2016年8月30日火曜日

夏休みの宿題忘れにどう対応するか

以前の記事の再アップ。

夏休みの宿題のねらいは何か。

本来は「生活習慣の形成」であると思う。
「ダラダラ防止」である。
これには、日記のような、日々やらないといけない課題が適切である。
毎日コツコツ続けることで、学校がある日に近い理想的な学習習慣をねらう。
(しかし、大抵ねらいが達成されないのも、この課題の持つ問題点である。)

自由研究や工作の場合はどうか。
「長期休みならではの豊かな体験・継続的な活動」
「創造性を育む」
「自由な表現の場」
というあたりでないかと思われる。

本来の目的とは別に、自由研究や工作を「親子のふれあいの場」とも捉えられる。
正直、低学年の子どもが自力で全てやるのは難しい。
「海の生き物を調べたい」となれば、海に連れて行く必要が出る。
写真を撮ったりプリントしたりも手伝う。
まとめ方や書き方も、一緒にアドバイスしながらやる。

本来は「全部自分でやらせればいい」と思うが、理想論であって現実的でない。
授業で算数の問題を解く時と同じである。
自力でどんなに考えたって、わからないものはわからない。
「自律と自立」が基本なので、自力でやれることは極力手を出さないが、やれないことは手伝う。
親と子どもが協力する場となる。

逆に考えると、親が協力できない環境にある子どもには、本当に厳しい課題となる。
どこにも連れて行ってもらえない子どももいるかもしれない。
一緒に課題をやれない家庭もあるかもしれない。
たくましい子どもや要領のいい子どもなら、それでも何とか終わらせるだろう。
可哀想なのは、そうでない子どもたちである。
そういう子どもにとっては、どうしたらいいのかわからないまま、夏休みが終わることとなる。

始業式、夏休みの課題をたくさんの子どもが持ってくる。
中に、忘れる子どももいる。
担任として「忘れました」ならまだしも「やってません」は、「1ヶ月もあったのに!?」と思う。

ここで、一呼吸。
家庭環境に思いを馳せることが一つ。
もう一つは、我が身を振り返ること。
自分自身「夏期休業中にやるべきことは完璧にやれました」と胸をはって言えるか。
自律の力が高い(はずの)大人にだって難しい。

どう対応するか、マニュアルは無い。
ここは子どもによって、多少違いが出る。
ただし芯は「育てる」ことである。

宿題忘れを、予想しておく。
忘れたら、「想定内」の対応。
もし持ってきたら、めちゃくちゃ褒める。
2学期をお互い気持ち良く過ごすために、こんな作戦でいってみた。
(結果、最終的に全員きちんと課題提出が完了し、めでたしめでたし。)

2016年8月29日月曜日

男女を混ぜる乳化剤は、担任

前号の続き。
高学年以降の男女は、放っておくと混ざりにくい。

では、混ざらないから諦めるかというと、それも違う。
混ざらないからこそ、学級担任は、混ぜるのである。
水と油は、混ざらない。
しかし、乳化させる成分を入れれば別である。
担任は、「乳化剤」になる必要がある。

ペアを組ませて活動させるなど、色々と手を打つのだが、通常、なかなかやらない。
恥ずかしいのである。
自分だけ積極的になると、浮く感じがする。
だからこそ、「大義名分」が必要になる。
「先生がやれとうるさいからしょうがなくやっただけ」という体をとらせる。
「ちょっと先生のお願いに付き合ってよ」という感じである。
「仕方ないなぁ」という感じに、元々男女が混ざれないことに違和感を感じていた数名が動く。
この繰り返しで、ある時一気に混ざる。
しかし、放っておけば、また分離する。
だから、また混ぜる。
この繰り返しである。

放っておけばできないことを、できるようにする。
教育そのものであり、大切な役割の一つである。

2016年8月27日土曜日

男女の差をどうするか

高学年を担任すると、確実に起きるのが、男女がうまく混ざらないという状態である。
なぜそうなってしまうのか。
男女の区別が日常の中に溢れているためである。
ファッション。
公共のトイレや風呂。
学校自体にも男子校、女子校もある。

