2022年6月25日土曜日

「悪い態度」は変えられるか

引き続き、昨年度の3月に「態度」をテーマに連続で書いたメルマガ記事を転載する。


自分から見て「態度が悪い」と感じた人がいるとする。

前号までも書いたが、この「悪い」は「評価」である。

それも自分という基準からみた、相対的評価である。

この「悪い」は、絶対的な評価ではない。

絶対的な悪というのが存在しないのと同じで、あくまで自分という主観からの相対的な評価である。


ではなぜ自分の感性がこの相手に対し「態度が悪い」という評価を下したのか。

ここには理由があるはずである。

いくつか考えてみる。


攻撃的、あるいは威圧的な態度であると感じられた。

または、やる気がないような、自分を見下すような態度であると感じられた。

もしくは、馬鹿にしている、無視している、ぞんざいに扱われていると感じられた。


基本的に人は自分を尊重しない態度をとられると、態度が悪いと感じやすい。

それはつまり自分にとっての「脅威」であり「恐怖」を引き起こす。

この辺りの空気を何となくでも感じる時、一般的にはその相手に対し「態度が悪い」あるいは「嫌い」という評価を下す可能性が高い。

大人でも子どもでも同じである。


(つまり、これと真逆の態度には「良い」「好き」という評価を下しやすいともいえる。

「安全」「安らぎ」「癒し」を感じる場合である。)


「嫌な態度」と感じられる場合、なぜそうなのか、という背景を考えることが大切である。

即ち、「嫌な態度」の相手を慮るというなかなかハードルの高い行為である。


威圧的な態度、攻撃的な姿勢、悪態をつく人というのは、必ず何かを恐れている。

恐れというものは動物的本能による根本的一次感情であり、この点は野生でサバイバルしている動物と同じである。

そこで、身近にいる動物である犬の場合で考えてみる。


怯えている犬は、怖いから吠えたり唸ったり怒ったり、人をわざわざ遠ざけるような行動をとる。

逆に、人のことが大好きな犬は、全身で相手への喜びを示し、すり寄って来る。(これはこれで興奮してうるさいこともある。)


