2019年8月20日火曜日

情動と感情を目的論で見る

大学で学んでいる心理学の話。
情動と感情について。

ポジティブ感情は奨励、共感されやすい。
「よい」とされるので感情として出しやすい。

ネガティブ感情は認めてもらいにくい。
急激な制御をされることもある。
抑圧され、出しにくい。

そうすると、感情に「良い」「悪い」というようなレッテルが貼られる。

しかしながら、感情は情動の結果であるという。
感情は、情動に比べ、長く続く。
「怒っている」「悲しい」というような感情は一瞬では消えない。
ここには思考の入る余地もある。
ある程度コントロールができる。

しかし感情の前に情動がある。
情動は何か「イライラ」「ムカムカ」あるいは「ドキドキ」「ワクワク」するというものである。
これは、短期でありながら自然発生するものである。

かのダーウィンは情動を
「非常事態にさらされた生物が、適切に対処し、生存の可能性を増加させるもの」
と表現しているという。
(参考:RIKEN BSI NEWS)
http://bsi.riken.jp/bsi-news/bsinews3/no3/special.html

つまり、生物が生き抜く必要の上で獲得した本能的なものである。
情動は止めようがない。
情動の否定は、生命への否定である。

つまり、ネガティブ感情を否定すると、不都合が起きる。
必要があってネガティブ感情を引き起こすような情動が起きた訳である。
身体からのメッセージである。

例を挙げる。
「いつもいい子」でいられることを求められたとする。
そうすると、いい加減な自分や、感情的な自分は許されない。

「怒ってはいけない」「泣いてはいけない」といった感情表出の行動を抑制する。
すると、その前段階として「イライラ」「どんより」などの情動を否定することになる。
しかし残念ながら、情動は自然発生する。
つまり、自己否定を繰り返すことになる。

これは苦しい。
それならば、ネガティブな感情を否定するよりも、その根本となる情動がどこからきたのか考える。
情動の発生には生命としての目的がある。
例えばイライラすることで何を求めているのか、そこを自分自身が「わかってあげる」必要がある。

先日セミナーで学んだアドラー心理学も「目的論」である。
目的論で見ると、見え方が変わる。
自分の感情も子どもの感情も、目的を見つめてみると、原因論で考える時とは違ったものが見えるかもしれない。

2019年8月19日月曜日

合意形成の条件

千葉大附属小の公開研究会での学び。
合意形成について。

学級会のような話合いでは最終的に合意形成が必要になる。
この合意形成をどうするか、というのが公開研究会でも話題になった。

ここについて、講師の赤坂真二先生からアドバイスがあった。
合意形成が成立するための条件として、良好な人間関係がある。
これがない状況においての多数決は、逆に悪い結果を生むという。

以前にも「多数決は少数派を排除する」ということで批判的に書いたことがある。
多数決の全てがだめな訳ではなく、無思考、無配慮な多数決がだめという訳である。
多数決は一つに決めるための最終手段としては、必要な場合がある。
合意形成による意思決定のための手段の一つである。

極端な例で考えるとわかりやすい。
例えばある会議で、発言力のある人が何か意見を言う。

この職場の人間関係が悪いとする。
そうすると、その人の意見だけで全てが決まってしまう。
多数決をとっても、誰も逆らえないから、賛成に手を挙げる。
他の人の意見は黙殺される。
これは、合意形成とはいえない。
「合意強制」である。

この職場の人間関係が良いとする。
そうすると、建設的な反対の意見も出る。
発言力のある人の意見に対しても、より良い代案を示す。
その上で多数決をとって、仮に自分の意見と違うものが採用されても、納得しているので
「じゃあ、いっちょ協力しますか」ということで折り合いがつき、合意形成がなされる。

また、合意形成に必須のベーススキルとして「傾聴」があげられた。
人の話を聞かないと、話合いにならない。
当たり前のことである。
ここが抜けているまま実践していると、話合うほどより悪くなるという結果になる。

