2011年12月31日土曜日

ご挨拶

一週間程、バカンスをいただき更新をストップしていました。

楽しみに見てくださっている方には申し訳ありませんでした。

来年度もぼちぼちのペースで更新しますので、よろしくお願いいたします。

皆様、良いお年を。

2011年12月30日金曜日

子どもの自己肯定感を高める

以前にも書いたが、日本の子どもの自己肯定感は低い。
世界でぶっちぎりの低さである。
もはや、奥ゆかしいとか謙虚とかのレベルではなく、情けないぐらいである。

自己肯定感の低さは、自分を認められないところからくる。
そして、自分を認めない人間は、他人も認めない。
「どうせあなたもそうなんでしょう」となりやすい。
結果、社会が荒れる。

なぜこうなってしまったのか。

自虐的歴史感だとか、日本人の気質だとか、様々あるとは思う。

ただ、教師として何ができるのかを考えた時、やはり「できるようにさせること」は外せないように思う。

(次号に続く)

2011年12月23日金曜日

残業の常態化を防ぐ

「自分にばかり仕事が任せられて、無理なんです。」と嘆く声がある。
「自慢ですか?」と言いたくなる。
仕事をたくさん任せられるなんて、ありがたいことである。
嫌なら、自分の無能さを示せばよい。
すぐに誰も自分に頼まなくなり、仕事がなくなる。
仕事がたくさんくるのは、全部きちんとこなしているからである。
本当に無理なら、(いや、無理でなくとも)人に回すべきである。(理由は、以前書いた。)

残業は、時に絶対必要である。
やるべき時にいい加減な仕事をするようでは、信頼されない。
「今日はやる」と心に決めてやる。
しかし、常態化は避けたい。

2011年12月21日水曜日

子どもは鏡

子どもに「何でこんなことができないんだ」と怒りを感じる。
これは、まず間違いなく、自分ができていないことである。
(これについては、ずっと前にも書いた。)

「教師は子どもと共に学ぶ」ということがよく言われる。
本当に、そうだと思う。
至らない自分を、子どもが示してくれる。
教える立場でありながら、やはり子どもに教えられているのである。
(だからといって、教師と子どもが平等だなどという訳ではない。)

自分のクラスの子ども達に「できてないなぁ」と悩む点があったら、自分を振り返るといい。
子どもは、「鏡」である。
鏡の中の姿を一生懸命変えようと、鏡を磨いても無駄である。
「過去と他人は変えられない。変えられるのは、自分だけ。」
誰が言ったか忘れたが、名言である。
そこにしか、解決策はない。

2011年12月18日日曜日

自分はできるのか?

「新たな定理を生み出す」というような高尚な行為は、数学者の領域である。
小学生に求めるのは、完全に間違えている。
「0」という数だって、今でこそ幼児でも普通に使うが、かつての数学者の偉大なる発見である。
凡人に「考えて」生み出すことなど到底できるものではない。
「0なんて簡単」と考えている子どもがいるとしたら、結構な勘違いである。

「数学は考える教科、ひらめきの教科で、答えを見ると思考力が育ちません」という方向の考え。
本当だろうか。
小学校の算数は、考える段階ではない。
本当に算数を考える教科であると主張できる人は、大学レベルの数学を解く人である。
(あれは、一般の人には、解けない。何が何だか意味不明である。)
多分、そういう数学者の人達も、算数を「考えて」解いた経験はないはずである。
ガウスのような子ども時代からの天才を引き合いに出す人もいるが、あれは「天才」である。
自分達とは違う。

どんなにいいことを言っても、子どもは、背中をよく見ている。
後ろから見られているから、見られている方は気付かない。
実は後ろで、真似しているのである。
後方にいるものだから、言葉は届かず、姿だけがコピーされている。

子どもに求める姿があるなら、まず自分がそうなろう。
算数の授業で教科書を見せずに問題を解かせたい人は、まず自分が数学の問題をやってみることが大切だと思う。

2011年12月16日金曜日

算数・数学における自力解決とは

「自分の頭でよく考えて解きましょう」
「教科書は見てはいけません」
・・・結構、多くの教室できかれる言葉だと思う。
この二つの言葉は、同時に用いると、矛盾する。
だから、同時に使ってはいけない。

受験勉強を考えるとすぐわかる。
塾に通って解法を教わった生徒と、自宅で参考書を片手に「自力」で解いている生徒。
どちらが「自力解決」しているだろうか。
後者である。
前者は、塾の講師に教わっている点で、「自力」という点においては劣る。
後者は、参考書をよく見て、自分の頭でよく考えて、「自力解決」しているのである。

つまり、大学入試レベルまでの、数学の勉強における自力解決の力とは、「書物を見て理解する力」なのである。
「教科書の解説と解法を見て理解できる」という力が、その後の生きてはたらく力なのである。
それを見ただけでわからない子どもがいるから、教室で教えてやるのである。

算数や数学は「適切な解法パターンの選択」である。
「解法パターン」が本人の中にインストールされていることが前提である。
漢字テストと一緒である。
それを選択する過程が、問題を解く際の「考える」である。
無から有を生み出す行為ではない。

そんなことしたら子どもが考えなくなるという人がいたら、どこかの大学の数学の入試問題でも提示したらよい。
多分、5分もしない内に諦めると思う。
そしたら「よく考えましょう」「答えは見ちゃダメですよ」って。

そう考えると、結構子ども達に辛い思いをさせているのがわかると思う。

2011年12月12日月曜日

算数や数学が「わかる」状態とは

算数や数学が「わかる」とは、どのような状態を指すのか。
「数学的思考」が優れているとは、どのような状態を指すのか。

諸説あるが、私は「見た瞬間に解法が浮かぶ」状態であると考える。
つまり、10分も20分も考えることではない。
わかる人には0秒で解の大まかな方向がわかる。
それが、理想形だと考える。

私は中高の数学の免許をとるために、大学の数学を嫌というほどやったので、その辺りは多少わかってるつもりである。
全く見たこともない問題は、全くできない。
見たことある気がしても、解法を思い出せない問題は、できない。

そんな困った問題に、どう対応するか。

教授の書く解法をノートに煙が出るスピードで写し、後で必死に覚えるのである。
そうすると、だんだんわかってくる。

「参考書に頼らず、自力で考えよう」などと本気でやっていたら、大学卒業を迎えてしまう。
(いや、単位が取れないので、留年か。)
そんな問題の解法を必死で考えるなど、馬鹿馬鹿しいことである。

漢字に置き換えるとすぐわかる。
書けない漢字がある時、「一生懸命考えましょう」「相談しましょう」ということはありえない。
無駄である。
ないものは出ない。
さっさと正しい漢字を見て覚えればよい。

算数では、なぜかこれが認められない。
「自分の力で、一生懸命考えましょう」となる。
無理である。
ないものは出ない。
わからない者同士で何人集まっても、やっぱり出ない。
さっさと正しい解法を見て、解説をきいて覚えればよいのに、なぜか認められない。
ひどいと、「教科書は答えが書いてあるから見てはいけません」となる。
(そして、残念ながら、そういう人に限って、自分自身は数学が苦手で嫌いである。)
(次号に続く)

2011年12月10日土曜日

算数・数学を「楽しい」と感じる瞬間とは

前号の続き。
算数好きを増やしたい。
楽しいなら、好きになるはずである。
つまり、楽しくないと感じている子どもが多いのである。

なぜか。
わからないからである。
もっと砕くと、「正解できないから」である。
正解するには、解法が必要である。

6×4=?
さあ、考えてみましょう。
と、やったとすると、何か考えるだろうか。
否。
「24」と即答である。
しかし、考えるとは、「6×4=24だが、そもそもかけるとはどういうことなのか」
というようなことを探る行為である。
そういう深遠な哲学的思考は、小学校段階で求められることではない。
せいぜい、「6×4とは、6のかたまりが4つあることです。」ぐらいでいい。
6+6+6+6との違いを考えるのは、ずっと後でよい。
「24」と即答できたら、子どもは自信満々、得意満面である。

つまり、わかりもしないことを延々と考えさせるから、つまらないのである。
別に乗法の意味を考えるとかではなく、例えば割合を求める問題で式が思い浮かばない場合も、同じである。
どんなに考えたところで、とんちんかんな解が出るだけである。
だったら、さっさと答えと考え方を教えてやり、適用題でできるようにさせてやればよい。
そこでできなかったら、答えを見て次の問題でできるようになればよい。
やる内に「できた!」が実感できる瞬間を作ればよい。
それで、最終的にテスト段階でできたら、万々歳である。
できれば、楽しいし、好きになる。
要は、できるようにさせることである。
考えさせるのは、手段であり、目的でも目標でもない。

できるようにさせることが、算数好きを増やす。
(当たり前すぎて書くのも恥ずかしい。)
なぜ、あえてできないものに悩ませるのか。
奇々怪々な小学校算数界の常識である。

2011年12月8日木曜日

残業は「させてもらう」

すごく反感を買いそうだが、残業は「させてもらう」ものだと考えた方がよい。
「方がよい」というのは、そう考える方が本人の精神の為にも、健全な気がするからである。

残業や時間外労働は、自分の時間を削られているようで、損した気分になるかもしれない。

しかし実際は、それだけの仕事を信頼して任されていているということである。
他の人に任されず、自分に任されているのである。
そしてそれを、責任持ってやり遂げたいから、残業している。
他の人に任せられない、自分にしかできない仕事だから、残業している。
そういうプライドを持ってやっているのだったら、大いにやってよいと思う。
ただし、間違っても愚痴ったり、文句を言ってはならない。
全て自分の「選択」である。
「そんなことない」と言うかもしれないが、そんなことある。
この職業だって、自分で選んで切望してなったはずである。

「全ては私の責任です」
経営コンサルタントの青木仁志氏が「たまらなく好きだ」という言葉だが、私も大好きである。
この言葉を発する時、否定的な気持ちは微塵もない。

残業一つとっても、自分の選択であり責任である。
思いっきりやり遂げてやればよいと思う。

2011年12月5日月曜日

教師の仕事は天職か

銀座クラブの経営者、ますい志保さんの本に
「給料の倍働けば、夢は叶う」というようなことが書いてあった。

作家の本田健さんは
「給料なしでもやりたい仕事か」
「給料と同額を支払ってでもやりたい仕事か」
この辺りを、「ライフワーク」(天職のようなもの)の定義としている。

自分にとって、教師の仕事はどうだろうか。
現在の自分を考えると、さすがにお金を払ってやる訳にはいかないと考える。
(生活が成り立たない。)

しかし、もし十分なお金が自分にあり、払える状況だったらどうだろうか?
それでもやりたい仕事か?
もしそうなら、完全に天職である。
無給でもやっていいというなら、相当好きだと言っていい。
そんなのとんでもないというなら、お金の為に働いている可能性がある。

何の為に働いているのか、振り返ることがあってもいいと思う。

2011年12月4日日曜日

傍を楽にする

仕事は、働いた量ではなくどれだけの価値を提供したかで決まる。
働くとは「はた(傍)をらく(楽)にすること」ということを言った人がいる。
その通りで、周りの人にとって価値があることをした時、初めて「働いた」といえる。

つまり、決められたことをそのままやったのは「労働」ではあるが、「働いた」とはいえない。
決められたこと以上の価値を提供した時、初めて「働いた」といえる。

ルーティーンワークに追われている限り、「働く」ことはできない。
当たり前の仕事に、プラスアルファの価値の提供、ここに全力をそそぐべきである。

2011年12月3日土曜日

給与と自分の価値

給与とは、仕事への対価として支払われる。
自分の提供した価値に対して支払われる。

教師の給与は高いのか低いのか。
それは、その人の提供した価値による。
給与以上の価値を自分は提供していると、はっきり言えるか。
これは、なかなか難しいことだと思う。

特に資金の出所が公共であるため、世間を納得させるほどでないといけない。

もし給与が低いなぁと感じていたら、こう考える。
自分が自分の雇い主なら、この人にどれぐらいのお金を支払うか。

意外と、もらいすぎかもと思うこともある今日この頃である。

2011年12月2日金曜日

教師は最高の職業

人の役に立てるというのは、仕事をする上で最高のモチベーションになる。
教師は、その意味で、非常に恵まれた職業であるといえる。
例えば何か物を作る仕事だと、それがどう使われているかを見ないと、直接自分が役立ってる実感は持ちにくい。

教師は、常に役立つ自分を実感できる。
感謝してくれる相手が目の前にいつもいる。
こんなに幸せな仕事はどこを探してもなかなかないと思う。

採用試験の時には、あれほど切望してついたこの仕事。
感謝の念を持って毎日の仕事をしたい。

2011年12月1日木曜日

教師生活で何を目指しているのか

私は自分の学校に採用試験を受ける講師や実習生が来ると、必ず尋ねる。
「何で先生になりたいの?」
明確に答える人は、ほとんどいない。
「子どもが好き」「教える仕事がしたい」「子どもと楽しく過ごしたい」
面接なら、どれも×の回答である。
教師という職業において、それはやりたい理由ではなく、「前提」である。
(子どもが嫌い、教えるのが嫌いな教師に、誰が教わりたいというのか。)

やはりこういうことには、自分なりの具体的な理由や夢を語れるようにしたい。
例えば、
「自分は子どもの頃いじめられていた。
辛い思いをしている時、先生が助けてくれた。(または助けてくれなかった。)
だから、自分は教師になって、辛い思いをしている子どもを一人でも多く救いたい。」
具体的なエピソードや経験から、何を目指しているかまで答えられたら、芯があると判断できる。
(嘘はいけない。)

私も明確にある。
日々の実践も、メルマガ発行も、全て自分の目標に向かっての行為である。
目標に向かって、毎日0.1%の成長をすること。
これが私の日々の目標である。
1ヶ月すれば、3%成長、1年で何と36%も成長する。
(実際、そううまくいかない。下がってる日もある。)

「何のために教師になったのか」は、教員採用試験を受ける人のためだけの問いではない。
既にこの職業に就いている、全員に常に投げかけられている問いである。

2011年11月30日水曜日

なぜあなたは教師になったのか?

読者の方から、メルマガに書いた「塾と学校の違い」の回についてのご意見をいただいた。
以下、引用する。

>さて、「塾と学校の違い」についてですが、私もまったく同感です。
>うちの若手に「なぜあなたは教師になったのか?」と問うてみたことがあります。

>彼女は子供に勉強を教えたいからだと答えました。特に高学年で社会科を教えたいと。

>それはそれで教師になった理由の一つかもしれませんが、私は物足りなさを感じました。

まさにその通り。
勉強を教えたいだけなら、塾講師になった方がよい。
そこに特化した仕事ができる。

仕事とは、自分の価値の提供である。
言うなれば、貴重な時間の切り売りである。
自分にしかできないことをした方がいい。
自分がワクワクすることをした方がいい。

なぜ自分は教師になったのか?
教師人生に慣れてきてしまった人ほど、もう一度振り返るべき問いである。
(次号に続く)

2011年11月29日火曜日

任せて任せず

仕事を振るというのは、その人を信用しているということである。
傲慢で「自分以外は無能だ」「自分がやらなきゃ」と思っている人は、他人に仕事を振れない。
つまり、自分で全部やる人は、見方を変えると、他人を信用していないのである。
一教諭の身でありながら全部自分で責任を負うと考えるのは、傲慢でありナルシストであるともいえる。

病気でも学校を休まない人にも、これは当てはまる。
「自分がいないと、クラスが・・・」と思っている。
大丈夫。
地球がちゃんと回るように、自分がいなくても、学校の仕事が回らなくなることはない。
ちょっと寂しいことだが、それが「組織」の強さである。

さて、仕事を振った後は、責任が生ずる。
仕事を振られた方も責任を感じ、懸命に取り組む。
この時大切なのが「任せて任せず」ということである。
(ちなみに松下幸之助氏の言である。)
信用して仕事をふった以上、あれこれ細かい口出しはしない。
ただし、進捗状況については定期的に報告を受け、誤りがありそうな場合は正していく。
つまり、やり方は任せるが、結果の責任は連帯して負うということである。

そして、責任はとるが、成果はとらない。
成果は、仕事を振られて成し遂げた人のものである。
間違っても「自分が教えてうまくやれた」などと言ってはならない。
あくまで、周りの成長を促す。

仕事を振ることで、自分の時間にも余裕が生まれ、自分自身の成長(勉強)に時間が使える。
自分自身もレベルアップできる。

責任をとらないなら、仕事を振ってはいけない。
それは無責任である。それなら、自分でやるべきだ。
仕事を振るなら、責任をとり、かつ任せること。
これがポイントである。

2011年11月28日月曜日

自分の価値を認めるために

前号で、「組織」の強さについて書いた。
自分一人がいなくても、何とかなってしまうのである。

そういう組織の中で、いかに自分の価値を高めるかに全力を注ぐ。
学校のために、子ども達のためにできることを、本当に考える。
そう考えると、休日に仕事をするよりも、大切なことがあるはずである。

子ども達も大切だが、自分も大切にして欲しい。
自分を愛せない人間は、他人を愛することはできない。
自分を愛するというのは、ナルシストとは違う。
自分の価値を自分で認めることである。

自分の価値を認めるには、社会のために役立つことをする。
自分を社会に役立てるために、自分自身をレベルアップする。
これは、気持ちに余裕がないとできない。
余裕を生むのが、余暇である。

休日は、思い切ってやりたいことをやってはいかが。

2011年11月27日日曜日

仕事を振る

次の部分について。
>休日返上でやるしかないのが自分の現状です。

こういう悩みを抱えている方、特に若い先生に多いのではないかと思う。
そこで一つ聞きたいのが、周りの人は、どうかということである。
みんなが休日返上してやっているのか。
よく見ると、休日は自分や家族の時間として確保している人はいないか。
もしいるとしたら、なぜそうできるのか。

その答えの一つに、「仕事を人に振っている」ということが挙げられる。
「仕事を振る」というと、何だか人任せで無責任だと思う人もいるかもしれない。

そうではない。
「仕事を振る」というのは、責任のある人の持つ能力の一つなのである。
特に人の上に立つ人間には絶対必要になる。
アインシュタインやイチローのような孤高の天才ならともかく、我々は凡人であり、組織で仕事をしているからである。

自分にできることは、限られている。
だから、自分でやるべき部分には全力を尽くす。
逆に、そうでない部分は、人に任せる。
人に任せるべき部分まで自分でやってしまうと、組織全体の損益になる。

若い人に任せられがちで多忙な校務分掌の代表格、「体育主任」を例に考える。
体育的行事は、校内に山ほどある。
熱心な人は、全部自分の責任だと思い、全て自分でがんばる。
若い内はそれでも良い。
しかし、体育主任経験が3年以上にもなってそれでは、問題である。
次の人が育たない。
つまり、自分が異動した後、今の学校がどうなるかという視点がない。
自分で全部やってしまう人は、実は視点を変えると、無責任とも言える。
(中学の熱心な部活動指導者にも当てはまる。
ワンマンでやってきた場合、異動した後受け持つ人が大変苦しむことがある。
子どもだけでなく、保護者からクレームが来ることもあるという。
練習メニューの文書でも何でもいいから、指導方法を引き継いでから異動してほしい。)

仕事を割り振って様々な人に分担しておけば、みんなが仕事を覚える。
自分がいなくても大丈夫な状態になり、かつ他の職員がレベルアップする。
空いた時間で、自分自身を更にレベルアップする。
だから、学校のことと自分のことを、本当に考えるなら、仕事は自分だけで抱えてはダメなのである。

そもそも、学校の子どもは、自分のものではない。
保護者の子どもであり、学校の子どもであり、地域の子どもであり、日本の子どもである。
職員みんなで分担すればよい。
色んな先生に関わる方が、子どもも幸せである。

仕事を上手に振れること、頼めることは、大切な仕事能力の一つである。
(次号に続く)

2011年11月25日金曜日

重要度と緊急度で仕事をとらえる

次の部分について。
>どの学校も同じだと思いますが、じっくりと計画を考える時間など全くないと思います。もしやるなら、休日返上でやるしかないのが自分の現状です。
>しかし、それを続けると疲れやストレスが溜まり、モチベーションが上がりません。

この見方を、視点を変えてみる必要がある。

ここに書かれた時間を分けて列挙してみる。
「平日の通常勤務の時間」「計画を考える時間」「休日に仕事する時間」
どれが、最も大切な時間か。
(以前、「やらないことを選ぶ」という題で書いたが、再度考える。)

それを考えるには、マトリクス図がわかりやすい。
縦軸と横軸で区切った、十字の図を想像してもらいたい。
縦軸は「重要度」で横軸は「緊急性」。
そうすると4つの領域ができる。
1(右上)重要かつ緊急
2(左上)重要だが緊急ではない
3(右下)重要でないが、緊急
4(左下)重要でなく、緊急でもない

1の時間は「いじめ問題への対処」など生徒指導関係に使う時間や「来週提案する運動会の全体計画」等の計画作成時間を始め、職務上最優先で取り組むべきこと。
2の時間は「学習会への参加」や「専門教科の研究」など、レベルアップに関わる時間や、スケジュール管理など。
3の時間は、いわゆる雑務の処理。
4の時間は、どうでもいい時間。しなくても何ら今後に影響がない時間である。

どの時間がどれに当てはまるかは、その人の捉え方による。
授業の準備を1と考える人もいれば、2とも3とも4とも考える人もいる。
(私は基本、2のスタンスである。大抵は何とかなるが、きちんと準備した方が断然良い授業ができる。)
同僚とのおしゃべりを、2とみるか4とみるかも、人間関係と場合によりけりである。(少なくとも、緊急性はあるまい。)

さて、「多忙解消」に役立つのはどの時間か。
ずばり、2の「重要だが緊急でない」時間である。
この時間は、最優先で先取りしないと、確保できない。
後から入れることはできない。
1や3に浸食される。(1や3は、あるだけの時間を全てくってしまう。)
絶対先取り、である。
スケジュールに最優先で入れる。

2の時間は、簡単に言うと「能率アップ計画」の時間である。
やり方を改善するための改造時間である。
対処の時間ではなく、予防の時間である。
試合の時間ではなく、トレーニングの時間である。

だから忙しくても、有益だと思われる勉強会には、休日返上で行く。
お金がなくても、良い本だと思ったら、どんどん買う。そして読む。

そうすると、今までやっていた方法の無駄が見えてくることがある。
逆に、時間ができるという現象が起こる。

精神論にきこえるかもしれないが、一つの真実である。

忙しい時こそ、勉強しよう。
(次号に続く)