男女の差。
ジェンダーフリーであっても、男女の差は当然ある。
(ジェンダーフリーは男女の差をなくそうという思想ではない。
 あくまで固定的な性役割からの脱却であるという。)
男性としての権利、女性としての権利というのも別にある。
身体構造や機能特性が違う以上、完全な同一視をされては不都合が生じる。

ある意味でそれは個人の差である。
身長や体重が違えば着る服のサイズが違うということと同じである。
その個人なりに適した権利というものがある。
様々な個人内の差の特徴的なものの一つとして、男女差もあるといえる。
(だからこそ、個人内で身体と精神の「男女」が、多数派と異なる人は、理解されずに苦しい思いをしやすい。)

男女混合名簿は、そうした壁を取り払おうという意図のあるものであった。
しかし、実際は保健などでは男女別が必要となり、二度手間である。
身体構造が違うという前提では、混合名簿はなじまないのである。

他にも社会や学校の文化には、男女の差を意識させるものが多い。
小さい頃からその傾向が見られ、おもちゃコーナー一つとってもそれが顕著に表れている。

この意識の差を完全に取り払うのはなかなか難しい。
男女の別は文化として、意識の奥深くに根付いてしまっている。
だから、知識としてLGBD等の存在について理解しても、受け容れられない人も当然出る。
子どもより大人、年配者の方が受け容れにくい傾向があるのは、「男女の差」が大きい時代に長く触れたせいもあるかもしれない。

次号、この混ざらない男女をどうするかを考えていく。

2016年8月25日木曜日

夏休み明け 最初に伝えること

再録。

夏休み明け、子どもに会った時、まず何を伝えるか。
指導すべきこと、やりたいことはたくさんある。

道具の確認。
宿題。
二学期の決意表明や目標。
夏休みの学びや思い出の共有。
遊びやレクなどの楽しい活動。
授業や生活のルールの再確認。
学級委員の決定。
掃除や当番の仕組みづくり、等々。
具体的に挙げるときりがないほどある。

私の場合、一番に伝えることは、子どもが今ここにいることの喜びである。
この場に集まって顔を合わせることができたことの喜びを伝える。
夏休み明けは、結構しんどい気持ちになる子どももいる。
中には、宿題ができずに重い気持ちで来ている子どももいるかもしれない。
それでも、この場に来て顔を合わせられたことは、有難く嬉しいことである。

病気や不登校気味で来られなかった子どもを考えると、価値の高さがわかる。
学校に来たら、まずはそれだけで100点。
夏休み明け1日目は、何はともあれ久しぶりに会えたことを歓迎したい。

2016年8月23日火曜日

〇〇が苦手な子どもがいた時の指導の心得

明治図書の「教育zine」というコーナーに連載させていただいている。
前回は「水泳が苦手な子どもがいた時」というタイトルで書いた。
http://www.meijitosho.co.jp/eduzine/pe4class/?id=20160458

今回のポイントは次の3つ。
1 恐怖感・不安感を理解する。
2 習得すべきポイント(ステップ)を細分化する。
3 仲間と一緒にやる・楽しさを一つまみ。

これは水泳指導に限ったことではなく、指導全般の共通ポイントである。
特に、何かに「苦手」という意識を持った子どもには必要なポイントになる。

何かの参考になれば幸いである。

2016年8月22日月曜日

教師はクラスの「長老」

度々子どもに語ることが、「自分のクラスにしていこう」ということ。
特に憲法や政治について学ぶ6年生相手なら「脱・先生君主(専制君主)」を呼びかけ続ける。
4月の最初は、教師のやり方で引っ張る面が多くていい。
最初はとりあえずでも、たたき台となる仕組みやルールが必要になる。
しかし、それも5月、6月、7月と進むにつれ、段々と権限委譲をしていく。

