2023年5月28日日曜日

これを好む、楽しむものには如かず

 『不親切教師のススメ』とそれに関連する記事が各所で反響を生んでいる。

有難いことである。

今年の頭にも、毎日新聞の小学生版の1面で持久走についてのインタビュー記事を載せて頂いた。


毎小ニュース『その持久走、時代遅れ?』


ここで一つ、メルマガ読者の皆様は知っているかもしれないが、はっきりさせておきたいことがある。


例えば私は、ドッジボール遊びが好きである。

基本的にサッカーやバスケなどのスポーツや競争、ゲームといった対戦型の勝負を好み、やるからには勝たないと気が済まない。

そして、小学生の頃から断続的ではあるが、早朝ランニングを今でも続けている。

(そのせいかこれまでの生涯を通して早寝早起きである。

一方で夜遅くまで起きているのは大の苦手で、ここ十数年は除夜の鐘をきいたためしがない。)

今年の正月には市の元旦マラソン大会(マラソンと名はついているが走行距離3kmのレジャー参加)にも出ている。


なぜそういうことをするかというと、私がそういうことをするのが好きな人間だからというだけである。

他人が自分と同じ感覚である必要など全くないと考えている。


苦手分野の話もする。

書字が苦手な分、書の見事な人に対し、年齢を問わず心底敬服している。

賞状を筆で見事に書ける人には頭が上がらない。

一年生担任をさせてもらった時に書家の先生が筆で

「まつおひであきせんせい」

と書いてくれた新入生向け担任紹介のための長い紙を今も大事にとってある。

立派な習字作品や整った字を書く子どものノートを見ると、心からすごいと思い尊敬する。


では、各種記事との整合性がないかといえば、全くそんなことはない。

私が批判しているのは「みんなで」「一斉に」「揃えて」という点である。

ドッジボール、マラソン、ランニング、書き初め等、それそのものへの否定では決してない。

(もちろん成人式という行事自体も、新成人になる未来を担う若い方々も素晴らしいと思っている。)

嫌がっている人たちに無理にさせること、それによってそれらを憎み誤った方向へ導くことへの疑問を呈しているのである。

給食で苦手なものまで無理矢理食べさせない方がいいというのと同じ方向の理由である。


思い浮かべてみて欲しい。

自分自身の大好きなもの、こと、人などのことを。


そこに対し、誰かが強制的に嫌々ながら関わるとする。

例えば、自分が心から大好きなことや人、あるいは自分の大好物の○○。

これを無理矢理与えられた人が「嫌だ」とか「嫌い」とか「まずい」とか罵っている。

自分はそれをどう思うだろうか。

自分の好きなものをわざわざ嫌いになられて、何か嫌な気持ちになったり、傷ついたりしないだろうか。


それを、無理にでも嫌がる人に与えたいだろうか。

私自身がそれを好きならば、もうそれでいいのではないだろうか。

別にそれを好まない他人が無理に手にする必要はないのではないか。


動物は、見事な食物連鎖のバランスの中に生きており、自分の好まないものは絶対に口にしない。

モンシロチョウの幼虫は決まった葉しか食べないし、逆に羽化したら葉は食べないで蜜を吸う。

羊は生涯草を食み、肉は食わない。

そして、全ての生き物同士は、食う食われるの必要な関係はあれど、わざわざ無用な争いをしない。

また、環境的にも自らが適応できる場所でのみ生きる。

他の生物の生きる場を侵略することもない。


つまり、好まないものを食べたり、好まないことを無理にしたりするのは、地球レベルで見ても不自然な姿なのである。


自らが好むものをするのが一番である。


ただ人間である以上、社会に生きる上で、強制されるべきこともある。

それは、安全など公共の福祉に関する義務やルールである。

日本で車を使って走行したいなら、世界スタンダードに合わせて道路の右側を走りたくても、左側を走ることを強制される。

ここは当たり前である。

選択肢なぞ一切ない。

強制されて素直に従うべきところである。

(世界スタンダードに合わせて法改正をしようとかいう話とは全く別である。)


