2023年4月29日土曜日

掃除で自分を大切にする子どもが育つ

 国際比較において、日本の子どもの「自分のことが好き」という割合がダントツで低いことはよく知られている。

もちろん、日本人の謙虚な精神が表れている、という面もあるかもしれない。


しかしそれにしても、本当に低い。

自分を大事にするということは、かなり大切なことである。

この感覚は、長年社会問題となっている自殺率増加の歯止めにも関係する。


また、自分を大切にできないと、他人も大切にできなくなる。

ブログ上でも何度か書いているが、

「自分が幸せ&周りも幸せ」という形でない限り、双方の幸せが続かないからである。


例えば

「自分だけが幸せ」→「周りは不幸」→「自分にも不幸が及ぶ」という構造になる。

だから自分が幸せな分は、周りにも還元していく必要がある。


また「周りが幸せ」だと、自分もその恩恵を受けやすい。

精神的に安定した家庭に育った子どもの自己肯定感が高くなりやすいのも必然である。

一方で、そうでない家庭に育った場合にどうなるかも想像に難くない。


そして

「自分が不幸」→「周りにも不幸をまき散らす」

という構造にもなりやすい。

自分が不幸だと感じることは、周りへの妬みや嫉み、恨みに繋がりやすいからである。

その極端に行った例が、「自分が不幸だから」という理由で罪のない人に対して行われる犯罪の類である。


「自分が本当に好き」だと、こういった間違いが起きにくい。

「本当に」と付けたのは、単なるのナルシシズムとの区別のためである。

(ナルシシズムは強い劣等感の裏返しでもある。SNSで大量の「いいね!」を集めたい心理と同じである。)


「自分が本当に好き」だと、自分の心や体を大切にする。

さらに、そんな自分の住む世界を、より良いものにしたいと考える。

考えにくい人は、「自分」のところを「自分にとって大切な人」に置き換えるとよくわかる。


だから、周りの環境もより良くなって欲しいと願う。

周りの人にも幸せになって欲しいと願う。

恩恵を与えてくれる自然にも感謝し、物も大切に扱う。

ごく当然の話である。


問題は、ニワトリが先か卵が先かという話である。

つまり

「自分が好き」→「周りもいい環境になる」

なのか

「周りがいい環境」→「自分も好きになる」

なのかである。


どちらもあり得るが、主体的に行動を起こせるのは前者のみである。

周りが悪いと言っていても、何も変わらないからである。


自分を大切にする行動なら、自分で選んでできる。

例えばよい食事・よい睡眠・よい運動は、自分を大切にする行為である。

頂きものにして代替のきかないこの身体を大事に扱うのは当然である。


なるべく心身の病気にかからないようにケアすることも大切である。

休みをとってリラックスしたり、楽しみのための活動をしたりすることも、自分を大切にしているといえる。

リフレクソロジーやエステ、ネイル、買い物に使うお金などは、単なる散財ではない。

コンサートや映画、読書、あるいは「推し活」やラーメン店巡りなどの趣味も同様である。

自分を大切にしている行為である。

(ただ過ぎたるは猶及ばざるが如しで、「中毒」にまでなると、これは自分と周囲を害するのでいけない。)


掃除も、自分へのケアである。

例えば年末に大掃除をしたと思うが、新年を気持ちよく迎えるための行為である。

汚い環境で年を迎えるのは、自分と周りの両方を大切にしていないことに繋がるからである。

埃やカビにまみれた環境で過ごせば、当然病気にかかりやすくなり、それは自分も周りも大切にしていないといえる。


掃除とは、自分と周りの両方を大切にする行為なのである。

(やっと今日のテーマにたどり着いた。)

