2016年1月31日日曜日

他律的自律と週始め

月曜を迎えれば、仕事が始まる。
日曜日の夕方は、休みが終わるということで、少ししんどい気持ちになる。
(サザエさん症候群というらしい。)

野口芳宏先生の言葉に「他律的自律」がある。
要は、やるべきことが決められているからこそ、動くという面がある。
これが「完全にあなたの自由」という状態だと、なかなか動けない。
他律によって自分がしっかりできる。
月曜日に行くべき場があるというのは、有難いことである。

これとセットで、「頼まれたら断らない」という言葉もある。
人から頼まれるのは、結構大変である。
断ったら楽。
しかし、敢えて受ける。
そうすると、やらざるを得ない。
結果、大変だが、自分のためになる。
恐らく、他人様に頼まれなかったら、何も得られなかったはずである。

さて、今日をゆっくり楽しんだら、明日は月曜日。
大変さもあるが、新たな気持ちで、前向きに「志事」をしたい。

2016年1月28日木曜日

子どもの作品をけなさない

最近あった、ある水族館での出来事。

水族館内のあるコーナーの遊び場。
大きな画面があり、様々な魚が画面内を泳いでいる。
自分が書いた魚が画面内を泳ぎ回るというもの。
子どもたちが自由に描いて、それを「水槽」に放つ。
見ていて楽しい。

我が子らも個性的な魚を描いて、ついでに自分の名前も入れていた。
親に似て、なかなかに自己主張の強いやつである。
大いに褒めた。

隣で、5,6才ぐらいの子どもが、ニコニコしながら同様に魚を描いていた。
画面に大きくポンっと出た。
瞬間、母親と思しき人の口から出た言葉が
「何これ、ださっ。」
であった。
その子どもは、何も言わずに魚を眺めていた。

ここで「あんたねぇ」とは、もちろんいかない。
休日の穏やかな時間に、見知らぬ家庭の親を説教する気合いはない。

ただ、暗澹とした気持ちになり、思うところはあった。

これは、遊びである。
だからこそ、「うまく描く」必要は全くない。
楽しく描いたものを褒めてやればいい。
それだけの話である。

子どもには、ブラックジョークは通じない。
「けなして褒める」という手段であっても、あくまで大人向けである。
例えば「お前みたいなバカはいない」という褒め方は、子どもには通用しない。
直接的に「発想がすごい!素敵!」と褒めてやるに尽きる。

「上手い下手」という話でいえば、どんなに上達しても、上には上がいる。
この例でいえば、本当はその親に「じゃああんた手本を描いて」と言ってやりたい。
それで、周りの人に評価してもらえばいい。
まず怖くて描けないはずである。

常に比べていたら、永遠に自信が持てない。

下のレベルの人と比べない。
傲慢になるだけである。
以前の自分だと思って、温かく見守るか励ます。

上のレベルの人と比べない。
自信を失うだけである。
まだ見ぬ自分だと思って、憧れをもって教えてもらい、学ぶ。

子どもをけなさない。
まして他人と比べない。

子育てどうこう以前に、教育全般の超基本中の基本である。

2016年1月26日火曜日

児童虐待を防ぐ

前号に関連して、ずっと関心のあるテーマ「児童虐待と子育て」について。
いらいらして、つい叩いてしまったという経験のある親は多い。
それが習慣化して、子どもだけでなく親も苦しんでいるケースも多いという。

児童虐待は、最も大きな社会問題の一つであると思う。
2014年の厚生労働省のデータによると、日本の児童虐待の報告件数は8.9万件。
24年連続で最多更新という。
数が増えたことについては、数え方の変化もあり、単純にどうこう言えない。
報告件数が増えたというのは、ひどくなったというより、むしろ社会の問題意識が高まったと見る方が妥当である。
学校の体罰問題と同じで、件数増加自体が騒がれるが、実情としては確実に減っている。
世論が湧き立つこのご時世に、学校という場で堂々と叩くというのは、よっぽどである。

