野口芳宏先生の言葉に「愛があるから叱るのだ」というのがある。
全くその通りである。
しかし最近、その意味を誤読というか、誤解していたことに気付いた。
そのまま読むと、何ら疑う点はない言葉である。
帰納的に、というか、ひっくり返して読むとこうなる。
「叱るのは、愛があるからだ」
この読み方を間違えていた。
つまり、叱っているのは、愛があるからだと。
叱ることへの正当化のように考えていた。
違うのである。
「愛がないなら、叱らない(叱れない)」
これが、正しいように思えるのである。
具体的に言うと、自分のクラスの子ども達。
もれなく、全員叱らせていただく。
職務上の責任でもあるが、全員紛れもなく自分のクラスの子どもである。
色んな子どもがいるが、そこに責任も愛情もある。
関係性もある。(4月当初は、そこが弱い。)
だから、良くないことは、きちんと叱れる。
学年の子どもならどうか。
行事等を通して、関係性の強い子どももいる。
この中には、叱れる子どもとそうでない子どもが混在する。
注意は平等に必ずするが、叱る際には、学年でのチームプレイが必須である。
では、他学年の子どもならどうか。
自分の学校の子どもなので、悪さをしてれば当然無視はできない。
指摘して注意する。
しかし、「叱る」となると、これはなかなか難しい。
人間関係が、できていないのである。
名前も覚えていないような状態で叱るのは難しい。
他校の子どもなら、休日に偶然出くわしたマナーの悪い子どもならどうか。
はっきり言うと、完全に見ず知らずの他人である。
日本人の大人として、社会のマナーを教え注意することはできる。
しかし、叱ることは到底できない。
そういう社会風土ができていないように思う。
「叱る」という言葉の定義を辞書で調べた。
広辞苑では「(目下の人に対して)声をあらだてて欠点をとがめる。とがめ戒める。」
明鏡では「目下の人の非を認め、それを改めさせようとして厳しく注意する。叱責する。」
どちらも共通しているのは、「目下の人」に対し、「責める」という感じである。
何というか、「注意」に比べて、感情的なニュアンスを含む。
例えるなら、人間がコンピューターに「注意」「警告」を受けることはあっても、叱られることはない。
正義感の強い教師は、つい色んなところに目がいって、叱ってしまう。
しかし、その相手は「注意」の対象か「叱る」対象かを、意識した方が良いように思う。
もちろん、同じことをしてA君は叱られたのにB君は叱られない、というようなことがあってはならない。
(A君が常習でB君が初、という場合は、叱り方も別である。)
最低でも、両者に注意はすべきである。
しかし、感情を伴う「叱る」という行為は、「愛情」の裏付けがあって初めて可能となるように思う。
「愛があるから叱るのだ」
言葉の意味を、表面的に理解していないか、他の面でもチェックしてみたい。
2013年4月10日水曜日
登録:
コメントの投稿 (Atom)
-
名称の謎の話。 小学校で行う跳び箱の切り返し系の技といえば、開脚跳びとかかえ込み跳び。 かかえ込み跳びは「閉脚跳び」とも呼ばれる。 名称が二つあるのは、学習指導要領での表記の変遷による。 以下、体育の豆知識。(興味ない方は読み飛ばしていただきたい。) かかえ込み跳び...
-
前号の続き。 教師にとっては、結構知っておくべき「大切」な事ではないかと思う。 (そして、教師以外の人々には本当にどーでもいい話題であるかもしれない。) 例の如く野口芳宏先生よりずばり。 「課題」は出されたもの。 「問題」は感じたもの。 つまり、教師から与えたものが「学習課題」。...
-
教材研究という言葉が一般的である。 教えるために、教師として教材を読むのが教材研究である。 (まるで私がわかった風な口をきいているが、完全に野口芳宏先生の受け売りである。 以下同様。) 教材研究の前にすべきは、素材研究。 教えるためでなく、一読者として作品について調べ、読み込む...
0 件のコメント:
コメントを投稿