掃除をすることで、自分自身を磨くことにも繋がる。

ごみ拾い、トイレ掃除などはその最たるもので、傍から見れば非論理的で一見意味不明である。

「やればわかる」の世界である。


学級づくりにおいても、掃除については放置していると改善は見込めない。

指導が必要である。


荒れている学校はトイレを見ればわかるということ同様に、荒れてしまっている学級は、とにかく教室が汚い。

掃除はおろか、整理整頓も全くできていないので、一目瞭然である。

日常的に必要な指導をされていないことが、掃除の場面に端的に表れている。


道具の扱い方やしまい方などは、指導しないとわからないし、面倒だから整理整頓や手入れもしないのが普通である。

「きれい」「整っている」「使いやすい」を体験しないと、良さがわからない。


掃除の指導が低学年時にしっかりと行われていると、後の学年ではある程度放っておいても大丈夫である。

それは物の扱い方であったり、掃除の良さを体感して、主体的にできているということである。


「掃除ができるクラスはいいクラス」とは二十年ほど前から言っているが、実感として間違いないと確信している次第である。

2023年4月24日月曜日

学びの選択肢とICT活用

 昨年、東洋経済オンライン×ICTで次の記事がアップされた。


運動嫌いを増やしてしまう学校の体育の常識、「全員できる教」が大問題の訳 

「体育嫌い」なくす不親切教師的体育指導の勧め


この記事では「全員できる教」と書いている。

これは「みんな教」+「できる教」の二つを合わせたものである。


全員一律、揃えることを是とする考え方を「みんな教」と呼んでいる。

「みんな教」は、トップダウンが基本で、実は民主主義とは折り合いが悪い。

「みんな」で揃えるという価値観は、個を消していくことにつながるからである。


「制服」や「指定の髪型」などはこれにあたる。

「持ち物」なども揃えることで、面倒が起きることを防げる。


また、個を消した方が、様々な面での統率がしやすくなる。

それぞれの考えを尊重していると、物事がなかなか進まない。


もちろん、「みんな」で揃えることには、大きなメリットがある。

もしメリットがないなら、とっくの昔に消え去っているはずだからである。


みんなで揃えると、まず余計なことを考えないで済む。

工夫がいらない。

さらに、何か言われた時にも「みんなこうしています」という防御壁になる。


また、集団内における個の違いを考慮しないので、たくさんの人数を一気に一律に網羅できる。

学校の一斉授業は、そこが基本設計である。


デメリットはこの逆になる。

自分の頭で考えない、工夫しない。

個の違いに対応できない、といったことである。


学校は、集団教育を基本設計にしている。

学習指導要領が定められていることからも、明らかである。

そして、これがうまく時代のニーズに合っていて、システムとしてはまっていたといえる。


しかし、『不親切教師のススメ』でも書いた通り、今は基本設計はそのままに、「個別最適な学び」が求められる。

無理矢理にでも、バランスを取ることが求められている。


そのバランスの取り方だが、今回の記事の中では「選択」をポイントに挙げている。


例えば課題が一律でも、方法に選択肢があれば、個に対応できる。

今回の記事だと「10分間走る」は一律の課題である。

しかし「ペース」には選択の余地がかなりある。


課題を選択する方法もある。

鉄棒運動や跳び箱運動で、どう学ぶか、どの技を身に付けたいかは、選択ができる。

「できる」だけを追い求めると、ここを落とす。

「できる」には価値があるが、結果だけを追い求めると、誤った競争主義に陥りやすい。


もちろん体育以外の授業でもこれは適用できる。


算数などの積み上げ学習は他と違い、課題として教科の学習内容を身に付けることが外せない。

「簡単な筆算ができなくても大丈夫」「面積が求められなくても大きな問題はない」とは言えない。

課題側を変えられない以上、学び方の選択肢を広げる方を考える必要が出る。


一律に一斉伝達というのが、集団においては最も能率がよかった。

しかし、今は集団を優先して個を捨てることが是とされないのだから、やり方を変える必要がある。

ICTの活用は、ここを大きく変換する強力な手段となる。

「GIGA」の頭文字通り、タブレット端末は個別最適な学びのために配付されたツールである。


今後、授業にICTの活用は外せない。

理科や社会科などは、教科書に加えてタブレット端末を利用すれば、動画資料からも自力で十分に学べる。

一方、実際の実験や見学に勝る学びはないので、ここは方法として外せない。


学び方の選択肢を広げる、が授業におけるキーワードの一つになると考える次第である。

2023年4月15日土曜日

学校の子どもに「罪と罰」は存在するか

「罪と罰」と聞けば、ドストエフスキーの作品を想像するかもしれない。

今回は文学作品ではなく、罪と罰そのものについて。


社会においては、罪を犯すと罰せられる。

罰とは感情的なものではなく、ごく具体的な働きをもつものである。


例えば

「スピード違反」という罪を犯せば

「罰金」「減点」という具体的な罰が課される。

お金の罰と権利の制限という罰である。

より重い罪の場合、「一発免許取り消し」であり、さらには禁固刑のような身体的拘束をされる場合もある。


スポーツで考える。

例えばサッカーの場合だと、危険なファウルという罪を犯せば

「イエローカード」という形で警告の罰がつく。

この場合の「警告」とは単なる感情的な注意ではなく、累積2枚で退場という具体的な罰に発展する。

