2019年1月30日水曜日

ルールに進んで従う時

ルールに従うことについて。

自由とルールは両立し、相互に支え合っている関係である。
本メルマガ上ではその立場で一貫して書いている。

ルールに進んで従うのはどんな時か。

一番わかりやすいのは、スポーツの世界である。
試合に出る。
当然、ルールを厳守する。
破れば、退場あるいは失格等になり、楽しむ以前になるからである。

ルールが試合の楽しさを保証する。
つまり、審判がぐずぐずだと、楽しくなくなる。
ここは、ビシッと正しくジャッジしてくれるのが一番楽しい。
そうでないと、ラフプレーをするチームの独壇場になる。
プレーの自由が奪われることになる。

昭和同世代の人にしかわからないかもしれないが、
要はルールが通らない世界とは、「北斗の拳」の世界である。
暴力がすべてで、悪行が横行する世界である。
苦しむのは、力ない民衆、特に子どもとお年寄りである。

ルールをもたらす存在である主人公が「救世主」として活躍する、そんな漫画である。
「アンパンマン」はじめ世のヒーローものの漫画は、すべてその構図である。

さて、ルールを破るものはなぜわざわざ悪人側に回るのか。
その試合に出たくないからである。
ルールが嫌なのではなく、その場そのものが気に入らないのである。

ルールを無視して奪えば、水と食糧が手に入る。
要は、体が貧しいのである。
ルールを無視すれば、みんなが自分に構ってくれる。
要は、心が貧しいのである。

不足感があると、ルールを破る。
そのルール上で上手に生きる術を知らないからである。

逆に、場のルールを使いこなせるものは、大活躍する。
例えば「困っている人を助ける」という方向は、あらゆる場での「鉄板」である。

ルールを守らないのはなぜなのか。
不足感から相手を見ると、見えるものがあるもしれない。

2019年1月27日日曜日

魔法の指導法は存在するか

前号で、「本物は福を分かつ」という話を書いた。
あらゆるサービスにおいて、福を分かつことが大切である。

例えば、本。
本物の本は、読んだ人の人生に貢献する。
買った相手が幸福になるのが、本物であり、一流である。

常々、本のタイトルは大切だと述べている。
なぜなら、著者や出版社への信用に関わるからである。

誇大広告は、いけない。
相手を尊重していない。
タイトルと内容とのずれは、買った人の願いと結果とのずれを生ずるからである。

学級がうまくいかない時、当然何とかしたいと思う。
子どもたちが、突如見違えるように良くなる方法。
あるだろうか。

実際は、目に見えないような微かな変化から、じわじわと時間をかけて正常化していく、というぐらいで最高の効能である。
なぜなら、それが正常な人間関係の変化だからである。
担任が突如別人のように性格や考え方が変われば話は別だが、それはもはやマインドコントロールの世界である。
(そして、突如変わったら、子どもも戸惑ってしまうだろう。)

そこで「魔法の」というフレーズ。
これは教育系の本でよく使われるが、これは買う前によくよく自問する必要がある。

「魔法の」指導法が存在しないかというと、これは存在する。
ただし、魔法は「使い手が命」ということを前提として知っておく必要ある。
本人が「魔法使い」でないと使えない。
つまり、既に魔法使いの人にとっては「魔法の」系の本は有効に働く可能性がある。

「魔法の」という本は、魔法使いの人向けの本なのである。
ここをわかっていないと「インチキだ」と文句を言うはめになる。
繰り返すが、インチキではなくて、魔法使い向けの本なのである。
医療関係の職業に従事していないと、医学書を読んでもさっぱりわからないと同じことなのである。

では、魔法使いとは、どういう類の人なのか。
「思い込み」の魔法を自他にかけられる人である。
「僅かな可能性にかけられる人」である。
本物の自信があり、自己決定ができる人である。
自分と他人の変化を信じられる人である。
そのための行動を起こせる人である。

