2017年12月17日日曜日

自由な学級=選択の幅が広い学級

以前の「自由市場と政治の原理 学級経営への応用」の記事について、
アメリカ在住の読者の方から、感想をいただいた。
読者の皆様にとっても大いに参考になると思ったので、紹介する許可をもらった。
以下、メールより引用する。

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(引用開始)
日本の人が、「自由」という言葉を使うとき、
いつも「自由」の本家本元であるアメリカの
Freedom を思います。

彼らにとって、自由とは何をしてもいいという
積極的な意味ではあまりなく、
むしろ「選択の多いこと」などがイコールとして
考えられているようです。

日本は自由という言葉を
本来の意味よりも「いいとこ取り」してしまったような
気がします。

たとえば。。黒人は列の後半にしか座れなかったバスが、
どこに座ってもいいことになった。
これが自由の意味ですからね。

選択の幅が広がる。もしくはこの中から何を選択してもいい
というのが自由であって、何も選択しないことや、
オプションにないものを選ぶことではないということでしょうか。
(引用終了)
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自由を「選択の幅が広がる」と捉える。
学級においても、この方がしっくりくるかもしれない。
学校という空間は、制約がある。
無法地帯ではなく、法治された社会である。
その社会の中で、選択の余地があるということ。
これが自由。
選択の余地がない状態。
これが不自由。

また「いいとこ取り」という捉えも、納得である。
引用文中にあるように「何をしてもいい」というのは、自由の本来の意味ではない。
やんちゃ坊主の「俺の自由だ。かんけーねーだろ。」という言葉。
いいとこ取りの誤った自由の解釈。
ここには、「大いに関係ある」と答える。
それが生徒と教師という関係だからである。
ある社会における自由が成り立つには、その社会の構成員同士が、無関係ではいられない。
人を傷つける行為は、自由に反する。
本来あるはずの「安全」という選択の余地がなくなる訳である。

差別の例が出ているが、これこそが「自由」の本家本元の意味である。
「自由」の語源の「freedom」と「liberty」とは、元々は特権階級のみがもつ権利だった。
「奴隷」ではない立場の人をわざわざ「自由人」と名付けて呼んでいた時代があったという。
今の日本において求められる「自由」とは、意味合いがかなり違う。
文化の違う国の言葉を取り入れたせいで、翻訳がうまくできていないのである。
日本語の「わび・さび」を海外の言葉に翻訳ができないのと同様である。

そこで、自由を、選択の幅が広がることと捉える。
選択の幅の多い学級。
こう考えると「自由な学級」の像が浮かんでくるのではないかと思った次第である。

2017年12月15日金曜日

親密な地域コミュニティを求める

文化の日に書いた記事。
生活の文化の変化について。

今回も以前に紹介した次の本からの考察。

『サピエンス全史 下 文明の構造と人類の幸福』
ユヴァル・ノア・ハラリ 著  柴田裕之 訳
http://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309226729/

この本の中で「親密な地域コミュニティ」という言葉が定義されている。
==========
(引用開始)
「親密な地域コミュニティ」とは、互いをよく知り、生き延びるために相互に依存している人々の集団をいう。
(引用終了)
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産業革命以前、ほとんどの人の日常生活はこの「親密な地域コミュニティ」の中で営まれていたという。
今は、違う。
親密な地域コミュニティではなく、あらゆる人が世界中の人と繋がっている。

ここからは引用ではなく私見。
これは逆に、身近な人たちが、互いをよく知らず、遠くなっているともいえると思う。
世界が広がるのと同時に、身近な人への関心が、薄らいでいく傾向にある。

学級の存在意義は、この「親密な地域コミュニティ」にあると考える。
このコミュニティ内は、相互依存の関係であり、市場原理である利益追求は原則行われない。
もちろん金銭のやりとりも必要ない。
互いのことをよく知り、お互いが必要な時に、見返りを要求せずに、手助けをする場である。

