2022年12月3日土曜日

懲罰、叱責、ストレスの効能

夏休みに読書感想文を書かされるのは心の底から大嫌いだ。

しかし、自分が好きに本を読んでその本についての文を書くのは大好きである。

強制されると、魅力が半減どころか、嫌悪に変化するという好例である。


夏休み中には、本の虫とまでは言わないが、時間があるのをいいことに、何十冊と、様々なジャンルの本を読んだ。

以下に、読んだ本の一例を挙げる、


『やりすぎ教育 商品化する子どもたち』武田 信子 ポプラ新書

『〈叱る依存〉がとまらない』村中直人 紀伊國屋書店

『知的好奇心』波多野誼余夫/稲垣佳世子 著 中公新書

『薬物依存者とその家族 回復への実践録 ─ 生まれ変わり、人生を取り戻す』岩井喜代仁 どう出版

『死刑について』平野啓一郎 岩波書店


読んだ多くの本に共通しているメッセージがあった。


それは

「他者に苦痛を与えることは有害」

という一点である。


苦痛とは、肉体的、精神的両面を指す。

有害とは、個人的、社会的両面を指す。


苦痛を与えることで、改善をねらう。

しかし、結果はマイナスにしかならない。


一方、有用な苦痛、ストレスは存在ないのか。

これも、実はある。


自ら求める苦痛、ストレス。

自らが求める何かを目指し、頭や体を鍛えるために負荷をかけるようなもの。

これのみが有用である。


同じストレスであっても、他者が強制的に与えるものは、有害でしかないというのが多くの識者の結論である。

実は、何十年も前から今まで一貫して主張されている話なのである。

つまりは、一方で、逆の主張もずっとあるということでもある。


ものを教える立場(子どもから見た権力者の立場)にある、自分の経験則から考える。

やはりこれら「与える苦痛」は、有害という実感がある。

長い目で見て、後悔しか生まない。


「悪さをしたから裁いていい」

「叱らないと子どもがダメになる」

「然るべき報いを」

という考えは、社会全体に根強い。


教員をしていても、まだ幼い子どもの口から

「悪い子はこらしめないと」

というような言葉が出て、ぎょっとすることがある。


わかりやすい「勧善懲悪」のアニメや物語に囲まれているのだから、当然そうなる。

周囲の大人の「観」の影響は大きい。

まさに、マルトリートメントである。


SNSやネット上が「公開処刑場」と化している。

善男善女による「正義」の鉄槌が下され炎上する現代に、歯止めをきかせるにはどうするのか。


まずは「他人の悪いことを正そう」という、他者改善の姿勢を改めること。

被害を受けた当事者でない限り、糾弾するようなことはしないこと。


ただしこれは「決して叱ってはいけない」ということではない。

特に自分がその場の責任者である場合、他者に危険が及ぶ時やルールを逸脱した時などは、叱ってストップすることは十分に有り得る。

それは仕事であり、個人的な好き嫌いの問題とは一線を画す。

警察が違反の切符を切るのと原則は一緒である。


教室内であっても、この辺りから考えていくと良いのではないかという提案である。

2022年11月26日土曜日

「自治的学級づくり」と「不親切教師」の深い関係

 夏の話だが、千葉市で、オンライン参加も含めたハイブリッドのセミナーに参加した。

提案内容は「不親切教師的学級経営」である。


ちなみに会の母体は「日本学級経営学会」である。


参考: 日本学級経営学会H.P.