2011年11月24日木曜日

残業は一時的な修行

次のような質問が来た。
以下、引用する。

>学校の行事が多すぎて、スケジュールがうまく管理できません。いつもギリギリになって苦しんだり、なんとかその場を乗り切る程度になってしまいます。

>どの学校も同じだと思いますが、じっくりと計画を考える時間など全くないと思います。もしやるなら、休日返上でやるしかないのが自分の現状です。

>しかし、それを続けると疲れやストレスが溜まり、モチベーションが上がりません。

>うまくスケジュールを管理するためには、重要なポイントを見抜いて要領よく進めることが必要だと感じますが、全くといっていいほどそれが出来ていません。経験も少ないので当たり前ですが…

>このまま慌てながら日々をこなすだけでは、いつまでも今のままのような気がしてしまいます。

>指導するポイントを見抜き、スケジュールを管理するにはどうしたらよいでしょうか。」

このような悩みを持つ方は、多いのではないかと思う。
実に、たくさんのポイントが詰まっている質問である。
一回では答えきれないので、数回に分けて回答する。

要約すると「多忙」=「時間がない」=「抜け出したい」ということだろう。

どうにかなること、ならないことに分けて考える。

学校行事の多さは、今すぐにはどうにもしがたい。
年度末に行われる教育課程編成の際に意見して、少しずつ減らすことが必要だろう。

しかし、質問者が困っているのは、今である。
今の時間をどうにかしたい。

これには、自分を変えていくしかない。
(他人は変えられない、自分は変えられる、という原則)

多忙を抜け出す方法その1は、「自分のレベルアップ」である。
具体的には、自分の中の「普通レベル」を上げる。
多忙解消に対して逆説的だが、苦しい思いをした分だけ、次からは楽になる。
例えば、「今から1時間走ろう」と言われたら、大抵の人は尻込みするが、フルマラソン経験者には「短距離」である。
毎日夜11時まで仕事をした経験がある人なら、9時までの残業は「楽勝」「早帰り」になる。
残業は絶対に減らしていくべきだが、一時的な「修行」と捉えた場合、意味がある。
そしてこれは、若い内に経験した方がよい。
やがて家庭を持ったりすると、修行したくても不可能になるからである。

したがって質問者が抱く「いつまでも今のまま」というのは、無用な心配である。
大丈夫、確実に成長している。
少なくとも、そういう危惧を抱く人なら、大丈夫である。
その努力に無駄はない。

しかしながら、「今すぐ抜け出したい」という思いも大切である。

(次号に続く)

2011年11月23日水曜日

「何を言うか」より「誰が言うか」

以前このブログで「早寝・早起き・朝ご飯は、どこから手をつけるべきか」ということを書いた。
(「体内時計をリセットする」というタイトルで、5月頃に書いた。)

ちょうど、野口芳宏氏の講演で、同じ問いが出された。
「近くの人と、話し合ってみてください」
そう言われたので、一緒に出席していた同僚に、「早起きが最初」ということを理由をつけて説明した。
同僚は、「朝ご飯」だと主張していた。

その後野口氏が「考えが変わった人?」ときくと、変わった人はほとんどいなかった。
同僚も、もちろん変わらなかった。

しかし、その後、野口氏が私と全く同じ理由で「早起き」であると説明をした。
同僚は「なるほど」と納得し、考えを変えた。
(ちょっと自分としては残念な気もするが、相手が野口氏では仕方ないかと私も納得した。)

同じことを言っても、誰が言ったかで効果は変わる。
結局、ノウハウよりも、人間性が大切だと言える。

技術を磨くことも大切だが、人間性を高めることはもっと大切である。

2011年11月22日火曜日

学校で学ぶ意味は

能力の違う者同士が、同じ教室に集まって学ぶ。
その意義は何か。

極端なことを言うと、「技能」を向上させることだけが目的なら、エリート集団の中で一人で努力する方がよい。
できるもの同士が集まって、しのぎを削って相手より上になることを目指せば、自ずと技能は向上する。
大学受験の模試などは、この心理を有効に利用しているといえる。

進学塾なら、最も求められるものは「テストの点の向上」であり「合格率」という実績である。
保護者が塾に大枚をはたいているのは、そこを求めているからだろう。
「うちの塾は合格実績は求めません」という進学塾が流行るとは思えない。(それは別の目的の塾である。)
だから塾は、「個別指導」と「能力別クラス」が主流である。

しかし、学校教育は「技能」向上のみを目指すものではない。
心の面の成長が欠かせない。
そこに「学校」と「塾」の境目があるように思う。
能力の差異はあれど、理解しているものが未熟なものに教える。(寺子屋はまさにこれである。)
役に立つ自分を実感し、助けてもらえることに感謝する。
時に異なる意見をぶつけ合って、そういう考え方もあるのかと謙虚に学ぶ。
そういう、心の面での成長、他人を思い遣るという面の成長があることが、教室で学ぶ意義ではないかと考える。

2011年11月21日月曜日

やらせたいことは「やっちゃダメ」で

メルマガの日刊をやめて発見したことを。

人間は「やらないといけない」と思うと、やりたくなくなる。
逆に「やらなくてもいいよ」と言われると、やりたくなる。
「やっちゃダメ」は、もうやりたくてたまらなくなる。

子どもが勉強を嫌いになる心理も、いたずらを積極的にする心理も、これに当てはまる。

だから、何かに興味を持たせたり、ルールを守らせたり、がんばらせたりしたいなら、ここの心理を利用する。

例えば、「教科書は見ちゃダメ」と言えば、見たくなる。
だからあえて見せずに話を進め、ここぞという場面で開かせれば、目を皿にして教科書を読む。
(道徳の教材を読む時などにもよく使う手法である。)

例えば「廊下を走っていいことにしない?」と提案すれば、ダメな理由を真剣に考えはじめる。

例えば「ぼちぼちでいいんじゃない?」と言った方が、より継続的に努力するようになることもある。
「毎日漢字を○個書け」よりも「覚えるまで書けばいい」といった方が、逆にたくさん書くことになる。
「覚えた字は、時間の無駄になるからもう書いちゃダメ!」と言ってもいい。
(もっというと「漢字テストで満点」という明確な目標に向かった方が、勝手に努力をする。)

何でもゆるく縛るぐらいが、一番自由を感じるのかもしれない。

2011年11月20日日曜日

学校で学ぶ意味は

能力の違う者同士が、同じ教室に集まって学ぶ。
その意義は何か。

極端なことを言うと、「技能」を向上させることだけが目的なら、エリート集団の中で一人で努力する方がよい。
できるもの同士が集まって、しのぎを削って相手より上になることを目指せば、自ずと技能は向上する。
大学受験の模試などは、この心理を有効に利用しているといえる。

進学塾なら、最も求められるものは「テストの点の向上」であり「合格率」という実績である。
保護者が塾に大枚をはたいているのは、そこを求めているからだろう。
「うちの塾は合格実績は求めません」という進学塾が流行るとは思えない。(それは別の目的の塾である。)
だから塾は、「個別指導」と「能力別クラス」が主流である。

しかし、学校教育は「技能」向上のみを目指すものではない。
心の面の成長が欠かせない。
そこに「学校」と「塾」の境目があるように思う。
能力の差異はあれど、理解しているものが未熟なものに教える。(寺子屋はまさにこれである。)
役に立つ自分を実感し、助けてもらえることに感謝する。
時に異なる意見をぶつけ合って、そういう考え方もあるのかと謙虚に学ぶ。
そういう、心の面での成長、他人を思い遣るという面の成長があることが、教室で学ぶ意義ではないかと考える。

2011年11月17日木曜日

算数の授業を考える

前号の続き。
算数の授業を例に考える。

大抵の学級で力を入れるのは「全員がわかるようにする」ことである。
落ちこぼれを作らないことである。

逆に、能力が飛び抜けて高い者は、学級によってはむしろ厄介者扱いになることすらある。
解くのが速すぎて、課題が追いつかない状態になったりする。
その子どもを満足させられる問題を、その子用に提示してあげる必要が出る。
こちらの労力も大きい。

一方、理解度最下層の子どもを、平均まで引き上げるのも困難を極める。
平均的に1の労力でわかることに対し、10やっても効果がほとんどないということも多い。

そして上と下にばかりかまけて、中ぐらいレベルの理解度の子どもが、一番ほっぽられがちになる。
しかし前号でも書いたが、中間層は絶対落としてはならない。
普通に教材研究すれば、中間層に対応した授業はできる。
やはり工夫すべきは、上位、下位の理解レベルの子どもである。

上位レベルの子どもには、発展問題を用意しておく。
オススメは、明治図書から出ている「教室熱中!難問1問選択システム」シリーズ(各学年)である。
初任の頃からずっとお世話になっている。
自分で難問を考えるのは結構大変だが、これ1冊あればかなり対応できる。

理解度下位レベルの子どもには、前にも言ったが個別指導。
ティームティーチングを組める幸運な環境ならば、状況を伝えておいて、一人に任せる。
(二人でかかると、子ども自身が嫌がるので避ける。)
そうでない一般的な環境なら、短くヒントを出してさっと個別指導。
じっくりくっついてやっても、頼るばかりで結局力はつかない。
ヒントを見て、周りの仲間を見て、正解を見て、自分自身で理解を深めていくしかない。

結局、特効薬はない。
やるべきことを、決めてきちっとやる。
後は、ある程度からは本人に任せる気持ちも大切である。

日々、研鑽あるのみ。

2011年11月15日火曜日

長所を伸ばすか短所を克服させるか

教育をする上の方向性として、長所を伸ばすか短所を克服させるかという選択がある。

世間一般では「長所を伸ばしなさい」と言う。
その割には「学力低下」=「学力検査の平均点の低下」が問題視されるので、学校では短所の克服に力を入れざるを得ない。
平均点を上げるには、90点以上をとれる子どもではなく、それ以外の子どもをいかに引き上げるかにかかっているからである。

つまり、建前上は長所を伸ばす教育が求められているが、実際は短所克服になっている。

本来、学校教育としてどうあるべきなのか。

完全に持論だが、学校教育の役割からして、中間層をきちんと見るのが基本だと考える。
上位の子どもは、誰が教えてもそれなりに力をつける。
下位の子どもは、誰が教えてもそうすぐには力がつかない。個別指導が絶対に必要になる。
しかし中間層は、一番層が厚く、指導した分の結果が出やすい。
中間層をおとしてしまったら、完全に失敗である。
これが直接、「平均が落ちる」という結果につながる。

大多数である「中間層」に力を注ぎつつ、上位、下位の子どもを捨てない指導をどうするか。
次号、算数を例に考える。

2011年11月14日月曜日

評価の効能

宿題を見るのは大変である。
何でわざわざ大変なことをするのか。
子どもは、何のために宿題を先生に提出しているのか。

「チェック」するとなると、嫌な感じがする。
これは、「認めてもらうため」である。

ある工場での実験で、やったことを評価した場合とそうでない場合だと、作業能率が倍に上がったという結果がある。
見られている意識が、作業の効果を高めるらしい。

こちらにもそういう意識が大切だし、子どもにも「がんばりを見たい」と伝えた方が、よいかもしれない。

2011年11月13日日曜日

良い学級の指標

良い学級とは何か。
たくさんの要素があるので、一言では難しい。
ただ「担任がいない時の状態」が、一つの指標に挙げられると思う。

担任がいる時だけきちんとしている→物事が表面的。上滑りしている。普段の指導が厳しすぎる。
担任がいる時にもやるべきことをやれない→単に統率力不足。やるべきラインを守れていない。
担任がいない時にやるべきことをやれる→物事の善悪の判断ができる。(何が最善か考えて行動できる。)

例えば、自習の時間である。
例えば、専科の先生の授業の時間である。
担任の手を離れている時こそ、学級の本性が出る。
隠しカメラで見る訳にはいかないので、他の先生に聞いてみる。
自分の学級の問題点が、見えてくるかもしれない。

2011年11月11日金曜日

良い授業参観とは

授業参観での授業は、普段の授業と明かにねらいが異なる。
普段なら子どもに力がつけばそれで良いが、授業参観はある種「パフォーマンス」が必要になる。

何を見に来ているか。
第一に自分の子どもの成長。
第二に学級の様子。(掲示物や子どもの作品も含む。)
三、四がなくて、五に教師、といった具合かと思われる。
(あくまで、個人的な意見であるが。)

これらのニーズに対応した授業を組めばよい。

具体的には、次の三つである。
1 全員が一回以上発言(活躍)している
2 子どもに力がついたことが目に見える
3 親も一緒に参加できる(または、親にとっても発見や驚きがある)

全部満たしていれば最高だが、一つでも満たしていれば合格点ではないかと思う。
自分なりに評価基準を持っていると、授業も考えやすい。
参考にしていただければ幸いである。

2011年11月10日木曜日

基本をおさえる

授業研究会で、講師の先生が次のように言っていた。
「若い先生方の授業を見ると、基本的なことができていないことが多い。
校内でも教えてあげる機会を。」

その通りである。
知らないことは意識しないし、できない。

体育などは、かなり色々な「基本」がある。
「話す時は体育座りをさせる」
「教師は太陽を背にしない」
「子ども全員が見える位置に立つ」
等々、書き切れないほどある。

問題なのは、教えてもらう機会がないことである。
親切にそういう研修をしてくれる学校ならいいが、意外とそういう機会はない。
先輩の先生が見つけて、注意してくれるのを待つばかりである。
心配な人は、自分から率先して授業を見せて、教えを請えばよい。

何か、基本を学ぶというような機会を、どこかで持つ必要がある。

2011年11月9日水曜日

自分でやってみる

ここ数日、研修会等で数名の先生が同じようなことを言っていたのに気付いた。
「教師自身が体験せよ」というものである。

図工では、教師自身が作品を作ることが、指導のスタートになる。
算数では、教師自身が子ども用のノートをまず作って指導のつまづきが見える。
体育では、教師自身がその運動をやってみるとことで、難しさが分かる。

体育を例に挙げると、子どもがソフトボールを投げられない時。
どうするか。
そもそも、教師自身は遠くに投げられるのかを考える。
すると、意外に投げ方を知らないことに気付く。
何となくやっている部分がかなりある。
球の持ち方や、指のひっかける位置(ボールの縫い目)に始まり、足のつま先まで、ポイントが無数にある。
その中で、子どもに伝えられそうなポイントに絞り、指導する。

自分でやってみると、指導方法の解決の糸口が見つかる。
時間はかかるが「急がば回れ」は真実のようである。

2011年11月8日火曜日

「楽しいね!」の心理効果

授業を楽しくする小技がある。

「楽しいね!」
と、教師が言ってしまう。
これだけである。

算数やってて、問題一つ解いて「楽しいでしょ!!?」
ドリルの問題やる前に「できるかな?楽しみだね!」

要するに同調心理を使っているだけだが、意外な程に効果がある。
特に、クラスにノリのいい子が一人でもいると「楽しーい!」と返ってくるので、益々効果が高まる。
「これって、楽しいのかも。」
全然楽しくないものでも、何だか楽しい気がしてくることがあるのが不思議である。

いくらでも応用がきく。

ちなみに給食なら
「これ、おいしいね!」になる。

ポイントが一つだけある。
教師自身が楽しいと思うことである。
勘違いでも何でもいいので、そんな気になって言うのがポイントである。

無意識に使っている人も多い。
お試しあれ。

2011年11月7日月曜日

周りの学級まで考える

図工展があり、審査員の先生が言っていたことが心に残った。

「学校間より同一校のクラス間の差が気になりました。
指導方法や技術なども学年でもっと話し合って下さい。
ベテランの先生が若い先生に教えてあげて。
若い先生はもっと積極的に聞いて学んで。」

他の審査員の先生も、別の場で、ある学校の同一学年の作品を比較して、次のように言っていた。
「この2つの学級の作品を並べた時、隣のクラスが羨ましいなあと思われないかな?」
「保護者が参観した時、どう思うかな?」

どの教科でもそうだが、自分の学級だけが良ければいいというものではない。
(慣れない最初の頃は、自分の学級だけでも手いっぱいであるが。)
得意分野があるなら、それを活用して隣のクラスもよくしよう、学年をよくしようという意識が必要ということだろう。
(お節介にならない程度に。)
やがてレベルが上がれば、それが学校全体に、地域の学校に、他県に全国にと広がっていくのだと思う。

周りの学級までも考えて動けるようになったら、きっと一人前である。
精進したい。

2011年11月6日日曜日

怒りの根本・根源は

最近発見したことを。

腹が立つことがある。
子どもが言うことをきかないとかだらしないとか云々。

根本を突き詰めてみると、自分自身への怒りである。

言うことをきかない時やだらしなさを改善できない時は、言うことをきかせられない自分に対していらついている。
勉強ができない時は、わかるようにさせられない自分に対しての自己防衛的な怒りである。

子どもに対していらついたら、少し立ち止まって根本・根源を考えてみる必要がある。

2011年11月5日土曜日

お母さんの電話の声で

朝、日直のスピーチをさせる。
声が小さい。
「もっと大きな声で」と言っても、ますます小さい。

どうするか。

石川県の山本正美先生の実践。
山本先生は、「見える化」というものを提唱して本も出している。

次のような実践を紹介された。
(ご本人は、有名な実践で、オリジナルではないとおっしゃっていた。)
「お母さんが電話に出る時の声で!」
どんなにガミガミと子どもを叱っている最中でも、電話に出れば、お母さんはたちまち高いご機嫌な声になる。
それを真似しなさいと。
つまり、私用と公共の声は分けろということである。
人様に聞かせる声は、いつもと同じではいけないのである。

他にも「あいさつは店員さんになって」とか、色々ある。

声の出し方も具体的に「見える化」すると良いという実践を紹介した。

2011年11月4日金曜日

学級形成の原点

教育の原点を考えるといった、ものすごく濃い内容の勉強会に参加してきた。
自分自身の復習にもなるので、ほんの一部になるがシェアしていく。

学級において、教師と子どもはどういう関係が好ましいのか。
講師の一人、山中伸之先生は次のように述べられていた。

「愛され恐れられよ」

マキャベリの「君主論」の一節
「君主は愛されるより恐れられよ。しかし憎まれてはいけない。」
を引用しての言葉である。

先生のことが好きで、また教わりたいと思わせるのだけど、間違った行動をとると大変厳しいとも思われている。
そう思わせるような、近すぎず離れすぎずの適切な距離感とバランスのとれた関係が好ましい。

これを目指すにあたり、自分のタイプの見極めも大切である。
元々厳しい雰囲気を持った人は、つとめて楽しい実践を追い求める。
逆に柔らかな雰囲気を持った人は、ルールを決めたらもう退かないで、粘り強くやる。

目指す学級のヒントになるのではないかと思い、まず紹介した。

2011年11月3日木曜日

子どもが動かないクラスと考える力

考える力はつけたい。
本当に必要な考える力とは何なのか。
テストは、考える力の中のごく一面は見られる。
しかし、本当に社会に必要とされている考える力は、テストで見られるものとは違う気がする。

国語だから、算数だからではなく、普段から考える力を鍛える。
生活の中で鍛える。

例えば朝、窓も開けずに電気もつけずに、ただ座って待っている子ども達のいる学級があるとする。
その学級では担任が電気をつけ、窓を開けることとなる。
または、やるよう言い渡す。

こんな場面は、無限にある。
あいさつ、掃除、授業の始まりの着席、給食準備に廊下の歩き方まで、限りなくある。

何が良いか考えて生活している者と、周りに同調してロボットのように動いている者(物といっても良い)、自分勝手にふるまう者の3タイプいる。

有田和正氏が著書の中で「研究授業を見る時、授業前の子どもの動きで、授業のレベルも推し量れる」というようなことを書いていた。
ダメなクラスは、全部教師が子どものお世話をしているのである。
教師が何か準備をしようとしたら、すぐに手伝いに駆けつけるような心と頭が欲しい。
そういうささいな積み重ねが、考える力につながると思う。

テストの結果も大切だが、それ以上に普段の考える力を鍛える方が、より大切だと考える。

2011年11月2日水曜日

光の速さで電話に出よう

今日の話は、若い先生向けに。
当たり前過ぎるビジネスマナーについて。

「光の速さで電話に出よう」
ただこれだけである。

職員室には、大抵の場合、事務職員がいる。
一括して窓口になって電話を受けてくれている。
教員は教室にいるので、電話を受けようにも受けられないからである。
だから、就職したての頃から、電話に出ないのが慣れっこになっている。

しかし、これは一般の常識ではあり得ない。
一般企業なら、若手が電話に出るのが当たり前である。
先輩に取られたら、怒鳴られて叱り飛ばされる厳しい世界である。
または陰で「使えない奴」の烙印を押されてしまう世界である。

職員室で仕事をする時は、積極的に電話に出た方がいい。
ある意味ゲーム感覚で、勝負だと思ってやる。
同期及び同年代の先生に電話をとられたら、「負け」。(とれば、「勝ち」。)
年配の先生にとられたら、「惨敗」。(その場にいた若輩者全員。)
反射神経においても、年配の先生に負けたことになる。
情けないことである。

ちなみに3コールさせてしまったら、職員室の全員が「負け」である。
職員室全体がたるんでいる疑いがある。
事務職員の方や管理職に頼りすぎなのである。
反省した方がいい。

たかが電話の一つ、まともに出られるようにしたい。

2011年11月1日火曜日

ペンギンは空を飛べない

前回の話の続きにあたる話を。
無駄なコンプレックスについてである。

憧れる先生を持つことは大切である。
ライバルを持つことも大切である。

しかしながら間違えてはならないのは、「相手と自分は違う」ということである。

ともすると、○○先生と比べて自分は何でダメなんだろうと思いがちである。

例えば、私はよく、誰にでも人当たりがよくて、子どもに何でも話してもらえるような先生を羨ましく思う。
(女の先生に多い気がする。)