魔法が確実に使えない人というのは、この逆を考えればよい。
つまり「可能性が高くないとできない、やらない」という人。
自信がなくて「みんな」の意見に流される人。
「でも」「だって」「どうせ」「仕方ない」が口癖の人。
自分と他人を一面的にしか見て決めつけがちな人。
行動を起こせない人。

上記に当てはまる場合、魔法使いではないので、「魔法の」「すぐ変わる」系の本は読まずに捨てた方がよいといえる。
時間の無駄になるから、別の本を読んだ方が効率的にもよい。

私自身は、自分の目の前にいる子どもであれば、直接魔法をかけることができる。
私が自信をもって「あなたなら絶対できる!」と断言できれば、かなりの確率でできるようになる。
ただしそれは、私がその子どもと信頼関係を築いてきている場合に限る話である。

更にいうと、自分が自分自身との信頼関係を築けていることがベースである。
私が自身へのやり抜く信念と指導技術に自信がある場合のみ、魔法は有効である。

逆に言うと、そんなに信頼関係が築けていない相手だと、魔法はかけられない。
自分に自信がない場合もダメである。
魔法は、信頼ベースなのである。

つまり、魔法をかける以前にこそ大きなポイントがある。
魔法は「結果」であり「おまけ」でしかない。
そういう前提で「魔法のフレーズ」「すぐできる」を使うことが大切である。

関連して、以下は自著の宣伝。

拙著『ピンチがチャンスになる切り返しの技術』が版を重ねて広がり続けている。
https://www.amazon.co.jp/dp/4181907120
これは、魔法の本の類ではないが、正しい使い方はある。
(当たり前だが、疑り深く読んでも全く効果は出ない。
私の提言への信用がベースである。)

フレーズだけでも使えるのだが、各見開きの右ページ中段に書かれている「観」の部分をこそきちんと読み込んで欲しい。
用法・用量を守って正しくお使いいただいてこそ、効能が出るというものである。

目の前にある、素晴らしい効能があるはずのたくさんの本(あるいは、尊敬する素晴らしい実践家。)。
しかし、今それは、自分にとっては宝の持ち腐れかもしれない。
自分に効果の出る本(あるいは人)は、別にあるかもしれない。

今の自分に必要な本はどれなのか。
選考基準は、読んでいてワクワクすること、それを今すぐ使いたい、やってみたいと心から思えること。

私は初任から数年間の苦しい時、ここに当てはまるわずか数冊の本だけを繰り返し読み込んだ。
やたらと手を広げて魔法を求めずに、これだと思う1冊にかけるのもいいかもしれない。
それこそが、本当に自分自身に魔法をかけてくれる1冊である。

私の著書も、試してみて欲しい。
繰り返し読めるぴったりの1冊という人もいるに違いない。

2019年1月25日金曜日

本物は、皆に福を分かつ。

師の野口芳宏先生からの学び。
次の言葉を教えていただいた。

本物は、皆に福を分かつ。

解説不要なほどシンプルで、納得の言葉である。

逆にいえば、皆に福を分けないようなものは、本物とは言えないということである。

ここ数回で伝えてきた内容を総括するような言葉である。
本物の人物なら、周りの人を幸せにする。
一流は本物であるから、皆を幸せにしているはずである。
広く世に貢献しているから一流なのである。

今、自分が一所懸命にがんばっていることを考える。
それは、皆に福を分かつ結果になっているか。
それを基準に考えれば、それが本物かどうかわかる。

人を騙して儲けたり得したりすることは、偽物である。
誇大広告や嘘も同様。
人を不幸にするからである。

人を感動させるサービスや品物は、本物である。
サプライズや温かな態度、誠実な謝罪も同様。
人を幸せにしているからである。

SNSの投稿などでも、これを基準に見ることができる。
それが皆に福を「シェア」するためのものなのか。
それとも、単に投稿者が「いいね!」といってもらって、自己顕示欲を満たすためだけのものなのか。
この違いは月とすっぽんどころか、天と地、フロッピーディスクとクラウドぐらい違う。

教育実践でいうと、何十年経っても残っている実践は、本物である。
時代の裁きを受けてなお残ったものだからである。
(この言葉も、野口先生からかつて聞いた言葉である。)

