2016年12月31日土曜日

修学旅行「隣の部屋から音がして眠れません」

修学旅行で、子どもから「隣の部屋から音がして眠れません」と言われたとする。
実際に、その子どもの部屋に入って静かにしていると、確かに隣からかすかな物音がする。
消灯の時刻はとうに過ぎている。

さて、どう対応するだろうか。

「隣の部屋に注意に行く」というのが普通だろう。

もっとさわやかな切り返しの仕方はないだろうか。
子どもの将来を見据えた切り返しの仕方は何だろうか。

これは、先日船橋のセミナー講師として来ていただいた野口晃男先生が「校長講話」というコーナーで取り上げた、実際にあったことのトピックである。
(『校長室の窓から(別冊)』P.37より改変して引用)

詳しくは述べないが、簡単に言うと「小さなことを気にならない人間になること」の方がよほど大切ということである。

今年もついに終わる。
来年は、もう少し人間的に大きくなりたいと願う。

2016年12月30日金曜日

「みんなの学校」流・自ら学ぶ子の育て方

年末年始、家でゆっくりしつつ、読書をする方も多いと思う。
そこで、ぜひおすすめしたい本を紹介する。

『「みんなの学校」流・自ら学ぶ子の育て方』
木村泰子 著 小学館
https://www.amazon.co.jp/dp/4098401711

読んでいて、実にさわやかな気分になれる本である。
同時に、学校の「常識」に縛られて、さわやかでない教育をしている自分には、耳が痛い本でもある。

本文の中にある「全校道徳」の実践は、特に興味深い。
道徳とは、必ずしも資料を読んであれこれ考えるものとは限らない。
1年生から6年生までが一緒に道徳を学ぶというこの実践は、アクティブ・ラーニング時代の道徳教育の一つのヒントになる。

教師の側にとっても、問いかけられる。
例えば、何で教室で授業をしなくてはいけないのか。
学校の外に出て、広い野原の真ん中で音読がやれたらどんなに素敵か。
一昔前には、そんな自由な教育をどこでもできていたのかもしれない。
今は「常識的に」考えて、やれない。(やらない。)
それを敢えてやってしまう。
「大空小学校」の名に相応しい、自由な発想の教育実践の数々に圧倒される。

ぜひご一読いただきたいおすすめの本である。

2016年12月29日木曜日

サークル活動とアクティブ・ラーニング

友人たちとやっているサークルでの話。

本サークルは、「来るもの拒まず、去る者追わず」で、ゆるゆる続けていこうというスタンスである。
サークル活動自体の宣伝もしていない。
話をききつけて興味のある人が来る。

価値観の違いを楽しむ方向があるので、意見も「歯に衣着せぬ」勢いで互いにズバズバ言う。
指導案を持ち込んでも、単に「いいね!」とならずに、率直に意見を言う。
そして、終わった後は「今日来て良かった!得した!」と思える。

こういった学び合いを可能にする要素は何か。

一つは、信頼感。
自分の味方であるという感覚ともいえる。
相手をやっつけようというのではなく、建設的に解決策を考えようとしてくれている感覚である。
だから、互いにどんどんものが言える。

一つは、知識と経験。
ある程度の知識と経験がないと、意見を言いたくても言えない。
代案も浮かばない。
勉強会の効果を高めるためにも、事前の勉強や実践が必要である。

一つは、楽しもうとする姿勢。
学ぶことが楽しくてたまらない感覚。
新しい知識や見方を得られることに喜びを感じられるか。
人間独自の知識欲ともいえる。
遊びと学びの境目がない状態である。

これらは、今求められている「アクティブ・ラーニング」に直接つながる。
「主体的・対話的で深い学び」そのものである。

子どもにアクティブ・ラーニングを求めるなら、まず教師から。
サークル活動への参加は、その実現にうってつけである。

2016年12月28日水曜日

教えているつもりで教わっている

教育実習が終わって考えたこと。

担当した実習生たちが共通して言っていたことが
「小学校教員になりたいという思いが強くなった」ということ。

これほど嬉しいことはない。
これも、子どもたちと、関わった全職員のお陰である。
ちなみに、私が忌引した関係で、通常よりたくさんの職員に関わってもらった。
不幸中の幸いで、これが実習生にかなりのプラスの学びをもたらしたようである。
私の抜けている部分を見事に埋めていただき、帰ってきたら逞しくなっていた。
チームで育てる。
素晴らしいことである。
たまたまそういう環境の職場にいた幸いではあるが、自分もそうありたいと思う。