自分はこれまで、この会に限らず「自治的学級づくり」をテーマに数年間提案をし続けてきた。

前任校である千葉大学教育学部附属小学校の公開研究会でもそうである。

それが今年から突然「不親切教師のススメ」である。


急な方向転換に見えるが、実は違う。

字面が違って見えるだけで、実は視点が違うだけである。


「自治的学級づくり」は、「学級」に視点を置いた表現である。

学級集団全体が、自治的になっていくことをねらう。

つまり、子どもが主体性をもって活動し、教師が手を出し過ぎない学級である。


「不親切教師」は、「教師」に視点を置いた表現である。

教師が敢えて手を出さないことで、子どもが主体性をもった存在になることをねらう。

つまりは「自治的学級づくり」と同根である。


今年になって私が突然「不親切教師」になった訳ではない。

「自治的学級づくり」を指向して以来、ずっとそうだったのである。


では、「自治的学級づくり」と「不親切教師」は全く同じかというと、これは違う。

同根であっても、表出の仕方や主語が違うのである。


先にも述べた通り、「自治的学級づくり」は、学級が主である。

つまり、教える自分自身が主語にない。

学級という子ども集団に対する「他者変容」である。

「研修」を「研究と修養」に分けた時、他者変容を求める「研究」にあたる部分である。


一方「不親切教師」の主は、教師である。

自分自身が主語であり、求めるのは「自己変容」である。

「研究と修養」でいえば、こちらは自己変容を求める「修養」にあたる。


現実的に考えて、主体性をもって取り組みやすのは、修養、自己変容の方である。

他者を変えるというのは、容易ではないし、主体性も選択権も他者にあるので、どうしても難しい。


自分自身なら、自分次第で、自分の選択で変えられるのである。

そのための道標として書きしたためたものが『不親切教師のススメ』なのである。


8年前に自分が友人と共に上梓した

やる気スイッチ押してみよう!

という本がある。


この本の一番最初に掲げたキーワードも

「主体変容、率先垂範」

である。

実は主張自体は一貫しており、全く変わっていない。

手を変え品を変え表現を変え、大切だと思うことを言い続けているだけである。


なぜそんな面倒なことが必要なのか。

それは、大事なことは1回では伝わらないからである。

大事なことは、何十回も、何百回も、何千回も言わなくてはならない。

しかも、表現を変えて伝え続ける必要がある。


例えば、「あいさつ」の指導が1回や10回程度言えば済むか。

それなら誰も苦労しないということは、誰しもが知っていることである。

「返事」でも「靴揃え」でも何でもそうだが、大事なことを徹底するというのは難しい。

何度でも何度でも何度でもへこたれず繰り返し伝え続ける必要がある。


それも、表現を変える必要がある。

同じ言い方だと、飽きるからである。

飽きは興味や関心・意欲の敵である。


さらに、人によって「響く」表現が異なるためである。

「甘味」と「デザート」と「スイーツ」ではイメージが変わるし、その内実も少しずつ違う。

感受性の違いは個性の違いであり、前提にあるべきものである。


「不親切教師のススメ」とは、自分自身の在り様、考え方、それに伴って対応を変えようという提案である。

「こうすれば相手を思い通りに動かせる」という提案とは真逆の内容になっているのが、おススメポイントの一つでもある。


既に本書を読んだ読者の方にとっても、この視点で再度見直していただければというご提案である。

2022年11月19日土曜日

「言うことに従う」の是非は場で決まる

 以前も紹介したことがある人物だが、私も面識のある、有名な職人の方の本を頂き、拝読した。


参考:教師の寺子屋 2019.9.9 「人を育てるのは心」


職人の世界では、次のような言葉を弟子は言われるという。

「言われたらそのままやれ」

「頭で考えるな」

「バカになれ」

(ちなみに、私は弟子でこそないが、実際にお会いした時に、厳しい言葉を色々と言われた。

それらがいちいち本当にその通りで、納得し、嬉しかったことをよく覚えている。)


