2021年11月30日火曜日

「あんなもの」は「すごく欲しい」の裏返し

物事は表裏一体である。

表に見えて出しているものの裏側を本音と見ると、見えるものが変わる。


国語の教材で「お手紙」という物語がある。

アーノルド・ローベルの有名な作品である。


がまくんはお手紙を「どうせこない」と言って拗ねている。

親友のかえるくんがどんなに「くるよ」と言っても頑なに否定する。


欲しくてたまらないという本心が裏側にあるからこそ、来ないという否定の言葉を強く表現する。

イソップの「酸っぱいぶどう」というお話と同じである。

木に登れないきつねは「あんなぶどうはいらないよ。どうせ酸っぱいんだから」と言う。

ニーチェの言う「ルサンチマン」(やっかみ)の心理である。


子どもの「問題行動」もこういう角度で見る必要がある。

表面的に見えている言動は、あくまでも表側である。


「どうせ私なんか」と言っている子どもは、誰よりも強く自分の価値への肯定を裏側で求めている。

いじめをする子どもは、誰よりも心身の安全・安心を求めている。

どちらの行為も、自分自身に価値を感じていて、生活が真に平和ならやらないことである。


もっと自由が欲しいと口にする場合、本当は現状のルールに安住している可能性がある。

もしその自由をポンと与えられると、うろたえるかもしれない。


子どもの言動も、表面的にそのまま見ない方がいい。

素直に見るということが表面的理解に留まるようだと、本質を見誤る。


「大嫌い」は好きの裏返し、あるいは自分自身が無意識化で直したいと思っている点の心理の表面化である。

大嫌いな人がいたら、それはどこか自分と似ている人という正視したくない事実が隠れていることが多い。


できないことを「やりたくない」は、「できるようになりたい」の裏返しのこともある。

(本当に興味がないこともあるので、見極めが必要ではある。)


表に出ている現象の裏側に本質があると見る。

ものの見方の一つである。

2021年11月28日日曜日

ルールと信頼関係

 過去何度も伝えてきている、学級づくりの原則がある。


その中の最重要項目が

1 安全・安心(信頼関係)

の構築についてである。


前提として

「信頼関係と、言うことをきけるというのは違う」

ということを押さえる。


強い信頼関係を築くというのは難しい。

だから、一朝一夕ではできないし、初日から最後の日まで築き続ける必要がある。


さて、次のような勘違いをしていないか気を付ける必要がある。

「子どもたちは黙って言うこともきくし、やるべきこともきちんとやる。

だから私と子どもたちの間には信頼関係がある。」


これは、信頼関係ではない。

どちらかというと

2.ルール(合意形成)