ただ、児童虐待については、家庭という第三者のない密室が故に、非常に報告されにくい。
それも考えると、やはり実際には未だ虐待が多いという印象は否めない。

よく言われる通り、虐待を受けた子どもはいずれ何らかの形で復讐をする。
「叩いて(苦痛を与えて)いうことをきかせる」という思考パターンが習慣化されるためである。
虐待をした親に直接いく場合もあれば、罪のない生まれてきた我が子に虐待が連鎖していくこともあるという。

親への復讐が、介護の場面で出ることも多いという。
それが自分の親に出るならまだ自業自得とも言えるが、赤の他人に出ることもある。
超高齢社会の日本にとって、誰しもに関わる大変な問題である。

そもそも、子どもにすべきは、虐待でなく躾である。
身を美しく、つまり、良い人に育つようにするのが躾。
親の都合のいいようにする虐待とは、全く別の行為である。

仮に、大人の都合で、理不尽に叩いたり罵声を浴びせたり無視したり放置したりすることを、継続的に行うことを虐待とする。
この行為の真逆を考える。
撫でて、抱きしめて、褒めて、認めて、存在そのものを肯定し、目を見て話を聞いて、見守ることを続ける。

全部やるのは難しい。
だからこそ、やれるものの一つとして「抱っこチャージ」が大切と考える。
以前紹介した、プレジデントオンラインの方で反響があった記事がそれである。
http://president.jp/articles/-/16508?page=2

抱っこチャージ。
照れずにやれるかどうかが勝負の分かれ目である。

2016年1月24日日曜日

親に叩かれている子どもを見て

今日はエッセイ。
思うところを一つ。

ある日の夕刻。
デパートで小さな女の子三人を連れた若いお母さんがカートを押して歩いていた。
カートには、買い出した物がたくさん積まれている。
一番下はまだ0歳か1歳でカートにおとなしく座っており、一番上が5歳ぐらいである。
上二人はとにかくちょこまか動き回る。
年齢からいっても、自然なことである。

当然、カートを押して歩くのに邪魔になる。何度もぶつかる。
色々言うが、まあ聞かない。
言葉も段々荒くなり、最後はエレベーターの中で頭を何度もひっぱたかれていた。
そして、エレベーターのドアが閉まった。

以上、この状況をたまたま遠くから見ていた。
何を思うか。

ひっぱたかれてる女の子はかわいそうではある。
そして、学校に行ったら友達を叩くようになるであろうことも容易に想像がつく。

この母親を批判するのは簡単だが、事情がわからない。
実際、子育ての中には腹の立つことも多い。
四六時中一緒の母親なら、なおさらである。

ここで正義感を発揮して「あんたね・・・」などと説教しようものなら、大爆発必至である。
関係のある相手ならまだしも、見ず知らずの他人の事情など、正直わからない。
いや、知っている相手でも、わからない。

まず大人が変わらないといけないのだが、大人を変えることは難しい。

見ず知らずの大人をどうこうはできないが、学校に来ている子どもには、
「元気だね」と声をかけたり、
「叩いちゃいけないよ」と教えてあげたりしたい。

2016年1月22日金曜日

やる気は生もの

やる気は生もの。
一瞬しか起きない。
三日も四日も保たない。

やる気が出たその一瞬がチャンス。
やるかやらぬか迷う暇があれば、先に動く。
理由や方法などすべて後付けで何とかなる。
特に休みはチャンス。
平日の(いつでも)忙しい時に、プラスワンのチャレンジ精神はなかなか湧かない。

ちなみに、各種セミナー等に参加する時、うまい方法を求めるてしまうが、一番受け取れるのはやる気である。
そして、一回受け取ったら、それを出し惜しみせずにすぐに使う。
やる気を受け取ったのだから、やることが一番の有効活用である。

また、あまり多いと消化不良になりがちである。
たくさん色んな種類のご馳走を一気に食べようとするのと同じである。
一気にたくさん食べても限界量があるし、翌日にはまたお腹が減る。
食いだめや寝だめができないのと同じである。