実習生のことについて書いたが、これはそのまま子どもへの教育にも当てはまる。

卒業させた子どもたちが、どう思うようになればいいのか。
「早く社会に出て人々の役に立ちたい」
「もっともっと勉強をして、世の中のことを広く深く知りたい」
こんな風に考えるようになったら、ある種成功といえるのではないかと思う。

またそのためには、ある先生にだけ教えてもらうより、複数の先生に教わった方がいい。
偏らずに、それぞれの価値観や考え方を学べる。
「自分のクラスの子ども」とかかえ込みすぎず、「学年の子ども」「学校の子ども」「地域の子ども」である。
ぐっと広げると「日本の子ども」「世界の子ども」である。
(これは、我が子にも当てはまる。我が子は自分の所有物では決してない。)
そう考えると、自分はそのごく一部としてどう関わり、何を教えられるか、見直せる。

結局、世のため人のために、自分を最高に生かせる人間になってもらいたいのである。
それは、教える自分自身が、そういう人間を目指していないといけない。
「主体変容・率先垂範」が、教える仕事の根幹である。

そう思うと、とても「模範」とはいえない自分がいる。
しかし、よく考えると、一生「完璧な人間」にはなり得ない。
どうせ間違っている人間なのだから、子どもにも実習生にも学べばいい。
間違えたら謝って直していけばいい。

教えたこと以上に、たくさんのことを学べた教育実習だった。

2016年12月27日火曜日

ノイズキャンセリング

前々号の続き。
雑事にとらわれていると、小さな大事に気づけない。
雑事とはいわゆるノイズである。
周囲の声ともいえる。

本当に自分がやりたいことは何なのか。
あるからやるとか、仕方なくやるとか、きまりだからやるとかしていると、どんどん頭が硬化していく。

授業でも同様。
教科書にある内容であっても、やりたいことはあるはずである。

今日という日に、学校で、何を本当にやりたいのか。
日々の価値を考えて過ごしたい。

2016年12月26日月曜日

8の字跳び指導の最重要ポイント

毎年、この時期になると、このブログのページビューが急激に伸びる。
理由は簡単。
縄跳び大会シーズンだからである。
そこで、8の字跳びに関する記事を上げる。

明治図書WEB連載「学級づくりにいかす!体育授業」の第7回記事がアップされた。
http://www.meijitosho.co.jp/eduzine/pe4class/?id=20160940

今回は、8の字跳びの記事である。
以前から何度も書いているが、必要な要素を入れて手直ししたものである。
割と端的に大切なことが書けているように思う。(自画自賛。)

次に引用するのが、最も大切な部分である。
==============
教師の側が技術を学び、「自分が跳ばせる」という信念を持って指導すること。
何より、がんばっている子どもを信じてあげることが最重要です。
===============
技術は、前提。
これに加えて、信念が必要である。
できないで苦しむ子どもを教えるのは、しんどい。
しんどいが、ここを信じてやるしかない。
価値のあることは、一筋縄ではいかないと常に肝に銘じたい。

2016年12月25日日曜日

星がたくさん見えるのは綺麗だが

宮崎県へ帰郷しての気付き。

私の生まれ故郷は、かなり山の中にある。
田舎だと、周辺にコンビニのような強い明かりが一切ない。
すると、星がものすごくたくさん見える。
普段見上げている空と同じとは思えないほどよく見える。
天の川が星の川であることがよくわかる。

それはそれで素敵なのだが、一つ気付いた。
たかだかオリオン座が、なかなか見つからないのである。
普段はほぼ0秒で発見できる星座なのに、なかなか見つからない。
理由は明白で、周りの星が見えるために、一等星すら目立たなくなるからである。
これは、周辺の些細なことに気をとられていると、大きなものが見えにくいということに通ずる。
学級でいうならば、雑事にとらわれ、子どもの成長を考えなくなることである。
例を挙げると「アクティブ・ラーニング」にとらわれすぎて、子どもの成長を考えない授業がそれである。
やるべきことにとらわれすぎて、子どもと話す時間もとれないほど忙しい状態がそれである。

このオリオン座の見え方は、逆にもとれる。
はっきり見えるものだけに目をとられると、周囲にある小さな光には気付けない。
学級なら、元気よく手を挙げたり、運動ができたりするということは見えやすい。
しかし、内面の深い考察や悩みは、あっても見えにくい。
よくよく内省している子どもは、すぐには手を挙げないし、すぐに相談に来ない。
その声なき声を拾う工夫が必要である。

星を眺めているだけでも、色々と気付くものだと思った次第である。

2016年12月24日土曜日

与えたものだけが残る

今日は、クリスマス・イブらしく「与える」をテーマにした話。

伯父が亡くなり、遺品等の整理をすることになった。
それを通して、色々と思うところがあった。

伯父は、生前に様々な賞を受けていた。
トロフィーやら感謝状やら色々ある。
内閣総理大臣からの寄贈品もある。
ただ、これらの品々は、当の本人がいないと何の価値もない。