ができている状態である。


単純に「黙って言うことをよく聞く」というのは、言うなれば主従関係に近い。

これはこれでとても大切である。

国家との関係もそうだし、雇用主と従業員という関係もそうだし、交通ルールなども主従関係といえる。


無条件にただ言うことを聞くということは無思考であり、主体性に問題がある。

一方で正当な理由もなく、ただ上からの言うことだから聞きたがらないというのでは、無秩序である。

2歳児の「イヤイヤ期」と同じ状態である。

理由も聞かずにとにかく自分の思うようにしたいとわめくのは、集団にとっては迷惑千万である。


既にあるルールや当たり前というのには、大抵は必然性も意味もある。

学校の当たり前を問うという時にも、この前提は必要である。

その存在理由を考えた上で、要るか要らないかという検討ができる。


集団で信頼関係を築く中には、互いがそういったルールを守ってくれるだろうという前提も含まれる。

親子のように特別な関係ではない集団であれば、尚更必要である。


合理的なルールと安全・安心(信頼関係)は切っても切れない関係にある。

学級づくりの基本としておさえておきたい。

2021年11月26日金曜日

公私両方のものさしをもつ

「よく考える子どもとものさし」の話の続き。


子どもは学校内外における各種テストや決まり事を守る中で、公のものさしについて学ぶ。

基準に沿って正誤が決定する世界が存在することも学ぶ。

人との間で生きる人間として、これは必要である。


自分は「マイルール」で生きていると豪語する人も、社会の人々の支えなしでは生きられない。

お金を払ってモノを買ったりサービスを受けたり、車に乗ったりする以上、公のものさしは無視できない。

物事のルールやマナー(正誤)を知らないと、何かと不都合である。

知らぬ内に「ファウル」をして「ペナルティ」を食らう可能性がある。


一方で、「私」のものさしも必要である。

公のものさしで全てを決めてしまうと、全てが他人次第になる。

「これを好むべきだ」「こちらを選ぶべきだ」と好き嫌いや進む道すらも他人に決められてしまう。

これはいけない。


何が好き嫌いかの基準は、自分で決めるものであり、完全に「私」のものさしである。

したいかしたくないかという気持ちは、自分で決めるものである。


一方で、公のものさしに照らすと、したくはないがするべき、ということはある。

例えば列に並びたくはないが並ばないといけない、というような状況は十分にあり得る。

公を無視しての私の都合の割り込みは許されない。


社会で生きていると、このように公と私のものさしが対立することが起き得る。

どちらを優先すべきかは、その時の状況による。

周りから見れば明らかにAの選択肢が正しそうだが、自分はBを選ぶ、というようなことは、私のものさしをもつ人だけができる。


学校教育でこれを意識する必要がある。

学校では、公のものさしがかっちり決まっている。

いつの間にか、子どもたちは全てを公に委ねるようになる。


子どもは生来、公のものさしをもって生まれてこない。

赤ん坊は自由であり、私のものさしで行動する。

不快なら周囲に遠慮なく大声で泣くし、快なら笑うし、食べたくないものは食べないし、眠ければ眠る。

まっさらで何ももっていないからこそ、生まれ育ったその社会になじんだ常識を身に付ける。


公に染まりすぎると、いつの間にか私のものさしをなくす子どもが出てくる。

いつも周りの評価を気にし、自分のものさしがない。

よって、意思決定ができない。


「○○してもよいか」と何でもしょっちゅう聞いてくるようなら、その子どもには私のものさしがない。

あるいは、わかりきったことまで聞いてくるようなら、公のものさしも持っていない。


学校教育では、両方のものさしをもてるように指導する必要がある。


例えば、人が話している時に、話し手や周囲の迷惑を考えずに平気で口をはさむ子どもがいる。

これは、公のものさしをもっていない証拠である。

教え、守らせていく必要がある。


公に照らして、この場合はよい、この場合はいけない、と判断できるものさしをもつこと。

そのためには、ルールをきちんと教え、自分自身で守らせていくことである。

間違えている場合は知らせ、改善をサポートすることである。


ただし、常に監視と指示をし続けていれば、この公のものさしすらもずっともてない。

自分で考えないで判断してもらえるから、何でも「いいですか?」と聞いてくる人間になってしまう。


ここに対し、山本五十六の名言

やってみせて、言って聞かせてさせてみせ、誉めてやらねば人は動かじ

というのは理にかなった方法である。

最初は知らないのだから、教えてからやらせてみて、その後を見守ることが肝心である。



一方で、私の基準に従ってきめるべきところもある。

どちらにすればよいか、といったことは自分のものさしである。


小さいところだと、手を挙げるべきか挙げないべきか、言うべきか言わぬべきか、などは私のものさしである。

公のために言うということがあってもいいが、基本は私である。

周りに忖度しすぎて、私が言いたいことを言わずに終わってしまうのが大半である。


給食で減らしたいと伝えたりお代わりしたいと手を挙げたりするのもそうである。

