2012年1月31日火曜日

8の字・大縄必勝法「イレギュラーへの対応」

8の字跳びや、特に大縄でひっかかる原因の一つに「急に縄がたるんだ」ということが挙げられる。
縄がたるんで変な動きになったんだから、引っかかるのは仕方無いと普通考える。
責任を、回し手に求めてしまう。

しかし、ここが勝負の分かれ目である。
どんなに上手な回し手であっても、100回に1回程度は、縄がたるむ。
普通は100回中2~3回それがある。
つまり、イレギュラーがあって普通なのである。
実は、きれいに回し続ける方が、異常事態なのである。

強いチームは、そこが違う。
縄がどんなにたるんでも、無理矢理跳ぶ。
誰かの足に軽くかすって縄がびよびよと妙な動きになった時に、リズムを意図的に崩して跳ぶ。

こういう「不測の事態」に対応する力は、普段の地道な練習のたまものである。
ピアノやダンスでも、同じ練習を何度も繰り返してるからこそ、少し間違えてもすぐ立て直せるという。
サッカーなら、倒れながらの無理な体勢でシュートを打てるのは、普段の基本のシュート練習を山ほどやったからである。

つまり、イレギュラーを当然と見て、それに対応する力が真の実力である。
自分の外に責任を求める以上、その力は身に付かない。

「全ては私の責任です」を、文字通り全員が実行できれば、無敵のチームの出来上がりである。

無理を通せば、道理が引っ込む。
今までの「無理」を「普通」にレベルアップしよう。

2012年1月27日金曜日

ゴールを明示する

3学期の始めに何をするか。

1年の目標を発表させる学級もあると思う。
しかし、実際に今の学級を持てるのは3月までだ。
持ち上がるにしても、3月が一旦の区切りである。
そうなると、残り約2ヶ月で終了すると考える。
全てが、残り2ヶ月である。

ゴールの明示が必要だ。
学級としてのゴール。
個人としてのゴール。
これを、はっきりさせる。

学級としてのゴールは、教師が示す。
大縄や8の字跳びなど、3学期に何かの大会がある学校は、それを利用しても良い。
「○回達成」「優勝」などは、学級をまとめる上で非常に役立つ。
そこに達成パーティーなどをくっつければ、より思い出に残るものになる。

「逆上がり全員達成」「二重跳び全員○回達成」などの運動の目標。
「学力検査平均○点以上」「漢字全員満点」などの学力面での目標。
「毎日全員で奉仕活動」などの生活面での目標。
何でもよい。いくつあってもよい。
とにかく、全体としてまとまって一つの方向に向かえるものであればよい
できれば、学級会などで話し合って、子ども達からの意向も一つ二つ取り入れるとなおよい。

個人としては、その子に応じたものを確認する。
1年間自分が持って、この子がこう変わったと言えるようにしたい。
これは、というものに絞る。
対人関係面や掃除の態度などの生活面でもよい。
先の「逆上がり」「二重跳び」「学力検査」等を個人のものにしてもよい。
本人が設定しても良いが、担任として勝手に決意しておいてもよい。
いずれにせよ、最終的に「できた」「伸びた」が実感できるものがよい。

好きな言葉を一つ紹介する。
「足踏みしてても、クツは減るぜ」(サンクチュアリ出版創業者 高橋歩)
ほっといても3月はやってくる。
どうせなら、自分から向かっていきたい。

2012年1月25日水曜日

目標の視覚化

元旦に、今年の目標を墨で書く。
日本に伝わる風習だが、似たことは普段から教室でも行われる。

例えば、学級目標の掲示。
教室前面に大きくはっている教室が多いのではないかと思う。
書いた目標は、何度も見返し、道を逸れたらそこに向かって軌道修正する。
そういうためのものである。

だから、学級目標の言葉などは、よくよく吟味した方がよい。
学級経営にあたり、役立つ言葉を書いておく。
「こうなって欲しい」という姿を文字にしておく。
そうすることで、ことあるごとにそれを利用できる。
学級目標を読ませるだけで、自分達のしていることを反省できる。

