2012年10月30日火曜日

力無き正義は無力

社会科で、ノルマントン号事件、日清・日露戦争辺りを教えた。
領事裁判権を認めた為に、悔しい思いをした日本。
そもそも、そんな不平等条約を諸外国と結ばされまくった日本。

その理由は何か。
ずばり、「弱い」から。
従うしか選択肢がないぐらい、欧米諸国と力の差があったからである。
そうしないと、国自体の存亡も危うかったと推測される。
哀しいかな、止むに止まれぬ選択である。

弱い国々や人々は侵略され、支配されるべき。
強者の理論であり、やられる側から見れば「悪」そのものである。
まあ、漫画やアニメで例えるならフリーザ、ラオウ、バイキンマン辺りである。

悪には正義のヒーローが対抗する。
正義のヒーローの絶対条件は「悪と同等、それ以上の強さ」である。
弱ければ話にならない。
チャオズ、バット、クリームパンダちゃんでは、どんなに正義感を持っても、力不足である。
やはり、悟空、ケンシロウ、アンパンマンの強さが必須である。

何が言いたいのかというと、最近の日本政府の外交関係の弱腰について、ではない。
教師も強さが必要だということ。
正義の指導を通したかったら、強さが必要である。

この場合、強さとは、腕力の強さや言論の強さのみを指さない。
魅力から来る信頼感、尊敬、親しみやすさなども、強さの一つである。
(よく紹介する「信・敬・慕」である。)
他にも周りを味方につける能力や、何を言われても大丈夫な打たれ強さなど、様々ある。

指導を通したかったら、何らかの分野で「強さ」を持つこと。
弱い相手の言うことには、子どもも従わない。
力なき正義は無力であるという真理から目を背けず、指導にあたりたい。

2012年10月28日日曜日

いじめ対処の最悪の手段

問題が起きた時、共通して「最悪の手段」といえる選択肢がある。

たとえば、いじめが発覚した時の最悪の手段とは何か。

それは、「何もしないこと」である。
「隠す」という行為も、「何もなかったことにする」という点で、これの仲間である。

毎日、新聞にいじめの記事が載る。
学校側が叩かれている原因は、どれも「隠蔽」と「不対応」の二つである。

いじめが発覚したら、まずすぐ動く。
校長及び周囲への報告が最優先。
その上で、何かしらの手をうつ。
何でもいい、というと語弊があるが、何もしないよりいい。
電話一本いれる、できれば家庭訪問する。
何かすることである。
やり尽くした上で、初めて「時間が解決する」という言葉が生きる。

「トラブルは成長する」という言葉がある。
放っておけば、どんどん腐敗が進む。
全てに共通する真理である。

2012年10月25日木曜日

教師は「感情労働者」

「感情労働」という言葉がある。
「自分の『怒り』と向き合う本」(実務教育出版)
という本に載っていたものである。

肉体労働は、肉体を酷使する。
頭脳労働は、頭脳を酷使する。
感情労働は、感情を酷使する。

教師は特にこの感情労働の割合が高い。
自分の気分が乗っていようがいまいが関係ない。
子ども達は、喜怒哀楽を容赦なくぶつけてくる。
相手の感情に訴えかけなければならない。
いじめられている子どもや悩んでいる子どもに寄り添うのも大切な仕事である。
しかし、これも辛抱強さが求められる行為である。

個人的な問題を抱えている時でも、自分の感情を押し殺して対応する。
いらっとする言葉や行動をされても、教育的に良いと思われる対応を求められる。

だから、教師は精神疾患になりやすい。
あるべき教師像に縛られて、自分とのギャップに悩む。
真面目な人ほどそうであり、教師の大部分は真面目な人である。
(幸いにも、不真面目な人は病気にならない。)

1年間も後期に入って疲れも目立ち、かつ季節の変わり目で落ち込みやすい時期である。
感情労働者である教師は、悩みが多い。
明るく見える人だって悩んでいると思って、なるべく気を楽にしたい。

2012年10月23日火曜日

目標を忘れないようにするには?