音楽のオーケストラを指導したことがあるなどという話をきくと、恐れ入ってしまう。

書家としても活躍中の先生などになると、逆にもう自分には無理すぎて諦めがつく。

よくよく考えてみると、どれも自分には無理な分野である。

「何だって努力すればできる!」という前向きな考え方は否定しないが、適性がある。

やはりどんなに頑張っても、ペンギンは空を飛べない。
走るトレーニングをしても、ダチョウみたいには速くならない。
でも、泳がせたら、努力しないでも鳥類の中でナンバーワンである。
かわいさや人気だって、相当上位に来る。
速さを競うなら、空や陸より、断然水の中で勝負した方がよい。
陸で競うなら、速さよりかわいさで勝負した方がよい。

ないものはない。
しかし、他人が羨むものが自分にも必ずある。
自分の能力を使うフィールドを間違えないことである。

今自分ができることに全力を尽くし、無駄なコンプレックスは感じないようにしたい。

2011年10月31日月曜日

苦手なあの子の対処法

前号で、「親の嫌いな部分は自分の中の嫌いな部分」というようなことを書いた。
親から見ても同様で、我が子の気に入らない部分は、自分の中のコンプレックスである。
「お父さんみたいにならないように、しっかり勉強していい大学に入りなさい」などというのは、このケースである。

これは、学級の子どもにも当てはまる。

もし、自分の学級に「この子は苦手」という子どもがいたとする。
どこが苦手(または嫌)なのか、考えてみる。
すると、大抵、自分の中のできていない部分とか嫌な部分だったりする。

例えば「宿題を何度言ってもやってこない」というところが気に入らないとする。

その先生は、「完璧主義病」かもしれない。
自分自身が、完璧でないといけない(しかし完璧ではない)という、脅迫観念の持ち主かもしれない。

または、その先生自身が、子ども時代によく宿題を忘れて怒られていたのかもしれない。

はたまた、「人の言うことを聞かない」と思われている(と自分で思っている)先生かもしれない。

いずれにせよ、自分の中のコンプレックスと重ねていることは間違いない。
なぜなら、どうでもいいと思っていることには嫌とも思わず腹も立たないし、気にならないからである。

そういう風に分析してみると、苦手なあの子も違って見える。
何だか、自分に似ている気がして、親近感が湧いたりする。

「そんなはずはない」と思いたいところをぐっと我慢して、分析してみることをオススメする。
人間関係全般に使える考え方である。

2011年10月30日日曜日

親に感謝の気持ちを持つ

子どもにとって最大の教育環境は、親である。
生き方の根本を親に刷り込まれる。
根っこの部分は、全員親のコピーだと言っても過言でないぐらい、強い影響力である。
(これは、大人になっても同様である。特に親に対して嫌いな面は、自分の中の嫌いな面である。)

しかしいつも当たり前に世話になっているものほど、感謝の念を持ちにくい。
感謝を持つには、ちょっとした「失うイベント」が必要である。
健康に感謝するのが、風邪をひいた時であることと同じである。

修学旅行は、親から離れるチャンスである。
普段当たり前にお世話してもらっていることを、自分達でするチャンスである。
普段うっとおしいと思うこともある親に、会いたいなと少しでも思う。

修学旅行後は、確実に親に感謝の念を伝えるようにしたい。

また、修学旅行費を出してもらえることを、当たり前だと思わず、ありがとうと伝えさせたい。
これは、普段の集金でも一緒で、ちょくちょく確認する。
「お金をもらう時、ありがとうと伝えてる人?」
最初の頃は一人か二人だが、だんだん増えてくる。

当たり前すぎる存在の親に、感謝の念を持たせたい。

2011年10月29日土曜日

俳句作りは屋外で

震災の影響で校舎が使えず、体育館で授業をしている学校が、新聞で紹介されていた。
隣で体育をやっている中、授業をしているという。
集中力が続かないのが悩みだと書いてあった。

子どもにとって、集中して学習できる環境は大切である。
どういう場で学習するかで、学習効果が変わってくる。

ある国語の先生に聞いた話だが、俳句を作らせたいなら、外に出て作らせろという。
季節感を感じるには、教室より外がいい。
教室で作った句と外で作った句では、全く違うという。

子どもにとってよりよい環境を、常に工夫する必要がある。

2011年10月28日金曜日

根より土

先日、庭の木を一本抜いた。
直径20センチほどの、それほど太くはない木。
一年ほど前に切って切り株状態なのを、引っこ抜く作業である。

そろそろ弱ったと思い、いけると思ったのが、甘かった。
根っこが深いのである。
ついでに言うと、新芽が生えていた。
全然弱ってない。

とにかく根をはずそうと、根の周りを掘ったり、根を切ったりした。
全然抜けない。
根をたどって掘り進めるが、どこまで掘っても伸び放題である。

なぜ抜けないのか。
土が根をおさえているからだと気付いた。
(もっと早く気付けという声が聞こえそうである。)

作戦変更。
周りを掘って、土をなくす作戦に出た。
1時間以上悪戦苦闘して、やっと抜けた。

見た目直径20センチだが、実際掘ってみると、直径1メートル近くの範囲に根が張っていた。
実に立派である。
しかし、抜けた。

何が言いたいのか。

要するに、根も大切だが、それ以上に周りの土が大切だということである。
立派な根を生やすのはとても大切だが、土がなければ意味がない。
支えとなる土があるから、立派な木が育つのである。

教育となると、土や根どころか、花や実の部分に目がいってしまうことが多い気がする。
結果として花や実ができるのであり、辿っていけば、最終的には土である。

環境の与える影響は大きい。

2011年10月27日木曜日

地盤が大切

修学旅行で富士の樹海を見学した。
ガイドをしてくれる方がいて、樹海について色々教わった。

富士の樹海は、1000年以上前に起きた噴火による溶岩の上にできている。
だから、土が表面にしかなく、樹木は根を深く張れない。
かわりに、根は外に広がっていく。
そうすると、ある程度までは支えられるが、樹齢が大体300年を越えると、倒れるという。
だから、富士の樹海には大木は少なく、森自体が常に若く、常に成熟しない。

やはり、地盤が大切である。
大きな木を育てたいなら、良い土が豊富にある所でなくては育たない。
富士の樹海はそれ自体の良さはあるが、大きな木を育てるには向かない。

教育も同じだと感じた。
どんなに水を与えたり肥料をやっても、地盤が溶岩ではどうにもしようがない。
例えば、英語教育の推進。
本気でやるなら、もっと外国人がいて、英語を自然に使う環境でないと、根付かない。
英語を教科化するとかそういうこと以前に、地盤が大切である。

次号も、植物に関する話を。

2011年10月26日水曜日

禁止事項をどう覚えさせるか

「○○しないようにしましょう。」
「○○しましょう。」
夏休みの前の生活指導や、校外学習のしおりの「約束事」などに多く見られる。
事細かに色々守るべき事項があって、多いと30個ぐらい書かれている。

当然、子どもの頭には残っていない。
守って欲しいことなら、無数にある。

校外学習のバスの中で守って欲しいことの一部を例に挙げる。
バスの中では席を立たない
窓から手を出さない
シートベルトを着用する
具合の悪い人がいたらすぐに先生に言う
等々。

このあたりは、確実に守って欲しい。
全てに共通することは何か。
要するに「自分達の身の安全は自分達で守れ」ということである。
あまりごちゃごちゃ言っても、結局覚えてない。
(しかしながら、一回は具体的に指導しておくことも必要。)

事象だけをとらえず、本質を指導することが大切である。

2011年10月25日火曜日

ダメなあいさつ指導

修学旅行シーズンである。
観光地は一般のお客さんと修学旅行生でごった返している。

修学旅行は、その学校のレベルが露呈する。
教師のいない場で、その学校の児童生徒としての行動が求められるからである。

先日の修学旅行中に、他の学校の児童とすれ違う機会が多くあった。
一人はやたらにばかでかい大声で、すれ違う人にあいさつをしまくっている。
もう一人は、「こんちはこんちはこんちは」と、ただ言葉を並べまくっている。
すごく不愉快である。

また別の場面では、外国人だけ選別してやたらと「ハロー」と声をかけているグループがいた。
面くらってる外国人も多くいた。

校外学習前に「人と会ったらあいさつしましょう」と指導するのは、やめた方がよい。
自然にできるレベルならば指導の必要はないし、それ以下レベルの場合は、周りの人々にとって迷惑になる。
「公害学習」である。
外に出さない方がよい。

あいさつ指導は、普段から意味まできちんと教えたい。

2011年10月24日月曜日

風邪もチャンス

季節の変わり目、風邪が流行りだした。
風邪にも、意味を見出すことができる。

例えば、私は大抵、まず喉が痛くなる。
これは「しゃべりすぎ」の警告と捉えている。
「お前いつもしゃべりすぎだからちょっと黙ってろ」と。
または、「授業に無駄な言葉が多すぎる」と。
そういう警告を、神様だか自分の体だかしらないが、教えてくれている訳である。
また、健康のように、いつも当たり前にあるものに感謝しないさいと言われているようにも思える。

子どもへの話にも応用できる。
風邪は「ちゃんと睡眠とって」「栄養とって」と体が警告しているのだと、生活習慣についての指導にも使える。

何でも、チャンスだと思って利用した方がいいと思う。

2011年10月23日日曜日

自分で判断する

教育の手段は無限にある。
どの方法が正しいのかを考える。

あいさつの仕方を例に挙げる。

相手が子どもであっても「おはようございます」と言うのが正しいという意見がある。
相手を尊重しているからという主張である。

一方、「おはよう」と爽やかに言った方がいいという意見がある。
あいさつで心の距離を縮めたいからという。
ていねいすぎる言葉が、距離を感じさせるという主張である。

どちらが正しいのか。

人と場合によりけりである。
どんな環境なのか。
自分が、相手がどんな人なのか。
様々な要素によって、全く異なる。
正解は、ない。
自分が一番良いと判断した手段を使うだけである。
ただその時、他人の意見も参考にはした方がよい。
善悪の判断が、独りよがりになっていることが多いからである。

ついつい、指導主事や講師などの上の立場の人に指導されると、それが正しいように思ってしまう。
自分が尊敬している先生の言であったりすると、鵜呑みにしてしまうことも多い。
よくよく考えると、その人の主張であり、自分に当てはまるかどうかは別である。
(特に宗教は、その典型である。)
ただ、学校の方針としてこうと決まっている場合は、それに従うのが原則である。
納得いかない時は、きちんと職員会議等のしかるべき場で論議し、筋を通す。

「考える力」を子どもにつけるためにも、教師自身が自分で考え、自分で判断していく習慣を持ちたい。

2011年10月21日金曜日

自分はどの教育手段を使うか

どんなことでも、方法は無限にある。
教育の分野も同じで、何が最良かはわからない。

例えば、休み時間に毎日子どもと遊ぶ教師がいる。
一般的に見て、いいことだと思える。
特に体を動かすのが好きな子どもにとっては魅力的である。
しかし、子どもと毎日遊ばない教師はダメかというと、そんなこともない。
むしろ、運動嫌いの子どもは、もしかしたら疎ましく思っているかもしれない。(あくまで「かも」、である。)
「子どもと一緒に遊ぶ」というのも、教育の一手段であり、必須条件ではない。

例えば、音楽系の分野に長けた先生がいる。
子どもと一緒になって歌ったり楽器を演奏したりして、土日も返上して音楽活動をしている。
音楽好きの子どもにとって、この上なくすばらしい先生である。
じゃあ音楽ができない先生はダメかというと、そんなこともない。
音楽に興味がない子どもにとっては、有効な教育手段になりえない。
音楽も、一手段である。
運動も、書道のような芸術系分野も、何もかも一手段である。

どれも、「できるならできた方がよい」ぐらいのものであって、一人で全ては揃えられない。
そういう教育に使える手段を、いくつ持って、いくつ活用しているかが大切である。
バリエーション豊かな方が、様々な子どもの成長に対応できる。

自分一人で完璧な教師になろうとせず、周りと協力することが大切である。

2011年10月19日水曜日

ノートの意見を読む行為は「読む」?「書く」?「話す」?

子どもが、国語の授業で自分の意見をノートを書き、それをみんなの前で読んで発表するとする。
この行為は「話すこと・聞くこと」「読むこと」「書くこと」のどれで評価するのか。

一方、教科書の音読をさせる。
この場合はどうか。

国語の指導主事にお話を伺う機会があり、そんなことを質問してみた。
ちょっと考えてみてから読み進めて欲しい。

前者の場合は、意見を書くのが主な学習行為であることから「書くこと」で評価、
後者の場合は、書かれていることを読むのが主であることから「読むこと」で評価、とのこと。
まあ、当たり前だが、意見をノートに書いて、それを「声に出して」「読む」ので、評価項目を間違える人も多いという。

音読の話を前回書いたので、ふと思い出して、紹介してみた。

2011年10月18日火曜日

音読のレベルを上げる

音読には、読み手の読みの深さが表れる。
特に文学作品や詩では、それが顕著に出る。

文字をとりあえず読めればよしとするか。
速くすらすらと読めるようにしたいのか。
音読から朗読のレベルに引き上げたいのか。
目指す方向によって指導の仕方が異なる。
速さを求めると、内容が置いていかれることが多い。
しかし数を多くこなすことで内容が入ってくるという面もある。

読んでいる方は必死なので、放っておくとどう読むかにはなかなか目がいかない。
教師が発問で気付かせる。
例えば、宮沢賢治の「雪わたり」で
「北風ぴいぴい風三郎、西風どうどう又三郎」の一文を次々に読ませる。
普段から「大きくはっきり読む」のがいいと思っているので、大抵、元気よく読んでしまう。

ここは「細いいい声」で読まなくてはならない。

クラスで特に声の小さな子どもが読むと、ちょうどいいぐらいになる。
断定的に誉める。
普段、音読であまり誉められないので、びっくりする。
周りの子どもも、「なるほど」「わかった!」と声が上がる。
前後の文に着目すれば「細いいい声」で読むことに気付く。
こうして、だんだん文の意味も気にしながら音読するようになる。
内容面の読みが深まる。

音読のレベルを上げることで、読みのレベルも深めたい。

2011年10月16日日曜日

珍回答への対応

子どもが「珍回答」をしたとする。
クラスの仲間がどっと笑う。
この時、言ったこと自体が面白くて笑ったのか、その子どもを馬鹿にして嗤ったのかがある。
どちらにせよ、笑われた子どもは傷ついていることがある。

子どもが発言したくない理由に「間違った答えを言うと笑われるから」というものがある。
「間違える」=「笑われる」=「自分の価値を落とす」というような図式が成り立っている。
(大人はこれが顕著である。授業研でもよく見られる。)
この認識自体が間違いなのだが、子どもには教えてあげないとわからない。

私は、次のように話す。
「○○君の発言を笑った人がいるね。
確かに、答えとしては間違ったものだったかもしれない。
ところで、○○君はどうして間違った答えが言えたのだろう?」
少しだけ間をとって考えさせる。
「○○君は、自分の考えをはっきり言ったからだ。
勇気がないとできない。
挑戦しない人にはできない。
発言できない人には、間違えることはできない。
○○君の発言は、今回は間違っていたかもしれないけど、挑戦した証だ。
一番挑戦した人が、一番多く間違える。
間違えてを恐れず意見を言える○○君はすばらしいと先生は思う。
みんなは、どうだろう?
挑戦できているかな?」

こうしたことを子どもの中に常々インプットしていくと、クラスが変わってくる。
間違いに挑戦できる子どもを育てたい。

2011年10月15日土曜日

流行に踊らされない

日本の子どもの学力が、韓国始め、アジア諸国に追いつかれたり抜かれたりしたと焦っている。
偏差値教育から脱却するための「ゆとり」を取り入れた日本。
日本を目指して経済発展し、努力してきたアジア諸国。
高度経済成長時の日本のように「良い大学が良い就職」という概念が通っている国もある。
当然、受験戦争も熾烈である。
テストの結果も、至極当然といえる。

焦って急に方向転換して「学力向上」を旗揚げし始めた。
しかし、「前の時代と同じではいけない」と考えた。
だから「学力向上」は目指しつつ、「考える力」を、ということである。

こういうスローガンに学校現場が踊らされすぎてはいけない。
考える力が大切なのは、認める。
しかしこれとて、もう数年すれば、もっと他に大切なものが・・・と方向が変わる。
大体10年サイクルで変わる傾向がある。

変わらないことは、教育の目的は「よりよい人格の完成」であること。
大きな方向性さえ間違えなければ、時代の流行に翻弄されないで済む。

ブレないよう、信念を持って子どもの教育にあたりたい。

2011年10月14日金曜日

国語の授業における学力向上

国語の学力とは何か。
もう少し具体的に言うと、どんな授業をすれば学力向上につながるのか。
漢字はわかりやすい指標の一つだが、当然これだけではない。

例えば、文学作品を教える時。
一つ一つの場面を詳しく見ていき、主人公の心情の変化を見ていくというようなものが多い気がする。
詳しく解説されるので子どもはなるほどと思うのだが、それで果たして学力はつくのか。
例えばその過程で「話すこと・聞くこと」「書くこと」「読むこと」、それらを通しての「言語事項」のどの部分の力がついたのか。
そういうことがはっきり言える必要がある。
そこを考えて力がつく授業をしているのであれば、どんな教え方でも良いと思う。

さらに言うと、子どもが一人で他の文学作品を読む時やテストをする時に、役立つ力がついたのか。
そういう視点で見ると、力をつけるための授業を考えられるかもしれない。

なぜその活動をしているのか、時々自問してみる必要があるように思う。

2011年10月13日木曜日

提案とは何か

当たり前だが、なるほどという話を聞いた。

提案とは何か。

特に教育の研究集会における提案をする時。
「学習指導要領通りにやってみました」というのでは提案にならない。
かといって「文科省に反対する」のが提案ではない。

「普通にやるとここが問題なので、こうしてみました」というのが提案である。
そのままでは提案性がないし、飛躍しすぎてても使いようがない。

このあたりを踏まえ、「以前のものとここが違う」というものが提案性だといえる。
職員会議のような場でも、そういう意図を持って提案したい。

2011年10月12日水曜日

教育における環境と金

教育は環境が大切である。
「孟母三遷」という話があるように、我が子に良い教育を受けさせるために、労を惜しまず引っ越す人もいる。
本人の才能もあるだろうが、やはり教育における環境の差は大きい。

具体的には、お金である。
教育でお金の話を持ち出すと、嫌がる人も多い。
本気で教師になりたくてなった人ほど、「お金のために働いている訳じゃない」という人が多い。
多分、他の仕事でもこれは同様である。
お金をもらわくてもやりたいというぐらい好きなのである。すばらしいことである。

そういう個人的な話ではなくて、いわゆる教育予算のことを言いたい。

「お金がなくても工夫すればいい」という意見ももっともだが、限度がある。
子ども一人に一台ずつパソコンがある教室と、黒板とチョークしかない教室の差は、埋めがたい。
戦においては、どんなに剣の腕を磨いても、鉄砲の前には歯が立たないのである。

何が言いたいかというと、カネの問題を無視して教育の論議が進められていることに不満がある。
具体的に一つ例を挙げると、「情報化」を推進している割に、情報器機への予算が割り当てられていないことがある。

「デジタル教育器機を活用していますか」「使いこなせますか」というアンケートがくる割に、モノがない。
教室でプロジェクター(校内に3台)を使用するのだって、一苦労である。
授業の合間の休み時間10分間で用意しても間に合わない。
(教材を作るのは、簡単である。)
実質的に、日々使える環境にないのに、やれと言われるのが困る。
モノさえあれば、毎日だって使う。

読者の中には、最新器機の揃ったすばらしい学校に勤務している方もいるかもしれない。
しかし世の中には電子黒板はおろか、地デジ化すらされていない学校もある。

ない分は工夫するしかないが、やはりモノはあった方がいい。
時々県外の知り合いにでも尋ねてみると面白い。
自分の学校がいかに恵まれているか(またはその逆か)、驚くはずである。

2011年10月10日月曜日

[学力向上」のゴールはどこか

何を考える上でも、目的と目標は大切である。
「学力向上」のゴールは何なのか。

国家戦略的に見れば、「国際社会に通用する日本人を育てる」あたりである。

子どもからすれば、きっとそんなことどーでもいい。
高校3年生(または中3)をつかまえて質問すれば「○○大学(高校)に入る」だろう。
小学生にきいたら「立派な大人になるため」という真面目な回答か「お金持ちになるため!」といった直球な回答かもしれない。

とにかく、個人レベルでみたら、大学合格は学校での勉強の「ゴール」に設定されている。
「試験合格のため」という域を出ない。

ゴールの大学受験では、国公立を受験する場合、国語・数学・理科・社会・英語の5教科をまんべんなく理解していなくてはならない。
ここの試験では、考える力やユニークさよりも、知識重視である。
知識を頭にたたき込むには、あまり考えない方がよい。
疑問ばっかりもってると、先に進めなくて暗記できないからである。
(さっぱり分からないものも暗記しにくいので、意味付けは大切である。)
何しろ、膨大な量である。
「これはこうなの!」と言われたら「そうなのか!」と素直に納得できる方が強い。

じゃあ早いとこ効率的に知識をたたき込みましょうと小学校で言ったら、当然大反対される。
そこには「考える力」と「個性」と「自由」が育まれる必要があるからである。

一体、何がしたいのか。
目指すものに対する練習メニューが適していないような気がしてならない。
何だか、そんな矛盾が感じられるのが、「学力向上」に向けた「考える力の育成」である。

文句を言ってもしょうがないが、考える力をつけさせたいなら、大学受験から全て変えていくしかないと思う。

2011年10月9日日曜日

「考える力」を育てたいが

修学旅行で出かけきて、しばらく更新を怠ってしまった。
急に更新しなくなって不審に思った方がいたら、申し訳ない。

では、本題に。

学力向上は大切である。
と、言って反対する人はほぼいないと思う。
「学力とは何なのか」も、よく論議されている。

なので、敢えて「学力向上は本当に大切か?」とか「それが学力なのか?」ということを考えてみる。

学力の中で「考える力」の大切さは、中教審答申等の公的な機関でも言われるぐらいの共通認識事項である。
その割に、授業時数はカツカツである。
授業内容が増えた分、前より更に考える時間がなくなったように思う。
前にも書いたが、特に算数に関しては、足踏みしている余裕時数は皆無である。
悠長に考えさせていては、内容が進まない。

そういうことを言うと、「教え方を工夫しなさい」ということになる。
一部の優秀な人なら工夫できるかもしれないが、普通は無理じゃないかとも思う。
(だから現状がある。)
何か、根本的な解決方法が必要である。