これらは『不親切教師のススメ』ですすめていること、そして子どもに言っていることと、真逆である。

では、どちらかの教育が間違っているのか。


職人の世界においては、先の言葉は正しい。

いちいち反論したり勝手にアレンジしたりする人間には、教えられない。

それは、特定の技術の伝承が中心にあるためである。

そして、それを習いたいと弟子入りしてきた人を相手にするからである。


私も師の野口芳宏先生に似たようなことをやんわりと諭されたことがある。

つまり、師のもとへ習いに通っている以上、従うのが筋である。

それが嫌なら、通うのを止めるべきである。

自分で師を選び、学びたいことがあるのだから、当然である。


「進んで従う」という状態である。

一見矛盾する言い方だが「主体的に従う選択」をしている訳である。


ところで、学校においては、これらは当てはまるか。

子どもは、師として自分を選んで通ってきているのか。

また教師は、そういう立場として子どもの前に立っているのか。

さらに、そういうつもりで職場に仕えているのか。


どう考えても、そうではない。

言うなれば、学校の教師と子ども、あるいは職員同士というのは、単なる偶然の組み合わせである。

少なくとも、人間を選んで来ていることはまずない。

それは、受験をして入学していようが、採用試験を受けて採用されていようが、同じである。

師弟制度とは全く意味の違う集団である。


つまり

「黙って従え」

は通用しない世界である。

正確に言えば、それが通用してはいけない世界である。

それが通用すれば、文字通りの支配になる。


子どもに教えるのは

「言われたことをやればいい訳ではない」

「自分の頭でよく考えること」

「賢くあれ」

である。

前号でも書いたが、自己決定を求め、自立を促すことである。


これらは、そのまま教師の側にも当てはまる。

上から言われたことに対し、考えずにそのまま従うようでは、単なる隷属である。

工夫もせずに愚直に例年通りの作業をしているだけでは、到底いい仕事はできない。

なぜならその命令は、自分が納得し心酔した相手からのものではないからである。


逆に言えば、例えば自分の上司に当たる人物に対し、心から尊敬し師と仰いでいるのなら、素直に従うことにも主体性がある。

勤めている会社や仕事に対して惚れ込んでいるなら、ひたすら従うのも有りである。


無条件に従うことは、考えなくてよいから、楽なのである。

例年通りでいることは、変えなくていいから、楽なのである。

周りと同じでいることは、その他大勢でいられるから、楽なのである。

ただし、楽している、今まで通り維持できていると思っている時点で、実は緩やかに衰退しているという自覚は必要である。

それは成長ではなく、単なる老朽化である。



セミナーなどで質問を受ける際に、多く出てくる本音の悩みが

「子どもに日々やらせていることが、正しいことかどうか、自信がない」

というものである。


これは心ある人なら必ず抱く悩みである。

自分がよいと思えないことであれば、それはきっと、正しくない。

きまりだから、というだけの理由でやらせていることの大半は、無意味どころか有害である。

やらせていること自体、既に老朽化していることばかりである。


では、自分の言うことに完璧に従わせる方がいい相手とは何か。


それは、相手が自分のような人物を目指している場合である。

私であれば「教師になりたい!」と願う相手であれば、ある程度の道筋を示すことができる。

従えば、悪いようにはしない自信がある。


だから、本気で教師になりたい教育実習生に対しては、教えやすいし、結構厳しいことも言う。

そうでない相手に対しては、まあぼちぼち、という感じである。

(教師にならない人にとっては指導案など二度と書かないのだから、形さえできれば正直どうでもいい。)


さらに現実は、本気で教えた有望な学生も、企業や学者の道を選ぶことが少なくないという現状である。

言われたことに従わざるを得ないような現場、または子どもを従わせるような現場を見ていれば、当然の選択である。

つまりこの地盤そのものを変えていかねば、教員採用試験を高倍率にすることは夢のまた夢である。


従来の教育モデルでは、それでも良かったのである。

『不親切教師のススメ』の「おわりに」にもそれは書いた。

引用する。


==================

(引用開始)

これまでの教育はどうしても「横並び」「揃える」「みんな一緒に」という方向性が強かった。

経済成長が上向きの時代においては、周りに言われた通りに動くことで人生が安泰だったからである。

それが時代の要請する最適解だったといえる。

しかし日本という国の成長が誰の目からも明らかに右肩下がりになり傾いてきている今、

それでは上手くいかないことに人々は気付き始めた。

そこに上乗せする形で教育界には突如「個別最適な学び」というスローガンが出てきて、一人歩きし始めた。

(引用終了)