今やっていることが三十年先でも残るようなら、本物である。
そう考えると、学級担任や各種コーチの仕事の意味は重い。
その子どもの人生を変える可能性がある。

一方、多くの教育研究に対しては、労力に対してそこまでの深みを持たせられているか、甚だ疑問が残る面でもある。
本物なら、今やっていることがこの先ずっと残る、あるいは影響を与えるはずである。
いかがであろうか。

それは、皆に福を分かつ結果になっているか。
独りよがりになっていないか。

自省の際に有用な視点である。

2019年1月23日水曜日

席替えの場面 ~自分を大切にする~

席替えをした時に話したこと。

新しい席になる。
当然、周りに新しい仲間がいる。
その状況を図にして示す。

真ん中に円を描き、中に「自分」と書く。
周りにも円を描く。
「誰でも世界の中心は自分」ということを教える。
隣の人の世界の中心も隣の人ということも付け加える。
前提として「誰でも自分が一番大切」ということをおさえる。

次に、周りのそれぞれの円に「表情」を描く。

周りがみんな嫌な顔をしている。
困っている人や怒っている人。
当然、自分もそれらと同じ顔になる。

周りがみんなニコニコ幸せそうな顔をしている。
当然、円の中心の自分もニコニコ顔である。

さて、続いてこういう図を描いてみる。
自分だけがいい思いをしている。(意地悪な笑い顔)
周りはそれによって嫌な思いをして怒っている。

この状況で、自分だけ幸せに笑い続けることは可能か、問う。

明らかに無理である。
この後に周囲から攻撃を加えられる、あるいは避けられるのが目に見える。
自分も怒りの表情になること必至である。

次のように話した。
「自分を大切にしてください。
それには、周りの人を大切にすることです。
人間は一人では生きていけず、周りと共に生きていきます。
周りの人を思いやることが、結局自分を大切にすることにつながります。
学級目標の通り、みんなが気持ちよく生きていけるクラスにしていこう。」

これは、自分を殺して我慢しろということではない。
全く逆で、自分を生かして自由にするために、周りを同様に尊重するということである。
自分が嫌なことを我慢して無理にしてあげる必要もないし、相手が嫌がることを強いることも間違っている。

こういう話一つをするだけでも、席替え後に無駄に嫌な思いをする子どもは減る。
席替え一つでも、ちょっとした配慮が必要である。

2019年1月21日月曜日

心配の種を堀り起こして見る

前々回の続き。
心配しすぎについて。

「子どもの成長を確実に阻害する方法」の記事には反響があった。
「心配しすぎ」は、多くの親や教師が抱える課題であるようだ。

ところで、「心配しすぎるな」と言われても、心配してしまうのが人間である。
「親だから心配して当たり前だ」という声も聞こえそうである。

この「〇〇だから△△して当たり前」が出た時は、要注意サインである。
「当たり前」の前提を見直せというサインである。

そもそも、なぜ心配しすぎてしまうのか。
心配は、感情である。
感情には、目的がある。
願いがある。
その願いを深堀りしていって、気付くことで手放すことができる。
心配の種を堀り起こして見る作業が必要である。

子どもが失敗することに、一体何が心配なのか。

例えば、四月に一年生となった我が子が一人で通学することになった時。
心配である。
迷子になるのではないか、交通事故に遭うのではないか。
つまり、命が心配なのである。
これはある程度、妥当な心配といえる。
しかし、心配するよりも一緒に通学路を歩く練習をするなど、対策を立てる方が現実的である。
心配は、準備不足によっても起こるからである。

では、子どもの忘れ物を届けることはどうか。
忘れたままだと、何が心配なのか。
子どもが困ることである。
これは、困らせておけばよい。
体操服を忘れても、命に別状はない。
見学する中で自然に反省して、次に気を付けるようにすればいいことである。
繰り返すようなら、声かけなどのサポートは必要であるが、毎度届けているといつまでも成長しない。