理想は全てを子ども自身のクラスにすること。
自分たちでルールを決め、自分たちで文化をつくり、自分たちで問題を解決し、自分たちで学習を進める。
このチームには教師という立場の「長老」がいて、困った時には助言をもらえる。
(そして、「長老」は集団内唯一のお年寄りということもあり、食事を用意してもらえるなど、結構いたわってもらっている。)
しかし、長老はあくまで長老。
集団の中心を担い、活動を推進していくのは、若いメンバーたち自身である。

子どもたちの、将来を見据える。
手放した後のことを考える。
いつでも意識すべきことではないかと思う。

2016年8月17日水曜日

なぜかクラスがうまくいく教師のちょっとした習慣

先月、次の本の著者である俵原先生のセミナーを受けた。
『なぜかクラスがうまくいく教師のちょっとした習慣』俵原正仁 著 学陽書房
https://www.amazon.co.jp/dp/4313652124

この本のあとがきに、次のように書いてある。
===================
(引用開始)
私の好きな言葉に、次のようなものがあります。
「相手がワルツを踊れば私もワルツを踊り、ジルバを踊れば私もジルバを踊る。(ニック・ボックウィンクル)」
これは、相手のスタイルに合わせて、つまり相手の持ち味を十分に引き出すのが私の役目、という意味です。
もちろん、私は教師ですから、この言葉を教育に置き換えて考えます。「相手」はもちろん「子ども」です。
つまり、目の前の「子ども」ありきということです。
(引用終了)
=====================

この先生も「はじめに子どもありき」である。
本来当たり前のことなのだが、意外とつい逆のことをやってしまいがちではないだろうか。
ついつい、教師の側の教えやすさや都合を優先して、自分に合わせさせようとしてしまう。
「クラス会議」を推進している上越教育大学の赤坂真二先生も強調している点である。
この、「子どもありき」の基本姿勢こそが、タイトルの「なぜかクラスがうまくいく教師のちょっとした習慣」ではないかと思う。

どんなに優れた技術を身に付けようと、人格を身に付けようと、教師の力によって先導しているのであれば、将来的な子どもの幸せにはつながらない。
あくまで、目の前の子どもに合わせる。

それは決して子どもにおもねる(阿る)ことではない。
例えるなら、今その人に合ったサイズ、趣味の服を一緒に探すということである。
たまたま教師と同じ趣味にはまることも稀にはあるが、多くは違う趣味のはずである。
違う趣味やサイズの服を無理矢理着せることはできない。
それができる相手は、着せ替え人形である。

子どもは、それぞれの人格を持っている。
自分に似合う服、好きな服がわかっている子どももいれば、そうでない子どももいる。
お勧めすることはできるが、選ぶかどうかは子ども次第。
親や教師の考えとは全然違うものを選ぶかもしれないが、それも自分で決めたなら大成功。
寄り添い一緒に探す手伝いしかできない。
自分で探す力をつけさせるのが、学校である。
親や教師の趣味に合わせて、上手に服を着替えられる子どもが育ってしまったら、大失敗の極みであると思う。

まずは、子どもありき。
いつでも心にとめておきたい言葉である。

2016年8月16日火曜日

戦争と平和 ~終戦記念日の花火大会に思う~

昨日は、終戦記念日。
日本が降伏を宣言した日である。
見方を変えると、日本国民が長い戦争から解放され、国の再生が始まった日でもある。

死と再生、終わりと始まり、それぞれはセットである。
アンチのものは、互いが相対的に存在する。
生があっての死。死があっての生。
始まりがあっての終わり。終わりがあっての始まり。
始まりがあって終わりがないという「永遠」の存在は物理学的にも未だ決着のつかない深いテーマである。

戦争と平和はどうか。
よく対比して捉えられるが、この二つは、アンチではないと考える。
なぜなら、戦争があっての平和ではない。
戦争が存在しなくても、平和という状態はあり得る。
他と奪い合わなくても共存できる。

だから「原爆が落ちたから平和になった」という論理には、断固反対である。
「戦争が終わったから平和になった」だけならまだわかる。
平和に終わらせる方法は、他にいくらでもあったはずである。
他の明確な目的があった上での言い訳、後付けの理由にしか聞こえないのである。

