2016年12月31日土曜日

修学旅行「隣の部屋から音がして眠れません」

修学旅行で、子どもから「隣の部屋から音がして眠れません」と言われたとする。
実際に、その子どもの部屋に入って静かにしていると、確かに隣からかすかな物音がする。
消灯の時刻はとうに過ぎている。

さて、どう対応するだろうか。

「隣の部屋に注意に行く」というのが普通だろう。

もっとさわやかな切り返しの仕方はないだろうか。
子どもの将来を見据えた切り返しの仕方は何だろうか。

これは、先日船橋のセミナー講師として来ていただいた野口晃男先生が「校長講話」というコーナーで取り上げた、実際にあったことのトピックである。
(『校長室の窓から(別冊)』P.37より改変して引用)

詳しくは述べないが、簡単に言うと「小さなことを気にならない人間になること」の方がよほど大切ということである。

今年もついに終わる。
来年は、もう少し人間的に大きくなりたいと願う。

2016年12月30日金曜日

「みんなの学校」流・自ら学ぶ子の育て方

年末年始、家でゆっくりしつつ、読書をする方も多いと思う。
そこで、ぜひおすすめしたい本を紹介する。

『「みんなの学校」流・自ら学ぶ子の育て方』
木村泰子 著 小学館
https://www.amazon.co.jp/dp/4098401711

読んでいて、実にさわやかな気分になれる本である。
同時に、学校の「常識」に縛られて、さわやかでない教育をしている自分には、耳が痛い本でもある。

本文の中にある「全校道徳」の実践は、特に興味深い。
道徳とは、必ずしも資料を読んであれこれ考えるものとは限らない。
1年生から6年生までが一緒に道徳を学ぶというこの実践は、アクティブ・ラーニング時代の道徳教育の一つのヒントになる。

教師の側にとっても、問いかけられる。
例えば、何で教室で授業をしなくてはいけないのか。
学校の外に出て、広い野原の真ん中で音読がやれたらどんなに素敵か。
一昔前には、そんな自由な教育をどこでもできていたのかもしれない。
今は「常識的に」考えて、やれない。(やらない。)
それを敢えてやってしまう。
「大空小学校」の名に相応しい、自由な発想の教育実践の数々に圧倒される。

ぜひご一読いただきたいおすすめの本である。

2016年12月29日木曜日

サークル活動とアクティブ・ラーニング

友人たちとやっているサークルでの話。

本サークルは、「来るもの拒まず、去る者追わず」で、ゆるゆる続けていこうというスタンスである。
サークル活動自体の宣伝もしていない。
話をききつけて興味のある人が来る。

価値観の違いを楽しむ方向があるので、意見も「歯に衣着せぬ」勢いで互いにズバズバ言う。
指導案を持ち込んでも、単に「いいね!」とならずに、率直に意見を言う。
そして、終わった後は「今日来て良かった!得した!」と思える。

こういった学び合いを可能にする要素は何か。

一つは、信頼感。
自分の味方であるという感覚ともいえる。
相手をやっつけようというのではなく、建設的に解決策を考えようとしてくれている感覚である。
だから、互いにどんどんものが言える。

一つは、知識と経験。
ある程度の知識と経験がないと、意見を言いたくても言えない。
代案も浮かばない。
勉強会の効果を高めるためにも、事前の勉強や実践が必要である。

一つは、楽しもうとする姿勢。
学ぶことが楽しくてたまらない感覚。
新しい知識や見方を得られることに喜びを感じられるか。
人間独自の知識欲ともいえる。
遊びと学びの境目がない状態である。

これらは、今求められている「アクティブ・ラーニング」に直接つながる。
「主体的・対話的で深い学び」そのものである。

子どもにアクティブ・ラーニングを求めるなら、まず教師から。
サークル活動への参加は、その実現にうってつけである。

2016年12月28日水曜日

教えているつもりで教わっている

教育実習が終わって考えたこと。

担当した実習生たちが共通して言っていたことが
「小学校教員になりたいという思いが強くなった」ということ。

これほど嬉しいことはない。
これも、子どもたちと、関わった全職員のお陰である。
ちなみに、私が忌引した関係で、通常よりたくさんの職員に関わってもらった。
不幸中の幸いで、これが実習生にかなりのプラスの学びをもたらしたようである。
私の抜けている部分を見事に埋めていただき、帰ってきたら逞しくなっていた。
チームで育てる。
素晴らしいことである。
たまたまそういう環境の職場にいた幸いではあるが、自分もそうありたいと思う。

実習生のことについて書いたが、これはそのまま子どもへの教育にも当てはまる。

卒業させた子どもたちが、どう思うようになればいいのか。
「早く社会に出て人々の役に立ちたい」
「もっともっと勉強をして、世の中のことを広く深く知りたい」
こんな風に考えるようになったら、ある種成功といえるのではないかと思う。

またそのためには、ある先生にだけ教えてもらうより、複数の先生に教わった方がいい。
偏らずに、それぞれの価値観や考え方を学べる。
「自分のクラスの子ども」とかかえ込みすぎず、「学年の子ども」「学校の子ども」「地域の子ども」である。
ぐっと広げると「日本の子ども」「世界の子ども」である。
(これは、我が子にも当てはまる。我が子は自分の所有物では決してない。)
そう考えると、自分はそのごく一部としてどう関わり、何を教えられるか、見直せる。

結局、世のため人のために、自分を最高に生かせる人間になってもらいたいのである。
それは、教える自分自身が、そういう人間を目指していないといけない。
「主体変容・率先垂範」が、教える仕事の根幹である。

そう思うと、とても「模範」とはいえない自分がいる。
しかし、よく考えると、一生「完璧な人間」にはなり得ない。
どうせ間違っている人間なのだから、子どもにも実習生にも学べばいい。
間違えたら謝って直していけばいい。

教えたこと以上に、たくさんのことを学べた教育実習だった。

2016年12月27日火曜日

ノイズキャンセリング

前々号の続き。
雑事にとらわれていると、小さな大事に気づけない。
雑事とはいわゆるノイズである。
周囲の声ともいえる。

本当に自分がやりたいことは何なのか。
あるからやるとか、仕方なくやるとか、きまりだからやるとかしていると、どんどん頭が硬化していく。

授業でも同様。
教科書にある内容であっても、やりたいことはあるはずである。

今日という日に、学校で、何を本当にやりたいのか。
日々の価値を考えて過ごしたい。

2016年12月26日月曜日

8の字跳び指導の最重要ポイント

毎年、この時期になると、このブログのページビューが急激に伸びる。
理由は簡単。
縄跳び大会シーズンだからである。
そこで、8の字跳びに関する記事を上げる。

明治図書WEB連載「学級づくりにいかす!体育授業」の第7回記事がアップされた。
http://www.meijitosho.co.jp/eduzine/pe4class/?id=20160940

今回は、8の字跳びの記事である。
以前から何度も書いているが、必要な要素を入れて手直ししたものである。
割と端的に大切なことが書けているように思う。(自画自賛。)

次に引用するのが、最も大切な部分である。
==============
教師の側が技術を学び、「自分が跳ばせる」という信念を持って指導すること。
何より、がんばっている子どもを信じてあげることが最重要です。
===============
技術は、前提。
これに加えて、信念が必要である。
できないで苦しむ子どもを教えるのは、しんどい。
しんどいが、ここを信じてやるしかない。
価値のあることは、一筋縄ではいかないと常に肝に銘じたい。

2016年12月25日日曜日

星がたくさん見えるのは綺麗だが

宮崎県へ帰郷しての気付き。

私の生まれ故郷は、かなり山の中にある。
田舎だと、周辺にコンビニのような強い明かりが一切ない。
すると、星がものすごくたくさん見える。
普段見上げている空と同じとは思えないほどよく見える。
天の川が星の川であることがよくわかる。

それはそれで素敵なのだが、一つ気付いた。
たかだかオリオン座が、なかなか見つからないのである。
普段はほぼ0秒で発見できる星座なのに、なかなか見つからない。
理由は明白で、周りの星が見えるために、一等星すら目立たなくなるからである。
これは、周辺の些細なことに気をとられていると、大きなものが見えにくいということに通ずる。
学級でいうならば、雑事にとらわれ、子どもの成長を考えなくなることである。
例を挙げると「アクティブ・ラーニング」にとらわれすぎて、子どもの成長を考えない授業がそれである。
やるべきことにとらわれすぎて、子どもと話す時間もとれないほど忙しい状態がそれである。

このオリオン座の見え方は、逆にもとれる。
はっきり見えるものだけに目をとられると、周囲にある小さな光には気付けない。
学級なら、元気よく手を挙げたり、運動ができたりするということは見えやすい。
しかし、内面の深い考察や悩みは、あっても見えにくい。
よくよく内省している子どもは、すぐには手を挙げないし、すぐに相談に来ない。
その声なき声を拾う工夫が必要である。

星を眺めているだけでも、色々と気付くものだと思った次第である。

2016年12月24日土曜日

与えたものだけが残る

今日は、クリスマス・イブらしく「与える」をテーマにした話。

伯父が亡くなり、遺品等の整理をすることになった。
それを通して、色々と思うところがあった。

伯父は、生前に様々な賞を受けていた。
トロフィーやら感謝状やら色々ある。
内閣総理大臣からの寄贈品もある。
ただ、これらの品々は、当の本人がいないと何の価値もない。

一方、伯父が賞を受けるに当たり、その恩恵を受けた人がいる。
花や音楽、絵画等の芸術ならば、作品が残り、人々を感動させる。
盲導犬や警察犬の訓練をしたのならば、その犬たちが活躍する。

つまり、与えたものだけが残る。
得たものはすべて失う。
死後に残るものは、与えたものだけである。
野口芳宏先生のご高著『利他の教育実践哲学』にも同じ言葉が書かれている。
https://www.amazon.co.jp/dp/4098373912

与えたものしか残らない。
「放てば手に満てり」の言葉と同じである。

教師の仕事を通しても、得たと思ったものがある。
しかし、それは必ず失われる。
与えられたことだけが、この先も残る。
教師の仕事にとって、与えてずっと残るのは子どもの姿。
それがすべてである。

私は幼少期、この伯父に大変可愛がられた。
モノは一切要らないし残らないが、伯父との思い出だけは30年経った今でもはっきりと残っている。

生きている内に、少しずつ、与える人の側に移っていきたいと思った出来事だった。
クリスマスも、与えることのできる一つのチャンスである。

2016年12月23日金曜日

寄りかからない同僚性

前々号で紹介した、附属小の先達に学ぶ研修会のシェア。

同僚性について。

同僚性は必要である。
仕事は一人ではできない以上、当然のことである。
しかしながら、おんぶに抱っこで寄りかかったような状態ではいけない。
あくまで自立した者同士であることが同僚性の条件である。

自立した者同士の授業研鑽の好例として、野口芳宏先生が挙げられた。
互いに授業案を見合い、ああでもないこうでもないと話し合ったという。
自立した者同士だからこそ、研鑽もできる。
また、そういった同窓会の諸先輩方を大切にすべきであるとお話された。

また同僚性という意味では、教師は職員の中でも最大の「心配り点」になるべしということ。
事務職員や用務員、警備員といった様々なお世話になっている方々に、横柄な態度をとっているようでは話にならないということである。
PTA活動を役員と教頭に丸投げしているようではダメということである。
PもTも連携してこそのPTAである。

なるほど納得と頷きながら、出来ていないことが多いと反省しきりである。

2016年12月22日木曜日

「サンタクロースはいるの?」に対する切り返し

「サンタクロースはいるの?」に対する切り返し。

私はずっと決まっていて、
「え!?いないと思ってるの?」である。
さらに
「いると言っている人にはいて、いないと言っている人にはいないだろうね。」
と続く。

これだと、いる派、いない派、どちらの考えも否定していない。
ただ「いる」と「いない」では、どちらが素敵か。
私は「いる」の方だと考える。
感情的な話ではなく、論理的に考えても、「いる」。

子どもに対しては、先の回答で基本的に終わりである。
「でも、うちのお父さんが・・・」と追撃してくる場合、きちんと答える。
「サンタクロースだって、全ての子どもには届けられない。
そうすると、優先順位がある。
自分だったら、どんな子どもから回ってあげる?」
子どもは「貧しい子ども」「普段からプレゼントとかをもらえない子ども」等を挙げる。
「自分は、当てはまってる?」
「う~ん、当てはまらない。」
「そう考えると、豊かな家は、後回しなのかもね。
お家の人がたくさんプレゼントをくれるからね。
その分、他の子どもを幸せにしてくれてるよ。
色々してくれるお家の人に感謝しないとね。よかったね。」
大体、こんな感じである。

つまり、大人にサンタが来ないのは、至極当然である。
ヒナ鳥のように口開けて待ってないで、自力で何とかせいということである。
白馬の王子様も同様で、欲しいなら王宮に自ら攻め込んで、磨き上げた自分の魅力をアピールするのが大人のやり方である。

また話が逸れた。
さて、それでは、何をもって「いる」といえるのか。
サンタクロースの重要な存在意義は「人々を幸せにすること」である。
プレゼントの他に、トナカイやら煙突やら付随するものは色々あるが、メインはとにかくそこである。

つまり、幸せを感じさせる存在が、サンタクロースである。
12月25日に、幸せになる子どもが世界中に存在しないのか。
弁証法的にも、存在するといえる。

サンタクロースの正体が何者なのかという点においては、議論しない。
トナカイに乗って空を飛ぶかどうかは、知らない。
多くの日本家屋に、煙突はない。
そんなことは知らないが、サンタクロースの要件を満たす者は確実に存在するということである。

もちろん、世界中には幸せになれない子どももいるのが現実である。
そこに対し、何かしらの手をうつ人もいる。
世界の恵まれない子どもに対し、何かしらの施しをしている人がいる。
その存在は、その子どもにとって、サンタクロースそのものである。
そう考えれば、自分も、サンタクロースになれるチャンスがあるのかもしれない。

教室にいる大人は、教師だけである。
道は遠いが、サンタクロースのような、幸せをプレゼントできる存在でありたい。

2016年12月21日水曜日

対話は有益 言い争いは不毛

クリスマスが近い。
給食の時間、子どもたちとプレゼント&サンタクロースの話題になった。

6年生ぐらいだと、「サンタはいない」という考えをもつ子どもの割合がかなり増える。
「いる」という考えをもつ子どもも当然いて、サンタはいるかいないかで議論が始まる。
目撃証言や証拠の提示など、自分の主張が正しいことを何とか通そうとする。
6年生だとさすがにあまりないが、割合が半々の中学年ぐらいの年齢だと、本気で喧嘩したりする。

基本的に「対話は有益」だが「言い争いは不毛」である。

対話は、互いの肯定から新たな解を生み出す。
残るものは、対話者すべてにとっての新たな視点である。
前提として、「これもあるけど、それもあるね。」という立場である。
生産的活動であり、WINーWINの関係である。

言い争いは、互いの否定と自己主張が中心で、相手の虚を突き、自己の正義を振りかざし、打ち負かす。
片方が残り、他方は失われる。
消費的活動であり、WINーLOSEの関係である。

ディベートや議論は、かなり意識してしないと、単なる言い争いになりがちである。
アメリカの大統領選挙のように相手を倒さねばならない場や、国会のような特定の考えに寄った案を通す場ならば、必要である。
しかし、共同体感覚を目指し、全員の幸せを目指す教室においては、言い争いはマイナスに働きやすい。
算数のようにゆるがない正解を求める場にしても、相手の考えを尊重しながら進める必要がある。
むしろ、違った意見があるからこそ、正解の真理に近づけるようなものが最高である。

話が逸れた。
サンタクロースがいる、いない議論が目の前で展開されている。
「先生、どうなの!?」と詰め寄ってきた。
あなたならどう切り返すか。

長くなったので、次号。

2016年12月20日火曜日

恩恵は権利に変わる

勤務校が50周年を迎えた。
それを記念して、職員を対象に先達から学ぶという研修の機会を得た。
そこでいただいた話の数々が大変素晴らしかったので、一部シェアする。

「恩恵は権利に変わる」という、示唆に富んだ言葉を教えていただいた。
例を挙げる。
ある行事をした後に「お疲れ様です」とコーヒーを出してもらったとする。
その時、思いがけぬ恩恵に、自然と「有難う」の言葉が出る。
ここまではいい。

翌年、同じ行事に参加する。
終わった後に、特に何もなかったとする。
すると「コーヒーは出ないの?」となる。
「去年は出してくれたのに。」と不平・不満を抱く。
なくて当たり前のことのはずが、いつの間にか権利に変化している。

ごく単純化すると、そういう話である。
なるほど納得である。

ここからは私見。

こういうことは、世の中に溢れている。
社会が発達し、サービスが向上するほど起きる。
最初はちょっとした店側の心遣いのはずが、客はやがて「してもらって当然」になる。
だから「御客様」である自分が神様のように扱われないと不満になる。
それは店側のおもてなしが恩恵ではなく、権利に変化しているからである。

これがあらゆる関係で起きる。
学校と保護者の間でも起きる。
「前の担任は云々」もその一つ。
一方で「保護者が云々」も同様。
どちらも、他人に責任転嫁している点で同じである。
むしろ、互いに「いつもお陰様で」の心があって然るべきである。

学級と子どもの間でも起きる。
学校は、子どもを良くして返すのが仕事である。
いらぬ「サービス」をしすぎて「御子様」を育てないことである。
大人や社会に対して不敬な子どもを育てているのは、他ならぬ学校自身である。

視点を変えて、労働争議なども、権利を主張しすぎるとこれになる。
給料の額面に不満を訴える前に、自分が給料分以上きっちり働けているかを振り返る必要がある。
労働時間の長さに不満を訴える前に、自分が短くする工夫や勉強をしているかを振り返る必要がある。

自分が受けている「有難い」恩恵を忘れていないか。
何かの権利を主張する時は、いつでも振り返るようにしたい。

2016年12月19日月曜日

ピンチは見方次第でチャンス

単著「ピンチがチャンスになる」に関連した話。

実習生の授業を見ていると、「勿体ない!」と思うことがある。
子どもが、指導案にはない反応を出してくる。
正しくはないが、面白い見方。
別の解。
教える側の想定を越えた答えである。

こういう時、実習生はこの反応が「ピンチ」に見えている。
実はチャンスもチャンス、「大チャンス」である。
そういう反応にこそ、平坦な授業をぐっと盛り上げるパワーがある。

先日は、こんなことがあった。
6年生の比例の学習。
「比例の表をみて、XとYを用いた式に表そう」と投げかけた。
机間巡視すると、次の二つに分かれていた。

Y=X×決まった数
Y=決まった数×X

教科書を見れば、後者であるが、前者の反応が多かった。
どうするか。
実習生に「聞いてみれば?」と投げかけ、反応を見た。
ノートになぜそちらが正しいか書く。

すると、やがてそこかしこで議論が始まった。
前者が正しいと思っていたら、理由を書くほど矛盾してくる。
結局、決まった数が「1あたり」を表すことから、後者が正しいということに落ち着いた。
(ただし、実は問題によっては、前者の方が適切なこともある。後々また話し合えばよい。)

実習生自身も、こういう授業を望んでいたという。
しかし、指導案上にはそれはない。
こんなことは予想していないのである。
一見するとどうでもいいことのようで、かなり重要であるが、やらないとわからない。
ピンチかと思ったら、これこそがチャンスである。
「指導案は書いたら捨てる」というのは、そういうことである。
脱線を面白がれるようになると、一つレベルアップになる。
「ピンチがチャンス」に見える状態である。

本書「ピンチがチャンスになる『切り返し』の技術」 には、
そういった「切り返し」の技術がたくさん書かれている。
http://www.amazon.co.jp/gp/bestsellers/books/500322/ref=pd_zg_hrsr_b_1_5_last

特に若い先生はこれをぜひものにして、様々な場面に活用していただけたら嬉しい。

2016年12月18日日曜日

採用試験合格から新任3年目までに読んでおいて欲しい本

商品に対する自信は大切である。
売れるとまた一つ自信になる。

さて、次の私の単著が結構よく売れている。
『ピンチがチャンスになる「切り返し」の技術』
http://www.amazon.co.jp/gp/bestsellers/books/500322/ref=pd_zg_hrsr_b_1_5_last

すぐ使えるコンセプト以上に、一つ一つの切り返しの裏にある哲学がわかるのがポイントである。
「何のために」が抜けた方法論は、空々しい。
それは「お年寄りに席を譲ろう」というような、わかりきった価値を扱う道徳の授業のようである。
「別に譲らなくていい」と子どもが言った時に、その言葉の真意を読んでいくことが大切である。
その意外な発言こそが多様な価値観や見方を学ぶ場のスタートになり得る。

本当は、本に書かれていることの更に奥深く、裏側がある。
セミナーではそれを紹介したが、一回こっきりの記念セミナーだったので、ちょっと勿体なかったとも思う。
(どなたかサークル等で呼んでいただけたら嬉しい。)
まあ、逆に言えば、こちらはニーズがなかったということで諦める。

ちょうど採用試験合格&クリスマスのタイミングなので、知り合いにいたらプレゼント等に使っていただけると嬉しい。
教育実習をやっているとわかるのだが、とにかく基本を知らない。
知れば即効性のあることを知らない。
教えてもらえないからである。
それも当たり前で、ピンチになるまで知ることができない知識だからである。
だから、予め知っておいた方が確実にいい。
休職や離職の多い新任の時期には、特に役立つ内容だと思う。

若い人には特に早めに読んでもらえるのが良いと判断し、今更ながら再度紹介してみた。

2016年12月16日金曜日

好きなことを満足するまでやるべし

物理に、作用と反作用の法則がある。
物理法則だが、万物普遍の法則である。

「情けは人のためならず」の示す通り、人への情けが自分に返ってくる。
それで「また人に優しくしよう」ということになる。
また人に助けてもらえることになる。

一方「火中の栗を拾う」ことをすれば、当然火傷をする。
それで「また拾って」ということになる。
また火傷する羽目になる。

ここで、幸せについて考える。
「幸せすぎて怖い」という言葉をきくことがある。
幸せすぎるから、次は反作用で不幸が来るのではないかという考え方である。

これは間違っていると思う。

幸福の反対は不幸であるが、反作用は反対の性質のものが返ってくる訳ではない。
力に対して返ってくるのは同質の力である。

つまり、幸福の反作用は幸運である。
幸せを感じて何かをすると、いいことが返ってくる。
辛さを感じて何かをすると、悪いことが返ってくる。
これが正しいと思っている。

