りをして、初めてチャンスにチャレンジする子どもになっていくように思う。

結局は、担任が、風土、空気を作る責任者である。
その責任の重さを自覚し、反応していく必要がある。

2013年11月19日火曜日

失敗への恐怖

「チャンス・チャレンジ・チェンジ」のその6。

チャレンジできないのは失敗への恐怖。
もっと突っ込むと、自尊心が傷付けられる恐怖。

恐怖を感じさせなくするのがポイントである。
失敗を成功へのステップと捉えるようになれれば良い。

理想を言うと、失敗しても「得した」と思えれば良い。
チャレンジして失敗した子どもが「損をした」と思うようではいけない。

子どもが失敗をどちらに捉えるかは、「学習」の結果である。

これは、担任の普段の反応一つにかかっている。
次回、具体的に授業研の場面を例にして説明する。

2013年11月17日日曜日

東北へのボランティア活動での学び

東北地方へのボランティア活動に参加させていただいた。
動機は、子どもに教える上で必要だと感じたからである。
東日本大震災については、何かにつけて学校でも扱う。
安全担当などになると、尚更である。
現況を見て、自分なりの考えを持ちたいと思っていた。
動機は立派な善意とかはないので、そこだけは強調しておきたい。
正直、少し参加しただけでどうこうなるものでもないのも知っている。
しかし、せっかくのチャンスがあったので、参加させていただいた。
百聞は一見に如かず、である。

内容は、宮城県の海岸での遺骨や遺品の収集。
震災後、未だ見つからずに、海の底や浜辺に眠っているという。
過日の大型台風によって、また新たに漂着しているとのことだった。
特に遺骨が見つかる、というのは、遺族や関わった人々にとって大きな意味がある。

現地のボランティアスタッフの方から説明があった。
被災地では、復興に向けての作業が続いている。
しかしながら、2年8ヶ月たった今、国が遺骨収集に当てる費用の確保は難しいという。
どうしても、護岸工事や整地などの復興作業が優先になる。
したがって遺骨収集などは、ボランティアの手に頼るしかないとのことだった。

朝に作業を始めて、ひたすら浜を掘り続けた。
衣類はよく出てくるが、肝心の遺骨は発見できずじまいだった。
(遺品の類は少し見つかった。)

終了後、スタッフの方から説明があった。
遺骨は出てこなかったが、それは「そこにはなかった」という証明になり、発見へ近付いたことになる。
(これを聞いた瞬間、エジソンの「失敗ではなく、うまくいかない方法の発見」という言葉を思い出した。)
また、被災地の方々に「今も探しています」というメッセージを贈る意味もあるという。
被災地側にとって、「忘れ去られているのでは」という思いが一番辛いという。
だから、ボランティア活動に参加したら、帰ってそれを周りの人々に伝えるまでが活動、とのことだった。

私にはこの場があるので、発信させていただいた。
もちろん、学校でも伝えていくつもりである。

ボランティア活動は「やれる時に」「やれることを」「やれるだけやる」ことだという。
無理をしすぎず、かつきちんと続けていきたい。

2013年11月15日金曜日

チャンス・チャレンジ・チェンジ その5

ここまで、チャンスにチャレンジしてチェンジできる子どもを育てる、という話を書いてきた。
しかし、これを本当にやるべきは、子どもではない。

実は、教師がやることが先である。
子どもは教師の言葉ではなく、背中を見ている。
「率先垂範」があってこそ、子どもはチャレンジしようと思う。
どんなに言葉でいいことを言っても、それが行動にできていないなら、響かない。

チャンスがあったら、チャレンジする。
そして、自分自身がチェンジする。
「主体変容」である。
嫌でも子どもも変わる。

まずは、今まで何となく先延ばしにしてきたことに、一つ手をつけてみたい。

2013年11月13日水曜日

チャンス・チャレンジ・チェンジ その4

前号の続き。

「跳べないことを見られるのが怖い」というのは、自尊心が傷つくことによる精神的苦痛である。
変にプライドが高く、自意識過剰という場合もある。
これは、本人そのものが変わるより、周り全体を変える方がてっとり早い。
(人間は環境によって作られるため。)
「失敗しても大丈夫」な風土作りが普段から必要となる。
「○○さん、がんばって!!」と心から応援してくれる風土である。
この雰囲気は、体育の時間だけでは醸成できない。
授業を中心とした、まさに日常の雰囲気作りにかかっている。

逆に言うと、いわゆる崩壊している状態では、あらゆるチャレンジは不可能である。
チャレンジによるリスクが大きすぎる。
そういう状態で「がんばりなさい」というのは、無茶である。

チャレンジできる環境は、安全・安心な雰囲気作りから。
学級担任の第一優先の仕事である。

2013年11月11日月曜日

チャンス・チャレンジ・チェンジ その3

チャレンジするために、考慮すべき条件が一つある。
それは前々回書いた「恐怖心」である。

チャレンジできない最大の理由は、恐怖心。
恐怖心を取り除けないと、チャレンジは難しい。
恐怖心の原因を考える。

例を挙げると、「跳び箱自体が怖い」場合と「跳べないことを見られるのが怖い」場合は、恐怖の根本が違う。

前者は、肉体的苦痛が予想されることによる、精神的苦痛である。
他の動物にもある恐怖心で、生命を脅かすことへの本能的恐怖である。
これは「安全」の確保が必須である。
落ちても痛くないように周りに何か敷く、補助をする、スモールステップで行うなど、失敗しても痛くない手をうつ。
体育においては、痛い思いはなるべくさせない方がいい。
たまたま野生児のような性格の子どもならいいが、そうでない場合、挑戦意欲そのものが削がれる可能性が高い。
「根性論」ではどうにもならない。
また、筋肉が無駄に緊張し、パフォーマンスが下がるので、尚更良くない。
クラスで一番かよわい子どもを基準に指導方法を考えるのが鉄則である。
(逆に野生児的な子どもは止めても自分からどんどん挑戦するので、安全面に一層配慮する。)

では、後者の「跳べないことを見られるのが怖い」という場合はどう考えるか。
長くなるので、次号に続く。

2013年11月9日土曜日

チャンス・チャレンジ・チェンジ その2

チャレンジをしよう、という話の別バージョン。

私は、学生時代にサッカーをやっていて、今もフットサルで続けている。
ポジションはフォワード(前で点を取るポジション)。
だから、Jリーグやワールドカップなどを見てもフォワードの選手が気になる。

学生時代、三浦知良選手や岡野雅行選手のプレーが大好きだった。
ゴールを量産する選手には「ごっちゃんゴール」が結構多い。
現在大活躍中の本田圭佑選手も、かなりがこれである。
何かというと、要するに他選手が打ったシュートのこぼれ球を詰める、というものである。
敵がうっかりミスした球をしっかり奪って、という場合もある。
一見、単なるラッキーに見える。
「あの人は運がいいだけ」みたいに思われることもある。

しかし、これはチャンスに何度もチャレンジしている結果である。
100回に1回、1000回に1回でも、可能性がある限り詰める。
これは99回、あるいは999回の「失敗」を経験しても続ける、という意志の強さである。
(そんなことをかつてあるCMで三浦選手が言ってたのを今思い出した。)
チャンスは、自分で引き寄せる。
そのためには、チャレンジが欠かせない。

まだまだあるが、今回も長くなったのでここまで。

2013年11月7日木曜日

チャンス・チャレンジ・チェンジ その1

タイトルは、昨年度の学級のキャッチフレーズ。
ここに関連した話題を。

最近、学級でよく話すテーマが「チャレンジ」。
失敗が怖くてやれない、という心理を何とかしていきたいという思いからである。
優秀で真面目な子ども達であるほど、ここが課題になりやすい。

失敗がなぜ怖いのか。
失敗すると、人に笑われる(気がする)からだと言う。
多分、全国どこできいても、同じ答えが返ってくると思う。
要は、自尊心が傷つくのが怖いからである。
「恥ずかしい」というのは人間独自の感情である。(特に日本人は文化的にこの思いが強い。)
他の動物がチャレンジしない場合は、「失敗体験による命の危険」を学習するからである。
例えば飼っているペットが「何かを異常に怖がる」のは、そこで痛い思いをしたからである。
または、未知で危険を感じるからである。

しかし以前紹介した「超入門 失敗の本質」にもあるが、最大のリスクは「変化しないこと」である。
そこで先日、子どもに以下のような話をした。

猿はどこで暮らしているか。
木の上である。
理由は、安全・安心だから。
木から平野へ降りると、猛獣もいるし食糧も安定しない。
全てが不安定である。
それでも降りた好奇心の強い者がいた。
(ここでの「チャンス」は「好奇心」である。)
降りた者の中には、やはり猛獣に襲われた者もいる。
しかし中には平野での暮らしに適応(チェンジ)していった者も出た。
それが、人類である。
魚が陸に上がって両生類になった時も、鳥が空を飛ぶようになったのも、全て同じ。
現状を捨て、チャレンジと失敗を繰り返した結果である。

この話をきいたところで「そうは言ってもねぇ~」というのが大方の本音だろう。
なので、この類の話はあの手この手で何度もする。

長くなるので、次号に続く。

2013年11月3日日曜日

誉めると叱るは表裏一体

「愛があるから叱るのだ」という野口芳宏先生の言葉を以前紹介した。
叱る場合、相手が素直ならいいが、そうでないと逆恨みされることもある。
つまり、あいはあいでも「気合い」がいる。
叱る行為には、自分が傷付くことも辞さない覚悟がいることになる。

誰でも、自分が可愛い。
自然、学校でも叱らないで誉める教育が広がり、今日に至る。
いいところを見つけ、誉めて伸ばす。
良いことは良い。
それを認める。
このこと自体はいい。
相手も自分も気持ちがいい。

しかし、物事は表裏一体である。
文房具屋でコピー用紙を買う際、
「表だけしか使わないので、裏は結構です」と言っても、
「サービスで裏もつけときます」と返ってくる。
(ちなみに、これは有田和正先生の本にあるユーモア話の一つである。)
どちらか一方だけ、というのは、物事の道理に反する。

いつも誉められまくる一方、悪い面は叱られずに容認されて育つ子ども。
子どもは、毎日楽しいだろう。
全てを認めてもらえるのだから当然である。
先生のことも大好きになるに違いない。
しかし、末恐ろしいことになることが容易に想像できる。
社会に出て、そんなことがあり得るだろうか。

悪いことは悪い。
それを教えるのも教育の大切な仕事の一つであると思う。

誉める実践を推奨している素晴らしい先生方は、叱ることもセットで行っているはずである。
そこを見ないで、誉めるところばかり真似していたら、逆効果である。

誉める教育が脚光を浴びる中に、一抹の不安を感じ、書いてみた。

2013年11月1日金曜日

陰徳を積む

「良い行いを報告する」という実践を紹介した。
これは、教師の側からすると大変都合が良い。
しかし、本来良い行いというのは、人知れず行うのが基本である。

人知れず行う良い行為を「陰徳」という。
読んで字の如く、陰で積む徳のことである。
誰に知られる為でもなく、ただ良いと思うからやる。
純粋なる善行である。

どんなに陰でやっても、必ず二人が見ている。
一人は、天の神様。
もう一人は、他ならぬ自分である。
これは、悪事であっても同様。
良いことをすれば良く、悪いことをすれば悪くなる。
実に理に適っている。
正に「道理」である。

ちょうど前回の記事を書いた後に、栃木県の山中伸之先生のブログ「実感教育」を見たらこのことが出ていた。
なるほどこれも大切なことであると思い、紹介させていただいた。

2013年10月30日水曜日

良い行いの自己申告

前号の続き。
誉めることを増やす具体的な手段について。

前号でも述べた通り、感謝すべきことは当たり前すぎて気付きにくい。
「空気のありがたさ」は言われるまでまず気付かない。
視点が大切である。

「あなたの顔のどこにほくろがあるか知っていますか。」と聞かれたら、即答できるだろうか。
これは毎日見ている鏡でよく見れば、一発でわかる。
(試しに自分でも確認してみると、意外に多いのでびっくりする。)
「毎日見ている」のに、「気を付けて」意識して見ていないから、普段は気付けない。
普段顔を見ていても、ほくろを見ようという視点がない。
視点を持つことで「あれども見えず」を見えるようにしていく。

とはいえ、そんなにいつも意識していられないのが実情である。
目も二つしかない。
どうするか。

これは、良いことをした本人に直接教えてもらえば良い。
具体的には、子どもに書いてもらう。
「小さな福の神」の実践を何度か紹介しているが、あれを基本に考える。
良い行いを「自己申告」してもらうのである。

「道徳授業原論」という本で深澤久先生の紹介している「世のため人のためカード」も同様。
良い行いを教室のみんなが知ることになる。

普通は自分から良いことをしたと公言するのは憚られるが、「ゲーム」と割り切ればやれる。

私は帰りの会で毎日3分間日記を実践しているので、そこを使う。
「今日感謝したいこと、何か人のためにしたこと」というテーマで書く。
全員の良い行いが一目瞭然にわかる。
自然と、子ども達に対しても感謝の気持ちが溢れてくる。
自分の知らなかったところで、そんなドラマがあったのかと感動することもしばしばである。

どんな方法でもいい。
誉める要素を見つけるための何かしらの手段を持つことが大切である。

2013年10月28日月曜日

誉めることを増やすには

叱る回数が誉める回数より多くなってしまう。
親にも教師にもよくある悩みである。

誉めることを多くするにはどうするか。
意識して「気付く」ことに尽きる。
「気付く」とは自然に起きる現象ではない。
意識して「気」を発さないといけない。

叱ることにはなぜよく気付けるのか。
目立つからである。
自分の「快適ゾーン」をはみ出しているので、よく見える。
嫌だと感じるので、嫌でも気付く。

逆に、良い行為は「当たり前」なので、気付かない。
何度も書いたが、空気に感謝することは意識しないと無理である。
空気を切実に欲するのは、全力で走った後と溺れてる時ぐらいである。
良い行為とは空気のようなものと考える。
すると、学級内で起きている「当たり前」が全て「有り難い」ことに思える。

大切なことなので、次回もう少し続きを書く。

2013年10月26日土曜日

障害物を取り除くか、乗り越えさせるか

子どもの目の前に、障害物がある。
これを近くにいる者がどうするか、大きく二つある。

一つは、障害物そのものを取り除くこと。

もう一つは、障害物を乗り越える手助けをしてあげること。

治療行為を考えるとわかりやすい。

病巣があって手術しないといけないとする。
それは、本人に「がんばって自分でやれ」とはならない。
力のある者(医者)にしか取り除けない。

一方、術後のリハビリの場面。
これは、全部周りの人がやってあげたら意味がない。
支えるが、ねらいは本人に乗り越える力をつけさせることである。

前者は「優しさ」「母性」で、後者は「強さ」「父性」といえる。
人間にはどちらもバランス良く欲しい。
子どもによっても、足りない要素がどちらかに大きく偏っていることがある。
見極めないといけない。

学校や家庭の教育現場でも、日々この選択の連続である。
今、目の前の状況は、手を出すべきなのか、見守る場面なのか。

これを意識するだけでも、指導が変わってくるように思う。

2013年10月24日木曜日

ダイナミックな活動ほど事前指導を

ダイナミックな活動ほど、事前指導が重要になる。
逆に、教師が常にぴったりつける活動であれば、その場で指導が可能である。
普段教室で行う授業は、目の前の子ども全員を把握できるので、いくらでも修正がきく。
しかし、教室の外で、個々に活動するような場面では、事前指導がないとめちゃくちゃになる。

体育の授業は、事前指導が大切である。
子どもが、グラウンドや体育館等という大きな空間を動き回って活動する。
一人一人に声かけをするのも容易でない。
ケガをする前に、安全面だけは確実に全員に周知させてから活動させる。
水泳の学習では特に顕著である。
体育には学級経営が出るという所以である。

図工で、外に出て自由に場所を決めて絵を描く場合も同様。
活動中は子ども達がバラバラになるので、事前指導が全てである。

修学旅行を代表とする、校外学習。
計画の段階から自分達で作って、当日も自由行動。
事前指導に全てかかっている。
放ってからではもう何も指導できない。
計画段階での指導が命である。

職場体験も同様で、マナーや礼儀を先に徹底指導しておく。
そして、何を見て学んでくるのか、ねらいを明確にしておく。
「活動あって学びなし」の事態を未然に防ぐ。

「指名なし討論」というのがある。
子どもが勝手に話し合いを進めていく。
教師にとって、何て楽な方法だろうと思う。
しかし実際やってみると、討論にはほど遠いレベルで終わる。
ものすごい積み重ねの事前指導があって、初めて成り立つ方法である。
楽とはほど遠い。

何でも自由度を高めるほど、指導は大変になることを念頭に置いておきたい。

2013年10月22日火曜日

種を蒔いて育てる

子どもが、ひまわりの種を収穫して教室へ持ってきてくれた。
「福島ひまわり里親プロジェクト」に送るための種である。
クラスの子どもにも協力してもらって、1学期に育ててもらった。

多くの子どもに配ったが、全員が花開き、収穫できた訳ではない。
途中で枯れてしまった場合や、そもそも蒔くのを忘れていた場合もある。
そんな中でも、たくさん蒔いておけば、いくつかは花が開く。

学級経営においても、「種を蒔く」という行為がまず必要である。
例えば何かの活動をしようという場合にも、何はともあれ始める。
そうすると、全員はやらなくても、やる子どもが出る。
「芽が出た」という状態である。
この一つ目の芽を大切に育てる。
絶対見逃さない。
一つ芽が出たことを周知し、称賛する。

すると、芽が三つ、四つと増える。
これも周知し、大いに称賛する。

また増える。
最初の芽はもう大きく育っているので、こちらを紹介することも忘れない。

こういう行為の繰り返しで、学級の様々な取り組みが定着していく。

やりがちな失敗が「やらせっ放し」と「叱る」。
新しい取り組みは、忘れてやらなくて当然ぐらいに構えておく。
やった人がいたら、それはすごいことなのだから、確実に誉め讃える。

プラスαの取り組みは「誉めて伸ばす」が基本である。
誉める行為は「水やり」に当たる。
種を蒔いて芽が出たら、その後も責任を持って水やりをすることが大切である。

2013年10月20日日曜日

買い物の法則 その3

「買い物の法則」、しつこいが以下の通り。
1 欲しいものを決める(本当に欲しいのか吟味する)
2 お金を払う
3 品物を手に入れる

2の部分の最たる方法が「脚で稼ぐ」ということ。
要は、面倒がらずに動くことである。

お金をたくさん払いたいという人は少ない。
できれば、安く手に入れたいと思うのが人情である。

しかし「悪銭身につかず」の諺通り、安易に手に入ったものは簡単に失う。
必死に働いた後の一杯と、だらだら過ごした後の一杯では、品物は同じでも別物である。

無駄に思えても、愚直にやる。
以前、特別支援教育の西村徹先生の実践を紹介した。
特別支援を要する子どもにひたすら寄り添って登下校を続けた話である。
「脚で稼ぐ」を地でいっている。

一番心に響くのは、誰がどう見ても面倒なことを、ひたすら一生懸命やってくれる人。
かっこつけないかっこよさがある。

最高の逸品を手に入れたければ、高額な代償が必要である。
その覚悟がなければ、1の段階から再考し、安い品物で我慢するしかない。

2013年10月18日金曜日

買い物の法則その2 率先垂範と主体変容

買い物の法則 その2の続き。
先に代金を支払うとは、具体的にどういうことか。

例えば家庭教育においては「テレビばっかりみないで勉強しなさい」と言う場合、親が先にできている必要がある。
「誰にでも優しい子に」と願う親は、自分も誰にでも優しくしている必要がある。

これは、学級経営全般にも言える。
宿題やってきなさい。
勉強は一生懸命やりなさい。
本を読みなさい。
字をていねいに書きなさい。
学級目標・生活目標を意識しなさい。
掃除しなさい。
自分勝手はやめて、人の為に動きなさい。
人の悪口やいじめはいけません。
親を大切にしなさい。
言葉遣いはていねいに。
・・・
全ての指導事項において言える。
上記の言葉を、自分自身に言っていると思えばよい。
(たまたま立派な子どもの場合、教師がダメでもできることがあるので要注意である。)