要は、視覚化である。
あいまいなものを、目に見えるようにすることで、はっきりさせる。
大縄や8の字跳びの記録を折れ線グラフにする方法があるが、あれも同様。
ただの数字をグラフにすることで視覚化し、伸びを実感するためのツールである。

まだ今年の目標を紙に書いていないとしたら、すぐに書いた方がよい。
別に墨と硯を用意しなくても構わない。

目標を、常に明確にしよう。

2012年1月22日日曜日

研修と共に修養を

前号で、8の字跳びでは「基礎が大切」という話を書いた。
これは、教育全般に関していえる。
基礎さえしっかりしてれば、後はどうにでもなる。
逆に、基礎がダメだと、どんなに上が立派でもダメである。

野口芳宏氏が、度々口にすることを紹介する。
それは、学校の校内研修において、「研究」はよくされるが「修養」はなされていないということである。

「研究」は授業をどうするかとか子どもをどうするかといったことが中心になる。
つまり、「他者改善」である。

一方、「修養」は自分自身を変えていくことである。
「自己改善」である。

教育技術を学ぶのは大切だ。
うまくいく授業を真似してみるのは技能向上に役立つ。

しかし、うまい授業を支えているのは、その教師自身である。
指導案や授業を見ただけでは見えない、その人自身の生き方みたいなものが授業を支えている。
だから、小手先の技術だけ真似してもうまくいかない。
完璧に再現しているのに、全然違ったものになる。
たとえ相手にする子どもが同じであっても、である。

以前にも書いたが、同じことを言っても、誰がいったかで意味は全く変わる。
「自信が確信に変わりました」という言葉は、松坂大輔の名言だが、他の人が言ったら、ただの厭味である。
いや、松坂だって、イチローを完全に封じたその状況だからこその言葉である。
松坂の努力が透けて見え、そこに実績が裏打ちされて、初めて重みのある言葉になる。

授業がうまくなりたいというのは、教師の共通の願いである。
そのためには、授業から離れた場での修養が大切になる。
休日は、教育から離れて、自分自身を変える修養に当てるのもよいと思う。

2012年1月20日金曜日

8の字跳びは、焦らず基礎をじっくりと

何事も、基礎固めが大切である。
サッカーならリフティング、野球なら素振りだろう。
算数ならかけ算九九が0秒で頭に浮かぶこと、国語なら漢字がすらすら書けること。
もちろん他にも色々あるが、とにかく基礎がぐらぐらしていては、上に大きな建物は造れない。

8の字跳びでやりがちなミスに、縄を速く回しすぎるというのがある。
テレビなどで見る8の字跳びチャンピオンみたいなクラスは、めちゃくちゃ速い。
あれを目指すのはいいが、ステップを踏む必要がある。
つまり、基礎ができてから次に進むということ。

とにかく、1回いい記録が出ると、ついつい「もっと速く、もっと速く」になりがちである。
何回も練習を重ねていく内に、不意に記録がでることがある。
この記録を、平均的に出せるようになることが大切である。
基準を上げるといってもいい。
ホームラン連発を狙うのではなく、ヒットが確実に出るようにしていく。

8の字跳びや大縄を続けるのも「楽しみ」が必要である。
算数と同じで、楽々できるという要素が大切だ。
クラス全員がひっかからないで毎回1分以上跳び続けられるペースで慣らす。
跳んでいる本人達が気付かない内に、徐々にペースが上がっていて、気付けば速くなっていたのがベストである。

特に回し手である担任が熱くなると起こりがちなミスなので、回している人は十分留意されたい。

2012年1月18日水曜日

8の字・大縄必勝法「イレギュラーへの対応」

また8の字・大縄にアクセスが集中しだしたので、需要に合わせて発行する。

8の字跳びや、特に大縄でひっかかる原因の一つに「急に縄がたるんだ」ということが挙げられる。
縄がたるんで変な動きになったんだから、引っかかるのは仕方無いと普通考える。
責任を、回し手に求めてしまう。