2011年10月5日水曜日

急がば回れ

結果がすぐ欲しい。
だから、ついつい焦りがちになる。

8の字跳びの練習の失敗でよくあるのが「速く回しすぎ」という状態。
記録を目指すので、どんどん速くなってしまいがちである。
しかし、実際は「引っかからずに跳び続ける」という方から優先した方が上達が早い。
速く回すと、時々いい記録が出ることがある。
いい記録が出ると、ますます速く回そうということになる。
しかし、毎回引っかかっている子どもを放ってそれを続ければ、後々に問題になることは明らかである。

急がば回れという諺もあるように、その都度の問題をきちっと解決していった方がいい。
小さな問題が大きく発展していってしまう。

焦らずに、記録が少しずつ伸びていく過程も楽しみたい。

2011年10月4日火曜日

「割れる食器を使いましょう」

息子が1歳ぐらいの時の話。
妻が保健センターで子育てアドバイス会のようなものに参加した。
食事についての話で次のような話があったらしい。
「子どもにはプラスチックでなく割れる食器を使わせて。
落としたら割れることをそこで学びます。
根気強くつきあうことが大切です。」
早速実践。
息子、5秒で食器粉砕。
息子大喜び。
床は割れた食器と食べ物で惨状。
食器は、ほどなくプラスチック製に戻った。
その後、成長の過程で何の問題もなく自然に陶器製の食器を使うようになった。

保健士さんの言っていたことは、多分本当である。
実際にそのように子育てをし、うまくいったに違いない。
もしかしたら、多くの子どもはそれでうまくいくのかもしれない。
しかし、我が子はとてもではないが、それができる感じではなかった。
やり方がその子どもに合ってないのである。

大縄や8の字跳びの相談で「うまく跳べない、縄に入れない子どもがいる」というのが多い。
これについては、やり方のいくつかを以前メルマガで示した。
私のクラスのある子どもの場合、
「苦手な子どもの前後に得意な子どもを配置し、後ろの子どもが声をかけて背中を軽く押してあげる」
というのが一番効果があった。
これとて、本人に「できるようになりたい」という意志があり、周りに「仲間を何とか助けたい」という願いがあって初めて成り立つ方法である。
先の問いに対する一番の回答は、「その子どもなりに合った方法を担任自身が必死で模索してください」である。
8割の子どもに通用するノウハウなら、示せる。
しかし個人の問題については、やり方を必死で探すしかないのである。
実際に見ることができたら、アドバイスもできる。
原因が何なのか分析した上で、考えるしかない。
結局、本気でやるなら楽はできないのである。

その上で、役立つ情報を提供したい。

2011年10月3日月曜日

教え上手は、教わり上手

8の字跳びに関して、印象的なことがある。
自分が今の学校に赴任した初年度のことである。
6年生の担任だった。
当時、全校で8の字跳びに取り組んでいた(今は、高学年は大縄)。
私は前任校でも8の字跳びに取り組んでいたため、指導法などもある程度知っていた。
子どもと練習していた時、1年生の担任の先生がクラスの子ども全員を連れてやってきた。
「跳び方を勉強させて下さい。よろしくお願いします。」
ベテランの女性の先生である。
いつも明るく、子どもにも職員にも人気があり、子どもに力をつける先生だった。
当然喜んでお受けし、指導のノウハウは全てお伝えした。
結局そのクラスは、1年生にも関わらず、低学年の部で1位の記録を出した。

すばらしい人ほど謙虚である。
謙虚であるから、誰からも学ぼうとする。
相手の年齢や地位等に関係なく学ぶ。
自分よりはるかに経験がある人が「教えてください」と言ってくる。
言われた方は、びっくりする。
ますますその人に対して頭が下がる思いがする。
誠心誠意こめて自分の知っていることをお伝えしようという気が起き、さらにその人を尊敬するようになる。
結果、その人に衆知が集まるということになる。

だから、教え上手は、教わり上手である。
指導法に悩んでいたら、教えて下さいと素直に言った方がいい。

2011年10月1日土曜日

適時に行う

今年の夏は、暑い日が続いた。
暑い時は、勉強も運動も向かない。(水泳ならいいが。)
同じことをやるにしても、いつやるかによって結果は全く変わる。

例えば、ジョギング。
夏場であれば、朝4時から5時ぐらいであれば、かなり涼しく快適な中走ることができる。
6時になると、だんだん暑い感じがしてくる。
日中やれば、熱中症になって逆に健康を害する程である。
(今の時期なら、何時に走っても快適である。)

大縄練習を始めた学校もあるようだが、いつ練習するかは結構大切である。
やる気だけでカバーできない面もある。
特に大縄や8の字は集中力が命なので、集中できる環境で、短時間で一気にやることが必須となる。
昼休みにやってもいいが、食べ物を消化中であることも加味して考えると、あまりオススメできない。

何事もタイミングが大切である。

2011年9月30日金曜日

大縄の回し手のパワーバランス

大縄を回す時、「相手の引っぱる力が強い」と感じたとする。
どうするか。
もっと強い力でこっちも引っ張ろうとする。
どうなるか。
相手ももっと強い力で引く。
すると、こちらももっと強く・・・となり、結局ものすごく疲れることになる。
回していて疲れるというのは、この辺りに原因があることが多い。
お互い、譲らないからである。

1000回楽に回すには、二人の引き具合がちょうどよくないといけない。
二人の力の入れ具合のバランスがとれていると、縄がきれいな円を描く。
びよびよと揺れていたり、円の形が崩れている時は、バランスが悪い証拠である。

人間関係に似ている気がする。
相手が言うことをきかないから、より強く言う。
すると、相手はもっと頑なになって、きかない。
もっと強く言う。
きかない。
・・・・・・

何事も、ちょうどよい折り合いをつけるのが大切である。

2011年9月29日木曜日

回し手の最初の育て方

大縄や8の字とびを行う際に、回し手は重要である。
ここを誰にするかによって、結果は大きく変わる。

誰が適しているかは、なかなか決めにくい。
大縄に関していうと、最初の頃は、普通に回すことすらままならない。
とりあえず回したい子どもにやらせる。
中に人は入れず、ただ回させる。

これだけだと、永遠に上手くならないので、指導を入れる。
教師は後ろにつき、二人羽織のような形で一緒に回す。
身体的に「張って回す」という感覚を身につけさせる。
順番に何人か教えていくと、子ども達だけでも回せるようになる。

「守破離」の原則で、最初は教師がしっかり教えてあげることが大切である。

2011年9月28日水曜日

理念と技術、どちらが先か

本屋の教育コーナーに行くと、教育技術に関する本が書店に並んでいる。
教育関係の出版業界では、教育技術に関する本は売れ、教育理念や教育観を書いたものは、なかなか売れないそうである。
理念や観を学ぶよりも、即効性がある技術やネタが求められるからである。

しかし、理念や観のない技術は、薄っぺらである。
どうやるのかは分かるが、なぜかと問われると説明できない。
この状態は、何かに似ている。

算数である。
塾に行っている子どもに多い。
すらすら正解を導くことができるが、なぜそうなるかはさっぱり説明できない。
台形の面積を求める公式や、分数の割り算などで顕著である。

教師の姿勢に似るのである。
教える時に、小手先の技術ばかりに頼ると、そういう子どもが育つ。
先に紹介した速さの「木の下の・・・」という図だって、それだけ教えては本末転倒。
あくまで、補助的に使うのである。
それを分かった上で、多いに活用していただきたい。

大縄の指導も同様。
技術を早く知りたいと思うだろうが、それよりもなぜ何のためにやるのか、何を目指すのかを固めるのが先決である。
何度も繰り返すが、運動のできない子どもが排除されるようなことがあるのなら、即刻止めた方が良い。
最下位をとる方が100倍マシである。

そういう理念を固めた上で、優勝するために必要な技術の身につけ方についても伝えていきたい。

2011年9月27日火曜日

大縄大会の目的は?

スポーツには「大会」がつきものである。
練習の成果を発揮して、最終的に完結する場が必要だからである。
大縄や8の字跳びも同様である。

指導者は、大会への目的を意識することが大切である。
「絶対優勝!」は目標にはなり得るが目的ではない。
教育として見た時のスポーツの目的は「よりよい人格の完成」を目指すものでなくてはならない。
ここを取り違えた指導者が、幅をきかせるようでは本末転倒である。
(残念ながら、殴る蹴るを日常的に行う指導者でも、毎年全国大会出場となれば、もてはやされる現状がある。)

そう考えた時、目的は「強い心と体作り」や「学級の絆を深める」「道徳心を高める」等のものになる。
「隣の学級に勝つ」というのも、ここに沿っているかどうかが、正負のポイントである。
極端な話、校内で一番になっても、それだけでは何も変わらない。
地域で一番でも同様である。
全国一番となればまた違うだろうが、そのレベルなら確実に正しい目的が達せられている集団のはずである。

これは普段の学習にもいえることで、例えば算数で速さの計算ができることは、単元の目標にはなるが目的にはならない。
結局、そこから子どもの人生にどんな影響を及ぼせるかである。

そういう視点で、大縄や8の字跳びの指導を見てみると、何か変わって見えるものがある。
「井の中の蛙」にならないことが、大切である。

2011年9月26日月曜日

大縄は「対戦型」か「自己記録達成型」か

今回はニーズの多い大縄について書く。

まずは、大縄のスポーツ的な位置付けについて。
スポーツを大きく二種類に分ける。
例えば、個人競技と団体競技。
球技とその他。
演技による審査型(体操やフィギュア)と記録型。
色々ある。

その中で、対戦型と、自己記録達成型という分け方もできる。
対戦型とは、野球やサッカーのように相手と戦うスポーツ。
相手の力量や対応に結果が大きく左右される。
自己記録達成型とは、陸上競技やゴルフのようなものである。
記録を競うという面では対戦とも言えるが、要は自分自身との戦いである。

大縄指導についてまず、ここを考える。
「優勝」を目標とするなら、対戦型の発想になる。
「1000回達成」を目標とするなら、自己記録達成型の発想になる。
優勝を目指したら1000回達成するかもしれないし、1000回達成したら優勝がついてくるかもしれない。
逆もまた然りで、優勝しなかったけど1000回達成、または1000回達成しないけど優勝、かもしれない。
結果だけ考えるとどちらを目標にしても一緒のようだが、実際の意味は全く異なる。
私は、やはり自己記録達成型とするのが妥当だと考える。
以下のような理由からである。

「優勝する」「○組に勝つ」というような目標も、時に悪くはない。
しかし、その発想だと、大会当日まで周りの記録を気にすることになる。
また、○組を高めたり賞賛したりする余裕がなくなる。
せっかく○組がいい方法を発見した時に、教えてもらったり学んだりできなくなる。
互いに高め合うという発想が、持ちにくいのである。

だから、自分達の記録として「○回達成」の方がいい。
そうすれば、他の学級が良い記録を出した時には素直に驚嘆し、そこに学ぼうという姿勢になりやすい。
競争心を煽るのが目的ではないはずである。
教育行為として行う以上、全ての学級の児童が高まるという発想で、大縄指導にあたりたい。
その辺りが、「スポーツ」と「体育」の違いにもつながる。

2011年9月25日日曜日

ニーズに応えたい

9月に入って、ブログのページビューが急激に増えている。
原因は、大縄である。
大縄の指導法のページにアクセスが集中している。
どうやら、9月から大縄練習を始めた人が多いらしい。
お役に立てれば幸いである。

今回は、読者の皆様にお願いを。
「こういうことについて知りたい」ということを、具体的に教えて欲しい。
今は大縄ニーズが多いので、例を挙げると
「大縄練習で一向に記録が伸びない」とか、
「最初の10回の壁を越えられない」とか、
「子どもがやる気を出さない」等々。
他のことでももちろん構わない。
ニーズに合った情報をお伝えしたい。
今すぐ役に立たない情報は、忘れ去られてしまう。
多分、聞かれたら、答えられることも多いと思う。
いや、知らないことだったら、なおさら勉強する気が起きる。
やる気はあるのだが、しかし、今何を必要とされているのか、全然分からないのである。

何か質問がある方は、コメント欄にて質問していただきたい。
応援のメールを時々いただくので、それと同様に気軽にお願いしたい。
もちろん、匿名性は100%保証する。
ぜひご要望を。

2011年9月24日土曜日

速さは「木の下のはげたじいさん」

A 速さ=距離÷時間 
で求められる。
変形すると
B 距離=速さ×時間
もう1回変形すると
C 時間=距離÷速さ
である。
一つ覚えれば変形させることで求められる。
結論、Aの意味さえ覚えていれば、BとCは覚えなくてもよい。

しかし、「公式」として覚えれば、便利でもある。
Tの字をかいて「はじき」とかいう形で教えると思う。
(図に表せないが、分かる人が多いはず。)
この「は」「じ」「き」の位置がごちゃごちゃになる。

そこで「木の下のはげたじいさん」という覚え方を自分はしていた。
「き」の下に「は」と「じ」がある。
位置も覚えられる。
「はじき」を教えるなら、そういう風に教えると、覚えやすいと思うので紹介した。

2011年9月19日月曜日

嘘か夢か

夜回り先生こと、水谷修。
氏の紹介する話の中に「夢ふき」というのがある。
「ホラふき」、つまり嘘つきのことである。
この子は嘘をついているのではなく、夢を語っているのだと。

素晴らしい見方だと思う。
「嘘も方便」というが、嘘を「こうありたい」という願望として見てあげると、見方が変わる。

子どもが嘘をついたら、その背景を考えてあげたい。

2011年9月18日日曜日

価値ある不自然

前号と逆の話になる。
教えて欲しくもないものに、教えねばならないのが、小学校や中学校の教師である。
相手が食べたがらない餌を、何とかして食べさせて消化吸収させねばならない。
自然にしていれば、食べないものを食べさせる。
いうなれば、「不自然」である。

またまた野口氏の言葉だが「価値ある不自然」ということを話されていた。
「公」と「私」を使い分けるのである。
家の中では「私」全開でもいい。
しかし、大人になってひとたび社会に出たら「公」としての姿が求められるのである。
多少、無理が必要である。
あいさつが苦手でも、せねばならない。
無愛想な顔つきをして、接客をしたり、子どもの前に立ったりしてはならない。
辛いことや嫌なことがあっても、「公」の場では、笑顔である。
笑顔のプロといえば、スチュワーデス。
笑顔を、いつも練習している。
ある意味、無理をしている。
別人になっているのである。
「私はこうだから」と個性を主張するのはいい。
しかし、無愛想な教師やスチュワーデスは、やはり職業人として失格である。
最低限のラインである。

子どもはやがて大人になって社会に出るのだから、「公」の自分作りが大切である。
その時、個性うんぬん言ってあいさつもしない、不機嫌な顔つきでいるというのは、ダメだと教える必要がある。
「私」は放っておいても勝手に成長するが、「公」は矯正しないと身に付かないのである。

「価値ある不自然」を、堂々と教えよう。

2011年9月17日土曜日

「教えてください」

採用試験。
懐かしい響きである。
私の学校でも、現在採用試験に通るべく努力している先生が数人いる。
本当に受かって欲しいと心から思っている。
だから、「教えてください」と言ってくれば、他に仕事があろうが何だろうが快く引き受けている。
採用試験対策は、やはり現役の教師や校長等にきくのが一番である。

この「教えて下さい」が、すごく大切だと思う。
放っておいても教えてくれるという状態は、義務教育段階で終了している。
なぜなら、学びたいと思っている人間しか、教えても入らないからである。
成鳥になったのに、雛状態で餌を待っていても、餓死するだけである。
自分から動いて教えを請う必要がある。
免許更新や悉皆研修に実りがないのも、至極当然である。
(免許更新は、選び方次第らしいが。しかし人気があるところはすぐ埋まるという。)

常に謙虚に学び続ける者だけが、人に教える資格あり。
子どもに求める部分は、教師も努力せねばならない。

2011年9月16日金曜日

学級作りの教科書

個性を育てる、ということに関して、参考になる書籍を紹介する。

「学級作りの教科書」有田和正著 さくら社

今年読んだ教育書の中でもNo.1ヒットの良書である。
やはりこの本の中でも「あいさつ指導」「返事」という項目が取り上げられている。
いくつか内容を紹介する。

「返事の大切さを、再確認してほしい。(中略)
きちんと指導すればできる。
できないのは、指導をしていないか、指導のしかたが悪いかである。」

あいさつの「おあしす」
おはよう
ありがとう
しつれいしました
すみません

大らかになる「かきくけこ」
かっかするな
きにするな
くよくよするな
けんかするな
こせこせするな

「自分のクラスはいいクラスだと思わせる」

巻末には、以前このメルマガで紹介した「有田国憲法」の内容も採録されている。

個性を伸ばすために、やるべきことは徹底する。
野口氏の主張と共通する部分が多い。

とにかく買っておいて損はない一冊である。
読んでいただきたい。

2011年9月15日木曜日

なぜ日本の子どもは教師を尊敬できないのか

他国を見れば、「先生を尊敬していますか」という質問自体、当たり前すぎるレベルである。

日本の教師が、世界的に見て、怠惰で劣悪だから、というのなら分かる。
多分、逆だと思う。
世界的に見ても相当優秀で、真面目で努力家、本気でやってる人が多い(と思う)。
教師に精神疾患が多いあたりからも、相当真面目に悩んでる姿がうかがえる。

では、何が問題なのか。
「行きすぎた個性尊重」が原因だと考える。
野口氏は「行きすぎた子どもの人権保障」という話をされていた。
野口氏曰く「好きなようにさせていては、ろくなものにならない」。

以前「善意の強制」という話を紹介したが、あれである。
人間、放っておけば、易きに流れる。
自然の、そのままでいいならば、教育はいらない。
宝石の原石と一緒である。
ぶつけあって削り合って、研磨していかねばならない。
宝石になるはずの石を、「そのままでいい」と放っておかないことが教育の役割である。

例えば、言葉遣い。(はい、ありがとう、ごめんなさい)
例えば、姿勢。(立腰)
ここが変わると、態度も変わる。

子どもは、教えてもらいたい。
良くしてもらいたい。
誉めてもらいたいし、時に叱ってもらいたい。

そういう行為を、躊躇なくできるようになれば、教師への目も変わるかもしれない。
子どもは、強圧的な大人が嫌なのと同じくらい、弱腰の大人も嫌なのである。

教える側は、自信を持って子どもの前に立っていられるようにしたい。

2011年9月14日水曜日

先生を尊敬できない子ども達

前号の続きである。
気になる結果。
20カ国中何位なのか。

・・・・19位。
は、カナダ 70%
ここまで、日本はランクインしてこない。
つまり、最下位である。
20位 日本 21%

21%である。
19位との差が50%近く開いての、ダントツの最下位。
これはもう、ひどいとしか言いようがない。
教えを受ける相手のことを尊敬できない子どもが8割ということである。

野口氏曰く
「不幸なのは尊敬されない教師ではなく、子どもの方」と指摘する。
尊敬できない相手からものを教えられても、身に付くわけがない。
人の言うことをきかない、ワガママで自分勝手な人間が育つ。

尊敬されない教師が悪いのか。
教師の側に責任がないとはいえない。
しかし、大多数の教師は、熱心に、工夫も努力もして教えているはずである。

社会のせいか。
家庭のせいか。
だとしたら、どちらにせよ教育の責任ということになる。
そういう社会の基盤を作ったのが、教育である。

子どもが教師に対して尊敬の念を抱くようにしていくにはどうするのか。
次号から考えていく。

2011年9月13日火曜日

「先生を尊敬できるか」アンケート

前号の続きに当たる話を。
例の如く、先日野口芳宏氏から学んだ内容を伝える。
次のようなことを話されていた。

20カ国の中学生を対象に行った、「先生を尊敬できるか」というアンケートの結果がある。
結果は
1位 韓国   85%
2位 E.U.   83%
3位 アメリカ 82%
4位 中国   80%
・・・

さて、日本は第何位で、何%か。
予想していただきたい。

(次号に続く)

2011年9月12日月曜日

教育を食べ物にたとえると?

個性を尊重しよう。
違いを認める。
大変結構である。

だから、水を飲みたくない馬には飲ませなくてよい、となる。
・・・果たして、本当にそうだろうか。

その水を飲まないと、これから先の旅の途中で倒れるかもしれない。
何とかして飲ませないといけない。
そういうことも、ある。

教育内容を獲得していくことを、食べ物を消化することとたとえてみる。

あれもこれもと全部食べろと求めると、消化不良を起こす。
そこには、体に合っていないものも含まれる。
でも、試しに提供してやる必要はある。
食わず嫌いなだけで、すごく好きになるかもしれない。
逆にレバーみたいなクセの強いものを、体にいいからと言って無理矢理食べさせられたら、迷惑である。

一方、水は、好むと好まざるとに関わらず、確実に全員が吸収する必要がある。
これは、あの手この手で何とか飲ませる。
ニンジン嫌いの子どもに、母親がニンジンをみじん切りにして料理に混ぜて食べさせるのと同じである。

教育はこの辺りの見極めが結構大切ではないかと思う。
全てバランス良く食べてくれたら最高。
嫌いな野菜や食べ物がいくつかあるのは、正常。
しかし、異常に摂取量が少ない、水を全く飲まないとなると、これは病気になるので認めない。

水にあたる部分は、道徳ではないかと思う。
米やパンが、基礎学力。(種類は少なめ。たくさんとればエネルギー値が高い。)
肉や野菜は、各教科の力。(苦手がいくつかあるのは、あり得る。)
デザートは、遊び。(大抵は好きこのんでいくらでも食べる。)
コーヒーなどの嗜好品は、それぞれの趣味によるので、サッカーや野球、ピアノや習字などの習い事にあたる。
(楽しめれば人生が豊かになるが、別に食べなくても支障ないもの。)

そんな風に考えてみると、違いを認める部分と認めない部分が見えてくる。
(次号に続く)

2011年9月11日日曜日

馬に水を飲ませるには

「馬を水辺に連れて行くことはできる。
しかし、馬に水を飲ませることはできない。」
という格言がある。
悉皆研修は、この水辺に連れて行く行為にあたる。
喉が渇いている馬にはいいが、ほとんどがそうでない場合が多い。

逆に考えれば、喉が渇けば一人で水辺を探す訳である。
自主的な研修やサークルへの参加などがこれに当たる。

子どもに授業する時にも当てはまる原則である。
どうすると子どもはやる気を出すのかということについて、次号から考えたい。

2011年9月10日土曜日

教師の個性と得意な相手

個性の話について。
次のような本がある。
「オール1の落ちこぼれ、教師になる」宮本延春著 角川書店

中学1年~3年まで、オール1の成績で卒業したという、ある意味相当な強者である。
中学卒業時点で漢字は自分の名前が書けるだけ、九九は2の段、英語はbookの一単語のみ。
さすがにここまでの人は見たことがないレベルである。
「ヤンキー先生」の義家氏のような社会に反抗して暴れまくる感じではなく、完全な無気力タイプ。
勉強に意味を見いだせなかった著者が、アインシュタインの相対性理論に出会ったことで、勉強にはまっていくという話である。
最終的には、30代で教職につき、活躍する。
「自分より成績の悪い奴はいない」ということで、子ども達は希望を見出す。
氏が言うには「できない奴の気持ちが本当に分かる」ということである。

さて、この先生のようになりたいと私は思った。
しかし、無理である。
私は両親と死別をするような辛い経験もないし、ましてそんなすごい成績は見たこともない。
本当にできないで困っている子どもの心を、芯から理解するのは難しい。
人は、経験していないことは、実感できないのである。

つまり、教師にも個性があり、得意な相手、不得手な相手がいるということである。
勉強ができない子どもには、勉強ができない経験がある教師がいい。
逆に東大を目指す子どもには、やはり東大合格経験者の方がいい。

自分の経験に照らし合わせ、力になってアドバイスできる面、できない面を一度振り返るのもいい。
どんな子どもにも万人受けする教師は、存在しないと考える。

2011年9月9日金曜日

大縄指導に関心のある方へ

ここ数日、ページビューが急激に増えている。
原因は、大縄である。
大縄の指導法のページにアクセスが集中している。
どうやら、9月から大縄練習を始めた人が多いらしい。
お役に立てれば幸いである。
このブログはメルマガをもとに書いてある。
メルマガから約1ヶ月遅れでブログに記事をアップしている。
両方見てくれている方もいるようなので、少し期間を空けている訳である。

メルマガで、ニーズの高い大縄の記事を書き始めた。
もしタイムリーに知りたい方がいたら、メルマガの方も読んでいただきたい。
あちらでは質問も受け付けているので、積極的な利用をして欲しい。

個性を生かす教育とは?

