2011年11月30日水曜日

なぜあなたは教師になったのか?

読者の方から、メルマガに書いた「塾と学校の違い」の回についてのご意見をいただいた。
以下、引用する。

>さて、「塾と学校の違い」についてですが、私もまったく同感です。
>うちの若手に「なぜあなたは教師になったのか?」と問うてみたことがあります。

>彼女は子供に勉強を教えたいからだと答えました。特に高学年で社会科を教えたいと。

>それはそれで教師になった理由の一つかもしれませんが、私は物足りなさを感じました。

まさにその通り。
勉強を教えたいだけなら、塾講師になった方がよい。
そこに特化した仕事ができる。

仕事とは、自分の価値の提供である。
言うなれば、貴重な時間の切り売りである。
自分にしかできないことをした方がいい。
自分がワクワクすることをした方がいい。

なぜ自分は教師になったのか?
教師人生に慣れてきてしまった人ほど、もう一度振り返るべき問いである。
(次号に続く)

2011年11月29日火曜日

任せて任せず

仕事を振るというのは、その人を信用しているということである。
傲慢で「自分以外は無能だ」「自分がやらなきゃ」と思っている人は、他人に仕事を振れない。
つまり、自分で全部やる人は、見方を変えると、他人を信用していないのである。
一教諭の身でありながら全部自分で責任を負うと考えるのは、傲慢でありナルシストであるともいえる。

病気でも学校を休まない人にも、これは当てはまる。
「自分がいないと、クラスが・・・」と思っている。
大丈夫。
地球がちゃんと回るように、自分がいなくても、学校の仕事が回らなくなることはない。
ちょっと寂しいことだが、それが「組織」の強さである。

さて、仕事を振った後は、責任が生ずる。
仕事を振られた方も責任を感じ、懸命に取り組む。
この時大切なのが「任せて任せず」ということである。
(ちなみに松下幸之助氏の言である。)
信用して仕事をふった以上、あれこれ細かい口出しはしない。
ただし、進捗状況については定期的に報告を受け、誤りがありそうな場合は正していく。
つまり、やり方は任せるが、結果の責任は連帯して負うということである。

そして、責任はとるが、成果はとらない。
成果は、仕事を振られて成し遂げた人のものである。
間違っても「自分が教えてうまくやれた」などと言ってはならない。
あくまで、周りの成長を促す。

仕事を振ることで、自分の時間にも余裕が生まれ、自分自身の成長(勉強)に時間が使える。
自分自身もレベルアップできる。

責任をとらないなら、仕事を振ってはいけない。
それは無責任である。それなら、自分でやるべきだ。
仕事を振るなら、責任をとり、かつ任せること。
これがポイントである。

2011年11月28日月曜日

自分の価値を認めるために

前号で、「組織」の強さについて書いた。
自分一人がいなくても、何とかなってしまうのである。

そういう組織の中で、いかに自分の価値を高めるかに全力を注ぐ。
学校のために、子ども達のためにできることを、本当に考える。
そう考えると、休日に仕事をするよりも、大切なことがあるはずである。

子ども達も大切だが、自分も大切にして欲しい。
自分を愛せない人間は、他人を愛することはできない。
自分を愛するというのは、ナルシストとは違う。
自分の価値を自分で認めることである。

自分の価値を認めるには、社会のために役立つことをする。
自分を社会に役立てるために、自分自身をレベルアップする。
これは、気持ちに余裕がないとできない。
余裕を生むのが、余暇である。

休日は、思い切ってやりたいことをやってはいかが。

2011年11月27日日曜日

仕事を振る

次の部分について。
>休日返上でやるしかないのが自分の現状です。

こういう悩みを抱えている方、特に若い先生に多いのではないかと思う。
そこで一つ聞きたいのが、周りの人は、どうかということである。
みんなが休日返上してやっているのか。
よく見ると、休日は自分や家族の時間として確保している人はいないか。
もしいるとしたら、なぜそうできるのか。