本校の校長からも、特別活動部会の共同提案者として提言があった。
何のためのクラス会議なのか。
そこを見失わないこと。
クラス会議というのは、学級会の話合い活動の中の手法の一つでしかない。
あくまで手段である。

クラス会議は、通常の学級会とは明確に違う点がある。
それは話合いを上手にするための手法ではなく、共同体感覚を育むための手段なのである。
クラス会議の目的は、話合い活動を通しての、共同体感覚の育成である。

だから、やればやるほど、人間関係が良好になるはずである。
そうならないとしたら、何かが間違ったまま進んでいる可能性がある。

合意形成は良好な人間関係から。
学校だけでなく、すべての場においていえる共通事項である。

2019年8月18日日曜日

「責任は私がとります」は本当か

「責任をとる」ということについての気付き。

「責任は私がとります。」

かっこいいセリフである。
ところで、これはどういうことを指すのか。

ネットで「責任」という意味を調べると、辞書的には次のようにある。
「人や団体が、なすべき務めとして、自身に引き受けなければならないもの。責め。」

正直これだけだと、意味がわかりづらい。

なぜこんなことを言い出したかというと、最近「危機管理」ということについて学ぶ機会が多いためである。

例えば事故に対して責任を負うとは、どういうことなのか。
あるいは学級の子どもが「何があってもぼくが責任をもちます」ということは可能なのか。

次のように考えてみる。

責任を負う=何かミスやトラブルがあって損害を出した時には、その回収と復旧を最後まで行う

こう考えると、責任がとれるものと、とれないものが出てくる。

例えば、お金に関わること。
これは支払い能力さえあれば、責任がとれる。

「責任をとって辞表」というのもあるかもしれないが、本質的にそれで被害を回収できているかどうかが全てである。
(それができないで辞めるだけなら、人一倍働いて少しずつでも返した方がいい。)

自分が起業にチャレンジして失敗しても、責任がとれるかもしれない。
それは、あくまで自分の人生だからである。
自分で選んだことで、損害を被るのも自分だけなら、完全に責任がとれる。
(社員がいる場合は、また話が別である。)

一方で、例えば、人命に関わること。
これは、「命を蘇らせる」という神業ができるなら可能である。
つまり、基本的に不可能である。

命を失う危険性のある行為に対しては、本人以外に本質的な責任はとれない。
(だから医師は、万が一の時の責任がとれない以上、手術の際には必ず本人の「同意書」をとる必要が出る訳である。)
まして、未成年は保護者がその責任を連帯しているため、子ども自身が何かしらの責任をとるのは不可能である。

さて、卑近な例で、子どもが学級においての活動に責任をとれるかということについて。
これは、失敗した時の回収行為を最後までやり切れるかということで判断できる。

大抵の場合、これは基本的に無理である。
その許可によって学級の誰かがけがをしてしまったら、けがをさせた子どもではなく、許可を出した大人の責任である。

だから、学級での行為については、結局担任が全責任を負うことになる。
その覚悟で「自由」を与えることになる。

また別の例として、子どもが「責任を自分がとります」といって「席替えを自由」にして、仮にいじめが発生したとする。
当然、子どもに責任はとれない。
担任が100%失敗回収の義務を負うことになる。
その前提の上で「OK」を出すということである。
つまり、学級集団への信頼度がすべてである。
そこが危うい状況なら、当然OKできない。

とどのつまり、自由というのは責任とセットであり、自由の連帯保証人として責任をとる人が必要な訳である。
危うい相手への連帯保証人は「御免」というのが当然である。

また「担任が責任をとる」というのも、実は本質的には難しい。
責任の追及が、大抵は管理職にまで及ぶからである。
更には、その設置者である教育委員会にまで及ぶものもある。

つまり、学級担任のところで押しとどめられるレベルのことまでしか、本当に責任をとることはできない。
そう考えると、学級担任は、意外と裁量の範囲が狭いのである。
だからこそ、裁量権のある管理職の在り方に大幅に行動を左右されることになる。

責任をとれる。
それは、自由であるということと同義である。
せめて自分の人生には責任をとれるようにしたい。

情動と感情を目的論で見る

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