これは、犬が嫌いな人間の側の心理も同じである。

吠えられて怖いから、嫌う。

咬まれるのではないかという攻撃に構えている状態である。

本当に犬が嫌いな人は、犬を前にすると筋肉が緊張し、汗が出る。

闘争・逃走本能のスイッチが入り、瞬時に動けるようにするためである。


つまり、相手の「態度が悪い」(=脅威・恐怖)と感じられる時、お互いのことがどんどん嫌いになってしまう構造をしている。

吠える犬は相手が闘争・逃走的反応を示すので、より吠えるようになる。

吠えられる人の側も、より吠えられるものだから、闘争・逃走本能がより強く出るようになる。


どちらかがこの本能的反応をストップしない限り、悪循環は永遠に続く。

犬と人間の場合なら、当然人間の側から態度をコントロールするしかない。

犬の方が先に理解を示すということを期待するのは無理がある。

犬の方が本当に自分を嫌っているのではなく、根源的には恐れているだけなのだと理解することからである。


そう考えると、人に対して嫌い、あるいは怒りを感じる場合というのも、考え方の根本は同じである。

全ての負の感情の根本は、恐怖という感情からである。

何かしら、自分を脅かす存在と感じられるから、嫌なのである。

相手の態度からそれを感じ取ってしまうのである。


つまり、態度というのは、態度が悪いと気付ける側が先に変えない限り、解決しない。

相手の態度も確かに悪いのかもしれないのだが、それを恐れている自分の感情にまず気付くことからである。


例えば、担任教師と児童・生徒の関係がこじれているとする。


その時、子どもの側が先に「こんな態度取る必要なかったな」と気付いてくれることが期待できるかどうかである。

これは、普通に考えて、期待すべきではない。


教師の側が「この子がこんな態度をとるのはここへの恐怖があるのかも」と先に理解する方が、主体的である。

もしそれが理解できれば「態度が悪い」というように見えなくなる可能性もある。


「話を聞かずに喋りまくる」という子どもがいたとする。

明かに態度が悪い。

しかし、この子どもの根本的恐怖は「自分が無視されること」かもしれない。

つまり、きちんと話す番が回ってきて、聞いてもらえると理解して安心すれば、態度が改善される可能性がある。

それを伝えるのが、教師のできる主体的な「態度への指導」である。


席につけずに動き回る子どもも同様。

態度が悪いように見えるが、動き回るのは、不安だからである。

じっとしていることが恐怖という可能性もある。

じっとしていなくても大丈夫と安心することで、逆に落ち着くこともある。


学力の低さと問題行動に相関があるというのも同様。

やる気がないように見えるが、根本的には不安なのである。

真面目に受けてもどうせできないのではないかという恐怖感がある。

そうなると、不真面目にやっている態度を見せることで、自分を守ることができる。

そうすれば「やってもできない」という最も傷つく可能性を潰せるからである。


態度への指導というのは、理解から始まる。

しかし、こちらも嫌い、怖いという思いがあると、これが難しくなる。

犬嫌いの人がそれを克服するのと同様、なかなか最初のハードルが高い。

その場合、周りのサポートが必要なこともあるかもしれない。

そして完全にこじれた関係は、修復が難しいというのも事実である。


しかしながら、教師の側が理解を先に示す以外に、主体的解決への道はない。

態度が悪くて嫌な思いをしているのはこちらも同様なのだから、こちらが積極的に解決の手立てを打つべきである。


態度の指導を考えるヒントとして使えればと思い、示してみた。

2022年6月18日土曜日

態度について指導する点とは

相手によって態度を変える、と聞くと、良くないことのように思える。

しかし、この良し悪しは、場合によりけりである。


嫌がられるのは、部下には横柄なくせに上司にだけやたら腰が低い、というような場合である。

あるいは、気弱な人や穏やかな人には強気な態度で、強面の人や権威に対しては急にヘコヘコしだす、というような場合である。


これらは態度がどうこうではなく、心根の方が悪い。

人を理不尽に差別する心の醜さが態度に直結してしまっている悪例である。

別に上司に対して腰が低いこと自体は問題がなく、むしろ謙虚に見えていいことかもしれないのである。

しかし、そこに「目下の人間には横柄」という情報がくっつくことで、途端に悪い評価に転じる。


実際は、心根が優しくとも表現として見える態度がぶっきらぼうなだけの人もいる。

一方、心の中では相手を見下していても、それを一切態度には出さないという人もいる。

(特に接客業などでは、必須の態度である。)

逆に言えば「誰に対してもぶっきらぼう」という評価がされているのであれば、それを知っている人にとっては特に問題がない。

「本当は見下している」という評価がされているのであれば、それを知っている人にとっては丁寧な態度も逆にマイナスである。


このように、態度への評価というのは、心への評価と一体のところがある。

初対面やあまり知らない相手であれば心は全くわからないので、態度だけで全て判断されるということである。

だからこそ、接客業では心根はいざ知らず、丁寧な態度が望まれる。

一方で、詐欺師が相手を騙せるのも、心根にある魂胆を知られておらず、目に見える態度のみで評価されるからである。


態度については、教えるべきことである。

態度は、自己表現の一種である。

態度は、相手にどう理解され評価されるか、ということに直結する。


つまり、相手によって、態度は適切に変える必要が出る。

お客様に接する時と家族に接する時が同じでは不自然である。

「相手を大事にする」という点を外さなければ、その態度は相手によって違って然るべきである。


同じ相手でもTPOに応じて全く変えることがある。

時と場と機会に応じた相応しい態度や言葉というものがある。

同僚と話すにしても、訪問先にいるのと社内(職員室内)では違って当然である。

電話口では立場に関係なく身内を呼び捨てにするというのも、適切な態度の変化である。

(外部からの電話に「○○先生はいらっしゃいません」の誤りである。)