その答えの一つに、「仕事を人に振っている」ということが挙げられる。
「仕事を振る」というと、何だか人任せで無責任だと思う人もいるかもしれない。

そうではない。
「仕事を振る」というのは、責任のある人の持つ能力の一つなのである。
特に人の上に立つ人間には絶対必要になる。
アインシュタインやイチローのような孤高の天才ならともかく、我々は凡人であり、組織で仕事をしているからである。

自分にできることは、限られている。
だから、自分でやるべき部分には全力を尽くす。
逆に、そうでない部分は、人に任せる。
人に任せるべき部分まで自分でやってしまうと、組織全体の損益になる。

若い人に任せられがちで多忙な校務分掌の代表格、「体育主任」を例に考える。
体育的行事は、校内に山ほどある。
熱心な人は、全部自分の責任だと思い、全て自分でがんばる。
若い内はそれでも良い。
しかし、体育主任経験が3年以上にもなってそれでは、問題である。
次の人が育たない。
つまり、自分が異動した後、今の学校がどうなるかという視点がない。
自分で全部やってしまう人は、実は視点を変えると、無責任とも言える。
(中学の熱心な部活動指導者にも当てはまる。
ワンマンでやってきた場合、異動した後受け持つ人が大変苦しむことがある。
子どもだけでなく、保護者からクレームが来ることもあるという。
練習メニューの文書でも何でもいいから、指導方法を引き継いでから異動してほしい。)

仕事を割り振って様々な人に分担しておけば、みんなが仕事を覚える。
自分がいなくても大丈夫な状態になり、かつ他の職員がレベルアップする。
空いた時間で、自分自身を更にレベルアップする。
だから、学校のことと自分のことを、本当に考えるなら、仕事は自分だけで抱えてはダメなのである。

そもそも、学校の子どもは、自分のものではない。
保護者の子どもであり、学校の子どもであり、地域の子どもであり、日本の子どもである。
職員みんなで分担すればよい。
色んな先生に関わる方が、子どもも幸せである。

仕事を上手に振れること、頼めることは、大切な仕事能力の一つである。
(次号に続く)

2011年11月25日金曜日

重要度と緊急度で仕事をとらえる

次の部分について。
>どの学校も同じだと思いますが、じっくりと計画を考える時間など全くないと思います。もしやるなら、休日返上でやるしかないのが自分の現状です。
>しかし、それを続けると疲れやストレスが溜まり、モチベーションが上がりません。

この見方を、視点を変えてみる必要がある。

ここに書かれた時間を分けて列挙してみる。
「平日の通常勤務の時間」「計画を考える時間」「休日に仕事する時間」
どれが、最も大切な時間か。
(以前、「やらないことを選ぶ」という題で書いたが、再度考える。)

それを考えるには、マトリクス図がわかりやすい。
縦軸と横軸で区切った、十字の図を想像してもらいたい。
縦軸は「重要度」で横軸は「緊急性」。
そうすると4つの領域ができる。
1(右上)重要かつ緊急
2(左上)重要だが緊急ではない
3(右下)重要でないが、緊急
4(左下)重要でなく、緊急でもない

1の時間は「いじめ問題への対処」など生徒指導関係に使う時間や「来週提案する運動会の全体計画」等の計画作成時間を始め、職務上最優先で取り組むべきこと。
2の時間は「学習会への参加」や「専門教科の研究」など、レベルアップに関わる時間や、スケジュール管理など。
3の時間は、いわゆる雑務の処理。
4の時間は、どうでもいい時間。しなくても何ら今後に影響がない時間である。

どの時間がどれに当てはまるかは、その人の捉え方による。
授業の準備を1と考える人もいれば、2とも3とも4とも考える人もいる。
(私は基本、2のスタンスである。大抵は何とかなるが、きちんと準備した方が断然良い授業ができる。)
同僚とのおしゃべりを、2とみるか4とみるかも、人間関係と場合によりけりである。(少なくとも、緊急性はあるまい。)