木登りはどうか。
落下によるケガの心配である。
これは、再三言っているが、早めに小さなケガをした方がいい。
後々で大けがをする確率が低くなる。
一度もまともに転んだことのない子どもが、大きくなってから一番怖いのである。
(肉体面だけでなく、精神面でもいえる。)

全く別の視点で、「保身」がある。
つまり、周りから立派な親(あるいは立派な教師)であると見てもらいたいという思い。
これは、正直、いらない。
即捨てた方がいい心配である。
「そうはいっても」と思うかもしれないが、誠実な教師なら、少なくとも子どもの失敗で親を責めたりはしない。
たとえ言われても、「いつもすみません」と誠実に対応すればいいだけの話である。
(親から教師の場合にもいえる。)

まとめると、基本的に心配は「安全」のサインである。
つまり、現状維持、生命維持のための本能である。

そして成長とは、安全領域から出ること。
有名な脳科学者の茂木健一郎氏も言っているが、安全地帯・快適地帯(コンフォートゾーン)にいる以上、成長はない。
脳は、刺激を受けないと成長しないし、安全地帯から出ないと進化しないのである。
大人にも子どもにもいえることである。

心配しすぎは、子どもの成長を阻害する。
心配しすぎることによって、子どもは安全地帯を出られなくなる。
その心配の真の願いは、子どもに健やかに育って欲しいという願いのはずである。
心配の奥深くの願いを掘り下げれば、心配を手放せること請け合いである。

もっと子どもを信じよう。
自分自信も信じよう。
そんな大人に見守られていたら、子どもも自信をもって生きられるようになるはずである。

2019年1月19日土曜日

荒れる大人にも受けの美学

成人の日と関連して、「受けの美学」の話。

全国各地で成人式が開かれた。
大人になったことを祝う日である。

大人になるとは、自分で責任がとれるようになるということ。
大人になるとは、与える人の側に回るということ。

喜ばしいことである。
歓迎である。

再三述べているように、ごく一部の新成人が荒れるのは、わざわさメディアが騒いであげるからである。
大人が甘やかしているのである。
騒ぐエサをあげているともいえる。

渋谷のハロウィン騒ぎと全く同質である。
「ダメでしょ」と口だけ注意して、心の底で大人たちが面白がっているからである。
(学校現場でも見受けられる。注意するなら本気でしないと逆効果である。)

大人がそういう形でしか騒げないのはなぜか。
心が満たされていないからである。
幼少期からの表現欲求と自己承認欲求が満たされていない。
要は、受けてもらえなかった負債である。

攻撃を受けてもらえれば、信頼感が生まれる。
受けてもらってばかりで相手に申し訳ないなという思いも抱く。
相手の攻撃も受けないといけないなと思う。
そうすると、遠慮も生まれ、変な荒れの形では出てこない。

毒出しである。
作用反作用の法則、正負の法則により、負は必然である。

受けるとは、心配することではない。
そういうもの、と認めることである。
ちょっと傷付くし自分は違う考えだけど、あなたはそう考えてるのね、と認めることである。

ごく一部の新成人の荒れも、受けないといけない。
その地域の教育の負債の返済なのである。
家庭教育はもちろんだが、学校は何かしら彼ら、彼女らに関わったはずである。
責任をもって、甘んじて受けるしかない。

それをわざわざ報道しなくていい。
あらゆる事件と同じで、悲劇を知ったところでどうにもできない。
ワイドショー的に見世物になるだけである。
教育の被害者たちを見世物にすべきではない。

ハレの日のスポットライトは、正しい姿に向けるべきである。
今年こそは、あの手の報道がどこの放送局でも流れないことを期待したい。
悪いところにわざわざ目を向けるのは、愚か者のすることである。