本をたくさん読んでると、色々な人が「教師」について意見を書いている。
色々な意見があるが、教育書を除いて総じて論調は統一されている。
「教師はダメ」という論調である。(特にビジネス書には顕著である。)

教師は教育の目的をはっきりと言えない。
そもそも教育基本法すらまともに言えない。
教師は平均的な人間をつくる。
教師自身が没個性的だ。
教師はクビにならないから職業人としての意識が低い・・・

まあ、どれも当たってるといえば当たってるし、全然違うといえば全然違う。
「教師は」というくくりで見ている時点で、確実に全員に当てはまらない。
色んな教師がいるのに、そんなひとくくりで見られてはたまらない。
教師にだって、個性がある。

しかしながら、我々教師も、子ども達をひとくくりに見がちである。
「1年生だし・・・」「6年生なんだから・・・」というのも、必ずしも正しいとはいえない。
「忘れ物が多いから○○」「算数が苦手だから○○」「発表しないから○○」という風にも、つい見がちである。
上記のようなことができようができまいが、人格とは全く別問題である。
だが、ついつい学業成績のいい子どもは「いい子」と錯覚しがちである。

人間には、個性がある。
それを認めながら、教師は平均的な能力を身につけさせることを求められる。
なかなかに苦しい立場である。
大体、教師自身が平均的な能力を持っていないのである。
教える相手も、同じである。
たまたま平均的によくできる子どもが、学校内での「優秀な子」である。

個性について、今後少し論じていきたい。
(陸上ネタが続いているので、ちょっと視点を変えて。)

2011年9月8日木曜日

走り幅跳びは「かかとの位置選手権」

体育研修会伝達シリーズ第7弾。
走り幅跳びについて。

走り幅跳びにおいて、大切なのはどこか。
助走、踏み切り、空中姿勢、着地と大きく4つに分解できる。
どこの局面が大切か。
結論から言うと、この分習法的な考え方からまず離れることである。

須田氏は、幅跳びを「かかとの位置選手権」と教える。
フォームがどうであろうが、とにかくかかとの位置が遠くにある奴が勝ち。
そういうシンプルな遊びに落とし込むことで、初めて子どもの本来の動きが引き出せるという。

そのためには、踏み切りゾーンを小さな板の幅に限定せず、1mくらいとって、思い切り跳ばせる。
とにかく、思い切り跳ぶ感覚を引き出すのが大切である。

そうすると、一番跳べる助走距離というのが気になる。
どれぐらい助走をとれば最適なのか。

本物の川跳びを思い浮かべるといい。
跳べなければ、川の水の中に落ちる。
子どもは、適切な助走距離を自分で探すはずである。

参考までに言うと、小学生なら14歩か16歩で踏み切れる位置が、ベストな助走位置であることが多い。
偶数で踏み切るようにすると、踏み切り足を前に出して構えてのスタートになり、足の位置が合わせやすい。

幅跳びの醍醐味は、ふわっと空中に跳んでる感じである。
楽しさを感じ取れる授業に工夫していくことが、大切である。

2011年9月7日水曜日

ハードル走は「ハムのお中元」

体育研修会伝達シリーズ第6弾。
ハードル走の指導。

ハードル走においては、どういう走りができれば良いのか。
大会や記録会を想定すれば、要は短いタイムで駆け抜ける程いいのである。
その際、フォームが美しいだとかは実は関係ない。
良いフォームだから良いタイムが出たというだけのことである。

では、より速くするにはどうするか。
前に進めば良いのである。
グラフでいうと、X軸方向が大切であって、Y軸方向にがんばる意味はない。
いわゆる、前のめりな走りが欲しい。
しかし、えてして上体を垂直に立てた姿勢で上に跳び上がってしまいがちである。
この跳び方でハードルに上から落ちて当たると、非常に痛い。

では、どうやって上体をおさえた前のめりな姿勢を作るか。
「ダブルアーム」という方法を使う。
要は、両腕を前に出してハードルを跳び越す。
自然と、上体がおさえられ、理想的なフォームに近づく。
ただ、これは「上体をおさえて前に跳ぶ」という姿勢作りのための方法(分習法)なので、できるようになったら普通に戻す。

イメージとしては、ハードルの前方に、サーカスのライオンが飛び込む火の輪をイメージする。
そこに向かってとびこむ。
自然と、体がたたまれてコンパクトな姿勢になる。

ちなみに理想的な上体の姿勢は、「お中元」だそうである。
片方の脇にお中元のハムを抱えて、もう片方の手を伸ばし「ピンポン」とチャイムを鳴らす。

一つの例だが、イメージ化できるように伝えることが大切である。

2011年9月6日火曜日

バトンパスは前を向いて?

体育研修会伝達シリーズ第5弾。
リレーのバトンパスについて。

リレーのバトンパスにおいて何が大変かというと、次走者が前を向いてバトンを受け取ることである。
しかも、スピードに乗った状態で行わなければならない。

小学生に、ここを求める必要がないという話である。
実際、大学レベルだって4×400mリレーのバトンパスの際は、後ろを見ながらバトンを受け取るらしい。
400mだからといって決して遅い訳ではなく、100mを10~11秒台の速さである。
小学生と比べるまでもない速さである。
つまり、小学生の場合なら後ろを向きながらでもなんら問題はないとも考えられる。

具体的にどう指導するか。
自分のスタートラインから、一定の歩数でスタートダッシュ地点を決める。
そして、そこにバトンを持った走者の胸が通る地点で走り始める。
この時、前号で紹介した「1,2,34!」でダッシュする。
「1,2,34!」の4歩だけは、前を見て全力ダッシュする。
その後は後ろを見てしっかりバトンを受け取る。

渡す方は、バトンを垂直に立てて、相手の手の平に10cmだけ押しつける。
これ以上押すと、相手の手にケガを負わせる可能性があるためである。
0cmだと、相手がバトンを落とす可能性がある。
だから、10cm押しつける。

「バトンパスは前を向いて行うものだ」という考え方も、何のためなのか考える必要があると教えられた。

2011年9月5日月曜日

100m走ゴール前は「小さく小さく!」

体育研修会伝達シリーズ第4弾。
今日は短距離走の中間疾走からゴールまでの動きの指導について。

100m走において、トップスピードになるのは大体何mの地点か?
これは個人差があるが、一般人よりもオリンピック選手の方がトップスピードに乗るまでの距離は長い。
オリンピック選手で、40m辺りだそうである。
普通の大人なら30m前後でトップスピードになるらしい。
小学生になると、15m、良くて20m地点。
つまり、残りの区間は維持&スピードダウンということである。
後半にスピードアップを期待しても無駄。
いかにスピードダウンを緩やかにするかがポイントとなる。

そう考えると、ゴール前の「もっと大きく!」「腕ふって!」という声かけは誤っていることになる。
体力の落ちた状態で大きくふれば、ゆっくりしたペースになり、スピードダウンする。
ここは「もっと小さく小さく!」と声かけする。
細かく動かすことで、スピードダウンを防ぐというねらいである。
小学生は確実に後半ピッチが落ちるからである。
(オリンピック選手を見ると、ピッチが全く変わっていないことが分かる。)

そして、中間疾走からゴールまでは一点を決めて見つめて走るということも基本である。

今までの常識を覆す理論である。
しかし、今までの方法で効果が上がらない以上、試してみる価値があると思う。

2011年9月4日日曜日

スタートダッシュで「1,2,3,4!」

体育研修会伝達シリーズ第3弾。
短距離走やリレーのスタートダッシュについて。

まずはクラウチングスタートの姿勢について。
「スタブロは前足二足長、後ろ足三足長が目安」
「手のつく位置は肩幅よりやや広め」
「両手の親指の間を一辺とした正三角形の頂点に目線」
など、基本的な内容を一通り学習。

スタート後、「1,2,3,4!」と最初の4歩を声を出してダッシュする。
これも、全部同じテンポではいけない。
「演歌調」で「い~ち、に、さんっしっ」という感じである。
「1」が一番長い。
なぜか。
接地時間が長いからである。
止まっている物体を押すときと一緒で、最初は力がいる。
最初にしっかりと地面からエネルギーを得ることで、その後のスピードが変わるということである。

次回は、中間疾走からゴールまでの動きについてお伝えする。

2011年9月3日土曜日

ももあげは何のため?

新学期ネタが途中で入ったので中断していたが、数回前の陸上の研修会での学びの続きを。
陸上の短距離走の指導で、「ももあげ」のドリルをやらせる。
何のためなのか。
もっというと、どういうももあげができればOKなのか。
少し考えていただきたい。
「理想のももあげ運動」とは?
そのポイントを一つだけ教えるとしたら?

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
須田先生は次のような話をされた。
ももあげ運動は、骨盤が最初から前傾している欧米の選手に有効な方法である。
日本人は最初から骨盤が後ろに傾いているため、ももあげは容易である。
簡単に高くももがあがる。
つまり、「ももを高く上げる」という練習は、日本人にはあまり必要がない。
しかしそれでもやるとしたら、どこがポイントなのか。

そもそも、ももを上げる意味は何なのか。
これは、「地面から得るエネルギーを多くするため」である。
あまりに低いと、反発力が得られない。
しかし高すぎても、無意味である。

どういう風に踏めばいいのか。
「350ミリリットルの空き缶を一気に潰すように」踏むのがよい。
真下に、グシャッという感じである。
スキップなら、500ミリリットルの缶である。
要は、「地面から一瞬で力を得る」というのがポイントになる。
べたっと着いてはいけない。
一瞬で、かつしっかりと踏み込む。

ももあげ一つとっても、「何のための練習なのか」が明確になると、取り組み方が変わる。

次回は、「良いスタートダッシュとは?」についてのお話を紹介する。

2011年9月1日木曜日

心と体が重い時には

物事は動き出しに一番エネルギーを使う。
物理でも、止まっている物体を動かすのが一番大変である。
動き出した後は慣性の法則で流れていく。

新学期、子ども同様、教師も心と体が重いことが多い。
自然の法則からいっても、至極当然である。
少しでも軽くする方法を紹介する。

心の方から。
不安を書き出すという方法がある。
不安に思っていることを箇条書きで全て紙に書いてみる。
書いたものを読み返し、今の自分にどうにかできることか、放っておくものか考える。
対策行動がとれるならば、それも書く。
不安は、見えないから不安であって、見えるようにすることで消えるものが多い。

体の方。
これはもう、おっくうでも動かすにつきる。
簡単な体操やランニングのような運動をする。
教室の掃除をする。
廊下を歩く時に背筋を伸ばして歩いてみる。
体が心を支配している面があるので、そうすることで心の方にもプラスの影響が出る。

当たり前すぎることばかりだが、意外と効果があるので、重い人は試してみて欲しい。

2011年8月30日火曜日

ピッチャーへ「肘を下げるな!」と言う科学的な理由は?

先日、体育の研修会に参加してきた。
講師は須田和人先生。
陸上競技と野球について素晴らしい実績を持つプロトレーニングコーチである。
大変有益な内容であったので、読者の皆様にも数回に分けてシェアしたい。

ボール投げの話を紹介する。
よく野球の監督がピッチャーに「肘を下げるな!」と指導している。
知っている方も多いのではないかと思う。
しかし、なぜ肘が下がるといけないのかは、知らない。

ここで一つ簡単な体操をしていただきたい。
ランジの姿勢(片足を大きく前に出して足を前後に開いた姿勢で、腰は立てたまま前の膝を曲げる)をとる。
腕を胸の前で組み、腰を左右にひねってみる。
ちょこちょことしか動かないはずである。
次に、バンザイして腰を左右にひねってみる。
先ほどの倍ぐらい可動範囲が広がるはずである。

なぜなのか。
要は、腕の筋肉と腰の筋肉が連動しているからである。
もっというと、手の平がどちらを向いているかでも、他の部位の動きが変わってくる。
一見、関係ないような部分が、動き全体に影響しているのである。
ピッチャーが肘を意識しなければならない理由は、腰の可動範囲に影響が出るからである。

このことは運動全般に関わってくる。
なぜそのフォームがいいのか。
何のためにその練習をするのか。

次回は「陸上練習でももあげをする必要はあるのか?何のためなのか?」という内容をお伝えする。

2011年8月29日月曜日

自由はいつ手に入る

子どもの頃、大人は自由でいいな、と憧れた。
大人は自分で仕事を選んでお金を稼げるし、どこだって行ける。
子どもの自分は、手持ちの小遣いの範囲でしか物が買えず、行動範囲も自分の住む町の中だけ。

しかし、大人になって見直してみると、規模が変わっただけで、実質は変わらない。
多分、それはどんなに変化が起きても、同じである。
むしろ、子どもの頃の方が、時間の自由があり、心も自由であったかもしれない。

つまり、「隣の芝生は青く見える」ということである。
以前自分が持っていたものでさえ、うらやましく思えてくる。
代表的なのが「若さ」で、大学生ですら「もう若くない」と言い張る。
自分が30代でも40代でも、50代でも、たとえ100歳でも、未来の自分から見たら今が一番若い。
何でも楽しむなら、今である。
自由を手にできるのも、今である。

夏休みが終わってしまったと嘆くのも無駄である。
どうせどんなに長く夏休みがあっても、大したことはしない。
やる人は平日だってやる。
仕事ができることは、ありがたいことである。

(と、考えるのもよろしいのではないかという提案である。)

2011年8月28日日曜日

子どもになる

成長するにつれて、子どもの心を忘れていく。
子どもの頃に楽しかったことや、辛かったことも忘れていく。
(夏休みに教師が鬼のような量の宿題を平気な顔で出せるのも、ここにそもそもの原因があると思う。)
何より、楽しむ感性が失われていく。

世界で最も自由な人間は、1歳児である。
とにかく、思うままに動き回る。
泣きたい時は泣きわめくし、楽しいことは何回でもエンドレスに繰り返す。
なぜか。
理由は、「そうしたいから。」
ザ・自由人。
(ちなみに0歳児でない理由は、彼らが歩き回れない&しゃべれないからである。)
何にでも熱中して楽しみ、興味が移ったらすぐさまそこに直行。
多分、世界がバラ色に映っているのではないかと思う。

で、本題。
たまには子どもになろうという提案である。
子どもを教える職業柄、子どもの心を失わないことが大切である。
休み時間に子どもと遊ぶのを薦める理由も、ここにある。(たまにでよい。)
自分の夏休みを振り返り、子どもに戻れる時間があったなら、そういう話を夏休み明けにするのもいいと思う。

2011年8月27日土曜日

ポジティブなことはいいことか

前向きな人と後ろ向きな人がいる。
ポジティブ、ネガティブという言い方もある。
日本人の割合でいくと、2:8ぐらいだというようなことを何かの本で読んだ。
心配性の日本人なら、そうかもしれないと思う。

世の中の自己啓発系の本は、ポジティブ推奨である。
ポジティブな人にとってはいいが、ネガティブな人にとっては大きなお世話である。
読まない方がいい。
なぜか。
そういう性質に生まれついているからである。
不自然になる。
そして、世の中には両方いないと困るからである。

学校職員が全員ポジティブ状態とする。
何か新しいことをやろう、リスクがあってもやろうということになる。
歯止めが効かない状態である。
多分、けが人も大勢でる。
保護者からのクレームは必至である。

逆に、全員ネガティブ状態。
常に「例年通り」「よくわからないし危険だからやらない」ということになる。
危険がない代わりに、変化がない。
変化がないことに気付かない状態が、一番危険である。
これも、問題である。

やはり、色々なタイプの職員がいるのが一番いい。
口うるさいのもいい加減なのも、優しいのも毒舌家も色々いるのがいい。
クラスの子どもも、同様である。
どうせなら、いい所に目を向けて教育したい。

2011年8月26日金曜日

早起きは三文の得?

夏休みの過ごし方として「早寝早起き」を指導した方も多いと思う。
何度も言っているが、子どもに指導している内容は、実は自分自身が気を付けるべきことである。
他にも・・・
夏休みの計画をきちんと立てる
本をたくさん読む
毎日勉強する
毎日運動をする
宿題をためないでコツコツ計画的にこなす
新しい体験をする
などなど。
全部きちんとできている人がいたら、大したものだと思う。
教える側が必ずしもできている必要はない、という面もある。
道徳を教える人間が必ずしも道徳的とは限らない、と大学の某有名教授もおっしゃっていた。

しかし、である。
やっぱり、上記に挙げたようなことは、教師もできていることが望ましい。
これら全ての基礎になるのが、「早起き」である。
早起きすると、一日をゆっくりとスタートすることができる。
今日一日から、ずっと先までの計画を立てることもできる。
気温も日中と違い、涼しく爽やかである。
朝のランニングでちょっとした林の脇でも走れば、もう気分爽快、パワー全開でスタートできる。
本を読んだり勉強したり、課題をこなす時間も確保できる。

日中自由になる時間が簡単に確保できる人は、別に早起きにこだわらなくてもいい。
多分、そうでない方は、自然と早起き生活になっているはずである。
早起きは三文の得、という。
三文どころの価値ではない。
自由に過ごせるからこそ、きちんと生活リズムを整えたい。

2011年8月25日木曜日

本音と建前 全員の子どもの到達目標 

本音を言う。
全員が全国統一された画一的な目標に辿り着くことは無理だと思う。
算数が苦手な子どもは、ある程度以上を求めても厳しい。
図工が苦手な子どもも、体育が苦手な子どもも同様である。
私に音楽や家庭科を教えた先生の苦労が偲ばれる。

ただ逆を言うと、やりようによっては個人の最大限までは引き上げられるということである。
どうせできないだろうと思ってやらせない、努力しないのは、最大の罪である。

わかりやすい例で言うと、鉄棒運動の逆上がり。
せめて2年生ぐらいまでに本気で取り組んだ経験があれば、9割以上の子どもは何とかなる。
この時期を逃してしまうと、もう取り返しがつかなくなる子どもが出てくる。

だから、やはり建前として、到達目標を立てる意味はあると思う。
ただ本当に全員がそこに辿り着くかというと、本音を言うと難しい。
それも分かった上で、最大限効果のある方法を模索することが大切だと思う。
できなくっても「がんばったね」と声をかけることは必須である。
ただし、教師がその言葉に甘えた時、教師も子どももそれ以上の成長は望めなくなる。
教師は教えるプロなのだから結果が必要である。
できなくても努力する前向きな心を養えたなら、それも結果。
やっぱり自分はできないという気持ちを植え付けさせても、一つの結果。
どんな場合であれ、質の良い結果を残してあげたい。

建前も使いようである。

2011年8月23日火曜日

昼休みの仕事でスピードアップ

夏休みに使えるかもしれない、スピードアップの仕事術を一つ紹介する。
実は、あまりオススメしてはいけない気もする方法なので、適当に聞いていただきたい。

夏休みになると、給食がないため、昼休みはランチに出かけることが多いと思う。
日直だと出かけられないかもしれないが、それでも昼食はとる。
出かけてもどってくるまで約1時間。
そして昼食後は脳の働きが完全に「リラックス」モードになる。
朝の真逆の状態になる。
仕事に最も適さない時間である。
元に戻すのに約1時間。
12時にランチに行ったとして、2時まではまともに仕事にならない。
(特に、満腹まで食べると、もっと時間がかかる。)

極端な話、昼食をとらなければ、この時間も仕事できる。
お腹が空くし疲れるので、水と軽食程度はとる。
これは、ちょいちょいとる。
1時間あたり10分程度の休憩をとりがてら食べる。
こうすると、集中力が続く。
これを繰り返し、5時に定刻に退勤する。
昼食分の約2時間は能率的に仕事を進めているので、7時退勤の仕事量になる。
(いや、多分それ以上である。)

同僚との付き合い等もあると思うので、必ずしもオススメできない。
一日三食という健康の面からも、微妙な方法ではある。
しかし、能率的に仕事がバリバリ進むのだけは間違いない。
周りの人に気を遣いつつ、実験してみていただきたい。