さて、「多忙解消」に役立つのはどの時間か。
ずばり、2の「重要だが緊急でない」時間である。
この時間は、最優先で先取りしないと、確保できない。
後から入れることはできない。
1や3に浸食される。(1や3は、あるだけの時間を全てくってしまう。)
絶対先取り、である。
スケジュールに最優先で入れる。

2の時間は、簡単に言うと「能率アップ計画」の時間である。
やり方を改善するための改造時間である。
対処の時間ではなく、予防の時間である。
試合の時間ではなく、トレーニングの時間である。

だから忙しくても、有益だと思われる勉強会には、休日返上で行く。
お金がなくても、良い本だと思ったら、どんどん買う。そして読む。

そうすると、今までやっていた方法の無駄が見えてくることがある。
逆に、時間ができるという現象が起こる。

精神論にきこえるかもしれないが、一つの真実である。

忙しい時こそ、勉強しよう。
(次号に続く)

2011年11月24日木曜日

残業は一時的な修行

次のような質問が来た。
以下、引用する。

>学校の行事が多すぎて、スケジュールがうまく管理できません。いつもギリギリになって苦しんだり、なんとかその場を乗り切る程度になってしまいます。

>どの学校も同じだと思いますが、じっくりと計画を考える時間など全くないと思います。もしやるなら、休日返上でやるしかないのが自分の現状です。

>しかし、それを続けると疲れやストレスが溜まり、モチベーションが上がりません。

>うまくスケジュールを管理するためには、重要なポイントを見抜いて要領よく進めることが必要だと感じますが、全くといっていいほどそれが出来ていません。経験も少ないので当たり前ですが…

>このまま慌てながら日々をこなすだけでは、いつまでも今のままのような気がしてしまいます。

>指導するポイントを見抜き、スケジュールを管理するにはどうしたらよいでしょうか。」

このような悩みを持つ方は、多いのではないかと思う。
実に、たくさんのポイントが詰まっている質問である。
一回では答えきれないので、数回に分けて回答する。

要約すると「多忙」=「時間がない」=「抜け出したい」ということだろう。

どうにかなること、ならないことに分けて考える。

学校行事の多さは、今すぐにはどうにもしがたい。
年度末に行われる教育課程編成の際に意見して、少しずつ減らすことが必要だろう。

しかし、質問者が困っているのは、今である。
今の時間をどうにかしたい。

これには、自分を変えていくしかない。
(他人は変えられない、自分は変えられる、という原則)

多忙を抜け出す方法その1は、「自分のレベルアップ」である。
具体的には、自分の中の「普通レベル」を上げる。
多忙解消に対して逆説的だが、苦しい思いをした分だけ、次からは楽になる。
例えば、「今から1時間走ろう」と言われたら、大抵の人は尻込みするが、フルマラソン経験者には「短距離」である。
毎日夜11時まで仕事をした経験がある人なら、9時までの残業は「楽勝」「早帰り」になる。
残業は絶対に減らしていくべきだが、一時的な「修行」と捉えた場合、意味がある。
そしてこれは、若い内に経験した方がよい。
やがて家庭を持ったりすると、修行したくても不可能になるからである。

したがって質問者が抱く「いつまでも今のまま」というのは、無用な心配である。
大丈夫、確実に成長している。
少なくとも、そういう危惧を抱く人なら、大丈夫である。
その努力に無駄はない。

しかしながら、「今すぐ抜け出したい」という思いも大切である。

(次号に続く)

2011年11月23日水曜日

「何を言うか」より「誰が言うか」

以前このブログで「早寝・早起き・朝ご飯は、どこから手をつけるべきか」ということを書いた。
(「体内時計をリセットする」というタイトルで、5月頃に書いた。)

ちょうど、野口芳宏氏の講演で、同じ問いが出された。
「近くの人と、話し合ってみてください」
そう言われたので、一緒に出席していた同僚に、「早起きが最初」ということを理由をつけて説明した。
同僚は、「朝ご飯」だと主張していた。

その後野口氏が「考えが変わった人?」ときくと、変わった人はほとんどいなかった。
同僚も、もちろん変わらなかった。

しかし、その後、野口氏が私と全く同じ理由で「早起き」であると説明をした。
同僚は「なるほど」と納得し、考えを変えた。
(ちょっと自分としては残念な気もするが、相手が野口氏では仕方ないかと私も納得した。)