一方で、運転したくない人、運転に自信のない人が無理矢理運転をする必要はない。

むしろ積極的に止めて欲しい。

同様に、走りたくない人が無理にマラソンを走る必要はない。

安全面から考えても、逆に危険である。


実際、全国の学校謎ルールは合理的とは言い難いものがかなりある。

それらは本当に一斉強制されるべきものなのか、見直しませんかというのが提案の内容の主旨である。


やりたくないことを嫌々無理してやったところで、その成果などたかが知れている。

合理的に考えても、好きでやっている、楽しくてやりすぎてむしろ止められているような人間に、かなう訳がない。

文科省でも個性と多様性とを認めようと大々的に旗を上げているのである。

公務員なのだから、その命ずるところにきちんと従うべきである。


好きこそものの上手なれ。

無用な一斉強制教育の洗い出しと排除は、現在の教育改革の大きなポイントである。

2023年5月20日土曜日

無理なく選べる働き方改革を

 無理をしないということについて。


働き方改革とは、定時に帰ることではない。

それぞれの願いに沿った働き方ができるようになることが肝要である。


働く人の中には「定刻退勤」こそが願いに沿う人たちがいる。

子育てや介護、あるいは仕事とプライベートを分けて生きている人など、事情も理由も十人十色である。

ここにとっては、望まない残業は理不尽であり「無理」になる。


働く人の中に「仕事こそ生き甲斐」という願いをもつ人たちがいる。

仕事をしている時間が何より好きで、プライベートは一切興味なしという人もいる。

大学に勤めているような研究肌の人には特に多いのかもしれない。

あるいは、時間外になってゆっくり仕事をしたいという人も多くいる。

ここにとっては、定刻で早く帰らされることが「無理」になる。


要は、無理強いそのものがよくないのである。

残業時間自体が多いことが問題となっているが、そこは問題の表層であり、本質ではない。

規定時間外の枠を、本人の願いに沿ってどうするか選べなかったことこそが問題の本質である。


部活動の地域移行についても同様である。

部活動に嫌々従事していた人にとっては、万々歳だろう。

しかし放課後でも土日でも部活動をしたい人にとっては、それを取り上げられる形になるかもしれない。


今は多様性の時代なのだから、「選べる」がキーワードである。

子どもたちの立場からしても、部活動は本来「選べる」ものだからこそいいのである。

教える立場からしても同様である。


この点は、学校教育の中において、子どもの側の方が早く移行してきた。

部活動自体を選べるのはもちろん、入るか入らないかも決められる。

小学校の時点から放課後の時間の使い方について裁量権が与えられており、家庭教育に委ねられてきた。


ここで働く大人の側も、裁量権を多くして無理なく働こうという動きである。

流れとしては正常化としてとてもいいのである。

しかし、これまでの体制と大きく異なるために、あちこちで一時的に歪みが起きている状況である。

今までと大きくやり方を変えるというのは、一時的にパフォーマンスが落ちることが多い。


教育メルマガなので、身近な指導の例で考える。


例えば、各校で取り組んでいるであろう縄跳び。

ある日、一年生の子どもが二重跳びを上達させたいらしく、休み時間に一生懸命に跳んでいた。

3~4回ほど跳べるのだが、そこで毎回引っかかる。

縄が回し切れないのである。


さてよく見ると、縄が身長に対して非常に長い。

片足で縄を踏んで両手で引っ張ると、頭の上まで上がる。

逆によくこの長さで二重跳びが数回できていたものだと感心した。

(ちなみに、前跳び等を覚える初期段階や交差跳び系は長めの方がやりやすい。)


私は親切にも、この子どもの縄跳びの長さを調節してあげた。

「常識」的に二重跳びで回しやすいであろう、胸の上ぐらいの位置の長さに調節してみたのである。

言うなれば一般的に「正解」の長さである。


どうなったか。


跳べずに1回目で引っかかった。

次も、次も、そのまた次もそうである。


よくよく考えたら、本人としてはあの長さで回していたやり方のままなのだから、当然である。

急に短くしすぎたと思ったので、目の高さぐらいまでに再調整したら、一気に連続で跳べるようになった。

(心からホッとした。)


要は、旧来のやり方が身に付いている以上、急激な変化には対応できないということである。

よかれと思って「正解」を押し付けず、ある程度本人が無理なく選べるようにしないと、大幅にパフォーマンスを落とす。


とにかく、無理をしないことである。

選べるようにすること。

現場は何かと改革が進むが、この辺りの意識をもって取り組むことがスムーズな働き方改革につながると考える次第である。

2023年5月14日日曜日

個別最適な学びと裁量権

 教育について考える時、学校教育以外の分野の視点から見ることも大切である。


例えば、看護。

ホスピタリティという言葉はここから来ているため、看護の分野からは学ぶところが大きい。


「個別性のある看護」という言葉がある。


「対象者の状態を望ましい方向へ移行するために、対象の置かれている状況およびその背景を把握し、

それをもとに既存の看護を組み合わせる、調節・変更・改善することで創造される看護」


と定義されている。

(日本看護技術学会誌/8巻(2009)3号「個別性のある看護」に関する概念分析 漆畑 里美 抄録より引用)


