2018年11月18日日曜日

もっと学級懇談会を

学級懇談会があった。
私は、学級懇談会の回数が、本当はもっと多くあった方がいいと思っている。(実際無理だと思うが。)
その理由を示す。

いつもとはちょっと変わった例えで、学級を、株式会社だと思って考えてみる。
担任は、株を預かる経営者。
保護者が一人一株の株主。
株価の成長は、子どもの成長である。

事業全体がうまくいかないと、株も成長しない。
また結果だけを求める表面上のみの株価上昇は、後で大暴落を招く危険もある。

そうなると、経営者の責任は、かなり重い。
絶対に価値を下落させる訳にはいかない。
クリーンで透明な経営を心がけるべく、株主への経営方針の説明も必要である。

株主の方も、株価を高める努力が必要である。
預けっぱなしで後は無責任という訳にはいかない。
放っておけば、とんでもなく下落しているかもしれない。
そうなったら、後の祭りである。
事業の状況への確認と、事業改善への協力が必要である。
時に、経営方針への意見・要望も必要である。

株主同士も経営側も、互いを知っている方がいい。
集まって、話をすると、お互いを知ることができる。
知るほどに、仲間になる。
高めるための協力体制ができる。

細かく会っていれば、その都度協議も質問もできる。
問題も共有化しやすい。
解決もしやすくなる。
良い面も互いに伝えやすい。

学級懇談会は、若手の最も苦手とするところである。
年齢の問題もある。
自分より年上の人に「経営側」として方針等を話さねばならないからである。
当然、大汗をかくことになる。

それでも、先に述べた理由で、本当は数多く懇談の場があった方がよい。
慣れないから怖いという面もある。
しかし保護者は本来、株主と同様、成長への切実な願いをもった強い味方なのである。

子どもを成長させるために、担任と保護者が協力体制をとり、保護者同士もつながる。
懇談会は、そのための大切な機会である。

2018年11月16日金曜日

教員人生で一番感謝された出来事

今回は、感動の(?)実話。
前号の「時短」の話にも関連する。

私は、かつて十数年前、勤務校で「自分の存在」を絶賛されたことが一つある。
そう、「君がうちの学校にいてくれて本当に良かった」と、多くの職員に心から感謝されたのである。

一体、何をしたのか。

それは「通知表のデータ入力化」である。
それまで、手書きで全て記入していたその学校の通知表が、すべてデータ化した。

しかし、決して、私がそのデータを作った訳ではない。
私の存在が、その大きなきっかけを作ったというのである。

どういうことか。

当時、教務主任や管理職の中で、通知表の所見欄についてが話題に上がったという。
「文字が読みにくい」「人によって文字の大きさがバラバラなせいで、量もバラバラ」ということである。

「字が細かすぎるなど特徴のある字で、若干読みづらい所見もある」という、ソフトな表現で全職員に伝えられた。

確かに、字の細かい人もいた。
しかし、恐らくそこは問題の「根本・本質・原点」ではない。
内実は、その9割以上が、私の字が原因であると自負している。
(多分、周りもそう認識していたはずである。)

実際にデータ化の話が来る前に、私には、直接依頼が来た。
「松尾君。君、周りの学校の人と結構つながってるよね。通知表をパソコンでやっているとこ知らない?」
私は待ってましたとばかり
「〇〇小学校がそうです」と即答した。
「うちもデータ化しようと思ってて。じゃあ、そこの校長先生に連絡とってみる。ありがとう。」
とお礼を言われた。

そう。
直接は言われなかったが、私の字がデータ入力化の根拠になったと思われる。
経営委員会でも「これなら仕方あるまい」と誰しも納得したことだろう。

晴れて、通知表のデータ化が、先に紹介した理由の言葉とともに発表された。
多くの職員が、大喜びだった。
(達筆でPCが苦手な方にとっては、ありがたくなかったかもしれないが、時代の流れである。)

後にも先にも、あれほど同僚に感謝されたことはない。

そう、短所は、長所にもなり得る。
ありのままに生きていこうと決意を固めた、若き日の思い出深い出来事である。

2018年11月14日水曜日

時短はせせこましいことか

働き方改革。
勤務時間と過労死に焦点が当てられるが、その本質は、「働き甲斐」の問題である。
しかしながら、がむしゃらに働けばよいというものでもない。
時間の使い方、時短は重要である。