そして戦争は、WIN-LOSEの関係ではなくLOSE-LOSEの関係である。
勝負に勝っても負けても深い傷が必ず残る。
勝っても負けても相手国とがっちり握手ができる、オリンピックのような「競争」との決定的な違いである。

一方で、戦争を知ることで平和を知るという一面はある。
病気になって初めて健康の有り難みがわかるのと似ている。
普段当たり前すぎると気付かない。

原爆ドームは「負の世界遺産」として有名である。
あれを見ることで辛かったことを思い出す人もいるだろうし、その悲しみの深さは想像し難いが、存在意義は確かにある。

昨日、木更津市は花火大会だった。
花火を見ると、火薬も使い方次第であるといつも思う。
そして同じものを見ている教え子たちには、終戦記念日であることも心のどこかにとめておいて欲しいと願う。

終戦記念日に見る花火は、いつもと違って見えた気がした。

2016年8月14日日曜日

無常識への対応

非常識という言葉がある。
変わり者という意味でも使われるが、割と否定的な言葉である。
あくまで「常識」を知っているであろう前提であることが多い。

ある本で「無常識」という言葉を見た。
常識が無い、つまり、前提がない状態である。
教えてもらってない状態である。
要は、本当に知らない状態である。

組織内での無常識は、本人よりも教える立場にある人の責任である。
特定のコミュニティ内でしか通用しないものは、当然知らない。

例えば、教育実習生は無常識状態である。
学校職員の細かいルールなぞ知る由もない。
それは、こちらがきちんと教えるべきことである。
本来、気付いたり発見するものではない。

子どもは、家庭環境にもよるが、無常識状態である。
知らないから、教える必要がある。
それを教えないで、できないから叱るということをされては子どももたまらない。

その行為は非常識なのか、無常識から来るものなのか。
いずれにしろ指導はするが、見極めが肝心である。

2016年8月12日金曜日

成功イメージを持って指導する重要性

クラス会議での気付き。

今年度は、4月からなるべく子どもの活動を見守るようにしてきた。
多少失敗しても、自分たちで学べばいいと。

しかし、この方法の結果は、想像していたのと違った。
我慢して見守るだけだと、目指す方向とはほど遠い状態になる。

なぜなら、失敗しても、それを認識できないからである。
それは何が良いのか悪いのかが明確でないためである。
つまり「良い状態」のイメージが共有化されていないということである。

具体的に言うと、例えば円を作って座る時。
円ががたがたでも全く気にしない。
男女くっきり分かれて座っていても、それが普通。
遅れて円に入れない人がいても気にならない。
自分がでーんと座っているから円が動かないことにも気付かない。

そういう状態である。
「そこを気付くまで待ちましょう」という手もある。
あるにはあるが、どれぐらい待てば果たしてその「問題点」に気付くかである。
時間が無限にあればそれも可能だが、時間は有限である。

何が言いたいのかというと、未知の状態からは指導をしないと良くならないということである。
指導の仕方が問われるのであって、指導そのものを放棄してはならないということである。
「主体的」を目指すアクティブ・ラーニングは、放置では成り立たない。

教師の思う理想状態に近づけるのが、必ずしも良いこととは限らない。
しかし、理想状態を持たない教師のもとでは、子どもは育たない。
そして、それを機会を見つけて伝えていかないと何も変わらない。
たとえファシリテーターの役に徹するとしても、その役に徹しながら、やはり導くのである。

私の尊敬する師である野口芳宏先生は、
「指導とは、ちょっとの無理をさせ続けること」
という。
ちょっとの無理が、子どもを伸ばすのである。
少し負荷がかかるから、強くなるのである。