一方、伯父が賞を受けるに当たり、その恩恵を受けた人がいる。
花や音楽、絵画等の芸術ならば、作品が残り、人々を感動させる。
盲導犬や警察犬の訓練をしたのならば、その犬たちが活躍する。

つまり、与えたものだけが残る。
得たものはすべて失う。
死後に残るものは、与えたものだけである。
野口芳宏先生のご高著『利他の教育実践哲学』にも同じ言葉が書かれている。
https://www.amazon.co.jp/dp/4098373912

与えたものしか残らない。
「放てば手に満てり」の言葉と同じである。

教師の仕事を通しても、得たと思ったものがある。
しかし、それは必ず失われる。
与えられたことだけが、この先も残る。
教師の仕事にとって、与えてずっと残るのは子どもの姿。
それがすべてである。

私は幼少期、この伯父に大変可愛がられた。
モノは一切要らないし残らないが、伯父との思い出だけは30年経った今でもはっきりと残っている。

生きている内に、少しずつ、与える人の側に移っていきたいと思った出来事だった。
クリスマスも、与えることのできる一つのチャンスである。

2016年12月23日金曜日

寄りかからない同僚性

前々号で紹介した、附属小の先達に学ぶ研修会のシェア。

同僚性について。

同僚性は必要である。
仕事は一人ではできない以上、当然のことである。
しかしながら、おんぶに抱っこで寄りかかったような状態ではいけない。
あくまで自立した者同士であることが同僚性の条件である。

自立した者同士の授業研鑽の好例として、野口芳宏先生が挙げられた。
互いに授業案を見合い、ああでもないこうでもないと話し合ったという。
自立した者同士だからこそ、研鑽もできる。
また、そういった同窓会の諸先輩方を大切にすべきであるとお話された。

また同僚性という意味では、教師は職員の中でも最大の「心配り点」になるべしということ。
事務職員や用務員、警備員といった様々なお世話になっている方々に、横柄な態度をとっているようでは話にならないということである。
PTA活動を役員と教頭に丸投げしているようではダメということである。
PもTも連携してこそのPTAである。

なるほど納得と頷きながら、出来ていないことが多いと反省しきりである。

2016年12月22日木曜日

「サンタクロースはいるの?」に対する切り返し

「サンタクロースはいるの?」に対する切り返し。

私はずっと決まっていて、
「え!?いないと思ってるの?」である。
さらに
「いると言っている人にはいて、いないと言っている人にはいないだろうね。」
と続く。

これだと、いる派、いない派、どちらの考えも否定していない。
ただ「いる」と「いない」では、どちらが素敵か。
私は「いる」の方だと考える。
感情的な話ではなく、論理的に考えても、「いる」。

子どもに対しては、先の回答で基本的に終わりである。
「でも、うちのお父さんが・・・」と追撃してくる場合、きちんと答える。
「サンタクロースだって、全ての子どもには届けられない。
そうすると、優先順位がある。
自分だったら、どんな子どもから回ってあげる?」
子どもは「貧しい子ども」「普段からプレゼントとかをもらえない子ども」等を挙げる。
「自分は、当てはまってる?」
「う~ん、当てはまらない。」
「そう考えると、豊かな家は、後回しなのかもね。
お家の人がたくさんプレゼントをくれるからね。
その分、他の子どもを幸せにしてくれてるよ。
色々してくれるお家の人に感謝しないとね。よかったね。」
大体、こんな感じである。

つまり、大人にサンタが来ないのは、至極当然である。
ヒナ鳥のように口開けて待ってないで、自力で何とかせいということである。
白馬の王子様も同様で、欲しいなら王宮に自ら攻め込んで、磨き上げた自分の魅力をアピールするのが大人のやり方である。

また話が逸れた。
さて、それでは、何をもって「いる」といえるのか。
サンタクロースの重要な存在意義は「人々を幸せにすること」である。
プレゼントの他に、トナカイやら煙突やら付随するものは色々あるが、メインはとにかくそこである。

つまり、幸せを感じさせる存在が、サンタクロースである。
12月25日に、幸せになる子どもが世界中に存在しないのか。
弁証法的にも、存在するといえる。

サンタクロースの正体が何者なのかという点においては、議論しない。
トナカイに乗って空を飛ぶかどうかは、知らない。
多くの日本家屋に、煙突はない。
そんなことは知らないが、サンタクロースの要件を満たす者は確実に存在するということである。