自分の「やる気スイッチ」の入れ方を見つけたら、入れっぱなしにはならないと心得て、定期的にメンテナンスをするのが大切である。

2016年1月20日水曜日

コンフォートゾーンの外に出る

「コンフォートゾーン」という考え方がある。
ずっと以前、脳科学者で有名な茂木健一郎氏の著書で知った概念である。
何かというと、人間は自分にとっての「快適ゾーン」がある。
変化もないが安全なその「コンフォートゾーン」から出たがらないということである。
習慣の罠ともいえる。
そして大抵、面白いこと、ワクワクすることは、ゾーンの外にあるという。
ゾーンの外に出れば困難が待っているかもしれないが、克服すれば大成長できる可能性を秘めている。
痛み等の恐怖以上に、成長や変化などへの期待が上回ると、コンフォートゾーンを出られるという話である。

進化論はそのわかりやすい例である。
一念発起した(と当事者が自覚しているか否かは定かではないが)魚たちが陸に出たことである。
安全な木の上にいた猿が、危険な陸に降り立つのは、相当な勇気と好奇心である。
人間は、それを意識的にできる能力があるからこそ、宇宙にだって飛び立てる。
空を飛ぶとか月に行くとか、周りから見たら相当な無茶・無謀を克服した人達がいることが事実である。
「挑戦」は無理・無茶・無謀・困難・失敗・成功・・・全てを包含し、凌駕する。
やってみなくちゃわからないのが挑戦の価値である。

子どもに挑戦、成長、進化を求めるなら、指導者の側もここが必要である。

2016年1月18日月曜日

苦手克服の重要ステップ~待つこと~

苦手の克服を本人がしたいと思っている場合の指導。
例えば、算数が苦手で苦戦しているとする。
運動でも何でもいい。
とにかく、苦手分野があるとする。

放っておけば、ずっと苦手なままである。
ただ、これでも問題ないこともある。
算数が苦手なままで立派に社会で働いている大人はごまんといる。
英語が苦手という人でなら、多分もっといる。
器械運動の各種の技、例えば逆上がりができないまま大人になっている人もたくさんいる。
それでも何とかなっているのが現実である。

それでも何とかして助けてあげたい場合。
まず、手取り足取り指導することが一つ。
次に努力を促すことが一つ。
ここまでは通常必ずやる。

次のステップが大切である。
待つこと。
結果を焦らないこと。
蒔かぬ種は生えぬが、蒔いたからにはいつか生える。
また、大木を目指すのであっても、最初は小さな芽である。
ゆっくり成長する。
せっかく伸び始めようとしているのに、余計に手を加えて無理矢理伸ばそうとすれば失敗する。
新芽が出るのが他と比べて遅いからといって、土を掘り返すようなものである。
生長が遅いからといって肥料を余計に与えるようなものである。
そんな下手をうてば、あっという間に枯れる。

待つこと。
子どもの成長を願うが故に、逆に難しいことである。
しかし、「育つ」というのは、自発である。
見ている方は、忍耐がいる。しんどい。
それでも、サボテンの花のように、ずっと外から見た変化がなくても、いつか突如花開く時が来るかもしれない。

待つこと。
私自身、2016年のテーマにしたいものの一つである。

2016年1月17日日曜日

苦手克服と長所伸展

苦手克服と長所伸展。
どちらを優先すべきか。

時と場合によるのかもしれないが、教室においては後者を重視する。
世の流れからいっても、そう答える人の方が多いと思う。
しかし、実際の教室ではなかなかそうなりにくい。

なぜか。

短所は長所以上に、目立つからである。
自分自身を考えればわかるが、短所よりも長所の方を多く挙げられる人は少ない。
自分の悪いところがたくさん見えるということは、他人に対してもそうだということになる。

また、良いところというのは、「当たり前」に見えてしまうという点も見逃せない。
教室で起こる様々なことを、「普通に」行える子どもの方が多いと、そのすごさが見えなくなる。
親が毎日違ったメニューで食事を出してくれるのと同じである。
献立を毎回考えて準備して作るその労力、すごさに気付かない。