しかし、ここが勝負の分かれ目である。
どんなに上手な回し手であっても、100回に1回程度は、縄がたるむ。
普通は100回中2~3回それがある。
つまり、イレギュラーがあって普通なのである。
実は、きれいに回し続ける方が、異常事態なのである。

強いチームは、そこが違う。
縄がどんなにたるんでも、無理矢理跳ぶ。
誰かの足に軽くかすって縄がびよびよと妙な動きになった時に、リズムを意図的に崩して跳ぶ。

こういう「不測の事態」に対応する力は、普段の地道な練習のたまものである。
ピアノやダンスでも、同じ練習を何度も繰り返してるからこそ、少し間違えてもすぐ立て直せるという。
サッカーなら、倒れながらの無理な体勢でシュートを打てるのは、普段の基本のシュート練習を山ほどやったからである。

つまり、イレギュラーを当然と見て、それに対応する力が真の実力である。
自分の外に責任を求める以上、その力は身に付かない。

「全ては私の責任です」を、文字通り全員が実行できれば、無敵のチームの出来上がりである。

無理を通せば、道理が引っ込む。
今までの「無理」を「普通」にレベルアップしよう。

2012年1月17日火曜日

8の字・大縄に関心のある方へ メルマガ登録のオススメ

アクセスカウンターが3万に到達した。
8の字・大縄の記事が相当貢献している様子。
8の字と大縄に関心のある方には、メルマガの登録をして読むことを強くオススメしたい。
現在、8の字と大縄に特化して発行しており、このブログよりタイムリーに読める。
ブログは、検索が便利なので、過去記事を読むのに利用されたい。
ブログと共にご愛好いただければ、ありがたいことである。

2012年1月16日月曜日

自分の責任だと思わせる その2

大縄練習を休み時間にやると決まっているとする。
冬だと寒い。
ダラダラして、なかなか教室から出ない。

しかしせめて自分だけはちゃんとやろうと、練習時間になったらさっと移動して準備する。
練習時、縄のタイミングがずれても、「自分だけは跳ぶ」という集中力を持って跳ぶ。
仲間の「がんばろうぜ!」の声かけにも、自分だけでも「おう!」と返事する。

こういうメンバーが何人いるかで、最高回数が決定する。
大抵は、「みんなこうだから」と安きに流れ、無責任だからすぐにひっかかる。
もし1人で跳んだ時、平均100回に1回ひっかかるとする。
そのメンバーが一斉に20人で跳んだら、大体5回程度でひっかかるのである。

考え方として、100の数の内の20カ所にランダムにマークをつける。
たまたま「100」に20個マークが入ったら、記録100回である。
それは奇跡に近い。
20個打つマークの内、最低の1つのマークの記録になる。
たとえ19個が「100」でも、「10」にマークが一つ入ったら、記録10回である。
(もし1000回に1回の人なら、10や100など低い数にマークが入る可能性は非常に低くなる。)

しかしみんな「自分は、100回に1回しかひっかからない」と、自分の責任だと思ってない。
無知なのである。きちんと教えた方がよい。

逆に、全て自分はきちんとやる、責任をとるという態度ならどうか。
自分以外がひっかかっても、「声かけが悪かったか」「列からずれたのかも」と自分に原因を考える。
チームの責任は常に自分の責任だと思うので、話し合いにも真剣に参加する。
リーダーは当然こういう人間なのだが、メンバー全員がリーダーのマインドに近づく必要がある。

全ては自分の責任ですという人間が集まる時、前向きな力が生まれてくる。

2012年1月14日土曜日

自分の責任だと思わせる その1

大縄や8の字跳びの指導を成功させるカギの一つとして、「自分の責任だと思う」ということを挙げる。
具体的には「どうせ自分ぐらい」から「せめて自分だけは」というマインドチェンジを行うことである。

