2022年9月25日日曜日

ドッジボールを「みんな」でやるべきか

プレジデントオンラインにて、次の記事が話題を呼んでいる。

『必死に逃げ回る人間を的にするドッジボールは「人間狩猟ゲーム=弱肉強食思想」の教育だと断言できる理由』

 https://president.jp/articles/-/61131



タイトルが派手なので誤解されるが、ドッジボールそのものに反対しているのではない。

ドッジボールを「みんな」でやろうとすることに反対しているのである。

「みんな教」への反対表明である。

今、学校現場ではかつて常識だった「みなさんご一緒に」「揃えて」に、明らかな無理が生じている。

これは『不親切教師のススメ』の本文全体を貫く考え方である。


ここについて、ネットテレビでの放送と出演が決まった。

ABEMA TV にて、9月28日(水)22:00頃から30分程度の放映である。

https://abema.tv/channels/abema-news/slots/AhkmZtNmbVPrmu



生放送だが、後追い視聴も可能(なはず)である。


放送中では、「ドッジボール禁止」が話題に出るようである。

私は「禁止派」と思われるかもしれないが、ここは明確に違う。

ドッジボールは競技スポーツの一つでもあり、禁止するようなものではない、という立場である。

血気盛んなやりたい者同士であれば、エネルギー発散として大いにやればよい。

(まあ、スポーツだから、好きだからといって、さすがに小学校の休み時間にボクシングは推奨しないが。)


あくまで「みんな教」への反対表明なのである。

「当たり前」に反する考え方を提示し、議論していくというのは、大切である。

どうせ出演するのなら、これを有意義な時間にしていきたい。


2022年9月24日土曜日

教員の働き方改革は、意識改革こそ本丸

 前号で、民主主義は面倒くさいが大切ということを書いた。


働き方改革にもこれは関連している。

働き方改革では定刻退勤や超過勤務の禁止など、労働条件についての言及が多い。

要は、働かされすぎている教員は、被害者という立場である。

そして、被害者という意識からは、主体的な問題解決は生まれない。


絶対王政の元でなら、これはわかる。

いわゆる、素直に飼われているだけの羊の状態である。

そこで飼われている無力な羊が酷使されているなら、これは問題である。


しかし、学校という職場は、絶対王政の場ではない。

本来、民主主義の場である。

中には、例えば教育長や校長が絶対的な権限を振るっているという場合も、ないとは言えないのかもしれない。

しかし、私が渡り歩いてきた職場において、そのようなひどい場面は一度も見たことがない。

必ず職員の意見を聞く機会が与えられ、声を上げられる場がある。


例えば、保護者からの要望にしても、これは言える。

確かに、無理な要求、理不尽な要求をしてくる人もいるにはいる。

しかし、それについて、特に意見せずに受け入れてきた側の問題や責任はないのか、ということである。


今回のテーマは、こちら側が物分かりよく、従順に、大人しくなりすぎなのではないか、という問題提起である。


「でも、教育委員会が・・・」「公務員だし・・・」という声が上がるのも予想できる。

その通りである。

雇用された身として命令には従うのが基本であるし、実際に教員一人一人に与えられた裁量権は、多くはないのかもしれない。


しかしながら、理不尽な要求を無条件でのまなければいけないということはない。

また、全く声を上げられなかった訳でもない。

一人では弱くとも、団結すれば、相当に大きい力になる。

要は、こちら側の、立ち上がる気概の問題もあるのではないか、ということである。


おしなべて、教員というのは、断るのが下手な人が圧倒的に多いと感じる。

「教育公務員」という意識が強いせいか、公に道徳的であらねばならぬと、理不尽な要求でも「NO!」というのが苦手である。


これまでの業務整理全くなしのままどんどん降ってくる新しい仕事を素直に受け入れることを見てもわかる。

ICT&コロナ対応が一気にプラス業務になったにも関わらず、減らされた仕事は何一つないという学校も多くある。

時間外に会議があったり「お手すきの先生方」で対応してしまったりするのもこれである。

(基本的に学校は慢性的人手不足であるし、勤務時間外労働中にお手すきの人などいない。)