==================


時代の最適解が、変わったのである。

社会のパラダイムシフトが起きた。

今では十代の子どもや二十代の若者がネットで何百億円も稼ぐ。

かつて見たことも想像したこともない方法を用いてである。


単純な作業は全てロボットとAIが担当し、かつての職業の大半が消え失せる。

作れば売れたはずのモノが溢れてゴミの山と化し、処理に困った製品が不法投棄されたり二束三文で売られたりしている。


かつての世界で想像できただろうか。

それが今、世界中で起きている。


このパラダイムシフトが起きた世界に対し、私たち教師は「正解」を知っているのだろうか。

個別最適な学びとは何なのか、本当にわかった上で、教えているのだろうか。

答えは明らかに「No」である。


そうなれば、子ども自身にも、自己決定を求めるしかない。

申し訳ないが、こちらの言うことに黙って従ってもらったとしても、その結果責任はとれない。

その上で、こちらが最も良いと思える教育を提案していく程度なのである。


現代以降の学校における教師と子どもは、師弟関係ではない。

いや、昔からそうだったのだが、昔はそれでも大体の正解が見えていて、従っていればある程度の結果を保証できたのである。


一方で、弟子入りする、何かを選んで習いに行く場であれば、まず従うこと。

各種のお稽古やスポーツクラブや学習塾と、学校という場は明らかに違う機関なのである。

当然、教育のスタイルも方針もすべて全く異なる。

そこを学校と比べること自体、無意味である。


そう考えれば、学校は学習塾などとは次元が全く違う、不親切な場であって然るべきである。

別に師弟関係でも何でもないのだから、やたらよかれと世話をしたところで、有難迷惑である。


全員に同じものを提示する一方で、全員に一律の結果を求めるものでもない。

個によって必要なものは異なる。

真に公平で公正な公教育とは、そういうことである。


学校とは、単なる偶然の集団である。

この自覚をもって臨めば、

「子どもが(私の)言うことをきかない」

ということに対しても、

「先生が(私の)思う通りにやってくれない」

ということに対しても、見え方が変わるのではないだろうか。

2022年11月12日土曜日

「不親切教師」の真意

『不親切教師のススメ』が世の中に広がるに従い、ここに関連するセミナーも多く開催するようになった。

その中で、参会者の方からリフレクションレポートを送っていただいた。

『不親切教師のススメ』の真意をわかりやすく言語化してくれている。


ご本人の許可を得て、以下、頂いたリフレクションレポートから一部引用する。


==============

(引用開始)

【不親切という言葉の意味】


 キャッチーだからこそ、この言葉が使われているのだろうけれど、厳密にいうならば、「(敢えて)不親切」なのだろう。

「目に見える手(指導)を入れること」これを是としている現場だからこそ、

・掲示物へのコメント

・ドリルの丸付け

・連絡帳の確認など

は、キチンとした指導であり、これが是とされている。

目に見えるものしか信じてないのだろうなぁ…。

しかし、教師は掲示物へのコメントについては、多くの子どもにとって力がつくものではないことに薄々感じているはずなのだ。


「うーん。」と思いながらも、「でも、ずっとやってきていることだから。」と、その違和感を置き去りにして続けてしまう。

こんなことが現場には多い。


 不親切であることの目的は、自分なりの言葉で言うとすれば、「自分で考えて決めることのできる子どもになってほしい」ということ。

自分が行っている教育活動は、子どもの頭を働かせているのだろうか。という視点で見つめてみると、わかりやすくなるのかもしれない。


 お隣に座っていた私のお友達は、松尾さんの「鵜飼の話」がかなり腑に落ちていたようで、少しずつその範囲を広げ、最終的に手放す。

というところが必要なことなんだろうと話していた。

私もそうだと思う。

最初から「不親切」にできないこともあるし、段階的にそれを行うということ。


 著書をしっかり読み込めば、わかることだけど、教育本の怖いところは、

その内容の「エッセンス」だけを自分に落とし込み、「不親切」を何の考えもなしにやってみること。

これは怖い。

・無自覚

・無意識

は、教育現場にとって「毒」だ。


(中略)


 今回問いたいことは、「なぜ、それを行うのか。」それを考える教師であってほしいという

こと。


 その教育活動は、なぜ行うのか。それはそもそも必要なことなのか。

それを問い直すことが、教師の教育実践をよりよくする手立てのひとつとなるのだと思う。

いつもしている実践に「なぜ?」「なんのため?」と問える教師でありたい。


(引用終了)