この指導は日常生活から始まる。
例えば、廊下に紙くずのようなゴミが落ちている。
自分が落としたゴミではない。
別に自分に拾う義務はない。
しかし、みんながそう思っている限り、この廊下のゴミが拾われることはない。
そこで、自分から拾えるかどうか。
誰がやらなくても、自分だけは正しいと思えることをやろうという精神。

これが、実は集団跳び(特に大縄)の成功のカギである。
(次号に続く)

2012年1月12日木曜日

弘法筆を選ばず?8の字・大縄は縄を選んで

ブログの方をチェックすると、また大縄・8の字跳びの記事にアクセスが集中している。
需要が非常に高いようである。
なので、こちらの話を。
8の字跳びについて。

細かいことだが、道具(縄)についてである。
8の字跳びをする時、どんな縄がよいのか。
軽い縄がよさそうだが、軽すぎると遠心力が得られにくいという点もある。
私は、少し重みのある縄が回しやすいと思う。

縄の長さも大切だ。
持てるぎりぎりの長さまで短くしてしまうと、臨機応変に対応できなくなる。
最初の頃は、ゆっくり大きく回すために長めがいいだろう。
逆に、1分間で120回レベル以上なら、短くないと間に合わない。
手に巻き付けておけば、回している最中に調節することもできる。
(軽く巻き付けておかないと、ひっかかった時に手から抜ける可能性も高まる。)

普通の単縄にしたって、ロープやグリップの長さや重さは大切である。
二重跳びをするなら、長いグリップ、縄は短め、ロープは中身が詰まっているものがよい。
逆に、交差跳び系なら、縄の長さがある程度必要になる。
道具が悪いせいで二重跳びができない子どももいる。
例えば、100円縄跳びを使っている子どもが、縄跳びを忘れたといって私に借りにきた。
その日、今までどんなに頑張ってもできなかった二重跳びが、初めてできてしまったのである。

細かいことだが、結構見落としがちかと思い、書いてみた。
弘法筆を選ばず、かもしれないが、やはり良い筆で書いた方が、断然良いものが書けるはずである。

2012年1月10日火曜日

それを問うてどうするか

どうでもいい発問をすると、どうでもいいことに時間を費やしてしまう。
授業の時間は限られているのだから、主発問はよく考えたい。

最近「断捨離」というのが流行っているようだが、あれと同じである。
何かを得ることは、何かを捨てることと同義。
無駄な発問をなくせば、主発問に力を入れられるのである。
逆に言えば、無駄な発問をしている限り、大切なことを考えることはできない。

一時期の国語教育は、それこそ重箱の隅をつつくような研究がなされてた時期があったようである。
問わなくていいことは問わない。
例えば、大造じいさんは何歳ぐらいか。
よく読んで考えていけば、解を限定できなくもない。
しかし、大造じいさんが何歳ぐらいかなんて、はっきり言ってどうでもいい。
それよりも、情景描写や大造じいさんの変化を読み取った方が、国語の読み取りとして意義がある。

普段の授業でどうでもいいことを聞いてないか、反省してみるのもよい。

2012年1月8日日曜日

国語の教材文でつける学力

国語の教科書の教材文を「使って」、教える。
教材文そのものを教えても仕方がない。
他の教材文を読む時に、転用できる力をつける。

どんな力があるか。

漢字の読み書きは、その代表格であるが、教材文から、という感じでもない。

「学習用語」を教えることは、国語でつける力の一つである。
「比喩」「対比」「音読・黙読」「段落」「内言・外言」等々。

「問題に対する解答の仕方」を身につけるのも、力の一つであると考える。
テストで答える時に絶対に必要になる力である。
「なぜ」「どうして」ときかれたら、「~だから。」
「どんな事」ときたら「~事。」
「書き抜きなさい」ときたら、句読点にいたるまで一字一句そのまま書き写す。
そしてこれらは全て、「文中の言葉を使って答える」というのが基本である。
勝手な自分の想像で答えてはいけない。
「国語の答えは全て教材文に書かれている」とは、国語の野口芳宏先生の言である。
算数は解答が書かれていないのに、国語は書いてある。
実に明快、かつ簡単である。