指導していて、「何でこれぐらいできないの」と思った時は、我が身を振り返る。
大抵、それは自分である。
子どもに変わって欲しければ、率先垂範、主体変容に尽きる。

2013年10月16日水曜日

買い物の法則 その2 先に支払う

学級経営含め、ものの考え方全般に共通する「買い物の法則」。
再録だが以下の通り。
1 欲しいものを決める(本当に欲しいのか吟味する)
2 お金を払う
3 品物を手に入れる

今回は2と3について。
お金を払ってから品物を手に入れる。
万国共通の、至極当然のルールである。
2を飛ばして3に至ることを「万引き」という。
社会的に許されない、犯罪行為である。

しかしながら、教育において、教える側はしばしばこの「万引き」をしようとしてしまう。
どういうことかというと、「代償は払わないで結果を欲しがる」ということである。

例えば、子どもに「誰にでも明るく爽やかなあいさつをしましょう」と指導する。
原則から考えて、まず教師がやる必要がある。
それも、子ども達はそのあいさつをできない前提で、無視されることも辞さないつもりでやる。
職員間同士でもやる。
それができるようになって、初めて子どもにも「あいさつしよう」と言える。
自分がしないのに「どうしてやれないの」というのが、「万引き」行為である。
先に自分がやる。
大変だけどやる。
欲しいものを手に入れるために、代償を支払う。

普遍の原理である。
(長くなったので次号に続く。)

2013年10月14日月曜日

買い物の法則 その1

8月末のセミナーで「買い物の法則」というのを紹介した。
学級経営の基本的な考え方として紹介したオリジナルの法則である。

1 欲しいものを決める(本当に欲しいのか吟味する)
2 お金を払う
3 品物を手に入れる
この3つを順番に行うのが正しい、という、いたって単純な法則である。

この「1 欲しいものを決める」という過程が、つまりは理想像を描く行為である。

おつかいを家族の誰かに頼む場面を想像するとわかる。
「○○買ってきて」と言われれば望むものを買ってきてくれる。
「何でもいいから食べる物買ってきて」と言われたら、相手はかなり悩む。
大抵、大して食べたくもなかったものを買ってきてくれる。
(これを「自業自得」という。)

ちなみに「夕飯何食べたい?」の答えで一番困るのが「何でもいい」である。
大抵、出されたものに文句を言うか、うまいとも言わずにもさもさ食うのがオチ。
お互いの為にも、きちんと食べたいものを意思表示した方が良い。

この為の手法として「未来予想図の学級通信を書く」という手法を紹介した。
(こちらは原田隆史先生の教師塾で学んだ手法である。)
ちなみにこの手法は、自分のノートに書くだけでも効果がある。
なぜなら自分自身の理想像を固め、宣言する行為につながるからである。
学級通信を実際には出していない人にも有効な手段である。

まずは、学級担任がどんな学級にしたいかの具体的な理想像を描くこと。
全ては、そこから始まる。

2013年10月12日土曜日

アウトプットを意識する

アウトプットとインプット。
バランスが大切とはよく言われる。
では、どちらが先か。

「インプットが溜まってアウトプットできる」という考え方が普通である。
一理あり、中身が多いほど出すものの質が高まる。
だから何か発表などを頼まれると「私程度のものが」と辞退したくなる。
もっと勉強してからなら発表できる、と思う。
(同じような記事を、大分前にも書いた。)

しかしながら、逆の考え方もある。
アウトプットありきでインプットする、という考え方である。

先に「発表する」「レポートにまとめる」「同僚に話す」等という活動を決めておく。
「テストで良い点を取る」というのも実はこれである。
インプットすることをどうアウトプットするのか、決めておけば学びの質は必然的に高まる。
「ここ、テストに出るぞー」などと言うベタなセリフがあるが、これも同じ。
「テストで正解する」という動機を持っている相手なら、これで必死に覚える。
(そこに重きを置いていない相手には、無効である。)

先日の学級作りセミナーでは、会のはじめに「最後に参加者同士で学びの交流をします。」と示した。
企画した飯村先生が「こうすれば学びが深まる」ということを実感している。
後で発表があるとなれば、学んだことを消化しておく必然性が出る。
結果、インプットの質が高まる。
また、実際人に話すことで、自分の中で気付きが生まれる。
人の話を聴くことで、自分と違う視点から、さらに気付きが生まれる。

とにかく、せっかく学ぶなら、アウトプットを意識することである。
そして「感動は生もの」だから、すぐ使う。
学習会後の参加者同士の交流は、即席&最速のアウトプットの時間である。

2013年10月10日木曜日

やる気スイッチセミナーでの学び

夏休み明けに行った「やる気スイッチセミナー」での学び。

河邊先生からの学び。
「子どもが近くにいる」だけで教師には「チャンス」。
飯村先生からの学び。
「学級経営で一番大切なことは、子どもを好きになること。」

「感謝」の反対は「当たり前」。
当たり前だと思いがちなこと全てに、改めて感謝したい。

2013年10月8日火曜日

プラスワンを求める

最近よく話題に出す、山口県の福山憲市先生からの学び。

「プラスワン」
つまり、ここまででも100点なんだけれど、更に上がある、という考え方である。

以前に書いたが、返事一つ、手の挙げ方一つでも、レベルはピンキリである。
理想が高すぎても低すぎても、子どもは伸びない。
今の現状にプラスワンを求め続けること。
福山先生は「人より一歩前」というようにも表現していた。

その為には「当たり前が自然体のクラス」を作る必要がある。
「当たり前」=「暗黙知」のこと。
全員の「当たり前」レベルを上げないと、プラスワンが求められない。
いちいち言わないといけないレベルでは、次が求められない。
「1を知って10考える」レベルにもっていく。
それも、全員をもっていく。
「1学期までに揃いの姿を」と表現されていた。

自分の学級経営を振り返り、どこに「当たり前」があるか見極めたい。

2013年10月5日土曜日

戦略と戦術

先日、道徳の研究会で次の本を紹介され、購入した。

「『超』入門 失敗の本質」
鈴木博毅 著 ダイヤモンド社 

日本軍の敗戦を例に、その根本や本質を読み解いていくという内容である。
この本の最初の章に「戦略の失敗は戦術で補えない」とある。
戦術より戦略がより大切ということである。

ところで「戦略」と「戦術」の違いは何か。
類義語だが、意味が違う。
戦略の方がより大局的で、戦術は具体的である。
大きく戦略を考えて、そのためにたくさんの戦術を用いる、という感じである。
元々軍事関係の言葉だが、今ではビジネスやスポーツなどでもよく使われる一般用語である。

学級経営も、戦略的に考える必要がある。
夏休みにたくさん研修を受けたり本を読んだりする。
そこで様々な「戦術」を知る。
しかし、戦術が生きるかどうかは、戦略次第である。

具体的に例を挙げる。
以前紹介した「小さな福の神」という実践がある。
くじ引きでクラスの全員がそれぞれ誰かの福の神になり、一日中取り憑いて密かにいいことをする。
子どもに大人気の実践である。
ゲーム的で面白い。
この実践自体は「戦術」である。
これをどう生かすかが「戦略」になる。
この実践を継続的に通していく中で、これをやっていない時にも自然に「福の神」が出てくる。
自然な「福の神」がだんだん増え、やがて全員が常に「福の神」状態になる。
そうなるように仕向けていくにはどうするか。
ここが「戦略」である。
さらなる「戦術」を組み合わせていくことになる。

つまり、どんなに良い「戦術」でも、単発では効果が薄い。
戦略的に用いてこそ、初めて効果が現れる。
ネタ集めに尽力したら、それをどう生かすかである。
学級経営は「戦略」であり、個々の実践が「戦術」と言える。

夏休みに情報収集した「戦術」を、どう戦略的に用いるか。
ここが、学級経営の面白いところである。

2013年10月3日木曜日

初心に返る

過日、教員採用試験があった。
採用試験に臨むにあたり、必ず問われること。
「何で教師になったのか」

この初心に常に立ち返ることが大切であると思う。
いつのまにか、日常に忙殺されていて、ここを忘れがちである。

私は、友人が不登校気味だった。
学校が楽しくないのかもと思った。
だから、学校を楽しい場にしたいと思った。
(今となって考えると、それだけではなかったこともわかるが。)

友人によく算数を教えていて、「お前教えるの上手いな」と誉められた。
「人に勉強を教えるのって楽しいかも」と思った。
みんな勉強がよくわかれば、学校がもっと楽しくなるのかもと思った。

外で遊ぶのが大好きだった。
毎日体育があったらいいのにと思った。
先生になったら、毎日体育にして、毎日外で楽しく遊ぼうと思った。
(毎日体育は無理だとわかったが。)

そんな風に思い出して、二学期の学級スタートを考えた。
要は「楽しさ」が動機である。
それも「人との関わり」「授業」「遊び」の3要素が基本である。
ここは、人によって違っていい。
ここをベースに、2学期の始めに何をするか絞っていった。

いつでも迷ったら「何で教師になったのか」。
初任の自分や、学生時代の自分に訊ねてみるのも手である。
結構、最適な解が返ってくる。

2013年10月1日火曜日

脚で稼ぐ

最近、自分で大切だと思っていることが「脚で稼ぐ」ということ。

頭で色々考えて、なかなか動けないことがある。
「能率・効率を考えることが最も非効率」であることが多いことも知っている。
システマティックに考えることが裏目に出ることも多い。
そういうのが苦手な人の方が多く、非効率でも人間的な方が求められる。

自分の好きな友人の一人は、とにかく脚で稼ぐ人間である。
ちょっとした用事がある時、面倒がらずに、直接そこまで行く。
面白いお土産を見つけると、必ず購入してターゲットに渡す。
(私も、何度かやられたことがある。大変に無駄である。しかし、印象に残る。)
ただ一ネタ、一笑いの為に身銭を切るという、自分にはできないことをするので尊敬している。

そんなことを思っている折、面白い話に出会えた。
兵庫県の仲島正教先生という、学級作りのセミナーをしている方の講演である。
私の所属している地域の方は、大多数が聴いたと思うので、他の地域の方の為にシェアする。

こんな問いがあった。
「体育の時間で集合をかける時、いつも決まって一番遅い子どもがいる。
この子どもを一番に集合させるにはどうするか?」

少し考えてみて欲しい。
自分ならどうするだろうか。

答えは、今日のタイトルの通り。
要するに、自分でその子どもの所まで走っていき、そこで「集合!」。
この先生が言っていることも、同じことである。
「脚で稼げ」。

この先生も言葉遊びが好きである。
つまり、脚で稼ぐことは「教育」であると。
教育は「今日行く」である。
寄ってこない子どもには、自分から行けばいい。

休み時間も同様。
教卓に寄ってくる子どもの相手をして満足してはいけない。
その時一人で本を読んでいる子どもを見過ごさない。
次の休み時間には、自分から寄っていく。

「脚で稼ぐ」だけでも相当な内容があった。
またシェアする。

2013年9月29日日曜日

やる気と感動は「生もの」

夏休み中、たくさんのことを学んだ。
この瞬間、やる気にあふれているのだが、長くは続かない。
その内、忘れてしまう。
もう、あれは何だったの、というぐらい忘れ去る。
何とかと秋の空、の如くである。

やる気や感動は、生ものである。
放っておくと、どんどん腐敗が進む。
驚くぐらい忘れていく。

大切なのは、即実践。
「知行合一」が大切である。
せっかく得た学びを、いつ生かすのか。
2学期、せっかく学んだことを一つは生かして実践したい。

2013年9月26日木曜日

「先生、暇そうだね」

教育相談について学んだことのシェア。

子どもが相談しやすい教師とはどういう教師か。
その一つに、「先生、暇そうだね」と子どもに言われるようにせよ、ということ。
何だかそんなこと言われたら心外な気もするが、要は次のような理由からである。

仕事はやりだすときりがない。
休み時間も前の時間に集めたノートだったりその日の宿題や連絡帳だったりと見るものが大量にある。
結果、常に「忙しい雰囲気」を醸し出してしまう。

自分達の立場になって考えてみるとわかる。
例えば教頭や教務などにお願いをしたり、校長に相談をする場面。
相手の状況を見て話しかける。
しかしこれらの立場の人達は、校内で最も忙しく、何かしていることが多い。
結果、なかなか話しかけられずに気がついたら退勤、というような経験がある方も多いのではないだろうか。

要は、忙しそうにしている人には相談しにくいということ。
四六時中何かしていると、子どもは話しかけるタイミングがない。
結果、先生には相談できない、話をきいてくれない、という風になりがちだという。

一生懸命やることは大切である。
しかしその際、目的を見失うことがしばしばある。
教育の目的は何なのか。
子どもの人格の完成(を目指すこと)である。
宿題も何も全ての仕事が目的へ向かう手段である。
子どもと話すことは、「教師理解」と「子ども理解」両方を深める。
更にいじめ発見や悩みの解消などの為にも役立つ、大切な仕事の一つである。

「一生懸命、暇そうに見せる」
暇そうに見せるには、結果、より多くの努力と工夫が必要になる。
矛盾するようだが、それが真理。
大切なことを学ばせていただいた。

2013年9月24日火曜日

重きものは軽き如くに

「重きものは軽き如くに
 軽きものは重き如くに」

最近読んだ本で知った言葉で、茶道の心得の一つだそうである。
例えば箸のような軽いものこそ、両手できちんと扱うと、所作が美しく見える。
逆に重たいものの時、いかにも重そうに運んでは凡庸。
本当は重たいのに、いかにも軽々と運ぶ。
軽くやせ我慢だが、これがスマートに見えるコツだそうである。

ここ数回「すごい人」「尊敬する人」について書いてきていて、ピンときた。
すごい人達は、面倒なことをあっさりやる。
ちょっとしたことを、丁寧にやる。

何度も書いているが、例えば葉書や手紙。
書くのは結構億劫なはずなのに、会ったその日や帰りの新幹線でもう書いてたりする。
凡庸なこちらが「よーし、明日自分から書こう!」と気合いを入れていると、もう相手から届いている。

例えば、お辞儀。
軽くやってしまいがちである。
すごい人は姿勢を正し、相手より深く長い礼をする。
それも、ごく自然にやる。
お辞儀一つでもかなわない。

例えば、長距離の移動。
お金も時間もかかる。
北海道だろうが沖縄だろうが、必要ならあっさり行く。
(多分、実際は懐が痛むはずである。遠方になれば、家族の合意もいるだろう。)

例えば、講演。
膨大な時間をかけてたくさん準備している。
しかし、全部出さない。
状況を見て、あっさり引っ込める。
授業でも同様である。
緊張している様子も見られない。
(後でご本人にきくと「実は無茶苦茶頑張ってた」ということも多い。)

懇親会のような場でも、小さな気配りをさらっとやっている。
どちらが講師かわからない。

「重きものは軽き如くに
 軽きものは重き如くに」
物事の本質を捉えた実にいい言葉だと思ったので、紹介した。

2013年9月22日日曜日

すごい人が皆謙虚な訳

すごい人はみんな謙虚である。
その理由が何となくだがわかった。

「謙虚」を辞書で引く。
「ひかえめですなおなこと。謙遜。」(広辞苑)
「へりくだって控えめなさま。
おごりたかぶらず素直なさま。」(明鏡)

謙虚は「素直」とほぼ同義。
素直さに控えめな様子を足したものが謙虚とも読める。

ところで「あなたは素直ですか」ときかれたら、どう答えるだろうか。
自分は、なかなか「素直です」と堂々と即答できない。
自分自身、素直なつもりで、実践できてない面が多いのを知っている。

素直なら
教えられた通りにやる
(だから、正しい方法が身に付く)

素直なら
すすめられたことはすぐに実行する
(だから、良いものや習慣がどんどん周りに増える)

素直なら
わからない時は、堂々とわからないから教えてくださいと言える
(だから、知識が増え、過ちもすぐに正せる)

即ち、素直さは実行力を伴う。
良いとわかっていることを先延ばししない。
素直さ=実行力と言ってもいい。
ここが実に難しい。

さらに、素直になるには「今の自分」を捨てる覚悟がいる。
言い訳や自分に都合のいい解釈をしない。
変革が伴う。
常に「スクラップ&ビルド」である。

すごい人は、常に向上し変化し続けている。
そう考えると、すごい人が謙虚の性質を持つのは、至極当然のことのようである。

2013年9月20日金曜日

すごい人は「子ども」

「本物の方と会うと、あまりにも皆、子どもなのでびっくりすると思います。」
(「忘れる練習・記憶のコツ」
アルボムッレ・スマナサーラ著 サンガ新書より引用)

以前紹介したことのある「怒らないこと」と同じ著者の本である。
この一文が、最近感じていたことにすごくマッチして、引っかかった。

色んな分野の「すごい人」に会って、話をきく。
教育関係以外に、一般企業の方と近づける機会もある。
「すごい!」と思う人は、みんなものすごい、「子ども」である。

何だか失礼に当たりそうなので、あからさまに個人名は出せない。
自分の尊敬する人を複数思い浮かべて勝手に分析し、その共通点を挙げてみる。

1 好奇心が異常な程強く、常に本を読んだり調べたりしている。
2 色んなところによく出かける。
3 礼儀正しく、腰が低い。礼が深い。(相手が目下の場合は、尚更。)
4 手紙を色んな人へよく出す。
5 意外な所でラフ。変な所がある。(癖がある。隙がある。)
6 色んな人に話しかけて、質問しまくる。
7 笑った顔が、子どもっぽい。
8 決めてから実行するまでが尋常でないほど速い。
9 口約束を必ず守る。
10 素直(吸収力がすごい。)

挙げてみると、ほとんどが「子ども」の要素である。
(3、4、9辺りは、礼儀正しさに関わる面で、大人として獲得するものかもしれない。)
すごい人は「礼儀正しい」+「子どもっぽい」が、キーワードのように思った。

2013年9月18日水曜日

道徳以前

過日、山口県の福山憲市先生という素晴らしい方のお話を再びきかせていただいた。
前にも書いたが、実践が、もはや別次元のレベルである。
私などからすると、ほとんど人間業とは思えない。

今回は道徳がテーマだった。
しかし、内容は完全に学級経営。
つまり、一時間の道徳どうこうの前に、学級経営なのである。
そこがあって、初めて一時間の道徳の授業に意味ができるということだった。

講座の最中に、福山先生が放った次のような一言に、頭をガツンと殴られた感じがした。

姿勢一つ変えられないで、道徳の指導云々とかできるのかということ。
全員に徹底させられないでどうするんですか、ということ。

最初は「テスト平均99点」に目を奪われ、どんな凄い算数の指導法があるのかと関心を寄せていた。
しかし、単なるハウツー、ではないのである。
根本・本質・原点が違う。
全員に、姿勢を正すことが当たり前ということすらできてない。
算数とか道徳とかそれ以前レベルである。
到底追いかけられる状態ではない。
有名な実践家の追試をしてもうまくいかないのは、その辺りに原因がある。

まずは、一点集中、一点突破。
何か一つでも、徹底できる部分を持ちたい。

2013年9月16日月曜日

敬老日は「有り難い」日

敬老の日。
いわずもがな、人生の先輩を敬い感謝を示す日である。
普段から当然そうあるべきなのだが、意識して改めて、という日である。
(シルバーシートの存在に近いと思う。
当然のことを敢えて意識させるためである。)

ところで、なぜこの時期なのか。
疑問に思ったらすぐ調べられる便利な時代である。

どうも、この時期が農閑期にあたるから、ということらしい。
一段落ついたところで、先人の智恵を授かろうというねらいもあるらしい。
何事にも突き詰めると理由があるのだなぁと妙に納得。

年上を敬うべき。
かなり当たり前のことだと思う。
理由がいらないレベルの当たり前である。
しかし、「当たり前」のことを改めて考え、認識すると、「感謝」になる。

もし感謝を示せる相手が身内にいるなら、それ自体が「有り難い」ことである。
今や「人生七十古来稀なり」のはずが、5万4千人以上の百歳越え。
有り難いことである。

敬老日 ありがとう言える 有り難さ

2013年9月14日土曜日

良いものは何度でも

いいものはいい。
何度見ても、何度きいてもいい。

講演なども同じである。
同じ人の同じ話であっても、毎回微妙に違う。
話し手自身が、常に変化している。
同様に、聴き手も常に変化している。
だから、同じ話のはずなのに、手に入る情報の質が上がる。