これはきちんと自己主張する必要がある。


家庭教育だと、ある習い事をしたいと子どもからお願いしてくるのも、私のものさしがある証である。

自分の進路を自分で決められるというのもそれである。

就職や結婚にまで親に口出しをされているようでは、到底自立した私のものさしをもつ人間とはいえない。


公か私か、というのは対立構造ではない。

両方である。

公があるから私が生きていけるのであり、私がいるから公も成立しているという関係性である。


学校教育では、公のものさしの指導が中心になりがちである。

しかしながら、自らの意思決定を行う私のものさしを作る場面も同時に意図的に設ける必要がある。

2021年11月24日水曜日

潰れることの吸収力と柔軟性

Hondaの創業者本田宗一郎氏の話の中で

「車が提灯のように潰れることで中の人間を守る」

という話がある。


(『本田宗一郎「一日一話」 “独創”に賭ける男の哲学』PHP文庫

https://www.php.co.jp/books/detail.php?isbn=4-569-56402-X


外側を頑丈に作ってある外国車との比較としての、自社の車の安全設計についての話である。


「潰れることで衝撃を吸収する」という柔軟性や吸収力が大切ということである。

今では技術が大幅に進歩し、エアバッグ他がこの役割を果たしてくれている。


潰れて衝撃を吸収するという発想はとても大切である。

そうでないと、中の人間にダメージが直接全ていってしまう。


今、不登校の数が過去最大ということで、問題になっている。

不登校は、学校としては悩ましい問題である。


これは、学校という公のものさしで測った時に、大きな問題なのである。


一方で、子どもの視点からすると、不登校は大切な選択手段でもある。

登校したくない原因(あるいは家にいたい理由)があって、それを選択している。

より大きなダメージを軽減するための選択とも考えられる。


これは、個人のものさしで見て、自分なりの選択をしているともいえる。


無理矢理連れ出すこともできる。

しかしそれは、個人のものさしを無視した行為である。


過去にも書いたが、不登校自体に人生としての善悪はない。

それが必要な選択ということがある。


社会人だったら、自分の心身を守るために、会社を休むことがあり得る。

会社を優先して本人が壊れてしまっては、元も子もない。

転職や退職が最善の選択肢ということもある。

その会社のために生きるよりも、自分の人生としてやり直せることの方がよほど大切である。


潰れる柔軟性と吸収力は、子ども時代から必要である。

一旦外側が潰れても、中の本体が無事であることが大切である。

人間でいうならば、何よりも大切なのは、生きる気力の方である。


吸収力や柔軟性をもって、しなやかに生きられる方を目指したい。

2021年11月22日月曜日

よく考える子どもとものさし

 子どもが自分で〇か×かを判断する機会を頻繁に設ける。

これを日常的にやり続けていくことで、子どもがものさしを自分で持てるようになる。


あらゆる場面で〇か×かの判断を迫ることである。


ある算数の文章題の立式で5×3なのか3×5なのか、判断する。

これに対し、これらを答えが同じだから同じだとする暴論、詭弁があるが、誤りである。

結果が同じで正しい答えが出るのだからいいという結果主義であり、公式主義である。

式とは数学の世界における言語である。

言語には文法があり、その順序には意味があり、二つの式は明らかに同じではない。

こういったことの正誤を判断できるのが、ものさしを持っていることの証である。


Aという意見に賛成か反対か。

ここは走っていいか、だめか。


判断の場面は無限にある。


〇×をつけるには、ものさしがいる。

判断基準となるラインがあって、そのラインで〇か×かが分かれる。


漢字テストの〇つけを子ども自身がやるとわかる。

例えば「角」という感じを書くとする。

間違えるパターンは大体決まっている。

5画目が長すぎて「用」のようにはみ出していたら×である。

ここがものさしの基準になる。


はっきりと出ていたら当然×である。

しかし、慣れないと、子どもはそれでも「〇か×か」と教師の判断を仰いで持ってくる。

はっきり間違えているのにも関わらず、〇か×かの判断ができないのである。

自信がないのである。

ものさしを常に大人に委ねている子どもは、自信がなくなり自身のものさしがなくなる。

これは、トレーニングとして続けていく内に自信をもてるようになる。


問題は「ちょっと出ている」というような微妙な場合である。

この微妙な字は〇か×か。

どこまで許容するか。


ここへは文化庁が平成28年に出した「常用漢字表の字体・字形に関する指針(報告)」がある。

文科省からは、とめやはねなどに対し、字体の多様化による許容範囲が示されてはいる。


(参考:学校教育における漢字指導の在り方について

https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo3/068/siryo/__icsFiles/afieldfile/2016/03/31/1369048_05_2.pdf)


