2017年9月22日金曜日

共感と勘違い

「インクルーシブ教育」に関連した話。
最近、刺さった本。

『跳びはねる思考 会話のできない自閉症の僕が考えていること』
東田 直樹 著 イースト・プレス (2014/9/5)
http://www.eastpress.co.jp/shosai.php?serial=2137

著者の東田さんは、偶然にも私の元勤務校の市内に住んでいる方である。

紹介文にもある、帯から引用する。
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(引用開始)
僕は、二十二歳の自閉症者です。人と会話することができません。
僕の口から出る言葉は、奇声や雄叫び、意味のないひとりごとです。
普段しているこだわり行動や跳びはねる姿からは、僕がこんな文章を書くとは、誰にも想像できないでしょう。
(引用終了)
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もう、仰る通りである。
一時期、テレビにもかなり出ていたようなので、知っている方もいるかもしれない。
世の中の自閉症者に関する誤解を解くとともに、正しい理解や新しい視点を与えてくれる内容である。

もう刺さりまくる言葉だらけなのだが、次の言葉を紹介したい。

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共感は難しい。相手の気持ちを考えるだけでなく、そこに自分の気持ちを重ねてしまうから。
自分が主人公になった物語を創作してしまうのだと思います。
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「自分が主人公になった物語を創作」という表現が、ぐさりと刺さった。
共感の大切さは、言わずもがなである。
しかし、つい次のように言ってしまわないだろうか。
「わかるよ。○○だものね。」
ここが、結構、いや、かなり的外れなことが多いようである。

これは自閉症やその傾向にある人に対してだけではない。
あらゆる意思疎通の場面において起きる。
「わかるよ。○○だもんね。」
「あ、ああ、そうね・・・(汗)。
(いやいや、だからそれが違うんだって!!わかってよ!!)」
ということがないだろうか。
いや、かなりあるのではないか。
自分がそういう思いをしたことがあるということは、自分も誰かにそういう思いをさせている可能性がかなり高い。
空気が読めなくても別にいいのだが、相手の心が読めてないかもという自覚だけは常にあった方がよい。

共感。
言うは易く行うは難し。
それは本当に共感か、自問するようにしたい。

2017年9月20日水曜日

「捨てる」人間関係を考える

「捨てる」において、最も難しいのは、人間関係におけることである。
付き合いを捨てられないで、過剰な気遣いで苦しむ人も多い。

人間関係において、捨てると捨てないの基準は何か。
これは、自分なりでいいのだが、シンプルに設定しておく。

絶対捨てられないものをまず考える。
いの一番に挙がりそうな「家族」は、家庭によって微妙な問題を孕むので、一旦置いておく。

迷わないのは、親友である。
ここは切れない。というより、切ろうとしても切れない。
切れるようなら、その時点で親友ではない。
親友かそうでないかの見極めは、互いが「本当に困った時に助けてくれるか」である。
それがたとえどんな酷い状況であっても、である。
利益を度外視した付き合いである。
さらに、相手に強制や強要をしない。逆にべったりくっつくこともしない。
時折、高学年女子の間で交わされる「○○してくれないならもう親友じゃないからね」という言葉がいかに間違っているかである。

もう一つは、恩師。
これは、形式的な「先生」という訳ではない。
自分の人生の指針を示してくれる人物である。
ここが切れると、人生そのものがあらぬ方向に迷うことになる。

「良き師 良き友 良き書物」の2要素は最も大切な人間関係である。

これを基準に、捨ててよい人間関係の基準を考えればよい。
端的に言うなら、自分を良い方向に導かない人である。
その人が厳しくても、自分の人生のためになる人なら、それは切らない方がいい。
一方で、一見優しいようで、自分を堕落させたり、自信をなくさせたりする相手は、切った方がよい。

また何が「人生のためになる」かは、その人の基準次第である。
ぶつからないことを望む人なら、少し我慢してうまく渡っていけばいい。
嫌われてもいいという覚悟ある人なら、切るところを切っていけばいい。

職場の仲間ならば、一緒に働いている期間中は、好き嫌いは関係ない。
ビジネスなのだから、目的を完遂するために協力することが必須である。
ただ「職場が離れてからもまた会おうという人になるかな」と考えると、付き合い方は一辺倒ではない。
自分にとって魅力的な人なら、その後何十年でも会うし、そうでない人なら二度と会おうと思わない。(相手にとっての自分もそうである。)
今だけの人間関係と捉えるならば、適当なラインで切ればよい。
無理に気をつかいすぎたり媚びたりする必要はないし、無駄にぶつかる必要もない。

八方美人も四面楚歌も、どちらも疲れる。
職場のストレスの原因第一位は、ぶっちぎりで人間関係である。
↓参考「社会人のストレス原因」(enジャパンH.P. 厚生労働省調べ)
http://partners.en-japan.com/special/old/110601/2/
教師が仕事で疲れている原因の多くは、実は授業の準備や大変なあの子のせいではない。
八方美人または四面楚歌を作り出している自分自身の生き方が原因かもしれない。

2017年9月18日月曜日

敬老の日は、あっていい日

祝日ということで、特別に連日投稿。

敬老の日である。
その意義は言わずもがな。

しかし、この敬老の日に対しても、様々な意見がある。
平たく言うと
「本来、いつでも敬するべきであり、この日だけ敬って祝ってはい終わりというのはけしからん」
というものである。

なるほど、一理ある。
確かにその通りである。
しかし、私はやはり意義があると思っている。

当たり前のものというのは、気付く機会がないと有難みがわからないのである。
空気の有難みに気付くのは、汚れた空気の中で暮らす時や、水中に潜っている時ぐらいである。
例えば毎日食事を作ってくれる相手への有難みは、意外と気付けない。
日常すぎて、感謝する機会がないからである。
病気をして倒れると気付く。
つまり、有難みに気付くための一つには、不足の状況がある。

もう一つは、言われて気付くというもの。
不足する前に、失う前に気付いた方がいい。
「いつまでもあると思うな親と金」という言葉があるが、全くその通りである。
子どもが可愛い時期だってそうである。
あっという間に巣立っていく。

私は今年祖母を亡くし、自分の祖父母というものが完全にこの世からいなくなってしまった。
もっと会っておけば良かった、というのは、後の祭りである。

もし今日、「いつもありがとう」が言える相手がいるなら、それは幸せなことである。
自分の祖父母でなくても、近所の方でもいい。
何なら、心の中で思うだけでもいいと思う。
これらの理由から「敬老の日に、意義はある」と思う次第である。

共感と勘違い

「インクルーシブ教育」に関連した話。 最近、刺さった本。 『跳びはねる思考 会話のできない自閉症の僕が考えていること』 東田 直樹 著 イースト・プレス (2014/9/5) http://www.eastpress.co.jp/shosai.php?serial=21...

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