私がかつて教えた子どもたちも、新成人となった。
素敵に輝く新成人たちを心から歓迎したい。

2019年1月13日日曜日

子どもの成長を確実に阻害する方法

17年半の間、学級担任として様々な子どもたちを見てきた。
同時に、様々な保護者とも接してきた。

教育において、環境は大切である。
地域というのは、多様性において無視できない要素である。
山間の学校。
街中の学校。
新興住宅地。
私立学校や附属学校。

それぞれ、かなり生活スタイルの異なる人々が暮らしている。
それぞれに良さもあり、大変な面もある。
しかし、どの環境に暮らす人であっても、共通項は見えてくる。

今日紹介するのは、そんな多様な状況の中で見えてきた、子どもの成長を確実に阻害する方法である。
これを裏返せば、すべての子どもの劇的な成長を促す方法ともいえる。

これは、多くの人にとって、多大な興味があるのではないかと思われる。
研究者による社会実験等の結果ではなく、あくまで私の現場感覚による実感だが、自信がある。
信じるも信じないも自由である。
その程度で読んでいただきたい。

ずばり。
成長を阻害する一番の方法とは、



「心配しすぎ。」



これである。
親でも学級担任でも同様。
これに尽きる。

この傾向があると、とにかく「指示」「注意」「禁止」が多くなる。
更に「他責」が加わる。
子どもに対しても心配だし、担任の先生や学校、習い事のコーチに対しても心配なのである。
(そんなに心配なら全部自分で世話してください、と特に習い事や保育園の先生は強く思っている気がする。)

当然、子ども自身も、心配性になり、指示待ち傾向が強くなり、他責的になる。
自分が失敗するのは、指示を出した親や教師、あるいは周りの仲間の責任であると考えるようになるからである。
これに伴って、いじめる、いじめられる、傍観、便乗するという傾向にもつながる。

ちなみに心配とは「慎重」とは違う。
慎重とは、熟考し、軽々しく断定や行動をしないことである。
大局を見る視点であり、こちらは大切である。
(私は、慎重に見てきた上で、敢えて断定して述べている。)

ここでいう「心配」とは、失敗を無暗やたらに怖れて子どもの挑戦を阻止し、先回りして解決しようとする行為である。
この一文を読むだけでもわかると思うが、これを習慣的に行えば、子どもがどういう方向に育つかである。

過剰な心配性は

臆病
事なかれ主義
他者依存
他責

ひいては他人に対し
指示・支配的
聞く耳をもたない
失敗を責める
挑戦を馬鹿にする

こういった傾向を強めるだけである。

愛する我が子に失敗させたくないのはわかるが、これでまともに育つはずがない。
まして担任がその傾向だと、学級集団の全員がそうなるので、負のスパイラルである。

要はこれを裏返せば、子どもが劇的に育つ方法になる。

つまり、心配しすぎないこと。
教えたら、とりあえずさせてみて、失敗しても励ます。
信頼して、だんだんと任せていく。
愛情をもって見守ってはいるけれど、基本的に口出し、手出しを控えて我慢する。

強く育っている子どもの親や学級担任は、大抵これをやっているようである。
だから、子どもが自信に満ち溢れている。
少しぐらい失敗しても叱られても、へこたれない強い子どもになっている。

書いていて気付いたが、これは山本五十六の有名な言葉と全く同じである。
====================
やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ。
話し合い、耳を傾け、承認し、任せてやらねば、人は育たず。
やっている、姿を感謝で見守って、信頼せねば、人は実らず。
=====================

今回は子育ての話だが、上司と部下というような関係にもほぼ完全に当てはまる。
自分を信頼してくれる上司のもとでしか、人は育たない。
いつも心配ばかりされて、厳しいチェックと指示、叱責ばかりの上司についていきたい人はいない。
(しかし部下の立場でこれに甘えるのは間違っている。大人なら、自分がしっかりする方が先である。)

子どもを「所有物」「私物」化しているから、心配性になる。
子どもは一人の自立した人格なのである。
親のものではないし、ましてたかだか一学級担任のものであるはずがない。