もちろん、世界中には幸せになれない子どももいるのが現実である。
そこに対し、何かしらの手をうつ人もいる。
世界の恵まれない子どもに対し、何かしらの施しをしている人がいる。
その存在は、その子どもにとって、サンタクロースそのものである。
そう考えれば、自分も、サンタクロースになれるチャンスがあるのかもしれない。

教室にいる大人は、教師だけである。
道は遠いが、サンタクロースのような、幸せをプレゼントできる存在でありたい。

2016年12月21日水曜日

対話は有益 言い争いは不毛

クリスマスが近い。
給食の時間、子どもたちとプレゼント&サンタクロースの話題になった。

6年生ぐらいだと、「サンタはいない」という考えをもつ子どもの割合がかなり増える。
「いる」という考えをもつ子どもも当然いて、サンタはいるかいないかで議論が始まる。
目撃証言や証拠の提示など、自分の主張が正しいことを何とか通そうとする。
6年生だとさすがにあまりないが、割合が半々の中学年ぐらいの年齢だと、本気で喧嘩したりする。

基本的に「対話は有益」だが「言い争いは不毛」である。

対話は、互いの肯定から新たな解を生み出す。
残るものは、対話者すべてにとっての新たな視点である。
前提として、「これもあるけど、それもあるね。」という立場である。
生産的活動であり、WINーWINの関係である。

言い争いは、互いの否定と自己主張が中心で、相手の虚を突き、自己の正義を振りかざし、打ち負かす。
片方が残り、他方は失われる。
消費的活動であり、WINーLOSEの関係である。

ディベートや議論は、かなり意識してしないと、単なる言い争いになりがちである。
アメリカの大統領選挙のように相手を倒さねばならない場や、国会のような特定の考えに寄った案を通す場ならば、必要である。
しかし、共同体感覚を目指し、全員の幸せを目指す教室においては、言い争いはマイナスに働きやすい。
算数のようにゆるがない正解を求める場にしても、相手の考えを尊重しながら進める必要がある。
むしろ、違った意見があるからこそ、正解の真理に近づけるようなものが最高である。

話が逸れた。
サンタクロースがいる、いない議論が目の前で展開されている。
「先生、どうなの!?」と詰め寄ってきた。
あなたならどう切り返すか。

長くなったので、次号。

2016年12月20日火曜日

恩恵は権利に変わる

勤務校が50周年を迎えた。
それを記念して、職員を対象に先達から学ぶという研修の機会を得た。
そこでいただいた話の数々が大変素晴らしかったので、一部シェアする。

「恩恵は権利に変わる」という、示唆に富んだ言葉を教えていただいた。
例を挙げる。
ある行事をした後に「お疲れ様です」とコーヒーを出してもらったとする。
その時、思いがけぬ恩恵に、自然と「有難う」の言葉が出る。
ここまではいい。

翌年、同じ行事に参加する。
終わった後に、特に何もなかったとする。
すると「コーヒーは出ないの?」となる。
「去年は出してくれたのに。」と不平・不満を抱く。
なくて当たり前のことのはずが、いつの間にか権利に変化している。

ごく単純化すると、そういう話である。
なるほど納得である。

ここからは私見。

こういうことは、世の中に溢れている。
社会が発達し、サービスが向上するほど起きる。
最初はちょっとした店側の心遣いのはずが、客はやがて「してもらって当然」になる。
だから「御客様」である自分が神様のように扱われないと不満になる。
それは店側のおもてなしが恩恵ではなく、権利に変化しているからである。

これがあらゆる関係で起きる。
学校と保護者の間でも起きる。
「前の担任は云々」もその一つ。
一方で「保護者が云々」も同様。
どちらも、他人に責任転嫁している点で同じである。
むしろ、互いに「いつもお陰様で」の心があって然るべきである。

学級と子どもの間でも起きる。
学校は、子どもを良くして返すのが仕事である。
いらぬ「サービス」をしすぎて「御子様」を育てないことである。
大人や社会に対して不敬な子どもを育てているのは、他ならぬ学校自身である。

視点を変えて、労働争議なども、権利を主張しすぎるとこれになる。
給料の額面に不満を訴える前に、自分が給料分以上きっちり働けているかを振り返る必要がある。
労働時間の長さに不満を訴える前に、自分が短くする工夫や勉強をしているかを振り返る必要がある。

自分が受けている「有難い」恩恵を忘れていないか。
何かの権利を主張する時は、いつでも振り返るようにしたい。

2016年12月19日月曜日

ピンチは見方次第でチャンス

単著「ピンチがチャンスになる」に関連した話。

実習生の授業を見ていると、「勿体ない!」と思うことがある。
子どもが、指導案にはない反応を出してくる。
正しくはないが、面白い見方。
別の解。
教える側の想定を越えた答えである。