これもよく読めば「自己判断」ということである。

基本的な字体があって、そこを基準に場に応じた許容範囲を判断せよということである。


「漢字を覚える」というための学習時と「メモをとる」という場合とでは明らかに違う。

インタビューのメモ時の字など、明らかに崩れているが、本人が読めさえすれば全く問題ない。

一方で、漢字を覚える場面やその定着を見るためのテスト、書写などでそのような崩れた字を書いたら、当然×である。

場に応じた判断が大切なのである。


先の漢字の〇つけに戻ると、指導方針が定まることで、許容範囲が定まる。

微妙なラインについては、指導者が基準を指導し、そこで〇×をつけることになる。

個々人のものさしだけだと、〇×がぶれてテストというもののもつ公平性が失われるからである。


先の「角」の例だと、新出漢字指導時、あるいはテストをやる前の時点で、

「角の字の5画目は下に出さない。漢字テストで出ている場合は×。」

と明示しておくことである。

そこまで基準がはっきり指導されていればぶれないし、書く側も気を付けるはずである。

結果、判別困難な微妙な字が減る。


要するに、漢字指導とは公のものさしを自分で持てるようにするということが含まれる。

その内、そんな細かいことを言わなくても判断できるようになる。


テストでは「自分なりのものさし」では測ってもらえない。

公のものさしに沿って判断される。

だから、テストで〇つけをしてもらっているだけだと、ものさしの基準を持たずに済んでしまう。


自分で〇つけをすることで、これがわかる。

「微妙なところ」は頭を使うのにうってつけである。

よく考える子どもが育てるためには、よく頭を使う場面を多く設定することである。

2021年11月19日金曜日

最適化する子どもたち

PCを長く使っていると、重くなってくる。

そうならないように、PCは自身に最適化の作業を行う。

不要なものを削除したり、よく使うものは起動しやすい場にもってきたりする。

ユーザーの都合のいいように自動的に変化してくれる訳である。


人間に限らず、生命全般も同じである。

環境に最適化するようにできている。

周りの環境に合った行動をとるようになり、場合によってはその場に合う形状に進化する。

シロクマの毛が白くなった(正確には透明だが)のもそのせいである。

そうしないと、生き延びることができないからである。

自分の命を守るために必要な動きをするよう、予めプログラムされている。


種としてだけでなく、個体としても最適化を行う。

個別の最適化である。


保護犬や保護猫はわかりやすい。

小さな頃から虐待を受けていたり捨てられたりなど、人間にひどい扱いを受けていたとする。

自分を守るためにすべきこと、即ち最適化は、人間を寄せ付けないことである。

当然、優しい気持ちで接してくる人間にも、警戒心を容易には解かない。

唸る、吠える、噛みつく、引っ掻くという攻撃態勢を取り続ける。

慣れた後であっても、実際には危なくないものにも、必要以上の警戒心をもち続ける。


これは言うなれば、心のコップがひっくり返った状態である。

これをコップが上向きになるよう周りは苦心するのだが、一朝一夕でうまくいくような簡単なことではない。


人間も同じである。

幼少期にひどい虐待を受けてきた子どもも、それぞれに最適化を行う。


ある子どもは、人に会えば誰に対しても野犬のように警戒し、恐れから威圧的な態度や噛みつくような言動をとる。

ある子どもは、常に先に相手を攻撃することで、自分が傷つけられないようにする。

ある子どもは心を閉ざして、何も見えない、聞こえないふりをする。

それらが彼や彼女らにとって、自分の身を守るために最も最適化された術だからである。


また違う形の最適化もある。

攻撃されないよう、相手に忖度し、迎合するよう言動を変化させるという最適化である。

先の攻撃型を硬派な最適化とすれば、こちらは軟派な最適化といえる。

例えば「失敗すると叱られる」という経験を多く積んだ子どもであれば、常に「お利口」であろう、完璧主義であろうとする。

そうすれば身を守れる。

子どもに限らず、大人社会でもよくある話である。


各集団の中でも最適化は行われる。

集団の中に強い者がいて、自分があまり出しゃばるとやられるようであれば、大人しくふるまう。

兄弟で自分の意見が通る立場にあれば強く出るし、「お兄(姉)ちゃんなんだから」と親に言われるようであれば、我慢せざるを得ない。

集団の中で最適なペルソナ(仮面)を付け替えて被っているだけであり、本人の性格がどうこうとは一概に言えない。



小さな頃から、人に会うたびに微笑みかけられ、抱かれ、愛され大切にされていれば、心のコップは上向きになる。

人に会えば喜んで近づき、人からの愛を受け取って溜めていけるようになる。

この世を安全な場、良い人たちの住む場と見るようになる。


ただ単純に、どちらがいい悪いとはいえない。

あくまでも最適化である。


警戒心をもっていれば、愛を受け取れない代わりに、危険な目に遭うことは少なくなる。

無警戒の場合、悪意をもった人間に簡単に捕まえられてしまうリスクが生じる。


オープンに人を信用していれば、あらゆるメリットを享受できるが、騙されるリスクは高まる。

閉じている場合、せっかくの愛情やいいオファーも断ることになり、チャンスを逃す一方で、リスクは抱えないで済む。


同じ人でも、場によって行動は変わる。

賢明な人なら、危険な場であればオープンにせずに警戒するし、安全と認識すれば心を開く。

分別ない人であれば、全てを安全と妄信し受け入れてしまい、あるいは全てを危険物とみなし、攻撃する。

毒か薬かの見分けは必要である。


人は環境に最適化する。

だから学級が荒れていれば、閉じるようになる。

良い場であれば、開く。

それが集団で生き延びる上での最適化である。


子どもは場に最適化する。

だから子ども自身に見える問題を直接どうこうするだけでは足りない。

その集団(学校・職場・家庭)内が安全で開ける場であるかどうかは決定的に重要である。

2021年11月17日水曜日

知れば知るほど問が増える

 学級づくり修養会、HOPEでの学びのシェア。


この会では、参加者が各々問をもってくる。

それに対して考えていくというスタイルである。


まずこの問をもつということが全てである。

問さえはっきりすれば、半分は既に問題解決したも同然である。

問が見つからないということが、最も大きな問題であり、難問だからである。


参加者の中から

「自由研究の仮設を立てられない子どもがいて、どう指導したらよいか」

という問が出た。

まさに、「問がもてない」ということそのものである。

(ちなみに、総合的な学習の時間の探究学習のように、子どもが各自テーマを決めて年間通して研究するらしい。)