要は、いちいち細かすぎなのである。
他者にそんな関心をもつ暇があるなら、自分の心配をしなさいということである。
心配性の人が一番心配である。

愛しているなら、心配しすぎない。
愛しているなら、信頼して任せる。

子育て、人材育成の肝である。

2019年1月11日金曜日

要望の根本を見抜く

電車の広告を見ての気付き。

通勤電車に乗っていると、広告が目に入る。
しばらく定期的に定点観測を続けてみた。

さて、問題である。
一番多い広告は何か。

これは私の利用している電車がそうなのかもしれないが、不動の一位がある。
それは、エステの脱毛の広告である。

これをお世話になっている美容師の方に話した。
私は
「みんな綺麗になりたいのでしょうね」
と言ったら
「違うかも」
との答え。

要請は
美しさ
ではなく
楽したい
とのこと。

女性にとって、脱毛というのは、なかなかの強敵らしい。
剃ると肌にも負担がかかるし、何より広範囲で面倒とのこと。
(よくよく考えると、男性の髭脱毛も基本は同じ視点である。)

つまり、表面上の相手の要望と、根本的な要望は違うかもということである。

翻って、自分の仕事への要望は何か。

学級担任という立場の場合、次の3つが直接の要望者である。

1 子ども
2 保護者
3 同僚

ここに、より大きな要望者として
社会
が入る。
(社会の要請の上で、すべての仕事は存在する。)

今日、これら三者からそれぞれ何かしら要望が来るはずである。
何を求めているのか。

速さなのか
質なのか

楽しさなのか
困難な課題なのか

癒しなのか
厳しさなのか

自由なのか
安全なのか

根本を外した対応をしていないか、振り返る必要がある。

2019年1月9日水曜日

子どもに素直さを学ぶ

一年生は、基本的に素直である。
どれくらい素直かというと、こちらが間違っていても全て受け入れてくれるほど素直である。

つまり、素直な子どもばかりが相手だと、自分の過ちに気付けない可能性がある。

一方で、自分の「常識」が通用しない相手も、ちゃんと現れる。
そんなこと言っちゃダメでしょ、ということも平気で口に出す。
空気とかは読まない。
王様が裸だと平気で真実を言ってしまうぐらい、素直である。

これらの子どもは、大人の常識が通用しない。
よって、あまり言うことをきかない。
何度言っても同じことを繰り返す。
丁寧に教えてもわからない。
理解不能な言動をとる。

ちなみに、こちらが
「何度言ったらわかるの!」
「どうしてわからないの!?」
「○○って言ってるでしょ!」
等の台詞を口にしてしまったら、それが彼等への敗北宣言である。

再三述べているが、これらの子どもこそが「神様」である。
そして一方で、言うことをきいてくれる有難い子どもたちは、未熟な自分をサポートし、ケアしてくれているのである。

大体、自分の常識など、あてになったものではない。
やんちゃな神様は、そこに気付かせてくれているのである。
教えてわからないなら、自分の教え方が下手なのか、相手の発達段階に内容自体が合っていないのである。
(大抵、前者を疑う方がよい。)

気付けるようになるには、こちらも素直になるしかない。
痛くてもなんでも、傷口に文句垂れても仕方がない。
治すのに専念すべきである。

どうやればいいのかという方法自体は、教育書や心理学の本に溢れている。
しかし、どんなに素晴らしい本を読もうが話をしようか、本人が変わろうとしなければ何も変わらない。
誰しも「デモダッテ星人」を相手にしている時間が最も無駄である。

素直さを学ぶ。
そのために、目の前の子どもは最高の教師であり、神様である。

2019年1月7日月曜日

一流の働き手となる

今日から新年仕事はじめの人もいると思うところで、勤労感謝の日にメルマガ上で書いた記事。

勤労に感謝。
社会に感謝。
当然のことだが、忘れがちである。

時々、店員さんに対して、すごく横柄な人がいる。
(店員さんの方が横柄な場合もある。)
お金を払っているのから当然、という態度である。
(または時給以上のことはしません、という態度である。)

なぜこうなってしまうのか。
きっと、自分が働いている時に、そういう態度をとられているのである。
それは、可哀そうな人である。
勤労時に、人から感謝されていないのである。
だから、自分のために働いてくれている相手に対して、感謝ではなく横柄な態度をとってしまう。