こういう時、実習生はこの反応が「ピンチ」に見えている。
実はチャンスもチャンス、「大チャンス」である。
そういう反応にこそ、平坦な授業をぐっと盛り上げるパワーがある。

先日は、こんなことがあった。
6年生の比例の学習。
「比例の表をみて、XとYを用いた式に表そう」と投げかけた。
机間巡視すると、次の二つに分かれていた。

Y=X×決まった数
Y=決まった数×X

教科書を見れば、後者であるが、前者の反応が多かった。
どうするか。
実習生に「聞いてみれば?」と投げかけ、反応を見た。
ノートになぜそちらが正しいか書く。

すると、やがてそこかしこで議論が始まった。
前者が正しいと思っていたら、理由を書くほど矛盾してくる。
結局、決まった数が「1あたり」を表すことから、後者が正しいということに落ち着いた。
(ただし、実は問題によっては、前者の方が適切なこともある。後々また話し合えばよい。)

実習生自身も、こういう授業を望んでいたという。
しかし、指導案上にはそれはない。
こんなことは予想していないのである。
一見するとどうでもいいことのようで、かなり重要であるが、やらないとわからない。
ピンチかと思ったら、これこそがチャンスである。
「指導案は書いたら捨てる」というのは、そういうことである。
脱線を面白がれるようになると、一つレベルアップになる。
「ピンチがチャンス」に見える状態である。

本書「ピンチがチャンスになる『切り返し』の技術」 には、
そういった「切り返し」の技術がたくさん書かれている。
http://www.amazon.co.jp/gp/bestsellers/books/500322/ref=pd_zg_hrsr_b_1_5_last

特に若い先生はこれをぜひものにして、様々な場面に活用していただけたら嬉しい。

2016年12月18日日曜日

採用試験合格から新任3年目までに読んでおいて欲しい本

商品に対する自信は大切である。
売れるとまた一つ自信になる。

さて、次の私の単著が結構よく売れている。
『ピンチがチャンスになる「切り返し」の技術』
http://www.amazon.co.jp/gp/bestsellers/books/500322/ref=pd_zg_hrsr_b_1_5_last

すぐ使えるコンセプト以上に、一つ一つの切り返しの裏にある哲学がわかるのがポイントである。
「何のために」が抜けた方法論は、空々しい。
それは「お年寄りに席を譲ろう」というような、わかりきった価値を扱う道徳の授業のようである。
「別に譲らなくていい」と子どもが言った時に、その言葉の真意を読んでいくことが大切である。
その意外な発言こそが多様な価値観や見方を学ぶ場のスタートになり得る。

本当は、本に書かれていることの更に奥深く、裏側がある。
セミナーではそれを紹介したが、一回こっきりの記念セミナーだったので、ちょっと勿体なかったとも思う。
(どなたかサークル等で呼んでいただけたら嬉しい。)
まあ、逆に言えば、こちらはニーズがなかったということで諦める。

ちょうど採用試験合格&クリスマスのタイミングなので、知り合いにいたらプレゼント等に使っていただけると嬉しい。
教育実習をやっているとわかるのだが、とにかく基本を知らない。
知れば即効性のあることを知らない。
教えてもらえないからである。
それも当たり前で、ピンチになるまで知ることができない知識だからである。
だから、予め知っておいた方が確実にいい。
休職や離職の多い新任の時期には、特に役立つ内容だと思う。

若い人には特に早めに読んでもらえるのが良いと判断し、今更ながら再度紹介してみた。

2016年12月16日金曜日

好きなことを満足するまでやるべし

物理に、作用と反作用の法則がある。
物理法則だが、万物普遍の法則である。

「情けは人のためならず」の示す通り、人への情けが自分に返ってくる。
それで「また人に優しくしよう」ということになる。
また人に助けてもらえることになる。

一方「火中の栗を拾う」ことをすれば、当然火傷をする。
それで「また拾って」ということになる。
また火傷する羽目になる。

ここで、幸せについて考える。
「幸せすぎて怖い」という言葉をきくことがある。
幸せすぎるから、次は反作用で不幸が来るのではないかという考え方である。

これは間違っていると思う。

幸福の反対は不幸であるが、反作用は反対の性質のものが返ってくる訳ではない。
力に対して返ってくるのは同質の力である。

つまり、幸福の反作用は幸運である。
幸せを感じて何かをすると、いいことが返ってくる。
辛さを感じて何かをすると、悪いことが返ってくる。
これが正しいと思っている。