同じことを言っても、誰が言ったかで効果は変わる。
結局、ノウハウよりも、人間性が大切だと言える。

技術を磨くことも大切だが、人間性を高めることはもっと大切である。

2011年11月22日火曜日

学校で学ぶ意味は

能力の違う者同士が、同じ教室に集まって学ぶ。
その意義は何か。

極端なことを言うと、「技能」を向上させることだけが目的なら、エリート集団の中で一人で努力する方がよい。
できるもの同士が集まって、しのぎを削って相手より上になることを目指せば、自ずと技能は向上する。
大学受験の模試などは、この心理を有効に利用しているといえる。

進学塾なら、最も求められるものは「テストの点の向上」であり「合格率」という実績である。
保護者が塾に大枚をはたいているのは、そこを求めているからだろう。
「うちの塾は合格実績は求めません」という進学塾が流行るとは思えない。(それは別の目的の塾である。)
だから塾は、「個別指導」と「能力別クラス」が主流である。

しかし、学校教育は「技能」向上のみを目指すものではない。
心の面の成長が欠かせない。
そこに「学校」と「塾」の境目があるように思う。
能力の差異はあれど、理解しているものが未熟なものに教える。(寺子屋はまさにこれである。)
役に立つ自分を実感し、助けてもらえることに感謝する。
時に異なる意見をぶつけ合って、そういう考え方もあるのかと謙虚に学ぶ。
そういう、心の面での成長、他人を思い遣るという面の成長があることが、教室で学ぶ意義ではないかと考える。

2011年11月21日月曜日

やらせたいことは「やっちゃダメ」で

メルマガの日刊をやめて発見したことを。

人間は「やらないといけない」と思うと、やりたくなくなる。
逆に「やらなくてもいいよ」と言われると、やりたくなる。
「やっちゃダメ」は、もうやりたくてたまらなくなる。

子どもが勉強を嫌いになる心理も、いたずらを積極的にする心理も、これに当てはまる。

だから、何かに興味を持たせたり、ルールを守らせたり、がんばらせたりしたいなら、ここの心理を利用する。

例えば、「教科書は見ちゃダメ」と言えば、見たくなる。
だからあえて見せずに話を進め、ここぞという場面で開かせれば、目を皿にして教科書を読む。
(道徳の教材を読む時などにもよく使う手法である。)

例えば「廊下を走っていいことにしない?」と提案すれば、ダメな理由を真剣に考えはじめる。

例えば「ぼちぼちでいいんじゃない?」と言った方が、より継続的に努力するようになることもある。
「毎日漢字を○個書け」よりも「覚えるまで書けばいい」といった方が、逆にたくさん書くことになる。
「覚えた字は、時間の無駄になるからもう書いちゃダメ!」と言ってもいい。
(もっというと「漢字テストで満点」という明確な目標に向かった方が、勝手に努力をする。)

何でもゆるく縛るぐらいが、一番自由を感じるのかもしれない。

2011年11月20日日曜日

学校で学ぶ意味は

能力の違う者同士が、同じ教室に集まって学ぶ。
その意義は何か。

極端なことを言うと、「技能」を向上させることだけが目的なら、エリート集団の中で一人で努力する方がよい。
できるもの同士が集まって、しのぎを削って相手より上になることを目指せば、自ずと技能は向上する。
大学受験の模試などは、この心理を有効に利用しているといえる。

進学塾なら、最も求められるものは「テストの点の向上」であり「合格率」という実績である。
保護者が塾に大枚をはたいているのは、そこを求めているからだろう。
「うちの塾は合格実績は求めません」という進学塾が流行るとは思えない。(それは別の目的の塾である。)
だから塾は、「個別指導」と「能力別クラス」が主流である。