これを是正するトレーニング法を考えた。
何に関してでもいいので、いわゆる「一流」の店やサービスに触れることである。
これをやると、なかなか横柄な態度をとれなくなる。

なぜなのか。
まず、一流のお店は、店員さんがものすごく丁寧に接してくる。
それも、卑屈な態度ではない。
「お客様」へのリスペクトがある。
だから、こちらも丁寧にならざるを得ない。
(一流の品でもそうである。雑に扱えない。)

また、一流のお店では、サービスが学べる。
どういう風にすると相手が嬉しいかがわかる。
ちょっとした心遣いなど、一流の店は全てが違う。
それを、自分の仕事に取り入れていけばよい。

つまりは、そこが自己投資ポイントである。
贅沢するために一流の店に入るのではない。
自分を磨くために入るのである。
それは、自分の仕事のサービスを受ける相手のためでもある。
当然、身の丈より上なので、多少の緊張もある。
それも修行である。

ここで、何をもって「一流」とするかである。
一流は、一位とは違う。
一位は一つしかないが、一流はいくつあってもいい。
一流とは「その他大勢と違う」ということである。

ちなみにずっと前だが、大好きな中谷彰宏先生の講座で「一流塾」というのがあり、興味があってそれに出たことがある。
なるほど、一流は、全てがそれ以外と違う。
一流の作家さんの言うことなので、説得力が違う。

その講座の中で、講師の中谷先生から
「この中で、私は一流ですという人?」という質問があった。
誰も手を挙げなかった。(当然、私も手を挙げられなかった。)

中谷先生いわく
「そこがダメ」
だという。

「私は一流になりたい」という人は、気持ちが悪い。
それは「私はもてたい」という人と同じだという。
そんな人は気持ち悪いし、付き合いたいと思われないという。

だからまずは「私は一流です」と言い切れるようになることが大切だという。
そのためにも、その世界を見る必要がある、ということである。

なるほど、まずは実行が大切である。
本物に触れること。
その上で、一流のサービスの根本・本質・原点を学ぶこと。

ちなみに一流とは、職種や値段とは直接関係がないという。(値段との相関関係はありそうである。)
地元民に愛される名店のような一流もある。
知る人ぞ知る下町の部品工場のような「超一流」もある。
そこにしかできないサービスや技術は、一流の証である。

勤労は、人々の幸せに貢献するものである。
一流の働き手の仲間として、一つでも良い働きをし、互いに感謝をして生きていきたい。

2019年1月5日土曜日

勘違いしよう

今日は日常における気付きのエッセイ。
人生における、思い込みの力について。

私は、睡眠に関して、一般の認識と色々と違うらしいことが判明している。
例えば、早起きである。
普通に5時とかではない。
ややランダムだが、かなり起きるのが早い。
(ちなみにこの原稿は、平日1時半に起きた日の3時半に書いている。もちろん朝である。)

しかも、自分で決めた時刻に決めて起きることもできる。
寝る前に何時に起きると決めると、15分単位ぐらいまでいける。
だから、目覚ましは全く使わない。
20年近く使っていないと思う。
(海外旅行とか、何か特殊に早起きしなくてはいけない場合は別である。寝坊しても飛行機は待ってくれない。)

もっというと、睡眠時間もかなり適当である。
8時間眠る日もあれば、3時間で大丈夫な日もある。
特に前日に1時間程度の昼寝をはさんだ日は、かなり早い。
(昼寝の爽快感と回復力は、夜の睡眠の3倍以上だと思う。だから昼寝が大好きである。)
平均すると、6時間程度の睡眠時間である。
それは一般に「短すぎ」「良くない」とされているが、別に体調不良も何もない。
私を知っている人は納得してくれると思うが、むしろ、多分平均値よりかなり健康的で元気である。

なぜこんなことになるのか。
これこそが「思い込み」の力である。

多くの人が「それはあなたが特殊だからできるのだ」と思っている。
その通りである。
私は「自分が特殊だ」と思っている。
つまりは、思い込みである。

「毎日8時間寝ないと不健康になる」
「早起きすると日中に眠くなる」
と、多くの人は思っている(らしい)。
私に限って言えば、それは嘘である。
自分の身体が求める時に起きさえすれば、頭がすっきり冴えるのは自然の道理である。