本や講演CDを繰り返し見たり聞いたりする。
これは、話し手は変わっていない。
しかし、受け取る側は変わる。
だから、いいものは何度も触れたほうがいい。

ある素晴らしい実践家の先生が仰った。
自分の師匠の本は100回は読むという。
1回読んで「素晴らしかった」で終わらせないという。
良い本は何度も何度も何度も読むという。

たくさんの情報にあたることも大切である。
同様に、良いものに何度も触れ直すことも大切であると学んだ。

2013年9月12日木曜日

知識は大切

「知識偏重」「頭でっかち」というように、知識が悪玉のように言われることもある。
知識ばっかりで行動が伴わない人間では確かに役に立たない。
しかしながら、知識もやはり大切である。

先日、我が愚息が水泳用ゴーグルのゴムを切った。
おばあちゃんに買ってもらったお気に入りで、大泣きである。
なぜ切れたかというと、パチンコのように引っ張って遊んだから。
切れて当然である。

なぜそのような愚行に走ったのか。
まず「ゴムは無理な力を加えると劣化する」という知識がない。
更に「こうすると壊れる」という経験もない。
「まさかゴーグルのゴムが切れるとは」という感じである。
それで壊れて泣くとは、こちらからすれば物事の道理に反する感がある。
(ついでに「物を大切に扱う」という道徳的姿勢にも欠く。)

とかく、子どもというのはこういうことをしがちである。
いわゆる「常識」が通らない。
それは、生きてきた時間が短く、知識や経験が少ないからである。
米を洗剤で洗うという笑い話もあるが、「洗う」=「洗剤」の知識からだろう。
現在、家庭科では「油汚れは不要な紙でまず拭き取る」「油汚れ以外に洗剤はなるべく使わない」ということも教える。
放っておくと、めちゃくちゃに洗剤を使うからである。
知識がないと、排水口の先の川や海がどうなるか想像できない。

一昔前は、ご家庭でもてんぷらで使った油を直接排水口に流していた時代があるという。
これも「無知」のなせる業である。
「油が自然を汚す」ということが常識として通っていなかったのだろう。

ある病気に対し「近づくだけでうつる」という嘘が常識化したのもしばしばである。
(保健でエイズの授業をすると、よくわかる。確実に教えないといけない。)
大人とて、知識がなければそういう「非常識」があり得る。

教育も同じである。
どれぐらいの知識があって教室で教えているのか。
自分が学校教育で受けきた授業をそのままやったら、最低でも十年以上遅れた教育になる。
「十年一日」で教育をしていたら、どんどん劣化していく。
素晴らしい授業の「モデル(イメージ)」が知識として必要である。
これは、多ければ多いほどいい。
自分の個性に合うタイプ、合わないタイプがあるので、多い分だけ取捨選択ができる。
そのために、わざわざ高いお金と多くの時間を使って、セミナーや授業公開にでかける。

休日は、レジャーを楽しみつつ、知識を得る活動も併せて行いたい。

2013年9月10日火曜日

「やる気スイッチ」の主電源

やる気には個々に「ニーズ」がある。
人によってスイッチの種類が違う。
たくさん持っている人もいれば、少ない人もいる。
しかし、どんなにたくさんある人でも、なぜか動かないという場合もある。

例えば、配電盤を見る。
たくさんスイッチがある。
その中に「主電源」というものがある。
これが入ってないと、他のスイッチが作動しない。
落雷時のブレーカーが落ちた状態である。

これを教室で考える。
例えば、本来歌が大好きな子どもがいる。
「歌を歌う」スイッチをオンにしたい。
あれこれ手を打つが、歌わない。
どうしたことか。

一人だけ歌わないのなら、個人的な問題を抱えている。
体調不良かもしれないし、家族や友達とのトラブルかもしれない。
しかし、クラスの大半がそうであるのなら、集団的な問題である。
歌の「やる気スイッチ」以前の問題で、根幹の問題である。

学級経営の主電源は「安全・安心」である。
これがないと、あらゆるスイッチは機能しない。
歌うとばかにされる、浮いてると思われるような学級では、歌えない。
逆もありきで、何をやっても受け止めてもらえる学級では、表現活動が活性化する。

私の知っている限りでも、素晴らしいと思う学級はここが強いように思う。
全員が合唱団のように口を開け、楽しそうに歌う学級。
全員がノリノリでダンスを踊りまくる学級。
全員がお笑いのコントを見せ合って爆笑している学級。
全員が劇で主役級に輝いて演技する学級。
全員が授業中に自由に発表できる学級。
どれも、受け止めてもらえる「安全・安心」感がベースにある。

何かに挑戦しようという時、「安全」という前提がある。
失敗しても大丈夫。
いわゆる「セーフティネット」である。
ジェットコースターに乗れるのも、ベルトやその他安全設備のお陰である。
基本が「危険」であるなら、命知らずやパフォーマー以外は乗らないだろう。

自分の学級のレベルはどこなのかを、まずは見極める。
安全レベルができてないのか、その後の方法の工夫なのか。
根幹の部分が揺らいでいるようなら、ハウツーの前に、そこの対策が必要である

2013年9月8日日曜日

やる気スイッチの考察

子ども時代、ゲームと漫画が大好きだった。
何時間でも集中し続けられた。

友達と遊ぶことが大好きだった。
何時間いてももっと遊びたいと思う。

勉強に応用できたらどんなに素晴らしい結果が出るだろう。
保護者からもよくため息と共にでる言葉である。
残念ながら、そうはいかない。
その辺りについて、考えてみる。

やる気を楽しみと考える。

漫画を、ここまでと思っても読み進めてしまう。
ゲームを、もうやめなさいと言われてもやり続けてしまう。

これは、内容そのものの面白さである。

教科でいうと、それそのものが大好きという場合。
体育や音楽、図工が好き、というのはこのパターンが多いかもしれない。
算数の計算が好き、社会科の歴史が好き、理科の実験が好き。
子どもによって嗜好が異なるが、内容そのものへの興味である。
誰が教えようが一人でやってても楽しい、というのが特徴である。

一方、「誰とやるか」による楽しさもある。

内容は別に好きでもないが、誰かとやるなら楽しいという場合。
(逆もある。内容が好きでも、苦手な人とやると楽しくない場合もある。)
例えば同じ場所に行くのにも、誰と行くかで楽しみは180度変わる。
そう考えると、子どもにとって、クラスの仲間及び教師との人間関係は大切である。

授業に対する子どものやる気スイッチを考えるにあたり、どちらの面が原因か、一考の価値があると思う。

2013年9月6日金曜日

過去が咲いている今。未来のつぼみでいっぱいの今

2学期のスタートに役立ちそうな、良い言葉に出会ったので紹介。

「過去が咲いている今。未来のつぼみでいっぱいの今」
(「お金でなく、人のご縁ででっかく生きろ!2出会い編」
中村文昭著 サンマーク出版 より引用)

伊勢修養団の中山靖雄道場長のお言葉とのこと。
今あるものは全て過去の積み重ねによるもの。
そして未来を作るのは今。
未来に咲く花の種を蒔くのも今である。

過去に対する感謝を持ち、未来に対する責任を負う。

未来にどんな花を咲かせ、その為に、今何をするか。
2学期始め、勝負の分かれ目である。

2013年9月3日火曜日

子どもに教わる

掃除を一緒にやる大切さは以前に何度も書いた。
トイレ掃除や床掃除のように、頭の位置が自然に下がるようなものがいい。
下座の姿勢になり、目線を落とすことで、見えるものがたくさんある。

逆に、子どもが大人の高さまで上がってきて、教えてくれることもある。

夏休み前のこと。
「毎日少しのボランティアをしよう」とクラスで決め、日々実行していた。
そんなある日、自分が校内の窓閉めを怠った日があった。
とても暑い日で、校内の全ての窓が全開である。
暑さによる疲れと、開いてる窓の数の多さに、やる気を失った。
「今日ぐらいはいいか」と。心の弱い奴である。
そうして職員室まで下りていこうとすると、隣の棟に自分のクラスの子どもがいて、窓閉めをやっていた。
大変恥じ入り、申し訳ない気持ちで踵を返し、私も窓を閉めにいった。

こちらがさぼっているのに、子どもはきちんとやっている。
そういうことは、結構ある。
子どもの方がよほど立派、ということがかなりある。

子どもから教わった気がするちょっとした出来事だった。

2013年9月1日日曜日

決断する

夏休み、毎年恒例のある学習会に参加した。
会の始めの方で参加者による実践発表がある。
実践発表は、立候補による。
集まる人々が相当な実践家の方々ばかりで、発表はなかなか勇気がいる。

この会で、毎回発表している方がいる。
私よりも年は下だが、大変に優秀な方である。
二十代の頃に初めて参加してから「毎回必ず発表する」と決めたそうである。
この「決めた」というところが、非凡なポイントである。
決断とは「決めて退路を断つ」ことである。

恥ずかしながら、今回含め、この会で自分は一度も発表していない。
発表しなくても、参加はできる。
しかし、それではいけないと気付かされた。

他の会で自分が発表した時のきっかけを思い出すと、やはり「決めた」からである。
「チャンスがあったら手を挙げなさい」と尊敬する方に言われた直後、チャンスが来た。
だから、立候補した。
できる算段など全く考えず、とにかく決めた。
発表は大変だったが、確実に成長につながった。

予定でも習慣でも何でもそうだが、まず決めること。
やらない言い訳をしない。
決断の大切さを学ばせてもらった。

2013年8月28日水曜日

学習課題か学習問題か その2

前号の続き。
教師にとっては、結構知っておくべき「大切」な事ではないかと思う。
(そして、教師以外の人々には本当にどーでもいい話題であるかもしれない。)

例の如く野口芳宏先生よりずばり。
「課題」は出されたもの。
「問題」は感じたもの。
つまり、教師から与えたものが「学習課題」。
子どもから出てきたものが「学習問題」。
こう考えるとすっきりする。

算数などは「学習問題」を作るようにするが、実情は「学習課題」である。
いや、ほとんどの教科が、内実は「学習課題」である。
総合的な学習の時間などは、本来「学習問題」でいくべきところである。
どちらにせよ、教師がそれを捌く必要があることには変わりない。

僅かな言葉の違いだが、中身は本来大きく違う。
自分が黒板に書いたものは「学習課題」か「学習問題」か、意識してみると面白い。

2013年8月27日火曜日

学習課題か学習問題か

国語で類義語について教える。
例えば「大切」に似た言葉(類義語)を挙げる。
小学館の「類語例解辞典」によると、
「重要」「大事」「肝要」「肝心」とある。

どう違うのか。
どれがより「重要度」が高いのか。
調べてみると結構面白いことがわかる。

「大切」「大事」はほぼ並列である。
「重要」はそこに役割のようなものがつく。
「大切な人」と「重要な人」では、前者はより感情的な面が、後者は役割の面が強い。
プライベートかビジネスか、という感じである。
「肝要」は先の三つよりもさらに重要度が高い。
最も高いのは「肝心」(または「肝腎」)。
「肝臓」+「心臓」(または「腎臓」)から成っている。

ところで、サークルで「学習課題か学習問題か」ということが話題に上がった。
この二つには「重要な」違いがある。
(長くなったので次号に続く。)

2013年8月25日日曜日

2割期待の8割諦め

一生懸命やっても、期待する結果が得られないことは多い。
宿題一つとっても、
「明日は必ずやってきます!」
と誠実、真剣な目で言ってきたのに、やってこないなんてザラである。
(すごい先生は、ここできちんとやらせるのだが、私は力量及ばず。)

「ピグマリオン効果」によると、期待するからそうなるという面がある。
しかし、過度な期待は「無理」を生ずる。
期待しつつも、「まあそう甘くないかもね」という「前向きな諦め」も必要になる。
以前書いた「期待値の設定」の話である。

8割期待してて2割諦めだと、うまくいって当然、ダメだった時に腹が立つ。
5割期待してて5割諦めだと、うまくいってもダメだった時にも納得。
2割期待してて8割諦めだと、うまくいったら感動、ダメだった時に当然。

「期待する像」はでっかくもっておいて、実現確率は低めに設定。
それでいて、できる努力は最大限にする。
特に生徒指導において大切な考え方になると思う。

2013年8月24日土曜日

誕生日は何をする日

どうでもいいと思うが、今日、自分の誕生日である。

誕生日は何をする日か。
これについて、教えていただいたことがある。
(どなたの教えか忘れてしまったのが申し訳ない。)

誕生日は、両親に感謝をする日。
加えて私は、祖父母を含む、命をつないでくれた全ての祖先に感謝する日だと考えている。
ここがなければ、存在そのものがない。

もっというと、ここまで支えてくれた全ての人に感謝する日でもある。
一人だったら、きっと生きていけてない。

地球に、日本に、ここに生きていることに感謝する日でもある。

生きてるだけで丸もうけ。
誕生日は、全てに感謝する一日にしたい。

2013年8月23日金曜日

成長は自覚させる

学期末に必ず「成長・変化したこと」について書かせる。
4月の自分を思い起こさせて、今の自分はどう変わったか。

「あれども見えず」に気付かせるのが発問である。
「成長・変化したことは何か」という発問といえる。
習慣化したことは特に気付きにくいので、問われて初めて気付く。
成長の自覚が必要である。

書かせたことから、自分の指導を振り返ることができる。
力を入れて指導したことは、多くの子どもに書かれているはずである。

例えば
「勉強が楽しくなった・がんばるようになった」
「掃除が楽しくなった・がんばるようになった」が多い場合。
授業改善と清掃指導に力を入れた結果である。
教師との信頼関係・縦の関係が強まったとも見られる。

「人に優しくなれた」
「友達が増えた」が多い場合。
心の面の指導や人間関係作りに力を入れた結果である。
友達同士の信頼関係・横の関係が強まったとも見られる。

何と書いて欲しいだろうか。
それを考えてから書かせたものを見てみるのも面白い。
指導の具体的な反省点は、子どもが教えてくれる。
子どもに教わるつもりで、読ませてもらう。
「先生の通知票」が直接教師を対象にするのに対し、これは子ども自身の成長の反省である。
使い分けて考え、二学期からの指導の指針にしたい。

2013年8月21日水曜日

子どもの頭に乗り移る

担任していると、子どもは自分に似てくる。
ものの考え方からしゃべり方まで似てくる。
全てそうではないが、究極、子どもの頭の中身(思考法)が同じになる。

歌が好きな担任の先生の子どもは歌好きになる。
国語、算数、体育、図工など諸々の教科も同様。
掃除やあいさつなども、全てそうである。
そして、価値観や考え方、行動まで似てくることがある。

例えば、今年度は子どもに「返事は0.2秒」を教えた。
「素直さ」の大切さとリンクする教えである。
何度も言っているので、「返事は?」の問いに「0.2秒!」と即答する。

しかし、わかっていることとできることの隔たりは大きい。
教えを実践できるようなら、本物である。
教室で「頼みたいことがあるんだけど・・・」と言った瞬間、
「ハイ!やっておきます!」と即答し、
続けて「で、何ですか?」

つまり、「返事(了解)」→「用件をきく」の順できたとする。
先生や師匠の言うことに「YES」から入る。
こうなると、ものすごい勢いで成長する。

私自身、「頼みたいことがあるんだけど・・・」と言われたら、
「ハイ、やります!で、何ですか?」と答えるよう意識している。
損得を考えると、逆にいいことがない気がしているからである。
「頼まれたら断らない」とは、尊敬する野口芳宏先生の言でもある。

つまり、子どもが素直でないなら考えられることは2パターン。
1 子どもの頭に乗り移れてない(感化・影響できていない)
2 自分自身が素直でない

良い行動を率先垂範し、子どもの頭に乗り移ること。
そうすれば、互いにとって最も良い結果が得られるように思う。

2013年8月20日火曜日

人気の投稿の傾向

夏休みなので、ここまでの投稿について読み返している。
読者の方々のページビューが記録に残っているので、人気の投稿がどれかわかる。

ちょっと分析してみたので紹介する。

8の字跳びと大縄の記事がぶっちぎりの人気である。
時期は偏るようだが、圧倒的に多い。
(記事数自体も多い。事実、力を入れた実践記録である。)
加えて、陸上指導に関する記事も需要が多い。
「大会」ということで「勝負」があり、真剣さが伺える。

単発で際立って多いのが、言語性IQと動作性IQの記事。
これは他の先生からの学び紹介であり、残念ながら私自身の実践ではない。
すごく関心が高いようである。

総合的に多いのが、学級経営に関する記事。
紹介しきれないが、かなりある。
何百個もあるので、自分で見るのも大変である。

単発で笑えたのが、校外学習でのあいさつ指導の記事。
「公害学習」とはなかなか言い得て妙だと思う。
過去の自分とは思えず、まるで他人が書いた記事のようである。

期間でいうと、意外にも夏休み中は一番少ない。
みんな、バカンス中である。
学級開き前の3月、4月や、夏休み、冬休みに入った7月と12月が多い。
需要の多い時期がわかる。

一度もまともにしたことがないので、分析してみた。
読み返してみると、手前味噌ながら、結構面白い記事もある。
人気の記事は、それなりに面白い傾向がある。
やはり、読者の方々の評価は公正であるとよくわかった。

2013年8月19日月曜日

やる気のない相手への禁じ手

こっちが一生懸命だと相手も一生懸命。
そうあって欲しいが、そう甘くはない。
最近読んだ本に、なるほどど気付かされることがあったので紹介する。

「やる気と情熱がある相手には、いくら厳しいことを言ってもいい。
どんなにきつい注意でも、素直に伸びようとしている人間にとっては、肥やしになる。
だけど、やる気がない相手へ説教をすることだけはいかん。
その時点で、相手はお前から背を向けて、どんな話もきかなくなってしまうぞ」
(人生の「師匠」をつくれ! 中村文昭著 サンマーク出版より引用)

最近「やる気スイッチ」をテーマに日々実践をしている。
しかしながら、なかなかスイッチが見つからないことも多い。
そういう時、つい説教をしてしまうが、大いに逆効果である。
相手は、凹むか反発するかのどちらかになる。

これは、相手が大人でも子どもでも同様の鉄板ルールである。
うまい人は、例えやる気がない人でも、あの手この手で乗せる。

先日、下関の福山憲市先生という素晴らしい方の講座を受けた。
全く注意も説教もせずに、全員を乗せての楽しい模擬授業が進んだ。
(この先生の話を目当てに集まっているので、元々やる気の高い集団ではあるが。)
福山先生によれば、教室でも「95%誉めて叱るのは5%」だそうである。
叱るのも、人を傷付けるようなことに限定する。

ついやってしまいがちな説教だが、する相手を間違えないように注意したい。

2013年8月17日土曜日

手間をかける

仕事には能率の良さを求めたくなる。
どうでもいいことにだらだら時間をかけるのは避けたい。
しかし、教育は基本的に非能率である。
特に子どもに対しては、そうならざるを得ない。
「手をかけても多分変わらない」ということも多い。

先日紹介した「掃除道」(鍵山秀三郎著 PHP研究所)に、次のくだりがある。
「つまり、そうなることはわかっていてもやる。
いや、やらずにはおれない。」

手間ひまをかけること。
料理と同じで、一手間かけるから、美味しくなる。
お手軽なものには、きちんんとお手軽な結果がついてくる。
「悪銭身につかず」「easy come easy go」である。

すぐには変わらないことも多い。
しかし、「今できることを全力でやる」以外にない。
時に虚しい気分になることも多いが、せめて子どもに対しては手間をかけることを厭わずにしたい。

2013年8月15日木曜日

おしゃれにいかない、泥臭くいけ

私は、原田隆史先生が教師塾でさらっと言った
「おしゃれにいこうとすんな」
という言葉が強く心に残っている。
続けて「泥臭くいけ」ともおっしゃったように記憶している。
(私個人向けの言葉ではなく、塾生全体に向けての言葉である。)

本当に、そうだと思う。
何か、いつも「上手くやろう」として、かっこつけていることが多い。
(大抵、そういう場合は、かっこ悪い。)
「教師面」して、結構偉そうなことも言う。
しかし、かなり無理をしている自分にふと気付くことがある。