2011年8月22日月曜日

夏休み中の研修をどう活かすか

三年前の記事だが再アップ。


夏休みに入ると、研修の機会が多い。
すばらしい実践を見て、やる気を出すことも多い。

しかし、実践するかどうかは、別である。
特に夏休み中は子どもに直接指導できない為、学んだ内容をしばらく保持しておかねばならない。
夏休み明けには忙しさにかまけて忘れてしまうのがオチである。

どうするか。
一つの方法として、「その日の内にまとめる」というものがある。
もっというと、その場でまとめる方がいい。
情熱はどんどん薄れていくので、熱い内にノートにでも何でも記録しておく。
資料をためておいてもダメである。
自分の言葉に変換して書き記す必要がある。
そういう風に決まったノートやファイルに書きためておくことで、後で見返すのが容易になる。
本当に良い内容なら、文書としてきちんと打って、周りの職員に配るようにすれば更に良い。
アウトプットする目的が最初からあれば、インプットの時にもやる気が出る。

「いつかやろう」の「いつか」は一生来ない。
やるなら、今。
とりあえず、研修で得た内容は、何かしら自分の言葉でまとめておきたい。

2011年8月21日日曜日

「無敵」の教育

「無敵」。
いかにも強そうな状態である。
敵がどれほどいようが、バタバタなぎ倒していくイメージのある言葉である。

今日紹介する「無敵」の話は、ちょっと違う。
次の著書から引用して、紹介する。
「楽しい人生を生きる宇宙法則」小林正観著 講談社
(何やら怪しげなタイトルの本ではあるが、宗教ではない。)

次のようなことが書かれていた。
学校教育において、我々は「き・く・あ」の価値観を前提として教え込まれている。
「競うこと・比べること・争うこと」の三つの頭文字である。
相対評価はその代表。
「優勝」という言葉も「優勝劣敗」という四文字熟語の上の二字であり、勝利の価値を刷り込まれてきた。
この価値観を逆転すべきである。
「競わない・比べない・争わない」が、21世紀的価値観ではないか。

・・・という件があり、さらに次のようなエピソードも紹介されている。

自分の娘は障害があり、筋肉が通常の半分程度の強さしかない。
当然、足が遅く、運動会では必ずビリ。
6年生の時、妻が「今年はビリじゃないかも」という。
どういうことかというと、ケガをして走れない状態なのに出場するという同級生がいるとのこと。
しかし運動会当日は、やっぱりビリだった。
聞くと、100m走の半ばで8人中娘は7位、ケガの同級生は8位。
そこで、同級生が「きゃっ」と声を上げて転んだ。
その時、娘は「どうしたの」とトコトコ逆走して駆け寄り、その子の腕をとって起こし、歩かせた。
ゴール前までつれてってポンと背中を押して、その後自分もゴールした。

そういう話である。
この娘さんは、いつもニコニコして、頼まれ事は何でもやるという。
人の役に立つ人間である。
誰からも好かれている。
即ちこれが、「無敵」。
「敵が無い」=「みんな味方」という状態である。

学校教育から競争をなくすことは難しいかもしれない。
競争にも、価値はある。
日本の高度経済成長を支えたのは、間違いなくこの競争意識である。
事実、その恩恵にあずかって今の暮らしがある。
しかし、より高い価値を目指していくべきだという筆者の考えにも共感できる。
教育に競争はなじむのか。
日本の教育は今、何を目指しているのか。
「無敵」の考えも、一つ大切な視点ではないかと思う。

2011年8月20日土曜日

時間の使い方

時間の使い方は人それぞれである。
勉強が苦手な子どもは、時間の使い方に無駄が多い場合が多々ある。
例えば、テレビの見過ぎ。
テレビを見ることが悪いのではなく、テレビに時間を使いすぎて他のことができなくなるのが問題である。
ゲームも同様。
ゲーム自体は別にいいが、時間を浪費しすぎていることが多い。

自分の自由に使える時間を書き出す。
その内、何時間を何に使っているか。
何かをだらだらやる癖があると、どうしても時間は減る。
極端なことを言うと、本を読むためにテレビを見ないという手段もとれる。

加えて、睡眠時間は自由時間の量を左右するので、寝過ぎも注意である。

時間をどう使っているか、夏休みを機会に見直してみるのもいい。

2011年8月19日金曜日

通知票も「指導」の一つ

通知票を直接子どもに渡す場合と、面談で渡す場合がある。
いずれにせよ、通知票に書かれた内容がきちんと伝わることが大切である。
通知票に書かれた内容も、教師から子どもと親への「指導」である。

私が必ず言うのは、通知票の結果に一喜一憂しないこと。
3段階で「3」が「2」になると、落ち込む。
しかし、「3」をとれば、もうこれ以上、上がることはないのである。
よくてキープ、下がって普通である。
逆に、「2」になったら、また「3」を目指して、次上がる可能性がある。
まして「1」なら、もう次に上がる可能性大である。
この「まだ伸びる部分」を「伸び代(のびしろ)」という。
ここ最近広がった造語であるが、なかなかいい言葉だと思う。
結果が今一つだった子どもには「のびしろがたくさんあるね。楽しみだね。」と声かけをしてあげたい。

大体、通知票の結果なんていうものは、本人の平均値周辺を上下するだけである。
結果は、正直どうでもいい。
要は、通知票を書いて渡すことで、子どもと親にどんなプラスの影響があるか、それだけである。

通知票にも、明確なねらいを持ちたい。

2011年8月18日木曜日

できることはやる

返事をする。
お願いしますと言う。
ありがとうございますと言う。
ゴミが落ちてたら拾う。
どれも、誰にもできることである。
しかし、多くの子どもはやれていないところでもある。

できることは、きちんとやらせる。
私はよく「やれなかったの?やらなかったの?」と聞く。
(ちなみに、この問いかけは相田みつを氏の詩の一節を使っている。)
やれないことは仕方ないが、やれることをやらないのはいけない。
「○○君はできる。でもやらない。それはダメだろう。」と伝える。
返事なんて、できないはずはない。
しかし、できない子どもも多い。

習慣づいていないのである。
やらねばならないという意識が低いのである。
だから、やれるようになるまで、やれることは徹底してやらせる。
「ありがとうございます」は、自然に口から出るようになるまでは、強制してよい。
型から入って、意味が分かるということもある。

やれることをやらない状態を見逃していないか、見直してみるのもいい。

2011年8月17日水曜日

三人の武将

以前、怒ってもいいじゃないかという話をした。
しかし、怒るという行為も、向き不向きがある。
怒っても全然迫力がない人もいる。
ちょっと怒っただけで、ものすごい怖さを出す人もいる。

例を挙げる。
社会科で三人の武将について授業する。
織田信長。
豊臣秀吉。
徳川家康。
三人それぞれ短気、賢明、我慢強い、と性格が全く違う。
三人の共通点は何か。
天下統一を目指している点と、人がついてくるリーダーだという点である。

信長はリーダーシップをとってがんがん引っ張るタイプ。
ちょっと怖いが、意外と情にもろく、リーダーとしては頼れる。
怒られてもめげない家来、強い人に引っ張ってもらいたい家来にはいい。

秀吉は知性があり、冷静な判断を下して指示を出すタイプ。
いつでも冷静沈着、的確に指示を出して下を引っ張る。
指示を素直に聞く家来、自主性や決断力がない家来にはいい。

家康は温厚でよく家来の話を聞き、みんなで決めようというタイプ。
母性的であり、安心してついていける。
自分の主張を聞いてもらいたい家来、臆病なタイプの家来にはいい。

学級に当てはめると、武将は教師、家来は子どもである。
子どもは教師の家来ではないが、相対的な立場として見ると、やはりこれに近い。
(武将の方針・指示をもとに、それぞれの家来が判断して動くからである。)

学級には色んなタイプの子どもがいる。
だから、たまたま合う教師と、合わない教師がいて当然である。
教師の側とて同様である。
やり方一つとっても、全ての教師に当てはまる方法はない。
家康タイプの教師なら、無理に怒らないで、違う方法をとれるはずである。

自分のタイプを知り、何を目指すのか考えよう。

2011年8月16日火曜日

教育が国を変える

昨日の終戦記念日にちなんで、前号の続きを。
ちなみにこの場合の終戦は、日本にとっての終戦である。
ポツダム宣言受諾を国民に発表した日である。
宣言受諾自体は長崎に原爆を落とされた8月9日に決定し、翌日10日に連合国へ通知したらしい。
正直、遅すぎである。
どんなに譲っても、8月6日には決定できたはずである。
7月のポツダム宣言が出た時点でさっさと受諾してくれというのが国民の本音だろう。
その当時の首脳部がどう考えていたかは分からないが、国民、中でも子どもを持つ母親は一刻も早く終わって欲しかったはずである。
国のトップがどんな考えを持った集団であるかというのは、やはり大切である。

北方領土問題は、終戦日がいつかということに大きくに関連する。
ロシアからすれば、「終戦してないよ、うちは聞いてないよ」という理論で、8月15日以降も北方領土侵攻を進めた。
日ソ中立条約も完全無視である。(何のための条約なんだ。)
結局、それでずるい、ずるくないの水掛論がかれこれ66年続いている訳である。
日本人の立場からすれば、これはもう完全に日本の領土であるという主張で一貫すべきと考える。
以前にも書いたが、けんかに負けて土下座してる人の頭を横から蹴っ飛ばす行為は、完全にルール違反である。
子どもに賛否を考えさせるのはいいが、やはり情報不足の中での思考になるので、ある程度きちんと教えた方が良いと思う。

国民を戦争に走らせたのも、教育のなせる業である。
教育が国を変える。
我々教師は、最重要任務を背負った職務である。
そう考えると、やる気も出るし、職業に対する畏れや誇りも持てるのではないだろうか。

2011年8月15日月曜日

終戦記念日に思う

今日は、終戦記念日である。

歴史、とりわけ戦争について学習することは、国際社会で活躍する日本人を育成する上でも極めて重要である。
英語教育を推進するなら、こっちも同時に強化していかないと、恥さらしを生むだけである。
(太平洋戦争を学ばずにアメリカへ渡ったら、南京大虐殺を知らずに中国に渡ったら、どちらも恐ろしいことである。)

日本人として、ヒロシマ、ナガサキの原爆については、若くてもある程度の見解を持っていたい。
原爆によって世界に平和がもたらされたという論調に、日本人として同意する訳にはいかない。
世界唯一の被爆国の国民なのである。
世界一平和をアピールする必要のある国民である。
原爆を持つ国に対して、「反対」と堂々と言える世界でただ一つの国である。

戦争はどんなに掘り下げても、悪である。
子ども達にはそこを強調しつつ、ではなぜそんな愚かな行為に走らざるを得なくなったのか、
その辺りを十分に学んで伝える必要がある。
神風特攻隊に対し、ただの命知らずというような見方をする日本人を育ててはならない。
(何でこんな重要なことが、義務教育段階で全ての子どもにきちんと教えられてないのか、疑問である。)

戦争反対、当たり前である。
それでもなお今戦争をしている国がある。
そういう国に対して上から目線で「愚かだなぁ」などというほど愚かなことはない。
子ども達も「戦争は悪い」ぐらいは分かっている。
それでも銃を持って戦うはめになっている子ども達に、思いを馳せるようにしたい。
ちなみに、ユニセフに問い合わせると、その辺りの資料を大量に持っている。
有料で郵送してくれるものやプレゼントしてくれるものもあるので、活用するといいかもしれない。
(次号に続く)

2011年8月14日日曜日

怒っちゃダメ?

「叱るのはいいが怒ってはいけない」という論調が一般にある(ように思う)。
私は、これに反対である。
教師も一人の人間として、一人の人間である子どもに、感情を交えて怒ってもいいと思う。
何もかも論理的にやられたら、気持ち悪い。

ある人は、いじめ行為が感情的に許せない。
怒鳴り飛ばして怒る。
その迫力・剣幕に圧倒されることで、変わる子どもだっている。

ある人は、宿題を毎回やってこない子どもが許せない。
これをきちんとやることが、子どもの成長につながると強く信じている。
感情的には、自分が大切だと思っていることを放棄しているのが許せない。
だから、怒る。
叱るというより「その反省のない行動が気に入らない!」と怒る。
実に、人間的であると思う。
宿題忘れなんてどーでもいいじゃんなんて意見だってある。
でも、この人にとっては、大切なことであって、許せない。
だから、怒る。
それでいいと思う。
信条がはっきりしているから、怒れるのだと思う。

逆に、やたら怒るのも考えものである。
それは教えてないから無理じゃない?ということにまで怒る人がいる。
そういう理不尽な怒りは、反抗心を生むだけなので、避けた方がよい。

いずれにせよ、子どもに何で怒っているのか分からせるのが大切である。
教師も一人の人間であり、聖人ではない。
一人の人間という、子どもと同じ立場に立って、堂々と怒ることも、時に大切であると思う。

2011年8月13日土曜日

スピーディーな誤答を奨励

間違いを認めるのは大切である。
いや、認めるというより、歓迎するといった方がいい。
「まちがいは、○組の宝物!」といった掲示物がある学級もある。
この考え方自体に反対する人は、少数ではないかと思う。
無論、私も賛成派である。

しかし、言うは易く行うは難しで、なかなかこれが難しい。
授業研なぞで、期待している答えがでないと、誘導尋問みたいになってくるのをよく見る。
子どもは必死で教師の求める解を探すので、間違いをすることは地雷を踏む行為になる。
ここまで極端な状況でなくとも、例えば算数で進度が遅れている時、ついつい早く正解が欲しくなる。
そういう態度は、確実に子どもに伝わり、結果、間違いを怖れる傾向が出てくる。

どうするか。
普段から、スピーディーに答えさせることである。
指名されてからの沈黙ほど、無駄なものはない。
(ここで子どもの思考が・・・という意見もありそうだが、指名される前に考えるべきことだと私は思う。)

具体的にどうすべきか。
それぞれ、次のように評価する。
沈黙。
これは0点。
無駄に全員の時間を奪うので、最低行為である。

「わかりません」と答える。
これは、50点。
時間を無駄にしないのはいいのだが、思考を放棄している。
しかも、何やらネガティブな印象を与えるのも良くない。

誤答を答える。
これは100点。
授業では合ってるかどうかは最終的な問題で、要は考えを持ったかという過程が大切である。
最後に理解できれば、正答でもいいが、誤答でもいい。
いずれも100点。
教師が、そう断定する。
むしろ、誤答を即答した場合は、誉めまくってよい。
時間を奪わず、かつ間違いを提示することで、考えさせる機会を提供したのだから、最高である。

誤答を歓迎しつつ、スピード・リズムを意識して、授業しよう。

2011年8月12日金曜日

脱完璧主義

完璧主義でいくと、動けない。
たとえば、実践発表をしたいと思っているとする。
しかし、自分程度の実践ではとても人様にお見せできない、と誰しもが思う。

ここで完璧主義だと、「まだ早い」ということになり、一生発表できない。
なぜなら、どのレベルの人も、常に自分より上が見えているからである。
下に後輩もいるのだが、完璧主義は常に上に目が向く。
だから、自分程度ではと思って、発表できない。

お金の話になるが、多くの人が「あと20%収入が多ければ、豊かに暮らせる」と考えているらしい。
月収30万円の人は、あと6万円。
月収100万円の人は、あと20万円。
月収1000万円の人は、あと200万円・・・
嘘みたいな話だが、本当の話である。
きりがない。
極端な話、ビル・ゲイツと比べたら、みんな見劣りする。
しかしビル・ゲイツと比べるなんて、誰がどう見ても、どーでもいいことである。
ビルゲイツとは比べないけど、知り合いとは比べる。
これも客観的に見れば、本当にどーでもいいことである。

実践発表もこれに似ていて、どのレベルにいたって、あと20%あれば自信もってやれる、と思う。
この自信がある状態は、一生やってこない。
プラス20%の実力になった頃は、更にプラス20%を求めるからである。
だから、実践発表は、今、進んでやる。
これに尽きる。
どうせ自分の発表なんて、見る人から見れば稚拙な実践である。
これは、10年後になっても、変わらない。
でも、稚拙な実践発表をし続けた10年後と、何もしなかった10年後は、全然違う。
うまくできるかどうかは、どうでもいい。
やる。
これが、一番大切ではないかと思う。

完璧なんて、どこにも存在しない。
どうせなら、不完全なままで、がんばりたい。

2011年8月11日木曜日

波を見極める

仕事は波に乗ってる時と乗ってない時がある。
サーフィンと同じで、乗ってない時にもがくと、苦しいだけである。
波にのまれた時にパニックになって暴れると、非常に苦しい。
サーフボードが眼や鼻、耳などに当たって大けがをすることもある。
波にのまれてしまったら、もがかず水中で小さくなって息を止め、うねりがおさまるのを待つ。
落ち着いたら、空の方向目指して泳ぎ、水中から顔を出す。
これは、仕事でも同じである。

波に乗れていない時に、無理に乗ろうとしてはいけない。
タイミングが悪いのである。
時期を待ち、今できることだけをする。

逆に、乗っている時は、どんどんやる。
乗っていない時の100倍ぐらいやっていい。
仕事を楽しくやる上で、そういうメリハリをつけることは、大切である。

2011年8月9日火曜日

仕事か私事か

今回は教育観というか、仕事観の話である。
前号で、暇がないことはありがたいことだという話を書いた。
誤解のないように言うが、残業を推進している訳ではない。
真逆で、仕事を楽しく時間内にしっかりこなそうという話である。

そもそも、社会に出て働く理由は何か。
私は、人々の幸せに貢献するためであると考える。
どれだけ多くの貢献度があるかで、仕事の価値が決まると考える。
ボランティア活動が、それ自体を報酬であるという考え方は、そういうところから来ている。

仕事の「仕」は、奉仕の「仕」である。
私事の「私」ではない。
多くの人の為に尽くせる教師の仕事は、尊く素晴らしいと思う。

2011年8月8日月曜日

暇が欲しい?

「忙しい」を使わないようにしようという話を少し前に書いた。
ちょうど先日出席した会で、野口芳宏氏が似たようなことを話されていた。
「暇というのは、誰にも相手にされなくなった状態のこと。」

確かに、やることがなくなれば、暇になる。
やることがないということは、仕事の依頼がないということだ。
だから、仕事ができる人ほど、仕事がたくさん来る。
真面目に仕事をしている限りは、やることは永遠になくならない。
それは、ある意味、幸せなことだと言える。

本当に暇になりたければ、仕事を辞めればいい。
日本なら、仕事を辞めても、餓死することはない。
生きていくことはできる。
仕事をすることも、自分が望んで選択していることのはずである。
(特に教師は、わざわざ試験を受けてまで掴んだ仕事である。)

暇がないと言っているなら、それは感謝すべきことかもしれない。
暇が欲しいと言っている人は、実はやりたいことが他にもあるだけである。
暇がない中でやればいいことである。
何事も、見方、考え方次第である。

2011年8月7日日曜日

「0→1の経路」をつなぐ

タイトルは、最近読んだ本からの引用である。
(引用文献「毎朝1分で人生は変わる」三宅裕之著 サンマーク出版)

物事は、0から1が一番大変で、その後はどんどん進んでいく。
この本の中では悪い例として禁煙中のタバコを挙げている。
逆に言えば、仕事も勉強もこの「0→1の経路」がつながれば、どんどんうまく行くといえる。

作文を例に考えるとわかりやすい。
作文は最初の1文に最も力が要り、それがうまく書ければ案外すいすい進む。
物理で言えば、重たい物を押して動かす時、摩擦があるので最初はなかなか動かず、後は楽に押せるのに似ている。

何か行動を起こすことである。
小さな今できる1があれば、先が見える。
今日、何か一つ、新しいことを始めよう。

2011年8月6日土曜日

七夕に願いを書かせる

旬な話題から外れてしまうが、七夕の話。
(メルマガ上ではタイムリーにお届けしたので、ご容赦を。)

七夕の時、短冊に願いを書く。
素直に書く子どもが多いと思う。
ただ、人に見られるので、あまり書きたがらない子どももいる。
七夕の時には、織り姫と彦星の話に加え、次のような話もする。
「目標は、紙に書くことで達成されます。
これは、昔から言われ続けていることです。
紙に願いを書くと何がいいのか。
まず、自分の欲しい物や目標がはっきりします。
書くという行為自体が、頭の中を整理する効果があります。
そうすると、欲しい物や目標を生活の中で意識するようになります。
すると、それに関係するも情報が目に入るようになります。
さらに周りの人に知っておいてもらうことで、より願いが叶いやすくなります。
例えば『○○が欲しい』と書いてあれば、ふとした時にそれをプレゼントしてもらえるかもしれませんよね。
チャンスが巡ってきやすくなります。
そして何より、果てしなく遠い宇宙の星に願いを込めるという行為自体が、ロマンがあって素敵です。
雨が降って地上から星が見えなくても、そこには星があるから、大丈夫です。
七夕に願いを込めるのは、決して無駄ではないと思いますよ。」

こういう話も、特に高学年以降には意味があるように思う。

2011年8月5日金曜日

ゆとり社会?