できると思った人には、できる。
できないと思った人には、できない。
特に、「できない」を口に出して言ってしまう癖がある人は、それが現実になる。
これは、睡眠に限った話ではない。
むしろ私の場合、それを証明するために、睡眠を利用していると言ってもいい。

すべては、思い込みである。
自信があるのもないのも、思い込み。
周りの人みんなを味方と思うか敵と思うかも、思い込み。

「勘違い」と馬鹿にする人がいるが、それこそが大切である。
勘違いと言われることを恐れているから、何もできなくなる。
大いに勘違いをすべきである。
勘違いを馬鹿にしている人には、あなたのようになりたくないから勘違いをしているのだと言ってやればいい。

信じるも信じないも、自分次第。
私は、自分の信じるところを実行している。
とりあえず、間違いなく毎日かなり元気である。
思い込んで勘違いするのも大切ではないかと思う昨今である。

2019年1月3日木曜日

新年の方向性

新年1本目。
今年の本メルマガ(ここではブログ)の方向性について。
3つ考えた。

1 自分が本当に書きたいことを書く。
2 意識の流れに任せて書く。
3 読者を想定しすぎない。

この3つでいくことにする。
なぜか。
それが、世のため人のためになるからである。
せっかく時間を投資した読者の方々に最も還元できると考えたからである。

要は、自分のもつ使命を果たすこと。
これに全力を尽くす。

まず、自分にできることを披露する。
次に、たまたまそれを求める人が手に入れる。
それだけである。

だから、今後は今まで以上に、自分のペースで書くことにする。
しかし、自分のペースで書くというのは、好き勝手に気ままに書いていいということでは決してない。

今回は、そこに関連した話。
自転車や自動車、歩行中など、移動時の気付き。

年末年始は、何かと混む。
なるべく人混みには出たくないが、用事があるのだから仕方ない。

歩きながら周りを見ていると、周りの人にぶつかりながらずんずん進んでいる人が見える。
その人は、歩くのが速い。
あるいは、走っている。

多分、急いでいるのである。
だから、早く先に進みたいのである。
そして、ぶつかる度に、周りの人を邪魔だと思っているかもしれない。

これはおかしい。
先に進みたいのは、自分なのである。
無暗に他人にぶつかってはいけない。
先に進むのは構わないが、ぶつかられる方は迷惑である。

そして原則として、速く動く方が、他をよけるべきである。
ゆっくり動いている方は、速く動く物体をよけようがない。
ぶつかったら、原則として速く動いている側の責任である。
そして、高速移動時は、その分リスクリターンとしてのケガの度合いも大きい。

これは、他のことにもいえる。
立場が上のものが責任をとる。
わからなかったら、教える側に多く責任がある。
その道の先輩の立場にある者が、より重い仕事を任される。
目立つ立場や地位で失敗すれば、より強く叩かれる。(芸能人と政治家はその最も顕著な例。)

どれも至極当然のことである。

つまり、速く動くべき場所に自分が行く時には、速く安全に動ける技術を要する。
高速道路に原付が入れないのは、最高速度が足りなくて危険だからである。
自分が遅いせいでよけられないからである。
場が合っていないのである。
この場合、一般道路を走るべきである。

逆に、然るべき状態で高速に入ったなら、自分の責任で他をよけること。
周りより速い速度で走るなら、自分がよけるしかない。
危険に挑戦したいなら、その責任まで負う覚悟をもち、用具や技術面も準備すること。
以前書いた、海外スキー場の、コース外に出る上級者向け看板の「Ski at your own risk.」のメッセージである。

速く動く方がよける技術を身に付けるべし。
ゆっくりの相手によけろは理不尽。
速く動くならぶつかるものが増える前提が必要。
安全によける技術も必要。

自分のペースで動きたいということへの、一つの覚悟である。
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