かっこつけてる自分に気付いた時に有効なのが、掃除である。
たとえばトイレ掃除は、かっこつけようがない。
便器と向き合ってひたすら一生懸命磨く。

トイレ掃除に抵抗のある人は、階段の床磨きとかもいいと思う。
汚れてもいい服を着て、膝をついて、ひたすら磨く。
(ほうきは、子どもにやらせる。床に這いつくばることに意義がある。)

何がいいかというと、これが他に転化していく。
他のことでも、とにかくやれることをやろうという気が湧いてくる。
理由は説明できないが、本当である。
家でやっても同様の効果があるので、夏休みは家の中をやるといいと思う。
(家事をやってくれている家族と住んでいる人は、一声かけてからやる方が良い。
突然やりだすと、ありがた迷惑になることもある。)

掃除が日本の教育の一環として位置付けられていることに、心から納得である。

2013年8月13日火曜日

声をかけましょう

研修で学んだ内容に深く頷いたのでシェア。

精神疾患につながる教員のストレス要因として、次の3点が挙げられる。
1異動 2生徒指導 3特定の保護者 
自分の経験からいっても、異動1年目は精神的に厳しい状況に追い込まれることが多く、危険な時期であるといえる。
ここに加えて異動1年目の教員には指導が困難な子どもがいるクラス(荒れたクラス)を任されることが多い。
2や3の要素も同時に抱え込むことになる。

一方、ストレス軽減に重要な要因として、「同僚性」「管理職の対応」という2点が挙げられる。
自分自身もそういった状況を切り抜けることができたのは、同僚の温かい励ましや、管理職の支えなどが大きい。
しかし、必ずしもそういう恵まれた職場ばかりではないというのが現実だと思う。

要するにどうすればいいのか。
「声をかけてください」ということだった。
特に初任者や異動1年目、講師の人達である。
人間は存在を無視されている、というのが一番辛い。
声をかけるだけで、相手にされている実感が湧く。
自分の異動一年目を思い浮かべると、合点がいく。

声かけぐらい、と思うが、意識しないとこれがなかなか難しい。
自分が異動2年目以降なら、特に注意してみたい。

2013年8月11日日曜日

失敗も素直さがベース

失敗には大きく二種類ある。
二種類とは、前向きと後ろ向きである。

前向きな失敗は、チャレンジによる失敗。
底には「良い」「正しい」という思いがある。
結果的に失敗になったので、学習して「選択」を変えるだけで改善される。
素直な人なら、自分の選択の間違いに気付き、すぐ直せる。

後ろ向きな失敗は、妥協による失敗。
「これダメだよね」とわかってて起こす失敗。
底には「悪い」「正しくない」という思いがある。
この場合、心そのものを正さねばならない。
容易ではない。
だから、なかなか直せず、繰り返す。

漢字練習で例を挙げる。

前者は、家で一生懸命やってきたけど、半分の50点でしたという場合。
確かにやったが、練習量が足りない。あるいはやり方が悪い。
ここに気付けば、次はうまくいく。
誉めて励ませばよい。

後者は、やらなきゃいけないと分かっているのに、ついダラダラ過ごした場合。
または、練習が足りないと分かっているのに、何とかなるかもと自分に甘くした場合。
自分を厳しく律していく必要があり、すぐには改善しない。
繰り返す。(すぐに改善できるようなら、とっくの昔に改善しているはずである。)
心変わりするような、何かしらのきっかけが必要である。
誉めないのは勿論だが、叱って効果があるかというと、相手の性質による。

「すぐ」は漢字だと「直ぐ」であり、「直す」「真っ直ぐ」「素直」という性質である。
曲がっているものを「直ぐ」に「真っ直ぐ」「直す」のは容易ではない。
鉄のような「物」なら叩き直すことも可能だが、人間は生き物である。
真っ直ぐ伸びるように、手を加えて「自ら育つ」のを「待つ」しかない。

そう考えると、やはり全てのベースは「素直さ」である。
失敗をチャンスにつなげられるようになるにも、ここの性質を「育てる」他ない。
「でも」「だって」の言い訳をしている間は到底無理である。

指導者側も、言い訳をして失敗を繰り返していないか、時に振り返りたい。

2013年8月9日金曜日

「上げ言葉」と「下がり言葉」

国語で、敬語についての授業をしている。
毎年のことだが、「尊敬語」と「謙譲語」の区別が子どもには難しい。
「謙譲語」は、意味もさることながら、字面からして、しかめっ面である。
見た目が怖くて難しそうというのは、やはり親しくなりにくい。

なので、ちょっと呼び方を変えてみた。
本名も教えるが、ニックネームみたいなものである。

尊敬語は「上げ言葉」。
相手を持ち上げる言葉である。
御輿のようにヨイショっと担ぎ上げるイメージである。

謙譲語は「下がり言葉」。
自分がひざまずき、自ら立場を下げる言葉である。
戦国武将の前で「申し上げます」と言ってる時のイメージである。
(このイメージで「申す」=謙譲語、も頭に入る。)

丁寧語は、文字通り丁寧な言葉である。
タラちゃんが使う言葉である。
(幼児なのに、使用言語が完全に丁寧語である。
時々「やったーですー」のように誤用もあるので要注意ではある。)
「タラちゃん言葉」とは著作権がありそうなので教えないが、そんな感じである。

厳格なる敬語をそのように教えるのもどうかとは思うが、わかりやすくはあると思う。
そもそも、大人でも間違えるのだから、難しくて当然である。
意味としてはその程度で教えるが、日常で使うよう指導を心がけたい。

2013年8月7日水曜日

点検の必要性

定期の委員会訪問がある。
学校を見てもらうということで、安全点検をしたり掃除をしたり、色々準備する。
見栄をはる場ではなく、点検、見直しのチャンスである。

自分では結構ちゃんとやったつもりでも、意外と見落としている。
そこを指摘される。
痛いが、必要である。

点検するという行為自体は、やる側も楽しいものではない。
しかし、点検してもらわないとやる気がしない、というのも事実である。
それそのものが楽しい、というようなものには、点検はいらない。
それなら勝手にきちんとやる。
しかし、現実として、「必要だからやっている」ということは多い。

テストがあるから、勉強ががんばれる面がある。
試合があるから、練習をがんばれる面がある。
日記だって、先生が見てくれるから、書く。
連絡帳も同様。
宿題も、そういう面があるかもしれない。
(点検行為ではないが、「家庭訪問があるから掃除をする」という機会にもなるそうである。)

指導者の点検はなるべく少ない方が良いが、必要とあらば面倒でもやるようにしたい。

2013年8月6日火曜日

失敗のゴールデンパターン

成功にはパターンがある。
これをやるとうまくいくという方法。
うまくいっている時は、気にならないので、流してしまうことが多い。
だから、なぜうまくいったのか気付きにくい。
しかも、パターン化可能なのだが、万能の効果が出ないのも成功パターンの特徴である。
誰かがやってうまくいったのに、自分がやるとうまくいかない。
前にやってうまくいったのに、今回はうまくいかない。
そういうことがあり得る。

うまくいかない時、失敗にもパターンがある。
これをやると必ず失敗するという方法。
こちらは、問題として改善したいので、気付きやすい。
しかし、改善するとすっかり忘れてしまうので、また繰り返すのも世の常である。
そして、こちらは成功と違い、割とどんな場合にも万能に効果があり、必ず失敗する。

「ゴールデン失敗パターン」を一つ。
それは「誰かの問題点を指摘して直そうとする」という行為。
誰かの問題点に焦点を当て、そこの改善に力を注ぐ、という方法である。

教室で例を挙げると、
1宿題をやってこない子どもへの説教
2掃除をさぼる子どもへの説教
3態度が悪い子どもへの説教
・・・・

大人の職場で例を挙げると
1仕事のミスが多い(気がする)同僚への批判
2仕事がいい加減な(気がする)同僚への批判
3態度が悪い(気がする)後輩への説教
4上司の悪口
・・・・

なぜこれをすると必ず失敗するのか。
これら全て「他人」と「問題」に焦点を合てているからである。
「説教」が効果を発するのは、相手が自分に対して素直な人の時だけのようである。
「批判」が効果を発するのは、前向きな研究会等の時だけのようである。

逆に、「自分」と「うまくいっている点」に焦点を当てると、成功するように思う。
結局「主体変容」「良い所を見る」のが、数少ない万能の成功ゴールデンパターンだと思う。

2013年8月4日日曜日

トラブルは評価

前回の続き。
物隠し等があった際、学級全体にどのように指導するか。

次のポイントだけ押さえる。
1 やられた人は本当に哀しい思いをしている。自分ならどうか。(共感性を持たせる)
2 やった人も心が荒れて哀しい人である。放っておきたくない。(担任としての心配を伝える)
3 知っていることがある人は、どこかで教えて欲しい(再発防止の為の情報収集を求める)
この辺りを、具体的に感情を込めて語る。
「困る人」=「困っている人」という原則も教えられる。
目新しいことはないが、解決の必殺技みたいなものはない。

これで、やった子どもが判明するかどうか。
そこは「どちらでもよい」と考える。
教育的にプラスの効果を出すことが目的である。
やられた子どもに二度と哀しい思いをさせないことが何より大切である。
やった子どもが判明することより、再発しない方が大切である。
(誰だかわかったのに、再発する方が問題だろう。)
再発しない=やった子どもは何かしらの反省ができた、と捉える。

再発する場合は、問題の根本が解決していない。
やった子どもをどうこうより、根本的な原因を探れというサインである。
学級経営そのもののどこかを見直す必要がある。

トラブルは、学級全体への指導チャンスである。
トラブルは、学級経営に対する「評価」ととらえる。
常に謙虚に、自身を見直すチャンスととらえる。

トラブルには、毅然とした中にも、温かみのある指導を心がけたい。

2013年8月1日木曜日

トラブルはチャンスの「虎ちゃん」

学級経営にトラブルはつきもの。
ささいなトラブルも何もないという状態は、逆に怪しい。
(もしそうなら、水面下で何か起きていることを疑うべし。)

トラブルは、チャンス。
略して「トラチャン」=「虎ちゃん」。
虎の児のことである(強引)。
「虎穴に入らずんば虎児を得ず」である(更に強引)。
トラブルは歓迎すべきものと捉える。
(実際にその瞬間はなかなかそうは思えないのも承知である。)

例えば、「物隠し」が起きたとする。
隠された子どもはその場において「被害者」であり、教師は当然守ろうとする。
しかし、この場合同じく配慮すべきは、物を隠した側である。

学校は警察とは違う。
警察ならば、犯人捜しは徹底して行う。
警察行政機関である以上、治安維持がその使命である。
しかし、学校は教育機関であり、心身共に健全な国民の育成がその使命である。
「犯人」を捜すのではなく、双方の教育に最も相応しい手段を選ぶ。

この場合、物を隠した側の発するメッセージは何か。
「相手が憎らしい(羨ましい)」
「意地悪をしてやりたい」
「何か悪さをして気晴らししたい」
「担任の先生を困らせたい」
・・・
いずれにせよ、共通しているのは「苦しんでいる」ということ。
少なくとも「ハッピー」な状態ではない。
この手のトラブルは、無意識下では確実に「SOS」である。
つまり、問題が表出したことで、解決のチャンスでもある。

皆さんは、どのように指導されるだろうか。
(次号に続く)

2013年7月30日火曜日

親V.S.子 折れるのはどっち

子どもは親より立場が弱い。
身体の大きさも権利も小さく、養育されているのだから当然である。

しかし親の立場も、視点を変えると実は弱い。

例えば、幼児が食事をふざけて食べないとする。
「もうご飯作ってやらない!」と拗ねたところで、養育の責任がある以上、困るのは親の側である。
結局、何だかんだで食べさせるはめになる。
子どもは「してやったり」の笑顔である。

「一食ぐらい」とは思うが、結局困るのは養育を一手に担う親側である。
風邪一つひかれても、苦労するのは親である。

そう考えると、素直にきいてくれる子どもというのは、本当に「有り難い」ことである。
大人と子ども、互いに感謝の気持ちを持つようにしたい。

2013年7月28日日曜日

校外学習は予備知識がカギ

かなり遅れるが先日のワールドカップ予選最終戦の話から。
私もサッカー部だったので、サッカーの試合は見ていて面白い。
サッカーに興味のない人と、大ファンの人、経験者、それぞれ見方が違う。
見えるものが違う。
解説者などは、めちゃくちゃ「見える」人である。(多分。)

本田選手が後半43分でPKを決めた。
決めたこと自体がすごいのだが、この場面も人によって感じ方は千差万別である。

私は自分のポジションがFWだったので、PKを蹴る場面も多かった。
やったことのある人はわかるが、PKのプレッシャーはすごい。
「決めて当然」の場面ゆえ、「絶対外せない」のである。
キーパーは「決められて普通」なので、逆に「ヒーローになるチャンス」である。
(と、キーパーの友人が語っていた。よくPKを止める男だった。)

相手がハンドして審判の笛が鳴った瞬間、本田選手は即座にボールを抱え込むように持った。
あの大舞台で、迷うことなく「絶対俺が蹴る」という感じでボールをセットした。
そこに感動した。
すごい責任感である。(いや、作戦で決まっているのかもしれないが。)
しかも、ど真ん中に蹴った。
すごい度胸である。
決めたことより、そこに感動した。

そういう感動をするのは、多分経験者だけである。
そこに関して知識と経験があるから、感動する。

知識と経験で、見えるものが違う。

例えば、校外学習で鎌倉に行く。(やっと本題)
八幡宮の舞殿を見る。
「義経の恋人の静御前がここで頼朝に反抗したのか」としみじみ眺める子ども。
ただ「鳩が多いなぁ~」と口をあけて見ている子ども。
倒れた後の大銀杏を見る。
「実朝への公曉の恨みがここで晴れたのか」と歴史に思いを馳せる子ども。
「銀杏倒れたんだなぁ~」と思うだけの子ども。
同じ時同じ場所に行っても、得るものは天と地の差である。

事前の知識量が多ければ多いほど、得るものも比例して多くなる。
校外学習は事前学習で予備知識を蓄えることが肝である。

2013年7月24日水曜日

床に物を置かない

「時を守り 場を清め 礼を尽くす」
森信三先生の有名な言葉である。

今回は「場を清める」ことについて。

その場にある物は「気」を発するという。
荒れた物からは荒れた気が出て、空間に影響を及ぼす。
掃除は、場を清めると共に気を整える行為でもある。

何度も指導したことは、子どもも覚える。
そうすると、合い言葉のように返すようになる。
その中の一つに
「物の扱いは?」「人の扱い!」
というのがある。

物の扱い方と人の扱い方(接し方)は同様、という考え方である。
そう考えると
「物は両手で扱う」
渡す時は「どうぞ」
受け取る時は「ありがとう」
なども、全て合点がいく。

「床に物を置かない」とも教えている。
実質的には、つまずいて転ぶということもある。
しかし何より、物をぞんざいに扱うその心構えを正したい。
紙くずなどのごみも物の一つであるから、それも拾う。
「誰が拾うの?」「自分が拾う!」
「いつ拾うの?」「今でしょ!」など掛け合いも楽みながら行う。
(ややブームが去った感もある。)

床に物が置かれていないか、という視点で教室を見てみると、発見があって面白いと思う。

2013年7月22日月曜日

「何をやるか」ではなく「何のためにやるか」

タイトルは、先日の「あこがれ先生プロジェクト」の主催者の中村文昭氏の言。
この言葉は授業に応用できる。

例えば、算数の授業で、分数の割り算を学習する。
「何をやるか」は「分数の割り算」である。
では、それを「何のためにやるか」と問う。
子どもに問うので、当然教師の側は解(解釈)を持って問う。

中村氏の話に、次のようなものがあった。
ある小学校で講演を頼まれ、何の為に勉強してるのか小学生にきくと、明確に答えられない。
「親が勉強せいって言うから。」
「義務教育だからですかね?」
正直である。

一人だけ、「医者になるためです」と答えたという。
「父のように人に感謝されて役に立つ人間になりたい」という。
「医者になるには、国家試験。
国家試験合格には、医学部のある大学。
医学部のある大学は、難関校。
難関校に入るには、中高でバリバリ勉強ができること。
そのためには、小学生のこの時点でできることをやる。」
(CD「中村文昭のしゃべくり壱~師匠の教え~」より要約)

そして、この子は、勉強の前におまじないを唱えるという。
「よし、今から医者になるために○○するぞ。」
○○には勉強をはじめ、手伝いや掃除など、様々な言葉が入る。

別に医者に限らない。
あらゆる子どもに、大人に、必要な考え方だと思う。

今日は、何のために授業をするのか。
今日は、何のために出勤するのか。
今日は未来のどこへつながっているのか。

「よし、今日も○○のために仕事へ行くぞ」
と、一念発起してがんばりたい。

2013年7月19日金曜日

勝負の先の指導~陸上記録会や運動会を終えて~

陸上記録会や運動会が終わる。
その時、何を子どもに言うか。

勝とうが負けようが必要な指導がある。

一つは、子どもに「成長の自覚」をさせること。
行事に参加する前と終わった後で自分がどう変わったのか。
よく行事が終わると思い出作文を書かせるが、成長や変化を書かせるのも良いと思う。
書くことで成長を確認して自覚することができる。
成長を言って聞かせ、書かせてみせて、さらに誉めてやるのが良いと思う。

もう一つは、「感謝の心」を持たせること。
もし勝ったなら、それは誰のお陰様なのか。
自分の勝負なのだから、自分が努力したのは「当たり前」である。
しかし、周りの協力や助けは決して「当たり前」と思ってはならない。
「有り難い」ことである。
ここも成長と同様に自覚させる必要がある。

勝負に勝ってもそこが抜けたら、意味がない。
勝って驕り高ぶるようなら「平家物語」と同じである。
そうなるなら負けた方がずっといい。
「勝って兜の緒を締めよ」という諺もそこで教える。

勝ったからこそ学べること、負けたからこそ学べることがある。
結果がどうあれ、全てを子どもの成長につなげるよう指導したい。

2013年7月17日水曜日

偉い人は違う人

最近、よく手紙や葉書をいただく。
卒業生からもあるが、各種の勉強会で知り合った方々からも多くいただく。
教師に名刺なんて、と思っていたが、やはり必要である。
つながりができる。

そもそも名刺を持つようになったのも、ある出版社の社長さんからの教えである。
セミナーや勉強会に出るなら名刺は持っておきなさいと教えていただいた。
帰ったらすぐ作りなさいとも言われた。

それで、すぐ作ったら、意外と配る機会がなかった。
なぜかというと、自分から交換に行かなかったからである。
「どうせ自分なんて」精神のもと、講師の先生に声をかけるなんて恐れ多いと思ったのである。
周りの人々に対しても同じである。

この精神でいくと、永遠につながりが広がらない。
講師の先生など、実は話しかけるとすごく丁寧に対応してくれる。
講師以外も、勉強会に参加する人はつながりを広げようと積極的な人が多い。

知り合いに行動力のある人がいて、物怖じせずに講師に積極的に質問をしに行く。
すると、何かしら得てくる。
これを見習って、なるべく自分からいこうと思った次第である。

最近驚いたのは、先日紹介した大変腰の低い講師の方から届いた封筒である。
西村徹先生という。
手紙だけでなく、様々なプレゼントまで入っていた。
私なぞにも届くぐらいだから、多分、他の人にも贈っている。
かなりの労力だと思う。
名刺交換して言葉を交わしただけなのに、この行動力には恐れ入るばかりである。

「偉」という字を見る。
「韋」は「はなれる 人並み外れる」という意味である。
(例えば、走るのが人並み外れて速いことを「韋駄天」などという。)
つまり「偉」とは、他の人とはちょっと違うことをする人のことである。
この西村先生のような方のことである。

ところで、「しんにょう」は「道」を表す。
つまり、「間違える」ということは、偉くなるための道である。
挑戦せずにじっとしていることとは「えらい違い」である。
自分も色々挑戦して、子どもにも「間違って、偉くなろう」と教えたい。

2013年7月13日土曜日

将来つきたい職業は?