これは教育における「個別最適な学び」と共通する部分が多い。

ここには「指導の個別化」と「学習の個性化」の二つがある。

個に応じた学びの機会を提供することの大切さはもはや「常識」として共通理解されていることである。


しかしながら、その「常識」が実現しているかというと、残念ながらそうはなっていない。

どうしても「全体性」への比重が高く、「個別性」への比重が低くなりがちである。

つまりは、個に応じていない。

(少数の教員が一斉に大量の人数に対して教えることが前提となっているので、当然といえば当然である。)


個に応じるということについて、ホテル業界の視点から考える。

ホテル業界の大手、リッツカールトンはその顧客サービスの質の高さで知られている。

「お客様」を一人の個として見るホスピタリティがすごいという。

ここについては、リッツカールトンホテルの元日本支社長の高野登氏が数々の著書で書いている。


例えば、あるお客様が、宿泊中にプロポーズをするつもりだということを聞いたとする。

夕暮れ時の浜辺にテーブルをセットし、シャンパンなどのお酒を用意する。

さらに、いいタイミングでウェイターが指輪を届ける。

担当スタッフの判断で、そんな個別サービスがなされるという。


なぜそのようなことが可能なのかというと、ホテルスタッフに裁量権が与えられているからだという。

そんなことに人員を割いてサービスをすれば、当然様々なお金がかかる。

しかし、スタッフには月々いくらまでならサービスのために必要経費として使えるという規定があるという。

その費用をお客様を喜ばせるための車や人の手配に使ったり、花束のサービスに使ったりとできる訳である。

すごい仕組みである。(もちろん、その分宿泊費もそれなりの金額になるだろうが。)


つまりは、裁量権の大きさである。

スタッフ一人一人が細かくチェックされて同じ動きを求められる状態では、到底実現できない。

上司にいちいち報告しないと動けないようでは、到底実現できない。

スタッフの個としての裁量権の大きさが、お客様を個として見るホスピタリティに直結しているのである。


教育に話を戻す。

毎年文科省ががんばって予算を獲得してくれているが、やはり十分とは言い難い。

国は、色々ありすぎて教育になかなか予算を割けないというのが現実である。

教育において、お金を潤沢に配ってもらえることは到底期待できない。

(そんな中でも、GIGAスクール構想は、例外的なかなりの大盤振舞いである。)


では、何を頂けると有難いかというと、先の裁量権である。

とにかく、管理がきつい状態というのは、他者よりも自分自身に目が行きがちになる。

自分自身が注意されたり叱られたりしないように「警戒モード」に入るからである。

これは、大人であっても子どもであっても同じである。


教師にも裁量権があるほど、子どもに対しての個別最適な学びの機会を提供しやすくなる。

一律に決まったことばかりの中で、違う動きをすることはできないからである。


「揃える」というのも同様。

集団単位として揃えることが多ければ多いほど、個別の裁量権は小さくなる。

そして、裁量権の小さい教師が教える子どもたちへ与えられる裁量権は、更に小さくなる。


個別最適な学びを実現するために、お金が必要なのではない。

裁量権が欲しいのである。

(お金ではない、とは言ったが、学級費の使い方すら裁量権が小さすぎる学校も多い。

4月に買うと決めたものしか年間通して買えないという、裁量権の小さい地域もある。

先人たちによる公費の不適切な使用の前例があるためである。

不正が前の世代で一か所出るだけで、その後の全体への管理締め付けが過剰にきつくなり、それはもう緩まない。)