例を挙げる。
例えば、あるテーマで論文を書くことになったとする。

書くことが好きで、大変ながらも楽しみながら書き上げた論文がある。
これがたまたま好評で、次も書いてという話になる。
幸せへの反作用としての幸運である。

一方、書くことが嫌いで、大変な思いをして嫌々必死で書き上げた論文がある。
これがたまたま好評で、次も書いてという話になる。
辛さへの反作用としての不幸である。

起きている現象自体は全く同じなのだが、幸か不幸かは最初の力のかけ方次第である。
感謝や使命感、幸せからの反作用は、幸運で返ってくる。
嫌悪や義務感、辛さからの反作用は、不幸で返ってくる。

嫌々ながら「頑張る」ことをすれば、嫌なことがますます大きくなって返ってくる。
だから、過労になるかどうかは、その仕事内容を好きか嫌いかが相当に関係する。

好きなことを満足するまでやる。
それがこれからの時代のスタンダードの働き方になると思う。
それじゃ食っていけないという「老人」(年齢不問)のアドバイスは、きかない。
なぜなら、それは好きじゃないことをして苦労している人のアドバイス(というより小言)だからである。

選択肢は自分にある。
他の誰も自分の人生を背負ってはくれない。
自分が自分という会社の経営者である意識を持って生きたい。

2016年12月15日木曜日

過労防止策 いい人にならない

気遣い。
思いやり。
大切である。
しかし、度を過ぎると、過労の原因になる。

実際、わがままな方が、ストレスは溜まらない。
いい人を演じてストレスを溜めて倒れては元も子もない。

世の中には、真の「いい人」が存在する。
滅私による奉仕に生き甲斐を感じる神様のような人がいる。
マザー・テレサは、その文句なしの好例である。
その行為は、もはや神様にしか見えない。

しかし、自分がそれになろうとすると、無理がある。
例えば、誰もやりたがらない雑用や辛い仕事を自分が引き受ける。
それ自体はいいことかもしれない。
しかし「いい人」に見られようとしてやるのであれば、本末転倒。
それが「自分を磨くため」「世のため人のため」と思ってやり甲斐をもてるならば、大いにやる。
その奉仕の精神の極地がマザー・テレサの領域である。
ただ、自分がマザー・テレサと似たタイプの人間かどうかは、見極める必要がある。

例えば、人を嫌ってはいけないという前提がある。
これ自体はいい。
ただ、人を嫌わないということと、行為を嫌わないということは別物である。
「罪を憎んで人を憎まず」という言葉の指すところである。

嫌なものは嫌である。
それなのに「私は教師なんだから」「社会人なんだから」「大人なんだから」とか立場で理由付けをして感情を否定する。
そうやって自分を否定するのが一番よくない。
その人を嫌わないまでも、嫌いな行為は嫌いである。
それは嫌と言ってよい。
あなたが誰かを傷つける権利がないのと同様、誰にもあなたを傷つける権利はない。
嫌なことを嫌と言わないから、ストレスが溜まる。

私は、かなりはっきり「嫌」を態度と言葉に出す方である。
「何それ?けんか売ってる?」とか「今の言葉、すっごい嫌。」とかはっきり言う。
大人げないことこの上ない。大人として、いいとは思えない。
しかしこの態度は、割と誰に対しても一貫して同じである。
大人と子ども、年上と年下、男女等、立場に関係ない。

唯一の例外は、保護者。
接触する機会が少なすぎるので、ダイレクトな物言いでは意図が伝わらず、関係性が保てない。
結果的に間にいる子どもが犠牲になるので、ここだけは言い方を考える。

これが年の近い仲間同士だと、けんかになることもある。
周りから見れば、多分ただの「ガキ」である。
ただ、そうやってけんかできる位の相手の方が、関係性が良好である気がする。
良好な人間関係は、「裏」が少ない方がいい。
表、素を出しまくりである。
空気なんて読んでられるかというぐらいのものである。

嫌なものは嫌という。
いい人にならない。
『嫌われる勇気』がベストセラーになった理由も頷ける。
https://www.amazon.co.jp/dp/4478025819
嫌われる勇気が必要なのと同様に、嫌う自分も認める必要があるように思う。

2016年12月14日水曜日

休日出勤の習慣を断ち切る

過労と関連して、教師の休日出勤の問題について。
これは、部活動等をいきいきとやっている人の場合は除く。
例えば高い目標や志があり、望んで休日も研究等をしている場合は当てはまらない。
何かのやる気に満ちている場合ではなく、あくまで「仕方無く・やむを得ず」出勤の場合である。

望まない休日出勤の習慣が、慢性疲労や学級崩壊の原因になっているかもしれない。
以下にそう考える理由を述べる。
 
休日出勤の最大の原因は、日常の「お残し仕事」にある。
「後でゆっくりやろう」の精神がここの原因。
「後で」に休日を含めようとすると、大量に「お残し」が出る。
それをやるなら、「超残業デー」を設定してでも、金曜日の夜に終わらせるに限る。

望まない休日出勤の最大のデメリットは、疲労感の継続と自己有能感の低下である。
「世間が休むこの日まで働く自分は、何て仕事が遅いのか。」と自己認識するはめになる。
その肉体的&精神的疲労が続き、うつなどの病気を引き起こす。
いつも疲れているからパフォーマンスが下がり、ますます仕事が遅くなり、さらに残業が増える。

絶対にこの「負のスパイラル」にはまらないこと。

特に学級担任の場合、この悪循環の加速度がものすごいので要注意である。
日常的に疲れていることにより、対応も鈍くつまらない授業になり、叱る機会が増える。
(そもそも本人が授業を楽しめていない。)
それに反発してますます叱る機会が増え、授業が遅れる。
そうすると、今度は真面目な子どもが反発し始め、手に負えなくなる。
気がつけば、崩壊状態。
回復するには、ここに辿り着くまでの数倍の時間を要する。
ここが怖いから、「学級崩壊しない」系の話や本はニーズが高い。
学級崩壊を避けたいなら、本を買う前にまず休日出勤の習慣を断つことである。
その上で本を買って、休日にゆったりコーヒーでも飲みながら読めばよい。

休日は、出勤できないものと割り切る。
習慣を変える「大きな変化」は「大変」だが、だからこそやる価値がある。
若い人は仕事を残したままの金曜日の夜の深酒をやめて、休日の早朝コーヒーに切り替える。
土曜日の昼から外の色んな仲間と交流・活動した方が、二日酔いで寝ているより100万倍よい。
たとえ飲み会を犠牲にしてでも、休日出勤だけは避けて欲しいと思う次第である。

2016年12月13日火曜日

過労死ライン80時間を考える

今回は、かなり真面目な話題。
自分としてもここ数年の中心的な関心事なので書く。

過労死がまた問題になっている。
人が死ぬまでに至らないと大きな問題にならないのがそもそも問題ではある。
(これはいじめ問題でも全く同じことがいえる。)

過労死するぐらいの人は、確実に真面目で気遣いのできる人である。
不真面目だったり自分勝手だったりする人ならば、そこまで至らない。
途中で必ずサボる、休む、誤魔化すなどの抜け道を探す。
真面目でいい人、職場の人間的評価が高い人ほど、気を付ける必要がある。
(その点で私は安心である。)

残業時間が問題の槍玉に挙がっているが、そこは問題の本質とは異なる気がしている。
残業を月80時間が過労死ラインとされている。
単純に勤務時間外労働の総時数で考えると、中学や高校の部活動を担当している教員はかなりの数アウトである。

しかし、みんなが倒れる訳ではない。
むしろ、生き生きやっている人も山ほどいる。
「部活禁止」にしたら、逆に生気がなくなるのではないかという人もいる。
アンケートをとっても、ここの受け止め方は本当に個人によって異なる。

つまり、ラインとしては80時間なのだが、その内容にこそ本質がある。
今回新聞で取り沙汰されている件だと、本人がその残業内容を相当に嫌がっている様子がうかがえる。
行きたくない飲み会に深夜から早朝まで強制参加させられた上に、先輩方に仕事のダメ出しをされていたという。
なまじそういうのを乗り越えて強くなってきた人がいるから、話が余計ややこしい。

本人が嫌なことは嫌なのである。
努力とか根性の問題にすり替えてはいけない。
生理的に嫌なのである。
生理的、本質的に嫌なことで残業したら、たとえ1時間でも「過労」と同じ状態になる。

ちなみにこの「嫌なこと」とは「やるべきこと」とは違う。
どちらかというと、本人としては「要らないのではないか」と思っていることである。
それなのに嫌々渋々やっている自分を認識し、ますます嫌になって疲れるというパターンである。

基準はあくまで基準である。
本人の基準は別にある。
自分が辛いことでも、相手には楽しいことかもしれない。
自分が楽しいこと、善意であっても、相手にとっては辛いこと、悪意かもしれない。

自分が嫌だと思うことからは、努力せずに距離を置いた方がよいというのが、私の一貫した持論である。

2016年12月12日月曜日

当たり前の有り難さ

最近の気付き。

ものすごく疲れている日がある。
そうした時、何もかもが嫌になってくる。

しかし、そんな時こそ、当たり前の有り難さに気づける。

先日は、疲れて出勤した時に、同僚に明るく声をかけてもらえただけで元気が出た。
いつものことであり、普段それを有り難いと思うことはない。

学級に入れば、子どもたちが係や諸々の仕事をきちんとやっていていた。
私が疲れていても、いつもの通りだった。
これも有り難さに気付いてなかった。

少し元気が出てくると、ものすごく元気な気がしてくる。
普通がすごく思えてくる。

嫌なことや大変なこと、困難は、有り難さに気付くチャンスである。

2016年12月11日日曜日

言ってる割に

お酢や醤油、ラー油など、家の調味料関係がいっぺんに切れた。
不思議なもので、なぜかこういうのはいっぺんにくる。

そこでガラス瓶についたラベルを剥がそうとするのだが、これが手強い。
紙のラベルがべったりとくっついて、一向に剥がれないのである。
水で洗い流しながらやってもダメ。
しかもこれが、立て続けに3つ続く。
正直、ちょっと大変である。
飲料水ペットボトルみたいにプラスチックラベルなら楽なのだが、全面に張り付いた紙だと厳しい。

「ラベルはきれいに剥がして捨てる」を求めるなら、剥がれやすいラベルにして欲しい。
剥がしにくいラベルのままであれば、消費者が剥がさないでゴミに出す確率は格段に高まる。
消費者の努力だけでなく、企業の側も工夫すべき部分ではないだろうか。
(市によっては強力な水流等で吹き飛ばすので、ラベル自体剥がさないでいいところもある。)

ここに限らず、こういうことは、学校現場でも結構多い。

「集中しなさい」という割に、前面にごちゃごちゃと掲示物等、気の散るモノの数々。
「話を聞きなさい」という割に、話が長い&わかりにくい&つまらない。
「廊下は走らない」というものの、走りたくなるぐらい開放的な渡り廊下。(しかも実は自分も走っている。)
「もっと積極的に手を挙げて」という割に、回答を間違えると結構手厳しい。

まあ、大体「〇〇しなさい」と正しいことを言ってるつもりの時は、本人が工夫できていないものである。
ブログやメルマガでも同じ。
結構断定的にものを言っている時は、私自身が工夫できていないことが多い。
自戒を込めて、どんな「〇〇しなさい」が多いか、チェックしてみると色々見えると思った次第である。

2016年12月6日火曜日

アクティブ・ラーニングで学び合う授業づくり

10月に「学級を最高のチームにする極意」シリーズの新刊が出た。

『アクティブ・ラーニングで学び合う授業づくり 小学校編』 赤坂真二編著 明治図書
http://www.meijitosho.co.jp/detail/4-18-255616-6

私は「アクティブ・ラーニング時代の体育 ~子どもの「やりたい!」から始めよう~」
というタイトルで、マット運動とセストボールの実践を通したアクティブ・ラーニングの授業の紹介をしている。

以下、自分の執筆部分から引用。
==========
1 指導があるから、子どもは自由になる
(1)これをしたから「アクティブ・ラーニング」?
(省略)
単に「自分たちで問題を見つけましょう」
「グループで話し合いましょう」と
「型」を子どもに投げればいいというものではありません。
公開研究会などで、それだけでうまくいく授業を見ることがありますが、
普段からそれでうまくいくような指導がなされているのです。
日常的に問題発見や解決の具体的な方法について指導を受け、技能として身に付けているのです。
そこを理解せずにそのまま自分の学級で真似をすると、
全く力のつかない、発展性もなく意味のない「話し合い」と称した活動が延々と続くことになります。
一見矛盾しているようですが、子どもをアクティブ・ラーニング状態にするには、教師の主体的な指導が必要なのです。
そして教師と子どもも、協働的に学習している必要があるのです。
教師主導だけ、子どもの自由だけ、どちらでもアクティブ・ラーニングの状態にはならないというのが前提です。
==================

冒頭の、一番主張している部分を引用してみた。
ここが強く感じている部分である。

アクティブ・ラーニングの3つのキーワードは、
「主体的な学び」
「対話的な学び」
「深い学び」
である。

これを、教える側がまず実践する必要がある。
いきなりこれを子どもに求めて丸投げしても、力がつかないどころか、ひどいことになる。

教師の側が主体的に、対話的に、深く学ぶことが求められる。
特に「対話的に」「深く学ぶ」というのは、一人では難しい。
人の話をしっかり聞いたり、専門家にも学ぶ必要が出てくる。

何はともあれ、一度お読みいただければ幸いである。

2016年11月30日水曜日

若手教師と保護者 その2

前号の続き。
学校の若年化と、保護者との関係づくりをどうするか。

専門性というのは一朝一夕で身につくものではなく、熱心に勉強してもある程度時間がかかる。
ではどうするか。
「謙虚さ」と、加えて若さ特権の「元気」の出番である。

保護者の立場になって見てみる。
小学生の子どもの担任が、新任3年目までの若手。
何を求めるか。

専門性も欲しいところだが、恐らくそこは強く求めない。
たとえ授業がうまくなくても、さもありなんというところである。
(30代以降ならそこも欲しいところではある。)

それよりも、子どもが「学校が楽しい!」と言うかどうかである。
担任の先生が一緒に遊んでくれたり、話を聞いてくれたりしているかどうかである。
極論、若い先生は、うまくいくかはどっちでもいいから、エネルギーを前面に出してぐいぐいやって欲しい。
若いのに元気がないのと、妙に対応が冷たいのだけはいただけない。
つまり、あんまり遅くまで事務系の業務で残っているのは、よろしくないということである。
翌朝の爽やかな「おはよう!」に支障をきたすからである。
(教材研究が楽しくて打ち込みすぎて、目がぎらぎらしているのはOKである。)

若手は、謙虚に保護者と一緒に歩むつもりで。
子育てに関しては、教えてもらうつもりで。
そして「クラスの子どもが大好き」なら言うことなし。

若手ならではの特性を生かして、学校を元気にしてくれたら最高である。

2016年11月29日火曜日

若手教師と保護者 その1

新聞の社会面を読んでの雑感。

社会全体の晩婚化が進んでいるのは周知の通りである。
並行して出産の平均年齢も上がり続け、2011年から30代に入っているそうである。
50年前に比べ、5歳以上の上昇。
そうなると、保護者の平均年齢も必然的に上がってくる。
平均はそのままではあてにならないが、参考までに素直に平均だけで考える。
6~12歳の小学生の保護者の平均年齢は36~42歳となる。
第二子以降の保護者となれば、これがさらに上になる。
一昔前は35歳の小学校教師であれば保護者の方が年下が多かったのが、逆転する計算である。

加えて、教師の側は団塊の世代の大量退職で、一気に若年化が進む。
都内では校内がほぼ20代の若手から30代という学校も珍しくない。
そうなると、難しくなるのは保護者との関係である。

これからは、原則、保護者の方が年上なのである。
もっというと、母親に社会人としてのキャリアを多く積んでいる人が更に増える。
そこを自覚した保護者対応が必要になる。

今まで以上に、保護者対応に謙虚さが必要になる。
そして、教師の職業としての専門性が必要になる。
そこがないと、若手の教師は「偉ぶってる若いコ」と見られてしまう可能性が高くなる。

長くなったので次号へ続く。

2016年11月27日日曜日

自分がやっていないことをさせない

うまくいかない時の法則。
自分がやれていないことを子どもにやらせること。

子どもが思うように動かない、変化しない。
そんな時、その求めることを、自分がやっていないことは多い。

自分が疲れていたら、子どもにそれが映る。
同僚に気を配れてないなら、子どももクラスメイトを気遣わない。
授業の感じがいまいちなら、先に自分が楽しんでいない証拠。
または準備不足。
子どもから多様な意見が出ないなら、教える側にが多様な意見がない証拠。

求めるものは、常に先取り。
全ては私の責任。
他人に責任を求める前に、自分自身を変えていきたい。

2016年11月25日金曜日

言葉を削る

話が長い。
聞いてもらえなくなる要因No.1である。

長くてもすごく関心のある事ならいい。
しかし、授業等で前に出る場合、すべての子どもにそうである確率は低い。

ならば、ずばり短く話すこと。
それも、ゆっくり、落ち着いて、低く響く声で伝える。

指示は少なく、活動は多く。
実習生に教えながら、身につまされる話だったので書いてみた。

2016年11月23日水曜日

『鋼のメンタル』から生きることを考える

勤労感謝の日にちなんで、最近読んで感銘を受けた本の紹介。

『鋼のメンタル』百田尚樹 著 新潮新書
http://www.shinchosha.co.jp/book/610679/

『永遠の0』の著者といえば多くの方に伝わりそうである。
何かと頷けるところが多い良本なのだが、終戦時の日本についての、次の1節が特に考えさせられた。

==========
(引用開始)
今日、家族の元に帰れる、そして明日も働ける。
そのことがどれほどの幸せか、当時の日本人はみんな知っていたと思います。
(引用終了)
==========

『永遠の0』でも関係するシーンがある。
特攻隊の教官である主人公が、自身の特攻の前に一日だけ家に帰る場面である。

当たり前のことがどれほど有難いかを考えさせられる。
普通に暮らしていたら「死なないで生きられる」というのは、当時からすれば極楽浄土である。

働けることも同様。
企業がブラックかどうかも、残業の多い少ないではなく、社員の働き甲斐の有無に規定される。
厳しい話、ただ会社の文句を言っててもダメである。

生きている内、働ける内、日の暮れぬ内。(相田みつを)
今の職場で働けることに、そして日々生きていけることに、まずは感謝したい。

2016年11月21日月曜日

ゼロに戻る

里山活用や森林再生を行っている方からの学び。

木にはステージがある。
第一ステージは、痩せた土壌でもどんどん伸びる杉の木のような木達。
これが育つと、やがて次の芽がで出す。
それにつれ、杉は淘汰されていく。
やがて、密林状態になると枯れてしまう木、生き残る木が出る。
枯れた木は倒れ、種は地中に埋もれるが、芽は出ない。

やがてそういったことを繰り返す内に、最終ステージとなる。
最終ステージの木がすっかり枯れると、最初のステージの種が目を覚ます。
そうして、森林は循環していくという。

何でも、ゼロに戻る。
どれが偉いとか上とかではなく、その時々のステージがある。
教育観にもつながる話かと思い、紹介してみた。

2016年11月18日金曜日

『小学校体育科授業成功の極意』

最近読んだいい本の紹介。

『スペシャリスト直伝! 小学校体育科授業成功の極意』
木下光正 著 明治図書
http://www.meijitosho.co.jp/detail/4-18-136010-8

実習生指導で、何を教えるか結構悩む。
体育科もかなり教えるべきポイントがある。
この本は初任者を始め、体育を学び始める人に必要な知識が詰まっている。
さすが筑波大附属小で教え続けた超ベテランの先生の本である。

体育授業のマネジメント的な面として
「集合場所は決めておく」
「先生もしゃがむ」
といった基本的なことから、
「戦術理解を深めるために体育館のギャラリーから観察させる」
といった具体的な観察手法まで述べられている。
体育の本は難しい理論の本と技能に特化した本が比較的多いが、これは大変読みやすい。

体育の授業が苦手という人には特におすすめの一冊である。

2016年11月16日水曜日

創作のための基本ステップ

最近あまり書いてなかった、若年層向けの指導実践・技術の話。

どの教科でもそうだが「創作」をさせる時がある。
(図工科などはほとんどがこれである。)

創作をさせるまで至るにも、基本的なステップがある。
第一に「モデルがある」こと。
第二に「たくさん触れる」こと。
第三に「意欲が湧くまで待つ」こと。
第四に「模倣する」こと。
第五で「創作」である。

例えば、国語科の実践。
最終的なゴールとして詩を創作させたい時。
まず導入として「モデル」となる詩を提示する。
これは教科書に載っている詩でもよい。
最終的な創作で目指す詩の形に近いものがよい。

「なりきり」で詩を書かせたいと思った時には、工藤直子作の「のはらうた」を導入に用いたことがある。
すると、他の詩も読みたくなる。
工藤直子作品を揃えてみるのもいいし、他にも図書館に行けば色々ある。
とにかく、ここはたくさん触れて、多くの作品に読み浸らせる。
そうすると「書いてみたい」という気持ちが湧いてくる。

次に、お気に入りの詩を集めた「詩集」づくりに入る。
書き写すことにより、さらに作品にじっくり向き合うことになる。
ここで、自然と基本的な技法が身につくことも多い。
詩集づくりをしていく中で、「自分でも書きたい」となれば、そこでやっと創作である。

また、創作のために、教師が作ったものをモデルとして提示することもある。
遠回りのようだが、創作に至るルートとしては自然で確実である。

創作につながるモデルについては、教師が事前に作っているのが基本である。
創作の際の苦労や躓き、ポイントがわかる。
モデルは作るが、子どもの作品は大部分がここに似てくるので、場合によっては提示しない方がよいこともある。

とにかく「はい作ってみよう」でいきなり作らせず、指導すべきは指導する。
特にたくさん触れて浸らせる活動は、たっぷり時間をかけて中心に置く。
創作まで持っていきいたい際の、基本型である。