教師という職業は素晴らしい。
しかし、結構そのことを忘れてしまって過ごしてしまうことが常である。

先日紹介した「あこがれ先生プロジェクト」のある講師の方の話に驚いた。
クラスの子どもにに「将来つきたい職業」のアンケートをとったという。
一位は何が来るだろうか。
スポーツ選手やアイドルだろうか。
女子は「パティシエ」という、昭和生まれにはなかった呼び名の職業が上位に来る。
医者や弁護士も人気らしい。

この先生のクラスでは、何と一位が「教師」なのだという。
よほどこの先生が楽しく毎日を過ごしているのだろう。
子どもが「大人っていいなぁ」と思うことは間違いない。
このクラスからはニートも出ないだろう。
最高のキャリア教育推進である。

ちなみに、我が子に将来の希望を失わせる簡単な方法がある。
(中村文昭氏の言葉である。)
毎日、帰宅したら背広を脱ぎながら「ああ~、今日も疲れたぁ~」と言うことだそうである。
「大人って疲れるんだなぁ」と、絶望させるのに効果的だという。
教室でも同様のことをしていないか、気を付けたい。

世に「先生」と呼ばれる仕事はそう多くはない。
せっかく就いたこの職業で、精一杯生きてみたい。

2013年7月10日水曜日

実るほど頭を垂れる稲穂かな

先日、埼玉で開かれた「あこがれ先生プロジェクト」という学習会に参加してきた。
世の中には素晴らしい実践をしている人がたくさんいるなぁと感心しきりだった。

会の終了後、一人の講師の方とお話をする機会があった。
素晴らしいお話を聴かせていただいたので、お礼が言いたかったのである。
話が終わって最後に握手をした瞬間、講師の方が礼として頭を下げた。
私も当然、頭を下げた。
すると、相手の後頭部が見えた。

見ると、ものすごく頭を下げている。
私の腰ぐらいの高さまで頭を下げている。
まずいと思い、とっさにこちらも頭を深く下げた。
良し、と思って頭を上げたら、まだ相手が頭を下げたままだった。

完全に負けた感じである。
別に礼が深いから偉いという訳ではない。
こちらからすれば、相手の方が明らかに年上で立場も上である。
にも関わらず、相手を尊重したこの態度。
誰に対してでも、きっとそうなのだろう。
心を掴まれた感じがした。
講師紹介の中で、「町中の人が『この先生の言うことなら』と人が集まる」と話していた。
納得である。

以前にもやはり尊敬する方に同じようなことをされたことがある。
偉い人は偉い。
「実るほど頭を垂れる稲穂かな」とはよくいったものである。
講演の内容だけでなく、あらゆる面で感動のある会だった。

2013年7月8日月曜日

分数÷分数からの考察

分数÷分数の割り算を教える。

この計算自体は簡単である。
授業でやらなくても、できるようにはなる。
しかし、できることとわかっていることは違う。

どちらが上かというより、次元が違う。
わかるけどできない、という場合もあるし、できるけどわからない、という場合もある。

例えばスマホの操作自体は、2歳児でもできる。
しかし、構造を詳しく説明せよと言われたら、大人でもまずできない。
電化製品などは「できる(使える)けどわからない」の代表格である。
スポーツでも同様である。
「コツは?」「さあ?」という感じ。
本人はできるけど、どうやるかは伝えられないということはよくある。

逆に、わかっているけど本人はできないということも多い。
大学教授などは素晴らしい理論を作るが、やれと言われてもやらない。
(理論を作ることが仕事なのだから、それでいいと思う。やるのは現場の教師だ。)

分数の割り算の場合、計算ができること自体を誉めない。
「こんなのわかってる」「簡単だ」という子どもは多い。
大抵、「ひっくり返してかければいいんでしょ」程度の知識である。
その場合、穏やかに「なぜ」で詰めまくる。
もしもそれで説明できるようなら、初めて大いに誉める。
計算ができることに価値があるのではない。
その原理を知ったり、求める過程を経たり、感動することが大切である。

算数を、無機質なつまらないものにしてしまうのは、その辺りに原因があるように思う。

2013年7月6日土曜日

肝心「要」のお話

前回の続き。

実は、1年ほど前に自分がこの「アーチ橋」で模擬授業をした。
その時、野口先生に割と良い評価していただいたのが
「かなめ石を漢字に直しなさい」からの一連の発問だった。

具体的に紹介する。
「かなめ石を漢字に直しなさい」→要石
「要とは何ですか。」→辞書を引く
「要を部分に持つ漢字を挙げなさい」→腰
「腰という字を用いた慣用句を挙げなさい」
→本腰を入れる、腰が抜ける、腰砕け、他
ここから、人体にとっての要が腰であることに話をつなげた。
今なら、更に「立腰」の話につなげると思う。

因みに、要の上の部分は、人体の中央部に両手を当てた形の象形文字が変形を重ねたものである。
女が付されるのは、腰の発達した女性という意味からである。
つまり、「腰」が意味としては先である。
腰が人体のかなめであることから、かなめの意味になった。
(以上「新漢語林」より)

ここまで授業でやれば、要石の重要性に気付くのではないかと思う。
読み取りを深くするために、発問の一つとして提案したい。

2013年7月5日金曜日

8月31日学級作りセミナー満員御礼

今回は内容により敬体で。

先日紹介した学級作りセミナーが、ちょうど先週に満員御礼となりました。
あれよあれよという間に、知り合いを誘う間もなく満員御礼です。
参加希望のご連絡をくださる方もいますが、申し訳ありません。
キャンセル待ち状態ですので、ご理解ください。
ご期待に添えるようがんばりますので、ご参加の皆様、よろしくお願いいたします。
本当にありがとうございます。

2013年7月4日木曜日

素材研究「アーチ橋の進化」

先日のサークルでの学びをシェアする。

今年度に入り、サークルで国語の素材研究を行っている。
「素材研究」であり、「教材研究」ではない。
教えるためではなく、一読者として深く読む、ということである。

例えば、今回のタイトルをどう読んだだろうか。
恐らく「アーチばしのしんか」と読んだと思う。
4年の教材で長らく使われているが、今までそう読むと思い込んでいた。
しかし、辞書を引くと、「アーチばし」は載っていない。
代わりに「アーチきょう」なら載っている。
どうも、「アーチばし」ではなく「アーチきょう」と読むのが国語的には正しそうである。
(しかしながら、出版社に問い合わせてくれた仲間によると、発達段階に合わせて、あえて前者でよんでいるそうである。)

こんなこと、別に教える必要もない。
必要ないが、真実を知るのは何となく楽しい。
こういうのも、素材研究である。
(前回の「ごんぎつね」の「ごん」の語源と同様である。)

他にも面白いことが分かった。
2010年まで「アーチ橋の仕組み」という題名だった。
これが新教科書で改訂されて、内容も変わった。
不思議である。
大抵、説明文教材などは、どこからか持ってきた作品の抜粋であるイメージが強い。
どうやってタイトルも中身も変えたのか。

実は、この作品は書き下ろしなのである。
わざわざ教科書用に、2011年の教科書改訂に合わせて筆者が書き直したものである。
どうりで、文章そのものが変わっている訳である。
まあ、これも別に子どもに教えるにあたり、使える知識ではない。
ただ、作品を深く知ることにはなる。

ちなみにどうでもいいかもしれないが、「作者」「著者」「筆者」も使い分けが微妙に違う。
作者→創作的内容
著者→ノンフィクションなど
筆者→事実に更に主張のあるもの
こんなのも、素材研究をしてふと気になって調べる楽しさである。

他にも様々あるが、割愛。
素材研究の大切さや方法について、また機会があったら書きたい。

2013年7月2日火曜日

成長曲線と中国の竹の話

メルマガ上でも何度も紹介している成長曲線。
平たく言うと、努力の果実は、実るまでに大変時間がかかり、ある時期を越えると一気に大量に実るということである。
然るべき準備をし、時期がくれば一気に伸びる、という風にも捉えられる。

黒板に図を描く。
横軸が努力量、縦軸が成長量。
最初は横ばいがずっと続きほとんど縦軸方向にはいかない。
しかし、ある点を境に急激に右肩上がりになる。
この点がいわゆる「壁」である。
万物普遍の法則である。

水泳なら、最初の壁は顔を水につけるところ。
次が、5m泳げるところ。
次の壁が高くて、25m泳げるところ。
ここを越えると、100mや200mそして数kmまであっという間である。
今まで大変だったことが嘘のように急激に伸びていく。
そして、はるかに高い位置にある壁にまた当たる。
この繰り返しである。

早起きなら、初日、3日目、1週間、1ヶ月間。
特に1週間までの壁は結構高い。
その後1ヶ月間を越えれば、生活の変化がない限り、毎日楽勝で起きられるようになり、一生の習慣となる。

「努力のつぼ」という話によく例えられる。
つぼに水を注ぐが、外から見ると何の変化もない。
満杯になって、一気に溢れ出た時、初めて見える。
その後は注げばすぐに溢れっぱなしである。
目に見えて、少しの努力が成長に直結するのがわかるようになる。

似たような話を一つ紹介する。
「中国の竹」という話である。
(「7つの習慣 成功には原則があった!」
スティーブン・R・コヴィー著 キングベアー出版 より)
中国の竹の種は、蒔かれてから4年間、小さな芽が出るだけ。
その間、根を張り続ける。
そして5年目に、一気に25mも伸びる。
4年間根を張り続けたのは、この時の為である。

この話のポイントは、もし脆弱な根でそんなに成長したら、倒れて自滅してしまうという点。
見た目が良くて中身がないということの恐ろしさへの教訓も含まれる。
つまり、目に見えない根を張る時期が必要ということである。
結果が今は目に見えなくても、努力は確実に根を張って、成功のチャンスに備えている。

偶然にも「25m」という数値が、特に水泳を教える時にぴったりである。
陸上でも運動会でも普段の勉強でも何にでも使える。
例え話はエピソード記憶として子どもの記憶に残りやすいので、いいのではないかと思う。

2013年6月30日日曜日

調子を考える

絶好調の日がある。
体調が良く、何をやっても疲れない。
授業をしていても楽しい。
残業してでも仕事をやりたい意欲に溢れている。

絶不調の日がある。
体が重く、何をやっても疲れる。
授業をしていても気が乗らない。
一刻も早く帰って寝たい。

子どもの側も同様である。
一人一人に事情が異なる。
どうしても気が乗らない日もある。
調子が悪い日は、何をやってもダメである。
ダメな行動をとるので、余計に叱られる機会も増え、さらに落ちる。
指導者側はそのあたりを見抜かないと、いつもと同じ指導でも、誤った指導となる。
つまり、指導がマイナスに働いてしまうことがある。

寝不足などの疲れから来る、単純な体調不良かもしれない。
親が風邪で倒れたのかもしれない。
大事にしていたペットが亡くなったのかもしれない。
家で大げんかしてきたのかもしれない。
指導者側に余裕がないと難しいが、そういう配慮は必要である。

2013年6月28日金曜日

毎日1mmの成長を

子どもは学校に何をしに来ているか。

色々言いようはあるが、私は「良くなりに来ている」と捉えて教えている。
学校に来て、来る前より悪くなって帰るなら、来ない方がよい。
だから、「毎日1mmの成長を」と子どもに言っている。

そのためには、意識化が大切である。
運動でも勉強でも日々の生活でも、意識がないと成長しない。
いつも通りでは変化が起きない。
意識して、ほんの少し努力する必要がある。

運動で例を挙げると、走り方。
普通に走ってもタイムは上がらない。
子どもは上がった下がったで一喜一憂するが、そこに指導がない場合、速くなった訳ではなく、偶然の産物である。
本当に速くなった状態というのは、毎回高いパフォーマンスが発揮できる状態である。

本当に速くなるには、正しい走り方に改造する必要がある。
人間は変化を嫌う生き物なので、これは、結構苦痛である。
本能で恒常性(ホメオタシス)が働き、今まで通りでいようとするからである。

なので、「不自然」なフォームで走ることになる。
当然、最初はタイムも落ちる。
しかし、この時期を越えないと、向上しない。

勉強でも生活でも同じである。
ぼーっとしてたら、手を挙げられない。
勇気と言う気を持って、ガッと気合いを入れて手を挙げる覚悟がいる。
指導者側は、挙手した子どもを、誉める必要がある。
わずかな成長を自覚させる。

生活のわずかな場面でも、何か意識させる。
ごみを拾うでもいい。
ありがとうを言うでもいい。
お願いしますと言うだけでもいい。
昨日の自分より良いと思われる自分を意識させ、変化させ、認めて自覚させる。

こうした1mmの積み重ねを、何百日と続けていけば、必ず成長する。
昨日より今日、今日より明日と、日々の成長を自覚させたい。

2013年6月26日水曜日

道徳の時間と教師の道徳性

道徳が教科化される方向に動いているようである。
この是非についてはここでは問わない。
今日は、他教科と道徳の時間との特異性と、道徳の授業のあり方について。

ある本に、次のように書いてあった。

算数や国語においては、子どもよりも教師の方が絶対的に学力が上である。
(そうでないと、教えようがない。)
しかし道徳については、
「教師である私は、生徒より確実に正直である」とか、
「生徒より確実に真心がある」
というわけにはいかない。
むしろ、大人になるにつれてずるいことも考えるようになる面がある。
例えば純真さや誠実さにおいて、子どもの方が上ということが多々あり得る。
(以上、『子供と語り合う「道徳の時間」寺門光輝著 モラロジー研究所』より要約)

この記事を書いていて、先日、私の尊敬するある先生が酒席で話していたことを思い出した。
宿題を毎日やることを子どもに課している。
だから、率先垂範して自分にも課題を、ということで毎日学級通信を出しているということだった。
その先生にとっては「毎日発行」にねらいと意義がある。
修行であり、修養である。
素晴らしいことだと思う。
(誤解ないように言うと、学級通信を毎日出す先生が偉いということでは決してない。
一切出さなくても全く問題ない。
あくまでねらいに対する手段の、たくさんの選択肢の中の一つである。)

子どもに宿題を出すからには、自分にも宿題を課す必要があろう。
そうでないなら、宿題をやってこない子どもを責められない。
徳目で言うと「努力」「誠実」「正直・明朗」あたりだろうか。
自虐的だが、自分ぐらいこの徳目ができていない人間はこの教室にいないのではないかと思う時がある。
集めた作文や提出物を見きれないとか、テストが返せないとか、あるいは授業の準備不足だとか。
それぐらい、自分もこの辺りが弱いと思う。

道徳の時間が避けられがちなのも、ここにあるのではないか。
つまり、自分ができていないことを白々しく教えられない、という思い。
ここに誤解がある。
道徳の時間は「教師も生徒も一緒になって理想を追求する」という学習活動である。
自分もできてないけど、一緒にここを目指したいという思いを教師は持って授業する。

大学時代、ある道徳の有名教授が講義で
「道徳を教える教師が必ずしも道徳的であるとは限らない(必要はない、だったかも)」
と話していたのを思い出した。

全ての授業の中で、学び合いが最も大切なのが、道徳の時間ではないかと思う。
一生学び続け、磨き続ける以上、教師の道徳性も完成されてはいない。

苦手から目を逸らさずに、道徳の授業は自分自身も見つめ直す時間にしたい。

2013年6月24日月曜日

損得よりも尊徳で選べ


私が思いついた、ありがたいほどでもないお話。
(いいかもと思って、試しに検索したら同じ言葉が出るわ出るわ。
先人に負けました。でも紹介。)

損か得かで計算することを「損得勘定」という。
あまり良い意味では使われない。
損得勘定で動く人間では、あまり歓迎されない。
しかしながら、人間だから、どうしてもこうなりがちである。

「尊徳感情」で考える。
つまり、自分を磨いて自尊心が高まったり、徳を上げる行為かどうかで判断する。

たとえば、何かの係や役員に立候補する。
子どもなら何かの委員長、親なら学年役員等である。

自分の時間が削られることになり、そこは損かもしれない。
でも、人の上に立って指示を出せたり、注目されるという面では得かもしれない。
そういう迷い方が損得勘定での判断である。

尊徳感情で考える。
この役を引き受けることで、誰の役に立てるだろうか。
人がやりたがらないなら尚更、引き受けただけでも価値がある。
大変な分、自分自身の成長につながるのではないだろうか。
引き受けなかった場合と比べて、どちらが自分を誇れるかで迷う。
そういう迷い方が、損得感情での判断である。

実際にその役についた時にも、どちらの選び方をしたかで、仕事ぶりも変わるだろう。
掃除をする時、挨拶をする時、生活のあらゆる場面で応用できる。

子どもには「損得よりも尊徳で選べ」と教えたい。

2013年6月21日金曜日

ストロークは誰の為にうつ

今日はストロークの効果と対象について。
(ストロークとは、言葉や身振りで相手に働きかけることを指す。)

ストロークは心の栄養である。
表情一つとってもストロークになる。
ちなみに幼児は表情筋を読み取る能力があるらしい。
相手の目と表情筋の動きで判断する。
だから、大人が自分に対してどう思っているか本能的に読み取れる。
生き残るため、この人物は自分に対して良いか悪いかをそこで判断する。
恐るべき能力である。
子どもの前に立つ教師は、かなり心してかからないといけない。

肯定的ストロークをたくさんうつ。
誰が元気になるかというと、相手は勿論だが、自分が元気になる。
本当に機嫌の良い表情をしていると、自分も相手も元気になる。
子どもを誉めると、自分も子どもも気持ちが明るくなる。

否定的ストロークをたくさんうつ。
誰が凹むかというと、自分が凹む。
不機嫌な表情をしていると、自分も相手も元気がなくなる。
子どもを責めると、自分も子どもも気持ちが暗くなる。
(もちろん、悪い行為は正すべきである。
相手の成長を願う、部分否定のストロークは時に必要である。)

毎日自分が元気ないなぁと思ったら、ストロークを意識してみる。
子どもや同僚、家族、周りの人々に対して、否定的ストロークが多くなっていないか。

自分を認めることが、他人を認めることの第一歩。
同時に、他人を認めることが、自分を認めることの第一歩。
子どもや仲間のいいところをたくさん見つけて、疲れた自分自身にも肯定的ストロークをうってあげたい。

2013年6月18日火曜日

「ありがとう」の反対の言葉は?

土作先生のありがたいお話のシェア。

「ありがとう」の反対の言葉は何か。
答えを考えてから読み進めて欲しい。

ありがとうは漢字にすると「有難う」。
有ることが難しい、つまり滅多にないぐらいの出来事に感謝するということである。
では反対は?

答えは、「当たり前」。

朝ご飯を作ってくれるのが当たり前。
洗濯してくれるのが当たり前。
掃除してくれるのも当たり前。
育ててもらって当たり前。
「親なんだから当然でしょ。こどもの権利、親の義務。」
もしそういうこどもがいたらどうだろう。
そこに感謝の念は存在しない。

同様に、教室で当てはめて考えてみたり、友達関係で当てはめて考えてみたりする。
「先生なんだから教えてくれて当たり前でしょ」と言われたら、やる気が出なくなる。
(親も教師も実際そうであるからこそ、余計に、である。)

同時に、教師自身にも当てはめて考えてみたい。
こどもが登校してくるのを当たり前とみるか、感謝すべきこととみるか。
ゴールデンウィーク空け、もし全員揃って登校していたら、どうだろう。

当たり前のことの中に、感謝を見いだせるか。
ここを支えるのも、哲学である。

2013年6月17日月曜日

「ありがとう」にも哲学を

プリントを渡す時に「どうぞ」「ありがとう」を必ず言う。
有田和正先生の有名な指導である。
私も毎年やっている。

これについて、考えさせられる話をきいた。
前に何度か紹介した土作彰先生の講座での話である。

「どうぞ」「ありがとう」を実践している先生は多い。
全国各地に広まっている。
ところでそれを、プリント以外の時にもしているのか問うと、数が激減する。
物の受け渡しでは?
給食の配膳では?
他のあらゆる場面では?

