「聞く」について考えていく中で、多くの場合、態度面を問題と感じていることがはっきりした。
見た目聞いていないようでも、心と頭という面からすると、聞いていることがある。
態度面は体の担保する部分である。
つまり、唯一無二のはっきりと外から見える部分である。
だからこそ、「問題」として捉えられやすい。
心や頭の面は、テストしてやっとその断片がわかる程度である。
その点、態度への評価は、そのままである。
生きていく上で、態度は非常に重要である。
嫌われても構わないという人もいるが、それでも多くの場合、わざわざ人を不快にしたいとは思っていないはずである。
子どもに直接教えられるのは、この態度面である。
礼儀と言い換えてもいい。
頬杖をついて話を聞いていれば、あまりいい印象がもたれないということは、教えないと意外とわかっていない。
前回の学習会でも、ここが論点になった。
聞き方を、態度面という型から指導すべきか否かということである。
私は「聞いているフリ」が最もよくないと考えている。
それは、自分を飾る、あるいは相手を見下している行為だからである。
一方で、先にも述べた通り、型を教えないと間違えたままということも起き得る。
それも互いに不幸である。
着地点として、型としての態度の意味を教え、その先の選択は個人の責任、という考え方である。
どうするのがいいのかは知っている上で、後は本人の選択である。
無論、相手が不快になるような態度でいれば、それに見合ったものが返ってくるというだけである。
それが跳ね返ってきた際に文句を言わないことである。
(意地悪すればいつか大きくなって時差で返ってくるということも併せて教える。
自業自得に、文句を言わないことである。)
態度の意味を教える。
その先は、自己責任とする。
「聞く」を教える上において、重要なことではないかと考える。
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