例を挙げる。
例えば、あるテーマで論文を書くことになったとする。

書くことが好きで、大変ながらも楽しみながら書き上げた論文がある。
これがたまたま好評で、次も書いてという話になる。
幸せへの反作用としての幸運である。

一方、書くことが嫌いで、大変な思いをして嫌々必死で書き上げた論文がある。
これがたまたま好評で、次も書いてという話になる。
辛さへの反作用としての不幸である。

起きている現象自体は全く同じなのだが、幸か不幸かは最初の力のかけ方次第である。
感謝や使命感、幸せからの反作用は、幸運で返ってくる。
嫌悪や義務感、辛さからの反作用は、不幸で返ってくる。

嫌々ながら「頑張る」ことをすれば、嫌なことがますます大きくなって返ってくる。
だから、過労になるかどうかは、その仕事内容を好きか嫌いかが相当に関係する。

好きなことを満足するまでやる。
それがこれからの時代のスタンダードの働き方になると思う。
それじゃ食っていけないという「老人」(年齢不問)のアドバイスは、きかない。
なぜなら、それは好きじゃないことをして苦労している人のアドバイス(というより小言)だからである。

選択肢は自分にある。
他の誰も自分の人生を背負ってはくれない。
自分が自分という会社の経営者である意識を持って生きたい。

2016年12月15日木曜日

過労防止策 いい人にならない

気遣い。
思いやり。
大切である。
しかし、度を過ぎると、過労の原因になる。

実際、わがままな方が、ストレスは溜まらない。
いい人を演じてストレスを溜めて倒れては元も子もない。

世の中には、真の「いい人」が存在する。
滅私による奉仕に生き甲斐を感じる神様のような人がいる。
マザー・テレサは、その文句なしの好例である。
その行為は、もはや神様にしか見えない。

しかし、自分がそれになろうとすると、無理がある。
例えば、誰もやりたがらない雑用や辛い仕事を自分が引き受ける。
それ自体はいいことかもしれない。
しかし「いい人」に見られようとしてやるのであれば、本末転倒。
それが「自分を磨くため」「世のため人のため」と思ってやり甲斐をもてるならば、大いにやる。
その奉仕の精神の極地がマザー・テレサの領域である。
ただ、自分がマザー・テレサと似たタイプの人間かどうかは、見極める必要がある。

例えば、人を嫌ってはいけないという前提がある。
これ自体はいい。
ただ、人を嫌わないということと、行為を嫌わないということは別物である。
「罪を憎んで人を憎まず」という言葉の指すところである。

嫌なものは嫌である。
それなのに「私は教師なんだから」「社会人なんだから」「大人なんだから」とか立場で理由付けをして感情を否定する。
そうやって自分を否定するのが一番よくない。
その人を嫌わないまでも、嫌いな行為は嫌いである。
それは嫌と言ってよい。
あなたが誰かを傷つける権利がないのと同様、誰にもあなたを傷つける権利はない。
嫌なことを嫌と言わないから、ストレスが溜まる。

私は、かなりはっきり「嫌」を態度と言葉に出す方である。
「何それ?けんか売ってる?」とか「今の言葉、すっごい嫌。」とかはっきり言う。
大人げないことこの上ない。大人として、いいとは思えない。
しかしこの態度は、割と誰に対しても一貫して同じである。
大人と子ども、年上と年下、男女等、立場に関係ない。

唯一の例外は、保護者。
接触する機会が少なすぎるので、ダイレクトな物言いでは意図が伝わらず、関係性が保てない。
結果的に間にいる子どもが犠牲になるので、ここだけは言い方を考える。

これが年の近い仲間同士だと、けんかになることもある。
周りから見れば、多分ただの「ガキ」である。
ただ、そうやってけんかできる位の相手の方が、関係性が良好である気がする。
良好な人間関係は、「裏」が少ない方がいい。
表、素を出しまくりである。
空気なんて読んでられるかというぐらいのものである。

嫌なものは嫌という。
いい人にならない。
『嫌われる勇気』がベストセラーになった理由も頷ける。
https://www.amazon.co.jp/dp/4478025819
嫌われる勇気が必要なのと同様に、嫌う自分も認める必要があるように思う。

2016年12月14日水曜日

休日出勤の習慣を断ち切る

過労と関連して、教師の休日出勤の問題について。
これは、部活動等をいきいきとやっている人の場合は除く。
例えば高い目標や志があり、望んで休日も研究等をしている場合は当てはまらない。
何かのやる気に満ちている場合ではなく、あくまで「仕方無く・やむを得ず」出勤の場合である。