しかし、学校教育は「技能」向上のみを目指すものではない。
心の面の成長が欠かせない。
そこに「学校」と「塾」の境目があるように思う。
能力の差異はあれど、理解しているものが未熟なものに教える。(寺子屋はまさにこれである。)
役に立つ自分を実感し、助けてもらえることに感謝する。
時に異なる意見をぶつけ合って、そういう考え方もあるのかと謙虚に学ぶ。
そういう、心の面での成長、他人を思い遣るという面の成長があることが、教室で学ぶ意義ではないかと考える。

2011年11月17日木曜日

算数の授業を考える

前号の続き。
算数の授業を例に考える。

大抵の学級で力を入れるのは「全員がわかるようにする」ことである。
落ちこぼれを作らないことである。

逆に、能力が飛び抜けて高い者は、学級によってはむしろ厄介者扱いになることすらある。
解くのが速すぎて、課題が追いつかない状態になったりする。
その子どもを満足させられる問題を、その子用に提示してあげる必要が出る。
こちらの労力も大きい。

一方、理解度最下層の子どもを、平均まで引き上げるのも困難を極める。
平均的に1の労力でわかることに対し、10やっても効果がほとんどないということも多い。

そして上と下にばかりかまけて、中ぐらいレベルの理解度の子どもが、一番ほっぽられがちになる。
しかし前号でも書いたが、中間層は絶対落としてはならない。
普通に教材研究すれば、中間層に対応した授業はできる。
やはり工夫すべきは、上位、下位の理解レベルの子どもである。

上位レベルの子どもには、発展問題を用意しておく。
オススメは、明治図書から出ている「教室熱中!難問1問選択システム」シリーズ(各学年)である。
初任の頃からずっとお世話になっている。
自分で難問を考えるのは結構大変だが、これ1冊あればかなり対応できる。

理解度下位レベルの子どもには、前にも言ったが個別指導。
ティームティーチングを組める幸運な環境ならば、状況を伝えておいて、一人に任せる。
(二人でかかると、子ども自身が嫌がるので避ける。)
そうでない一般的な環境なら、短くヒントを出してさっと個別指導。
じっくりくっついてやっても、頼るばかりで結局力はつかない。
ヒントを見て、周りの仲間を見て、正解を見て、自分自身で理解を深めていくしかない。

結局、特効薬はない。
やるべきことを、決めてきちっとやる。
後は、ある程度からは本人に任せる気持ちも大切である。

日々、研鑽あるのみ。

2011年11月15日火曜日

長所を伸ばすか短所を克服させるか

教育をする上の方向性として、長所を伸ばすか短所を克服させるかという選択がある。

世間一般では「長所を伸ばしなさい」と言う。
その割には「学力低下」=「学力検査の平均点の低下」が問題視されるので、学校では短所の克服に力を入れざるを得ない。
平均点を上げるには、90点以上をとれる子どもではなく、それ以外の子どもをいかに引き上げるかにかかっているからである。

つまり、建前上は長所を伸ばす教育が求められているが、実際は短所克服になっている。

本来、学校教育としてどうあるべきなのか。

完全に持論だが、学校教育の役割からして、中間層をきちんと見るのが基本だと考える。
上位の子どもは、誰が教えてもそれなりに力をつける。
下位の子どもは、誰が教えてもそうすぐには力がつかない。個別指導が絶対に必要になる。
しかし中間層は、一番層が厚く、指導した分の結果が出やすい。
中間層をおとしてしまったら、完全に失敗である。
これが直接、「平均が落ちる」という結果につながる。

大多数である「中間層」に力を注ぎつつ、上位、下位の子どもを捨てない指導をどうするか。
次号、算数を例に考える。

2011年11月14日月曜日

評価の効能

宿題を見るのは大変である。
何でわざわざ大変なことをするのか。
子どもは、何のために宿題を先生に提出しているのか。

「チェック」するとなると、嫌な感じがする。
これは、「認めてもらうため」である。

ある工場での実験で、やったことを評価した場合とそうでない場合だと、作業能率が倍に上がったという結果がある。
見られている意識が、作業の効果を高めるらしい。

こちらにもそういう意識が大切だし、子どもにも「がんばりを見たい」と伝えた方が、よいかもしれない。

2011年11月13日日曜日

良い学級の指標

良い学級とは何か。
たくさんの要素があるので、一言では難しい。
ただ「担任がいない時の状態」が、一つの指標に挙げられると思う。

担任がいる時だけきちんとしている→物事が表面的。上滑りしている。普段の指導が厳しすぎる。
担任がいる時にもやるべきことをやれない→単に統率力不足。やるべきラインを守れていない。
担任がいない時にやるべきことをやれる→物事の善悪の判断ができる。(何が最善か考えて行動できる。)