この問いに対する回答は

「そのことについて知らないから、問が出ない」

である。


例えば、ある子どもがサッカーをテーマに研究したいとする。

そうなると、サッカーのことを深く知らないと問は出てこない。

知ろうとすることで、初めて知らないことが出てくるからである。

逆説的だが、これが真実である。


サッカーのルールすら知らない人であれば「オフサイド」について問をもつことはない。

そもそもその用語自体を知らないだろうから、そうだとしたら100%そこに問をもつ可能性はない。

多分、「スローイン」を両手で投げねばならない理由も、スローインだとオフサイドにならない理由を考えることもない。

知らないから当然である。


オフサイドを少し知っていれば

「なぜラインはキーパー以外の一番後ろのプレーヤーに合わせて動くのか」

「キーパーは一人にカウントしないのか」

「キーパーが他の選手たちより前に出ていた場合はどうなるのか」

等々、問が生まれる。

(実際オフサイドは、キーパーどうこうというより「後ろから2番目の選手」の位置がそのラインである。)


多分、この数行のくどい解説も、知らない、興味ない人にはさっぱり意味がわからないはずである。

つまり、知らない、興味のないことに対し、確実に問は生まれない。


一方で、先に書いたように、知れば知るほど「知らないこと」が増え、疑問は生まれる。

正確には、「あれども見えず」の未見の部分がどんどん顕在化していくという状態である。


例えば、私は大学生の頃、小学校の授業についてはある程度知っているつもりだった。

教員3年目ぐらいには、「大学生の頃は青かったなぁ」とまあ大体知っていると思うようになった。

10年経つ頃には、見たこともないような授業の方法があるなど、全然知らないことの方が圧倒的に多いことがわかってきた。


さらに20年経つ頃には

「旧い方法も果てしなく深くあるのに、一方で常に新しい方法が生まれ続けている」

ということを知り、永遠に全てを知ることができないと考えるようになってきた。


知れば知るほど、知らないと認識できる領域の側の割合が高まっていくということである。


最初の問いに戻るが、要はそこである。

まず徹底的に知ろうとすること。

そうすれば、自ずから問は生まれる。

逆に、大した興味のないことに問が生まれることはない。


これは、私たちが何かしらの研究や提案をする際にも同じことが言える。

まずはそれについて知ること。

そこが全てである。

2021年11月15日月曜日

家の本を多くすれば学力が向上すると言えるか

 研究結果における、相関と要因の話の続き。


Xを変えることでYに影響を与える場合、XとYには相関があるという。

ただし、多くの研究において、XそのものがYに影響を与えている要因といえるかどうかは、この時点で判明しない。

前号では、ここまで書いた。


逆に言えば、教育効果に関するニュースは、かなり疑ってみた方がいい。

「家で〇〇をしている子どもは学力が高い」

「○○をすると落ち着きのない子どもになる」

等々、世間に流布されている情報は、相関と要因がごっちゃになっている。

出す側はセンセーショナルに書きたてたいから、わざとそのように大袈裟に書く。

それらに確かに相関はあるが、要因がそれそのものとは限らないのである。


データはデータとして、それで正しいのである。

例えば有名なところだと、以前に文科省が調査した「親の年収が高いと学力が高い」という報告結果がある。

まず前提として、平均はあくまで平均であるため全員がそうではなく、かつ平均の妥当性も認められている点である。

つまり、親の年収が高いが学力がとても低い、あるいはその逆パターンもあるが、その数は少ないということである。


ずっと以前も紹介した『学力の経済学』(中室牧子著)で、この点については詳細に述べられている通りである。


この本の中に『東大生の親の平均年収は約「1000万円」』という項目がある。

ここのデータからわかることは

X「親の平均年収が高い」とY「東大生」に相関がある

という点だけである。


また最近話題になったものだと、全国学力・学習状況調査の結果で

「家に本が多い家庭の子どもほど平均正答率が高くなる」

というものが挙げられた。


ここの

X「家の本の数」とY「平均正答率」

も、あくまで相関があるというだけにとどまる。


これを「要因」と早合点して誤解し

「家の本の数を増やせば子どものテストの点が上がる!」

と考えた人がいるとする。

もしそれを信じているならば、その人がすべきことは、子どもの学力調査までにひたすら家の本の数を増やすことである。


結果はどうなるか。

当然、それだけでは何も変わらないはずである。

「家の本の数」の裏に秘められた要素を探り、そこからテスト正答率との直接要因を特定していく作業が必要である。


「家の本の数が多い」というのは、いかなる要素を含むのか。

また逆に「家の本の数が少ない」というのは、いかなる要素を含むのか。


考えられるだけでもたくさんある。

・親あるいは子どもが読書好き

・親あるいは子どもが勉強家

・家庭内が、誰でもいつでも本が読める環境にある

・親あるいは子どもの知的好奇心が旺盛

・家庭に経済的な余裕がある

・大きな本棚を置くスペースがある

・親の教育への関心が高く、通塾率が高い

・・・


まだまだ色々あるが、これらから予想される要因は、本そのものというよりも「親」や「家庭環境」の中にありそうである。