国語の授業で何を教えてるのか、意識して臨みたい。

2012年1月6日金曜日

無知の知

ソクラテスの言葉に「無知の知」というものがある。
「自分は知らないということを知っている」という、哲学的な考えである。

教員生活も2年目、3年目と続くにつれて、色々なことがわかってくる。
5年もやれば、大体のことは、ぼちぼちできるようになる。

この「ぼちぼちやれる」というのが曲者である。
実は、やれてない。
相当、周りの人達にサポートされている。
できるので、わかっているようだか、実はわかってない。
子どもの算数と同じで、問題は解けるのだが、「なぜ?」と聞かれると答えられない。

10年ぐらいやると、後輩に「なぜ?」ときかれるので、やっとわかってないことに気付く。
11年目が、新しい1年目のスタートである。
21年目も、31年目も、それぞれのステージでみんな「1年目」である。

何年経っても「初心忘れるべからず」である。

2012年1月4日水曜日

解を断定する

算数では、解が断定される。
1+3=5とかいたら、確実に×である。
「そういう考え方もあるね」などと言うことはない。
それが、「教える」ということである。

国語になると、急に弱気になる。
「AもBもあるね。どっちもあるね。」となりがちである。

物わかりがいいようだが、これでは子どもと同じである。
教師は教室内で特異な立場であるから、解を示す必要がある。
明確な理由も付け、AかBかはっきりさせるのが基本である。
そしてAが解とするなら、Bの考えに対して否定する理由までも示す必要がある。
それができないなら、教師が分かっていない証拠であり、教えられる立場ではないことになる。

詩を書くようというな創作活動であっても、「良い」の基準が存在する。
どれが良いかはっきり示す。
そうしないと、結局何の学力もつかない授業になる。(活動主義の授業になる。)

道徳だと、さらに曖昧になる。
しかし、価値項目があるのだから、それに沿った考え方が「良い」の基準になる。
「価値の押しつけ」というが、ダメな価値観を修正するのが道徳である。
(例えば、いじめも時にはいい、という価値観を認める訳にはいかない。)

教師は子どもと違うのだから、自信を持って解を断定できるようにして、授業に臨みたい。

2012年1月2日月曜日

子どもの自己肯定感を高める2 算数ができること

何かができる自分がいれば、自分を認められる。
学校教育で「できる」を感じさせられる場面は、やはり授業だろう。
特に、算数嫌いをなくすことは、日本中の学校の抱える大きな課題であるように思う。
(PISA型がどうとかは所詮結果であって、それそのものはどうでもいいと私は思っている。
要は算数嫌いの集大成である。)

なぜ算数が嫌いかというと、できないからである。
具体的にいうと、テストで点がとれないからである。
それは、やはり我々教師の教え方が悪いのである。
間違ったやり方をどう工夫してもダメだと思う。

例として適切かはわからないが、例えば水泳で記録を伸ばしたいと思う時。
腕の力が足りないと考え、ひたすら腕立てをくり返す。
しかし実は、それよりも本当はフォームその他に原因があるとする。
それなのに、タイムが伸びないから、さらに腕立てを繰り返す。
色々な方法を工夫し、腕の筋力をつける。
そうしていれば、少しは変わるかもしれない。
しかし、そちらの方向に努力しても、やはり大きくは変わらない。
根本が間違っているからである。

練習自体を根本的に変えていく必要がある。
ここまでうまくいっていない方法に執着している場合ではないように思う。
10年以上続けてやって、全国的に解決が見えない方法は、変えるべきではないか。
教師が熱心にやるほど、算数嫌いが増えるのであれば、やはり方向そのものが違うように思う。

算数嫌いをなくす方法を、方向を変えて探し当てたい。
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