一生懸命考えて作っても、忘れられがちなのが目標である。
忘れないようにするにはどうすればいいのか。

「よく見える位置に掲示する」という方法が多いと思う。
しかし、見慣れると風景と化すため、意外と効果がない。
(例えば、職員室前方にはってあり、毎日眺めているはずの学校教育目標が言えるだろうか。)

要は、毎日振り返ったり確認したりできるような仕組みにすればいい。
日々の日課として、システム化すれば確実である。

今年度の朝の会のメニュー。
あいさつの次は「学級目標、生活目標唱和」である。
こうすると、労せずして暗記できるぐらいになる。
朝の最初の声出し&意識付けにもなる。
これをした上で、授業等で途中にも学級目標に返る話をする。

個人目標を机に貼る手法を以前紹介した。
私の学級では、毎日帰りの会の3分間日記で振り返りをするというシステムをとっている。
これで、確実に目標を意識して振り返れる。

目標が絵に描いた餅になっている方の参考になればと思い、紹介してみた。

2012年10月21日日曜日

素直にきく


「伸びる人の共通点は、素直さ」とはよく言われることである。
私はいちいち、「何で!?」と思う質なので、ここがいけない。
ずっと前だが、尊敬する先生にやんわり指摘されたことがある。
私に直接向かってではなく、全体に対して「人の話は素直にきくもんだ」と。

例えば、何か習うとする。
その場合は、師がいる。
場所によって、流派みたいなものがある。
すると当然、やり方が違う。

こだわりのある人は、ここでつまずく。
師の教えにいちいち口答えする。
自分の考えと違うから口答えする。

ここを、冷静に考える。
そもそも、自分を変えるために習っているのだから、考えが違って当然である。
同じでは習っている意味がない。
そういうこともあるかもなと、なるほどととりあえず従ってみる。
そういう中で、変化と成長が起こる。

だから、自分と対立する意見を持った人や集団は大切である。
私の周りを見ても、さすがだなと思う人は、素直な人が多い。
我を捨てて人の良いところを学び、どんどん吸収して変身していく。

自らが学ぶ時の姿勢であるが、子どもにもきちんと教える。
まずは、教師の教えに素直に従うこと。
ノートの取り方や授業中の姿勢など、ささいなことからである。
そこから、成長が始まる。

以下、余談。
私が小学生の時、そろばん塾に通っていた。
計算がよくできたので、学校での簡単な計算での筆算の必要性がなかった。
だから、先生に「筆算はやらない」と言い出したのである。
(とんでもない話である。当時の担任の先生に本当に申し訳ない。)
やがて、3ケタ同士のかけざんが出てきて、やっと必要性に気づき始める。
まあ、言うなれば自信過剰な馬鹿である。

ソクラテスの「無知の知」とは、言い得て妙である。

2012年10月19日金曜日

きまりはなくすためにある

学校には様々なきまりがある。
学校のきまりをはじめ、学級独自のものもある。
「あいさつをする」というようなものはマナーである。
しかし、できてないから「あいさつ週間」みたいなものが必要になる。
あいさつ週間中のあいさつは、ほぼ「きまり」に近い状態である。

この無限にもあるといえるきまりだが、少ない方がいい。
子どもに「きまりは多い方がいいか、少ない方がいいか」ときく。
必ず、「少ない方がいい」と言う。
では、なぜあるかと問えば、「できてないから」と言う。

そこで、子どもに「きまりを作り、なくしていこう」と提案する。

習慣になれば、きまりとしては必要なくなる。
「きまりをなくす」という目標を持って、きまりを習慣化していく。
永遠に守るためにきまりがあるのではなく、なくすために作るのである。

今回は「無言清掃」を子どもに提案してみた。
掃除中のおしゃべりが目立つ。
おしゃべりのある掃除場所は、掃除がはかどっていない。
だから、掃除中はしゃべらないというルールを作り、全員の同意を得る。
破ったからといって特に罰則はないが、ルールにした以上は、そこを強く注意できる。
やがて、できるようになったら、めでたくルールをなくせばよい。

レベルの高い集団ほど、自由にしてよい。
逆にまだ集団として高まっていないなら、きまりの徹底が優先である。
ただ守らせるより、なくしていくという視点の方が、モチベーションが高まるのではないだろうか。

2012年10月17日水曜日

イライラには、深呼吸

今回は、研修の学びとかではなく、実感していることを。

最近、深呼吸の大切さを感じて、実践している。
そうしたら、やっぱり最近よんだ本に、呼吸の大切さが書かれていた。
さらに、私が愛読している原田隆史先生のメルマガにも、呼吸の重要性が書かれていた。
多分、シンクロニシティというやつだと思う。
気にしているから、情報がひっかかるのだろう。