そうなると、それ以降のプレーには慎重にならざるを得ない。

ひどい場合は一発退場の「レッドカード」が出される。

つまり、参加権利の剥奪という具体的な罰である。


社会やスポーツで罪に対して罰がつくことは前向きに受け入れられている。

それが健全な在り方やプレーを支える大切な役割を担ってくれるからである。

社会に警察や裁判所が、スポーツに審判がなかったら、悲惨なことになる。


さて、学校はどうか。

基本的に、義務教育において子どもに罰は課されない。

教師には「懲戒権」があるが、これも子どもの権利を制限するためではなく、改善を求めるためのものである。

懲らしめ、戒めのための説諭、説教はできるが、罰は与えられない。


私の子ども時代は「長時間の正座」や「竹刀等で叩かれる」という正真正銘の罰があった。

しかしこれは昨今、あってはならないこと、誤りであったと認識され、周知徹底された。


さて、子どもたちに聞いてみると「学校でも罰を受ける」と考えている。

具体的にどんな罰かと聞くと「悪いことをすると、怒られる」という。


これは興味深い認識である。

子どもにとっては

「怒られる」=「罰を受けた」

という認識のようである。

これは多分、一般的にどこの学校の子どもたちでも、そうではないかと思う。

大人の側もそういう認識かもしれない。


我々大人の場合で考える。

例えば、社会に損害を与えるミスをしてしまった、あるいはミスではなく意図的な不正がばれたとする。

それに対し「すごく怒られた」という「罰」を受けて「ごめんなさい」で終わったとする。


これは、社会から見て、罰を受けたと言えるか。

間違いなく「許された」「罰を免れた」という認識になる。

軽犯罪ならまだしも、重犯罪の場合でそれだったらどうかと考えれば更によくわかる。


子どもは学校で、社会でいうところの罰は受けない構造になっている。

相当に悪質なことをしても「怒られた」で終わる特殊な社会である。


怒ったところで、実は何も変わらない。

ではなぜ怒るかというと、再発防止という面と自分の感情的な口惜しさの両面である。


学校の先生や親が子どもに対して怒るのは、それ以上どうにもできない、手詰まり状態だからである。

罰を一切与えられない分の、せめてもの感情的なはけ口である。


だからこそ、もし怒らないで済むようにできるなら、怒らない方がいいに決まっている。

そしてそれができれば苦労ないというのが大方の本音である。


そして学校の子どもがしたことの場合は、罪とは呼ばない。

それは「間違い」と呼ぶ。

未熟な子どもたちは、学校で間違えることが許される。

社会に出てからの間違いは致命傷になるため、安全な場での練習をしているといえる。

叱責その他諸々は、間違いを正し善導するための方策である。


つまり、叱る、褒めるという行為は、教育上やはり有用である。

危険行為にストップをかけるのには、叱る必要がある。

良い行為を促進するには、褒める必要がある。

何がいいか悪いかわからない子どもにとって、評価がその成長の方向を決めるからである。


学校は、社会における間違いと正しさを学ぶ場である。

だから学校における子どもの間違いは罪にも罰にもならない。

だからこそ教師には、悪を悪、善を善として毅然と指導できる姿勢が求められるといえる。

2023年4月9日日曜日

自由とルールと恩恵

 オンラインで行った「学級修養会HOPE」で反響のあった話題。


子どもたちと「ルール」や「自由」について話し合う機会が多い。

憲法の学習をした時はもちろん、学級会、あるいはトラブルがあった時など、日常的に問いかける。


道徳の時間に「本当の自由とは」というテーマで話し合った。

子どもたちからは様々な意見が出たが、集約すると

「自由とは、決まったルールの中で自分のやりたいことができること」

というような意見である。


この意見は、急に出てきたものではない。

これまで憲法の学習をはじめ、様々なに話し合ってきたことが生きている。

最初の頃は「何でもやりたいことを好き勝手にやっていい」というような意見も多くあった。

これは自由ではないということ、「放縦」という言葉も教えた。

「放縦」の意味は、何の節度もなく、気ままに振る舞うことである。


私からも子どもたちに

「自分の意見を言ってもいい?」

と尋ねて、いいということだったので、意見を述べさせてもらった。

先の子どもから出た自由の定義に沿っていえば「先生も意見を述べていい」というルール上で話す訳である。


私の自由に対する見解は

「自分でしたことの結果責任がとれること」

である。

この考えだと、子どもよりも大人の方が自由である。

子どもは、社会における行動の結果責任がとれない。

結果責任をとるのは基本的に親であり、学校管理下の場合は教師である。


だからこそ、大人から子どもへ「あれはだめ、これはだめ」と教えることが出てくる。

社会の枠組みがある以上、命に関わる危険なことや、他者への侵害行為は許されないことを教える必要がある。

もし子どもが社会的な迷惑をかけたら、それは本人が反省すべきものであるものの、最終的には大人の責任である。


この自由の定義の場合、見方によってはネガティブにもポジティブにもなる。

「ここまでしか動けない」と捉えることもできる。

一方で「ここまで動いていい」と捉えることもできる。


よくある例えだと、コップの半分まで入っている水を見て

「半分しかない」と捉えるか「半分もある」と捉えるかの意識の違いである。


自由というのは、基本的に社会的な枠組みの上で定義される。

(これが無人島なら社会的ルールは全くないが、失敗すれば命を落とすという自己責任がつく。)