例えば、自習の時間である。
例えば、専科の先生の授業の時間である。
担任の手を離れている時こそ、学級の本性が出る。
隠しカメラで見る訳にはいかないので、他の先生に聞いてみる。
自分の学級の問題点が、見えてくるかもしれない。

2011年11月11日金曜日

良い授業参観とは

授業参観での授業は、普段の授業と明かにねらいが異なる。
普段なら子どもに力がつけばそれで良いが、授業参観はある種「パフォーマンス」が必要になる。

何を見に来ているか。
第一に自分の子どもの成長。
第二に学級の様子。(掲示物や子どもの作品も含む。)
三、四がなくて、五に教師、といった具合かと思われる。
(あくまで、個人的な意見であるが。)

これらのニーズに対応した授業を組めばよい。

具体的には、次の三つである。
1 全員が一回以上発言(活躍)している
2 子どもに力がついたことが目に見える
3 親も一緒に参加できる(または、親にとっても発見や驚きがある)

全部満たしていれば最高だが、一つでも満たしていれば合格点ではないかと思う。
自分なりに評価基準を持っていると、授業も考えやすい。
参考にしていただければ幸いである。

2011年11月10日木曜日

基本をおさえる

授業研究会で、講師の先生が次のように言っていた。
「若い先生方の授業を見ると、基本的なことができていないことが多い。
校内でも教えてあげる機会を。」

その通りである。
知らないことは意識しないし、できない。

体育などは、かなり色々な「基本」がある。
「話す時は体育座りをさせる」
「教師は太陽を背にしない」
「子ども全員が見える位置に立つ」
等々、書き切れないほどある。

問題なのは、教えてもらう機会がないことである。
親切にそういう研修をしてくれる学校ならいいが、意外とそういう機会はない。
先輩の先生が見つけて、注意してくれるのを待つばかりである。
心配な人は、自分から率先して授業を見せて、教えを請えばよい。

何か、基本を学ぶというような機会を、どこかで持つ必要がある。

2011年11月9日水曜日

自分でやってみる

ここ数日、研修会等で数名の先生が同じようなことを言っていたのに気付いた。
「教師自身が体験せよ」というものである。

図工では、教師自身が作品を作ることが、指導のスタートになる。
算数では、教師自身が子ども用のノートをまず作って指導のつまづきが見える。
体育では、教師自身がその運動をやってみるとことで、難しさが分かる。

体育を例に挙げると、子どもがソフトボールを投げられない時。
どうするか。
そもそも、教師自身は遠くに投げられるのかを考える。
すると、意外に投げ方を知らないことに気付く。
何となくやっている部分がかなりある。
球の持ち方や、指のひっかける位置(ボールの縫い目)に始まり、足のつま先まで、ポイントが無数にある。
その中で、子どもに伝えられそうなポイントに絞り、指導する。

自分でやってみると、指導方法の解決の糸口が見つかる。
時間はかかるが「急がば回れ」は真実のようである。

2011年11月8日火曜日

「楽しいね!」の心理効果

授業を楽しくする小技がある。

「楽しいね!」
と、教師が言ってしまう。
これだけである。

算数やってて、問題一つ解いて「楽しいでしょ!!?」
ドリルの問題やる前に「できるかな?楽しみだね!」

要するに同調心理を使っているだけだが、意外な程に効果がある。
特に、クラスにノリのいい子が一人でもいると「楽しーい!」と返ってくるので、益々効果が高まる。
「これって、楽しいのかも。」
全然楽しくないものでも、何だか楽しい気がしてくることがあるのが不思議である。