子どもに教えるべきは、態度が自己表現という点である。

挨拶は、態度の一つである。

どのような挨拶をするか、あるいはしないかという自己表現である。


物の扱いも、自己表現である。

相手を見て両手で物を渡せば、丁寧な態度の人という評価を受ける。

つまり、相手を見ず片手で渡すことで、無礼な態度の人という評価を受ける。

片方を学べば、逆も同時に学べるのである。


そして態度への評価は、多分に相手の受け取り方次第である。

丁寧な態度のつもりが、よそよそしいという評価を受けることもある。

親しみやすい態度のつもりが、なれなれしいという評価を受けることもある。


服装にしても髪型にしても、内面の自己表現の一つであり、その評価は受け手次第である。

きれいに装いを整えたつもりが、華美だ、派手だという評価を受けることもある。

親しみやすくカジュアルにしたつもりが、だらしないという評価を受けることもある。

長く伸ばした髪をきれいだねという人もいれば、鬱陶しいから切れという人もいる。

染めた髪を似合ってていいという人もいれば、髪は黒しか認めないという人もいる。

若い社会人や学校に通う子どもたちが悩むのは、この辺りの自己認識と評価とのギャップなのかもしれない。


態度について教える。

こういう態度が絶対にいい、ということを示すのではない。

態度は自己表現であり、相手による評価対象であるということを教える。

態度の選択は、社会における対人スキルである。


態度について指導できるとしたら、この程度のことまでである。

2022年6月11日土曜日

態度を指導するのは覚悟がいる

メルマガ第2099号(2022/2/19)の記事


態度とは、人間関係を構築する上での、外から見える内面の表現である。

またあくまで表現なので、言葉と同様、内面がそのまま出ている訳ではないという前提が必要である。


そして聞く態度が悪いと、気になる。

指導したくなる。

こちらが不快という点もあるが、子どもの将来を考えるという面もある。


この「将来を考えて」というのは、長期的視点として非常に大切である。

今を凌げばそれでいいという考えとは違う。


しかしながら、過ぎたお節介も考えものである。

こちらは子どもの将来を考えて指導しているが、相手がそれに感謝してくれるとは限らない。

むしろ、大半は「口うるさい」と思われるだけかもしれないというリスクをはらむ。


本人が「別にそれでいい」というのなら、それは本人の選択である。

ただ知らせるべき点は、悪い態度をとれば周囲が不快に思い、周囲からの扱いもそれ相応になるという点である。

望ましくない態度を改める気がないという場合、そういう覚悟をもってその態度を貫くことである。

つまり、態度について指導する場合、お互いに覚悟が必要になる。


相手が求めないお節介やサービスは、基本的に要らない。

こちらの都合で伝えることはあっても、相手にとっては要らないものであることは変わりない。

本来、態度が不快な相手には、相手をしないことが一番である。

教育の仕事の場でなければ、進んで関わることはまずないはずである。


なぜこんなことを書くかというと、それに深く悩まされる人が多いためである。

そんな悩みをもつような人は、基本的に善良で真面目な人である。

「指導者である自分が悪い」と自分を責め、思い悩むようだが、本当は関係ない。

相手の態度は、誰がどう教えようが、相手が子どもだろうが大人だろうが、そのまま相手自身の課題である。

こちらの立場がどうであれ、互いを尊重する人間関係という点では平等であり、同じである。


しかし実際は、不快な態度の人も相手にせざるを得ないというのが、人間社会の現実である。

店員さんに対し、客だから偉いとでも言いたげな態度の人がいるが、それを理由に退店させる訳にはいかない。

子どもの社会でも同様で、同じクラスに意地悪をしてくる子がいても、すぐにクラスが変わる訳ではなく、全く接さずに生きるのは難しい。


そうなると、この嫌な人の相手をする側は、これ以上怒らせたり嫌がらせをされたりしたくないから、懐柔策に出る。

なだめすかしたり、ご機嫌をとったりして、その場をやり過ごす。

結果、横柄な人はますます横柄になり、横暴になっていく。


冒頭の話に戻るが、長期的視点である。

学校は、よくなる可能性のある人を、横暴な人に育ててしまってはならない。

こういった不快な態度の子どもに対しては、子ども同士ではなかなか注意できないため、結局指導者がやるしかない。

短期的にはこちらが嫌な思いをしても、長期的視点での対応がやはり望ましい。


最高なのは、本人に気付かせられることだが、これは思考がまだ柔軟な子ども相手でもかなり難しい。

内面を変えるというのは、本人にしかできない主体的な作業なのである。


態度が悪いという相手を諌める時、こちらがノーダメージという訳にはまずいかない。

何と言っても、一筋縄ではいかない相手だからこそ、ここまで増長してきたのである。

相手が怒る場合はまだましで、「ウザいんですけど」というような対応をされることも珍しくない。

理不尽に逆恨みされて陰口を叩かれることすらも覚悟しないといけない。

それらもリスクをとった結果として、受け止めるしかないのである。


そうなると、どこまで自分のリソースを差し出せるかである。

態度についての指導をするというのは、そういうリスクへの覚悟がいる。

こちらも傷つく覚悟がなければできないことなので、多くの場合、難しいとされるのである。


子どもへの本質的な態度の指導というのが、どこまでできるものなのか。

もう少し掘り下げていきたいテーマである。

2022年6月4日土曜日

態度の意味について教える

「聞く」について考えていく中で、多くの場合、態度面を問題と感じていることがはっきりした。

見た目聞いていないようでも、心と頭という面からすると、聞いていることがある。

態度面は体の担保する部分である。

つまり、唯一無二のはっきりと外から見える部分である。


だからこそ、「問題」として捉えられやすい。

心や頭の面は、テストしてやっとその断片がわかる程度である。

その点、態度への評価は、そのままである。


生きていく上で、態度は非常に重要である。

嫌われても構わないという人もいるが、それでも多くの場合、わざわざ人を不快にしたいとは思っていないはずである。


子どもに直接教えられるのは、この態度面である。

礼儀と言い換えてもいい。

頬杖をついて話を聞いていれば、あまりいい印象がもたれないということは、教えないと意外とわかっていない。


前回の学習会でも、ここが論点になった。

聞き方を、態度面という型から指導すべきか否かということである。


私は「聞いているフリ」が最もよくないと考えている。

それは、自分を飾る、あるいは相手を見下している行為だからである。


一方で、先にも述べた通り、型を教えないと間違えたままということも起き得る。

それも互いに不幸である。


着地点として、型としての態度の意味を教え、その先の選択は個人の責任、という考え方である。

どうするのがいいのかは知っている上で、後は本人の選択である。

無論、相手が不快になるような態度でいれば、それに見合ったものが返ってくるというだけである。

それが跳ね返ってきた際に文句を言わないことである。


(意地悪すればいつか大きくなって時差で返ってくるということも併せて教える。

自業自得に、文句を言わないことである。)


態度の意味を教える。

その先は、自己責任とする。

「聞く」を教える上において、重要なことではないかと考える。

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