外部機関への会議の出席や、保護者対応等を見ても明らかである。

時間外の対応だろうが届け物だろうが、頼まれたことは何でもやってしまってきたのではないだろうか。


とにかく、やれと言われたら現状のマンパワー頼りでやってきた経緯がある。

そのための資源の供給は一切なく、「個人のがんばりと工夫(=無制限の時間提供)」で何とかこなしてきてしまったのである。


そんな中の勤務時間の適正化は、改革の第一歩であるが、それができても、まだ体裁が整ったという段階でしかない。

他者から与えられたものを受け取るだけでは、何も変わらない。

形だけではなく、働き方改革の本丸は、意識改革である。

本質は、働く者としての矜持の有無である。


要は、長年の自分たちの行動が招いた結果だという自覚をもたない限り、今後の根本的解決にはならない。

この国は、民主主義の国なのである。

憲法第12条には、次のようにある。


「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。」


国民主権なのだから、主権者は代表者に対しても、理不尽なことはないかを「不断の努力」で見守る義務がある。


責任を他に押し付けたくなるが、間違いなく我々のこれまでの行動が招いた結果である。

それがたとえ、自分の力の及ばない上からの理不尽な命令や要求があったとしても、である。


そんな空気を作ってしまった中で、新たな「被害者」を生んでしまったと考えるのが妥当である。

若い人にとって、今の教員の職場が恐ろしく見えるのは当然である。

適正な労働環境の職場を取り戻さない限り、多くの若者が教職の道を選んでくれることは望むべくもない。

(特に教育実習生を多数抱えるような学校においては、絶対にこのような面における不正があってはならない。)