そこで、呼吸法について。
疲れやすい人には特に効果てきめん。
超簡単で、とにかく意識して深く息を吐く。
これだけである。
繰り返すだけで、本当に高いリラックス効果がある。

心臓の鼓動を始め、自律神経というのは「自律」と名が付くだけに、意識的な操作がきかない。
放っておいても動くからこそ、寝ていても働いてくれる。
自律神経の中で、唯一コントロールがきくのがこの「呼吸」である。

イライラしている時は、おしなべて呼吸が浅い。
(イライラしてるのに呼吸が深い人というのは、多分いない。)
逆に言えば、呼吸が深いと、イライラが発生しないのである。
自律神経を意識的にコントロールしている状態になる。

とにかく、怒りたくなったら、息を深く深く吐いてみる。
これだけで、驚くほど怒りがおさまってくる。
(問題は、怒った時にそのことを忘れてしまうことである。)

とにかく、深呼吸。
これだけで、気分がかなり楽になる。
朝の出勤が憂鬱な時は、車や電車の中で試してみるのをおすすめする。

2012年10月15日月曜日

きちんと並んで歩きなさい

教室移動の際、「きちんと並んで歩きなさい」と言う。
なぜその必要があるのか。
子どもにきかれたら、いくつの理由を即答できるだろうか。

どんな行為でも、意味がある。
前号で書いた「荷物を机の脇にかけない」ということだって、たくさん意味付けできる。
意味を多く自覚できていることほど、必要性が高まり、自然に守れるようになる。

例えば「横断歩道は左右を見て渡る」は、必要性がわかっているなら、言われなくても守る。
うかつに渡るとひかれて大けがすると知っている。
幼児はそれがわかっていないから、平気で飛び出す。
大切なことでも、意味がわかっていなければ、できない訳である。

では、教室移動の際、廊下をきちんと並んで歩く必要性は何なのか。

もし授業時間中、または授業終了が早まった場合であるなら、移動は静かにする必要がある。
他クラスに迷惑がかかる。
この場合の重要ポイントは、おしゃべりさせないこと、素早く移動することである。

その為には、真っ直ぐ並んで歩けばよい。
左右に並ぶと話しやすいが、前後は話しにくい。

また、きちんと列も詰める。
そうすれば移動時間が短くなる。
それに、だらだらと長い時間廊下前を通過されるのは、他教室の児童の集中を妨げる。

さらに、廊下は狭い。
狭い廊下を集団が広がって歩けば、他の人に迷惑である。
だから、片側に寄って並んで歩く必要がある。

「きちんと並ばせるのは管理的で嫌だ」という人もいる。
管理的になりがちなのは、意味を教えないでやらせるからだと思う。
心から進んでそれに従いたくなるよう、意味を教えてやってみる。
そして、然るべき場面でのびのび活動させればよい。

日本人の美徳である「きちんと」した礼儀正しさとその意味を、学校で教える。
本来家庭教育の分野ではあるが、時代が変わった今、学校教育の大切な役割である。

2012年10月13日土曜日

荷物がしたことも自分の責任

最近読んだ本で、この言葉を見つけた。
なかなか、いい言葉である。

クラスで、机の周りがぐちゃぐちゃの子どもがいる。
机の横に、縄跳びなど紐状の物がかかっていることがある。
すぐにやめさせる。
これに足をひっかけて、転んで大けがをするという例が多々ある。
緊急時にこんなことになったら、しゃれにならない。

私は実際、あの東日本大震災の時、教室に子ども達といた。
避難しようとした時、自分の席でもたついている子どもがいた。
何と、防災頭巾がとれないのである。
普段からぐちゃぐちゃにつけていたので、絡まっている。
その時は私が駆け寄っていって、ゴムを引きちぎった。

一人だったからまだ良かったが、これが何人もいたらたまらない。

こんなことは、あってはいけない。
このご時世、防災頭巾一つにも気を配りたい。

「荷物がしたことも自分の責任」と思えば、やたらに物を扱えないし、放置できない。
体育倉庫や職員室とて、同様である。
普段から整理整頓を心がけ、場を清めたい。

2012年10月11日木曜日

いじめられたら助けを呼べ

いじめに関する名著といえば、もはや古典といってもいいこの本である。
「いじめの構造を破壊せよ」向山洋一著 明治図書
(今更すぎて、紹介するのも憚られるが、一応紹介。)