「どうぞ」は思い遣りで、「ありがとう」は感謝。
そこの教育であるのなら、全ての場面でやっていないと筋が通らない。

要はそこに「哲学」があるのかという問いかけだった。

正直に言うと、初めて実践してから数年は「全くありませんでした」と言わざるを得ない。
型通りに従っていただけである。(やらないよりマシだとは思う。)
ここ数年は「そこまで深く考えてませんでした」という感じである。
いずれにしろ、残念賞である。

次回、もう一つ関連して、土作先生の「ありがたい」お話を紹介する。

2013年6月15日土曜日

休み空けはゆるゆると勝負

2ヶ月が過ぎた。
(メルマガ上では、ゴールデンウィーク空けに書いた記事である。)
学級作りの「3:7:30」の法則に当てはめて考えると、最後の大事な時期が終了した。
(野中信行先生の提唱する、学級経営に重要な3日間、1週間、1ヶ月間のこと。)

最初の3は基本の関係作り。主として興味や安心感を伝える時期である。
次の7で基本のルール作り。主としてルールや態度教育。
最後の30が定着。確認と徹底反復の時期である。

3と7は教師側の気合いも入っているので、意識してれば落としにくい。
問題は、30である。
慣れてきて、ぐだぐだになりやすい。
教師側が相当意識していても、最初の3や7で確認した理念やルールがゆるむ。
特に、ゴールデンウィーク空けの落ち方はひどい。
今までは何だったのかと思うぐらい、レベルが落ちる覚悟で構える。
最初の3や7のつもりでやり直す気合いが必要である。

ここが難しい理由は教師の側にもあり、こちらも5月病的なけだるさに包まれる点である。
リズムが崩されるので、どうしても疲れやすい。
(6月も、無理してきたことが表出しだす時期である。)

疲れやすい自覚を持ち、ゆるゆると、しかし確実にルールの確認等を行っていく。
私は、4月にとったアンケートをもとに、学級目標を作り、それ使ってひっぱろうと思っている。
目指す方向がはっきりしていると、エネルギーが湧くと思うからである。
運動会なども、そういう点で非常に使える行事である。

頑張りすぎず、抜きすぎず。
休み中に「顔晴って」いける準備を整えたい。

2013年6月14日金曜日

「こども座右の銘」より 勉強にやる気を

タイトルは、先日購入したおすすめ書籍である。
(「座右の銘」研究会編 メトロポリタンプレス)

タイトルの通り、座右の銘が400ほど入っている。
名言好きなので、簡単にぱくっと食いついて買った。
朝の話とかで使えそうだなぁという安易な発想である。

児童書のコーナーにあったのだが、中身は大人にも十分な内容。
大抵のこども向けと書かれた本は、つまらないと読んでもらえないので、見やすさ&わかりやすさ抜群である。
(絵本や図鑑などは、その最たるものである。)

一つ引用して紹介。
「無理に食べればからだに悪い。
それと同じでやる気がないのに勉強しても身に付かない。」
レオナルド・ダ・ヴィンチ

教育も同じである。
やる気がない相手にそのまま教えても無駄。
100教えても1も入らない。
むしろ害悪(マイナス)にすらなる。
それなら、心の指導を優先して、1教えて10学びとれるようにした方が良い。

カリスマ体育教師の原田隆史先生は、部活動だけでなく全ての指導において「態度教育」を何よりも優先する。
心のコップを上向きにすれば、指導内容がどんどん入る。

「勉強嫌い」と「野菜嫌い」の直し方は似ていて、メリットを示すことである。
野菜を食べると、体によい、だけでは「わかってるけど」で終わる。
相手のニーズは何なのかを見抜く。
別に体にいいことは求めないけど「きれいになること」は求めているかもしれない。
「部活動のパフォーマンスが上がる」ことにつながるとなれば、嫌でも食べ始める場合もある。
一緒に食べて「結構おいしいね!」と言う必要もある。

勉強も同様である。
ただ「成績が上がる」「偏差値の高い学校に入れる」というような理由では動かない子どもが多い。
(その動機で動けるこどもは既に勉強を自分からしている。)
勉強ができる楽しさ、素晴らしさを教師自身が腹の底から感じていることが大切であるように思う。
そして、確認の意味も込めて全員に「勉強って、楽しいね!」という雰囲気作りも大切である。

学校に通って勉強ができることは、世界中のこどもの願いランキングNo.1である。
無条件で学校に行ける日本のこどもには、その恩恵の深さも教える必要がある。

2013年6月9日日曜日

学級づくりセミナー~子どものやる気スイッチの入れ方~IN千葉

宣伝です。
8/31(土)13:20~市川にて開催
 学級づくりセミナー~子どものやる気スイッチの入れ方~IN千葉
 講師:飯村友和・河邊昌之・松尾英明 
 →こくちーず http://kokucheese.com/event/index/91981/
上のリンクをクリックすると、詳細がわかります。

ブログ内にもリンクを貼りました。
もう既に知り合いの方からいくつかお申し込みをいただいております。
読者の皆様にお越しいただければ幸いです。
私の話は大したことありませんが、飯村先生と河邊先生のお話は絶対面白いです。
飯村先生が主催の会なので、盛会にしたいと願っています。

よろしくお願いいたします。

主体変容につきる

礼儀正しく、相手を大切にする、社会に通用する人を育てたいと思う。
その為に、教師としての自分は何をするべきか。

「子どもは大人の鏡である」という原理を使う。

先の例でいくなら、同僚の先生への自分の接し方である。
クラスの仲間というのは、教師の社会に置き換えると、同学年教師集団が一番近い。
子どもは、先生同士の関係ややりとりをよく見ている。
どの先生が立場が上だとか、この先生は軽く扱われているとか。

どのクラスの子どもにも絶対、「うちの担任は軽く扱われている」というような思いを抱かせてはいけない。
それは、教室での不当な差別を生む。
教師集団である以上、教師は互いに尊重する態度を見せたい。
一方で、年上の方を敬う姿勢、年下の先生に対しても尊敬する姿勢が必要である。
校長先生は絶対に先生達のトップであることも示す必要がある。
教頭、教務なども同様である。

立場の上下は礼儀を持ってきちんとし、人間としては互いに尊重する。
能力の違いについても同様である。
教師がそういう態度を見せないで、子どもが助け合う集団になろうはずがない。

勉強しない。
あいさつしない。
歌わない。
掃除しない。
態度が悪い。
いじめや差別がある。
・・・

子どもに対して問題を感じたら、それは悔しいが、認めたくないが、全て自分のことである。
つまり、主体変容につきる。

私は、冒頭に述べたようなことを子どもに身に付けさせたい。
だから、同僚の先生方を大切にして尊重することが一番の近道である。

理想の子どもの姿から、自分の理想の姿を意識するのもいい方法だと思う。

2013年6月7日金曜日

素材研究 「ごんぎつね」の名前の由来は?

教材研究という言葉が一般的である。
教えるために、教師として教材を読むのが教材研究である。
(まるで私がわかった風な口をきいているが、完全に野口芳宏先生の受け売りである。
以下同様。)

教材研究の前にすべきは、素材研究。
教えるためでなく、一読者として作品について調べ、読み込む。
一時期流行った某国民的有名漫画の「○○家の秘密」とかは、この素材研究が本になったようなものである。
(と、個人的に解している。)
とにかく、教師面して読むのではなく、読者として楽しむ研究が素材研究である。
当然、教えなくてもいいような知識もたくさん身に付く。

野口先生から教えていただいた一ネタをシェアする。
「ごんぎつね」の名前の由来である。
新美南吉のつけた原題は「権狐」。
「きつね」はわかるが「ごん」とは何か。

辞書で調べてみた。

すると、何と「ごんた(権太)」という言葉が広辞苑にある。
浄瑠璃の「義経千本桜」の登場人物をもとにつけられた意味らしい。
1 わるもの。ごろつき。
2 いたずらで手におえない子供。

・・・すごい言葉の意味である。
ごろつき。いたずらで手に負えない。
まさに「ごんぎつね」のごんそのもの。
ここからつけられたと考えて、ほぼ間違いなさそうである。
(ちなみに、ごんぎつねは「小ぎつね」であり「子ぎつね」ではなく、大人である。
ザ・ごろつき。
ここも子どもは誤読しやすい。)

別に教える必要はないが、知っていることは多い方が良い。
10知っていて10教えるのは難しいが、100知っていれば10を選べる。
教材研究以上に、素材研究を大切にしたい。

2013年6月6日木曜日

「ごんぎつね」で何を指導するか

ごんぎつね。
国語の全ての教科書会社で採用されているといういわずもがなの超定番教材。
研究され尽くされている感もある。
先日、サークルでこの教材についての素材研究を行った。
さんざん話し合った結果、結局何を指導するのかが話題になった。

例の如く、以下に野口芳宏先生のご指導をシェアする。

そもそも、児童文学は「子どもの為の文学」である。
子どもが自分で読むことを前提にしている。
授業で扱われたり、大人が介在することを前提にしていない。
だから、授業で扱う際には「ここだけは教えないと」という点に限定する。
それは即ち、教師の読みと子どもの読みの落差がある部分である。
指導しないと、読み飛ばして作品の良さがわからないような部分である。
子どもの「不備・不足・不十分」をつく。
逆に言えば、それ以外を詳細に指導するのは、お節介になるので扱わない。

「ごんぎつね」ならどこか。
一つは、ごんのいたずらについて。
どれもひどいが、特にもみがらに火を付ける行為などは、いたずらの域を越え、重犯罪である。
しかしながら、子どもはごんに好意的な見方をしやすく、ここは読み飛ばすので指導する。

もう一つは、描写の素晴らしさについて。
情景描写が美しい作品であるが、子どもは読み飛ばす。
意味がわからないものも多い。
よって、ここも作品を深く味わえるようにするため、指導する。

文学作品の指導は「焦点精査」し、基本5時間以内に指導するということだった。
(指導書では、「ごんぎつね」は10時間扱いである。)

次回、もう少し「ごんぎつね」の話をシェアする。

2013年6月3日月曜日

一点集中の指導と評価

前々回、指導に対して評価を必ずするということを書いた。
評価が大変なのはなぜか。
評価項目がたくさんありすぎるのが原因である。
だから、一点集中でいく。

たとえば、避難訓練。
「おさない、かけない、しゃべらない、もどらない」とある。
4点あるが、どれができていなのか、見極めておく。
「しゃべらない」が課題であれば、そこを強調して指導しておき、あとで挙手やアンケートをとる。

たとえば、健康観察。
大きな声、目を合わせる、良い姿勢、手を真っ直ぐ挙げる、笑顔・・・欲しい要素はたくさんある。
その中で、まずはこれと決め、一つだけ告げてはじめる。
「今日は、手を真っ直ぐ挙げることだけは、最低限意識しましょう。」
呼名のたび、その一点のみを短く誉める。
できていなければ、必ずやり直し。(流すとマイナスの指導となる。)
できたら誉める。

たとえば、ハードル。
動きが複雑で指導項目も多数ある。
なので、指導部分を分ける「分習法」でいく。
前足を伸ばすことだけを指導したければ、ハードルに半身だけかかる位置で走らせ、後ろ足の心配をなくす。
見る方も、そこだけ集中して一瞬を指導していく。
後ろ足の指導なら、その逆でやる。
一点のみを身に付けさせ、他に進む。

力を確実につける評価をきちんとするためにも、指導者と子ども、双方が意識できる指導項目を決めて指導したい。

2013年6月1日土曜日

今を全力で生きる

私の大学時代の友人の伴侶であり、私の知人でもある方が、先日亡くなった。
相当に優秀な教師で、素晴らしい学級経営をされていたということだった。
入院中も、大変前向きな闘病生活を送ったという。
もう一度子ども達の前で、という強い思いがあったことだろう。

「あなたが虚しく過ごした今日という日は、
昨日死んでいったものが、
あれほど生きたいと願ったあした」
(「カシコギ」趙昌仁著 サンマーク出版 より引用)

今日も、子どもの前に立って教師の仕事をする。
何となく過ごしてしまう日が多いと思う。
しかし、それではいけないのだ。
今を全力で生きる。
教師という仕事を選び、子どもの前に立つ以上の責務であると、今更ながら気付かされた。

気付けば、変わる。
「今」を自覚的に、魂を燃やしているつもりで生きたい。

2013年5月30日木曜日

指導したら必ず評価

指導と評価の一体化が大切と、よく言われる。
何だか難しい理論のように思える。
要は、教えたことは必ず評価をする、ということであると自分は解している。

絵の描き方を教える。
その通りにやろうとしていたら誉める。
間違っていたらまた教える。
それで、できたらまた誉める。

掃除をやらずにさぼっていたので指導する。
一緒にやる。
やったら誉める。
さらに良いやり方を教える。
できたらまた誉める。

教科書を読む時、句読点で区切ることを教える。
飛ばしたら指導する。
本当にできない子どももいるので、一緒によんでやる。
やろうとしたら誉める。
できたらまた誉める。

教師は「指導」は得意だが、「評価」は苦手である。
指導は無意識にできても、評価は意識的にしないとできない。
指導して評価がないのを「やらせっぱなし」という。

また、できたら誉めるのは勿論だが、教えたことに従った、つまり、やったら誉めるのも大切である。
やったこととできたことは違う。
できてなくても、やろうとした行為自体を評価する。
関心・意欲・態度面の評価と、技能面の評価は別である。
(従わないけどできる、ということもある。これをどう評価するかは、状況による。)

指導とは子どもの「不備・不足・不十分」をつき、理想の状態にひっぱり上げる行為。
(私の言葉ではなく、野口芳宏先生の言である。)
言うことをきいて努力してそこまで向上したら、誉めてもらいたいのが人間である。
それが、次もまた先生の言うことをきこうという気持ち、やる気、素直さにつながる。

4月、子どもは特によくそこを見ている。
言われたことをやったら、誉めてくれる先生なのか、何も言わないのか。
叱った場合は、特に意識して誉める必要が出る。
叱るけど直しても誉めないから言うことをきかなくなる、というのがよくはまってしまうパターンである。

指導以上に、評価は意識して行いたい。

2013年5月28日火曜日

今年のクラスは良いクラス?悪いクラス?

新しいクラスになり、子どもも教師も期待に胸をふくらませて始まる新学期。
いいクラスにしたいと、誰もが願う。
こんな話をした。

「アラビアに伝わるお話です。
ある若者が、自分の住むべき町を探して旅をしていました。
町の老人にたずねました。
『ご老人。この町は住みよい町かな?』
『お前の以前住んでた町はどうだった?』
『最低だ。周りの人は意地悪ばかりで、住みにくいことこの上ない。』
『この町の人は、意地悪ばかりで、住みにくいことこの上ないよ。』
若者は、他の町を目指して去っていきました。

もう一人、別の若者が来て、全く同じことを老人にききました。
『ご老人。この町は住みよい町かな?』
『お前の以前住んでた町はどうだった?』
『素晴らしかった。周りの人は親切な人ばかりで、できるならもう一度住みたいぐらいだ。』
『この町の人は、親切な人ばかりで、素晴らしい町だよ。』
若者は、この町に住むことにしました。

老人は、なぜ別々の答えを言ったのでしょうか?
それは、この町が良いか悪いかは、住む人の心次第だと知っていたからです。
クラスも同じです。
良いクラスにしたいと思っている人?(挙手)
そうですね。
先生も、絶対良いクラスになると思っていますよ。」

新しい職場に異動した人も多いと思う。
やはりそこが良いか悪いかも、本人次第。
「住めば都」という言葉もある。
子どもも教師も前向きな考えを持ちたい。

2013年5月25日土曜日

早く終わったらどうするか

すごく基本的なことを一つ。

1時間の授業が、思ったより早く終わることがある。
あと5分残った、という状況。
スムーズに進んだ証拠である。

どうするか。

つい、少し先に進もうとか復習しようとか欲が出てしまうかもしれない。

基本、休み時間にしてしまうのが良いと思う。
ただし、必ず一言付け加える。
「思ったより、早く終わりましたね。
みんなが協力して、一生懸命やったからこその結果です。
休み時間にします。
ただし、他のクラスはまだ授業中です。
教室から出るのは、時間になってからにします。」

一生懸命やると、良いことがあるという動機付けになる。
次のやる気に影響する。
逆に、教師の都合でいつも休み時間を削るまで延ばしていると、逆の動機付けになる。

ただご褒美を与えるのではなく、なぜそういう良い結果になったのか、意識をさせたい。

2013年5月23日木曜日

子どものおかげで

始業式から最初の1週間は大変である。
子どもが来る前の1週間とは全く違った大変さである。
大変であるが、何といっても「黄金」の期間であるから、充実している。

やはり、子どもがいてこその学校である。
以前紹介した金大竜先生の著書の中に、次のようなことが書かれている。
(金先生のお父上の言葉とのこと。)
「子どもがいるから教師なんだよ。
子どもがいなかったら、ただの教え好きで終わってしまう。
つまり、子どものおかげで夢を追える。
子どものおかげで生活ができる。
子どもに手を合わせて生きていかないとな」
(「クラスがうまくいく魔法の習慣」金大竜著 学陽書房 より引用)

子どものおかげで、仕事が成り立つ。
子どもが半分いなくなったら、我々も半分不要になって、クビである。

手のかかる子どももいる。
しかし、クラス全員が完璧で、教える必要のない人間なら、やはり教師は不要物である。
クラス全員が授業前に既に完璧に授業内容を理解できている状況なら、授業の必要がなくなる。
そう考えれば、勉強が苦手な子ども、手のかかる子どもは、教師にとって最高にありがたい存在である。

「人格の完成を目指す」が教育の目的である。
教える相手のみならず、教える側にもいえることであるように思う。

2013年5月21日火曜日

人は見ているもののようになる

1学期の始め、持ち物を整理整頓させる。
最初なのに、いきなり道具箱が乱れていることも多い。
筆箱の中身も同様である。
不要なものは持ち帰らせる。

「人は見ているもののようになる」という。
環境を整えることは、自分を整えることにつながる。
生活時間等にも当てはまることである。

併せて、「荷物がしたことも自分の責任」という言葉も教えたい。
邪魔な荷物は周りの人にも迷惑である。
それに誰かが足をひっかけて転んだら、持ち主にも責任が発生する。
やたらに散らかす子どもはここで正しておく。

最初が肝心、である。

2013年5月19日日曜日

「楽しい授業」で何を狙う

楽しい授業のネタは、たくさんあった方がよい。
特に授業開きで、楽しい授業をし、興味・関心を持たせたい。

「一発ネタ」でもいいのだが、大切なのは、そこで何を教えるかであると思う。
たとえば、体育で鬼ごっこをやる時。
ただ体を動かすだけなら、休み時間でもよい。
体育の時間で大切なのは、安全であることや仲間と協力することなどたくさんある。
技能を身に付ける過程で、他の様々な力を身に付けさせる。
中でも道徳は、学校教育活動全体を通して身に付けるものである。

体育の授業で、毎年必ず「馬鬼」をやる。
何のことはない、よくある復活できる鬼ごっこである。
つかまったら馬跳びの「馬」になる。
跳んでもらえたら復活。
ここでは、「協力」が大きなテーマになる。
それも、男女関係なくできる協力である。
男女は水と油みたいなところがあり、これは、意図的にやらないとできない。
遊んでいるようで、そこは指導者側がおさえておく。
そうすると、指導言が変わってくる。

その「楽しい授業」で、何の力を身に付けさせたいのか。
せっかくの宝物を、有効に活用したい。

2013年5月17日金曜日

まずは安全・安心な教室を

(メルマガ上では4月の頭に出した記事である。)
学級経営において、優先すべきことについて。

心がけることは、山ほどあるので、その中の特に大切な一つだけ。
繰り返しになるが、「安全・安心な教室宣言」である。
特に、前年度崩壊した経験があったり、いじめられた経験のある子どもにとっては最重要である。

絶対に、命をかけて全員を守るということ。
いじめにも全力で対処し、解決するということ。
これだけは、鉄則として宣言し、実行する。
その上での、規律、楽しさである。

ルールを話すのも特技やマジックを披露するのも大切だが、その上である。
何はなくとも、まず「安全・安心」、そこだけはおさえたい。

2013年5月15日水曜日

習慣化のコツ

新年度も1ヶ月が過ぎ、新しいクラスで新しい実践をしていることと思う。
春休み中やG.W.中にたくさん本を読んだり研修会等に行った人は、尚更である。

できれば、その実践を習慣化したい。
(三日坊主でも、やらないよりましだが。)
習慣化するには、コツがある。

古い習慣を捨てることである。

生活を考えるとわかりやすい。
例えば、早起きの習慣を身につけたいなら、夜遅くまでテレビを見る習慣を捨てる必要がある。

新しい実践をする時にも同様で、それをやるのに捨てねばならない習慣がある。
「出せば入る」の原則で、やめれば始められる。

何をやるかを考える時、同時に、何をやめるか、も考える必要がある。

2013年5月13日月曜日

「○○君は先生のお気に入り」に要注意

問題行動を起こす子どもがいる。
なぜ問題行動を起こすかというと、それをやると注目されるから、という面が強い。
負の関わり方ではあるが、確実に教師の関心を引く。
うまくいけば、全ての関心も教師も「独り占め」である。
その間、他の子どもとの関わりは断絶される。