======================


この文中にある

「目に見える手(指導)を入れること」

これこそが私の指摘する「親切」の正体である。


要するに、目に見えるからこそ「やっている感」をアピールできる。

つまり、指導の免罪符になるという面をもつ。

こういったものは、ともすると実質を捨てた形式に陥りがちになる。


しかしながら、ここで指摘されているように、掲示物へのコメントで子どもに力はつかない。

以前にも紹介したが、教師が作文に朱を入れることよりも、子どもが文を書くことの方が大切なのである。


参考:教師の寺子屋 2011.7.23「作文指導の極意」


次の言葉も、まさに我が意を得たりという表現である。


===========================

不親切であることの目的は、自分なりの言葉で言うとすれば、

「自分で考えて決めることのできる子どもになってほしい」

ということ。

===========================


セミナーの最中にも

「子どもが主体性をもつようになる指導を端的に教えて欲しい」

という質問があった。

私は「自己決定の場面を多くすること」と答えた。


つまり、子どもが自分で考えて決めていく場面を、大人が奪ってはいけないのである。

鵜飼の鵜のように、いつまでも紐をつけて子どものコントロールを大人がしているようでは、自立しない。

それは、学習、安全、人間関係、全てにおいて言える。

不親切教師は、先回りの大きなお世話が最も悪影響を及ぼすと考える。



そして最後のくだり


「なぜそれを行うのか」


である。


そのまま真似するだけでは、単なる不親切な教師である。

なぜ、何のために、敢えて不親切に振る舞うのか。

それは、子どもの主体性を高めるというただ一点の目的のためである。


逆に言えば、本当にそのままではできないことを放置していては、自立できない。

必要な環境支援をした上で、段々と手放していくのである。


教師の仕事を本当に素晴らしいものにしたいと願う人にこそ『不親切教師のススメ』をおすすめしたい。

2022年11月5日土曜日

知的好奇心を満たすには

「第4回 学校教育のリアルな本音を語る会」において紹介してもらった本を、こちらでも紹介する。


『知的好奇心』波多野誼余夫/稲垣佳世子 著 中公新書


この本は、面白い。

知的好奇心を刺激されまくる内容で書ききれないが、一例として紹介する。

私の読書メモそのままであり、→の部分は私見。


1

一定期間、似たようなものにふれ続けると「枠組み」ができる

枠組みからはずれたものには、本能的恐怖を感じる

保守的になる

既存の枠組みを大きく覆すような、あまりに斬新なものには拒絶反応を示す。

一方、「適度に新奇」なものには、好ましい態度、知的好奇心を示す。


→斬新すぎる提案は人間の本能的恐怖と拒絶を引き起こす。

不親切教師のススメ』は、現状の枠組みを否定しているので、大きく賛同する人と拒絶者が出る可能性大。


2

好奇心は二種類あり、両方必要。

拡散的好奇心(情報への餓え)←能動的 

特殊的好奇心(知識への不十分の自覚)←受動的

蜂が蜜を求める行為にたとえる。

前者は当てもなく飛び回り探す行為

後者は蜂ダンスによって特定の花へ導かれる行為


→読書も二種類。

「何となく面白いものを求めて読む」

「専門的知識の獲得や、書き物や発表、試験等のために読む」

という違い。


3

「適度の緊張」は快である。(バーライン 心理学者)

→師である野口芳宏先生の教えと合致。

授業には適度な緊張感が大切。


4

苦痛刺激が存在すると、探索(知的好奇心を満たすための学習行為)は減少する。

また、解いたことにごほうびをやるようになると、それが与えられた時は熱心にやる。

しかし、ごほうびがもらえなくなるととたんにやめてしまう。


→「○○ができるまで寝たらダメ」も「○○できたらごほうび」も両方知的好奇心の面で害悪。

自ら求めれば快適に学べるという環境が大切。

夏休みの一律大量の宿題は、学びそのものへの知的好奇心減退に大きく貢献。



1973年刊である。

約50年前に、既にこのようなことがわかっていたということに驚く。

知的好奇心を刺激する本として、紹介してみた。

2022年10月30日日曜日

理想の学級は理想的と言えるか

 学級づくり修養会「HOPE」例会での気付き。


今回のテーマは「理想の学級は理想的と言えるか」であった。

根本を問う、哲学的なテーマである。


ここで参会者の中から出てきた言葉が

「寛容の不寛容」

である。

「許さないことを許さない」という矛盾である。


これは哲学者カール・ポパーが1945年に発表した「寛容のパラドックス」というものである。

(出典:Wikipedia)