社会において、ルールと自由は表裏一体である。


サッカーなどのスポーツでコートが決まっていることと同じである。

そのコートの範囲の中で、自由に動き回れる権利が与えられる。

プレーの結果責任をとるのは自分であり、どのようにプレーするのも自由である。

自由だからこそ、スーパープレーも生まれるし、ラフプレーをすればファウルをくらう。


サッカーで「手を使えたらもっといいプレーができるのに。ルールのせいで不自由だ。」という不満を述べる選手はいない。

サッカーでは「足を使ってボールを蹴っていい」というルールが決まっており、これは恩恵ともいえる。

他のスポーツだと、それはルール違反であることが多い。

バスケにおいてボールを蹴って運んでいるプレーヤーがいたら、一発でファウルである。


つまりルールは「ここまでしていい」という恩恵ともいえる。


例えば学校には平日8時に全員登校完了をしていることがルールであるとする。

これを

「8時までに行かないといけない」

と捉えるか

「8時までに行けば学べる」

と捉えるか。


すべて、捉え方次第なのである。

休日の8時に登校したところで、学びたくても学べないし、人も集まらないのである。

コロナ禍でそもそも登校できなかった時期を考えれば、恩恵であると捉え直せる人も増えるのではないだろうか。


学校とは、基本的に様々なルールを学ぶ場である。

そしてルールとは、ここまでしていいという恩恵であると考えれば、学びは恩恵と捉えやすくなるという一つの提案である。

2023年4月1日土曜日

教室における共生

「共生」という言葉がある。

広辞苑の定義によると


1 ともに所を同じくして生活すること。

2 異種の生物が行動的・生理的な結びつきをもち、一緒に生活している状態。

  共利共生と片利共生とに分けられる。


学校の教室における共生は1の定義である。

ただ内実においては、2の意味も入ってくる。

異なる能力、考えの人間が一緒に生活していることで、相互に何かしらの利がある。


大人も子どもも同様に、得意と不得意がある。

教える側にもこれはある。

小学校の教員だからといって、全教科を教えるのが得意という人は、今まで見たことがない。


穏やかな人も元気いっぱいな人もいる。

ネガティブで慎重派な人も、ポジティブで楽観的な人もいる。

同じ集団内には両端及びその間がいないと、バランスが悪い。

同じ傾向の人ばかりで集まると、価値観や考え方が偏り、何かと危険である。

集団内に真逆のタイプの人がいる場合、中間でバランスをとる人も必要である。


学校は、教室内も職員室内も、共生が原則である。

それも、異なる種が雑多にいる状態が自然といえる。

特に公立の小中学校のように、偶然による集団のような場合は、尚更である。

(一方、特定の私立学校、習い事や地域の野球、サッカーチームなどの場合は目的集団である。)


不親切教師のススメ』の中でも再三述べているが、違いはあった方がいいのである。

もっと正確に言えば、不得意も多くあった方がいいのである。

自分にできないこと、苦手なことがたくさんあるからこそ、他の人の得意が生かせるのである。

他の人に「できない」「不得意」があるからこそ、たった一つしかないかもしれない自分の「得意なこと」が生かせるのである。


そういう視点で、教室も見直してみる。

ある授業でわからないといっている子どもの存在は、教師及びそれが得意な子どもの活躍の場の提供をしている。

トラブルを多く起こしがちな子どもは、教師及び子どもたちのトラブル解決能力を向上させているともいえる。

掃除が苦手という子ども、コミュニケーションが苦手、話すのが苦手、じっとしているのが苦手、全て同じ理屈である。


そういう中で、苦手、できないを放置しないのが教育における必要な「強制・矯正」である。


できないで困るという状態を矯正できるようにする。

これを助けるのは教師はもちろん、それが得意な子どもたちである。


他の権利を大きく侵害するような行為の是正に関しては「強制」することもある。

これは教室の責任者たる教師の役割である。


つまり、教室では、教師と子どもも「共生」していく必要がある。

立ち場の上下はあれど、同じチームの仲間である。

だから子どもに教師が教えてもらう、矯正してもらうことも多くある。

教室で教師に気付きを与えて成長させてくれるのは、子どもたち以外にない。


子どもが育つほど、教師も育つ。

教師が育つほど、子どもも育つ。

教室は、そこで生活する全ての人間にとっての共生の場である。

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