裁量権があれば、もっと教師の仕事は自由に楽しくやれる。

学級経営でもそれぞれの学級カラーが思い切り出せる。

掲示物から学習規律、行動様式まで細かく一律に決まった学校で、生き生きとした学級実践が生まれることを望むべくもない。

今の時代、それらは本物の「スタンダード(基準)」程度にして、他も選べるようにするのがベターである。


繰り返すが、裁量権の大きさがカギである。

そのためには、個々の教師の側も裁量権を大きく与えられるように、信用と信頼を得る必要がある。

これは、子どもに自由と権利とを教える時と全く同じである。


個別最適な学びを実現するためのツールはICT環境の整備だけではない。

個々の学校の裁量権の大きさ、個々の教師の裁量権の大きさというのも、重要なインフラの一つである。

2023年5月6日土曜日

言語化して脳の回路を開く

 学級づくりに関する話。


学級では、言語化が大切である。

特に、学級集団が荒れている場合、ここに根本的な原因が存在することがある。


わかりやすい例を挙げる。


言い争いや暴力によるけんかが絶えない子どもたちがいるとする。

気付けば取っ組み合いのけんかをしている。

お互いを離してから何があったかをを聞くと

「こいつが馬鹿だから!」

「うるさい!」

「うざい!」

「死ね!」

というお世辞にも語彙が豊かとは言えない言語の応酬。

落ち着いてから聞こうとしても、結局言葉足らずで、何があったか、さっぱりわからない。


つまり、言語化して伝えられないからこそ、暴力に転じた訳である。

幼児の中にすぐお友達を叩いてしまうという子どもが多くいるというのと、同じである。

自分の気持ちを伝える適切な言葉を知らないためである。


これは、性格とか心の問題ではない。

言語の有無の問題である。

言葉にできれば理解できることに対し、その感情に対する適切なコードがないため、情報処理できていない状態である。

脳内の適切な回路が開通していない状態であるともいえる。


「なぜ怒っているのか」を周囲が言語化してやる必要がある。

「○○って言われたのが嫌だったんだよね?」

「悔しかったね」

「○○っていう言葉を、相手が嫌だと感じるとは思わなかったんだね」


七面倒な気もするが、これしかない。

こういうところは丁寧に対応した方が、長い目で見て、全員にとって楽になる。


この時、無理に納得させないことがコツである。

相手が謝ったからといって、許せないままでもいい。

「謝ったら許してくれる」という勘違い、誤学習の回路自体も正す必要がある。


「ごめんね」「いいよ」の定型は、世の中では通用しない。(裁判を見れば一目瞭然である。)

その方が、実際の社会に出た際に適用できる。

そして、許されるどうこうは関係なく、人を傷つけた際には謝るという行為は最低限必要であるということも、学ぶべき認識である。


脳の誤学習を防ぐことである。

適切な行為に対し報酬を与え、不適切な行為に対しては報酬を与えないことである。


次のようなことも、誤学習である。


例えば、子どもが、失敗や悪さをしてしまった。

隠そうとしていたが、それを問いただされ、正直に話したところ、「とんでもない!」と激怒された。

ここから脳は自らの身の安全を保つために、次のような回路を開く。

「失敗を正直に言わないこと。嘘をつき通すこと。これが正解。」

言うなれば、適切な行為に対し、不適切な懲罰が与えられた状態である。


繰り返されるほどに、この回路は強化される。

「また嘘をついて!」と叱るほど、怒るほどに、悪化の一途である。


嘘をつくのは生存本能である。

嘘自体は悪くない。

嘘に対する、周囲の扱い方が悪いのである。


ここも、言語化してやることで、適切な回路が開く。

「嘘をつきたくなっちゃうことがあるよね」

「本当のことを言うのは怖いね」

「本当のことを言っても、絶対に怒らないよ」

「先生も失敗したことたくさんあるから」


定型はなく色々あるが、とにかく追い詰められた相手の気持ちに寄り添った言語化が必要である。

そして、こちらのお願いに対して正直に言った場合、絶対に、絶対に怒ったり叱ったりしないことである。

正直に言った場合、絶対に、絶対に怒ったり叱ったりしないことである。(敢えての二度書き。)

これは正直に言った相手との「契約」である。


こういう経験を積み重ねる内に、子どもの中に回路が開き、言語化されるようになる。

「やってしまいました」

「ごめんなさい」

「これをされたのが嫌でした。でも自分はここが良くなかったです」


こうなると、けんかやトラブルの解決までの時間も労力も、10分の1以下になる。

初期に投資した大きな労力、忍耐も十二分に報われる。


言葉を豊かにすることである。

言語化を促すことである。

国語の学習は、その点でも大いに意味がある。


豊かな学級づくりは、豊かな言語環境から。

言語を軽んじた時、その集団は確実に崩れていくと自覚したい。

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