時短というと、何だかせせこましいとか、冷たいとかいう印象をもつ人もいる。
私は方々で話す際、時短、あるいは不要な業務を捨てることは必要であると断言する。

なぜか。

1日は24時間と決まっているからである。
即ち、1時間余計なことに時間を使えば、1時間大切なことをする時間が減るということである。

逆に言えば、余計なことを捨てて1時間生み出せば、その1時間を大切なことに注力できる。

授業の準備は余計なのか。
明確に必要な時間である。
しかし実際は、余計なことに時間をとられているせいで、ここが捨てられていることもある。
つまり、子どもの学力向上という最も大切な仕事が捨てられているということである。

「重要度が低くて緊急性が高いもの」に優先的に時間をとられるため、
「重要度が高くて緊急性が低いもの」は後回しにされやすいといえる。

一見時間がかかるので非効率に見えて、実は最も能率的ということもあるので、そこは混同しないことも大切である。
例えば、日記の返事や手紙を書くこと。
例えば、保護者への電話。
例えば、日々の記録。
例えば、掃除。
これらは、手間がかかるが、直接あるいは間接的に子どもの成長に還元される大切な仕事になり得る。

では、教師にとって、余計な仕事とは何か。
一言で言うならば、
「子どもの成長に還元されない仕事」
である。
直接的にだけでなく、間接的にみても、である。

一方でこれらの類の業務は、性質上「必須」であることも多い。
例えば、一点の曇りなく正確に記された指導要録や出席簿は、子どもの成長に一切つながらないが、公簿として必須の業務である。
これらにとって大切なことは、形が整って最低限ができていることである。
(この記事をメルマガ上で書いた時から時間が経ち、働き方改革の一環で指導要録の在り方が変わる動きが出てきている。
通知表の写し等に変わる可能性が出てきたことは、歓迎すべきことである。)

また各種調査に対する報告書は、上司の命令によるものであり、業務としては必須である。
やらない訳にはいかない。
ここは時短の工夫が必須である。

何を余計とするかは価値観次第だが、基準を子どもの成長に置く。
するとすごく上の立場からして大切な書類なのかもしれないが、少なくとも現場の教師にとっては重要ではないものが多々ある。
(前から続いているからやっているだけで、現担当者も単にやめられなくなっているだけのものが膨大にあると思う。)

事務的な業務が余計というのは共感してもらいやすいが、子どもに関するものでも余計なものはいくらでもある。
例えば、ドリル等の〇つけ。
ここに「命の時間」を30分費やすぐらいなら、その時間で授業の準備等をした方がよい。

〇つけ自体は、子ども自身でもできる。
一斉にやることもできる。
(単に今日の学習の到達度を知りたい、あるいは子どもの誤った〇つけが気になるなら、〇つけをさせた後に回収すればよい。)

ワークテストは、評価用という面が多分にあるので、こちらが〇つけをする意味がある。
しかし、ドリルの本質的な役割は、子どもが繰り返し行うことで学力を鍛えるという面である。
自分で「ドリル」として繰り返し行えるようにするためには、自分で〇つけをする能力を鍛える必要がある。
自分で解答と照合して正誤の判断をできることは、中学までに身に付けるべき学習能力として必須である。
(これができない状態を「ピヨピヨちゃん」と呼ぶ。親が餌を与えるのをひたすら待つだけの雛鳥の姿である。)

要は、余計なことに「命の時間」をとられないこと。
師の野口芳宏先生の言葉を借りるなら、その業務のもつ
「根本・本質・原点」
を見極めること。

そして、教師の働き方改革における時短の根本・本質・原点は、
「大切なことへ力を注ぐため」である。
決して、楽をするためではない。

時短を否定しない。
いのちとは、即ち時間のことである。
時間は、すべての中で最も価値のある命の資産である。

もっと学級懇談会を

学級懇談会があった。 私は、学級懇談会の回数が、本当はもっと多くあった方がいいと思っている。(実際無理だと思うが。) その理由を示す。 いつもとはちょっと変わった例えで、学級を、株式会社だと思って考えてみる。 担任は、株を預かる経営者。 保護者が一人一株の株主。 株...

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