向山氏が数十年間、一貫して主張しているのは
「いじめをなくせるのは、教師だけである」という点。

教師の姿勢として、この考え方に賛同する。
「家庭が悪い」「社会が悪い」と言っていては、教育のプロではない。

ところで、私がいつも勉強させていただいている野口芳宏氏が一貫して主張している点は、
「いじめはなくならない」という点と、
「弱い者を強くする教育が絶対必要」という点である。

弱い者が弱いままだと、強者にやられ続けるからである。

弱い者を強くするとは、具体的に二つの方法がある。
1 弱者が鍛錬する
2 相手より強い者に助けを求めることを教える

1は理想的だが、難しい。
2をきちんと教える。
「チクるなよ」とは、いじめる側が2を怖れての行為である。
「チクり」まくる相手であれば、いじめる度に自分も問題にされるので、いじめにくくなる。
「チクるとまたやられるから」と黙っていれば、相手の思うツボで、どちらにせよやられる。

「いじめられたら助けを求める」という基本を徹底的に教える。
これを成功させられるかが、深刻ないじめをなくしていく鍵である。

2012年10月9日火曜日

いじめはなくせるか

いじめ問題の解決。
社会が今最も要請している、喫緊の課題である。

大体10年間隔で、いじめが社会問題として大きく騒がれる。
学習指導要領の改訂も10年で、学力問題も10年おきである。
常に解決の模索をし、解決策が出ないでいる証拠である。

以下、いじめに関する私見である。

いじめはなくせるか。
この問いにどう答えるか。
どう答えてもよいのだが、理由をきちんと説明できることが大切である。

学級担任として認識すべきという点を一つだけ書く。
それは「いじめが起きる=悪いこと」という認識をなくすことである。

起きて欲しくないことで、どんなに注意していても、やはり起きてしまうものはある。
交通事故などもその一つだろう。
歩道に自動車が突っ込んでくるなど、想定できるはずがない。
「歩道を注意して歩かせなかったのが悪い」などと無茶をいう人はいないだろう。

いじめは、起きるものである。
まず、この認識に立たない限り、話が進まない。

認識を変える。
悪いことは、いじめを「予防しようとしない」「周りに報告しない」「解決しようとしない」
ことである。

いじめは絶対なくしたい。
なくそうとする努力は、教師である以上、必須の最低条件である。
けれども、発生する。
発生すること自体を否定する風潮が、隠蔽を引き起こす。
起きたら、学級担任が抱え込まないこと。
学校で抱え込まないこと。
社会全体の問題である。
いじめ問題は、全てオープンにして、即時解決を目指す。
「後で」「様子を見て」が、命取りである。
即日対応、関係者全員対応が基本。
最悪、遅れても翌日まで、報告は校長まで。
いじめ問題の責任は、校長が取らねばならない。
だから、校長にまで報告が必要だし、校長の命により全ての職員が責任を持って動く。

いじめ問題は、教師が今最も真剣に取り組むべき課題である。

2012年10月7日日曜日

小さい声は失礼

サークルでの野口氏からの学びをシェアする。

以前にも少し書いたが、声が小さい子どもへの指導である。

声が小さいのは、ある程度まで仕方ない。
ただ、教えておきたいことは、「小さい声は失礼」ということである。

なぜか。

これは、相手に「一生懸命きけ」という態度だからである。
「自分の声が小さいのは仕方無い」だから「その分あんたが頑張れ」ということである。
逆に、怒鳴るような大きすぎる声も、無理矢理きけという態度で、やはり失礼である。