2016年11月14日月曜日

良い悪いのグレーゾーン

電車の出来事。
子連れの母親集団が前に座っていた。
1歳ぐらいのベビーカーの乳幼児。
当然、30分もじっとしている訳がなく、騒ぎはじめる。
騒ぐのをやめてくれなくて焦る母親。
一方、周りは穏やかに見守っている。
お年寄りの団体の方々は、「元気が良くていいわねぇ」などとニコニコしながら話しかけている。

わりとよくある風景である。
この乳幼児が騒ぐことに対し、「我慢のきかないだらしない子どもだ」という見解は普通しない。
(むしろ、寝てもいないのにそんな長時間じっとしている方が怖い。)
母親に対し「しつけがなってない」とも思わない。

ただ、この同じ行為もある一定年齢以上になると、単にマナーの悪い迷惑な人になる。
では、どこからが境目か。
これがグレーである。

周囲の側。
先のお年寄りなどだと、その許容範囲が広めである。
一方、ストレス疲れしている大人の場合、許容範囲は狭くなる。

同じ「電車で騒ぐ」行為であっても、小学生以上なら完全にアウト。
幼児でもどう見られるか危ない。

要は、年齢も行為も、許容ラインは各々の主観である。

例えば、就学前の幼児は、「お話」を聞くときに椅子にじっと着席すべきか。
幼稚園や保育園の方針によって、全く異なる。
1歳児でも座らせるところがあると思えば、座席自体がないところもある。

1年生ならどうか。2年生なら。6年生、中学生なら?
さすがに6年生で座ってられないのはダメだろうか。
しかし、海外に行けば話は別である。(そもそも、学校によっては座席自体がないこともある。)
つまり、全部「常識」による主観である。

自分の持っている常識は、かなり疑わしい。
それは本当に必要か。
それをするのはなぜか。
「将来困る」というのは本当か。

「常識」はとりあえず脇に置いておく。
自分が価値を感じていること。
そこに本音と実感があること。
教える時、間違っていてもいいが、自分への嘘があってはいけないと思う次第である。

2016年11月12日土曜日

修学旅行の「食べ歩き」は事前指導が命

前号の続き。
教えるべきは教える。
まずは「言われたから守る」「先生が見ているからやる」から入るのも手である。

修学旅行での班別行動。
寺社の見学も楽しいが、お土産を買ったり、ご当地ものを食べたりするのも楽しみの一つである。

ここにも教育の余地がある。
放っておくと、「食べ歩き」や「不適切な買い物」をする。
(ここの「不適切」ラインについては今回は割愛。)
やはり、事前に一言ぴしりと言っておくことに意義がある。
ただでさえ人混みの狭い道の中を、ソフトクリームを持って集団で歩いてくる小学生がいたらどうか。
これは、できればすれ違いたくない。
しかし、集団になれば気持ちが大きくなり、そんなことに配慮できなくなる可能性がある。

この辺りへの配慮がきちんとした職員が一人でもいると助かる。
事前に一言、全体での指導をすれば、食べ歩きや不適切な買い物は激減する。
元々ルールを守ることに心地よさを感じる子どもたちであれば、集団圧力がいい方向に働く。

これを言わずに「自主性」で判断させようとすると、失敗する。
悪気はなくとも、楽しくて浮かれている状況では、そこまで頭が回らない。
指導されていれば、「そういえば」という自主規制の心が働く可能性が格段に高まる。

班別行動中、ほとんど「先生は見ていない」状況である。
しかし、「指導された事実」があるかないかで、行動は大きく変わる。
もちろん、変わらない子どももいるが、多くは何かしら感じるものである。
そのレベルの子どもにまで守らせたい場合は「先生が見ているからやる」レベルまで落とす必要がある。
(つまり、ぴったり張り付く必要が出る。)
そこまでやるかどうかは、それぞれの教育観である。

自由にやらせる教育もある。
それが、目的に適うならよい。
目的に照らし合わせて、言うべきは言う。
言わぬべきは言わない。
見るべきは見るし、見なくてよいものは見ない。

だから、目的によっては「言われたから守る」「先生が見ているからやる」で入れば良いと思う次第である。

2016年11月10日木曜日

「担任がいない時に掃除をさぼる」を考える その2

前号の続き。

交通ルールだったら守らないと命に関わる。
赤信号の危険性は有無を言わさず教えるはずである。
誰しも子どもに「強制」するのをためらわない。
「強制」によって良い方向に「矯正」するのである。
師の野口芳宏先生の言葉を借りれば「善意の強制」である。
やがて、交通ルールの意味や価値に気付く。
言われなくても自主的に守るようになる。

しかし、これがこと掃除などの「教育」になると、ためらう人が増える。
「子どもの自主性」が気になるからである。
やもすると「管理主義」と批判される。
要は、一般論や他人の目が気になるのである。

そんなことはお構いなしに、良いことなら自信を持ってどんどん「強制」する。
それで、やっている子どもを認める。
やっていない子どもは、とりあえず目の外に置く。
その内やるはずである。(ずっとやらない子どももいるが、そういう「つわもの」への対策は最後の最後である。)

アクティブ・ラーニング論とて同様。
指導を怖れて、無策で待っていては始まらない。
まず教えるべきは教える。
基礎となる知識をしっかりと身に付けさせる。
その上で任せれば、自主的にあれこれ試行錯誤ができるようになる。
いきなり「自由にどうぞ」では、単なる指導の放棄である。

2016年11月8日火曜日

「担任がいない時に掃除をさぼる」を考える その1

実習を通しての気付き。

担任がいない時に掃除をさぼる子どもにどう指導するかという質問を受ける。
結論から言うと、「先生が見ているからやる」から入ればよい。

一般に、これはよくないとされる。
もう9月の段階なのだから、自主的に掃除をすべき。
学級経営が上手な先生方にお叱りを受けそうである。

しかしながら、自分としては、これは子どもとして割と本音の姿ではないかとも思っている。
自分の子ども時代を振り返ると、別に悪意がある訳でもない。
ただ、何となくさぼるのである。
目的がわかっていても価値がわかっていても、やはり本音は「めんどい」のである。

しかし、この「自然」な状態は、「教育」の場において都合がよろしくない。
そもそも掃除自体が、教育の場として設定されている。
掃除をしないと、汚いまま使うはめになり、不快である。
掃除屋さんを頼んでいない以上、必然的に担任か子どもがやるしかない。

そこで取り組ませ方は「先生が見ているからやる」から始める。
交通ルールと同じで、自分で気付く以前に言われるから守るのである。
そこに「やりたい・やりたくない」は関係ない。
必然性によりやらざるを得ないのである。

長くなったので次号に続く。

2016年11月6日日曜日

指導案を書くねらいは何か

実習生指導を通しての自省。

指導案通りの授業。
一見いいようだが、教える側の都合に沿った授業である。
実習生ならそれでも花丸である。
なぜなら実習生の指導案は、授業の見通しを持つことを目的としている。
つまりは、子どものためというより、授業者のためという側面の方が強い。
現場教員の指導案とは全く違うということである。

見通しなら、経験さえあれば誰でも持てる。
こういうことをしたらこうなるだろうと予測できる。
だから、実際の現場教員は、すべての授業において指導案を書く必要はない。

校内研究で書く指導案は、ただ見通しを持つために書くのではない。
研究仮説や研究テーマにどう近付く授業なのか。
それを文章を通して表現し、読み手に伝えなければならない。
自分のためというより、人に伝えるためという側面が強い。

また一方で、人に伝えるように書くというのは、自分の中での解を明確にする作業にもなる。
その解は、最終的に子どものためになることが望ましい。
しかしながら「こうするとうまくいかなかった」という失敗も成功への一つの解になる。
直接的に目の前の子どものためにはならないが、研究としての価値があることもある。

同じ指導案でも、その目的は何なのか意識して書きたい。

2016年11月4日金曜日

子どもの意見を尊重すべきか

子どもの意見を尊重する。
文句なしに聞こえはいいのだが、これも場合による。
尊重しない方がいい場合もある。

子育てをしている方はわかると思うが、我が子の意見を完全に尊重していては生活が成り立たない。
例えばおやつを無制限に与えれば、夕食を食べなくなるのは自明の理である。
テレビやゲームも同様。
寝る時間を整えるのは、家庭教育の力であり、子どもの意見の尊重はしていられない。
しつけは「おしつけ」から来ているが、おしつける面があってもいい。

特に、安全に関する面は、「おしつけ」でいい。
安全の判断のできない子どもに、赤信号では渡ってはいけないと厳しく言い続ければいい。
安全は何よりも優先される。
(一方で、子どもの冒険心の尊重は大切である。
木などの高い所に登るのを一律に止めさせれば、将来的に逆に危険である。)

学級のささいな場面でいうなら、席替え。
子どもの意見の尊重は必要か。
これも、場合による。

座席を決める意義の最たる部分は、学習効果の向上である。
落ち着いて学習できる、交流ができるといった面を重視する。
視力の弱い子どもは当然黒板に近い前の方がいい。
学習の準備や作業速度が極端に遅いなど、直接教師が支援をした方がいい子どもは、近くにいた方がいい。
周りの動きを見れば真似して動けるどもは、二列目以降がいい。
これらのことがわかっているなら、座席は子どもの自由にせずに、指定した方が効果がありそうである。

こういったささいな場面は、たくさんある。
どこで子どもの意見を尊重するのか、こちらの意見で進めていくのか。
ねらいに即して判断し続けることが望まれる。

2016年11月2日水曜日

教育実習は自己批正の場

教育実習の指導をしていると、客観的になれるので色々気づく。

例えば、無意識にやってたり逆に疎かになってたことに気付く。
体育を例に出すと、
「安全面が第一」
「太陽を背にしない」
「全体が見渡せる位置に立つ」
といった基本的なことは当然教える。

逆に向こうから
「準備運動は何を
すればいいのか」
「必要なのか」
といった根本的なこともきかれる。

また、子どもを叱った時などにも「この叱り方はよくないな」といったことも客観的にみられる。
要は、他人の目が常にあるので、隠せないのである。

これは大変貴重である。
常に模範として見られている。
しかし、こちらも決して完璧ではない。
穴だらけである。

日々プレッシャーだが、自己批正の場として活用していきたい。

2016年10月31日月曜日

残業疲れも内容次第

今月、教育雑誌『授業力&学級経営力』で「残業ゼロの時間術」という特集で書かせていただいた。
http://www.meijitosho.co.jp/detail/21080

タイトルが恐ろしすぎてご遠慮しようかと思ったのだが、せっかくの機会なのでお受けした。
編集者の方にも、附属小学校の場合は勤務形態がかなりの期間、特殊であることも告げた上である。
記事の中でも、そこは冒頭でちゃんと述べている。
その上での話を書く。

実は、結構残業が続いている。
陸上練習期間である上に、教育実習が被っている。
まずこの2点があるだけで、勤務時間の定刻自体が大きく変わる。
さらに体育の新しい提案がある上に、次年度の公開研究会に向けての研究授業が並行している。
6年生担任としての学級経営や授業等の本業務も、もちろんたくさんある。
そうなると、勤務時間内で済まない仕事も当然出る。

一例を挙げれば、実習生を一人で四人担当すると、放課後に指導したり一人ずつ相談を受けたりする。
実習生が授業の悩みについて真剣に聞いてくれば、当然最優先で答える。
四時に子どもを下校させてすぐ始めたとして、そこから一時間から二時間はかかる。
すると、その業務だけでもう勤務時間の定刻である。
授業の準備や研究等の諸々の業務はこの後スタートである。
きちんとやれば、どうやっても残業ゼロにはならない。
そういう特殊な状況を除けば、残業ゼロにすることはできる。
ただ、今の私は、その選択をしないというだけである。
残業してでもしっかり仕事をしたい時期なのである。

実習生の指導。
真剣に授業について悩む姿が、若かりし頃の自分と重なる。
そうすると、どうしても応援したくなる。
今目の前にいる実習生の成長が学校教育の未来、子どもの笑顔につながると考えると、やる気も出る。
ここに時間をかけることは、むしろ楽しみである。
公立校に勤務している時も実習生を何度か持たせてもらったが、充実の一言である。
まして、現職教員として活躍している元実習生をみると、感無量である。
採用試験合格の知らせが届いた時も、我が事のように嬉しいものである。

授業研究も同様。
研究が子どもの成長や喜びにつながると思えば、俄然やる気が出る。
今回の教材はハードル走。
ハードル走は、苦手な子どもも多い分、はまればめきめき上達する。
どうやると子どもがこの楽しさを追求するのか、目の前で変化が見られるのは最高に嬉しい。
逆に、同じやり方でもうまくいかない子どもには、どうすればいいのか悩むこともある。
真剣にやって悩むのも、仕事の楽しみの一つである。

そういう風に仕事を楽しんでいれば、残業も苦ではない。
そして、一気にやる日を設けて、時に定刻退勤する。
一緒に残業した仲間と飲みに行ったりもする。
そうやって楽しんでやれば、疲れも残らない。

要は、勤務時間どうこうではく、やはり内容。
本人が楽しいかどうかがすべての鍵である。

「いいこと」を引き寄せるギブ&ギブの法則

全国の仲間の先生から、時々葉書が届く。
私が尊敬する人は、筆まめの方が多い。
(いただく度に猛省である。)

その中のある方から、ご友人が本を出したからということで、次の本を紹介していただいた。
『「いいこと」を引き寄せるギブ&ギブの法則』
https://www.amazon.co.jp/dp/4569829244

人に紹介するというのは気合いがいる。
責任が伴う。
特に、友人知人といった大切な人に紹介する時は、変なものはすすめられない。
つまり、私にこれをすすめてくれる時点で、間違いないと判断し、即購入した。

実際購入して読んでみると、大変読みやすくためになる。
ビジネス書だが、ストーリー仕立てである。
ストーリー仕立ては、一見まわりくどいようで、記憶に残りやすく、能率的といえる。
「放てば手に満てり」が基本の考え方。
つまり、持っているものを手放せということ。
さらにいうと、自分のもっているものを人に提供せよということ。
「無財の七施」の話は、知っていたが、より深く意味がわかった。
教育にそのまま適用できる話である。

「外から安く買う」のではなく、「知人から高くても買う」のがなぜいいのか。
マーケティング理論とも関連して説明されていて、すとんと理解できる。

本ブログ読者の皆様にもおすすめの1冊である。

2016年10月29日土曜日

「なぜ」より「どうしたら」で問う

子どもが何かしらの問題行動を起こす。
例えば低学年で「お友達を叩いてしまった」でも何でもいい。
その時、どう対応するかは無限にあるが、かなり多いのが次の対応。

「なぜ(または『どうして』)叩いちゃったの?」(WHY)

気持ちをきこうという点ではいいのだが、これは答えにくい。
どう答えていいかわからず、黙ることになる。
または色々考えてうだうだ話し始めるが、要領を得ない。
「幼稚園の頃にいじわるをされた」というような無理矢理感のある理由をこじつける場合もある。

尋ねた側は恐らく「何があったの?」(WHAT)がわかればいいのだが、「なぜ」だと、行動の根本的な原因を問うことになる。

「なぜ廊下を走ったの?」も同様で、高学年なら色々理由はつけるが、本音は
「走りたかったから走った」のである。

そんなことより、尋ねるべきは
「次はどうしたらいい?」(HOW)
である。
繰り返されるのが問題なのだから、次にうまくいく方法を準備することが肝要である。
例え行動の原因が明確にわかっても、解決には至らない。

これは、実習生への指導にもいえる。
例えば指導案や指導の様子を見て、何か不備があったとする。
(その勉強をしに来ているのだから、不備は当たり前である。)
ここで「なぜ?」をあまりしつこく聞いてもしょうがない。
それよりも「どうしたい」「どうしたら」という視点で尋ねてみる。
答えは、それぞれ自分自身の中にある。
上から目線で「指導しよう」などと思うよりも、実習生自身が頭の中から引っ張り出すことである。

そんなことを意識していると、自分自身にも問いが返ってくる。
どうしたら、自分は実習担当として、実習生に良い影響を与えられるか。
結局、背中で見せるしかないというのが答えである。
不備を指摘すればするほど、自分のことのようで反省の日々である。

2016年10月27日木曜日

サークル活動で他律的自律

「木更津技法研」というサークルがある。
野口芳宏先生のご自宅で月1回の学習会を行う。
私も、今の学校に異動するまで、毎月参加していた。

今でも参加したいのだが、勤務地が遠く退勤時刻が遅い以上、どうしても例会の時刻に間に合わない。
土日開催の特別な行事には参加できるのだが、平日の例会には参加できていない。
通勤時間がかかるというのは、思った以上に様々なことを諦めることになった。
自分を磨く最高の場であっただけに、残念無念である。

そこで、友人たちと勤務校の近くで新しくサークル活動を始めた。
少人数の小さな会である。
月1回の例会で、実践報告等をし合う。
大きなことはしないが、学びがある。

外での学びにも色々ある。
セミナーに参加すると、いい方法などたくさん知れてためになる。
最新の知識が得られたりもする。
これは「受け手」としての学びになる。
これはこれで必要である。

しかし、サークル活動は、受け手ではなく、「送り手」として主体的に学べる。
新しい知識を得ること以上に、自分の実践を見てもらい、振り返る機会になる。
また、メンバーの実践発表が、自分にとっての刺激になる。
はるか遠い立場の講師の話ではなく、身近な仲間の実践である。

大きなことをした訳ではないが、一歩前進した感があった。
忙しいと、どうしても外に目が向かなくなる。
自分の校内のことで手一杯である。

先に紹介した野口芳宏先生からは、いつも忙しいに決まっているのだから、先に予定を入れ込めということを教わった。
忙しくなってからだと、色々言い訳をしてやらなくなる。
だから、先に予定として決めて入れておく。
そうすると、やらざるを得なくなる。
「他律的自律」である。

サークルメンバーの実践発表で「学級通信を毎日出します」と保護者に宣言したというのがあったが、これも同様である。
そうせざるを得ない場に自分を追い込む。
私の勤務校だと、教育実習生をたくさん見ながら、並行して研究をせざるを得ない状況に追い込まれる。
やらざるを得ないという状況が自分を鍛えてくれる。
ある意味で「有難い」ことである。

校内に、やらなくてはいけない仕事は「無限」にある。
だからこそ、どこかで線引きをして、自ら外へ出て学ぶ時間を設定する必要があるのではないかと思った次第である。

2016年10月25日火曜日

「何のため」を問い直す

教育実習をやっていると、色々と実習生から質問を受ける。
新鮮な視点から尋ねられるので、こちらも勉強になる。

例えば、「今日のめあて」は書かないのですかというのがあった。
なるほど、確かにやっている学級は結構多い。

やってもいいのである。
ただ、現在の学級には必要がないと判断し、やっていないだけである。
代わりに、学級目標は毎日読む。
必要と考え、活用しているからである。
学級目標だって、必要がないならなくてもいい。
学級通信や日記、宿題等も同様。
必要に応じてあるものであって、ねらいに応じての選択である。

学校の中には様々な「常識」がある。
注意しないと、何のためにやっているのか、ねらいが何なのかわからないでやっている場合がある。
要るのか要らないのか判断しないで「前からそうだから」というのは振り返る必要がある。
これは、学校以外の様々な企業にも当てはまることだと思う。

その点、外からの視点というのは貴重である。
教員でない友人と話すと、「あれ、何であるの?」という疑問を結構抱いていることが多い。
また、自分の勤務している県で常識でも、他県はやっていないということも多い。
問題は、「常識」だと思い込んでいるため、話題にも上がらないことである。
例えば、他県には制服の公立小学校が結構あると知った時、驚いた。理由を聞いてまた驚いた。
常識だと思っていることは、ゼロベースで疑ってかかる必要がある。

それがあるのは、何のため。
時々振り返って考えると、面白い発見がある。

2016年10月23日日曜日

自分と相手への合理的配慮

前号のインクルーシブ教育の話の続き。

本人の困り感に共感するのは難しい。
外から見て明らかに困難が確認できるものは、配慮されやすい。
しかし、内面的なものは目に見えない。
下手すると「単なるわがまま」と混同されてしまうのが辛いところである。

ここに「合理的配慮」が必要である。
簡単に言うと、
「AさんにやってもBさんにはやらない」というようなことである。
Aさんには必要なことだから配慮する。
Bさんには必要ないことだから配慮しない。
講師の先生はこれを「横並びからの脱却」と表現していた。
一律に同じ指導・支援をしないということである。
ただ、合理的である反面、何でもかんでも個の要求通りにはできないという面もある。

つまりは、自己理解と他者理解の両方が必要ということであると解釈した。
Aさんにはこれが自力ではできない。
だから、助ける必要がある。
しかし、Aさんにとって必要な支援が、自分には提供できない。
だから、他の人の助けが要る。
それは、周りの子どもかもしれないし、同僚かもしれないし、外部機関の人かもしれない。
そういう思考ができないと、無闇に「頑張る」という方向になってしまう。
頑張ってもダメなことだから合理的配慮が必要なのである。
(なお、よく頑張れる人は、他者にも頑張ることを強要する傾向があるので、注意が必要である。)

相手に合理的配慮が必要なのと同様、自分にも必要である。
自分にできることは何なのかを理解する。
それを考えるために、自分にできないことは何なのかを理解する。
コインの裏表と同じで、二つでワンセットである。

自分と相手、それぞれできないことを見極め、できることに全力を尽くしたい。

2016年10月21日金曜日

インクルーシブ教育と違いへの理解の困難

研修で、特別支援学校の先生のお話を聞く機会があったので気付きのシェア。
「インクルーシブ教育」と「合意的配慮」がテーマだった。

インクルーシブ教育が「すべての子どもにとってよいもの」である以上、個人差の存在が前提である。
障害を含めた違いを包含(インクルーシブ)する教育である。
(他の教育用語同様にやたらカタカナなのは気になるが、内容は共感できる。)

つまり、違いが前提にある。
磨き合う集団は、違いを認め合うことが絶対条件である。
違うからこそ、磨き合える。
本当に磨き合う集団ならば、インクルーシブ教育が成立しているはずである。