教師としては、よかれと思ってやっている。
問題行動のある子どもを正すことが、他の子どものためにもなる。
そう信じてやっているが、他の子どもからは
「(よく叱られている)○○君は、先生のお気に入り」
と思われていることがある。

特に、クラスの中間層の子どもには注意が必要である。
問題行動を起こす子どもや、学力面で手のかかる子どもとは、関わりが多くなりやすい。
また、様々な面での能力が特に優れ、活躍が多い子どもも、関わりやすい。
中間層には、目が行き届きにくい。

何でも大体2:6:2に分けられる。
中間の6が上位群と下位群のどちらに引っ張られるかで、全体の質が決まる。

学級では、つい「目立つ」子どもに目が行きがちである。
負の行動へ関わりすぎると、その行動を強化することにもなりかねない。
まずは全体のことを考えて、何がいいのか、正しい選択をしたい。

2013年5月11日土曜日

子ども同士の聴く力をつける

聴く力をつけるという話の続き。
今回のテーマは「子ども同士の聴く力をつける」。
子ども同士をつなぐ、という意味でも、大変重要なテーマだと思う。

具体的な方法や実践は、今日的なテーマなので、附属小学校等はじめ、たくさんある。
実際に自分がやってきて、実感として効果があると思うものを一つ紹介する。

よくやるのが「班内シェア」。
原田隆史先生の教師塾で、自分が生徒として体験して、すごくいいと思って取り入れた。

ある事柄について、自分の意見を言わせる。
ただし、ノートに書く→隣同士→班→全体発表とつなぐ。
ノートに書くという行為は、いわば個人内発表(自分の考えの具体的発露)である。
テーマとしてきちんと考えさせたい場合にだけ書かせる。
全体発表は、ハードルが高く、時間もかかるので、必要ない場合はやらない。
かわりに、隣同士や少人数グループでの発表経験をなるべく数多く踏む。
もう、5分から10分に1回ぐらいの頻度で、短く何度もやる。
教師側のフレーズはシンプルに「はい、これについて班内シェア」だけでいい。

「『話す』じゃなくて『聴く』がテーマじゃないの?」と思った方もいるかもしれない。
「話す」と「聴く」は、セットである。(そして、聴く方が重要。)
自分も話す機会があるからこそ、相手の話も聴こうという気になる面がある。
講義などでも、質問しようと思っていると、聴ける情報量が大幅に増える。
テストがあるからこそ、一生懸命聴くという面がある。
よりよく聴くためには、力試しというか、自己表現というか、アウトプットの場面を想定するのが有効である。

話す前提を持って聴く、という姿勢をここで作る。
自分の話を聴いてもらうには、自分も一生懸命人の話を聴く必要があると学べる。
また、聴いてもらうことで、逆に聴き方も学べる。
どういう聴き方をされると嬉しいか、または嫌かということがわかる。
自分が話すことで、話し方以上に聴き方が学べる。
4人での班内発表であれば、1回の話す機会に3回の聴く機会ができる。
話す力もさることながら、聴く力がつき、子ども同士のつながりも深まる。
そもそも「良い聴き手が良い話し手を作る」のであるから、話す力も聴く力にかかっていると言ってよい。

また、「フリートーク」もおすすめである。
帰りの会や学級会などで設定する。
「3分間」など時間を決めて、近くの人とテーマについて自由に意見交換する。
言うなれば、公的なおしゃべりタイムである。
普通の休み時間のおしゃべりと違う点は、気の合う仲間同士に限定されないこと。
人間関係作りと自己開示が主たる目的なので、テーマはくだらないことでもいい。
「最近感動したこと」といったものから「好きなアニメ」でも何でもいい。
ルールはただ一つ、肯定的に聴き、否定しないこと。
「それ、面白いね!」「いいね!」などと敢えて反応フレーズを固定しておくのも、慣れない内は有効である。

子ども同士をつなげる「聴く力」は、自由な風土のクラス作りにも必須である。

2013年5月8日水曜日

親と教師、両方の話を聴く子どもに育てる

「聴く力」シリーズの続き。
聴く力、というか姿勢を、保護者と連携してつけることについて述べる。

4月、最初の保護者会。(大体、授業参観後である。)
保護者の方々にお願いすることがある。
以前紹介したが、「先生の言うことをききなさい」と家庭で言うようお願いする。
当然、こちらは「家の人の言うことをききなさい」と指導することも約束し、実行し続ける。
どちらか一方の言うことを守ると、両方の言うことをきくことになる。
家庭と学校、そして何より子どもにとって有益である。

双方の意見が割れると子どもが混乱するので、そういう場合は直接担任に言って欲しいと伝える。
学習用具の使い方や宿題についてなど、家庭の方針と合わないことも多いからである。
子どもが学校の文句を家庭で言って、それに保護者が同意すると、最悪である。
それ以外のあらゆる指導も通らなくなる。
つまり、「聴かない」「素直でない」状態になる。
素直でなくなるから、曲がる。
真っ直ぐ伸びなくなる。
成長の機会を逃す。
学校生活の大半を一緒に過ごす担任の先生の言うことを聴けない状態は、子どもにとって大変な不幸である。
(これが担任でなく親や習い事の先生、コーチ等の場合も、同様である。)

だから、そういう場合は、親と担任で直接相談し、方向を揃える。
基本的に、担任が家庭に合わせる方が良い。
担任は毎年変わるので方針も変わるが、家庭の方針は一生もの。
そこを譲らないで、関係を壊してまで守る価値があるか、ということである。

身体に関わる部分を考えるとわかりやすい。
心臓病を抱えて運動制限がある子どもに、無理矢理マラソン練習をさせる人はいない。
みんなでやっていようが、それは特例を出す。
他の子ども達には、簡単に説明してあげれば大抵わかる。
その程度でクラスが崩れてしまうようなら、他の部分に問題があるかもしれない。

保護者との連携ほど、教育効果の高い手段はない。
学級経営が本当に上手な先生は、保護者との関係作りがとても上手い。
保護者が「先生の言うことなら」と言ってくれたら、もうそこの子どもとの関係は安定するしか道がない。
たとえ学級が崩れたとしても、保護者との関係は絶対崩さないぐらいの気配りが必要である。

2013年5月5日日曜日

教師の話を「聴く」力をつける

前回の続き、「聴く力をつける」をテーマに考える。

テストで測れる「話す・聞く」の力は、かなり狭義の意味である。
単純な音声を聞き取る力に加え、語彙力(言語)、メモ力(書く)、テスト読解力(読む)なども総合的に必要である。
よって、ここではテストで測れる「聞く」の力は考えない。
コミュニケーション能力としての「聴く力」を考える。

誰の話を「聴く」か。
担任の先生。
他のクラスの先生。
仲の良い友達。
クラスの仲間。
親兄弟や祖父母などの家族。
地域の方々。

全ての人の話を聴けるようになれば最高である。
しかしまずは、学校で、担任としてできることから手を付ける。

まずは、先生の話を「聴ける」ようになることである。
聴くというのは、躾の一つである。

担任して3日以内に、聴き方を指導する。
「姿勢を正して聴く(立腰)」
「耳と目と心で聴く」
「話している人の方にへそを向ける」
「うなずく(関心を行動で示す)」
「静かに聴く(途中で口を挟まない)」等々。

口でも伝えるが、こうせざるを得ない状況や、得するようにしていくのも大切である。

「百人一首」は、いい教材になる。
静かにして読み手の声に集中しないと、勝負にならない。
併せて礼儀も指導できる。

聴く価値のある話をする、というのも大切である。
聴かないと損をする、というぐらいの話ができれば、勝手に聴くかもしれない。
聴く価値のない話ばかりしていると、当然、聴かなくなる。
短く、簡潔に話す。
話す力がより必要なのは、どちらかというと子どもよりも教師の側である。
(聴く力も同様である。)

まずは教師の話を聴けるようにして、子ども同士に広げていく。
教師の話もまともに聴けないクラスでは、子どもに聴く力をつけるのは難しい。

次回、子ども同士の話を聴く力をつけることについて考える。

2013年5月3日金曜日

大切なのは「話す」か「聞く」か

コミュニケーション能力の育成は、ここ数年の重点課題として挙げられている。
学習指導要領上でも重要であると明記されている。
国語科の中では「A話すこと・聞くこと」が「A」とあるように、トップにきている。

では、この「話す」「聞く」は、どちらがより大切なのか。

表記を見ると、「話す」が前に来ている。
つまり、やはり「話す」方を重視しているようである。
(例えば企業が合併する時、二つのどちらの名前が前に来るかは、重要な要素である。)

世間一般、教室一般はどうなのか。
「発表ができない」「表現力を育てよう」と、やはり「話す」重視である。
「日本人は自己主張が足りない」というアジアや欧米諸国の批判からも明かである。
確かに、外交の場面では、自己主張が命である。
弱腰では困る。

しかし、こと教室においては、その理論がそのまま当てはまるのか。

ここ数週間、色々な教育実践家の先生の講義を受けた。
共通する主張は「聞く力が優先」である。

ある先生は「口が二つで耳一つ」は「化け物教育」であると揶揄されていた。
ある先生は「学級作りで最初に指導すべきは、話の聴き方」と主張されていた。
講演会だろうが食事会だろうが、話す人より聞く人の方が数多く必要である。

「聴」という字は「耳」「目」「心」が合わさった字である。
相手に全ての関心を向けている状態である。
即ち、相手に対して「受容」の姿勢がとれている状態である。

昨今の様々な問題は、この「聴く」「受容」ができないことから起きているように思う。
素直に聴く相手に、それ以上の過剰な指導が入る余地はない。
大人も同様である。

聴く力をどうつけるか、これから考えていく。

2013年4月28日日曜日

授業参観に来てくれる卒業生に

たまにはつぶやきのようなものも書きたい。
(よって、今回の記事は全く役には立たないのでご了承を。)

授業参観があった。
毎年、必ず卒業生が何人か顔を出してくれる。
大概、校内に弟や妹がいるからだが、稀にそうでなくても会いに来てくれる卒業生もいる。

非常に有り難いことである。
すごく嬉しい。
しかし、そう思っているのに、思うように話せず、とまどう面もある。

懇談会とかも控えてばたばたしているし、ゆっくり話したいのに時間もない。
何となく、申し訳ないような気を勝手に抱くのが毎年の恒例である。

子どもも大人も、感謝を表現するのが苦手である。
あいさつを返せない子どもと同じ感じである。
そういうのが上手な先生を見て、羨ましく思う。

まあ、相手の側は何とも思ってないとは思うが。
ついででも、自分なぞの顔を見に来てくれることを、すごく有り難く思った。

2013年4月27日土曜日

誰に向けて贈る言葉

卒業やその学級の最後の日、毎年何かしら言葉を贈る。
読み返してみると、毎年、結構いいことを言っている。
お寺の説教のようである。

今年は簡単に言うと「素直であれ」「感謝せよ」「人を大切にせよ」だった。

さて、誰に向けて言っているのか。
当然、子どもに向けている。
しかし、よくよく見直してみると、自分向けでもある。
そういう人間がいいと思っている。
一方で、そういう人間に達しきっていない自分を感じている。

先の例で言うと
「素直さが足りない」「感謝が足りない」「もっと人を大切に」
と、自分自身に感じている。
一方で、少しずつそれに近づいてはいるから、それがいいと言える自分もいる。
例えば「手紙を書く」などは、「素直」「感謝」「人を大切に」全てを具現化する手段だと思う。
しかしながら、ものぐさな自分のせいで、即実行とは至っていない現状である。
(周りの実践している素晴らしい人々に影響を受け、ぼちぼち、出すようになってきてはいる。)

教え子に教わる、というのが常である。
教えながら、自分自身も教育しているのかもしれないと思った、卒業の日の贈る言葉だった。

2013年4月25日木曜日

啐啄同時

もう過ぎ去ったが、卒業式。
3月の卒業式の練習にあたり、学校長が一つの言葉を贈った。

啐啄(そったく)という言葉である。(多分、文字が表示されない。)
「啐」は「口へんに卒」で、「さけぶ、呼ぶ」という意味がある。
「啄」は「くちばしでつつく」という意味がある。
それぞれ、卵の中の雛鳥と親鳥の行為である。
「啐啄同時」とは、雛鳥が出たいと鳴いた時に、親鳥が卵の殻をつついて割る。
そのタイミングがピタリと合う様をいう。

教育をする上で、困難な点はここにある。
教師側は一生懸命教える。殻をつつく。
しかし、肝心の雛鳥は、出ようという気が全くない。
やたらガツガツつつかれて、うるさいなぁという感じである。

雛鳥はどうしたら、殻の外に出ようと思うのか。
そのタイミングをじっと待つ。
ただ待つだけでなく、親鳥は卵を温める。
こんなに一生懸命温めてるのに出ようとしない雛に苛立つこともある。
そこをじっと耐えて温める。
我慢しきれなくなってガツガツやると、余計出てこないという事態になる。
出てこないから更にガツガツやる。
悪循環である。

「水辺に馬を連れて行くことはできるが、無理矢理水を飲ませることはできない」ともいう。
どちらも、相手がそうしたいと思わせることがポイントである。

どうすると馬が水を飲むのか。
馬をたくさん走らせて喉を渇かすことかもしれない。
先に水を飲んで見せて、うまそうだと思わせることかもしれない。
放っておいても、飲み過ぎるぐらい飲む場合もある。
相手に応じて、やり方は様々である。

いずれにしろ、こちらが一緒になって、忍耐しながら努力・工夫する必要がある。
子どもの内面に働きかけること。
子どもが動こうと思ってくれないと、何も始まらない。
ある意味、教師や親の側は、そこを相手に依存する分、圧倒的に不利である。
不利であることを自覚し、願う思いで接する必要がある。

お互いの思いが、ぴたりと合った。
そんなことを感じた、卒業式だった。

2013年4月23日火曜日

よく歌う子どもにするには?


季節はずれだが、卒業式の話題。(メルマガだとタイムリーだったので。)
卒業式と言えば、歌。
「子どもが歌わない」ということが、特に卒業生の指導の悩みの種になる。
しかし、一方で、やたら歌えるクラスもある。
全員がのびのびと、本当に全力で歌うクラスがある。
ある先生が持つと、毎年そうなる、という先生がいる。
私の尊敬するある先生が担任すると、その先生のクラスには歌声で勝てない。
この差は何なのか。

先日受けてきた研修会で、講師の先生が仰っていた言葉がある。
「担任の先生がよく歌うクラスは、よく歌うクラスになる」
「担任の先生が掃除好きだと、掃除をよくするクラスになる」

つまり、子どもは、担任の鏡である。

担任の先生が歌うことが本当に大好きなら、子どもが歌わないはずがない。
担任の先生がはだしに素手でトイレ掃除をする人なら、子どもがトイレ掃除を嫌がることはない。
担任の先生が授業をすることが大好きなら、子どもは勉強が大好きになる。
全員が一概にそうなるとはいえないが、大部分がそうなることは経験上間違いないようである。

自校の子どもの抱える課題で、例えば次のようなことが話題になる。
「あいさつができない」
「本を読まない」
「道徳心に欠く」
「家庭学習をしない」
「掃除をしない」
「いじめをする」
「自主性がない」
・・・・
振り返るべきは、我々自身はその課題を抱えていないか、である。
繰り返すが、子どもは鏡、である。
例えば、職員同士が毎日元気よく最高のあいさつが飛び交う職員室。
その学校の子ども達があいさつができない、ということが、ありえるのだろうか。

尊敬する原田隆史先生の言葉で、私が特に好きな言葉は「主体変容」である。
教師とて、相手を変えることはできない。
自身が変容した時、その姿として子どもに映るだけである。

歌わせたかったら、本気で、のびのびと思い切り教師が歌う姿を見せる。
それが、第一歩であるように思う。

2013年4月21日日曜日

雑用を作らない

帰りの会で、毎日3分間の振り返り日記を書かせている。
やっている先生も多いと思う。
やってみるとわかるが、結構大変である。
読む&コメントに一人あたり1分かけると、30分ぐらいかかる。
これが毎日となると、かなりの時間である。
これがネックでやめた方も多いと思う。

「雑になるから雑用になる」という言葉を以前紹介した。
毎日ルーティーンでやることは、雑になりがちである。
日記が、雑用になっては本末転倒である。
雑用にするなら、止めてしまった方が良い。

日記は、「肯定的ストローク」の大チャンスである。
場合によっては、「否定的ストローク」で指導することもある。
とにかく、子どもとつながる大切な時間である。
普通は、一人ずつに面向かって即時に話すことを、じっくり伝えられる。
叱って帰してしまった子どもと、やりとりができる。
今日つながりきれなかった子どもと、つながることができる。
気付かなかったことを、教えてもらえる。

日記を読むことは、毎日の小さな仕事である。
小さいが、積み重ねで、大きな仕事になる。
それを、昨年一年間で実感することができた。
子どもの知らない一面を知ることができた。
言葉の少ない子どもの声をきくことができた。
思えば、日記が様々なトラブルを防いでくれたことも多い。
知り得ない情報を知ることができる。

自分の一日の仕事の中で、特に価値のある部分はどこなのか。
「全体の20%の時間が、80%の利益を生む」という言葉もある。
そこを「焦点」、「フォーカルポイント」などと呼ぶ。
子どもと雑談する時間などは、無駄なようですごく価値が高いように思う。
休み時間に子どもと遊ぶことにも、大きな価値を感じる。
日記を見る時間も同様である。

雑にすれば、雑用になる。
一日の中に雑用を作らないことである。
時間は、何より貴重なのだから、雑用をしている暇はない。

日記を続けたのが大変だった一方、価値をすごく感じたので、書いてみた。

2013年4月19日金曜日

係・当番を廃止する

学習会での学びシェアが途中だったので再開を。

今回は「係・当番活動を廃止する」ことについて。
「○○係」や「掃除当番」「給食当番」等は、学校生活をしていく上で必要である。
しかし、「係だからやる」「当番だからやる」という状態は、逆も生む。
例えば、「落ちているゴミを拾う」なんて係はいない。
気付いた人が、拾う。

できれば、学級の係や当番もここに持っていきたい。
いきなりは無理である。
最初の内は、仕事を覚える意味でも、全員経験した方がよい。
むしろ「係・当番なのにやらない」というのが、一般的な状態だろう。

しかしながら、3学期には、そうしなくてもやれる学級ができたらベストである。
例えば、給食の準備は、全員でする。
早く身支度ができた人から並び、人数が揃ったら給食室へ出発する。
全員身支度しているので、配膳等もみんなで行える。
係も、同じような仕組みで、気付いた人が率先して行うようにする。

「やらないでサボる子どもが出る」という意見もある。
しかし、8割の子どもが率先して動くレベルにいった学級でその状態なら、当番でさせても教育効果は同じである。
掃除も何でも「やらせていただく」の精神に至れば、あらゆることが変わってくる。
実際にそうなっている教室があるのだから、絵空事ではないようである。

理想のゴールを、教師自身が想像できていることが大切である。
私は、そういう状態を想像していなかったので、今年度はそこに至っていない。

教師自身が高い状態の学級の存在を知っておくことの大切さを学べた。
他校への教室訪問等も、そういう意味で大変有効ではないかと思う。

2013年4月16日火曜日

フリートークを取り入れる

先日、帰りの会までに宿題を見ることが間に合わず、あっという間に「さようなら」のコーナーになってしまった。
困ったので、「班内ふり~と~くた~いむ!」などと適当なことを言って、おしゃべりの時間を設けた。
まだ足りなかったので、「では、各班、推薦で発表」とつないだ。