ここで調べられる学力はテストの点数である以上、塾や通信教材を用いた家庭教育における学習量は影響が大きいはずである。

つまり、色々推測できる要素が多すぎて、これだけでは何が要因なのだか、さっぱりわからない。


それらを一つずつ特定して調べていく作業が、研究である。

気の遠くなるような作業である。

現場で教員をやりながら研究することの難しさはここにもある。


ただ一つ現時点での事実は

「家に本が多い家庭の子どもほど平均正答率が高かった」

というデータの結果だけである。


成功にも失敗にも、様々な要因が絡む。

「たまたま」上手くいっただけかもしれない特殊な事例を取り上げて「これで大成功!」とはいかない。

例えば「ほめてはいけない」論も「叱ってはいけない」論も、どういう状況でどんな子ども相手なのかに左右される。

結果の要因として特定するには、他のあらゆる要素を除外しないと、そうだと言い切れない。


親自身の子ども時代の成功事例を、自分の子どもに当てはめて成功できるかどうかは、別問題である。

(そもそも親と子では時代背景が全く違うため、条件が揃わない。)

誰かがたまたまどこかで上手くいった子育てメソッドのようなものもそうである。

宝くじでたまたま三億円当てる人が世の中に必ずいるが、その人と同じ売り場で同じように買っても当たる訳ではない。

失敗について考える場合も同じである。


要は、データはあくまでデータとして見ること。

きちんと多くのデータから平均値をとったものであっても、要因自体は簡単には特定できない。

たまたまそうなった特殊な一事例については、単純に一般化することができない。

センセーショナルな見出しには特に注意である。


二つの事柄に相関があっても、それを要因と早合点しない視点を常にもつことが大切である。

2021年11月13日土曜日

学級経営研究における相関と要因

学級経営と学術論文について。


先日、日本学級経営学会における、学級経営の論文の書き方について学習会があった。

学級経営に関する現場からの論文というのは、国語や算数などの教科に比べて、あまり多くない。

もっとはっきり言うと、かなり少ない。

今後、増やしていくことが大切である。


しかしなかなか増えない。

それは、この手の論文を書くことの様々な壁、困難に起因する。


教育系の研究論文を書く際の難しさの一つに、要因の特定のしづらさが挙げられる。

様々な要素が絡み合う中で、どれがその結果を引き起こす「要因」足り得るのかである。

要は、小学校の理科の実験で学習する条件制御。

あれがうまくできないという点である。


例えば理科でX「日光」がY「植物の成長」にどのように影響を与えるか調べたい。

その際、理想的なのは要因と思われるX「日光」だけを変えるもの(独立変数という)とし、他の条件は全て同じにすることである。

種子は同じものからとれた同じ大きさのものが望ましい。

使う土や気温などの条件も揃える。

ここまでして、Xに対するY「植物の成長」という結果(Yを従属変数という)を調べることができる。


厳密に言えば他にも色々な見えない要素が混ざっているので、実験がうまくいかないことが起き得る。

ただ、小学校の理科の実験では、この程度の条件制御にとどめている。

うまくいかない例が2,3出ても、統計的に処理すればそれは問題ないということになる。

だから、一つの事例ではなく、なるべく類似する複数の事例(データの多さ)が大切になる。


相関があるならば、X次第でYが決まるということになる。(XとYは相関がある。これには正と負がある。)

相関がないならば、Xの変化にYは影響されない。(XとYは無相関)

要は小中学校で習う関数の考え方である。


学校教育の実践に関する研究では、ここが難しい。

例えば、1年間、X「クラス会議をした」とする。

(この際、対照群として「クラス会議をしていない」学級が必要である。)

その時に、X「クラス会議をした」に、それをしていない対照群の学級に比べて、

Y「学級満足度」が年度始めに比べて年度末は上がったとする。


まずここに「相関がある」と言えるかどうかという段階で、既に統計的処理が必要になる。

次に、もし統計の結果「相関がある」と言えたところで、「クラス会議」がその変化の要因であるとは特定できない。


なぜならば、1年間の間に、Y「学級満足度」に影響を与える様々なことが他に起きているからである。

先の植物の成長条件の実験時のように制御できればいいのだが、そういう訳にはいかない部分が多すぎる。

A「人間関係」の変化が起きる。

B「子どもの発達」がある。

C「担任の指導法」がある。

D、E、F・・・無数にある。


Y「学級満足度」のような大きなものに与えそうな要因は、挙げればきりがない。

複雑すぎて、どの要因がその効果を導き出したのか、はっきりとわからないのである。

特に子どもの場合、発達が個人に与える影響は大きく、無視することができない。


これは客観性の担保の難しさとも関連する。

各学校の各学級、教師も違えば、子ども一人一人も、子ども集団としても違う。

教室での教育実践は、どこまでいっても主観的にならざるを得ない。

そこをいかに客観的に分析できるようにしていくか、というのが研究である。

この手の研究が難しいことは、誰の目にも明らかである。


もっと言えば、現場が忙しすぎるという点。

これは研究の進まない大きな要因の一つという可能性があるように思う。

(検証していないので、これもあくまで仮説である。)