この、違いを認めるというのが、学校(特に公立校)にとっては大変難しいという話だった。
学校というのは、「同じ・公平」が求められるという。
誤解を怖れずいえば、「違いを認めないこと」を奨励している。

例えば「運動会で手をつないでゴール」のような行きすぎた例が取り沙汰される。
学校側は「そんなことはない」と言うが、実際「同じ」を求める傾向は確かにある。
時間や内容の枠が決まっている以上、ある程度揃わないと、事が進まないのである。

例えば、体育の場面。
ものすごく着替えがゆっくりな子どもがいる。
待ってあげたい。
しかし、時間が決まっている。
20分遅れられると、活動時間が半分になってしまう。
しかも、原則として、そういう子ども一人を教室に残して先に始める訳にもいかない。
しかし、遅いのも「違い」である。
ここを認めながら成立させよということである。
大変な困難が伴う。(困難というより、手立てが見つからないと、努力しても不可能である。)

こういうことを言うと、「本人の気持ちの問題」だと考える人もいる。
ここが大変難しく、本人的にフルスピードであったりする。
ここは、本人にしかわからない。
普通にできる人にとっては、ふざけているようにしか見えないのが辛いところである。

例えば、私は字をきれいに書くことが苦手である。
真面目に書いているけど、ダメなのである。
この気持ちを理解してくれる人とそうでない人の理解度の違いは、天地の差である。
ほとんどの人が、頭では理解しているつもりで、「でも、本当はやる気の問題よね」と思っている。
ここを本当に理解できるかである。

違いを認めるというのは大変な気合いと覚悟と、深い人間理解がいる。

長くなったので次号に続く。

2016年10月16日日曜日

磨き合う集団の最低要件を考える

磨き合う集団の最低要件は何か。
例の如く、逆思考でアプローチする。

磨き合う集団でない状態。
磨き合わない集団。
または、貶め合う集団。

磨き合わない集団は、個人プレーが顕著な特徴である。
自分さえ良ければいい。
関心の対象が自分のみで、他への興味・関心がない集団である。
集団の様相は、単に集まっているだけの「群れ」であり、烏合の衆である。
以前紹介した新型の「静かな学級崩壊」がこちらのタイプである。

貶め合う集団。
こちらは、興味の対象が他人である。
相手を落として相対的に自分を高める。
競争の際も「人に勝つ」という過程が目的化している。
悪口や噂話、嫌がらせや陰湿ないじめや暴力が顕著な特徴である。
集団の様相は、互いが自分の居場所を確保するために押し合いへしあいしている。
一般的にイメージされる学級崩壊の状態である。

では、ここから逆に磨き合う集団を考える。
興味の対象は、自分及び他者。
自分が良いだけでなく、仲間も良いことを求める。
相手を高めることで自分も高める。
得意の相互提供で成り立つ。
健全な競い合いや教え合いの姿が見られる。
感謝や尊敬、人が喜ぶことや困っている人へのいたわりが顕著な特徴である。
集団の様相は、協力することで成し遂げる共通の目的を持ち、居場所は自由ながらもある程度のまとまりを持つ。

つまり、磨き合う集団には
1 共通の目的がある
2 個の違いを認め、各々の得意分野を生かせる
3 他者への関心(思いやり)がある
というあたりが最低要件である。

1は学級目標等が担保する。
2は各教科や生活の多様な場面で発揮できる。
3が最も難しいが、本来、他者への関心は本能である。

2で自分ができる何かをして、人に喜んでもらうという経験は3につながる。
だから、子どもたちにできそうなことは、遠慮なく頼んでどんどんやらせた方がいい。
自己有用感が高まる。
そのチャンスを教師が奪わないことが大切である。

得意の提供ができる場面を多様に用意して、磨き合う集団づくりを進めたい。

2016年10月11日火曜日

学級という集団の目的

学校教育法第二十一条の目標を読む。
http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S22/S22HO026.html
それぞれ、次の活動や教科が中心に担っていると解釈した。

一  学級づくり
二  生活科・体験学習・環境学習
三  社会科・国際理解
四  家庭科・社会科
五  読書・国語
六  算数
七  理科
八  保健体育
九  音楽・図工
十  キャリア教育

なお、道徳は「教育活動全体を通じて行われる」ため、一~十のほぼ全てに関わる。
無論、他の教科等もそれぞれ横断的に関わる点があるのだが、中心はこのように読めた。

そう考えると、やはり学級づくりと道徳教育が、かなり重要な位置を占める。
二以降の学習を効果的に成立させる「磨き合う集団」にするためには、ここが外せない。

そもそも、学級とはいかなる集団なのか。
学級は、学習するための集団である。(この場合の学習は学力全般を含むが、それに限らない。)
磨き合う学習がなされない集団は、学級とはいえない。
まとまっているだけではダメである。

「学級崩壊させない・防ぐ・予防する」等は、結構な数の本のタイトルに使われている。
それだけ、現場教員が集団の形をキープするのに腐心しているということである。
しかし、本来ここが目標ではないはずである。

磨き合う集団をつくる最低要件を考えていく。

2016年10月9日日曜日

学歴と受験・就職

前号の続き。
子どもに学歴は必要か。
結論、これは「必要な人と必要でない人がいる」というのが正直なところである。

確かに、学歴が全く意味をなさない職業もある。
特にユーチューバーやブロガーなど、近年新たに誕生した仕事には、学歴はあまり意味がないかもしれない。
起業家の中にも、中卒、高卒の人が結構な数いる。
しかも、これからさらに多くの職業が生まれ、既存の仕事がなくなっていくというから、先が全く見えない。

一方で、学歴が必須であったり、確実に強みとなる仕事も山ほどある。
少なくとも「就職活動」を考えるのであれば、かなり意味がある。
東大卒だから優秀とは限らないかもしれないが、東大に入れるだけの学力をつける努力をする力は、並大抵のものではない。
十分に採用の際の参考になる。

だとしたら、教員は何をすべきか。
これは、つけられる学力をきちんとつけてあげるべきだろう。
無責任に「勉強ができなくてもいいよ」とはいえない。
しかるべき努力をすればつく学力(体力も同様)については押さえさせたい。
それによって、「自分もできる」という自信がつくことが何より大切である。

さらに学習塾とも対立せず、うまく連携をとるべきだろう。
学習塾は「自分では家での勉強の計画や実行ができない」という子どもにとっては、原動力になり得る。
また受験を考える上で、子どもの志望校ごとに受験対策を立てられるのは学習塾の強みである。
受験対策の一点に全力を注げる以上、ここについては、プロフェッショナルである。

そうなると、学校の大きな仕事は何か。
「学校教育法」第21条にはその目標が10項目示されている。
最も大切である第1項目の文の最後は「主体的に社会の形成に参画し、その発展に寄与する態度を養うこと。」である。

社会性を養うこと。
そのための集団をどうつくるかである。
ここが最も大きい仕事である。

主体的に社会の形成に参画し、かつ学力をつける集団づくりについて考えていく。

2016年10月7日金曜日

子どもの将来に学歴は必要か

次の本を読んだ。

『悩みどころと逃げどころ』
ちきりん 梅原大吾 共著 小学館新書
https://www.shogakukan.co.jp/books/09825274

「世界一のプロゲーマー」梅原大吾さんと、「社会派ブロガー」ちきりんさんの対談本である。
以前この梅原さんの本を読んで、大変面白かったため、今回も買って読んでみた。

世界一のプロゲーマー。
「ストリートファイター」シリーズ専門の、格闘技ゲーム限定のプロである。
「高橋名人」以外にそんな職業の人を意識したことがなかったので、衝撃であった。

梅原さんは、ゲーム一筋で生きてきたため、学歴がない。
一方のちきりんさんの方は、国立大学を出た後、アメリカの大学院で修士号をとるという学歴の持ち主。
真逆の二人なので、対談の全てが真逆の論理展開である。
この対談本での、学歴論争が面白い。

学歴は必要か。
持たない梅原さんは「必要」といい、持つちきりんさんは学歴の力に否定的である。
梅原さんの言葉を引用する。
==========
(引用開始)
ちきりんさんは自分に学歴があるから気がつかないんですよ。
僕がいた世界では、バイトでさえ学歴で人を判断する人が多くて、それが本当に屈辱的でした。
(引用終了)
==========

梅原さんは、一時期プロゲーマーをやめて就職しようとした時、学歴でものすごい差別を受けたという。
ちきりんさんは、学歴で優遇された覚えもないし、それを意識したこともないという。

本当に相手の立場に立つというのは、難しい。
見えている景色が違う。
難しいからこそ、相手の立場を慮る、豊かな想像力が必要である。

子どもの将来に、学歴は必要か。
改めて考えさせられるよい機会になった。

2016年10月6日木曜日

お悩み相談「前担任のカラーが入って困っています」

読者の方から質問があったので、回答した。
他の読者の皆様にも参考になりそうなので、「寺子屋」としてシェアする。

======================
学級開きの際から、前担任のカラーが入っていて困っています。
前担任が「怖さ」で従わせていた場合、次の担任に従わないことがあると思います。
このような場合、何から、どのようにスタートしていけばよいでしょうか。
また、お試し行動、注目引きなどが続く場合の対応について教えてください。
=================
では、回答します。

前担任がどうであれ、自分の強みで勝負していきます。
ご自身の強みは、何でしょうか。

例えばエゴグラムでは、人間の持つ性格を次の5種類に分けます。
1厳格性(父性)
2包容力(母性)
3現実検討の力(大人の心)
4遊び心(自由な子供心)
5従順な心(従う子供の心).

これら5つのどれかではなく、みんな5つあってどれかが強いということです。
一般に、学級担任などのリーダー的立場の人は3が強いことが求められます。
恐らく、前担任は1が強いのでしょう。厳しい指導に頼りがちになります。
ただ1のタイプは、規律の乱れすぎた学級を経験して、それを嫌だと思っていた子どもたちからは頼られます。

ここからも自分の強みが見えるはずです。
2が強いタイプなら、子どもの話を聞いたりしてつながれます。
3が強いタイプなら、問題解決をすることで信頼されるようになります。
 ここには授業力も含まれます。
4タイプなら子どもと遊ぶことでつながれるでしょう。
5タイプなら素直さや純粋さ、真面目さで引っ張れます。

先生自身の得意分野に引き込むことです。

そもそも、子どもはどうして先生に従うのでしょうか。
従わせる必要は何でしょうか。
言うことを聞かないのは4の子ども性の顕著な特徴の一つです。
子どもは、4と5の両面があり、かつどちらかが強いものです。
「従わせないでこちらの意図する方へもっていく」という考え方もありです。

「力のつく授業」
「たくさん子どもと遊ぶ」
「話をたくさん聞く」
どれならできそうでしょうか。

力のつく楽しい授業をしてくれる教師は、「先生」として認められます。
遊んでくれる教師には、反抗しづらいというのがやんちゃな子どもの本音です。
話を聞いてくれる教師は、安心できるというのが大人しい子どもの本音です。

学級開きに関しては、下記の本が使えると思います。
https://www.amazon.co.jp/dp/4181852156
私の書いたものもあるので、参考にしてみてください。

また、子どもの価値観はころころ変わり、柔軟性があります。
怖さで従う価値観は、命に関わる緊急時以外は役に立たないので、さっさと壊してしまいましょう。
日常的に価値づけをしていきます。
ノートへ価値語を記す実践をやっている先生もいますが、それも有効です。

お試し行動や注目引きについては、「意図的な無視」の対応が原則です。
予め「あなたとみんなのために、良くない言動はわざと無視することがあるよ」と伝えておくのがポイントです。
「気になる子を気にしすぎない」というのが大切です。
こちらについては同シリーズの下記の本にも書いてあるので、よければお読みください。
https://www.amazon.co.jp/dp/4181856119/

=======================
以上が質問に対する回答である。
何かのお役に立てば幸いである。

2016年10月2日日曜日

『ハンバーガグー!』

私は通勤時に電車で本を読む。
電車の中というのは、公共の場である。
よって、人目を気にするため、必要なことがある。

それは、かっこつけて読めることである。
いや、正確には、変な奴だと思われない程度でいい。

そのため、読んでいる本の表紙やタイトルは大切である。
『これであなたも激モテ』というようなタイトルの本はダメである。
何かこれを真剣に読んでいる時点で、ちょっと、いやかなり恥ずかしい感じが否めない。
(ちなみに私の友人の変な奴代表の某氏は、この手の本が学級経営にとても役立つと豪語していた。
意外と当たらずとも遠からずである。)
「ブックカバーをつければよい」というツッコミがありそうだが、それは自分的に邪道なので却下である。

もう一つ大切なのは、面白すぎないことである。
読んでて吹き出したり爆笑してしまうようなものは困る。
以前、電車の中でうっかり柳沢慎吾の「始球式」の動画を見てしまい、辛かった覚えがある。
なので、電車の中で「爆笑系」の本やメディアは厳禁である。

そんな「電車の中で読んではいけない本」を購入した。
次の本である。

『ハンバーガグー!』てぃ先生 著 KKベストセラーズ
https://www.amazon.co.jp/dp/458413720X

著者はツイッターで人気の男性保育士。
保育園での園児との爆笑&じんわり温かいエピソードの数々。
子育てと教育に携わる人に強くおすすめしたい一冊である。
(ちなみにこの一見すると意味不明の本のタイトルは、ある園児の言葉。
ハンバーガー&ハンバーグが混ざった造語である。)

私の好きな話は「プリンセスごっこ」。
複数の女子園児による、優雅なプリンセスごっこが展開される。
そんなプリンセスたちの今日の食事メニューは、味噌汁。
実に庶民的。
著者のてぃ先生は、プリンセスをお昼寝から起こす際に「小鳥」の役を命じられるのだが・・・。

最近子どもと接する時に元気が出ないという人には、特にお勧めの一冊である。

2016年10月1日土曜日

夏休みの作品をどう見るか

1月前のメルマガ記事からなので、時期外れなのはご容赦を。

以前書いたこともあり、ラジオなどでも話したことのある内容ではあるが、大切なことなので再度。

夏休み、様々な宿題が出ている。
それを子どもは一生懸命やってくる。
当然、親も一緒に一生懸命やらざるを得ない。
中には「親と共に取材してくる」というような、絶対に親がやらざるを得ない課題のこともある。
それも、もはや暗黙の了解のようになっている。

この大量に出される夏休みの宿題には、様々な問題が絡む。
そもそも、夏休みの作品を出さないで済む学校ならいい。
実際、そうもいかないところが多い。
色々、学校には地域の〇〇研究部会や各種コンクールから依頼が来ているのである。
学校としても、出さない訳にはいかないという事情がある。

もちろん、ここにはいい面もある。
力のある子どもにとっては、コンクールというのはいい力試しの場である。
試合があるから練習をがんばれるのと同じである。

問題は、そうでもない子ども。
やりたくないのに無理に絵を描いたり作文をしたりするのはかなり辛い。
だから、最近は絵やら工作やら研究やらを「選択」できるようになっていることも多い。
どれか一つぐらいはがんばってやっておいでよということである。

さて、そうなると、先に述べたように自力では難しいので、親が登場せざるを得なくなることもある。
(介入しすぎて、完全にその子どもの作品ではなくなっていることもご愛嬌。)
絵や工作、自由研究から読書感想文まで、ジャンル問わずである。

担任としては、普段指導しているだけに、子どもがどのような技能レベルかは大体把握している。
自力では到底できないであろう力作も中にはある。
それでも笑顔で子どもに「よくがんばったね」というのが通例である。
悪戦苦闘したであろう親の心情も慮ると、それしかいいようがない。

そこで気になるのが、どう見ても、周りと比べて出来映えがよくない作品。

ここをどう見るかが肝である。

本人自身、周りと比べても、自分のはダメだなと感じているかもしれない。
ただ、この子どもの作品は、先の視点からいくと、親の手が入っていない可能性が高い。

それは、意図的かもしれない。
親が「夏休みの宿題は子どもの宿題。親が手を出すべきでない」という方針をもち、子どもがすべて自力で作ったのかもしれない。

それは、必然的かもしれない。
親が病気などの諸事情で全く宿題を見られる状況ではなく、子どもがすべて自力で作ったのかもしれない。

はたまた、別の事情かもしれない。
ただ、子どもが独力で作ったらしいということだけが、高い確率で予想される。

学校の宿題そのものは、コンクールではない。
あくまで、その中でコンクール出品となる過程があるだけである。
だから、本来は出来映えどうこうを問うべきではない。
子どもが、それを通して、何を表現したかったかがすべてである。
本来は自力でやったかどうかが一番大切である。

その視点で見ると、褒める点がたくさんみえる。
その崩れかけた部分から、たどたどしい文章から、読み取れるものがある。
何とか接着したであろうそのボンドの跡から、本人の汗が見える。

表面的に見ない。
一面的に見ない。
夏休みの作品に限らず、子どもをみるすべての時において大切なことである。

2016年9月29日木曜日

「これ1冊だけで大丈夫」の真偽

本のタイトルの話の続き。
よくあるキャッチコピーに「これ1冊だけで大丈夫」がある。
本当だろうか。

これは、あながち嘘とも言い切れない。
ただ前提として、その本に書いてあることを実行すればという話である。
各種トレーニング本などはまさにこれで、恐らく実行し続ければ効果は出る。
しかし現実は、実行自体が難しいか、飽きてやめてしまう。

本に書いてある内容は、どれも
1.知る
2.実行する
3.実行し続ける 
の3ステップで完結なのだが、大体が1でとまる。
2は勇気ある決断が必要だし、3は強い意志が必要。
2と3のステップを踏むということは、新しい何かを人生に取り入れるということ。
つまり、相当に余裕がない限り、今ある何かを捨てる必要が出る。
このステップには、世の多くの人が苦手な部分が含まれる。

「感動は生もの」ということを書いたが、まさにあれ。
読んだり話を聞いたりして、すごく感動する。
「もう、こんなすごいこと知ってしまった!」と興奮する。
そこで、それをいつ生かすのかである。

そのために、できそうなことを「1つ」だけ決めて、あとはきっぱり捨てる。
1つでいい。やってみる。実行あるのみ。

タイトルやキャッチコピーの真偽は、結局受け手次第でもある。
書き手はそれも念頭に入れた上で、買った人が読んだ後も満足するタイトルをつけるようにしたい。

2016年9月25日日曜日

大波はピンチかチャンスか

今はパラリンピックが話題だが、オリンピックの時期に書いた記事。

日本人選手団も目覚ましい活躍を見せ、大変盛り上がっている。
選手達はやはり期待を裏切らないというか、本当に見事である。
国を背負っている以上、失敗してもくさるというような選択肢はない。
起死回生の大逆転がある。
一見ピンチな状況をチャンスに変えるのを見ると、人は感動する。

ところで、そんな映像を見ていると「自分もあの舞台でやれたら気持ちいいだろうな」と憧れる。
そこで、こんなことを考えた。
今から自分の得意種目でいいので「明日、オリンピックに出てください」と言われたらどうだろうか。
記念とかではなく、正式に国の代表としての本気の参加である。
映像も世界中に配信される。
ものすごい「チャンス」である。ビッグウェーブである。
しかし恐らく、99.99%以上の人が断るのではないかと思う。
チャレンジしようとかのレベルの差ではない。
いくら世界の晴舞台とはいえ、いきなり言われたら「大ピンチ」以外の何者でもない。

では、どんな人にとって「チャンス」となるのか。
構えができている人である。
準備ができている人である。
そこに行くつもりで目指していた人である。

2020年からオリンピック種目になるサーフィンで例えるとわかりやすい。
例えば台風の影響で、とんでもない大波が来ることがある。
通称「お化け」といい、文字通り化け物のような大波である。
サーファーはボードにうつ伏せ状態で波に向かうので、岸から見るのとは迫力が全く違う。
この「お化け」は、上級サーファーにとっては「ご馳走」であり、大チャンス。
一方それ以下のレベルのサーファーにとっては「災害」であり、大ピンチである。

しかもこの「お化け」は大抵「セット」になっており、大波が一発で終わらず何度も連続で来る。
一度飲まれたら最後、浮かび上がろうとした瞬間にまた大波に襲われる、恐怖の連続である。
だから、「待ってました」となるのは、それ相応の修行と万全の準備をしているプロ級サーファーだけである。
それ以外のレベルの人は、そもそもそんな時には海に入らない。
遠方から波を求めて3時間の距離を車で来たとしても、「入らない」という決断をする。
悔しいが、それは英断である。
下手に入れば命の危険にさらされ、周りの人にも多大な迷惑をかけることになる。
あまりに分不相応であれば「やらない」というのも立派な選択肢の一つである。

話がサーフィンの内容に逸れたが、とにかくピンチになるかチャンスになるかは構えによる。
準備している人には女神に見えるし、そうでない人には悪魔に見える。

常にしっかり準備をして、ピンチではなくチャンスに見えるようにしていきたい。

2016年9月23日金曜日

タイトルを読み解く

読書の秋。
これからたくさん本を買う人も多いと思うので、本のタイトルについて。

電車の広告や新聞の広告欄を見ると、本の宣伝が多くある。
どれも売るための工夫が満載である。

中でも最も大切なのが、本のタイトル。
売れっ子放送作家の鈴木おさむ氏によると、次のようなことが言えるらしい。
「いい商品名で味が70点のカップ麺と、商品名が普通で味が100点のカップ麺。
より多く売れるのは、いい商品名の方だと思っている。」
(『新企画』鈴木おさむ著 幻冬舎より引用
http://www.gentosha.co.jp/book/b9629.html

ちなみに、紹介したこの本はかなり面白いのでお勧めである。
斬新な切り口の数々に、発想力が磨かれる。

鈴木おさむ氏の論からすれば、出す側から言うと、タイトルが命ということになる。
買う側として注意したいのが、タイトルだけで選ぶとはずれもあるということである。
(とか言いながら結構タイトルで買ってしまう自分。
あんまりな本を買ってしまうのも経験値だと思っている。)

個人的には、タイトルが誇大広告であるものも多いのが気になる。
「簡単に痩せられる」とかは、ほぼ100%誇大広告である。
(本当に効果が出る人もいるので、全部とは言わない。)
ただ「そんな訳ない」とわかっていても買ってしまうというのがポイントである。
いつもうまくいかない現状を、お手軽に変えたい。
そんな心理を上手についてくる。
そして、売り手も買い手も、そこは腹の底ではわかっている「お約束」な感じもある。

自分の本も、タイトルには気を遣った。
まず『やる気スイッチ押してみよう!』
https://www.amazon.co.jp/dp/4181646149
子どもだけでなく教師自身のやる気スイッチを押してみようという意味合いを含む。
そのまま、やる気を出すことを目的とした方法と理論、具体例が書かれた本である。

一方『ピンチがチャンスになる「切り返し」の技術』は、やや誤読がされやすい。
http://www.amazon.co.jp/dp/4181907120
「はじめに」を読んでもらえるとわかるのだが、治療ではなく予防の本である。
ピンチに陥ってからチャンスに這い上がる本ではない。
ピンチの場面事例を予め知ることで、チャンスに変える本である。
ピンチに陥るかチャンスになるかの境目という局面において、切り返しの方法・理論・哲学を書いた本である。
現在ピンチでない人にも読んで欲しい本である。

タイトルの示すところは何なのか。
本のタイトルの真意を読み解くことは、実に大切である。

2016年9月21日水曜日

型に踊らされない

アクティブ・ラーニングという言葉が新聞の紙面を賑わしている。
一ヶ月ほど前、アクティブ・ラーニングを全教科に導入することが明示された。
教育の世界だけで先行して広まっていた言葉が、これで一般化してくる。
授業参観での保護者の目にも「担任の先生の授業はアクティブ・ラーニングか」という視点が多く入るようになる。
今後、これに関する研修も増えるはずである。

しかし何でもそうだが、型にはまるのが怖い。
「これをやったらアクティブ・ラーニング」というものはない。
子どもが本当に主体的かつ協働的に学べているかである。
方法と理論は最低限学ぶ必要がある。
それ以上に、根底に流れる思想まで考えていないと、型にはまって応用が利かない。
例えるなら、台形の面積を公式で求められるが説明できないというのがその状態である。
「どのような経緯でその公式があるのか」「どんな歴史から生まれたものか」というところまでわかると、応用が利く。

「子どもがよく発言していた」「グループで活発に意見交換していた」というのは、あくまで現象。
内実は、子どもにどんな学びや気付き、思考の深まりがあったかである。
もっと長期的視点でいうと、今後の人生で役立つかどうかである。
アクティブ・ラーニングは生涯学習の視点からも重要視されている。
生涯を通して学び、主体性を持って広く他と協働できる国民を育てたいということである。
学び嫌いにしたり、ロボットみたいにいうことをきくだけの人間、身勝手で協働できない人間を育てられたら困るということである。

流行としての社会の要請にはしっかり答えつつ、不易の本質の部分は見失わないようにしたい。

2016年9月19日月曜日

詰め込み教育からの脱却?