かつて、某進学塾のキャッチコピーに、次のようなものがあった。
「ゆとり教育はある。ゆとり受験はない。」
まさしくその通りである。
受験は勉強量の多いものが勝つ。
そこにゆとりはない。
最低限でいい、という訳にはいかない。

偏差値重視の傾向も、大して変わる様子はない。
考える力がどうだとか言っても、結局テストの点の話である。
PISA型なんちゃらの話も、テストの話である。

受験戦争をくぐり抜け、社会に出ても、ゆとりはない。
たらたら仕事をしていても、個別指導として誰かが助けに来てくれることはない。
仕事が遅いと怒られるか、無視されるかのどちらかである。
自分の力で切り拓く必要がある。

結局、きめ細やかな指導も、個に応じた指導も、最終的には個人の生きる力を鍛えることが目的である。
先回りして優しくわかりやすく教えて身につけさせても、結局その先にある社会は厳しい。
最終的に自立を目指した教育でなければ無意味である。

「わかる授業」や「個に応じた指導」を考える上で、ここを外してはならないと考える。

2011年8月4日木曜日

仕事は目標を立てて

仕事術の話。
1日は24時間。
これは変えられない。
変えられるのは、24時間の濃度の方である。

睡眠の話で、何時間が最適かということを以前書いた。
睡眠量=眠りの深さ×時間 である。
時間が短くても、深ければ足りる。
例えば日中に運動をすると、眠りが深くなる。
運動をすると一見疲れるようで、実は回復に役立つ。
結果的に、時間の節約にもなっている。

仕事の場合はどうか。
仕事量=仕事の質×時間 である。
時間は変えられないから、質を上げる。
同じ時間でやれるものの中身を濃くする。
コツは、以前も書いたが次の予定を入れること。
それと、達成目標を明確にすること。

通知票の所見を例に。
作業終了時刻を決める。
残業できる日でも、この時刻には帰ると決める。
次に、一人あたりの時間を決める。
実際は、すらすら書ける子どもとそうでない子どもがいるので、中間をとる。
「一人5分」と仮に決める。
そうすると、5×10=50だから
「1時間で10人以上」という目標ができる。
トラブルを想定し、少し余裕を持たせておくのがコツである。
達成感を味わえ、次もがんばれる。
ゆるすぎると、緊張感がないので、これもいけない。
最適な目標を設定する。

単純だが、結構効果のある方法である。

2011年8月3日水曜日

分母と分子は母子関係(おんぶされてる成人を憂う)

また暗記ネタ系を一つ。
分数を初めて教える時のネタ。
分母と分子が、どっちがどっちかわからなくなる子どもがいる。
次のように教える。

母親が小さな子どもをおぶっている絵(棒人間でよい)を書く。
「母親が小さな子どもをおんぶしています。
下が母親。
上が子ども。
だから下を分母、上を分子といいます。」

さらに、真分数、仮分数を教える時。
「普通、おぶられてる子どもは、母親より小さいですよね。
正常な状態、真実の分数で真分数といいます。
逆に、子どもがもう母親より大きいのに、まだおぶられてる状態。
異常事態です。
もう降りないといけません。
仮に乗っているだけなので仮分数といいます。」

私は、算数は無機質なものでないととらえているので、こういう教え方をよくする。
いいかどうかは別として、覚えやすいようではある。
気に入ったら、ご活用いただきたい。

2011年8月2日火曜日

東西南北簡単暗記法

先日、たまたま通りかかった4年生の教室の黒板に、「八方位を覚えよう」みたいなものを見つけた。
結構、東西南北を覚えるのに苦戦する子どもが多いので、超簡単な暗記法を紹介する。
(ちょうど、4年生は教えてる時期らしいので。)
ちなみに、知っての通り、子どもが苦戦するのは、南北ではなく東西である。

「北」と板書。
「北」の漢字の右半分はカタカナの「ヒ」である。
「ヒ」のある方が「ヒガシ」
東の反対は西。
北の反対は南。
以上。

これだけだが、方位についてはぐっと強くなる。
お試しあれ。

2011年8月1日月曜日

忙しいと言わない

どういう時に「忙しい」と感じるかというアンケートの結果を、何度か見たことがある。
中学校だと部活動が筆頭に上がりそうだが、実はそうではない。
部活動は確かに大変な面も多いが、充実感があり、忙しいとは感じないという。
(これは、感じ方にかなり個人差があるが。)
それよりも「事務仕事」の方が、上位にくる。
「事務」という言葉が何を指すのか曖昧だが、何となく好みは別としてやらないといけない仕事という感じがする。

要するに、人は好きなことなら忙しいと感じない。
忙しいと口にしてしまった時は、その仕事を嫌いですと言っているのに等しい。
だから、「忙しい」はなるべく言わない方がいい。
「最近、忙しいですか?」と聞かれたら、「お陰様で、充実しております」と答える人もいる。
何だか、前向きな感じがする。

忙しいを、なるべく言わないように心がけてみると、少し気分が変わるかもしれない。

2011年7月31日日曜日

仕事は目標を立てて

仕事術の話。
1日は24時間。
これは変えられない。
変えられるのは、24時間の濃度の方である。

睡眠の話で、何時間が最適かということを以前書いた。
睡眠量=眠りの深さ×時間 である。
時間が短くても、深ければ足りる。
例えば日中に運動をすると、眠りが深くなる。
運動をすると一見疲れるようで、実は回復に役立つ。
結果的に、時間の節約にもなっている。

仕事の場合はどうか。
仕事量=仕事の質×時間 である。
時間は変えられないから、質を上げる。
同じ時間でやれるものの中身を濃くする。
コツは、以前も書いたが次の予定を入れること。
それと、達成目標を明確にすること。

通知票の所見を例に。
作業終了時刻を決める。
残業できる日でも、この時刻には帰ると決める。
次に、一人あたりの時間を決める。
実際は、すらすら書ける子どもとそうでない子どもがいるので、中間をとる。
「一人5分」と仮に決める。
そうすると、5×10=50だから
「1時間で10人以上」という目標ができる。
トラブルを想定し、少し余裕を持たせておくのがコツである。
達成感を味わえ、次もがんばれる。
ゆるすぎると、緊張感がないので、これもいけない。
最適な目標を設定する。

単純だが、結構効果のある方法である。

2011年7月29日金曜日

性差について考える

なぜ、かくも男子と女子は違うのか。
「男らしい」「女らしい」は差別だという意見もある。
しかし性差は確実に存在する。
それが社会的な要因から来るものなのかというと、そうでもないように思う。
何か、もう幼児期から相当に差があるように感じられるのである。

そこで何が言いたいのかというと、今日は男子と女子の考えかたや行動の違いについて考えてみたい。
まず、教師の側。
小学校は、圧倒的に女性が多い。
小学校の男性教師は結構レアである。
忘年会ともなれば男なんだから何か面白いことやってと頼まれるのが世の常である。
女性教師はワルの男子、男性教師は高学年女子の扱いに困ることが多いように見える。
まあ、当たり前である。
異性の人生の経験は自分がしてないのだから、よくわからない。
男性教師は同性同士で手紙のやりとりをしてきゃーきゃー言った経験は、多分ほとんどない。
多分、きらきらシールを集めて手帳にコレクションした人も少ない。
(個人差があるので、常に「多分」の域を出ない。)
女性教師は、やたら無意味に下品な言葉を連呼し続けたり、戦いごっこで本気で泣くまでけんかして先生に怒られた経験もない。
経験がないのだから、当然理解は難しい。

男子は「何で女子ってあんなに先生の言うこと聞くんだろ、アホらしい」と思ってる。
女子は「何で男子ってあんなに怒られることするのかしら、バカみたい」と思ってる。
多分、それぞれ正しい。

基本的に、男子は言うことをきかないものだという前提があった方がいいように思う。
(女子のことは、正直よくわからないので書かないことにする。)
いつも言うことを聞かない男子に向かって、すごく長いお説教をする先生もいるが、正直無駄である。
聞いてない。
そして効いてない。
道徳的な善悪では、あまり動かないのである。
なぜ男子がダメなことをやっちゃうのかというと、やりたいからである。
本能が行動的で衝動的であり、野性的なのである。
まあ、動物である。
自分がそうだったので、そう思うだけなのかもしれない。
ただ、言うことを聞かないのは、何か分かる気がする。
これは、しつけるしかない。
しつけは「躾」の字のごとく、身体を美しく飾るものである。
そういうことが、かっこいいのだ、かっこ悪いのだと、何度も教えていくしかない。
記憶法と同じで、長時間やるより、短く何度もやった方が身に付く。

言うことを聞かない男子。
正直、相手していて腹が立つが、とても健全だと思う。

2011年7月28日木曜日

「あいうえお」のある授業

先日、ある学校の校長先生より面白い話を聞いた。
算数の先生なのだが、「あいうえお」のある授業が良いというものだった。

「あっ!」
「いいね!」
「う~ん?」
「えーっ!?」
「お~!」

平坦な展開をしていては、得られない反応である。
こういう声が子どもから上がるような授業を目指したい。

2011年7月27日水曜日

いじめの心理

特定の子どもに辛く当たったりいじめたりする子どもがいる。
やられているのは、おとなしかったり学力が低かったりする子どもである。
そして、やっている方も同様の場合がある。
どんぐりの背比べなのだが、微妙に勝っている(と本人は思っている)方が、いじめる。

なぜこういうことが起きるのか。
原因は何なのか。

一言で言うと、「自尊感情の低さ」である。
他人に対する批判や悪口は、自信がないということが根本にある。
自信のある人は、他人に対してそういうことをしない。
要は、自分が低いからより低い人を設定して安心しようという浅ましい考えが原因である。
自分の腰を低くして相手を高める「謙譲」の逆の精神である。

こういういじめは、いじめてる本人を叱っても根本的には解決しない。
(対症療法にはなる。)
いじめてる本人の自尊感情を高めることが、根本の治療になる。
勉強ができないことが原因かもしれない。
身体的なコンプレックスが原因かもしれない。
親に愛されていないことが原因かもしれない。
色々あるが、その原因をつきとめることから、解決方法を考える。

いじめは、対症療法ではダメである。
文字通り「根絶」を目指す必要がある。

2011年7月26日火曜日

個人面談の机の配置

前号の続き。
面談時の机の配置について。
机の配置なんてどうでもいいと思うかもしれないが、これは結構大切である。
二者面談なら、机が2つでも間に合う。(いや、何なら1つでも間に合う。)
しかし、ここはやはり4つ用意したい。
「田」の字の配置、いわゆる一般的な4人の班の場合の「班の形」である。

こうするには、理由がある。
2つだと、有無を言わさず真正面になる。
強気な人はこれでもいいのだが、そうでない人には威圧的な印象を与える配置である。
ちなみに秘密の話や商談をするのには、いい配置である。
距離を近づけて強引に持っていきやすい。

一方、4つあると、対角線上に座ることもできる。
45度の角度である。
この角度は、心理的に相手に安心感を与えやすい。
また、二人の間に適度な距離が空くので、そこもリラックスできるポイントである。
また、保護者の目の前に資料を置く時にも、こちらから斜めの角度になるので、真逆よりは読みやすい。

以上のような理由から、机は4つ配置をおすすめする。
(まあ、「そんなことは意識しないでも4つ置いている」という人も多いと思うが。)

ちなみに、4つ配置しても、必ず45度になるとは限らない。
こちらが先に位置を決めたら、どこに座るかは相手が決めるからである。
真正面に座ったら、気の強い人やじっくり話が聞きたい人かもしれないと思っていい。
45度の位置に座ったら、そこまで前のめりではないと考えていい。
(まさか、隣に来る人はいないと思う。)
そういう風に、相手の心理を読む上でも、やはり役に立つのである。

たかが机の配置一つにも、そして何より面談をすること自体にも、明確な意図を持たせたい。

2011年7月25日月曜日

個人面談が苦手な人へ ちょっとした技術

個人面談が苦手な人は結構多い。
まあ大人同士の一対一の会話だから、緊張するのも無理はない。
特に会話が続かないという悩みがある人もいるので、その辺りの対策が必要である。

個人面談の方法については様々あるが、私の知っているものをいくつか紹介する。

まず、モノの用意。
1通知票
これを渡す場合は、それが会話の中心となるので、あまり他のモノへの心配はいらない。

2作文
「一学期の自分の成長と反省」というタイトルで書く。
子どもの成長が一目瞭然で分かる。
話が苦手な人は、その場で読んでもらう方法もある。(私は、資料として使い、帰ってから読んでもらう。)

3自己評価の一覧
国語、算数など教科別に、子どもが自分で1~3の評定をつけ、さらにがんばったことをコメント欄に書く。
(コメントは、全ての教科に書く必要はない。)
生活面も同様にできた、まあまあ、できなかった、などの欄を作って○をつけさせる。
通知票と合わせて見せると、自己評価とこちらの評価とのギャップや一致が分かり、話題にしやすい。

4子どもの作品
こちらは、次の面談を待ってもらっている間に見てもらえるよう、廊下に置いておく。
ノートや図工作品など、何でもよい。
後で話題にできる。

次回は、机の配置について紹介する。

2011年7月24日日曜日

夏休みの生徒指導 「4つの車」

「夏休みの過ごし方」について指導することと思う。
この約束事は、暗記が不可能な程たくさんある。
「手を洗え」とか「早く寝ろ」とか当たり前過ぎる項目も含まれて無数にあるため、ほぼ全てが忘れ去られる。
教師の側としては指導した事実が必要だから外せないのだろうが、やはりここは軽重をつけたい。

たった一つしか伝えられない、一番大切な項目を一つ選べと言われたら、どれを選ぶか。
私は、やはり「安全面」だと思う。
もっと具体的に言うと「命を守る」という一点である。

「3つの車」という話がある。
結構有名な実践で(原実践が誰なのかは知らない)あるが、紹介する。
以前、私の勤務校の生徒指導主任は、これに一つ加え「4つの車」として話されていた。

「夏休み中、次の4つの車にはお世話にならないで下さい。
1 救急車(特に水難による事故)
2 パトカー(事件に巻き込まれる)
3 消防車(花火による火事)
加えてあと一つ、絶対に乗ってはいけないのは?
4霊柩車
みなさん、命を大切に、この4つの車には絶対にお世話にならずに過ごしましょう。」

子どもの印象に残る話である。

2011年7月23日土曜日

作文指導の極意

国語の大家として有名な大村はま氏。
大村はま氏の著作の中に、作文指導に関する記述があった。
正確には覚えていないが、以下のような話だった。

大村はま氏がまだ若手教師として奮闘していた頃。
作文の山(当時は1学級の人数も今の数倍いたらしい)を抱えて職員室に入った。
冬の寒い時期で、校長はじめ職員はストーブを囲んで暖をとっていた。
作文の山にげんなりしていると、校長は大村氏に次のようにいった。
「ここに放り込んで、燃やしちゃえよ。」
とんでもない話である。
しかし、校長は次のように語ったという。
「作文は添削が大変だから、ついつい教師も書かせなくなってしまう。
添削がいやなら、見なければいい。
作文指導で大切なことは、とにかくたくさん書かせることだ。
書かせる内に、作文は上達する。
一番いけないのは、教師が添削を嫌がって、書かせなくなることだ。
燃やしてもいいから、たくさん書かせなさい。」

私の記憶なので相当曖昧だが、そういう内容だった。
なるほど、一理ある話である。
(ちなみに、その後、大村はま氏は作文を燃やさないで、何だかんだ読んだようである。)
さすがに燃やしたり捨てたりしてはまずいと思うが、書かせなくなるのはもっとまずい。
ざっとでもいいから見て、とにかくたくさん書かせた方が、確実に学力形成にはつながる。
ちょっと極端な例だが、こういう考え方もありだと思う。

2011年7月22日金曜日

スピード作文添削法

作文を読んで添削する。
おそらく、多くの人が結構苦手とするのではないかと思われる。
朱を入れたりなんだしていると、かなり時間がかかる。
しかも、直すよう指導した部分も直ってなかったりして、腹立たしくなることすらある。
大変だからといって後で読もうと思うと、あっという間に日が過ぎ、机の中にいれっぱなしになる。
2回分以上ためてしまうと、絶望的な気分にすらなる。

どうすればいいのか。

まずは、添削基準を明確にしておくことである。
指導したことをきちんとやれているかのみを見る。
例えば
1「はじめ・なか・おわり」の構成にする
2「文末表現をそろえる」
ことを指導したとして、
3「2枚にまとめる」
を条件にしたとする。
この3点が守れているかで、評定をつける。
全部できていればA、2つでB○、1つでB、0ならC、という具合である。
これを、予め子どもにも伝えておく。

次に、朱の入れ方を工夫する。
読んだ感想(コメント)が子どもは欲しいと思うかもしれない。
これは、作文を書かせた後の相互交流で、子ども同士でコメントを書かせているので、そちらでカバーする。
教師の側は、きちんと読んだよという証で、評定のみつける。
(コメントしたところで、子どもの書いたものと大して変わらないと考える。)
誤字脱字や改行したら一字空けるとか色々指導したいことはあるが、控えめにして先の3点のみに絞る。
そうすれば、とりあえずは全員分を読んで添削できる。

一番いけないのは、見るのが面倒だから書かせないということ。
添削に力を入れすぎず、どんどん書かせるようにしたい。

2011年7月21日木曜日

夏休みの生徒指導 「4つの車」

「夏休みの過ごし方」について指導することと思う。
この約束事は、暗記が不可能な程たくさんある。
「手を洗え」とか「早く寝ろ」とか当たり前過ぎる項目も含まれて無数にあるため、ほぼ全てが忘れ去られる。
教師の側としては指導した事実が必要だから外せないのだろうが、やはりここは軽重をつけたい。

たった一つしか伝えられない、一番大切な項目を一つ選べと言われたら、どれを選ぶか。
私は、やはり「安全面」だと思う。
もっと具体的に言うと「命を守る」という一点である。

「3つの車」という話がある。
結構有名な実践で(原実践が誰なのかは知らない)あるが、紹介する。
以前、私の勤務校の生徒指導主任は、これに一つ加え「4つの車」として話されていた。

「夏休み中、次の4つの車にはお世話にならないで下さい。
1 救急車(特に水難による事故)
2 パトカー(事件に巻き込まれる)
3 消防車(花火による火事)
加えてあと一つ、絶対に乗ってはいけないのは?
4 霊柩車
みなさん、命を大切に、この4つの車には絶対にお世話にならずに過ごしましょう。」

子どもの印象に残る話である。

2011年7月20日水曜日

認める個性、認めない個性

「みんなちがってみんないい」
ご存知金子みすゞの「わたしと小鳥とすずと」の詩の最後の一文。
いい言葉である。
人はそれぞれ違うのだから、違いを認めようと。
まさにその通りで、反論の余地はない。
私に向かって「何でお前はそんな字しか書けないんだ。普通の字を書け。」と言われても、凹むだけである。
他の部分なら、結構いいところもあるのである。
技能に関する面は、個人差を認める前提で、かつ全員が「できる」ように工夫をするのが教師の仕事である。
できない子どもを詰めすぎてもいけない。
どんなに工夫を凝らしても、できない場合もある。
結果的に全員「できる」ようにさせられるなら、それはプロの仕事である。
前号まで水泳の話をしたが、水泳指導において「全員を泳げるようにする」のは、大きなテーマである。

一方で、集団教育においては認めない「個性」があってもいい。
例えば、ルールやマナーを守るという点。
言葉遣い。
それらは、学校教育の場において強制(というより矯正)をしてもいいと思う。
学校の教師に対して横柄な言葉遣いをするようでは、外の社会でも同様のことが起きる。
将来、結果的に困るのは子どもの方である。(ちなみに教師側にとっては何も変わらない。)
だから、そこは強制的に矯正する。
元気がいいだとかおとなしいだとか、個人差はどうでもいい。
やるべきことはやる。
個性を認めつつ、そういう信念を持った姿勢も必要だと思う。

2011年7月19日火曜日

基本が大切

水泳の話の続き。
水中で息がある程度止められる。
すると、恐怖心が和らぐ。
恐怖心が和らげば、体が柔らかくなり、操作できるようになる。
そこで、次の段階。
今度は、前へ進みたい。

水泳における推進力を得るために、一番大切なのは何か。
そんなこと考えなくても、大抵は次にけのびを練習させる。
大切だからである。
(ちなみにけのびは漢字だと「蹴伸び」である。)
けのびの姿勢がきれいだと、水の抵抗を受けずに前に進める。
10の力を入れても1しか進まないのでは、当然能率が悪い。
けのびの練習は、自転車にたとえるなら「タイヤの空気を入れる」作業に近い。
空気が抜けたまま自転車をこげば、余計な力が必要になる。
空気をきちんと入れれば、小さな力ですいすい走る。
そんな風にたとえて子どもに伝える。

どの泳ぎでもそうだが、特に平泳ぎはけのびが大切である。
けのびの姿勢の瞬間に、一番前に進める。
子どもは手でかいた時に進むと勘違いしているので、注意が必要である。

何事も、基本が大切である。

2011年7月18日月曜日

なぜ泳げないのか

10mを泳げない子どもがいる。
何を原因ととらえるか。
個々の子どもの抱える問題にもよるが、私は「呼吸」に重点をおく。
念のため言うと「息継ぎ」ではない。
「呼吸」である。
ちょっと小難しい専門用語を使うと「酸素摂取能力」を高めることを重視する。

泳げない子どもは、水中ですぐ苦しくなる。
恐怖感が、呼吸を乱す。
顔を水中につけなくても、プールに入っただけで既に息苦しくなっている子どももいる。
恐怖感の克服は、「慣れ」と「安心感」を与えることから始める。
ゴーグルを付けることは必須である。
言わずもがな、プールの一番端や浅いプールを使うのは、そういう意味もある。

水中で息を止める練習。
例えば、だるま浮き。
水中で息を吐く練習。
例えば、水中にらめっこ。
ここに絞るだけで、結構成果が出る。

2011年7月16日土曜日

やる気の出し方

やる気が出ない時がある。
一時的なら仕方ないが、慢性的だと困る。
(いや、本人が困ってないなら別にいいのだが。)

やる気をすぐ出せる方法がある。
それは、やる気のある人に会いに行くこと。
やる気のある人ばかりが集まる会に参加するのもいい。
やる気は伝染するので、そういう場所に出ると、一発である。
別に教育の分野でなくてもいい。
講演会に参加したりサークルに参加したりする。
スポーツでも文化的な活動でもいい。
とにかく、やる気が溢れる場所に行くことである。
それがあるなら平日だろうが休日だろうが関係ない。
出かける。
その気力さえ出せれば、大丈夫である。

忙しい時こそ、勉強しに出かけよう。

2011年7月14日木曜日

10000ページビュー突破

昨日、このブログも総計10000ページビューを突破した。
ひとえに、見て下さる皆様のお陰である。
心から御礼申し上げたい。

見てくれる人がいるから、がんばれる。
教室でも同じで、授業を素直に受けてくれる子ども達がいるから、がんばれる。
当たり前だと思わず、感謝をしたい。

2011年7月13日水曜日

テスト結果の見方

テストシリーズ第四弾。
テスト結果の見方について。
テストをすると、指導の甘かった部分が見えてくる。
しかし、全員分をもれなくチェックしていくと、大変である。
一人一人を見るのは大切だが、時と場合によりけりである。
ざっくり見た方がいい時もある。
ざっくり見る方法をお伝えする。

とてもシンプルな方法である。
100点満点のテストで「85点~95点」の子どものテストの誤答に注目する。
これだけである。
大体、誤答の問題が1~2問に限定される。
これが、多くの子ども達に身に付かなかった部分である。
確実に復習する必要のある問題である。
これができれば、平均点は大幅に上がるというポイントになる。
(逆に、50点以下の子どもの誤答については、それ自体に頓着しても無駄である。
根本的に何か手を打たないと、対症療法では間に合わない。)