望まない休日出勤の習慣が、慢性疲労や学級崩壊の原因になっているかもしれない。
以下にそう考える理由を述べる。
 
休日出勤の最大の原因は、日常の「お残し仕事」にある。
「後でゆっくりやろう」の精神がここの原因。
「後で」に休日を含めようとすると、大量に「お残し」が出る。
それをやるなら、「超残業デー」を設定してでも、金曜日の夜に終わらせるに限る。

望まない休日出勤の最大のデメリットは、疲労感の継続と自己有能感の低下である。
「世間が休むこの日まで働く自分は、何て仕事が遅いのか。」と自己認識するはめになる。
その肉体的&精神的疲労が続き、うつなどの病気を引き起こす。
いつも疲れているからパフォーマンスが下がり、ますます仕事が遅くなり、さらに残業が増える。

絶対にこの「負のスパイラル」にはまらないこと。

特に学級担任の場合、この悪循環の加速度がものすごいので要注意である。
日常的に疲れていることにより、対応も鈍くつまらない授業になり、叱る機会が増える。
(そもそも本人が授業を楽しめていない。)
それに反発してますます叱る機会が増え、授業が遅れる。
そうすると、今度は真面目な子どもが反発し始め、手に負えなくなる。
気がつけば、崩壊状態。
回復するには、ここに辿り着くまでの数倍の時間を要する。
ここが怖いから、「学級崩壊しない」系の話や本はニーズが高い。
学級崩壊を避けたいなら、本を買う前にまず休日出勤の習慣を断つことである。
その上で本を買って、休日にゆったりコーヒーでも飲みながら読めばよい。

休日は、出勤できないものと割り切る。
習慣を変える「大きな変化」は「大変」だが、だからこそやる価値がある。
若い人は仕事を残したままの金曜日の夜の深酒をやめて、休日の早朝コーヒーに切り替える。
土曜日の昼から外の色んな仲間と交流・活動した方が、二日酔いで寝ているより100万倍よい。
たとえ飲み会を犠牲にしてでも、休日出勤だけは避けて欲しいと思う次第である。

2016年12月13日火曜日

過労死ライン80時間を考える

今回は、かなり真面目な話題。
自分としてもここ数年の中心的な関心事なので書く。

過労死がまた問題になっている。
人が死ぬまでに至らないと大きな問題にならないのがそもそも問題ではある。
(これはいじめ問題でも全く同じことがいえる。)

過労死するぐらいの人は、確実に真面目で気遣いのできる人である。
不真面目だったり自分勝手だったりする人ならば、そこまで至らない。
途中で必ずサボる、休む、誤魔化すなどの抜け道を探す。
真面目でいい人、職場の人間的評価が高い人ほど、気を付ける必要がある。
(その点で私は安心である。)

残業時間が問題の槍玉に挙がっているが、そこは問題の本質とは異なる気がしている。
残業を月80時間が過労死ラインとされている。
単純に勤務時間外労働の総時数で考えると、中学や高校の部活動を担当している教員はかなりの数アウトである。

しかし、みんなが倒れる訳ではない。
むしろ、生き生きやっている人も山ほどいる。
「部活禁止」にしたら、逆に生気がなくなるのではないかという人もいる。
アンケートをとっても、ここの受け止め方は本当に個人によって異なる。

つまり、ラインとしては80時間なのだが、その内容にこそ本質がある。
今回新聞で取り沙汰されている件だと、本人がその残業内容を相当に嫌がっている様子がうかがえる。
行きたくない飲み会に深夜から早朝まで強制参加させられた上に、先輩方に仕事のダメ出しをされていたという。
なまじそういうのを乗り越えて強くなってきた人がいるから、話が余計ややこしい。

本人が嫌なことは嫌なのである。
努力とか根性の問題にすり替えてはいけない。
生理的に嫌なのである。
生理的、本質的に嫌なことで残業したら、たとえ1時間でも「過労」と同じ状態になる。

ちなみにこの「嫌なこと」とは「やるべきこと」とは違う。
どちらかというと、本人としては「要らないのではないか」と思っていることである。
それなのに嫌々渋々やっている自分を認識し、ますます嫌になって疲れるというパターンである。

基準はあくまで基準である。
本人の基準は別にある。
自分が辛いことでも、相手には楽しいことかもしれない。
自分が楽しいこと、善意であっても、相手にとっては辛いこと、悪意かもしれない。