1月ほど前の新聞記事からの雑感。

学習指導要領改訂について。
「日本のこれまでの教育は詰め込み型だった」。
「一方的な講義形式の授業からの脱却」。
「アクティブ・ラーニングへの転換」。
現職教員の中には、これらの言葉に違和感を覚える人も多いのではないかと思う。

授業で、子どもに詰め込んでいるだろうか。
授業中、子どもの声など聞かない、交流などさせないで、一方的に喋りまくっているだろうか。
「言うことをきけばいい。考える必要なんてない。」と言っているだろうか。

どちらかというと、そもそも聞かない、入らないというのが悩みである。
現在の学習指導要領の内容を授業で扱う時、詰め込むほどの大量の内容でもない。
(まあ、ちょっと内容が多いかなと思う学年もある。)

ある程度詰め込む必要性が出るのは、例えば受験をするような場面である。
仮に難関中学を受験をするとなれば、学習指導要領の内容をクリアしただけでは足らないだろう。
求められる力が違う。
一定の時間内に、能率良く答える必要が出る。
それには、どうしても繰り返しの訓練が必要である。
手順の省略化が必要である。
ここは否定できない。

しかし、少なくとも現行の小学校での指導方法のスタンダードは、詰め込み型ではない。
どちらかというと、自由にやらせすぎて、うまく力がつかないという悩みである。

ではこの通達と現場感覚とのズレは何か。
伝わり方の時差もあるが、それ以上に「問題点を問題」とするからである。
問題なくやれているところには着目されない。
クラスで、手のかかる子どもに目がいってしまうのと同じである。
学級だと、きちんとやっている子どもを認めてあげないと反乱が起きるが、この場合は起きない。
これは仕方がない。
ただ、それが世間一般の方々に、現在の学校の姿だと思われるのも困る。

情報は、あくまで「情の入った報せ」。
このことに限らず、氾濫する情報を鵜呑みにせず、現物を見て自分で判断する必要があると感じた。

2016年9月17日土曜日

ピンチはチャンス~ポケモンGO現象から~

ポケモンGOは社会現象化するほどの大人気ぶりである。
予想通り歩きスマホやその他モラル面の問題も起きた。

ただ、問題の「歩きスマホ」への意識が高まった人が多いようにも思う。
トラブルが起きた場合は、ニュースで即周知される。
注目が集まっているのだから「〇件起きた」と詳細に伝えてくれる。

そうなると、否が応にも外でのスマホの使い方を意識させられる。
今までは何となくダメぐらいに思われていたことが、はっきり問題視して指摘されている訳である。
そして「ポケモンGO」をやっている訳ではなくても、歩きスマホ自体がそれに見える。
「今話題のマナー違反実行中」に見える訳である。

ちなみに、このゲームは歩きスマホをしなくても遊べるので、マナーを守ってやっている人もいる。
画面を見ずに歩いて、バイブでお知らせが来たら止まってゲットという遊び方もできるようである。
どちらが多いかは統計がないのでわからないが、少なくともマナー違反でない利用者にとっては騒がれたくないはずである。
必然的に、規範意識のある人は、普段の外でのスマホ利用の仕方に改善が起きる。

これは、不祥事が起きた時とも似ている。
一部の不祥事が大きく報道されると、それがものすごく意識されるようになる。
飲酒運転が激減したのは、厳罰化だけでなく、問題の顕在化による社会の規範意識の高まりによるものも大きい。

教育の現場でも適用できる。
教室で起きた諸問題は、見直しのきっかけである。
今まで何となくしか意識していなかった問題が、表面化されることで真剣に考えるようになる。
結果、より良い学級経営につながっていく。

ピンチは、チャンス。
ポケモンGOの普及をきっかけに、逆にスマホの利用マナーが改善される可能性もある。
その上で、楽しみとしても経済効果としても良いものになればと思う次第である。

2016年9月15日木曜日

なりたい姿を思い描く

残暑厳しく、暑い日が続く。
あまりに暑く天気の良い日は、無防備に外を歩くと、しかめ面になる。
別に嫌なことがあった訳ではなく、眩しいからである。
眩しければしかめ面になるというのは、生理的反応であり、反応自体は変えられない。
(集合写真で、目の色素が薄い人はしかめ面が多いのも、致し方のないことである。)
太陽が眩しく照るのも、もちろん変えられない。

例えば「夏は太陽が眩しい」とわかっていれば、帽子を被るなりサングラスを付けるなり予め対策をとる。
現象を直接変えようとせず、その元になる行動を変えるということである。
望ましくない反応が起きないように、自分の側でできることをやるということである。

切り返しの技術も同様で、構え、準備が命である。
授業中にこんなことを言ってくるだろうなと予想できれば、対策がとれる。
子どもといい教師の雰囲気を作りたいと思うから、話のネタを仕込んでおいたり、笑顔で教室に入ったりする。
逆に、このままでは後々に良い方向に進まないと思えば、びしっと叱る時もある。

つまり、何事も願いから始まる。
「こうありたい」という自分の姿が思い描ければ、自ずと対策はとれる。
気分は選べないが、その気分を引き起こす行動は選べる。

自分の望む方向を描き、そちらに進める行動を選択していきたい。

2016年9月13日火曜日

汎用性を重視する

親友の飯村友和先生が、私の著書と次のセミナーについて、ブログの記事に書いていた。
http://etomo.exblog.jp/25842910/

書かれている通りで、自分にしか使えない手法は、本に書いても仕方がない。
だから、汎用性のある、誰でも使える可能性のあるものを書いている。

誰にも真似できないすごい実践を紹介する本もある。
これはこれで価値がある。
最終的には、自分だけの実践になるのだから、特に年数を重ねた人にとっては刺激になる。

ただ、私の書いた本は、「新任3年目までに知っておきたい」とあるように、若手向けである。
飛び道具的な実践は面白いかもしれないが、火傷する可能性が高い。
それよりも、まずは基本を身に付けて欲しいのである。
登山だって、装備や天候への知識などの安全面を整えた上で挑戦した方がいい。
高い山に挑戦するのは、その後でも遅くはない。

汎用性は外せない視点である。
本の中にも、私が「こんなすごいことしてますよ」というような記述は、残念ながら全くない。
(あったら書くのかもしれないが。)
とにかくない。
あるのは、「誰でもできる」実践のみ。
誰でもできるけど、意外と気付いてないというような視点、切り口で書いた。
それで、学級運営や子育てへの希望や元気、加えて手法も知っていただけたらと思っている。

読んだ方に何かしらの気付きがあったら、著者として幸いである。

2016年9月11日日曜日

正常を知っているから異状に気付く

日常生活の気付きからのブリッジング。

毎朝納豆を食べる。
色々な種類を試す。
すると、違うものでも共通点が結構あることに気付く。
共通項がわかるからこそ、違いもわかる。

先日、いつもの納豆を食べた。
混ぜた感触が何かおかしい。
いつもよりさらっとしているのである。
何か、変である。

賞味期限を調べてみると、まだまだ先である。
賞味期限切れではない。

試しに、一口食べてみる。
豆がいつもより少し硬い。
何か「じゃりじゃり」した食感である。
期限切れの納豆に多い食感である。(わかる人には伝わると思う。)
においも違う。

さて、明らかにおかしいのでこれはやめる。
この時点で、いくつか原因が考えられる。

1 購入前に保存状態が悪くて傷んだ
2 購入後に保存状態が悪くて傷んだ
3 製造過程でのミスがあった

まず、1を疑う。
しかし、冷蔵庫を見ると、同じものがもう一つある。
三個で一セットなので、まだ一つ余っていた状態である。
一個は普通に食べた。
1の場合なら、三つとも傷むはずである。
つまり、1の可能性は低くなる。

2を疑う。
それなら、最後の一つも悪いはずである。
食べてみると、問題なしである。
2も消えた。

この場合、現時点での推測は3。
この1個にのみ、イレギュラーなミスがあったと考える。
大量の製造過程において、やむを得ないともいえる。
納豆菌がうまく働いてくれるかどうかは、完全にはコントロールできない。
これは、諦める。

異状に気付けたのは、自分が毎朝納豆を食べるからである。
要は、通常の状態がわかるから、異変に気付けるということである。

健康観察時に、いつも元気な子どもが元気がなくなったら気付ける。
そこを、普段から適当な返事で済ませていると、変化に気付きにくい。
(これは、確かずっと以前に飯村友和先生のセミナーで聞いた話である。)
だから、元気なら元気な声で返してと求める訳である。

家庭でもこれはいえて、普段接しているからこそ家族の異変に気付ける。
顔もろくに見ないで会話もしないで生活していては、異変に気付けない。

大きな犯罪があると、近所の人へのインタビューが出る。
「そんなことをする人には見えなかった。明るかった。」と言う。
当然である。
そんなに接してないのだから、異状に気付くはずがない。

普段からよく見ること。
そこからその相手の「普通」の状態を知ること。
対人、対モノに関わらず、大切な視点であると思う。

2016年9月9日金曜日

事実は受け手次第

些細な場面からの気付き。

先日車を運転中、大きめの交差点の信号で停止していた。
こちらは右折したいが、対向車線の端にも一台停まっている。
この一台が直進後にいこうという流れである。

あちらは大きなキャンピングカーである。
停車中なのか駐車中なのかわからないぐらい、歩道側に寄せている。
大きいからなのか、癖なのかわからないが、とにかく歩道ぎりぎりに寄っている。

信号が赤から青に変わった。
しかし、対向車が動かない。
待ってても動かないので、こちらが先に右折しようと動き始めた。
すると、相手も動き始めた。

この場面である。
ごく些細なことだが、どう捉えるか。
こちらとしては、正直とまどった。
早く行って欲しいのに、動かないという状況。
こちらの瞬時の捉えとしては「ぼーっとしてて動かない」または「やはりキャンピングカーを駐車中」である。

もしかしたら、真実は「譲ってくれた」のかもしれない。
事前に合図を送ってくれていて、こちらが気付かなかっただけかもしれない。

ただ、事実として残るのは
「何か、迷わされて嫌な感じ」だけである。
真実とは別に、それが事実である。

何度も書くが、受け手がどうとるかが、相手にとってのすべての事実である。

善意でやったこと、一生懸命やったことが、相手にとってそう伝わるとは限らない。
いや、善意や一生懸命こそ、相手にとって迷惑ということすらある。
だから、相手に応じた伝え方というのは、非常に大切になる。

1学期、善意をベースに全力を尽くしたことと思う。
これは、どの職業であっても「前提」である。
教員採用試験に例えるなら「子どもが好き」ということと同じである。
これは大前提であり、アピールポイントにはならない。(通常、子どもが嫌いな人は教員採用試験を受けない。)

それよりも、相手にその善意、全力が「どう伝わったか」「どんな影響があったか」が大切である。
サービスの提供先に「作業効率が上がった」「儲かった」というような有形のメリットがあったか。
または「安心」「信頼」などの無形のメリットが与えられたか。
提供先は、企業なら、御客様や取引先。
教師なら、子どもである。

どう伝わり、どんな力がついたか。
どんな変化があったのか。
通知表を渡す場合、それが子どもにどう伝わるか。
通知表を見て「よくがんばった」と自信を持たせたり、「次こそは!」とやる気を発奮させたら、大成功である。

どんなことも、受け取る相手の解釈次第という視点を常に忘れずにいたい。

2016年9月7日水曜日

対価に見合う価値の提供

商品を買う時、通常買い手は支払った金額と同等かそれ以上のメリットを感じて買い求める。
期待したものよりも良かったら嬉しいし、悪かったら残念な気持ちになる。
100円払うのも100万円払うのも、その点では同じである。

要は、本物よりも期待値を上げすぎると、良いものでもがっかりされる可能性がある。
逆も然りである。

例えばあなたに異性を友人が紹介してくれるという時。
友人は先方にあなたのことを「女優の誰々似の絶世の美女」と紹介しておいたと言われたとする。
恐らく回れ右して帰りたくなるに違いない。
そこまで期待値を吊り上げられたら、実際どうであれがっかりされる可能性が高い。

逆に「誰似かといわれたら、カエルに似ている」と紹介してくれていたとする。
こうなれば、実際会った時に「そんなに悪くない」と思ってもらえる確率アップである。
(問題は、その前ふりの時点で断られないかどうかである。)

つまり、興味を持ってもらうためのPRはした方が良いが、誇大広告は良くないということである。
商品であれば、適正な情報を流し、適正に買ってもらうのが筋である。

そこで自分の著書を見てみる。

新任3年目までに知っておきたい

ピンチがチャンスになる「切り返し」の技術

https://www.amazon.co.jp/dp/4181907120

前半はいいとして、後半の「ピンチがチャンスになる」が誤読されがちなので補足。
この本は、ピンチになってから読むより、余裕のある内に読む本である。
前書きにも書いているが、「治療医学」よりも「予防医学」である。
ピンチかチャンスかの境目を分ける技術という位置づけである。

時間や費用といった貴重なコストをかけていただく以上、価格以上の価値は提供したい。

2016年9月5日月曜日

若手育成の視点を持つ

主体的かつ協働的な学習。
つまり、自分だけでなく、仲間にも関心を持って助け合って学習するということである。

これを、教師の側が率先垂範する必要がある。

子どもは大人の真似をするのだから、まずは教師がやる必要がある。
授業に一生懸命打ち込むのは、教師が一生懸命準備に打ち込むからである。
(空回りすることも多々ある。)
主体的かつ協働的に学ぶのには、教師がそういうことをしているのが前提である。

つまりは、若手育成の視点である。
自分の学級で満足せず、後輩に気を配れているか。
それをしないで協働を求めても、うまくいくはずがない。

いつでもどんなことでも、主体変容・率先垂範。
どんな流行が来ても、不易の鉄則である。

2016年9月3日土曜日

会議の本質は、意志決定の確認

残業の原因の最たるものは、会議。
会議の数と時間を減らすのが一番効率がいい。
しかし、自分で会議の数や時間を変えることは難しい。
そこで、あくまで提案者としてできることを考える。

会議の本質は、「意志決定の確認」である。
職員会議での議論は、人件費の浪費である。
全職員が出席する職員会議は、ものすごい人件費がかかっている。
大きな職場なら2時間会議すると、10万円以上かかっている計算になる。

自戒だが、職員会議で1時間の議論になったことがある。
単純計算で5万円の提案。
そんな高額な提案を滅多なことでしてはいけない。
原案ができていなかった証拠である。(大反省。)

そのかわり、職員会議で通すためなら、出席者の少ない部会や運営(企画)委員会ではたっぷり時間をかける。
ここでももちろん、原案は提案者がしっかりと作ってくる。(ここが一番大切。)
「どうしましょうか」などとやると、どうしても時間がかかる。
基本は「これでいかせてください!」である。
(ちなみにこれは、ずっと以前に聞いた、野口芳宏先生の学びから。
 提案者の原案とは二択ではなく、こうしたいという一つの案に絞られているべきである。)

間違ってたら、そこで修正してもらえる。
原案は、「相談」ではなく、「提案」である。
相談は、事前に個人的にしておくものである。
公の会議の場でするものではない。

提案者であるなら、原案は熱い思いと厚い提案理由できちんと作っておく。
そして職員会議は、あくまでその意志決定を全体確認する場にしたい。

2016年8月30日火曜日

夏休みの宿題忘れにどう対応するか

以前の記事の再アップ。

夏休みの宿題のねらいは何か。

本来は「生活習慣の形成」であると思う。
「ダラダラ防止」である。
これには、日記のような、日々やらないといけない課題が適切である。
毎日コツコツ続けることで、学校がある日に近い理想的な学習習慣をねらう。
(しかし、大抵ねらいが達成されないのも、この課題の持つ問題点である。)

自由研究や工作の場合はどうか。
「長期休みならではの豊かな体験・継続的な活動」
「創造性を育む」
「自由な表現の場」
というあたりでないかと思われる。

本来の目的とは別に、自由研究や工作を「親子のふれあいの場」とも捉えられる。
正直、低学年の子どもが自力で全てやるのは難しい。
「海の生き物を調べたい」となれば、海に連れて行く必要が出る。
写真を撮ったりプリントしたりも手伝う。
まとめ方や書き方も、一緒にアドバイスしながらやる。

本来は「全部自分でやらせればいい」と思うが、理想論であって現実的でない。
授業で算数の問題を解く時と同じである。
自力でどんなに考えたって、わからないものはわからない。
「自律と自立」が基本なので、自力でやれることは極力手を出さないが、やれないことは手伝う。
親と子どもが協力する場となる。

逆に考えると、親が協力できない環境にある子どもには、本当に厳しい課題となる。
どこにも連れて行ってもらえない子どももいるかもしれない。
一緒に課題をやれない家庭もあるかもしれない。
たくましい子どもや要領のいい子どもなら、それでも何とか終わらせるだろう。
可哀想なのは、そうでない子どもたちである。
そういう子どもにとっては、どうしたらいいのかわからないまま、夏休みが終わることとなる。

始業式、夏休みの課題をたくさんの子どもが持ってくる。
中に、忘れる子どももいる。
担任として「忘れました」ならまだしも「やってません」は、「1ヶ月もあったのに!?」と思う。

ここで、一呼吸。
家庭環境に思いを馳せることが一つ。
もう一つは、我が身を振り返ること。
自分自身「夏期休業中にやるべきことは完璧にやれました」と胸をはって言えるか。
自律の力が高い(はずの)大人にだって難しい。

どう対応するか、マニュアルは無い。
ここは子どもによって、多少違いが出る。
ただし芯は「育てる」ことである。

宿題忘れを、予想しておく。
忘れたら、「想定内」の対応。
もし持ってきたら、めちゃくちゃ褒める。
2学期をお互い気持ち良く過ごすために、こんな作戦でいってみた。
(結果、最終的に全員きちんと課題提出が完了し、めでたしめでたし。)

2016年8月29日月曜日

男女を混ぜる乳化剤は、担任

前号の続き。
高学年以降の男女は、放っておくと混ざりにくい。

では、混ざらないから諦めるかというと、それも違う。
混ざらないからこそ、学級担任は、混ぜるのである。
水と油は、混ざらない。
しかし、乳化させる成分を入れれば別である。
担任は、「乳化剤」になる必要がある。

ペアを組ませて活動させるなど、色々と手を打つのだが、通常、なかなかやらない。
恥ずかしいのである。
自分だけ積極的になると、浮く感じがする。
だからこそ、「大義名分」が必要になる。
「先生がやれとうるさいからしょうがなくやっただけ」という体をとらせる。
「ちょっと先生のお願いに付き合ってよ」という感じである。
「仕方ないなぁ」という感じに、元々男女が混ざれないことに違和感を感じていた数名が動く。
この繰り返しで、ある時一気に混ざる。
しかし、放っておけば、また分離する。
だから、また混ぜる。
この繰り返しである。

放っておけばできないことを、できるようにする。
教育そのものであり、大切な役割の一つである。

2016年8月27日土曜日

男女の差をどうするか

高学年を担任すると、確実に起きるのが、男女がうまく混ざらないという状態である。
なぜそうなってしまうのか。
男女の区別が日常の中に溢れているためである。
ファッション。
公共のトイレや風呂。
学校自体にも男子校、女子校もある。

男女の差。
ジェンダーフリーであっても、男女の差は当然ある。
(ジェンダーフリーは男女の差をなくそうという思想ではない。
 あくまで固定的な性役割からの脱却であるという。)
男性としての権利、女性としての権利というのも別にある。
身体構造や機能特性が違う以上、完全な同一視をされては不都合が生じる。