民主主義は、面倒くさい。

面倒くさいからといって放置しておけば、もっと面倒なことになる。

教員の働き方改革は、教員の意識改革そのものである。

2022年9月17日土曜日

面倒な民主主義と学級経営

 民主主義というのは、原則面倒くさいものである。

王様が勝手に全部決めてくれるところを、全て自分たちで考えなくてはならない。


リーダーに立候補、選出するところから始まり、そのリーダーの仕事ぶりにもいちいちチェックが必要である。

ルールも細かく決めなくてはいけないが、王様が決める場合と違って、色々な人の意見を聞かないといけないので、なかなか決まらない。

しかも、リーダーの都合のいいようにされないよう、決めたものに対しても常に監視が必要である。

けんかをしても、王様がズバッと有罪無罪を決定してくれるわけではなく、いちいち裁判をしなくてはならない。


実に面倒な仕組みである。

面倒すぎて、法律の改正はおろか、代表を選ぶ投票すら面倒になっているのが、現代の日本である。


一人の王様の言うことを無思考で聞いている方がずっと楽である。

絶対王政である。

それは例えるならば、羊飼いに飼われている羊の状態である。


決まった時間に小屋から牧草地に出され、草を食む。

時間が来たら小屋に入れられる。

時が来たら毛を刈り取られたり搾乳されたりするが、命に関わることではなく、どうということはない。

実に平和である。


ただ、羊ではなく人間としてそれがいいかどうかは、考える余地がある。

また、良い羊飼いに飼われるかどうかということも約束はされない。

羊飼いの気分で突然殺されたり売られたりするリスクもある。

少なくとも、自分の意思では一切決められないのだから、何も考える必要はないということだけは間違いない。


生物の集団の中には、無駄なことや面倒な行動をとるものが一定数いる。

生物が本能的にもっている「安全・安心」の欲求すら脇に置いて、面倒な行動をしようとする。

初めて海から陸に上がろうとした生物など、その最たるものである。


人間の場合だと、わざわざ徒歩で高い山に登ろうとしたり、大海をヨットで横断しようとしたりする。

音楽や美術のような生命維持とは関係ないことに心血を注ぐ人がいる。

気が狂いそうな細かい作業を好んでする人もいるし、ものすごい危険な作業を好んで行う人もいる。


冒険心や探究心も本能に組み込まれているようである。

それが一定数の人間ではなく、実は本来全員にあることは、幼児を見れば容易にわかる。


学級経営にもこれはいえる。

子どもたちを、羊の群れように飼うこともできる。

一方で、対等な人間として付き合うこともできる。

相手をどう見ているかが全てである。


仕事全般にもいえる。

自分を羊の群れの一員として、仕方なく、あるいは無思考で従っているのか。

人間として働き、思考と工夫による選択をし続けているのか。

どんな人間が子どもの教育に関わっているのかは、何を言うかよりも決定的に大切である。


子どもたちは、学校に何のために来ているのか。

友だちと遊ぶのが楽しいなどというのは当然付随してくることであるが、学びの本質は何かである。

子どもも一人の人間として、学ぶ者としての矜持をもって欲しい。

教室で学ぶ主役として、面倒なことにも挑戦して欲しいと願う。

そのためには、それを教える側の大人も、面倒に挑戦する必要が出る。


しかし実際、大人も子どもも、面倒だから立場のある人に決めて欲しいと願う。

それ自体が間違いという訳ではないが、それは民主主義ではない。

自分たちの生きる場は、面倒でも自分たちで作る。


そのために必要なことの一つが、権限移譲である。

教室で教師の握りしめているあらゆる権限を、少しずつ手放していく。

ただし最初からすべて集団に手放すと、混乱を招く。

集団の育ちを見て、少しずつ手放していく。


学級の中の、何を教師が決めて、何を子どもが決めているか。

子ども自身の決定の割合が多ければ多いほど、民主的であるともいえる。

一方で、民主主義の成否は成員のレベルに左右されるため、やたらと権限委譲すればいいというものではない。

集団が育つためには、個の育ちも必要である。


朝の会、帰りの会。

授業中。

給食。

掃除。

休み時間。


どれぐらい、子ども自身が決定する時間をとれるかが勝負である。

同時に、どれぐらい教師自身が自分の仕事について決定しているかである。


面倒な民主主義だが、面倒で大変なことにこそ価値があるということを伝えていきたい。

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2022年9月11日日曜日

学級づくりのリスタート

 夏休みが終わり、リスタートである。

また今年度が本格的に始まったともいえる。


学級経営において、最初の1カ月は、お試し期間である。

最初の1カ月は、試行錯誤をする時間である。

これまでの経験則に基づいて、色々試してみる期間である。

また、様々なことに対し、どういう反応が返ってくるのか、様子を見る時間でもある。

そうして、1学期様子を見てきたのである。


そうすると、見えてくるものがある。

理科でいうところの

問題発見→予想→実験→結果→考察

の流れである。


