多様性の尊重について。
「多様性を認めよう」という声は、もはや世間に浸透しきり、当たり前、常識と化してきた。
ただしそれが実際に当たり前に行われているということとはまた別である。
「いじめをなくそう」「差別はいけない」といったスローガンが浸透しているのと同じである。
ただ世の中で賛成する声が多い考えになったというのがポイントである。
以前にも書いたが、これがどうしても矛盾を生む。
「多様性を認めよう」を全てに適用する場合、「多様性なぞ認めない」というような人の「多様な」意見も認めるしかない。
しかし、それを認めれば「多様性を認めよう」という正義に反する。
必ず自己矛盾に陥るのである。
全ての「○○しよう」は、正義の主張である。
つまり、○○に反する△△は、排除の対象となる。
△△派からすれば、○○も正義に反する意見である。
正義の主張は、必ず対立を生むという構造上の宿命を背負っているといえる。
「多様性を認めよう」は、一つの正義の主張である。
即ち、確実に対立を生む。
教える内容がある程度決まっている学校教育においては、特にこれが難しい。
多様性を認めるとは、例えば使用言語もバラバラでいいということだろうか。
これでは、会話自体が成立せず、カリキュラムが決まっている内容の教育は、ほぼ不可能である。
多様性を認めるとは、学校に来なくても、あるいは勉強をしなくてもいいということだろうか。
教師の言うことを全く聞かないことすらも「多様性の尊重」になる。
それでは、一切の教育が成り立たない。
多様性を認めるとは、何をしてもいいということだろうか。
それは、ルールを一切守らないことすらも認めざるを得なくなる。
そうなれば、社会としての崩壊状態である。
つまり「多様性を認める」は、全ての思想や行動を認めるという意味で受け取ると、不都合だらけになる。
また、多様性の尊重は、自由という概念と深く結びついている。
自由であるということは、自らの他によらないことであり、個々がその行動の結果責任をとる状態である。
つまり、何が起きても自分の選択の結果であり、他がどうであっても干渉しないということである。
(ここで、自分を攻撃してくる相手への抵抗をすると、またしても矛盾を生む。)
例えば、食べ物を粗末に扱う自由があってよいのか。
学校の授業中、好き勝手に寝ている自由があってよいのか。
自分がそうしたければ、他人を攻撃する自由があってよいのか。
自由や多様性の尊重を称賛する際、こういった負の面も大いに考える必要がある。
例えば、人の言うことや命令をよくきくというのは、本当に悪いことなのか。
会社のために尽くして働くというのは、本当に個人を尊重していない良くないことなのか。
何もすべきことが決まっておらず、全てが個人の自由な選択でいいというのは、本当に素晴らしいことなのか。
全面的にそうだということが難しいことだらけである。
そこで、多様性の尊重を、全ての考えに賛同することではなく、多様な存在自体を認めることとして考えてみる。
多様な存在があることを認める。
自分という存在にとって不都合、賛成できないものであっても、存在としては認める。
自然界自体、そうやって成り立っている。
そういう取り決めになったと考える。
もともと、それを認めないという取り決め(理不尽な差別)が常識だったのが、変わったと考える。
「多数派」「みんなと同じ」が絶対の正義ではないという考え方である。
そうすると、学校教育のあれこれについても、矛盾が解消できる。
何をしてもいいということと、そこに存在しているのを認められていることは、イコールではない。
あくまで、存在自体の承認である。
そう考えれば、多様性の尊重自体は、前向きに捉えられる概念となる。
多様性を認めるとは、教育の前提を引っくり返していいということではない。
あくまで多様な存在の一つとして認めるということである。
教育の前提としてやるべきことをしなくてよいという概念では決してない。
言葉は強力である。
だからこそ、言葉への単なるイメージに振り回されないようにしたい。
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