ある意味でそれは個人の差である。
身長や体重が違えば着る服のサイズが違うということと同じである。
その個人なりに適した権利というものがある。
様々な個人内の差の特徴的なものの一つとして、男女差もあるといえる。
(だからこそ、個人内で身体と精神の「男女」が、多数派と異なる人は、理解されずに苦しい思いをしやすい。)

男女混合名簿は、そうした壁を取り払おうという意図のあるものであった。
しかし、実際は保健などでは男女別が必要となり、二度手間である。
身体構造が違うという前提では、混合名簿はなじまないのである。

他にも社会や学校の文化には、男女の差を意識させるものが多い。
小さい頃からその傾向が見られ、おもちゃコーナー一つとってもそれが顕著に表れている。

この意識の差を完全に取り払うのはなかなか難しい。
男女の別は文化として、意識の奥深くに根付いてしまっている。
だから、知識としてLGBD等の存在について理解しても、受け容れられない人も当然出る。
子どもより大人、年配者の方が受け容れにくい傾向があるのは、「男女の差」が大きい時代に長く触れたせいもあるかもしれない。

次号、この混ざらない男女をどうするかを考えていく。

2016年8月25日木曜日

夏休み明け 最初に伝えること

再録。

夏休み明け、子どもに会った時、まず何を伝えるか。
指導すべきこと、やりたいことはたくさんある。

道具の確認。
宿題。
二学期の決意表明や目標。
夏休みの学びや思い出の共有。
遊びやレクなどの楽しい活動。
授業や生活のルールの再確認。
学級委員の決定。
掃除や当番の仕組みづくり、等々。
具体的に挙げるときりがないほどある。

私の場合、一番に伝えることは、子どもが今ここにいることの喜びである。
この場に集まって顔を合わせることができたことの喜びを伝える。
夏休み明けは、結構しんどい気持ちになる子どももいる。
中には、宿題ができずに重い気持ちで来ている子どももいるかもしれない。
それでも、この場に来て顔を合わせられたことは、有難く嬉しいことである。

病気や不登校気味で来られなかった子どもを考えると、価値の高さがわかる。
学校に来たら、まずはそれだけで100点。
夏休み明け1日目は、何はともあれ久しぶりに会えたことを歓迎したい。

2016年8月23日火曜日

〇〇が苦手な子どもがいた時の指導の心得

明治図書の「教育zine」というコーナーに連載させていただいている。
前回は「水泳が苦手な子どもがいた時」というタイトルで書いた。
http://www.meijitosho.co.jp/eduzine/pe4class/?id=20160458

今回のポイントは次の3つ。
1 恐怖感・不安感を理解する。
2 習得すべきポイント(ステップ)を細分化する。
3 仲間と一緒にやる・楽しさを一つまみ。

これは水泳指導に限ったことではなく、指導全般の共通ポイントである。
特に、何かに「苦手」という意識を持った子どもには必要なポイントになる。

何かの参考になれば幸いである。

2016年8月22日月曜日

教師はクラスの「長老」

度々子どもに語ることが、「自分のクラスにしていこう」ということ。
特に憲法や政治について学ぶ6年生相手なら「脱・先生君主(専制君主)」を呼びかけ続ける。
4月の最初は、教師のやり方で引っ張る面が多くていい。
最初はとりあえずでも、たたき台となる仕組みやルールが必要になる。
しかし、それも5月、6月、7月と進むにつれ、段々と権限委譲をしていく。

理想は全てを子ども自身のクラスにすること。
自分たちでルールを決め、自分たちで文化をつくり、自分たちで問題を解決し、自分たちで学習を進める。
このチームには教師という立場の「長老」がいて、困った時には助言をもらえる。
(そして、「長老」は集団内唯一のお年寄りということもあり、食事を用意してもらえるなど、結構いたわってもらっている。)
しかし、長老はあくまで長老。
集団の中心を担い、活動を推進していくのは、若いメンバーたち自身である。

子どもたちの、将来を見据える。
手放した後のことを考える。
いつでも意識すべきことではないかと思う。

2016年8月17日水曜日

なぜかクラスがうまくいく教師のちょっとした習慣

先月、次の本の著者である俵原先生のセミナーを受けた。
『なぜかクラスがうまくいく教師のちょっとした習慣』俵原正仁 著 学陽書房
https://www.amazon.co.jp/dp/4313652124

この本のあとがきに、次のように書いてある。
===================
(引用開始)
私の好きな言葉に、次のようなものがあります。
「相手がワルツを踊れば私もワルツを踊り、ジルバを踊れば私もジルバを踊る。(ニック・ボックウィンクル)」
これは、相手のスタイルに合わせて、つまり相手の持ち味を十分に引き出すのが私の役目、という意味です。
もちろん、私は教師ですから、この言葉を教育に置き換えて考えます。「相手」はもちろん「子ども」です。
つまり、目の前の「子ども」ありきということです。
(引用終了)
=====================

この先生も「はじめに子どもありき」である。
本来当たり前のことなのだが、意外とつい逆のことをやってしまいがちではないだろうか。
ついつい、教師の側の教えやすさや都合を優先して、自分に合わせさせようとしてしまう。
「クラス会議」を推進している上越教育大学の赤坂真二先生も強調している点である。
この、「子どもありき」の基本姿勢こそが、タイトルの「なぜかクラスがうまくいく教師のちょっとした習慣」ではないかと思う。

どんなに優れた技術を身に付けようと、人格を身に付けようと、教師の力によって先導しているのであれば、将来的な子どもの幸せにはつながらない。
あくまで、目の前の子どもに合わせる。

それは決して子どもにおもねる(阿る)ことではない。
例えるなら、今その人に合ったサイズ、趣味の服を一緒に探すということである。
たまたま教師と同じ趣味にはまることも稀にはあるが、多くは違う趣味のはずである。
違う趣味やサイズの服を無理矢理着せることはできない。
それができる相手は、着せ替え人形である。

子どもは、それぞれの人格を持っている。
自分に似合う服、好きな服がわかっている子どももいれば、そうでない子どももいる。
お勧めすることはできるが、選ぶかどうかは子ども次第。
親や教師の考えとは全然違うものを選ぶかもしれないが、それも自分で決めたなら大成功。
寄り添い一緒に探す手伝いしかできない。
自分で探す力をつけさせるのが、学校である。
親や教師の趣味に合わせて、上手に服を着替えられる子どもが育ってしまったら、大失敗の極みであると思う。

まずは、子どもありき。
いつでも心にとめておきたい言葉である。

2016年8月16日火曜日

戦争と平和 ~終戦記念日の花火大会に思う~

昨日は、終戦記念日。
日本が降伏を宣言した日である。
見方を変えると、日本国民が長い戦争から解放され、国の再生が始まった日でもある。

死と再生、終わりと始まり、それぞれはセットである。
アンチのものは、互いが相対的に存在する。
生があっての死。死があっての生。
始まりがあっての終わり。終わりがあっての始まり。
始まりがあって終わりがないという「永遠」の存在は物理学的にも未だ決着のつかない深いテーマである。

戦争と平和はどうか。
よく対比して捉えられるが、この二つは、アンチではないと考える。
なぜなら、戦争があっての平和ではない。
戦争が存在しなくても、平和という状態はあり得る。
他と奪い合わなくても共存できる。

だから「原爆が落ちたから平和になった」という論理には、断固反対である。
「戦争が終わったから平和になった」だけならまだわかる。
平和に終わらせる方法は、他にいくらでもあったはずである。
他の明確な目的があった上での言い訳、後付けの理由にしか聞こえないのである。

そして戦争は、WIN-LOSEの関係ではなくLOSE-LOSEの関係である。
勝負に勝っても負けても深い傷が必ず残る。
勝っても負けても相手国とがっちり握手ができる、オリンピックのような「競争」との決定的な違いである。

一方で、戦争を知ることで平和を知るという一面はある。
病気になって初めて健康の有り難みがわかるのと似ている。
普段当たり前すぎると気付かない。

原爆ドームは「負の世界遺産」として有名である。
あれを見ることで辛かったことを思い出す人もいるだろうし、その悲しみの深さは想像し難いが、存在意義は確かにある。

昨日、木更津市は花火大会だった。
花火を見ると、火薬も使い方次第であるといつも思う。
そして同じものを見ている教え子たちには、終戦記念日であることも心のどこかにとめておいて欲しいと願う。

終戦記念日に見る花火は、いつもと違って見えた気がした。

2016年8月14日日曜日

無常識への対応

非常識という言葉がある。
変わり者という意味でも使われるが、割と否定的な言葉である。
あくまで「常識」を知っているであろう前提であることが多い。

ある本で「無常識」という言葉を見た。
常識が無い、つまり、前提がない状態である。
教えてもらってない状態である。
要は、本当に知らない状態である。

組織内での無常識は、本人よりも教える立場にある人の責任である。
特定のコミュニティ内でしか通用しないものは、当然知らない。

例えば、教育実習生は無常識状態である。
学校職員の細かいルールなぞ知る由もない。
それは、こちらがきちんと教えるべきことである。
本来、気付いたり発見するものではない。

子どもは、家庭環境にもよるが、無常識状態である。
知らないから、教える必要がある。
それを教えないで、できないから叱るということをされては子どももたまらない。

その行為は非常識なのか、無常識から来るものなのか。
いずれにしろ指導はするが、見極めが肝心である。

2016年8月12日金曜日

成功イメージを持って指導する重要性

クラス会議での気付き。

今年度は、4月からなるべく子どもの活動を見守るようにしてきた。
多少失敗しても、自分たちで学べばいいと。

しかし、この方法の結果は、想像していたのと違った。
我慢して見守るだけだと、目指す方向とはほど遠い状態になる。

なぜなら、失敗しても、それを認識できないからである。
それは何が良いのか悪いのかが明確でないためである。
つまり「良い状態」のイメージが共有化されていないということである。

具体的に言うと、例えば円を作って座る時。
円ががたがたでも全く気にしない。
男女くっきり分かれて座っていても、それが普通。
遅れて円に入れない人がいても気にならない。
自分がでーんと座っているから円が動かないことにも気付かない。

そういう状態である。
「そこを気付くまで待ちましょう」という手もある。
あるにはあるが、どれぐらい待てば果たしてその「問題点」に気付くかである。
時間が無限にあればそれも可能だが、時間は有限である。

何が言いたいのかというと、未知の状態からは指導をしないと良くならないということである。
指導の仕方が問われるのであって、指導そのものを放棄してはならないということである。
「主体的」を目指すアクティブ・ラーニングは、放置では成り立たない。

教師の思う理想状態に近づけるのが、必ずしも良いこととは限らない。
しかし、理想状態を持たない教師のもとでは、子どもは育たない。
そして、それを機会を見つけて伝えていかないと何も変わらない。
たとえファシリテーターの役に徹するとしても、その役に徹しながら、やはり導くのである。

私の尊敬する師である野口芳宏先生は、
「指導とは、ちょっとの無理をさせ続けること」
という。
ちょっとの無理が、子どもを伸ばすのである。
少し負荷がかかるから、強くなるのである。

イメージなきところに、成功はない。
指導を怖れていては、指導者とはいえない。
クラス会議をやっていたからこそ見えた課題である。

2016年8月10日水曜日

蒸し暑さを無視しない

体と心の話。
体と心はリンクしていて、互いに影響を及ぼすのは周知のことである。
運動することで脳が活性化し、精神面も安定するといった相互作用もある。

例えば水泳。
水が怖ければ、体は硬くなる。
硬くなれば、沈む。
自明の理である。
これは逆を言えば、「怖さをなくす」「体を柔らかくする」のどちらか一方ができれば、他方もうまくいくことになる。
水泳指導について、オンライン連載での記事を書いたのでご覧いただきたい。
http://www.meijitosho.co.jp/eduzine/pe4class/?id=20160607

ところで、最近急に暑くなりだした。
こういう時は、危険である。

「いらいらする」と「体温の高さ」は、セットだからである。
つまり、暑ければ、いらいらする。
ついでに、呼吸も浅くなる。
まず、この自覚が大切である。

「暑い」と「いらいら」どちらが手をつけやすいか。
前者である。
「暑い」という体の現象は、冷房でも何でも対応できる。
「いらいら」という精神状態自体をコントロールするのは、難しい。
だから、「暑い」の方を対処する。

気圧も気温も日照も影響する。
満月なども心と体に影響するらしい。
自然の影響力は、無視できない。

妙に疲れたりいらいらするのは、直接的には目の前人のせいではないかもしれない。
それは昨日がんばって残業して寝不足なせいかもしれない。
単にお腹が減っているだけかもしれない。

体と心の相互影響。
コントロールできそうな方に手を付ける。
結構大切なことであるように思う。

2016年8月8日月曜日

「当たり前」でない平和を考える

先日のヒロシマから、ナガサキ、終戦記念日と続く。
平和について考える時期である。

平和も「当たり前」になってくると、ニュースにならない。
復興の進まない東日本大震災の被災地がニュースにならないのも、異状事態が「当たり前」化しているためだろう。
目の前のことに忙殺されていると、大切なことに気付かない。
だから、記念日として設定されていることは意味がある。
こういった記念日はいくつかあるが、8月のこの3日間は、日本人にとって特別であると思う。

国際化が進むほど、自国の歴史を知る重要性は増す。
アメリカや中国をはじめ、アジア諸国やヨーロッパ諸国を相手にする時、どんな歴史観を持っているかは重要である。
ほぼ100%に近い国が、自国の歴史に誇りを持っている。
そして、どの国とどんなことがあったかも、よく教えられている。
原爆の経緯や被害、是非について語れることは、国際舞台における日本人の必須項目である。

どんなに学力が高くても、ここが抜けては意味がない。
アクティブ・ラーニングで言われるところの「対話的な学び」「深い学び」がここである。
相手と対話しながら、自分の頭で考えて語れるかが勝負。
そのためには、まず知識。
だから、勉強は意味がある。
特に歴史の授業は、好き嫌いとか面白いどうこうではない。
前提となる知識がないとどうにもならない。
他教科とは一線を画す必須の学習である。(もちろん、好きな方が理解が深まるので良い。)

丁度始まったオリンピックと共に、歴史と平和に思いを馳せる機会にしたい。

2016年8月6日土曜日

『学校でしなやかに生きるということ』

「常識」や「当たり前」に合わせるのは苦しい。
しかし社会や学校の中には、この常識や当たり前がかなり多い。
(「かなり多い」というのも、相当控え目な言い方である。)
平均点を当たり前にとれることを求められる。
これほど個性重視が叫ばれていても、やはり全体としてその傾向は否めない。
ある一定の知識や技能を習得することを定められた学校という機関の宿命かもしれない。

体育などでも悩むところで、「全員」ができるのを求めると厳しい。
全員ができる良さもあるのだが、できなくてもそこに学びや価値があればいいと思う。
「全員をできるようにさせよう」とすることと、
「全員にできることを求める」ということは、
似ているようで全く違うということである。

そんなことを思っている折に、いい本に出会った。
『学校でしなやかに生きるということ』 石川 晋 著 フェミックス
http://www.amazon.co.jp/gp/bestsellers/books/500322/ref=pd_zg_hrsr_b_1_5_last

北海道の中学校教師である石川晋先生の新刊である。
「はじめに」の言葉からして、考えさせられる。
「善意ほど人を苦しめるものはないのだ。」
これは、初任者研修についての言葉なのだが、ぎくりとさせられる言葉である。

「自分がされて嫌なことは、人にしない。」
私の学級で約束事として最初に話したことなのだが、私自身ができているだろうか。
横並びが大嫌いなくせに、子どもにも求めている自分に気付く。

そんな矛盾を自分も感じているという人には、ぜひ読んで欲しいおすすめの一冊である。

2016年8月4日木曜日

本能的欲求から行動を考える(トカゲが好き)

夏といえば、何だろうか。

そう、夏といえば、トカゲ。
間違いない。
正解である。
漢字で蜥蜴または石竜子。
読んで字の如く、夏になると、石やら壁やらにはりついているミニ恐竜のようなアレである。

ところで、みなさんは、トカゲに出会ったら、どうするだろうか。

どうもしない人もいるかもしれない。
私は、ほぼ必ず、捕まえにかかる。
理由はない。
捕まえて飼おうとかいうこともない。
捕まえたら、ひとしきり眺めて、後は逃がすだけである。
できれば、誰かに見てもらって、感想なぞ述べてもらえたら最高である。
とにかく捕まえたい衝動にかられる。
だから、捕まえにかかる。

幸いにも、我が家の庭先や玄関近くに数匹住んでいる。
だから、休日はとりあえず外に出てトカゲをつかまえてみる。
そこから一日がスタート。
爽やかである。

ちょっと急いでいる時であっても、いたら捕まえたい。
街中などで見つけると困る。
さすがに、大の大人がスーツ姿でトカゲを捕りにかかる訳にはいかない。
そういう時だけは、非常に心残りだが、捕まえるのを諦める。

捕まえる時の自分なりのコツは、とにかく上(やや後方)から一気にいくこと。
しっぽよりも本体の側をがばっと掴みにかかる。
後退して逃げることはないので、結果的にしっぽをつかむこともある。
動きはそこまで速くない。
ただ、気配には結構敏感なので、手を近づけて躊躇してるとササッと逃げる。

捕まると、9割方噛みついてくる。
しかし、痛くはない。
彼らに、かつて恐竜だった頃のアゴの強靱さはない。
正直私にとっては無駄な抵抗だが、慣れないとびっくりして手を離すことがあるので、トカゲ的には割と有効打のはずである。

なぜ、捕まえたくなるのか。
多分、動物的な本能の欲求なのだと思う。
プチプチを潰すと嬉しいのも、かさぶたをはがしたくなるのも多分本能。
ダンゴムシを大量に捕まえてペットボトルに集め、先生や親に見せたくなるのも多分本能。
(ネコがネズミを捕まえて見せるのにすごく似ていると思う。)

本能的欲求という視点から見ると、子どもの不可解な行動の見え方も変わるように思う。

2016年8月2日火曜日

ブレイクスルーは拡散する

クラスで一つの運動に取り組んでいると、ある日急激にできる子どもが増える時がくる。

最初の数人は、何も教えなくても見よう見真似ですぐできる。
これは、運動能力の高い子どもたちである。
周りの子どもたちも「〇〇さんはやっぱりすごいなぁ」という感じである。

それ以外の数人の子どもが、運動のコツをつかんで、できるようになる。
そのコツを仲間に伝達する。
しかし、すぐにはできない。
停滞期が来る。

しかしこの後、なかなかできずに、もがいていた子どもの内の一人ができる瞬間が来る。
すると、これが「ブレイクスルー」の瞬間になり、瞬く間にできる子どもが増える。
自然界の現象で、一つ花が咲くのに続いて、一斉に咲くのと似ている。

今までできなかった仲間ができたという事実は、「自分にも」という期待を喚起する。
この一つの事実は何よりも強力である。
この一つの事実を作り出すまでが教師の大きな仕事の一つといえる。

この後は、子どもたちの持つ教育力がどんどん発揮される。
子どもの持つ教育力は、教師一人が持っている教育力をはるかに凌ぐ。

まずは、一つの事実を大切に作りたい。

2016年7月31日日曜日

道徳的な行動を選択する基準

主体変容・率先垂範。
拙著『やる気スイッチ』でも第一章で取り上げている最重要項目である。
原田隆史先生の「東京教師塾」で学んだことであり、元々は松下幸之助氏の言葉であるという。

ところで、これがなかなかできない。
教科等なら、難しいのはどれか。
運動の苦手な人は体育と答えるかもしれない。
音楽かも図工かも書写かもしれない。
人前で表現するのが苦手な人は、外国語かもしれない。
あるいは、文章を書くのが苦手で国語かもしれない。

私の思うに、主体変容・率先垂範が最も難しいのは、道徳である。
道徳で教える内容ほど、実行が難しいものはない。
むしろ、大人より子どもの方が優れている面もあったりする。
しかも、長年染みついた行動パターンは、なかなか変わらない。

何が道徳的な行動を促すのか。

一つは、必要感であると思う。
それが本当に必要とわかれば、そういう行動を起こすようになる。
例えば挨拶の必要性は、社会に出るまで案外気付かない。
親や教師に守られない一人の人間として社会に出て、上司に叱られたり接客したりする中で、初めて気付く。
挨拶せざるを得ない状況になって、必要感を持つ。(今は、必要感を持たない職種もたくさんある。)
これは、社会性に起因する。

もう一つは、自尊感情であると思う。
そういう行動を選択する自分が好きならば、そういう行動をとる。
これは、一人であってもそういう行動をする。

大きく分けて、基準はこの「社会」と「自分」の二つではないかと思う。
ここを見ないで道徳を説いても伝わらない。
「良さ」だけでは人は動かない。
「悪いこと・ダメなこと」「楽なこと」に自然と流れるのが人間だという視点も必要である。

「感謝」ということ一つ扱うにしても、ここが大切である。
感謝をしなくても生きていける。
だからこそ、感謝という行動の価値付けが必要となる。

価値は、社会にとってと自分にとっての両面で考える。
表面的に道徳を説いても、思う効果は得られないと心得たい。

2016年7月29日金曜日

かかえ込み跳び 運動の系統を考える

かかえ込み跳びの話の続き。

私がこの技を扱う時は、跳び箱は敢えて全て縦置きで行う。
理由は、跳び箱を横置きにすれば一気に難易度が下がるが、それでは「中抜き」という別系統の運動になるからである。
中抜きとは、腕を中心に振り子の原理で越える方法であり、平行棒の運動に近い。
跳び箱の上面が凹型になっている専用の跳び箱があるが、これを使った練習も「中抜き」になる可能性が高い。

一見似ているが別系統の技というのは要注意である。
似ている別系統の練習をすればするほど、本来求める動きと離れていく。
例えば、跳び箱運動の首はね跳びと頭はね跳びは一見そっくりだが、別系統である。

首はね跳びは、しなる動きであり、背骨をバネのように利用して跳ねる。
つま先までの遠心力を利用する、台上前転の発展技である。

一方の頭はね跳びは、ささる動きであり、反発力を得るために背筋を伸ばして背骨を固める必要が出る。
こちらは、倒立や側転に近い。
前方支持回転跳び(いわゆるハンドスプリング跳び)に発展する。

つまり、この二つの技は、高めていくほど、他方の技の動きから離れる。
背骨の動きと働きが、真逆なのである。

かかえ込み跳びの話に戻る。
別に中抜きでもいいという考えもある。
だが、かかえ込み跳びの楽しさの本質は、空中での浮遊感であると捉えている。
一瞬だが、ふわっと全身が浮く。
ここに本能的な「遊び」の楽しさの本質がある。
(ここについてはロジェ・カイヨワの「プレイ論」を参照。)

何をするにも、教師の側がねらいをもって指導することが大切であると思う。

2016年7月25日月曜日

閉脚跳び?かかえ込み跳び?