つまり、理想の学級を実現することは、それ以外を否定するということになる。

学級担任の考える理想の学級を良いと思えない子どもも否定することになる。

ここにもはや矛盾が生じるという次第である。


例えば自分であれば「自治的学級」を理想としている。

しかしながら「自治以前」という集団の状態も当然存在する。

その学級集団を否定すること自体が誤りである。


集団の中には「みんなと一緒」に抵抗感をもつ子どもが少なからず存在する。

一方で「みんなと一緒」が最も居心地の良いという子どもも存在する。

これらを一緒くたに扱うことは、現実的に考えて不可能である。

もしそれが上手くいっているように見えるのであれば、そこを我慢している人がいるからである。


学校教育は、集団を一緒くたに扱うという前提のもとで制度設計がなされている。

学習指導要領が定められていることからもこれはわかる。

教室に35人が一緒にいることからも、生まれた年月で学年が年齢別に構成されていることからもわかる。

要するに、前提として理想の同質のものを作る制度設計である。


この制度に乗っている以上、ある程度の同質性は避けられない。

完全に個別最適な学びを求めるのであれば、年齢の区分けを取り払う他はない。

算数の授業で、内容が一瞬で理解できる子どもと、1時間やってもさっぱりわからない子どもが混在している現状である。


個別最適を求めるのであれば、小学生が中学校の数学をやっても何ら問題ないはずである。

また逆に、足し算や引き算すら覚束ないのに、そのはるか先の高度な計算に取り組めるはずがない。


要するに、自分の理想の前提を疑う必要がある。

それは実現において、現実的に無理がないか。

どこを見直すべきなのか。

求める集団の同質性から外れる子どもが大勢いて自然という前提が必要である。

それがわかっているのに申し訳ないが「枠」の中でやってもらおうというのが、現在の教育制度の現実である。


では、例えば「学級目標」は必要がないのか。

そんなことはなく、これは有効な手段である。

教育である以上、目指す方向性はある。

迷わないための指針があるというのは、集団が動くに当たり必要である。

(指針が適切なものであるのかは検討の余地がある。

船の目指す先が岩礁では沈没するだけである。)