ここを軸に考え直すと、指導が改善されるように思う。

2011年7月12日火曜日

テスト隊形を考える

テストを考えるシリーズ第三弾。
今日は「テスト隊形」について。
テストの時、隣の答案を見ないように、机を離す。
色んな方向を向かせる。
色々な方法がある。
「テスト隊形だと周りから見られないから安心してテストが受けられる」という子どもの意見がある。
一理ある。
しかし、私はこれが気になる。
前提として、人を疑っているような気がしてならないのである。

だから、私はこういう方法を一切とらない。
普段通りの机の配置で行う。
理由は「隣の答案が見られる状況でも、正しくない行為なので、自分の意志で見ない」という子どもにしたいからである。
仲間を信用できる学級にしたいからである。
もう一つは、それができると教師が信用するからである。
多くの子どもは、その期待を裏切らない。
「周りの人の答案は見ないでね。先生、みんなの実力をきちんと見たいから。」と一言付け加えておく。
まあ、それでも見る子どもは出る。
確実に出る。
ここが、指導のチャンスである。
将来の受験時に同じ失敗をしないよう、ここで正しておく。
後で呼び出して「ここ、見たかな?」などと聞く。
不自然な解答があった場合(算数なら、式がでたらめで答えが正しい場合など)は、言い訳がきかない。
大抵正直に答える。
見てはいけないことを理由を付けて教える。
高学年の場合、受験の時は、これだけで不合格になることも伝える。
見た部分はどこか聞き、×をつけていいねと確認をとって、×にする。
大体、こういう流れで指導する。

色々な意見があると思うが、そういう意図を持って行っている。
それが正しいかどうかは、分からない。
是非、テスト時の隊形を変えるべきだという他の方々の意見もお聞きしたい。

2011年7月11日月曜日

誰にテストされているのか

子ども達に問う。
「このテストって、誰にテストされているの?」
普通に考えると「先生」と答えてくる。
他には?と問う。
「テストを作った人」と返ってくる。
それもそうだ。
他には?と詰める。
やがて「自分」という答えが返ってくる。

テストをやる時、実は自分自身にテストされている。
「お前はどれだけがんばったんだ」と。
受験の時、隣のクラスの頭がいい奴が一緒の学校を受けるからって、びびる必要はない。
結局は、自分自身に勝てるかどうか、この一点に尽きる。

そしてこれは、教師の側からも、同じである。
「お前はどれだけ全員に力をつけたんだ」と。
子どもをテストしているようで、実は教師自身がテストされている。
できない子どもを嘆きたくなるが、結局は自分自身の指導力の無さの露呈である。
この現実に真正面に向き合うことでしか、授業力の向上はあり得ないと考える。

2011年7月10日日曜日

学習手段を与えないテストを問う

最近、面白い主張が書かれた本を読んだので紹介する。
「学校とテスト」森毅著 朝日選書
第1刷が1977年だから、30年以上前の本である。

何が面白いかというと、「テスト中に学習手段を与えよう」という主張である。
大学での語学のテストで辞書持ち込み可というのはよくある。
小学生だってテスト中に九九表を持たせていいのではないか。
教科書・参考書・ノートの類を持ち込ませてはいけないテストというのは、一体何なのか。
テストが学習内容のシュミレーションであるからには、できるだけ常態に近い方が自然ではないか。
何なら、正解のわかりそうな周りの友達に聞いてみれば良い。
そういうのにも耐えられないテスト問題の意味は何なのか、という主張である。

まあ、自分の学級だけ単体でこれをやったら、先々の受験等に影響が出るので、やるわけにはいかない。
しかし、そもそもテストが暗記力を試すようなもので良いのかという投げかけは、面白いと思う。
30年以上も前から、そういう問題意識を持つ人がいたことに感動した。
テストとは一体何なのか。
成績をつけるためのものなのか。
子どもの学力をつけるためのものなのか。
色々考えてみるのも面白い。

2011年7月9日土曜日

「先生も子どもの頃、できなかった」

子どもに納得してもらえる話し方を一つ紹介する。
それは「先生も子どもの頃、できなかった」という話。

私は、自分の忘れ物のことをよく例に挙げて話す。
自分が、「忘れ物大王」だった小学生の時のことを話す。
なぜ忘れ物がなくならなかったか。
→「次は気をつけるから大丈夫」といつも思っていたから。
どうして忘れ物をしてしまうのか。
→対策をまるでとらなかったから。
そういう体験談を語る。
すると、忘れ物の多い子どもほどニコニコしながら聞いている。
共感できる面が多いのである。

できる人から「何でできないの」と言われると凹む。
自分と同じようにできないという人の話は、共感できる。
時に一段下がって、同じ目線で話すことも大切である。

2011年7月8日金曜日

号令を徹底させる

学校生活の中では、何かと号令をかけることが多い。
日直がかけることが多いと思うが、なぜ教師でなく子どもがやるのかも、明確に答えられるよう、意図を持ちたい。

さて、実際の場面でよく使われるのが「気をつけ」「礼」の類だと思う。
例えば私のクラスでは、給食の「ごちそうさまでした」の前に「姿勢を正して」という号令が日直から入る。
この「姿勢を正して」という号令をかけさせるからには、姿勢を正させる。
腰骨がまっすぐに立つように、背筋を伸ばす。
(ちなみに私がやれと言った訳ではなく、子ども達が最初から自然にそういう号令をかけていた。)
言ったのに徹底しないと、言葉に対して鈍感になる。
だから、やるといったら、きちんとやるまで詰める。
日常のささいなことだが、そういうことは大切だと思う。

2011年7月7日木曜日

本気でやってるのか?

前回少し触れた「本気で遊ぶ」に関連した話を。

ことある毎に子どもに聞くのが「それ、本気?」という言葉。

テストで思うような結果が出なかったと文句を言っている子どもに「本気で勉強した?」
泳げないと言っている子どもに「本気でがんばってる?」
どうせ自分なんかと言っている子どもに「本気でそう思う?」
プロ野球の選手になりたいと言いながら、毎日の素振りもキャッチボールもしていない子どもに「本気でなりたいの?」

適当なところで、「努力のつぼ」の話もする。
「本当に本気でがんばっている人には、努力のつぼに努力がたまっていきます。
努力のつぼは、透明ではないので、たまっている様子が見えません。
がんばってるのに、全然成果が出ないように見えます。
でも、中に確実にたまっているのです。
そうして、一定量たまると、ある日一気に溢れ出ます。
本気でやっている人は、どんどんたまっていきます。
ぼちぼちやっている人は、なかなかたまりません。
やるなら、本気でやりましょう。」

人間、ともすると中途半端になりがちである。
普段から「本気を出す」訓練が必要である。

今日は七夕。
願い事をするなら、本気でした方がいい。

2011年7月6日水曜日

ルールを一番守るべき時

学校生活の中で、子ども達がルールを一番守るべき時(場面)はいつだろうか。
ここでルールを守ることで、ルールを守る基礎ができるという時は、いつだろうか。

私は、「遊びの時」と考える。
私はよく子どもに「遊ぶ時は本気で」と言う。
本気でやるから、楽しいのである。
ぼちぼちやったら、大して楽しくない。

そして、楽しむための最大のポイントが「ルールを守る」ことである。
遊びの時のルール破りほど、つまらないものはない。
よくあるのが、ドロケイで捕まってるのに勝手に脱走したというもの。(9割方、男子である。)
遊びやゲームはルールがないと、成立しない。
しかし、子ども同士の遊びは、よくルール破りをする。
ここが、ルールを守ることの大切さを学ぶ最高の場になる。
だから、集団遊びはいっぱいさせた方がいい。
休み時間は、授業の時間と同じかそれ以上の教育的価値のある時間である。

遊びを通して、ルールを守れる子どもを育てたい。

2011年7月5日火曜日

任せて任せず

タイトルは、元松下電機、現パナソニック創業者、松下幸之助氏の言葉である。
要するに、内容的には任せるが、先に教えるべきは教え、見守り続け、最終的な責任は自分がとるということである。
教育のあらゆる場面で使える。

例えば私は、学級会でこれを気をつけている。
学級会は、学級委員長を中心として行われる。
私は、会の最中、ほとんど一切口出ししない。
ただし運営の仕方や議事の決定の仕方は、事前に指導しておく。
それで同席しつつ、話を聞いているのである。
勝手な決定(極端な例を言えば、授業を一日つぶして遊ぶとか)が通りそうな場合、これは止める。
任せきれない部分である。

逆を行くと、全て失敗する。
内容をこちらが全て決め、後はやらせっぱなしという状態である。
まあ、例を書くまでもなく、ダメなのがおわかりいただけると思う。

人は、任されることで自尊心を感じ、成長する。
子どもにも権限を与えて見守ることで、自信を持たせたい。

2011年7月3日日曜日

感謝できない時

感謝しようという話を続けてきた。
逆に、感謝できない時とはどういう状態の時か。

ずばり、忙しい時。
正確に言うと、忙しそうにしている時。
アップアップしている時である。
俗に言う、テンパってる時である。

せかせかしていると、気持ちもせこせこしてくる。
自分だけが世界で一番忙しいような無礼な振る舞いをしてしまう。
周りの人も、実は同様に、自分以上に仕事をしているのに、それを忘れてしまう。
サポートしてくれている人に、感謝の念を持つことができなくなる。
しかしこれはもう、余裕が無いのだから、仕方の無いことである。

余裕を持つことが、感謝の気持ちを持つことの前提条件である。

2011年7月2日土曜日

先生に感謝、子どもに感謝

前回の感謝の話を子どもにした時、次のように言葉が返ってきた。
「今日、先生が授業してくれたことです。」
感謝に耐える授業をしていたかは別として、嬉しい言葉である。

次のように返答した。
「そう思う人?(全員が挙手)
ありがとう。
先生も、みんなに感謝しています。
先生が授業するのは、仕事だから当たり前ですよね?
みんなが授業を一生懸命聞くのも、そうすべきことですよね?
でも、そういう当たり前のことに感謝するのって、すごく大切です。
もしお母さんに、母親はご飯つくるのが当たり前でしょって言ったら、大変なことになりますよね?
当たり前のようにしてもらえることに、感謝する素直な心を持ちたいですね。」

子どもの言葉にはっとさせられた。
一生懸命授業を受けてくれる子ども達に、深く感謝の念を持ちたい。

2011年7月1日金曜日

全てに感謝

感謝の念を持つことが大切、とよく教室で子どもに伝える。
帰りの会で、次のように聞く。
「今日、感謝したことを思い浮かべて下さい。」
思い出せたら挙手する。
大抵、半分も手は挙がらない。
「絶対、色んな人に世話をしてもらっているはずです」と詰める。
何人か思いついた子どもに発表させる。
「朝、母親にご飯を作ってもらった」
「おはようとあいさつしてくれた」
「○○さんがプリントを集めてくれた」といった些細なことまで出る。
そういうのを聞くと、ほとんどの子どもは手が挙がる。

次のように話す。
「人間は自分一人の力では生きていけません。
必ず、人の世話になっています。
助け合っていきているのだから、それでいいのです。
大切なのは、そういう一つ一つのことにきちんと感謝することです。」
感謝の念をきちんと持って過ごせるようにしたい。

2011年6月30日木曜日

出し切れば、入ってくる

水泳の話の続き。
息は出し切れば入ってくるが、これは他のことにも当てはまる。
逆を言うと、出し惜しみすれば、入るものも入ってこなくなるということである。

どういうことか。

例えば、自分の持っている技術。
後輩や周りの人に自分の持ってる使える技術を伝える。
伝えることで、自分の技術の問題点も見えてくる。
問題点が浮き彫りになることで、技術の精度が上がる。
しかも、伝えた相手が他の情報をこちらに伝えてくれる可能性も出る。
自分の中で秘密にして隠しておいたのでは、こうはいかない。
惜しまず、出し切る。(このブログも、そういう方針で書いている。)

例えば、やる気。
仕事をぼちぼちこなそうと思う。
ぼちぼちの労力で済む。
ぼちぼち終わる。
何となく、倦怠感が残って終了する。
次のやる気は、起きない。
本気でやる。
これは苦しい。
苦しいが、その分今までの自分の壁を越えられる。
新しいものが入ってくる。
充実感があり、またやる気が湧いてくる。

何でも、出し惜しみせず、出し切るのが大切である。

2011年6月29日水曜日

水泳の息継ぎのコツ

そろそろ水泳の時期が始まる。
泳げない子どもがよく間違った認識をしている点。
それは息継ぎで「息を吸えない」と思っていること。
たくさんお腹に空気をためておけば、息が続くと思っていることである。

これは大きな間違いで、正解は「息を吐ききる」こと。
肺は真空状態にはならないので、吐けば一気に空気が入ってくる。
「息を吸えない」子どもは、実は「息が吐けない」のである。
この認識を変えるだけでも、大分違う。
そして、本人は吐いているつもりでも、全然吐けていないので、水中で見てやる必要がある。
水泳指導の基本的なことだが、これは水泳以外のことにもつながる。
(次号に続く)

2011年6月28日火曜日

睡眠時間は何時間が正しいのか?

時間を捻出するための方法の一つに、睡眠時間を削るというものがある。
基本的には、私は賛成できないが、「寝過ぎ」の人も結構いるのは事実のようだ。
「1日8時間程度の睡眠」が健康の基本とされているが、実際、これは人によってかなり違うらしい。
寝不足より寝過ぎの方が体に悪いという研究結果もある。

既に慢性睡眠不足の人は、削ってはいけない。
寝た方が確実に能率が上がる。

毎日8時間以上寝てるのにだるいという人は、寝過ぎの可能性が大。
1日1時間、睡眠に使っていた時間を朝の時間に変えられれば、かなり有効に使える。

しかし、最適睡眠時間が9時間の人もいるそうだ。
ナポレオンは毎日3時間しか眠らなかったとか。(でも居眠り大王だったらしい。)

色々試してみて、一番合う睡眠時間を探る価値があると思う。

2011年6月27日月曜日

シロツメクサの話

シロツメクサ。
いわゆるクローバーのことである。
「白詰草」の名の通り、昔は梱包時のクッション材に使われていた草である。
地味だしどこにでも生えている草だが、いいところがたくさんある。

まず、非常に強い。
踏まれても全然へっちゃらである。
次に、白くかわいい花が咲く。
摘んだものを編むと冠にもなる。
そして、役に立つ。
低めの草が群生することで、小さな虫たちにとっては、いい隠れ家になっている。
人間にも幸せを提供してくれる。
四つ葉のクローバーを探し当てると幸せになれるという。
探し当てたその瞬間、既に幸せである。
もっと言うと、どこにあるだろうとワクワク探している時点で幸せである。
幸せって何だろうということを考えさせてくれる植物である。(深読みしすぎ。)

学級を見渡すと、シロツメクサのような子どもがいる。
前に出て派手に活躍する訳ではないが、人のために黙って何かしている子ども。
そういう子どもは、見落としがちである。
きちんと光を当ててあげたい。
だから、シロツメクサの話を時々学級でする。
そうすると、何だか学級の雰囲気が優しくなる気がする。
たまにはそういう自然に関する話も、いいと思う。

2011年6月26日日曜日

時短の目的意識を持つ

最近よく「仕事術」「ノー残業」をテーマにした本が書店に平積みされている。
流行である。
色々なテクニックが書かれているが、どれも実践するかが全てである。

時間を短くすることを「時短」という。
時短の最大のコツは、時短の目的意識を持つこと。
何のために時短するのか。
早く仕事を終わらせて、何をしたいのか。
飲みに行きたいのか。
好きな本や映画を見たいのか。
勉強したいのか。
家族や友人と過ごしたいのか。
その後の予定への欲求が強いほど、時短は成功する。

仕事を早く終わらせても、その後やりたいこともないようでは、意味がない。
目的意識を持って、時短をしよう。

2011年6月23日木曜日

授業は「クイズ番組」だ

「授業劇場」などという言葉を最近きく。
教室は舞台であり、授業は劇であるという発想のようだ。
私は、個人的にこのたとえに疑問を持っている。
そもそも、劇というのはシナリオが決まっていて、その通りに演じるものである。
シナリオが決まっているのだろうか。
演じるものだろうか。

私は、授業は「クイズ番組」というたとえを子どもに伝えている。
何だか、こっちの方が授業を冒涜しているように感じる人もいそうだが、聞いていただきたい。
何かというと、「回答者が全員正解しか言わないクイズ番組」を想像してみて欲しい。
面白いだろうか。
多分、相当つまらない番組になると思う。
クイズ番組は、誤答にこそ面白みがある。
そして誤答を楽しみつつ、最後には正解に辿り着き、「スッキリ」するのである。
「モヤッと」したままではいけない。

極端な例でいくと、某クイズ番組では、「おバカ」の回答者がメインである。
一見馬鹿にされているようで、相当な人気である。歌まで出したりしてる。
「おバカ」のようで、誰よりも賢いのは、この人達である。

正解を答えるだけの授業なんてつまらない。
紆余曲折して正解に辿り着くから面白いのではないか。
堂々とたくさん間違えて、面白かったって言い合おう。
そんな授業が、理想である。

2011年6月22日水曜日

何となくうまくいった行事の反省

運動会のような大きな行事が終わる。
その時、反省のアンケートをとる。
大きな反省がなかった場合、安心する。
しかし実は、この時が一番危険である。

大きな反省が出た場合は、それについて改善せざるを得ない。
ミスがあったことを担当者も周りも理解している。
同じミスはできないと必死に改善策を出す。
結果、次年度はよりよいものが創り出される。

逆に、何となくうまくいった時は、あまり振り返らない傾向がある。
本当は、なぜうまくいったのか考えていくことが必要である。
また、改善すべき点があったのではないかという点も要注意だ。
実は誰かの懸命なフォローによって成り立っていて、その人が抜けたらガタガタという可能性もある。
結果、次年度はトラブルが起きたり、レベルダウンしたものになりやすい。

「勝って兜の緒を締めよ」の諺通り、うまくいった時こそ、要注意である。

2011年6月21日火曜日

叱られる作法 受容について

前回の続きを。
叱られる作法の第一は「受容」である。
ここを外すと、後が続かない。
受容とは、読んで字のごとく、相手を受け入れること。
せっかく叱っても、「うるせえ」などと反発されていては、叱り損である。

受容の心を育てるために、「心のコップを上向きにしよう」ということを常日頃から話しておく。
心のコップがひっくり返っている人は、何をいっても教えたことが蓄積されない。
心のコップが上向きの人は、どんどんたまっていく。
そういう話を、ちょくちょくしておく。

素直さを育てておくことが、叱るための第一歩である。

叱られる作法

「叱られる作法」という話がある。
1年以上前の「野口塾」で野口芳宏氏が話された内容である。

叱られた時、どういう順番で考えや行動をとっていくかという話である。
少し、考えていただきたい。

最初に「謝る」を選択する人が多いのではないかと思う。
(自分がそうだったので、そう思っただけである。)

野口氏は、次のような順番を示していた。

1受容
2反省
3謝罪
4改善
5感謝

1~5の順で進んでいく。
長くなるので、次回へ続く。

2011年6月19日日曜日

叱り方の原則

叱り方について書かれた本は多い。
叱り方に悩む人が多いこと、叱り方の難しさを感じている人が多いせいだろう。
どう叱るのが良いのか。
私も持論がある。

叱る基準ははっきりしてる方がいいが、叱り方は、もう状況によって千差万別である。
1言えば10の効果がある素直な子どもには、優しく言えばいい。
10言っても1しか効果の出ない子どもには、1回を短く、何度も根気よく叱る方がいい。
こういうのは差別でなく、区別である。
(同じことをした時には、こういう差をつけてはいけない。全員平等に叱る。)

そして、大原則として、基本は、短く叱る。
長いお説教は、いたずらに反抗心を生むだけである。
そして、最後は「きっとこれから良くなると信じている」などとフォローを入れる。
叱って一旦突き放す時にも、近づいてこられるよう隙を作って待つ。

この辺りを意識して叱るようにしている。
(次号に続く)

2011年6月18日土曜日

算数文章題攻略法 その3

今回は攻略法というより、疑問の投げかけを。
それは、「いつもわかりやすいのが本当に良いのか」ということ。
例えば、様々な物を用意して、わかりやすく説明する授業がある。
実物から何から全て用意し、子どもはよくわかる。
子どもも教師も満足度が高い。
しかし、問題はそれで力がついたのかという点である。

具体物の操作は大切である。
目で見てわかりやすいのも大切である。
しかし、一人で問題を解く段階では、それらは一切用意されず、自分の力で解かねばならない。
ならば、どんな場面でも適用できる、共通した考え方と方法を身につけさせることが最優先である。
入り口としてはわかりやすさが必要でも、最後は突き放す必要がある。

算数の文章題はもちろんだが、国語や他の教科でも同じことが言える。
(余談だが、社会科のテストで、白黒の金閣寺の絵が出た。
いつもカラーで見ているので、銀閣寺と区別がつかない。
カラーの美しい教科書に慣れていると、そういうことも起こる。)
教育全般に共通する基本的なことだと思う。

2011年6月17日金曜日

算数文章題攻略法 その2

さて、イメージ化もできて問題の意味も把握できた。
しかし、立式できない。
懇切丁寧に教えて式を立てさせていくことは可能だが、わかったつもりになるだけである。
これでは、テストの時どうにもしようがない。
という訳で、あらゆる場面で対応できる方法を身につける必要が出る。
実に様々な方法がある中で、私がよく使う手がある。

それは「簡単な数値に置き換える」。
「0.8リットルで0.7キログラムの重さの油があります。
1リットルで何キログラムでしょう?」
これはそのままだと立式が難しい。
しかし「2リットルで4キログラム、1リットル分は何キログラム?」は簡単である。
(これすらもできない場合、原因がもっと深くにあるので、多く説明するだけ無駄である。個別に原因を調べる。)
4÷2の立式をもとに、他の数値でも考える。
「8リットルで7キログラムなら?」「7÷8」
「0.8リットルで0.7キログラムなら?」
この「簡単な数値に置き換える」というのは、あらゆる場面に使えるかなり万能な方法である。
難しい概念を説明する時に、たとえ話をすることに似ている。
一つの手段として、活用されたい。

スペースを埋めない

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