自分がどう思っているかではない。
相手がどう思っているか。
話す側、聴く側のお互いが、思い遣る気持ちを持つことである。

「聞こえる声で話しなさい」と遠慮せず堂々と指導する。
そして「みんな、一生懸命聴くから」と付け加える。
言葉は「言霊」が宿るのだから、大切にしていきたい。

2012年10月5日金曜日

「パパ」より「お父さん」で


先日も紹介したが、ある高校の校長先生のお話が、非常に為になった。
「モラロジー研究会」での講義である。
次のような話だった。

「パパ・ママ」という呼ばせ方がある。
これは、是非「お父さん・お母さん」に改めさせたい。
そもそも外国由来と日本由来という違いもあるが、語源が全く違う。

「パパ」は「タバコを吸う男性」を指す。
「ママ」は、幼児が食べ物を「マンマ」と発音し、「マンマをくれる人」である。

「お父さん」は「その家にいなくてはならない『尊い』人」に敬意の「御」を付けて「御尊さん」。
「お母さん」は「上さん(かみさん)」=「神様」に「御」で「御神さん」。
太陽神である天照大神も、女性である。
つまり、母親を家の中の太陽として位置付けている呼び方である。
さらに「かかあ」は「か」「か」がそれぞれ神様を指すので、神様二人分。
ぞんざいなようで、実はかなり相手を讃えている呼び方である。

つまり、呼び方で家庭内の「領域」を作るのである。
子どもにとって、親は尊い存在であるということを、言葉から教えていく。
そういう点からも、是非「お父さん・お母さん」で定着させたい。

そういう有り難いお話だった。

個人的には、保護者に向かってどっちを使えとかどうこう言えないと思う。
それぞれの家庭の方針があるだろう。
ただ、情報として、意味を知っておくことはいい。
吉田松陰も、死刑が決まった後の牢獄の中で、
「(学問を)知って死ぬのと、知らないで死ぬのでは、全く意味が違う。」
と言って、死ぬまで学問を続け、他の死刑囚をも学問に向かわせたという。

どちらを使うにせよ、知っている方がいいと思う。
その上での、選択である。

やはり呼称は大切であると再認識させられた。

2012年10月3日水曜日

実感を伴う道徳授業を

6年道徳のある副読本資料に芥川龍之介の「くもの糸」がある。
地獄に落ちたカンダタが、お釈迦様の垂らしたくもの糸を登る。
途中で他の罪人が登ってきたので「降りろ」と言ったら糸が切れる。
まあ教える内容としては「自分だけいい思いをしようとしてはいけませんよ」
といったことになりがちである。

道徳の授業は「自己に返す」がキーワードである。
「自分はどうだろう」と実感を伴って考えることが大切になる。

この話で、カンダタの立場になって考えてみる。
上っ面しか話せない学級だと、「カンダタはひどい」「私なら一緒に登ろうと言う」ということになる。
(よく考えると、ひどいのはお釈迦様の方であるとも考えられるが、ここでは割愛。)
しかし、世の中結構「カンダタ」の選択肢である。
東日本大震災の時、ガソリン不足や食糧不足が東北地方以外の各地でも起きたことが、それを証明している。

学級の子ども達とて、大人達とて同じである。
自分が被害を被るしれないという状況で、果たしてどう行動するのか。
それを本気で言い合えるようでなくては、道徳の「自己に返す」にならないと思う。

「いや、自分もカンダタと同じく、降りろと言うかもしれない。」
そういういわゆる「マイナス」の発言にこそ、本音は表れる。
そこを大切にする授業をしくんでいきたい。

2012年10月1日月曜日

サービスしすぎず、子どもに任せる

前号の続き。
モノを豊かに与えすぎ、これに似た場面で、サービスしすぎということが挙げられる。
以下、自分の考えである。

とある教室。
何でもしてくれる、サービス満点の授業をしてくれる先生がいる。
すごく居心地がいいだろう。
しかし、それに慣れれば、完全に受け身の子どもにもなり得る。
自分で動かない子どもを育てることにもなり得る。

教師が汗水垂らして様々な準備をすることは大切だと思う。
しかしながら、子どもができることはやらせた方がいいと考える。
例えばグラウンドの整備や草取りなどは、実際遊ぶ子ども達にやらせる方がいい。
そうすれば、雨上がりの日に入ってぐちゃぐちゃにされても全く問題ない。
(「グラウンドが荒れるから遊ばないこと」なんていうのは、ナンセンスである。)
自校のグラウンドに対する愛着のようなものも湧く。
自分達が学校を良くしているんだという自負の気持ちも持てる。
教師が頑張りすぎるほど、ここが弱くなりがちである。

「自主的精神に満ちた」人間を育てるのが教育の目的なのだから、ここを見失わないようにしたい。
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