だから、相当意識して、長所に目を向ける必要がある。
短所は放っておいても目立つ。
誰より、本人が痛切に知っている。
周りは見てみないふりも必要である。

ところで、自分自身を振り返って、苦手なことがあるだろうか。
私はある。(いや、あるなんてものではない。)
もし私が子どもだとして、それを毎日先生が「熱心に」みっちり教えてくれたら、学校に行きたくなるに違いない。
何といっても、何十年も生きていて改善されない苦手項目である。
おいそれと改善されるとは思えない。
そして、「熱心に」教えてくれた相手のがっかりした表情が目に浮かぶ。
「こんなにやってもダメなのね」と。
これは辛い。

逆もありきで、コンプレックスだらけでも、一つぐらい良いところはある。
そこをピンポイントで褒められる。
これは嬉しい。

子どもの良さを見つける。
そのためにも、まずは自分自身の良いところはないか、見つめることからやってみたい。

2016年1月14日木曜日

子どもの「木登り」を注意しておきながら思うこと

低学年の子どもが学校の木に登っていたのを、他の子どもが報告に来た。
登らないという約束がある以上、これは「危ないよ」といって降りさせた。

立場上、当然である。
ただ、単に子どもに対してという目からすると、木登りは子どもにとって大変意味のある運動である。
高さ感覚、腕支持力、バランス感覚、逆さ感覚、判断力、等々トータルで身につく。
生きていく上で結構役立つ力がつく。

ずっと以前だが、こんなことがあった。
中学校の林間学校に引率補助で参加した時のことである。
山の斜面を歩いて下っていった。
これが、歩けないのである。
坂道が怖いとのこと。
へたりこんでしまう子どもも結構いた。
幼少時代、夏休みは田舎の山奥でずっと遊んで過ごした自分としては、かなり衝撃であった。

この中学生に対して「だらしない」ということは容易い。
しかし、そういう子どもにしたのは、教育の影響が大きいともいえる。
子どもの周りから危険を完全に取り去れば、当然それに対応する力はつかずに体だけが大きく育つ。
箱が大きくなるのに、中身が入っていない状態である。

たかが木登り一つだが、色々と考えさせられた瞬間だった。

2016年1月12日火曜日

感謝の気持ちと自信はセット

子どもにできることはやらせようという話の続き。
何でもやってもらっていると、当たり前になって感謝の気持ちを持ちにくくなる。

例えば、給食。
子どものやることといえば、配膳と食べることぐらいである。
片付けだって、食器を下げるだけで洗うまではしない。
作る苦労や洗う苦労を考えることはない。

この辺りを体験的にわからせる実践として、知人の河邊昌之氏のものを紹介する。
たらいに水をはり、そこに給食を食べた後の食器を入れさせ、洗わせる。
汚い食器や食べ残しの多い食器が多いと、水があっという間に汚れる。
洗うのも一苦労である。
特に米粒がこびりついたものや油ものは大変である。
きれいに食べた後の食器は、さっと洗うだけである。

また、残飯処理と食缶の洗浄も行わせたい。
空になっていれば一瞬だが、残飯が多いと、とたんに労力が数十倍になる。
(もちろん、実際はこの後またきちんと洗ってもらうことにはなる。
 管理職及び調理師の方との連携が必要だが、趣旨を理解してもらえば可能である。)

こんなことも一回やってみるだけで、子どもの食べ方が変わる。
苦労を体験したからこそ、感謝の気持ちも湧いてくる。
これが「教える」という段階である。
しかし、毎回洗う訳にはいかない。
そこで、「普段自分たちでできることは何か」を「考えさせる」段階になる。
すると「なるべく残さない」「きれいに食べる」といったことが出る。
あとは「実行に移す」ことをし、時に「振り返り」をし「改善」を繰り返す。
給食の片付け一つとっても、立派な学習サイクルができあがる。

教育の目的は、人格の完成。
そう言われると何だか難しい。
要は、教育によって、今より良くなること。
教育によって悪くしてはいけない。
子どものやれることを自分でやらせることで、感謝の気持ちも自信も育つ。
いつでもねらいをもって、子どもを常時善導したい。

2016年1月10日日曜日

脱「上げ膳据え膳」

前々号の子どもにできることはやらせようという話の続き。

以前5年生を受け持った時、米作りを通した総合的な学習を行った。
田植えや稲刈り等を通して、米作りについて体験的に学ぼうという試みである。

農村部にある学校ではなく、思い切り住宅街にある学校である。
当然、川などはなく、普通に水道を使うことになる。
耕して、防水シートを貼って、畦を作って、かなりの大作業である。