イメージなきところに、成功はない。
指導を怖れていては、指導者とはいえない。
クラス会議をやっていたからこそ見えた課題である。

2016年8月10日水曜日

蒸し暑さを無視しない

体と心の話。
体と心はリンクしていて、互いに影響を及ぼすのは周知のことである。
運動することで脳が活性化し、精神面も安定するといった相互作用もある。

例えば水泳。
水が怖ければ、体は硬くなる。
硬くなれば、沈む。
自明の理である。
これは逆を言えば、「怖さをなくす」「体を柔らかくする」のどちらか一方ができれば、他方もうまくいくことになる。
水泳指導について、オンライン連載での記事を書いたのでご覧いただきたい。
http://www.meijitosho.co.jp/eduzine/pe4class/?id=20160607

ところで、最近急に暑くなりだした。
こういう時は、危険である。

「いらいらする」と「体温の高さ」は、セットだからである。
つまり、暑ければ、いらいらする。
ついでに、呼吸も浅くなる。
まず、この自覚が大切である。

「暑い」と「いらいら」どちらが手をつけやすいか。
前者である。
「暑い」という体の現象は、冷房でも何でも対応できる。
「いらいら」という精神状態自体をコントロールするのは、難しい。
だから、「暑い」の方を対処する。

気圧も気温も日照も影響する。
満月なども心と体に影響するらしい。
自然の影響力は、無視できない。

妙に疲れたりいらいらするのは、直接的には目の前人のせいではないかもしれない。
それは昨日がんばって残業して寝不足なせいかもしれない。
単にお腹が減っているだけかもしれない。

体と心の相互影響。
コントロールできそうな方に手を付ける。
結構大切なことであるように思う。

2016年8月8日月曜日

「当たり前」でない平和を考える

先日のヒロシマから、ナガサキ、終戦記念日と続く。
平和について考える時期である。

平和も「当たり前」になってくると、ニュースにならない。
復興の進まない東日本大震災の被災地がニュースにならないのも、異状事態が「当たり前」化しているためだろう。
目の前のことに忙殺されていると、大切なことに気付かない。
だから、記念日として設定されていることは意味がある。
こういった記念日はいくつかあるが、8月のこの3日間は、日本人にとって特別であると思う。

国際化が進むほど、自国の歴史を知る重要性は増す。
アメリカや中国をはじめ、アジア諸国やヨーロッパ諸国を相手にする時、どんな歴史観を持っているかは重要である。
ほぼ100%に近い国が、自国の歴史に誇りを持っている。
そして、どの国とどんなことがあったかも、よく教えられている。
原爆の経緯や被害、是非について語れることは、国際舞台における日本人の必須項目である。

どんなに学力が高くても、ここが抜けては意味がない。
アクティブ・ラーニングで言われるところの「対話的な学び」「深い学び」がここである。
相手と対話しながら、自分の頭で考えて語れるかが勝負。
そのためには、まず知識。
だから、勉強は意味がある。
特に歴史の授業は、好き嫌いとか面白いどうこうではない。
前提となる知識がないとどうにもならない。
他教科とは一線を画す必須の学習である。(もちろん、好きな方が理解が深まるので良い。)

丁度始まったオリンピックと共に、歴史と平和に思いを馳せる機会にしたい。

2016年8月6日土曜日

『学校でしなやかに生きるということ』

「常識」や「当たり前」に合わせるのは苦しい。
しかし社会や学校の中には、この常識や当たり前がかなり多い。
(「かなり多い」というのも、相当控え目な言い方である。)
平均点を当たり前にとれることを求められる。
これほど個性重視が叫ばれていても、やはり全体としてその傾向は否めない。
ある一定の知識や技能を習得することを定められた学校という機関の宿命かもしれない。

体育などでも悩むところで、「全員」ができるのを求めると厳しい。
全員ができる良さもあるのだが、できなくてもそこに学びや価値があればいいと思う。
「全員をできるようにさせよう」とすることと、
「全員にできることを求める」ということは、
似ているようで全く違うということである。

そんなことを思っている折に、いい本に出会った。
『学校でしなやかに生きるということ』 石川 晋 著 フェミックス
http://www.amazon.co.jp/gp/bestsellers/books/500322/ref=pd_zg_hrsr_b_1_5_last

北海道の中学校教師である石川晋先生の新刊である。
「はじめに」の言葉からして、考えさせられる。
「善意ほど人を苦しめるものはないのだ。」
これは、初任者研修についての言葉なのだが、ぎくりとさせられる言葉である。