名称の謎の話。

小学校で行う跳び箱の切り返し系の技といえば、開脚跳びとかかえ込み跳び。
かかえ込み跳びは「閉脚跳び」とも呼ばれる。
名称が二つあるのは、学習指導要領での表記の変遷による。

以下、体育の豆知識。(興味ない方は読み飛ばしていただきたい。)
かかえ込み跳びの学習指導要領での名称の表記は以下の通り。
1977年版までは「腕立て閉脚跳び」。
1989年版では「かかえ込み跳び(腕立て閉脚跳び)」。
1998年版では再び「腕立て閉脚跳び」で、3年生のみ「支持でのかかえ込み飛び越し」。
そして現行の2008年版では「かかえ込み跳び」。

つまり、名称が行ったり来たりしているのである。
人によって呼び方が違うのも仕方ない。
当然、教わる子どもの側も呼び方がばらばらである。
親の方も「何、かかえ込み跳びって?」「閉脚跳びでしょ?」となる。
ばらばらである。

理由を知っておくと、つっこまれた際に説明がしやすいと思い、紹介してみた。

2016年7月22日金曜日

インファイター or アウトファイター

教育の手法の話。

子どもに色々な個性があるように、教師にも色々な個性がある。
特に子どもとの距離感の持ち方については、人それぞれである。

ボクシングのファイティングスタイルにインファイターとアウトファイターがある。
前者は、相手との距離をぴったり詰めて、密着して打ち合いに持ち込む。
肉を切らせて骨を断つスタイルである。
後者は、相手との距離を一定に保ち、脚をつかって近付かせないようにうつ。
蝶のように舞い、蜂のように刺すというスタイルである。
そしてこの二つの中間のミドルレンジで戦うボクサーもいる。

全く異なる二つのタイプだが、どちらがいいとは一概に言えない。
個人の能力によって、合うスタイルがある。

打たれ強く、パンチ力が高いなら、インファイトができる。
リーチが長ければ相手に近付かせないアウトファイトができる。

逆にいえば、どんなにパンチ力が合っても、相手に当たらなければ負ける。
リーチが長ければ、インファイトの時に連打がしづらく、邪魔である。

逆のスタイルをとってしまえば、長所が短所に、短所が長所になり得る。
リーチなどは変えられないのだから、自分の能力に合うスタイルを適切に選ぶ必要が出る。
(ボクシングの場合なら、階級を変えるという手もある。)

たとえが長くなったが、教師にもいえる。
子どもとの距離感。

密着するほど近い距離で指導する人がいる。
子どもとあだ名で呼び合うような関係である。

距離をとって指導する人もいる。
指導上の上下関係をはっきりさせ、礼儀をもって接する関係である。

もちろん、この中間やさらにこの軸の外の関係もある。

二元論的にどちらがいいとかいうことではない。
大切なのは、どれが自分自身と子どもとの関係に合うかということである。

あだ名で呼ばれるのに違和感を感じるのに、無理をしてそういう関係を作ろうとするときつい。
もっと親しくなりたいのに、上下関係を保とうと無理をするのもきつい。

子どもにとっても、色々な先生がいた方がいい。
親しみやすくリラックスできる先生と、おっかないけど頼りにもなる先生。その中間や外。
それぞれの場面で、力を最大限に発揮する人は異なる。
だから、学年チームは個性的な方がいいといわれる。

自分にとって無理のないスタイルを選ぶこと。
色んな人がいていい。
自分らしく、ありのままでというのは、そういうことだろう。
自分の性格と真逆の外面をとる必要はない。

これは、子どもにとってもいえる。
教師との距離感を、どうもちたいか。
子ども個々に違うはずである。

教師と子ども、それぞれに個性を認めていきたい。

2016年7月20日水曜日

協働を生む学習環境は誰がつくる

前号に引き続き、次の本の内容から。
『やる気を引き出す全員参加の授業づくり 協働を生む教師のリーダーシップ 小学校編』
http://www.amazon.co.jp/dp/4182014219

協働の主役は誰か。
つまり、誰が協働するのかということ。
この答えは、当然子どもたちである。

では、協働を生む学習環境は誰がつくるか。

こちらは、教師の仕事である。
子どもではない。
ここを間違えると、ただの放任になり、余計に学級がぐちゃぐちゃになる。

先ほどの本の中で、赤坂真二先生は次のように述べている。
「多くの子どもたちには学習環境に対する決定権がないのです。」

全くその通りで、学習環境の決定権は教師が有する。
「自分たちで学習環境づくり」という実践があるが、それをやろうという雰囲気をつくったのは担任である。
放置していたらそんな夢のようなことは起こりえない。

では、学習環境の中で、最も重要な要素は何か。
教室の広さや机・椅子の状態?
ICTの整備状況?
地域性?
・・・どれも大切ではあるが、最重要ではない。

最大の学習環境は、教師。
教師自身である。
それも「教え方」ではなく、「在り方」。
ここが最も感化・影響を与える。

いじめのないクラスを本気で目指す教師は、子ども、同僚はもちろん、あらゆる人々をいじめたり見下したりしない。
全力で学ぶことを求める教師は、自分も全力で学ぶ。
思いやりを求める教師は、自身も思いやりが深い。
協働を求める教師は、自身が職員と協働をしようと努力している。

無論、すべてできる人などいない。
だからこそ、自分はどこを大切にしているのか、できているのか、自己理解が必要である。
自分ができていないことは、当然子どもには求められないのである。

学習環境の決定権は、教師にあり。
そして、自分自身の在り方が反映しているという自覚を持って学級経営にあたりたい。

2016年7月18日月曜日

やる気を引き出す全員参加の授業づくり

タイトルは、6月16日発売した本のタイトル。
私も執筆している『学級を最高のチームにする極意』シリーズの第9弾である。
https://www.amazon.co.jp/dp/4182014219

このシリーズでは、全て第一章の理論編を赤坂先生が執筆している。
その後で、我々現場教師による実践編という構成である。
以下の、赤坂先生の「著者インタビュー」を読んでいただきたい。
http://www.meijitosho.co.jp/eduzine/interview/?id=20160380

この中で、重要なことが述べられている。
一つは「子どもたちが教室においてもつ基本的な願いを教師がしっかりと把握し、満たし続ける」ということ。
これは、願いの共有。ルールの共有でもある。
学級目標づくりや、クラス会議などの手法がここを担保する。

次の言葉も、この本の核心をついている。
「活動に必要なルールを設定し、それを定着させて、あとはそれを見守ることです。
何もしないで任せることは、放任です。
子どもの自由度の高い活動は、その活動が成り立つためのルールや人間関係の調整などしっかりとした下準備に支えられます。」
自由にさせたいから、ルールを設定するのである。
完全な自由は、逆に大きな不自由を生む。
よく私が例えに使う、ルールも枠もないサッカーの試合である。

一定の制限が、自由を生む。
これは、本当にそうなのである。
例えば授業では、制限すればするほど発想が自由になるという側面がある。
私は今回の本の中で、俳句の授業の紹介をしている。
俳句は、まさに制限だらけ。
五七五の究極に狭い制限の中で、無限の発想が生み出される。
制限されるからこその自由である。

授業そのものにもいえる。
ねらいを絞る。
教材を絞る。
制限をかけてぎりぎりまで焦点化すれば、火がつく。
やる気を引き出す全員参加の授業づくりのコツである。

制限が自由を生む。
自由な学級づくりを目指す人こそ、読んで欲しい本である。

2016年7月17日日曜日

願いと嫌なことを吸い上げる

本当に自由なクラスでは、授業中に学習に集中する。

これは逆にいえば、休み時間には大いに遊ばせる必要が出る。
休み時間が来ているのに授業を続けるのを「教師の罪悪」と糾弾する人もいるぐらいである。
(一方、子どもたちが本当に熱中している時に、「時刻だから」と機械的に打ち切るのもまた違う。)

自由なクラス。
自由な職場。
自由な家庭。
自由な〇〇。

一人の場合なら、全てが自由で構わない。
しかし、二人以上である場合、その構成員の全ての自由を考えなければ、自由な〇〇とはいえない。

つまり、自由なクラスに近付くためには、その時とその場における集団の目的、願いの共有化が大切となる。
つまり、自由の根底は、考え方にある。
授業を受けている自分に自由を感じているか。
発言する自由もあれば、黙って聞いている自由もある。
外で遊ぶ自由もあれば、一人で読書する自由もある。
本当は一人でいたくないのに一人でいるのであれば不自由。
本当に一人でいたいから一人でいるのであれば自由。

自由なクラスでは、願いをはっきり伝えられることが大切になる。
個々の願いの理解と共有化。
このあたりにクラスの自由のキーワードがあるように思う。
そう考えると、やはり学級目標づくりの際に全員の願いだけでなく、嫌なことまで吸い上げるのは、大切な作業ではないかと思う次第である。

2016年7月15日金曜日

自由なクラスを考える 後編

前号の続き。

例えば、自習の時の自由。
わかりやすく、極端な例で考える。

自習中に大騒ぎする子どもが全く注意されない状態は、騒ぐ子どもにとっては自由。
真面目にやりたい子どもにとっては不自由な状態である。

一方、一言もしゃべることが許されない静寂状態は、静かに取り組みたい子どもにとっては自由。
しゃべりたい子どもにとっては不自由である。

この差はどこから生まれるかというと、目的の違いである。
騒ぎたい子どもは、遊ぶことが目的になっている。
静かに取り組みたい子どもは、学習を進めることが目的になっている。

この場合、どちらに合わせるべきかというと、やはり後者であろう。
自習時間は本来学習の時間であるからして、遊びのために設定された時間ではないからである。

では、前者はどうするかというと、これは学ばせるしかない。
自習は、遊びの時間ではないことを理解するしかない。
騒ぐことが悪いのではなく、「自習の時間に」騒いで本来の学習が進まないことが悪い。
また、他に迷惑をかけることが悪いのである。

どう伝えるかだが、子どもによって伝わりやすい例は異なる。
サッカーを知っている子ども向けに、サッカーの例で伝えてみる。
ワールドカップの試合で、ドリブルで5人抜きさって強烈なシュートを決める。
このプレーは〇か×か。
普通に考えれば〇どころか◎で、大称賛されるであろう。
しかし、これが「試合終了の笛が鳴った後」に選手が故意にしたことであれば、どうだろう。
恐らく、世界中から非難の嵐である。
今後の公式戦での出場停止処分を食うかもしれない。
数秒の差であるが、「試合中」と「試合終了後」の差は果てしなく大きい。
同じ行為でも、いつやるかによって、それが良いか悪いかは180度変わる。

時と場によって目的が変わる。
この区別を理解することは「自由なクラス」を志向する上でも重要である。
自由と放縦を混同させないようにしたい。

2016年7月13日水曜日

自由なクラスを考える 前編

学級目標を作る時、子どもたちから必ず出るキーワードの一つに「自由」がある。
「自由」なクラス。
いい響きである。
しかし、現実には「自由」をうたいながら、一部の自分勝手な子どもだけがやりたい放題やっている場合もある。
民主主義をうたいながら、内実は声の大きい一部の子どもの意見だけが尊重されている場合もある。
その時、「自由」を求める他の子どもは、この上ない不自由を感じて過ごすことになる。

そこで今回は、「自由なクラス」について考える。

その前に、まず「教員」という仕事は自由か。

不自由だという人からは「拘束時間が長すぎる」「多忙すぎる」という声が聞こえる。
特に、年間で部活動を主担当している教員は土日も含めて常時勤務している状態である。

そんな現状を鑑みて、若手教員数百人を対象に部活動について実態調査を行ったことがある。
(たまたま偶然、そんな役職を与えられたのである。)
内実は、部活で苦しんでいる人と、楽しんでいる人、まあまあという人が混在していた。
まあまあという人も、部活の意義を強く感じていたようである。
本当にやりたくないと苦しんでいる人もいる反面、部活は大変だけどやり甲斐があるという意見も強い。
特に中高には、部活動指導がやりたくて教員になった人がたくさんいる。

つまり、部活動を楽しんでいる教員は、自由である。
嫌々やっている人は、不自由である。
だから、部活動という一面だけ切り取っても、教員が自由かどうかは、一概にいえない。
少なくとも、仕事を楽しんでいる人は、自由といえる。

子どもの話に返る。
クラスにおける自由とは何か。
それは、そのクラスを楽しんでいる状態である。
個人レベルで見れば、自由派と不自由派が混在する。

長くなったので、次号に続く。

2016年7月11日月曜日

脱・「仲良し集団」幻想 その2

前号の続き。
ことクラスになると、往々にして「みんな仲良く」の幻想を求めてしまう。
なぜなのだろうか。

そんなはずはないのである。
その証拠に、「好きな人同士」という方法を何かしらで安易に採用すれば、人間関係のトラブル発生率がぐんと高まる。
この「好きな人同士」というのは、裏返せば「好きでない人」「一緒になりたくもない人」がいるということも暗に示す。
「好きな〇〇」にものやら何やらが入るのはいいが、人はよろしくない。
現実的に考えて、トラブル発生必至である。

みんな仲良しということはあり得ない。
どんな小集団だって、仲良し、まあまあ、敵対という関係性が生ずる。
もう一つ、重要なところで「知らない」という関係性もある。
これが最も深刻で、かつ一気にプラスに転ずる可能性も秘めている。
だから、担任は、色々な子ども同士を関わらせるのが大切な仕事になる。

どうせ仲良し集団ではないのである。
だったら、意図的にぐちゃぐちゃに混ぜてあげればいい。
面白い化学変化の起きる可能性がある。
これは、席替え一つとってもいえる。
親密度と距離は大切で、物理的距離が近ければ確実に関係性も近付く。

色々書いたが、要は幻想を抱かないで、きちんと対策を立てること。
そして、仲良し集団であることを求めないこと。
敵対もまたよし。
一番いけないのは、知らない関係性。
これぐらいの心構えで、ちょうど良いのではないかと思う次第である。

2016年7月9日土曜日

脱「みんな仲良し集団」幻想 その1

前にも書いたが、「友だち百人」もいらない。
現実の世界としては、基本、一人でも理解者がいれば十分である。
真の親友と呼べるような存在が一人いれば、世界が敵に回っても戦える。
そして、この親友は、べったりくっついたり、束縛する必要もない。
互いに自立して勝手に動き、必要な時にはがっちり助け合える関係である。
(一緒にトイレに連行したり、「〇〇と話したらダメ」という征服者と手下の関係とは次元が全く違う。)

裏を返せば、クラス全員が本当に「友だち」と呼べる関係であるか。
答えは否である。
中には、過去のいじめ等で、根底で恨んでいる関係性すらある。
それでも同じクラスであれば、一致団結して物事を遂行することがある。
それが目的を持った集団のクラスというものである。

このことは、職場に置き換えるとすぐわかる。
職場の仲間は、友だちの集まりではない。
共通の目的に向かって、目標を達成するための集団である。
運命共同体である。
そこには、好き嫌いを超越した関係性が求められる。
「人として好きじゃないから協力しない」とか、「好き同士だからうまくいく」という類のものではない。
無論、仲間同士の関係性は良好な方が円滑に進むが、仲良しであることは必須ではない。

しかし、ことクラスになると、往々にして「みんな仲良く」の幻想を求めてしまう。
なぜなのだろうか。
長くなったので続きは次号。

2016年7月7日木曜日

がたがたの土台を想定して学級目標をつくる

今更と思う人もいるかもしれないが、学級目標の話。

今年度、学級目標は6月末に完成した。
例年に比べると、ゆっくり作った。

その理由は、先週まで運動会でクラスがまとまっていたからである。
運動会が方向を示してくれていたので、その間は必要がなかったのである。

さて、運動会で燃えまくった。
クラスとしての大成功も収めた。
そうすると、終わった後の反動も大きい。
俗にいう「〇〇ロス」の状態である。

そういう訳で、新たな目標が必要になる。
ちなみに、運動会時点から目的は変わらない。
クラス集団の協働による自治力を高めること、子ども一人一人の成長である。
その「的」への「標」を新しく立てたいのである。
しかも、卒業までずっと使える標がいい。
途中変わるかもしれないが、そういう長期的な視点でつくる。

私の場合、アンケートを使ってつくる。
何度も紹介している、原田隆史先生の手法である。

最高の学級、最悪の学級とはどんなものか。
して欲しいこと、して欲しくないことは何か。
自分はどんなことをがんばりたいか。
そんなことを全員から吸い上げ、共有する。

学級目標を作るだけなら、良いことだけ書けばできる。
しかし、敢えてマイナスの悪いこと、嫌なことも書かせる。
これには、明確なねらいがある。

共有時は、誰が書いたものかはわからない状態にする。
そうすることで、嫌なことも遠慮なく書ける。
毒出しである。
今までためてきた不満をここでぶちまけてもらう。
「こんなことをされると嫌なんだ」ということを、クラスの仲間にも知ってもらう。
やってしまった人には、今後の反省材料に使ってもらう。
ただし、個人的な攻撃ではないので、すんなり受け容れられる。

がたがたの土台の上にきれいな建物をつくっても、崩れる。
理想だけ語ってもダメなのである。
クラスは、様々な人間の様々な感情が入り混じり、キレイゴトだけでは済まされない。
そういう毒というか、マイナス面も抱えて、受け容れて進むものである。
地盤がそうなのだから、それを想定して建物をつくる必要がある。
それが、自分たちの与えられた場なのだから、そこから始める。
どの年のどの地域のどこのクラスだって、そうである。

学級目標づくり一つとっても、ただの理想論に終わらせない。
本当に実のある、実効性の高いものをつくりたい。

2016年7月5日火曜日

運動会エピソード ~正々堂々とやる~

運動会等の勝負事では、勝ち方が大切である。
正々堂々、ということを重視する。

私は高校時代、サッカーをやっていた。
1年生は、公式戦に出られるのは突出した能力の1人か2人である。
多くの1年生は、試合の時、コートの周りで球を拾う係になる。
その時言われていたことで、嫌で嫌でたまらなかったことがある。
「試合終わり間際で、勝っている時はゆっくり拾いに行け。
負けている時は、すぐに拾ってこい」というものである。

実にくだらないと思った。
そんな勝ち方をしてどうするのか。
プライドはないのか。
勝てばいいのか。
そんなことを友人に話したら「勝ちにこだわることも大切」とのことだった。

これは、観によるのかもしれない。
私には、この考え方がダメだった。

これを思い出させる出来事が運動会であった。
球運びのような競技で、隣のチームと五分五分で争っていた。
その時、隣のクラスの子どもが、ボールを結構な勢いで落とした。
ころころと転がり続け、私のクラスの子どもの列に入ってきた。

ここで、その子どもは、ボールを止めて、相手に返した。
原則、相手チームのボールが転がってきたら「さわらない」というルールである。
子どもが「しまった」という顔をしたので、「当然のことしただけでしょ」と言ってあげた。
ボールが転がってきたから、相手に返した。ごく普通のことである。
こういう場面で、普通のことを普通にできることが大切である。

美談に仕立てているように見えるが、本当に普通のことを普通にしただけである。
「相手のために」とか高尚な思いがあったとは思えない。
親切を、ただ普通のこと、当然のこととして行う。
日常生活でもいえることである。
私はクラスの子どもを、素敵だと思った。

勝負事は、勝てばいいのではない。
勝ち方が大切である。
勝ちにいく時は、爽やかに勝ちにいきたい。

2016年7月3日日曜日

実施時期でねらいが変わる運動会

運動会後に書いた記事。

勝負事には、真剣に取り組む方である。
特に「強くなる過程」や「勝ち方」には、こだわる。

自分たちで強くならねば、学級として取り組む価値がないと思っている。
教えられた通りにやって強くなって結果を出しても、「先生に言われた通りにやっただけ」と思われては意味がない。
まして「〇〇先生のクラスだから勝てる」と思われては元も子もない。
「自分たちだから、この仲間がいたから勝てた」と思えるようにしたいのである。

以前書いた「あれは僕の絵じゃありません」という話と同じである。
指導されまくって書いた特別賞受賞作品の絵は、その子にとって自分の作品ではないのである。
指導されまくって強くなっても、自分たちの獲得した力ではないのである。

最低限のポイントを教えたら、後はなるべく任せる。
実践&ミーティングの繰り返しである。
自分たちで作戦を考え、練り直していく。
試行錯誤の繰り返し。
当然失敗もたくさんする。

指導するのは、仲間同士のコミュニケーションルールというか、マインド面。
成功したら一緒に喜んだり拍手をしたりする、失敗したら「ドンマイ!」の声かけ。
一人の失敗はみんなの失敗、自分の失敗と思って、工夫してやり直す。
8の字跳び&大縄指導と原理・原則はすべて同じである。

うまくいこうがいくまいが、あまり褒めたり叱ったりもしない。
ただ、感心はする。
よく考えたことや、励まし合う姿を素敵だと認めることはする。

そうしていく中で、クラスが単なる集団からチーム化していく。
運動会で勝つためによいクラスづくりをするのではない。
よいクラスづくりと一人一人の成長のために、運動会を利用する。

5月に運動会がある場合と10月にある場合では、意味合いが異なる。
5月は、クラスづくりの意味合いが強い。
10月は、そこまで培った力の発表の場という意味合いが強い。
時期が違えば、ねらいが変わるということである。

また、勝ち方も大切である。
長くなるので次号。

2016年7月2日土曜日

大人は入れません

エッセイというか、雑感。

どうも、子どもには通れて大人には通れないところというのが、結構ある。

先日は低いところの下にボールが通ってしまって、取れないでどうしようと思ったら、子どもがするっと下を抜けてしまった。
「そこはくぐったらダメなんだよ」とこっち側から呼びかけたら、するっと戻ってきた。
何か、言ってて虚しい感じである。