だから、教師は子どもに対し、自分ががんばった分の見返り(報酬)を要求することはない。
子どもは教師や周りの仲間に対し、自分ががんばった分の見返り(報酬)を要求することはない。
すべては最終的に、自分のためであり、そのための相互依存である。
困っている仲間を助けるのも、当たり前のことである。
困っている時に助けてもらえるのも、その前提があってこそである。

大きなことではなく、小さな、ごく簡単なことである。
勉強がわからないで困っているお隣さんに「わかる?」と一言かけられるか。
誰かが落とした鉛筆を拾ってあげられるか。
クラスの仲間が何かできた時に「やったー!」と一緒に喜べるか。
朝「おはよう」とあいさつするか。
そんな小さな、ごくごく簡単で、「当たり前」なことである。

人の幸せを考える集団になる必要がある。
自分の幸せと同時に人の幸せを願う集団になる必要がある。
それが、本来あるはずの「親密な地域コミュニティ」の在り方である。
その行動は、自分と相手が幸せになるかどうかを常に考える。
それは教師も子ども同士も、お互いに考える必要がある。

そういう子ども集団が作る社会、ないし会社は、変わってくるのではないかと思う次第である。
今後の国際社会の姿は、競争社会ではない。
戦争で他国を打ち負かしても、結局はダメであることは歴史が証明してくれている。
あるべきは「親密な国際コミュニティ」である。
互いに手を差し伸べるのが当たり前の国際社会である。

国際社会の最前線で戦っている人々には、そんなことは現実を見ない理想論と言われるかもしれない。
しかし、せめて教室では「親密な地域コミュニティ」の考えは忘れずにもっていたい。

2017年12月13日水曜日

子どものえらさ

叱ることは、必要である。
様々な教育論があるが、このことに関しては、そうだと確信している。

ただし。
その時自分が叱ったことが正しかったかは、自信がもてないことこの上ない。
いつでも、そうである。
道徳的に正しかったとしても、相手にとってはそれが良いとも限らない。

だから、叱るという行為は、諸刃の剣である。
作用反作用の法則よろしく、強く叱れば叱るほど、その分自分にも返ってくる。
正義を振りかざしていくほどに、苦しみは深くなる。
相手の苦しみに寄り添いながら叱ることができるなら、それが何よりもいい。

自分が正しい
自分が正しいはず
自分が正しいと言ってほしい

堂々巡りをして、果てには周りに同意を求めだす。
一瞬はほっとする気がするのも束の間、すぐにまた新たな不安がくる。
理屈をつけるほどに、より心は重くなる。
本当に確認をしたい相手は、自分の他には一人しかいないからである。

心がすっと軽くなる瞬間がある。
叱った子どもに、朝会える。
「おはようございます」とあいさつをしてくれる。
「おはよう」とぎこちない笑顔で返す。

軽くなった瞬間に、また重くなる。
「ごめんね」「言い過ぎた」と心の中では言っている。
直接は口に出して言えないのが、弱いところである。

子どもを、「えらい」と思うことがある。
何もなかったように、笑顔で「先生」と呼んでくれる。
「ごめんなさい」を日記に書いてくることもある。
「えらい」という言葉には「品行が立派」という意味がある。
私はこういうことがある度に、子どもは「えらい」と思う。

何も言わない子どもも、えらい。
色々言いたいこともあるだろうに、とりあえずはついてきてくれている。

自分が担任で、今日、子どもが教室にいてくれたら、それは有難いことである

そのことへの畏れと感謝は、何があっても忘れずにいたい。

自由な学級=選択の幅が広い学級

以前の「自由市場と政治の原理 学級経営への応用」の記事について、 アメリカ在住の読者の方から、感想をいただいた。 読者の皆様にとっても大いに参考になると思ったので、紹介する許可をもらった。 以下、メールより引用する。 ================ (引用開始) ...

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