何より、水の管理が大変だった。
特に夏場は、水がすぐなくなる。
川ではないので毎日水を入れねばならず、学年職員が交代でこの作業に当たった。
しかも、水が入るのにも1時間以上かかるので、溢れないように見ている必要もあった。

問題だったのが、一連の大変な部分をすべて教師側がやっていたこと。
子どもがやったのは、観察が中心で、作業としては田植え、稲刈り、脱穀、そして最後に食べるだけである。
仕方のないことかもしれないが、これだけだった。

稲刈りの時、ある子どもが放った言葉がすべてを物語っていた。
「先生、お米って、簡単にできるんだね!」
無邪気に笑ってそう言った。
純粋に、そう思ったのである。

これは失敗したと思った。
それはそうである。
子どもは、楽で楽しい作業を少ししただけである。
後は「上げ膳据え膳」の状態で、何もかもしてもらっているのである。
苦しい思いなど何もしていない。
感想は「米作り、楽勝」なのである。
これでは、農家の人もうかばれまい。
何のための総合的な学習の時間なのかわからない。

普段の学校生活の中でも、こういった教育をしてしまっていないか。
例えば担任が「放課後に子どもの机をすべて整える」ということを続けたとする。
ねらいがあるだろうから、これ自体はいい。
「整った教室環境」という視点から見ると、プラスである。
しかし、これによって「整頓をしない子ども」が育つのは問題である。
子どもの成長という視点から見ると、マイナスの教育になる。

とにかく、やってあげ過ぎは往々にしてマイナスの効果を生みがちになる。
過ぎるか過ぎないかの判断基準が「子どもが自力でできることか」である。

「アクティブ・ラーニング」にもつながる大事な部分であるので、もう少し続く。

2016年1月8日金曜日

騙されるのも仕事の内

今回は、雑感。
(ちなみに、最近の話ではなく、いつか書こうと思っていたことである。)

教室にいると、色々とある。
時に、子どもが嘘をつくことがある。
経験を積むほど、嘘が嘘だとわかる。
逆に、経験が浅い内は、嘘にコロッと騙される面がある。

どちらが幸せか。
実は、騙されている方が幸せである。
「嘘も方便」という諺もある。

人が嘘をつくのには、理由がある。
子どもも同様である。
なまじ、経験を積むと、嘘が見えてしまうから苦しい。
気付かなければわからない、悪いところが見える苦しさである。

見えてしまった時、どうするか。
場合によっては、敢えて騙されるという選択肢もある。
見えているけど、「そうかもしれない」と思い込んでみる。
または、「とりあえずそういうことにしておこう」と静観してみる。

自分に置き換えて考えてみる。
例えば、会社員なら、上司がいる。
この人が、完璧で何でもお見通し。
そして、あなたのミスや嘘を事細かに指摘して正そうとしてくる。
想像するだけで、息苦しくならないか。

そういうことである。
あまりに見えすぎる教師だと、お互い苦しい。
だから、「スルー」する部分もあるということである。

自分が教える時にも適用できる。
例えば、何か教える時にどうにもうまくいかない子どもがいるとする。
この時、いかに子どもの可能性を信じてやれるかということ。
今の実力はどうでもいいのである。
将来、何とかなるのではないかという希望。
きっとよくなるという勘違いにも似た確信。
それが「ピグマリオン効果」で、正の効果をもたらすことがある。
逆も然り。
教師が子どもに絶望したら、終わりである。

