2013年4月10日水曜日

「愛があるから叱るのだ」考察

野口芳宏先生の言葉に「愛があるから叱るのだ」というのがある。
全くその通りである。
しかし最近、その意味を誤読というか、誤解していたことに気付いた。

そのまま読むと、何ら疑う点はない言葉である。
帰納的に、というか、ひっくり返して読むとこうなる。
「叱るのは、愛があるからだ」

この読み方を間違えていた。
つまり、叱っているのは、愛があるからだと。
叱ることへの正当化のように考えていた。

違うのである。
「愛がないなら、叱らない(叱れない)」
これが、正しいように思えるのである。

具体的に言うと、自分のクラスの子ども達。
もれなく、全員叱らせていただく。
職務上の責任でもあるが、全員紛れもなく自分のクラスの子どもである。
色んな子どもがいるが、そこに責任も愛情もある。
関係性もある。(4月当初は、そこが弱い。)
だから、良くないことは、きちんと叱れる。

学年の子どもならどうか。
行事等を通して、関係性の強い子どももいる。
この中には、叱れる子どもとそうでない子どもが混在する。
注意は平等に必ずするが、叱る際には、学年でのチームプレイが必須である。

では、他学年の子どもならどうか。
自分の学校の子どもなので、悪さをしてれば当然無視はできない。
指摘して注意する。
しかし、「叱る」となると、これはなかなか難しい。
人間関係が、できていないのである。
名前も覚えていないような状態で叱るのは難しい。

他校の子どもなら、休日に偶然出くわしたマナーの悪い子どもならどうか。
はっきり言うと、完全に見ず知らずの他人である。
日本人の大人として、社会のマナーを教え注意することはできる。
しかし、叱ることは到底できない。
そういう社会風土ができていないように思う。

「叱る」という言葉の定義を辞書で調べた。
広辞苑では「(目下の人に対して)声をあらだてて欠点をとがめる。とがめ戒める。」
明鏡では「目下の人の非を認め、それを改めさせようとして厳しく注意する。叱責する。」
どちらも共通しているのは、「目下の人」に対し、「責める」という感じである。
何というか、「注意」に比べて、感情的なニュアンスを含む。
例えるなら、人間がコンピューターに「注意」「警告」を受けることはあっても、叱られることはない。

正義感の強い教師は、つい色んなところに目がいって、叱ってしまう。
しかし、その相手は「注意」の対象か「叱る」対象かを、意識した方が良いように思う。
もちろん、同じことをしてA君は叱られたのにB君は叱られない、というようなことがあってはならない。
(A君が常習でB君が初、という場合は、叱り方も別である。)
最低でも、両者に注意はすべきである。
しかし、感情を伴う「叱る」という行為は、「愛情」の裏付けがあって初めて可能となるように思う。

「愛があるから叱るのだ」
言葉の意味を、表面的に理解していないか、他の面でもチェックしてみたい。

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