今回の場合、何がよくて何がよくないのか、事例から見えてくる。


上手くはまったところは続ければいい。

上手くいかないところにこそ、成長のチャンスがある。

今年度の子どもたちがこちらに教えてくれるポイントである。

「今回はここが課題だよ」というメッセージである。


ここを過去に上手くいったことがあるからといって、無理矢理続けると大失敗になる。

大失敗は避けたい。

はっきりダメだと示されたのだから、そこは方向転換(戦略の変更)である。


今は上手くはまっていないが続けるという選択肢もある。

克服できる要因がはっきりしている場合で、かつこれから成功しそうな見通しをもてる要素がある場合である。


相手によってやり方を変える。

その時々に必要な手(戦法)を次々と打つ。

時に大胆な方針(戦略)の変更も必要であり、それをするのが今のタイミングである。


学級経営の理論には意味がある。

ある程度の妥当性がある。

一方で、必ずあらゆる場面や全員に当てはまるものではない。

人気のあるものを好きな人が多くいる一方で、それを嫌いな人もいるのが当たり前である。


その「正解」を示してくれるのは、目の前にいる子ども自身しかいない。

しかも、集団として見るだけでなく、個としても見る必要がある。

「鷹の目」(マクロ)と「虫の目」(ミクロ)の両方で見る必要がある。


目の前の子どもがたくさんだしてくれた「事例」「事実」を元に、今後の方針を決め、リスタートしていきたい。

2022年9月4日日曜日

寛容であるほど不寛容になる矛盾

学級における多様性を受け入れることと生じる矛盾について。


以前にも紹介した次の本から。

『21 Lessons 21世紀の人類のための21の思考』ユヴァル・ノア・ハラリ著 河出文庫


この本の9章「移民」の中に、次の文がある。


====================

(引用開始)

ヨーロッパは寛容性を大切にするからこそ、不寛容な人があまりに多く入ってくるのを許すわけにはいかない。

(引用終了)

====================


目下戦争中のヨーロッパ地域において、移民にどう対応するかは切実な問題である。

戦地から逃げてきた隣国の移民ならまだしも、その移民が更に隣へ、隣へと移ってくるのに対し、各国がどう対応するかである。

または戦争等とは無関係な場合、移民を受け入れるかどうかである。


ここで問題となるのは、先に引用した文中にある「寛容」度である。

多様性に対し寛容であるということは、多様性を認めない人に対し不寛容であるということになる。

寛容度が高いほど、それを認めない相手を強く排除して不寛容になるという事態になる。


これは、正義と悪の対立構造に似ている。

強い正義の味方は強い悪の敵を生む。


学級経営においてもこれは言える。

先ほど引用した文章の「ヨーロッパ」という大きな集団を「クラス」という小集団に当てはめると、次のようになる。


「クラスは寛容性を大切にするからこそ、不寛容な人があまりに多く入ってくるのを許すわけにはいかない。」


つまりは、担任が強く求める信念があると、それに反するものを受け入れにくくなる。

不寛容な人というのは、例えばクラスにおいていじめをする子ども、排他的な考えの子どもということになる。


例えば「いじめは許さない」という信念自体は一見悪くない。

しかしながら、実際にいじめをしてしまう子どもに対し、許さないという選択肢をとることは難しい。

本当に許さないとなると、それが新たな排除行為、いじめとなってしまう矛盾が生まれる。


例えば「みんな仲良し」を正義とすると、そこに馴染まない子どもは正義に反することになる。

「一人でいい」という子どもや「特定の人と仲良くしたい」は悪になる。

これを認めないこと自体、既に「みんな仲良し」に反する矛盾を生じている。


即ち、ある価値を「善」あるいは「正義」と規定してしまうと、矛盾が生じる。

例えば「自由な学級」は一見いいようだが、「やりたくないことはやらなくていい」ということを同時に認める必要が生じる。

これは困る。

権利と義務はセットになっていないと、機能不全を起こす。


つまりは、バランスである。

どんな状況においても確実な正義というのは存在しない。

自由な方がいいこともあれば、決まっていた方がいいこともある。

時と場合と状況によりけりである。


また、誤解を生みそうなのを承知で敢えて言えば、ある事柄に寛容な人と不寛容な人が混ざっていていい。

それが学びを生む。


不親切教師のススメ』では、「みんなでドッジボール」はやめようと書いているが、ドッジボールそのものを遊びから排除せよと言っている訳ではない。

やりたくない人まで無理に巻き込んでやらなくていいではないかという主張である。

これは、学習全般に関しても同じである。


ただ、その学びを成立させるためには、互いが傷つけ合わないようなルールの設定は必要である。

そこは学級担任の役目である。


話をすることと、相手の話を聞くこと。

特定の正義を押し付け突き通しすぎないこと。

価値観を擦り合わせること。


そういった試行錯誤の中で学級は成り立つといえる。

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