自分が嫌だと思うことからは、努力せずに距離を置いた方がよいというのが、私の一貫した持論である。

2016年12月12日月曜日

当たり前の有り難さ

最近の気付き。

ものすごく疲れている日がある。
そうした時、何もかもが嫌になってくる。

しかし、そんな時こそ、当たり前の有り難さに気づける。

先日は、疲れて出勤した時に、同僚に明るく声をかけてもらえただけで元気が出た。
いつものことであり、普段それを有り難いと思うことはない。

学級に入れば、子どもたちが係や諸々の仕事をきちんとやっていていた。
私が疲れていても、いつもの通りだった。
これも有り難さに気付いてなかった。

少し元気が出てくると、ものすごく元気な気がしてくる。
普通がすごく思えてくる。

嫌なことや大変なこと、困難は、有り難さに気付くチャンスである。

2016年12月11日日曜日

言ってる割に

お酢や醤油、ラー油など、家の調味料関係がいっぺんに切れた。
不思議なもので、なぜかこういうのはいっぺんにくる。

そこでガラス瓶についたラベルを剥がそうとするのだが、これが手強い。
紙のラベルがべったりとくっついて、一向に剥がれないのである。
水で洗い流しながらやってもダメ。
しかもこれが、立て続けに3つ続く。
正直、ちょっと大変である。
飲料水ペットボトルみたいにプラスチックラベルなら楽なのだが、全面に張り付いた紙だと厳しい。

「ラベルはきれいに剥がして捨てる」を求めるなら、剥がれやすいラベルにして欲しい。
剥がしにくいラベルのままであれば、消費者が剥がさないでゴミに出す確率は格段に高まる。
消費者の努力だけでなく、企業の側も工夫すべき部分ではないだろうか。
(市によっては強力な水流等で吹き飛ばすので、ラベル自体剥がさないでいいところもある。)

ここに限らず、こういうことは、学校現場でも結構多い。

「集中しなさい」という割に、前面にごちゃごちゃと掲示物等、気の散るモノの数々。
「話を聞きなさい」という割に、話が長い&わかりにくい&つまらない。
「廊下は走らない」というものの、走りたくなるぐらい開放的な渡り廊下。(しかも実は自分も走っている。)
「もっと積極的に手を挙げて」という割に、回答を間違えると結構手厳しい。

まあ、大体「〇〇しなさい」と正しいことを言ってるつもりの時は、本人が工夫できていないものである。
ブログやメルマガでも同じ。
結構断定的にものを言っている時は、私自身が工夫できていないことが多い。
自戒を込めて、どんな「〇〇しなさい」が多いか、チェックしてみると色々見えると思った次第である。

2016年12月6日火曜日

アクティブ・ラーニングで学び合う授業づくり

10月に「学級を最高のチームにする極意」シリーズの新刊が出た。

『アクティブ・ラーニングで学び合う授業づくり 小学校編』 赤坂真二編著 明治図書
http://www.meijitosho.co.jp/detail/4-18-255616-6

私は「アクティブ・ラーニング時代の体育 ~子どもの「やりたい!」から始めよう~」
というタイトルで、マット運動とセストボールの実践を通したアクティブ・ラーニングの授業の紹介をしている。

以下、自分の執筆部分から引用。
==========
1 指導があるから、子どもは自由になる
(1)これをしたから「アクティブ・ラーニング」?
(省略)
単に「自分たちで問題を見つけましょう」
「グループで話し合いましょう」と
「型」を子どもに投げればいいというものではありません。
公開研究会などで、それだけでうまくいく授業を見ることがありますが、
普段からそれでうまくいくような指導がなされているのです。
日常的に問題発見や解決の具体的な方法について指導を受け、技能として身に付けているのです。
そこを理解せずにそのまま自分の学級で真似をすると、
全く力のつかない、発展性もなく意味のない「話し合い」と称した活動が延々と続くことになります。
一見矛盾しているようですが、子どもをアクティブ・ラーニング状態にするには、教師の主体的な指導が必要なのです。
そして教師と子どもも、協働的に学習している必要があるのです。
教師主導だけ、子どもの自由だけ、どちらでもアクティブ・ラーニングの状態にはならないというのが前提です。
==================

冒頭の、一番主張している部分を引用してみた。
ここが強く感じている部分である。

アクティブ・ラーニングの3つのキーワードは、
「主体的な学び」
「対話的な学び」
「深い学び」
である。

これを、教える側がまず実践する必要がある。
いきなりこれを子どもに求めて丸投げしても、力がつかないどころか、ひどいことになる。

教師の側が主体的に、対話的に、深く学ぶことが求められる。
特に「対話的に」「深く学ぶ」というのは、一人では難しい。
人の話をしっかり聞いたり、専門家にも学ぶ必要が出てくる。

何はともあれ、一度お読みいただければ幸いである。

歴史の鉄則 便利と義務

最近読んだ本からの気付き。 次の本から、一文を引用する。 『サピエンス全史 上 文明の構造と人類の幸福』 ユヴァル・ノア・ハラリ 著 柴田 裕之 訳 河出書房新社 http://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309226712/ ======...

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