いくらでも応用がきく。

ちなみに給食なら
「これ、おいしいね!」になる。

ポイントが一つだけある。
教師自身が楽しいと思うことである。
勘違いでも何でもいいので、そんな気になって言うのがポイントである。

無意識に使っている人も多い。
お試しあれ。

2011年11月7日月曜日

周りの学級まで考える

図工展があり、審査員の先生が言っていたことが心に残った。

「学校間より同一校のクラス間の差が気になりました。
指導方法や技術なども学年でもっと話し合って下さい。
ベテランの先生が若い先生に教えてあげて。
若い先生はもっと積極的に聞いて学んで。」

他の審査員の先生も、別の場で、ある学校の同一学年の作品を比較して、次のように言っていた。
「この2つの学級の作品を並べた時、隣のクラスが羨ましいなあと思われないかな?」
「保護者が参観した時、どう思うかな?」

どの教科でもそうだが、自分の学級だけが良ければいいというものではない。
(慣れない最初の頃は、自分の学級だけでも手いっぱいであるが。)
得意分野があるなら、それを活用して隣のクラスもよくしよう、学年をよくしようという意識が必要ということだろう。
(お節介にならない程度に。)
やがてレベルが上がれば、それが学校全体に、地域の学校に、他県に全国にと広がっていくのだと思う。

周りの学級までも考えて動けるようになったら、きっと一人前である。
精進したい。

2011年11月6日日曜日

怒りの根本・根源は

最近発見したことを。

腹が立つことがある。
子どもが言うことをきかないとかだらしないとか云々。

根本を突き詰めてみると、自分自身への怒りである。

言うことをきかない時やだらしなさを改善できない時は、言うことをきかせられない自分に対していらついている。
勉強ができない時は、わかるようにさせられない自分に対しての自己防衛的な怒りである。

子どもに対していらついたら、少し立ち止まって根本・根源を考えてみる必要がある。

2011年11月5日土曜日

お母さんの電話の声で

朝、日直のスピーチをさせる。
声が小さい。
「もっと大きな声で」と言っても、ますます小さい。

どうするか。

石川県の山本正美先生の実践。
山本先生は、「見える化」というものを提唱して本も出している。

次のような実践を紹介された。
(ご本人は、有名な実践で、オリジナルではないとおっしゃっていた。)
「お母さんが電話に出る時の声で!」
どんなにガミガミと子どもを叱っている最中でも、電話に出れば、お母さんはたちまち高いご機嫌な声になる。
それを真似しなさいと。
つまり、私用と公共の声は分けろということである。
人様に聞かせる声は、いつもと同じではいけないのである。

他にも「あいさつは店員さんになって」とか、色々ある。

声の出し方も具体的に「見える化」すると良いという実践を紹介した。

2011年11月4日金曜日

学級形成の原点

教育の原点を考えるといった、ものすごく濃い内容の勉強会に参加してきた。
自分自身の復習にもなるので、ほんの一部になるがシェアしていく。

学級において、教師と子どもはどういう関係が好ましいのか。
講師の一人、山中伸之先生は次のように述べられていた。

「愛され恐れられよ」

マキャベリの「君主論」の一節
「君主は愛されるより恐れられよ。しかし憎まれてはいけない。」
を引用しての言葉である。

先生のことが好きで、また教わりたいと思わせるのだけど、間違った行動をとると大変厳しいとも思われている。
そう思わせるような、近すぎず離れすぎずの適切な距離感とバランスのとれた関係が好ましい。

これを目指すにあたり、自分のタイプの見極めも大切である。
元々厳しい雰囲気を持った人は、つとめて楽しい実践を追い求める。
逆に柔らかな雰囲気を持った人は、ルールを決めたらもう退かないで、粘り強くやる。

目指す学級のヒントになるのではないかと思い、まず紹介した。

2011年11月3日木曜日

子どもが動かないクラスと考える力

考える力はつけたい。
本当に必要な考える力とは何なのか。
テストは、考える力の中のごく一面は見られる。
しかし、本当に社会に必要とされている考える力は、テストで見られるものとは違う気がする。