結局、教師の多忙解消といった実際的なところが、学術的に教育研究を発展させることにつながりそうである。

2021年11月11日木曜日

自分がしてもらうことは期待しない

 前号で「信頼しても信用しない」ということを書いた。

今回はこれに関連して「期待」について。


次のような心理構造がある。


期待をすると、がっかりする。

期待をすると、腹が立つ。

期待をすると、文句をつけたくなる。

・・・・


つまり、期待をすると、心理的に「ネガティブな○○」が生じる。


これに対して、反論が予想される。

「ピグマリオン効果」というものである。

期待されていると本当にそうなるというプラスの心理である。


実際「期待しているよ」と声をかけられると、モチベーションがあがる人も多い。

(プレッシャーになって不安になったり焦ったりする人もいる。

これらは個人のモチベーション特性の違いによる。)


問題は「期待している」の内実が、

A 相手のモチベーションを上げるため 

なのか

B 自分の望み通りになって欲しいという自己願望 

なのかという違いである。


Aの場合、相手がそうならなくても構わない。

実際の恩恵を得るのは相手自身だからである。


一方、Bの場合は、相手がそうならないのは自己都合にとって悪い。

恩恵を得るのが自分自身だからである。

期待外れは「損した」「ぞんざいだ」「○○してあげたのに」などという怒りや失望につながる。


前号書いた信頼と信用の違いと同じである。

信頼は一方的で、相手がそうならなくてもOK。

信用は、それをしたからには相手が裏切らないのが前提で、そうならないのはNGである。


Aの期待は無条件だから、大いにすればいい。

冒頭に問題にしていたのは、Bタイプの期待である。


「期待しない」というのは、相手が自分に何かをしてくれること、思い通りを求めないということである。


例えば、あいさつ。

誰もが言うように、あいさつは大切である。

しかしながら、相手が返してくれることを期待してはいけない。

そこは期待しないで勝手に行うのが精神衛生上よろしい。


例えば、お店で受けるサービス。

お金を払っているからといって、「お客様」である自分も、実は神様ではない。

バイトの学生さんに多少ぶっきらぼうに扱われても、まあ仕方ないと割り切るぐらいで丁度いい。

(社会人としての教育をしてあげてもいいが、嫌な思いをして敢えて自分がしてあげなくてもいい。)


例えば、職場での自分への待遇や扱い。

ただでさえ忙しい職場、そんなにみんな暇じゃない。

自分のことなど見てくれているはずがない。

自分だって、忙しい時にそんなに人を見てあげられているかといえば、「否」である。

もし髪を切ったなんて些細なことを気付いた人が一人でもいてくれれば御の字である。

それぐらいで丁度いい。


例えば、仕事。

一生懸命やっているからといって、周りがそれを評価してくれる保証などない。

一生懸命やっているのにミスしたり、文句やクレームをもらったりという方がずっと可能性が高い。

不条理なようだが、それが現実である。

(それ以前に、そもそも「仕事を一生懸命」は社会人にとって結果を出すための前提であって、+評価の対象ですらない。

子どもや学生にとっての勉強の在り方と同じである。)

手を抜いても当然いい結果が得られる訳ではなく、ミスがあったり文句を言われたりする覚悟で一生懸命やるしかないのである。


子どもに対しても同様。

子どもへの期待値が高すぎることが不幸の始まりである。

Bの期待はしないで、子どもにはAの「期待している」ことを伝えればいい。


人が自分の願うように動くことを期待しない。

一方で、子どもをはじめ、大切な人たちにはきっと良くなると期待してあげること。


学級経営においても応用の利くものではないかと思い、書いてみた。

2021年11月9日火曜日

チャット機能は制限すべし

昨日の新聞の朝刊にも出ていたが、タブレット端末における子ども同士のトラブルが問題となっている。

その中の一つ、クローズドなチャット機能について。


たとえどんなに使い慣れた後だとしても、やはりこれは大きな問題が起きる可能性が否めない。

これについては、やはり制限をかけたままの使用が妥当であるというのが私見である。

(私の勤務校では、今年度、全校で制限がかかっての使用である。)


この方針にはそれでも異論がある人もいるかもしれない。

子どもたちがスマホをもってトラブルを起こす前に、学校で指導した方がダメージが少ないという意見もある。

しかし、学校が半ば強制的に与えたもので、予想される取り返しのつかないダメージを子どもに与えることは許されない。

学校外の社会で認められている危険な行為でも、学校内で全員に対してそれをさせることはできない。


例えば、習い事としてなら、小学生に対してもかなりハードな格闘技や危険を伴うスポーツをさせることがあり得る。

かなり負荷の強い厳しいトレーニングを受けるスポーツチームに入れることもある。

問答無用に結果を求められる厳しいピアノ教室やダンス教室、あるいは学習塾などに入れることだってある。


ただそれらは、保護者の側も、大きな負担やケガ、辛く大変な思いをする可能性も含めて、承諾した上でやらせていることである。

つまりは、保護者の責任下における主体的な選択の結果である。

(子どもと親のどちらが主体的に選択したかに関わらない。)