騙されてみる。
自分自身、完璧ぶらない。
お互いのための作戦の一つである。

2016年1月6日水曜日

どこまで子どもにやらせるか

昨年の、赤坂真二先生からの学び。

参加者から次のような質問があった。
「どこまで子どもに任せていいものか悩みます。」

この質問への回答が明快だった。
「子どもが自分でやれることなら、全てやらせればいい。
やれないことだけ助けてあげる。」

そう、子どもにとって、本当にためになることをすればいい。
やってあげすぎは、依存心の強い子どもや、不遜な子どもが育つ。

子どもだって、本能的に人の役に立ちたいのである。
自己有能感、自己有用感を持ちたいのである。
その機会を教師が奪ってしまっていないか。

その「子どものため」の行為は、本当に必要か。
やってあげる前に、一度振り返りたい。

2016年1月4日月曜日

協力するということは、本能的行為か否か

先月の赤坂真二先生のクラス会議セミナーでの学び。

こんな問いがあった。
「協力するということは、本能的行為か。」
つまり、赤ん坊でもするかということ。

私は、違うと思った。
そうであるなら、誰しもが協力的になるはずだからである。

しかし、答えは「イエス」。
生後数ヶ月の赤ん坊でも、困った人を見ると、手を出そうという反応を示すらしい。
きちんとした学術的な研究結果があるとのこと。

そこで気付いた。
本能であるのに、なぜ先のように「誰しも協力的になる」という状態にならないのか。
これが、教育の効果である。

以前にも述べたように、非人間的行為により、赤ん坊を泣かないようにさせることもできる。
つまり、やり方次第で、本能行動であるはずの協力的な態度を殺すこともできるということである。

一番効果的なのは、他人と比較して競争をさせることである。
それも切磋琢磨のような形ではなく、とにかく相手を落としてでも人より優位に立とうとする競争。
人の不幸の上に自分の満足を築こうとする行為。
これを是としていれば、当然協力はしなくなる。

逆に、そういうことをしなければ、本能的に人は協力する。
困っている仲間がいれば助ける。
事実、幼児でも人のお世話をしたがる。
それをしないとすれば、誤った教育をしているということである。

普段、悪気無く行っていることに、本当に負の教育はないのか。
たまに立ち止まって考えてみる価値があると思う。

2016年1月2日土曜日

書き初めと評価と自信

新年の話題。
書き初めの宿題の話。
みなさんも、小中学生の頃に、やったと思う。
得意、または好きだった方だろうか。

私はいわずもがな、ずっと嫌&苦痛であった。
書くことが嫌なだけでなく、評価が付いたものを、立派な級友のものと並べて掲示されるのがたまらない。
誰が見ても「うわぁ・・・」というレベルの我が作品を、敢えて人前に晒す。
気分は公開処刑である。

そんな書写へのネガティブイメージ全開の私に、一筋の光をくれた先生がいた。
高校の書写担当の先生である。
毎回、「甲」「乙」「丙」の評価が入って返ってくる。
これは正直嫌だった。
毎回「丙」か、稀によくて「乙」。
しかし、ある時「甲」の更に上の評価がついた時があった。
評価へのマイナスイメージしかなかったが、このたった1回で、しばらくは一生懸命やろうという気になった。
持続性はそんなになかったものの、今でも覚えているというのは強烈な印象である。

ちなみに、美術に関しても同じようなことがあった。
美術も割と自信がなかったが、ある日大学の先生が私の作品を取り上げて、授業中に褒めた。
授業後、「もらっていいか」と聞いてくれた。
喜んで差し上げた。

これらの出来事以来、自分の作品に自信がついた、ということはなかったが、視点の転換があった。

要は、評価とは、自信をつけるものでなくてはならないということである。
マイナスの評価で「もっとがんばれ」というのが必要なことも中にはあるかもしれない。
しかし、大抵の場合、本人が既にマイナス点を自覚していることの方が圧倒的に多い。
何をするにも発表するにも「自信満々です」という人の方が絶対数は少ないはずである。

そこで、我が子が書き初めに挑戦し、できた作品にどうコメントするか。
もう、全力で褒めてやるしかないと思う。
全力で何とか書き上げた作品ならば、多少曲がっていても気になる点があっても、褒めてやるに限る。
(書道を本格的に習っている子どもで、立派な賞を毎回もらうような場合に関してはわからない。それは別の方法である。)

自信は、「勘違い」から。
周りが認めてくれるから、自信がつく。
最初はそれでいい。
「他人が認めてくれなくても、評価されなくてもいい」というのは、既に自信がついた人の使う台詞である。

子どもには大いに自信をつけて、明るい1年を過ごしてもらいたい。
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