国語だから、算数だからではなく、普段から考える力を鍛える。
生活の中で鍛える。

例えば朝、窓も開けずに電気もつけずに、ただ座って待っている子ども達のいる学級があるとする。
その学級では担任が電気をつけ、窓を開けることとなる。
または、やるよう言い渡す。

こんな場面は、無限にある。
あいさつ、掃除、授業の始まりの着席、給食準備に廊下の歩き方まで、限りなくある。

何が良いか考えて生活している者と、周りに同調してロボットのように動いている者(物といっても良い)、自分勝手にふるまう者の3タイプいる。

有田和正氏が著書の中で「研究授業を見る時、授業前の子どもの動きで、授業のレベルも推し量れる」というようなことを書いていた。
ダメなクラスは、全部教師が子どものお世話をしているのである。
教師が何か準備をしようとしたら、すぐに手伝いに駆けつけるような心と頭が欲しい。
そういうささいな積み重ねが、考える力につながると思う。

テストの結果も大切だが、それ以上に普段の考える力を鍛える方が、より大切だと考える。

2011年11月2日水曜日

光の速さで電話に出よう

今日の話は、若い先生向けに。
当たり前過ぎるビジネスマナーについて。

「光の速さで電話に出よう」
ただこれだけである。

職員室には、大抵の場合、事務職員がいる。
一括して窓口になって電話を受けてくれている。
教員は教室にいるので、電話を受けようにも受けられないからである。
だから、就職したての頃から、電話に出ないのが慣れっこになっている。

しかし、これは一般の常識ではあり得ない。
一般企業なら、若手が電話に出るのが当たり前である。
先輩に取られたら、怒鳴られて叱り飛ばされる厳しい世界である。
または陰で「使えない奴」の烙印を押されてしまう世界である。

職員室で仕事をする時は、積極的に電話に出た方がいい。
ある意味ゲーム感覚で、勝負だと思ってやる。
同期及び同年代の先生に電話をとられたら、「負け」。(とれば、「勝ち」。)
年配の先生にとられたら、「惨敗」。(その場にいた若輩者全員。)
反射神経においても、年配の先生に負けたことになる。
情けないことである。

ちなみに3コールさせてしまったら、職員室の全員が「負け」である。
職員室全体がたるんでいる疑いがある。
事務職員の方や管理職に頼りすぎなのである。
反省した方がいい。

たかが電話の一つ、まともに出られるようにしたい。

2011年11月1日火曜日

ペンギンは空を飛べない

前回の話の続きにあたる話を。
無駄なコンプレックスについてである。

憧れる先生を持つことは大切である。
ライバルを持つことも大切である。

しかしながら間違えてはならないのは、「相手と自分は違う」ということである。

ともすると、○○先生と比べて自分は何でダメなんだろうと思いがちである。

例えば、私はよく、誰にでも人当たりがよくて、子どもに何でも話してもらえるような先生を羨ましく思う。
(女の先生に多い気がする。)

音楽のオーケストラを指導したことがあるなどという話をきくと、恐れ入ってしまう。

書家としても活躍中の先生などになると、逆にもう自分には無理すぎて諦めがつく。

よくよく考えてみると、どれも自分には無理な分野である。

「何だって努力すればできる!」という前向きな考え方は否定しないが、適性がある。

やはりどんなに頑張っても、ペンギンは空を飛べない。
走るトレーニングをしても、ダチョウみたいには速くならない。
でも、泳がせたら、努力しないでも鳥類の中でナンバーワンである。
かわいさや人気だって、相当上位に来る。
速さを競うなら、空や陸より、断然水の中で勝負した方がよい。
陸で競うなら、速さよりかわいさで勝負した方がよい。

ないものはない。
しかし、他人が羨むものが自分にも必ずある。
自分の能力を使うフィールドを間違えないことである。

今自分ができることに全力を尽くし、無駄なコンプレックスは感じないようにしたい。
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