これが、大変楽しい内容だった。
日直のスピーチと比べ、よりプライベートな内容である。
子ども達同士の、自己開示の時間である。
意外と、こういう時間が足りてなかったことが判明した。
休み時間も、なんだかんだ仲良しの子どもと話すことが多いので、
「ちょっときいてよ」みたいな些細な話をする機会がなかったらしい。
今後、週1程度、1コーナーとして取り入れても良いかと検討中である。

これまで何度か紹介している金大竜先生の学級は、常に子ども達が交流しているという。
プリントを配る時、ちょっとした空き時間、周りの仲間とここまでの感想等を話し合うという。

コミュニケーション能力の育成が学習指導要領でも大きな課題として挙げられている。
この辺りの、日常的かつ継続的な活動に解決策があるかもしれない。

2013年4月14日日曜日

「緊張」と「リラックス」

「おしゃべり」。
世間一般的には、好まれる行為である。
特に、最近は「女子会」なるものが流行っているようで、隣で開催されていると、言葉の弾丸が飛び交うような光景である。
互いに、あんまり相手の話はきいておらず、しゃべりっぱなしのようである。
それで、何だか互いに満足する。
きいて内容を理解してもらっているかよりも、しゃべるという行為自体に意味がある。
脳の構造上、女性の方が言語によるコミュニケーションを好むらしい。
(だから、夫婦げんかが起きやすいともいえる。男性は言語の交流が下手な傾向にある。)

さて、このおしゃべり、学校だと、好ましくない行為として通っている。
「授業中におしゃべりしてはいけません」という感じである。
おしゃべりは、学校では地位が低い。

先日出た勉強会で、3人の講師の先生のお話をきいた。
どの先生もこの「おしゃべり」を授業でも日常生活でも活用していた。
先生の話をきいていないのではなく、意図的にリラックスやコミュニケーションの時間をとっている。
私が学んだ原田隆史先生の教師塾でも、講義の途中に頻繁に班内で意見を交換する時間がある。
深夜まで数時間に及ぶ勉強会でも集中して参加できるのは、講話の素晴らしさだけでなく、班内シェアの時間の役割も大きいように思う。

授業中は「緊張」と「リラックス」のバランスを意識する。
以前も書いたが、15分が大体集中力の限界である。
できれば、5分に1回のリラックスが望ましい。
それは、笑いであったり、運動であったり、おしゃべりであったりする。

ゴムも伸ばしっぱなしだと、切れる。
時々緩める必要がある。

やたら大きな声を出させる。
突然「全員起立1,2!」で立たせる。
「はい、今のことについて班内シェア」
何でもいいから、短いリラックスを途中で入れる。

教室でどう「おしゃべり」のようなリラックスを取り入れるか、次号もう少し考えていく。

2013年4月12日金曜日

反対思考のススメ


最近読んだ本で、日常生活や教室で役立つ面白い考え方が載っていたので紹介する。
「反対思考」という。(検索しても、出てこない。)
字面が悪いが、かなりポジティブな意味合いの言葉である。

簡単に言うと、反対のことを考える、という作戦である。
詳しく言うと、人間は同時思考ができない。
脳はいっぺんに二つのことを考えられない。
(料理をしながら電話をする、という同時進行とは意味が違う。)
つまり、嫌なことを考えながら嬉しいことが考えられない。
逆に言うと、嬉しいことを考えながら嫌なことも考えられない。
どちらかが入ると、どちらかが追い出される、ということである。

そして、人は生きている内、平均95%ネガティブな思考をしているとのこと。
ネガティブ思考とは心配・不安・不満などである。
野生動物の生命維持の視点からすると、これは正しい。
いつ敵に襲われるか分からないからである。
つまり、本能にプログラムされている。
放っておけば、ネガ思考になるのが至極当然、正しい思考回路らしい。

どうすればこれらを追い出せるのか。
ここで、「反対思考」を使う。
入ってきそうになったら、いいことを考える。

何か楽天的で、頭の中がお花畑のような話にきこえるが、そうではない。
例えば、クラスの子どもがケンカをする。
「面倒なことだ」というのも「くだらないことで腹が立つ」というのも、感情の選択である。
普通にしてると、そういうネガ思考が入ってくる。
以前紹介した「ハッピー先生」こと金大竜先生は、ここでこう考えるそうだ。
「ケンカの場面に出くわすなんて、ラッキー」
金先生曰く、子どものケンカは大抵大人の見えないところで行われる。
それを目の前で見られるのは稀で、子ども理解に大いに役立つということである。
これも、反対思考の一例ではないかと思う。

一つの物事には、良い面と悪い面が必ずある。
どちらに光を当てて生きているか、それが子どもにも反映するのではないかと思った。

2013年4月10日水曜日

「愛があるから叱るのだ」考察

野口芳宏先生の言葉に「愛があるから叱るのだ」というのがある。
全くその通りである。
しかし最近、その意味を誤読というか、誤解していたことに気付いた。

そのまま読むと、何ら疑う点はない言葉である。
帰納的に、というか、ひっくり返して読むとこうなる。
「叱るのは、愛があるからだ」

この読み方を間違えていた。
つまり、叱っているのは、愛があるからだと。
叱ることへの正当化のように考えていた。

違うのである。
「愛がないなら、叱らない(叱れない)」
これが、正しいように思えるのである。

具体的に言うと、自分のクラスの子ども達。
もれなく、全員叱らせていただく。
職務上の責任でもあるが、全員紛れもなく自分のクラスの子どもである。
色んな子どもがいるが、そこに責任も愛情もある。
関係性もある。(4月当初は、そこが弱い。)
だから、良くないことは、きちんと叱れる。

学年の子どもならどうか。
行事等を通して、関係性の強い子どももいる。
この中には、叱れる子どもとそうでない子どもが混在する。
注意は平等に必ずするが、叱る際には、学年でのチームプレイが必須である。

では、他学年の子どもならどうか。
自分の学校の子どもなので、悪さをしてれば当然無視はできない。
指摘して注意する。
しかし、「叱る」となると、これはなかなか難しい。
人間関係が、できていないのである。
名前も覚えていないような状態で叱るのは難しい。

他校の子どもなら、休日に偶然出くわしたマナーの悪い子どもならどうか。
はっきり言うと、完全に見ず知らずの他人である。
日本人の大人として、社会のマナーを教え注意することはできる。
しかし、叱ることは到底できない。
そういう社会風土ができていないように思う。

「叱る」という言葉の定義を辞書で調べた。
広辞苑では「(目下の人に対して)声をあらだてて欠点をとがめる。とがめ戒める。」
明鏡では「目下の人の非を認め、それを改めさせようとして厳しく注意する。叱責する。」
どちらも共通しているのは、「目下の人」に対し、「責める」という感じである。
何というか、「注意」に比べて、感情的なニュアンスを含む。
例えるなら、人間がコンピューターに「注意」「警告」を受けることはあっても、叱られることはない。

正義感の強い教師は、つい色んなところに目がいって、叱ってしまう。
しかし、その相手は「注意」の対象か「叱る」対象かを、意識した方が良いように思う。
もちろん、同じことをしてA君は叱られたのにB君は叱られない、というようなことがあってはならない。
(A君が常習でB君が初、という場合は、叱り方も別である。)
最低でも、両者に注意はすべきである。
しかし、感情を伴う「叱る」という行為は、「愛情」の裏付けがあって初めて可能となるように思う。

「愛があるから叱るのだ」
言葉の意味を、表面的に理解していないか、他の面でもチェックしてみたい。

2013年4月8日月曜日

学級開きまでに最も大切なこと


4月、新たな1年の始まり。
1月1日とはまた違う、新年度のスタートである。

学級開きまでに、あれこれ準備することがある。
「2:8の法則」により、最初の1ヶ月の学級作りに、1年間使う力の8割を注ぐ。
物は静止状態から動かすのが一番エネルギーが要り、あとは慣性の法則である程度自然に流れていく。
それほどまでに重要なのが4月である。
「黄金の3日間」「3:7:30の法則」など、4月の大切さは有名な実践家の誰もが強調している。
(一応解説すると、3日間、1週間、1ヶ月で決まる、という法則である。)

とにかくそこが大切なのは分かるが、では何をしたらよいか迷う。
教室環境の整備。
子どもの名前を覚える。
出会いの自己紹介。
楽しい授業開きの準備。
・・・とにかく、山ほどある。
何といっても、1年間の仕事の8割を占めるのだから、当然である。
しかし、上記のことはどれも些末なことである。
目的という果実のための枝葉に過ぎない。
(過ぎないが、これがないと実らないので、枝葉も大切である。)

たくさんある中で一番大切なこと。
それは、目標設定。
1年後、どういう子どもを育てたいのか。
具体的なイメージをする。

6年生担任ならば、卒業式のイメージである。
どんな姿勢で歩いているのか。
座っている姿、立ち姿はどうか。
返事はどうか。
歌声は、表情はどうか。
最後の学級会で、子どもはどんな表情、反応をするのか。
自分自身はどう感じているのか。

他の部分についても、同様にイメージする。
学力面や体力面はどうなっているのか。
子ども同士の関係はどうか。
男女の仲は良いのか。
自己中心的なのか、人のために動く子どもなのか。
掃除の取り組みは、給食の配膳は、係の仕事は。

全ての理想形をイメージする。
行動はイメージに引っ張られる。
ゴールを目指すのではなく、ゴールから逆算する。
(最近の某学習塾のCMでも、同じようなことを言っていたが。)

何はともあれ、ゴールの設定。
具体的なイメージ化。
それを、文章にしてみる。
(以前、未来の学級通信を書く手法も紹介したが、あれも効果的。)
全ては、そこからである。

2013年4月3日水曜日

つりあった大根、どちらが重いか

今日は授業のミニネタ系を。

「まずは人気の先生になろう!」の著者の飯村先生が、とある研修会で紹介したネタである。
私も似た実践を知っていたので思い出し、それについてお話をした。
必ず子どもの意見が割れる面白い実践なので、紹介する。
どなたかの原実践があるのだが、今すぐわからないので、私のアレンジバージョンの紹介である。

大根を一本用意する。
こんなお話をする。
「一人暮らしの時、買った野菜が大きすぎることがよくありました。
そういう時、買ったものを友達と分けたりします。
もちろん、お金がないので、あげはしません。(笑)
代金も半分こです。
ただ、見ての通り、大根は細い部分と太い部分があり、うまく半分にできません。
そこで、こうしてみました。」

大根を、ひもを使ってつりあう位置で吊るす。
そこのつりあった位置で切る。
左右の太くて短い方をA、細くて長い方をBと名付ける。

「AとB、平等で、重さも同じですよね?」
ほとんどの子どもがうなずく。
「本当に?」
おや、という顔をする。
選択させる。
「Aが重い」「Bが重い」「同じ」
あわせて、理由もノートに書かせる。
色々な意見が出る。

ところで、どれが正解だろうか。
ちょっと考えて、選択してから読み進めていただきたい。


実際やってみると、Aが重い。
これは、6年理科「てこのはたらき」の応用である。
モーメントの大きさは「重さ×支点からの距離」で決まる。
つまり、Aは「重い×短い」、Bは「軽い×長い」という状態で、左右のモーメントの大きさがつり合っていたのである。

針金でも違ったものがやれる。(こちらは飯村先生の実践で、初めて知ったもの。)
まっすぐの針金をさきほどのようにひもでつり合わせる。
大根と違い、この場合、左右の重さは等しい。
そこで、片方だけ大きくぐにゃりと曲げる。
どちらに傾くか。

この場合、伸ばしたままの方である。
重さは同じで、距離が長いからである。
原理はわかっているのに、なぜか間違える。
人間はイメージで答えるということがよくわかる。

6年担任の方には、年度末にでもぜひやってみていただきたいオススメ実践である。

2013年3月31日日曜日

「おかず理論」と「くじ引き理論」

先日、スーパーで購入してきたみかんが、大当たりだった。
とっても甘くて、美味である。
いっぺんに食べると勿体ないので、一日に一つずつ食べることにした。
(貧乏臭い話である。)

数日後。
3日でみかんのことを忘れていた自分。
見ると、何事もないように積まれている。
放っておかれても黙って待っててくれるなんて、愛らしいみかんである。
久々に食べようかと、手前のみかんをひょいと手に取った。

緑の粉が、ぱっと舞った。

裏側が、黴びていた。
「かびるんるん」状態である。
周りのみかんも、当然やられていた。
廃棄である。
「あの時食っちゃえば良かったなぁ・・・さよなら・・・。」
よくある、哀しい話である。

何が言いたいのか。

ここ数週間、毎週違った素晴らしい先生の話を聴かせていただいた。
しかしながら、全てすぐに実践できていないのが現状である。
そのことと、みかん事件が、自分の中でリンクした。

原田隆史先生が、成功のための三大理論としてあげている中に「おかず理論」「くじ引き理論」というのがある。
美味しい物は、先に食べる。
当たりくじとわかっていたら、それを引く。

多く、人はそれができないらしい。
美味しいものは、後回し。
当たりはわかっているのに、はずれをひく。
人間の性である。

素晴らしい実践も、人から言われて「ああ、思い出した」ということが多い。
いいと思ったら、即実行。
それしかない。
「いつかとお化けは見たことがない」
「タイミングイズマネー」である。

研修で学んだことを、メルマガに書くことすら追いついていない現状に焦りを感じ、書いてみた。

2013年3月29日金曜日

批判は自分自身に

前回の「批」の続き。

例えば、クラスでとんでもなく勉強ができない子どもがいたとする。
その子どもが、クラスのテストの平均点を著しく下げているとする。

その時「あの子のせいで」と批判していたら、それは自分自身への批判である。
子どもや環境にも原因はあるだろうが、教えられなかったこちらの責任の方がはるかに大きい。
何と言っても、教師は勉強を教えるプロである。
プロが他に責任を求めることはない。

医者が病気を治せずに「あんな病気になった患者が悪い」ということはないだろう。
それで給料をいただいているのである。
子どもが悪いのは教師が悪いと考えるのが、教師の側としては妥当である。
(世間一般からそう見られるのは、分が悪いが。)

自分が子どもの親なら、自分の責任と考えるのが妥当である。
子ども自身の側は、自分自身の努力等に原因があると考えるのが妥当である。

「全ては私の責任です」と全員が受け止めることが妥当であるように思う。

2013年3月27日水曜日

漢字も体験で記憶

前回の続き。

漢字も体験を伴うと、長期記憶に残りやすい。
「批」という字を教えるとする。
手へんに比べる、という構成の字である。

人差し指を立てて、教師を指でささせる。
普通、やってはいけないことなので、「特別ですよ」といってやらせる。
これだけで結構喜ぶ。
いたずらのような、快の体験である。

こうすると、人差し指は相手を指すが、3本の指は自分に向いている。
(親指は、無関係な方向を指す。)
つまり、人を批判、批評する時、実は自分自身を批判、批評しているということである。
割合でいうと、1:3である。
残り1は、環境などの要因である。

他にも「叶」は口に十回出すと願いが叶うことから。
実際に口に十回出させるとよい。
(「日本一ハッピーなクラスのつくり方」金 大竜 著 明治図書より)
「協」は一人一人の小さな力を+すると、大きな力になるので「協力」。
(これは、私が実際教員採用試験の模擬授業の時に思いついて使ったものである。)

漢字も、体験させることで、長期記憶に残るよう工夫したい。

2013年3月25日月曜日

体験が記憶に残る

理科の学力検査の結果を見て、毎年同じことを思う。

誤答が多い原因は、一点にかかっている。
それは、実際に実験や見学をしたかどうか。

教科書や資料集等で済ませてしまった部分は、正答率が著しく下がる。
地層の見学など、できない場合に他の物で代用したとする。
すると、その単元のワークテストをやった時には、きちんとできる。
しかし、学年末の学力検査の時期には、記憶から消えているのである。

実際に見学した場合には、長期記憶として子どもの中に残る。
だから、学年末にテストしても、正答できる。

学習には体験が必要だ、とは、もはや耳にタコの話である。
分かっているがつい「これぐらいなら」と思って、机上で省略してしまう。
すると、それはきちんと結果(負債)として後でついてくる。

やはり、学習において、体験は重要である。
そこに感動が伴えば、より強い記憶に残る。

理科の実験などは、感動を伴う体験活動になるよう、日々工夫したい。

2013年3月21日木曜日

こころのチキンスープ

今日はオススメの本の紹介。

「こころのチキンスープ」ジャック・キャンフィールド
マーク・V・ハンセン編著 ダイヤモンド社

シリーズものなのでたくさんあるが、今回紹介するのはその1である。
累計1億部越えの超大ヒットシリーズなので、知っている人もいるかもしれない。
要するに「深イイ話集」である。
朝の話等で使えそうなものも多い。
エッセイのような文章から、詩まで様々なものが入っている。

何がいいかというと、為になる&心が温まる感じの話が詰まっている。
そして、教師の話が多い。
他の職業に比べ、感動する機会が多い仕事だからかもしれない。
偶然だが、先日メルマガで紹介した「子どもは大人の鏡」というタイトルの詩もある。

「私は教師」というタイトルの詩がある。
冒頭は「私は教師。私は子どもが『なぜ?』という言葉を初めて口にした時に生まれる。」
から始まる。
途中、
「私ほど恵まれた職に就いているものはいない。」
という一文があり、その理由が後に続く。

紹介だけで長くなったが、読まないとまるで伝わらないのが残念である。
春休み、心にも栄養を与えたい。

2013年3月19日火曜日

教師の「心技体」 四十代~

いよいよ、禁断の(?)四十代以降。
この辺りは、何となく触れにくいのでさらっといく。
(失礼にあたらないように、ということである。)

四十代。
一言で言うと「安定感」が感じられる年代である。
「体」はほどほどに、かなり高い「心」「技」がある。
体力勝負な仕事は下に任せ、企画など知的作業の方が中心である。
人口ピラミッドで見ても絶対数が少なく、いればかなり頼りになる存在である。
人間性もさることながら、学校における職務技能全般が高い人が多い。
担任や部活を担当している人も多いため、全年代中最も「技」が高い年代であると思う。

五十代以降は、いわずもがな「心」である。
管理職に最も欲しいのは、高等な授業技術等はさることながら、尊敬と信頼感。
下々の者が自由に動けるよう、「私が責任をとる」という器の大きさである。
私は、そういう管理職によく当たる。
非常にラッキーである。
今は「心」が弱い自分も、いずれそうなりたいと思う。

以上、まとめてみる。
「体」は、二十代が最も高く、どんどん低くなる。
「技」は、四十代辺りで伸び率が最高値になる。(もちろん、これ以降も無限に上がる。)
「心」は、年齢が高いほど上で、若いほど低くなる。

二十代でも人間性が大変高い人、五十代でも体力が高い、という人もいる。
これは、個人差なので、当然ある。

自分はどこが足りないか、考えて意識的に強化していきたい。

2013年3月17日日曜日

教師の年代別「心技体」 三十代

三十代は、何かと仕事を任せてもらえる時期である。
「体」はやや低くなってきたものの、まだまだ職場内では高い方にいる。
二十代の後輩を教える立場なので「技」「心」の両方が二十代より必要である。
両方高いと申し分ないのだが、なかなかそういう人はいない。
どちらかに偏っているのが普通である。

周囲への気配りができる「協調タイプ」は「心」の方が高いことが多い。
一方、我が道を行く「独立心タイプ」は「技」の方が高いことが多い。
前者は親しみやすく、人間的に学べることが多い。
後者はとっつきにくい分、授業技術など盗めるものは多い。

二十代の教師は、両方のいいとこどりで学ぶと良い。
(そして、いずれ自身も大抵どちらかに偏る。)
どっちがいいかというと、どっちも必要である。
先の四十代、五十代の完成形に向け、両方揃った状態を目指す途中経過である。
少なくとも、どちらかがあればよいと考える。
(以前受けた研修での話によると、協調タイプの方が絶対数は多いようである。
まあ、よく考えれば当然である。そうでないと、成り立たない。)

次号、四十代以降を独断と偏見で勝手に分析する。

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7月29日、高校サッカーインターハイが開催される。 私も高校時代、燃えていたので、どこか出るのかとかは気になる。 さて、サッカーでは、ポジショニングが大切である。 それぞれの選手がその瞬間にどこにいるか、ということが次のプレーを左右する。 ポジショニングの上で大切なこ...

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