ある時は、破れた金網を抜けて「こっちが近道なんだよ」と教えてくれた子どもがいた。
「そこは通っちゃダメだよ」と教えると、残念そうに戻ってきた。

ある時は、学校のフェンスを軽々と跳び越えられてしまった。
「勝手に出たらいけない」と注意したら、そそくさと戻ってきた。

どれも立場による対応として、当然のことである。
一方で、時々、馬鹿らしくもなる。
大人は、人目を気にしない訳にいかない。
まして、立場があれば、尚更である。
ただ、子どもには、普通に通れる場所なのである。
でも「大人は入れません」という場所が、確実に存在する。

子どもの頃なら、できたことが、できなくなっている。
子どもの頃なら、できた発想が、できなくなっている。

私は子どもの頃、「自分が先生になったら毎日全部体育にする」と豪語していた。
大馬鹿である。体育嫌いには、かなり迷惑な存在である。
しかし、そういうことを本気で考えられるのが、羨ましくもある。

教室にいると、やらねばならないことがたくさんある。
しかし、学級経営の本質は何なのか。
学習指導要領に定められた内容をきちんとこなすこと、ではないはずである。
それはあくまで、子どもの力のある一面を育てるための手段にすぎない。
もっと、学級集団の力を生かして、何か違うことができるのではないかという思いが強くある。

学びの夏休みを迎える前に、まずは新たな試みを色々としてみたい。

2016年6月30日木曜日

目標と目的

何度か書いている、目標と目的の話。

一応おさらいから。
どちらが上位概念か。
これは、「目的」である。
目的は一点の「的」である。
目標はそこに向かうための「標」(=木の立て札)である。

ここで、子どもに次のように問いを投げかけた。
「掃除をして、きれいにすること。
これは、目的か、目標か。」

読者の皆様も考えてみてもらいたい。
目的だろうか、目標だろうか。


これは、目的、目標、どちらにもなり得る。

きれいにすることを「目的」におくとする。
すると、それに向けて様々な「目標」が立つ。
「汚れているところを探そう」
「黙ってやろう」
「用具を工夫しよう」
・・・等々。
結果、きれいにするという目的が達せられるはずである。

では、きれいにすることを掃除の時間の「目標」の一つとする。
すると、その先の「目的」を見据えることになる。
きれいにして、何を目指したいのか。
例えば、場をきれいにすることで、「心を磨く」という目的が考えられる。
すると、「心を磨く」という目的に適う掃除の仕方(様々な目標)を考えることになる。
その中に「きれいにする」は必ず入る。
他にも、「人の嫌がりそうなところを進んでやる」とか、
「使う人のことを考えて行う」とか、
逆に「無心で行う」とか、
「黙って行う」とかも入るかもしれない。

何が言いたいかというと、全てが目標にも目的にもなり得るということである。
よく「手段の目的化」ということをいうが、あまりいい意味で使われない。
これは「目標の目的化」ともいえる。
立て札までいくこと自体が目的化している訳である。
(無論、これが必要な場合もある。)

掃除を例に挙げたが、あらゆる場面でいえる。

例えば「アクティブ・ラーニングの授業」それ自体が、目的化していないか。
ペア学習やグループワークのような「型」にはまっていないか。
それを通して、目指す姿は何なのか。

例えば、指導案に沿って授業をするということ。
もし教育実習生なら、これ自体が目的になってもいい。
しかし本来は、この授業をすることで、何に近付きたいのかが大切である。
そこを見据えていなければ、単に「面白かった」で終わりかねない。

長くなった。
要は、子どもに教えていることは、自分自身への教化である。
目的を持って日々を過ごしたい。

2016年6月27日月曜日

月曜日はゆったり始める

月曜日でも、やる気スイッチオンにしたい。
では、どうするか。

やればやる気が出るという仕組みなのだが、この最初の一歩が出ない。
やってもうまくいくのかという不安感があったりする。
(ちなみに、思考が全ての不安やめんどくささを引き起こすので、本来は無思考でやるに限る。)
特に日曜日の夜から月曜日にかけては、正体不明の不安感や焦燥感がある。

要は、自律神経の問題であるらしい。

交感神経が緊張を生み出す。
高速の運転中はこちらが顕著にはたらく。

副交感神経がリラックスを生み出す。
睡眠中はこちらである。

両方がバランスよく働いているのが良い状態だという。
大人も子どもも同様である。

月曜日にやる気が出なかったり不安感が出やすいのは、休日にこのリズムが崩れることが一因らしい。
自律神経は天候(特に気圧)にも左右されるので、曇りや雨だと働きが落ちる面もある。

意図的にこれを生み出していく。

自律神経によるもので唯一コントロールできるのが、呼吸。
深呼吸は副交感神経優位にできる。

脳にダイレクトに届く音楽や香りも有効であるという。

どれも、「ゆったり」がポイントである。
無理矢理やる気を出すと、ジェットコースター方式で、一気に落ちる。
だから、なだらかに上げて、なだらかに下っていくのが安定する。

月曜日。
やる気が出ないなら、まずは「ゆっくり」である。
子どもがだらっとしてても、ゆっくり調子を上げていく。

お互い、変な無理をしないことも大切である。

2016年6月25日土曜日

自ら運動の楽しさを追求する体育学習

タイトルは、本校体育部の研究テーマである。

自ら。運動の楽しさ。追求。
アクティブ・ラーニングの求める定義にも合致する。
大きいテーマであるが、目新しいものではないと思う。
だからこそ、授業内容の方でしっかり提案したい。

そもそも、運動の楽しさとは何か。
また、なぜ跳び箱運動をやる必要があるのか。
かかえ込み跳びである必然性は何か。
かかえ込み跳びという運動の本質的な楽しさとは何か。

技ができればいいのか。
技ができなくてもいいのか。

自分がその技をできることが大切なのか。
仲間がその技をできることが大切なのか。
できたらそこで終わりなのか。

どうやってできればいいのか。
わかるとできるはどう違うのか。
教えるとは。
励ます、勇気付けという行為は運動の楽しさ追求とどう関わるのか。

色々なことを考えながら、今回の授業をつくった。
メインは自分たちの運動の映像分析と、協働による場作りである。
これを通して、どんな「学びを楽しむ姿」が表出するのか。
その辺りを見ていただけると幸いである。

なお、事前申し込みなしの当日受付も大歓迎。
急に予定が空いた、今気が向いたという方は、西千葉駅へ直行を。
私は9時から10時までの60分間、体育館での授業展開。
11時10分から12時40分までが協議会。

貴重な土曜日の午前を、有意義に使っていただければ幸いである。
ぜひお越しいただきたい。

2016年6月24日金曜日

転ばないで自転車に乗れる方法?

失敗と成長の話。

先日、子どもの自転車の練習に付き合った。
補助輪を外しての走行。
乗れる人には当たり前すぎることも、乗れない子どもにとっては大きな壁である。

30分ほどやったが、一度も転ばない。
そして、ほとんど進まない。
転びそうになる前にすぐ足を着くので、当然である。
こぐ以前のところである。
両足を離すのも一瞬である。

ここを見て、はたと気付いた。
そう、誰だってケガはしたくない。
大人も子どもも同じである。

しかし、ノーリスクでいくほど、ノーリターンであることが多いのが世の常である。
転ばないようにすればケガもないが、挑戦もない。(当然、成長もない。)
この辺りのバランスが肝である。

つまり、最低限の安全面は確保しつつも、そこから先はリスクをとる必要がある。
わざわざ石がたくさん転がっている場所で練習する必要はない。
しかし、普通に平坦な道でも、転べば痛い。
痛い思いをする過程で、成長がある事実も否めない。

ここではたと思い出した。
私がよく使っている道徳教材で、『生きてます、15歳。』という本がある。
https://www.poplar.co.jp/shop/shosai.php?shosekicode=80000080
この本に、全盲の女の子が、母親と公園で自転車の練習をする場面のくだりがある。
母親は、一つも手を貸さない。
周りから見れば「鬼母」である。
全盲の子に手を貸さないで自転車練習など、常識からすると有り得ない。
血だらけ傷だらけになりながら、練習を続ける。
しかし、やがて乗れる時が来て、二人で涙を流して大喜びする。

ここである。

助けて欲しい。
しかし、母親は助けてくれない。
「根性出せ」の一点張り。
しかし、めげずに続ける。
やがて、成功する。
失敗を糧とした努力の積み重ねによる成功体験をする。

母親は、手を貸したい。
でも手を出さない。
愛する我が子がひざやひじを血だらけになりながら転倒しているのを、黙って見守る。
相当な我慢が必要である。

この場面では、お互いがリスクを背負っている。
リスクが大きい分、見返りも大きい。
「失敗したくない」「ケガしたくない」なら、攻めずに自転車なぞ乗らなければ済む話である。
しかし、敢えていくことに価値がある。

何でもこれである。
学級経営だって、リスクをどれだけとるかである。
1から10まで先回りして手出し口出しをしていけば、安全かもしれない。
例年通りで当たり前のことを繰り返していっても、何とかなるかもしれない。
しかし、そこに子どもの成長があるかは、疑問である。

子どもに細かく手取り足取り教えてあげる時がある。
一方で、子どもの成長を黙って見守る時がある。
その見極めは、経験からしか学べない。
しかし、より良い方法を事前に学習しておくことも価値がある。

拙著『ピンチがチャンスになる切り返しの技術』も、ここである。
守りに入らない。
攻めれば攻めるだけ、ピンチに陥ることが増える。
それをチャンスにして這い上がるための本である。
学級崩壊に陥らないための本ではない。
最高の学級経営を攻めながら目指すための本である。

話が逸れた。
要は、最高の準備をした上で、しっかりリスクをとって挑戦していくこと。
子どもにとっても大人にとっても大切なことであると思う。

2016年6月21日火曜日

しんどい時は、騒いでください

私の尊敬する先生の話のシェア。

どの仕事でも、しんどい時がある。
特に学級担任は、問題を抱え込みやすい。
子どもや保護者相手に何かトラブルがあった時にも、自分個人の問題にしがちである。
学級がしんどい時にも、自分の学級経営の仕方が悪いからだと思いがちである。

そんな時、どうするか。
「非常事態には、落ち着いて」がセオリーではある。
しかし、私は次の言葉に感銘を受けた。

そういう時こそ敢えて
「しんどい時は、騒いでください」
なのだという。

どういうことか。
つまり、騒げば、周りに知られる。
問題がチームに共有化されるのである。
まして、学年の若手が苦しんでいるとわかったら、学年主任やベテランの先生は放っておけない。
問題が顕在化し、チームでの対応が可能になるのである。

以前に、学級の子どもの「助けて力」について書いたが、あれと同義である。
「助けて」と言っているのがわかれば、助けられる。
一番困るのは、すごく困っているのに、一見何も問題ないように平気なそぶりでいられることである。

苦しい時は、苦しいと言っていい。
そんな風に言ってくれる上司や同僚がいる職場なら、どんなに働きやすいことか。
そんな職場が増えたなら、心や体を壊して倒れてしまう人が、どれだけ救われるかわからない。

トラブルは自分で何とかしろというのは簡単である。
言う側は鍛えるつもりなのかもしれないが、倒れそうな人にはきつい言葉である。

しんどい時は、騒いでください。

人としての優しさの本質を突いた言葉であると思う。

2016年6月18日土曜日

「素晴らしい」を解釈する

前号の続き。
G.W.関連の話で、こどもの日に続き、みどりの日の話。

みどりの日は、自然の恩恵に感謝する日である。
当たり前のようで、意外とできていないことが多い。
いや、当たり前だと思っているからこそ、感謝を忘れる。
「有難う」の反対は「当たり前」というのは今では有名な解釈ではあるが、その通りだと思う。

解釈が大切である。
自分の世界は、自分の解釈で成り立っている。
(これを認めるには、同時に他人の世界は他人の解釈で成り立っていることも尊重する必要が出る。)
解釈は、情報が自分のフィルタ(観)を通ってきたものである。
百万人が同じ情報に触れていても、観によっては百万通りの異なった解釈となる。

「素晴らしい」という言葉がある。
「素」で「晴れ」。
「素」はそのまま。
ただ、晴れているという情景が思い浮かぶ。
そのまま、青空の下で生きていられること自体が、素晴らしいことである。
普段自覚しないが、空気も含めた自然に生かされていることは、有難いことである。
仕事があることも、目の前の子どもたちの存在も、そのまま「素晴らしい」「有難い」ことだと気付く。

「困った時は空を見上げる」というようなフレーズが、様々な歌詞によく使われる。
晴れて澄み渡った空の下、生きているだけでも素晴らしいことである。

熊本は相変わらず地震が起きるし、復興にも時間がかかるようである。
しかし「止まない雨はない」という言葉もあるように、必ず晴れる時が来る。

福島の被災地ボランティアに行った際、次の二つの言葉が心に残っている。
「できる人が、できる時に、できることをする。」
「被災地を忘れない。」

被災地のことを忘れず、できることとして、応援メッセージは送り続けたい。
そして、何はともあれ今生きていられること自体の素晴らしさに、有り難みを感じられるようにしたい。

2016年6月15日水曜日

子どもの人格を重んじ、幸福をはかるとは

うっかり転載し忘れた、メルマガ上で1ヶ月以上前の記事。

みどりの日と、こどもの日の話。

みどりの日は、自然に親しみ、恩恵に感謝する日。
みどりの日は、もともと4月29日で、昭和天皇誕生日だった。
2007年にこの日を昭和の日と制定するに際し、5月4日に変更されたという経緯がある。

こどもの日に関して、電子辞書の広辞苑から引用する。
=========
(引用開始)
【こどもの日】
国民の祝日。
5月5日。
子供の人格を重んじ、子供の幸福をはかる趣旨で制定。
もと端午の節句。
(引用終了)
=========

(気になるのが、この「こども」という平仮名表記。
調べると、理由が色々とある。
よいと思う人、仕方ないかと思う人、漢字に戻すべきだと思う人。
色々いていいが、そもそも気付かなかったという人も結構多いのではないかと思う。
考えは述べられた方がいいように思う。)

人格を重んじる。
幸福をはかる。
それぞれ、具体的に、どういうことだろうかと考える。

世の中の解釈は色々ある。
小学校教員という立場から、考えてみる。

人格を重んじる。
ずばり、「一人の人間として認める」ということ。
子どもが子どもなのは今だけであって、いずれは大人である。
一時的に、子どもと先生という関係で前に立っているだけである。
自分の方が優れているとかで¥はなく、「先に生き」ている者として、伝えるべくを伝えるだけである。
また、違いを認めるということでもある。
一面的に見ないということである。
評価にも、多様さが求められる。

同時に、「相手を一人の人間として認める」ということも教える必要がある。
周りの人に対しても、ぞんざいに扱わない。
ものを渡す時に一言声をかけたり、何かしてもらったら「ありがとう」と言う。
友だちだろうが先生だろうが、地域の人だろうが店員さんだろうが、全て同じである。
そこを差別しないことも教える。
差別する人間は、差別されても文句が言えないことも教える。

幸福をはかる。
ずばり、世に求められる人に育てることである。
学力をつけることも、体力をつけることも、ここにあたる。
あいさつや礼儀を身に付けるのも同様。
目的はここである。

こどもの日の定義は、なかなかに意味が深いと思う。

被災地のこどもたちにも、この権利がある。
熊本大附属小にも、子どもがいる。
千葉大附属小では、運動会での被災地募金活動と、子どもたちによる応援メッセージを送ることに決まった。
(附属小というのは、他より後回しにされがちということである。)
広く子どもたちの幸福について考える機会にしたい。

2016年6月13日月曜日

「私は自動販売機ではありません」

教師の仕事の大きな部分は、授業をすること。
それ以前に学級づくりも、大切な仕事である。

内実が大切である。
つまり、何をねらって授業をしたり、学級づくりをしているかである。

例えば、算数の授業。
四則演算ができるようにする。
これは大切であるが、いうなれば「教科内容」である。

もっと大きな視点でみると、「学校教育内容」というものがある。
学校教育のねらいからすれば、社会で生きる力を身に付ける必要がある。
算数でも何でも、その力はつけられる。

どの教科でも絶対に外せないのが「礼儀」の指導である。
礼儀というと、堅苦しくきこえるかもしれない。
突き詰めると、礼儀とは「人を大切にすること」に尽きる。

算数の授業で問題を解き、教師のところへ持ってこさせる。
その時に、教師に無言で差し出して、無言で帰るというのを普通にしているとする。

これは、一つの教育である。
つまり、教師を人としてみなさなくてよいという学習になる。
自動販売機とかと同じである。
そういう子どもに対し、私は冗談半分で「ドウゾ。ヨクデキマシタ。」とロボっぽくノートを渡す。
または無言で○や×をつけて返す。
(通常は必ず一声称賛や励ましの言葉をかける。)

その後で、次のように話す。
「今、無言でノートを返された人たちは、理由を考えてください。
私は機械じゃありません。
人間です。
人間相手に、無言でものを渡すのですか。
人を、自動販売機か何かと勘違いしていませんか。
そういう人に限って、自分を大切にしてくれないと、やたらに騒いだり陰で文句を言ったりするものです。
そういう人を、わがまま、身勝手といいます。
私はあなたたちを、人間だと思っています。
だから、一人の人間として対応します。
みなさんも、私を人間だと認めるなら、そうしてください。」

きついようだが、大局的にみると、これは「優しさ」に含まれると思う。
間違えているので、その場で正す。
間違えていること自体に気づいていない訳である。
礼儀以前の問題で、知らないのである。
放っておけば、そのまま大きくなるわけで、人から「無愛想な奴だ」と思われる。
それは、不本意な話である。
結局、困るのは本人である。

教える側は、一時的に疎まれり、面倒がられたり、あるいは嫌われたりもするかもしれない。
それでもやる。
口うるさいと思われても構わない。
やることをやる。
なぜなら、それが自分の役割であり、仕事だからである。
子どもが悪くなったら、マイナスの教育なのである。
大局的に見て、社会に出た時に良いと思われる方向に導く。

子どもにも保護者にも、おもねらない。
言うべきことは言う。
志を持って、仕事にあたりたい。

2016年6月11日土曜日

何のために仕事をしているのか

先日、講座の打ち合わせを兼ねて気の置けない友人たちと一席設けた。
その際、「何のために仕事をしているのか」についてが話題になった。

教師の存在意義は、子どもである。
子どもがいないなら、存在意義がなくなる。

例えば、いわゆる「手のかかる」子ども。
大変である。
つまり、教師を「大変」させてくれる存在である。
(そういう子どもを「神様」と呼んでいる。)
そういう子どもと取っ組み合った一年は、振り返ると本当に充実感がある。
何もしなくても勝手に成長してしまうなら、楽だが味気ないともいえる。

例えば、前年度に「学級崩壊」を体験してしまったクラスの子どもたち。
子どもたちは、立ち直ることを求めている。
リーダーを求めている。(しかし、表向きは無気力、または反抗的であったりする。)
求められているとわかれば、がんばれる。
ピンチは見方によって「大変」のチャンスである。

例えば、いわゆる「安定した」子どもたち。
普通にしておけば、普通に過ごせる。
そこに、あえて火を付ける。
大変だが、そこに何かしらの変化を起こせる。

要は、子どものためになること。

どの学校にも、本当に子どもに寄り添って、一緒に泣いて笑って怒って喜んでいる先生がいる。
その先生に出会って、その後の人生が前向きになった子どもがいる。
それが、周りに知られている必要はない。
目立つ必要もない。
「何のために」が、しっかりとある。

地道に、目の前の子どものために何ができるか考えること。
それをやること。
「何のために」に迷ったら、目の前の子どもを見る。
教師の仕事の存在意義は、そこにしかないと思い至った次第である。

2016年6月9日木曜日

殻を破る~エビファイト~

前号の「大変」の話の続き。
エビの脱皮の話。
(元ネタは飯村友和先生のセミナーからである。)

先日、潮干狩りをしてきた。
木更津は今ハイシーズンで、休日は観光客でごった返す。

砂浜に、脱皮中のエビを見つけた。
ちょうど少し前に、飯村先生から「殻を破る」という話を聞いたばかりであった。
なので、とりあえず動画に撮ってみた。
(ちなみにこれが「情報がひっかかる」という状態。
飯村先生のセミナーの話がなければ、あっさりスルーするところである。)

なるほど、確かに無防備である。
脱皮直後の体は透明で柔らかく、いかにも脆そうな印象。
しかも、1分2分では脱皮は終わらない。
かなりの時間がかかる上、脱皮中は殻が邪魔で動きも鈍い。
相当なハイリスクである。

これだけのリスクを背負ってでも、自分の殻を破って脱皮するエビ。
それは、より大きく、強くなるための必須行為である。
本当に「大変」だが、そこに価値がある。

「がんばれ、エビ。」と思いながらその場を去った。

そして、翌週の給食はエビフライ(大好物)であった。
大変な思いをして大きくなったエビに、感謝して有難く頂いた次第である。

2016年6月7日火曜日

「大変」な方を選ぶ

子どもの動きが気になる時にする話。

「大変」と黒板に書く。
大変とは、「大きく変わる」ということ。
「大変な方を選ぶと、大きく変わっていけるよ」と話す。

例えば、歌。
歌わないのは誰でもできる。
しかし、自分から声を出すのは、大変なことである。
しかし、そこから自分の殻を破れる。
変われる。

もっと小さいことでもいい。
隣の人が物を落とした。
拾ってあげるか否か。
拾ってあげる、拾ってあげない。
どちらの選択もできる。
大変なのはどっちか。
(大したことではないが。)
これは、拾ってあげる方が大変。
拾ってあげることで、隣の人との関係が変わるかもしれない。
大したことではないので、変わらないかもしれないが、少なくとも良い方には傾く。

掃除を一生懸命やるか適当にさぼるか。
漢字テストの練習を満点に向けてやるか適当にしておくか。
算数の授業で自分だけどんどん進むか人に教えるか。

どれも、大抵、大変な方に価値がある。
成長の種がある。
つまり、ピンチはチャンスになるということでもある。

大人にもいえる。
人生は、選択の連続である。
自分は、楽な方を選んでないか。
大変な方を進んで選べているか。

子どもに求める前に、自分がやるというのが、「大変」な選択である。
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