指針とは、方向性に過ぎない。

全体でそっちの方へ、後は各々でというざっくりなものである。

一方で理想は、詳細まで決めていくと、それは「枠」になる。

「枠」からはみ出てはいけないとなると、無理が生じるという次第である。


全員を「枠」にはめようとする行為とは、保育園の「お散歩カート」に全員を乗せようとするようなものである。

「お散歩カート」は、まだ自分で歩けない、歩かせられない子どもなど、それを必要な子どもだけが乗るためのものである。

自分で安全に歩ける子どもまでカートに載せて面倒を見る必要はない。

それは親切すぎるお節介である。


教育が、親切すぎるのである。

今回、そこへの問題提起として、次の本を書いた。


『不親切教師のススメ』さくら社


教師が理想を追い求めすぎるので、過剰な親切になるのである。

本当の親切な教育とはどういうことかについて書いたものである。


理想の学級は理想的といえるか。

多分、その答えは常に「ノー」である。

2022年10月22日土曜日

やれないからこそ、やってみる

 特別活動関係の学習会に出ると、学級会をやっていない学級が多いという話になる。

特別活動を勉強しようという人でもやっていないことが結構ある。


理由は色々である。

「時間がない」

「やり方がわからない」

「自分の学級ではできそうにない」

等々。


「時間がない」という場合、実は「やりたくない」というのが隠れた本音である。

この場合もやはり「できそうにない」からである。


同様に「○年生だからできない」「難しい子がいるからできない」もよくある。

1年生にそんな難しいことは無理という話である。

あるいは、これこれこういう子どもがいるから無理という話である。


人は、深層心理の無意識下で、理由をこじつける。

時間がないというために、他のやるべきことを利用する。

実行できないというために、その理由を探す。

そこには一面の正当性があるため、自分自身で納得しやすい。


結論、どんなことでも、まずはやってみないとできるようにはならない。

さらに、初めての状態からしばらくは、上手くできるはずがない。

あらゆることにおける、前提条件である。


学級会のような話合いは、やらないとできるようにならない。

クラス会議をするなら、手法を学ぶ必要もある。

しかしどんなに学んでいようが、初期の頃に話合いが成立しないという点では、スタート位置は同じである。


クラス会議を初めてやるための、導入の活動もある。

過去に書いた、一年生の最初の導入のための活動を紹介した記事もある。

参考:みんなの教育技術 「一年生一学期のクラス会議初期指導のコツ」



一年生の最初でうまくいかない、できないのは誰しも「当たり前」だという。

だから「やらない」となるが、これが勿体ない。

やればできるようになる。


話合いをやってきていなければ、六年生でもできない。

先にも述べたように、学級会をやっていない学級がかなりある。

つまり、これまでほぼ全くやっていない状態で育っている可能性が高い。

だからこそ、今目の前にいる子どもたちから、始めるのである。


話合いが自分たちだけでできるようになるには、段階がある。


まずは、やり方を知る段階。

こちらが手取り足取りして、基本的なルールや流れを教える。

議題もゲーム的な「結論がどうでもいい」ものでスタートする。


次は、こちらが司会でいいので、やってみる段階。

発言の順番が回ってきても「パス」や無言が続く。

「パス」を含め、意見表明したこと自体を認めながら進めていく。

ここでは、ほとんど何も決まらないがよしとする。


次に、司会を任せ始める段階。

司会もドキドキなので、助けてあげながら進めていく。

発言は「同じです」がよくが出るようになるので、他の人と同じでも自分で言うよう促していく。

この辺りで、合意形成へもっていくための意見の収束の仕方を教える。

「単純な多数決は少数派の意見を切り捨ててしまう」という危険性も教えていく。


慣れてきて、司会も黒板の書記も任せていく段階。

ある程度まで自分たちで進行できる。

時々、ルール違反(他の人の発言中に口をはさむ、最初のアイデア出しの途中で発言を否定する)が出るので、ここは正す。

自分達で進行できたこと自体を認めていく。


いよいよ、自分達だけでほぼ運営できる段階。

話合いや決定が学校ルールやモラルから逸脱しない限り、基本的に黙って見守る。


この自分達だけの段階へ、低学年であれば秋の終わり、高学年であれば夏休みぐらいまでと目安を決めて進めていく。

そのためには、できない状態からでもまず始めることである。


授業中における話合い活動も大切である。

普段の授業で聞いてるだけなのに、会議の時だけ全体の場で意見を言えるようになるというのは現実的でない。

ペアトークや班でのグループトークなどを頻繁に取り入れ、小規模の話合い活動に慣れるようにする。


何事も、やってみることと、慣れである。

最初から上手くできることはない。

また、始めるのに最適なタイミングは、いつでも今である。


なぜこういうことを書いたかというと、これが教師の仕事がしんどいことと、無関係でないからである。

無関係でないどころか、根本的原因と言ってもいい。


学校は、子どもが自分で生きていくための力をつける場である。

子ども自身でやればできることは、子ども自身がやって力をつけるに限る。

それを教える立場の人間が代わりにやってしまっては、子どもの学ぶ機会、成長の機会を奪う。


しかも、やる方は大変である。

35人が一つずつやるのと、一人の人間が35人分の作業をやるのを比較すれば、明確である。

学校におけるあらゆる学習活動は、子ども自身がやることである。

教える立場の人間は、子ども自身ではできない、気付けない、知り得ないことを示すまでである。


だから、低学年から高学年にかけて、親や教師に「○○して欲しい」の需要がなくなっていくのが自然な姿である。

一方で「自分(たち)で○○したい」が増えていくのが望ましい成長の姿である。


やってあげるのではなく、まず、やってみること、挑戦を促す。

子どもたちの成長に必要なのは、手取り足取り寄り添うのではなく、一見不親切な教育である。

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