2018年7月13日金曜日

働き方改革と個人の価値観

前号に引き続き、学校での働き方改革を考える。

職場を思い浮かべれば、ばりばりやる人、ほちぼちの人、あるいはそうでもない人もいるかもしれない。
毎日夜遅くまで残業している人、定時で帰る人、短時間勤務の人、色々いる。
いつでも精力的でばりばりやる人、決められたことを自分のペースでぼちぼちやる人、マイペースでゆったりな人。
あるいは、それらが混在している人。(人は気分で左右されるので、これが一番多いはずである。)

実は、どの人も学校にとって大切である。
全員がばりばりタイプだと、成果が上がるが子どもも教員も気疲れする。
全員がぼちぼちタイプだと、業務は成立するが変化も活気もない。
全員がゆったりタイプだと、リラックスできるが業務が成り立たない。

職場も学級も、色々なタイプの人間がいた方がいい。

残業するかどうかも、これである。
みんな残業が当たり前の職場だと、帰りたくても帰れない人が困る。
みんな定刻退勤が当たり前の職場だと、残ってやりたい人が困る。

早く帰るのも遅く残るのも本当に個人の自由というのが理想である。
どちらも人に強制をしないことである。

そういう気風が流れているか。
気風は、意識的に作られるものである。

「忙しい」とか「大変」とか「〇〇してあげてるのに」とか言うのは、残業するにあたってはマナー違反である。
周囲への攻撃(口撃)行為に等しい。
そうすると、残業しない人はがんばっていないという、ダメな気風ができる。
(ただし、苦しんでいる仲間が愚痴をこぼすのを聞いてあげるのは大切である。
あくまで、自分自身の姿勢の話である。)

一方、夜遅くに教材研究しながら「明日これを使って子どもに授業をしたい」と楽しそうに働いているのはいい。
「自分の都合」で残業しながら、いきいきしている。
嫌味も文句もいわずに、爽やかにありがたく残業させていただいているなら最高である。
(学校や会社によっては、残業完全不可もあるのだから、できること自体有難いことである。)

早く帰るに当たっては、周りの人への感謝が大切である。
周りの人の仕事のお陰で自分の仕事が成立していることを念頭に置いておく。
がんばっている人に感謝してありがたく定時に礼をしてさっと帰らせていただく。

「私はこうなのに」「俺のようになれ」は、迷惑である。
極論、自分が残りたいから残っているし、自分が帰りたいから帰っているのである。
どんなに理由・理屈を付けてもそうである。

それぞれ個人の価値観がある。
そして「正義」は、価値観の数だけある。
正義の押しつけは犠牲を生む。

例えば私などでも拙著『捨てる!仕事術』で書いたことは、あくまでアイデアである。
私のようにやるのが本当に良いかどうかは、別問題である。
そういう働き方や考え方がありえるというのを知ることで、自分の働き方の幅が広がるということに価値がある。

個人の働き方を考える上では、自分の中の視点を増やすことが肝要である。

2018年7月11日水曜日

働き方改革と学校

今話題のキーワード「働き方改革」を学校で実行することについて。

「働き方改革」の中心は、長時間労働の是正である。
一方で、企業としては、長時間働くことで利益を何とか確保してきた経緯があり、俄には取り入れにくい。
ただでさえ不況にあえいでいるのに、社員の労働時間まで規制されてはかなわないというのが本音だろう。
社員の側も、規定勤務時間内に仕上げることが不可能な量の仕事を抱えているため、歓迎できない。

そもそもは、それを滅私奉公とサービス精神でまかなっていたのが、仕事の量が異常に増えた根本的な原因である。
与えれば与えるだけこなすものだから、使う側からすれば極めて「便利」である。
どんなに与えても「無料」サービスで働いてくれるので利益が上がり、同時に社員の作業量は無限に膨れあがる。

学校の教員の残業が異常に多いのも、これら一連のガンバリズムループの負の遺産である。
労働組合も各地で正常に機能しているとはいえず、世論やお上の無理な要望やお達しに「NO」といえない仕組みになっている。
何とか成果を出すために、高校で問題になっている朝課外(通称「0時限目」)や夕課外という力技な発想になる。

土曜スクールも同じ発想源である。
質的充実を量でまかなう発想を一切止めないと、作業量膨張の無限ループに必ずはまる。
(飲食店でも量を増やす、安くするというのは最も安易で即効性の効果が出る方法である。)

ただし働く側も、やればやるだけ成果が出る状況だと、何時間でも働けるという面がある。
好きなことで、やり甲斐と喜びさえあれば、どんなに働いても実は疲れない。
(逆に嫌だと思うと5分働くだけでも疲れる。)
子どもがゲームに熱中しているのとほぼ同じ状態である。
だから、法的に規制されると困るという声も当然上がる。

中学校現場(また一部の小学校)で話題の「ブラック部活動」問題も基本構造は同じである。
規定時間内の練習では不可能なニーズに教員がこたえる形になっている。
当たり前だが、土日は本来勤務日ではない。
だから、今回の改革も、きちんと規定の枠内でやりたい人には歓迎できる。
しかし、もっとやりたい人(生徒、保護者、教員)にとっては、規制されるのは迷惑千万である。