「自分がされて嫌なことは、人にしない。」
私の学級で約束事として最初に話したことなのだが、私自身ができているだろうか。
横並びが大嫌いなくせに、子どもにも求めている自分に気付く。

そんな矛盾を自分も感じているという人には、ぜひ読んで欲しいおすすめの一冊である。

2016年8月4日木曜日

本能的欲求から行動を考える(トカゲが好き)

夏といえば、何だろうか。

そう、夏といえば、トカゲ。
間違いない。
正解である。
漢字で蜥蜴または石竜子。
読んで字の如く、夏になると、石やら壁やらにはりついているミニ恐竜のようなアレである。

ところで、みなさんは、トカゲに出会ったら、どうするだろうか。

どうもしない人もいるかもしれない。
私は、ほぼ必ず、捕まえにかかる。
理由はない。
捕まえて飼おうとかいうこともない。
捕まえたら、ひとしきり眺めて、後は逃がすだけである。
できれば、誰かに見てもらって、感想なぞ述べてもらえたら最高である。
とにかく捕まえたい衝動にかられる。
だから、捕まえにかかる。

幸いにも、我が家の庭先や玄関近くに数匹住んでいる。
だから、休日はとりあえず外に出てトカゲをつかまえてみる。
そこから一日がスタート。
爽やかである。

ちょっと急いでいる時であっても、いたら捕まえたい。
街中などで見つけると困る。
さすがに、大の大人がスーツ姿でトカゲを捕りにかかる訳にはいかない。
そういう時だけは、非常に心残りだが、捕まえるのを諦める。

捕まえる時の自分なりのコツは、とにかく上(やや後方)から一気にいくこと。
しっぽよりも本体の側をがばっと掴みにかかる。
後退して逃げることはないので、結果的にしっぽをつかむこともある。
動きはそこまで速くない。
ただ、気配には結構敏感なので、手を近づけて躊躇してるとササッと逃げる。

捕まると、9割方噛みついてくる。
しかし、痛くはない。
彼らに、かつて恐竜だった頃のアゴの強靱さはない。
正直私にとっては無駄な抵抗だが、慣れないとびっくりして手を離すことがあるので、トカゲ的には割と有効打のはずである。

なぜ、捕まえたくなるのか。
多分、動物的な本能の欲求なのだと思う。
プチプチを潰すと嬉しいのも、かさぶたをはがしたくなるのも多分本能。
ダンゴムシを大量に捕まえてペットボトルに集め、先生や親に見せたくなるのも多分本能。
(ネコがネズミを捕まえて見せるのにすごく似ていると思う。)

本能的欲求という視点から見ると、子どもの不可解な行動の見え方も変わるように思う。

2016年8月2日火曜日

ブレイクスルーは拡散する

クラスで一つの運動に取り組んでいると、ある日急激にできる子どもが増える時がくる。

最初の数人は、何も教えなくても見よう見真似ですぐできる。
これは、運動能力の高い子どもたちである。
周りの子どもたちも「〇〇さんはやっぱりすごいなぁ」という感じである。

それ以外の数人の子どもが、運動のコツをつかんで、できるようになる。
そのコツを仲間に伝達する。
しかし、すぐにはできない。
停滞期が来る。

しかしこの後、なかなかできずに、もがいていた子どもの内の一人ができる瞬間が来る。
すると、これが「ブレイクスルー」の瞬間になり、瞬く間にできる子どもが増える。
自然界の現象で、一つ花が咲くのに続いて、一斉に咲くのと似ている。

今までできなかった仲間ができたという事実は、「自分にも」という期待を喚起する。
この一つの事実は何よりも強力である。
この一つの事実を作り出すまでが教師の大きな仕事の一つといえる。

この後は、子どもたちの持つ教育力がどんどん発揮される。
子どもの持つ教育力は、教師一人が持っている教育力をはるかに凌ぐ。

まずは、一つの事実を大切に作りたい。
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