突き詰めると、最善の働き方とは、個々のニーズに規定される。
個人で選べるのが一番なのだが、利益や勝負が絡んでくると、たくさんやりたい人とそうでない人の間に摩擦が生じる。

そう考えると「ベーシックインカム」の考え方は、あながち夢物語とはいえない。
この考えは、全国民に、働かないでも暮らせる程度のお金が税収入により基本支給される制度のことである。
高い労働意欲のある人々が利益を大量に生みだし、他の人々の生活をまかなう形になる。
よく働く人にとっては、働くほど感謝されて、足を引っ張られないというのがいい。

かつて読んだ『働かないアリに意義がある』という本に書かれていたことを思い出した。
働き者のアリは、全体のごく一部である。
この働き者のアリは、コロニー全体のために、常にひたすら、がむしゃらに働く。
一方、きちんと働きつつ、時々うまくさぼるのが大半。
そして一部のアリは、ただひたすら怠けているだけである。

しかし、この怠けているのが、非常事態になると立ち上がり活躍することがある。
怠けアリはコロニーにとって「余裕」の部分なのである。
常時全員が目一杯働いていると、非常事態に対応できないのである。
だからどのアリも、コロニーにとって生きている価値があるといえる。

結局、たくさん働こうが働くまいが、本来は個人の自由なのである。
労働に関する議論の決着は、集団の価値観が決めるだけなのである。
集団の「利益」や「勝利」の価値観が強めの時代や場なら、たくさんやりたい側が世論的に有利になる。

一方、個人の「幸せ」や「生活」を重視する時代や場なら、そうでない側が世論的に有利になる。
ここまで少し力技でやりすぎた感があったので、ちょっとそうでない側に寄せた感じである。

働き方改革という大きな法案も、額面通りに受け取らずに一歩離れて見つめてみたい。

2018年7月9日月曜日

資質・能力についての雑感

何かと話題になる資質・能力について。

資質には「生まれつきの性質」という意味がある。
つまり、資質・能力を伸ばすということを考える際、実はその才能が問題になる。

たまたま、走らせると速い子どもがいる。
別にトレーニングを積んできた訳ではない。
たまたま、そうでない子どもがいる。
別に、運動をさぼっていた訳ではない。

他にも、そういうのはたくさんある。
全員に何かしらの才能はある。
一方で、全員に全ての才能がある訳でもないというのが事実である。

私の知人に、小学生の頃から
「農家のお嫁さんになって、牧場で牛を飼いたい!」
という夢をもっている子どもがいた。
動物の中でも、特に牛が、好きで好きでたまらないのである。

かなり特殊である。
「ケーキ屋さん」とか「お花屋さん」とかに憧れるのはわかる。
「犬猫が好きで獣医さん」とかも何となくわかる。
牛で牧場経営である。
小学生が抱く夢としては、かなりニッチな方である。

実際、この人の現在は、北海道の農家に嫁ぎ、牧場経営をしている。
これは、そもそも牧場経営における資質・能力があったといえる。
ここに興味をもつこと自体が才能である。
発掘される出来事があったとはいえ、才能としてもっていた訳である。

資質・能力を考える際に、ここは結構重要ではないかと考えている。
つまり、個の資質・能力を伸ばすということは、個の持つ特性を伸ばすという解釈ができる。
資質のあるところ、または見えないけれど埋もれているところを伸長するのである。
それは、動物嫌いの人を動物好きにさせることではない。
元々好きという才能、あるいは知らないけど好きになりそうというところを掘り出し、さらに生き生きとさせる方である。

この辺りを考えると、例えば運動嫌いをどうするかという問題も悩ましい。
「嫌い」を「嫌いでもない」ぐらいにすることはできるかもしれない。
しかし、それが本当に世に求められていることなのかというと、甚だ怪しい。
どちらかというと、もっている才能を最大限に伸ばして欲しいという方である。
一方で、「国民みんなに運動を」というところも求められている。

結構厳しい要望である。
にんじん嫌いに、にんじんを好きにさせるのと同じようなことで、これは難しい。
嫌いなものは、嫌いなのである。
何とか食べられる、程度には変えられるかもしれないが、「大好き」はおろか「好き」にもまず至らない。

個に関する「資質・能力」を考える時には、ここを無視できないという前提は必要である。

では、個の問題ではなく「これからの時代に求められる資質・能力」という場合、何なのか。
「学びに向かう人間性」といった抽象化された曖昧模糊な言葉のままでは意味不明である。
この辺りをはっきりさせていくのが「研究」の役目だといえる。

勤務校もご多分にもれず資質・能力がテーマの中心内容の一つである。
先日の公開研究会が、皆様にとっても何かしらの考える機会になればと思う。

働き方改革と個人の価値観

前号に引き続き、学校での働き方改革を考える。 職場を思い浮かべれば、ばりばりやる人、ほちぼちの人、あるいはそうでもない人もいるかもしれない。 毎日夜遅くまで残業している人、定時で帰る人、短時間勤務の人、色々いる。 いつでも精力的でばりばりやる人、決められたことを自分のペー...

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