学校から問答無用で一律にやらされることとは同一ではない。


つまり、スマホを保護者の責任下において、家庭で主体的に与えた場合に起きたトラブルとは、全く意味が違うのである。

与えた側には責任が生じる。

子どもに個人スマホを与えた家庭の場合、家庭の方針でトラブルも含めて保護者が責任を負う覚悟があることが前提である。


一方、学校は、現実的にこれに対する指導責任が取り切れない。

見られる範囲としても全く違う。

統計上で考えて、保護者は一家庭あたり平均二人の子どもを見る。


一方、35人を相手にしている担任が、全員に対しずっと夜から朝まで監督している訳には到底いかない。

タブレット端末の使用への指導が、他の指導と決定的に違う点は

「放課後、家庭まで入り込み、家庭に監督を依存する」

という点である。(性質的には、宿題に似ている。)


つまりは、放っておけば手の届かない範囲に行く可能性がある以上、そこには制限をかけるしかない。

学校には、どんなに正当な理由を並べても、与えた端末の使用に対し、監督責任がずっとあるからである。


この制限は、子どもの側からしても、「私たちを信じていない」ということになるかもしれない。

しかし、これは詭弁である。


「信じて」と相手に要求する場合、信じていれば、信じられた側も裏切らずに行動してくれるということが前提にある。

問題がきっと起きてとても困るだろうと予想している側に、それでも問題が起きずに信じることを要求すること。

それは、言うなれば契約関係である。


以前にも書いたが、信頼と信用は全く違う。

拙著『ピンチがチャンスになる切り返しの技術』にも同じことを書いた。



どんなに悪い行動を繰り返す子どもに対しても、担任は

「信じているよ」

と伝え続ける。

これは本音で、きっといつかできるようになる、良くなると信頼しているから言うのである。


一方でこれは

「この人は二度と同じ過ちをしない」

という信用に基づいたものではない。


これも書いたが、きっとまたしてしまうのである。

本人の希望や強い意思に背いて、感情的になってまた同じことをしてしまう可能性が十分にある。

これまで、何十回も繰り返ししてきていることなのである。

こちらも、100回はするだろうというぐらいの覚悟が必要である。


それでも「信じている」というのは、それでも「いつかは」良くなる、できるようになると信頼しているから言うのである。

それは、もうやらないはずという「信用」をしているのとは違う。

信用は、相互関係であり、相手次第である。

こちらがどんなに信用していようが、相手の気が変わる、状況が変わることがある以上、一切の保証はされない。

(だから、社会の契約だと、担保や保証人が必要になるのである。)


信頼は心情的なものであり、こちらが一方的に信じるものである。

これは無条件でもいい。

相手がどう行動しようが、信頼とは関係ない。

例えるならば、母の子どもを思う気持ちである。


しかし、信用は条件付である。

相互が約束を守り、破らないという前提で成り立つのが、信用である。

例えるならば、金融機関からの借金である。


子ども同士が、全員、チャットで絶対に悪口を言ったり使用違反をしたりしないという約束ができるか。

そんな約束、できるはずがない。

大人でもまず無理である。(もはや証拠を提示する必要すらないぐらい自明のことである。)


「信じていない」と言われたら、その通りなのである。

絶対に誰も間違えないことなど、それを信じること自体が完全に間違えている。

学級の全員を真剣に大事に思っているなら、そんなこと信じられるはずがない。

よって、誰かが傷つく回収不能な事態が高い確率で起きるとわかっていることに対しては、当然OKは出せない。

(これは、滅多なことで席替えを子どもの自由にさせないということの理由と同じである。)


また、学校貸与のタブレット端末は、学校側がある意味「強制的」に与えたものである。

保護者の中には、この閉じたSNS空間でのチャットトラブルがとても心配な人が一定数いるのである。

そのために敢えて家ではスマホなどをもたせないという方針の家庭も少なくない。


保護者が個人で契約して与えた端末同士でのトラブルならまだしも、学校から使うよう言われたものである。

これで予想していたトラブルが起きたら納得がいかない。

よって、制限できる機能は制限して欲しいという意見が当然出る。

フィルタリング機能についても同様で、これをかけて渡して欲しいという意見は至極真っ当といえる。

(多分、これらの保護者が自分で買い与えるとするならば、もっと厳しく制限をつけて渡すだろうと思われる。)


子どもを信頼していても、信用はしない。

勝手にできないことを「お約束」と一方的に言われ守るよう言いつけられ、勝手に信用されても、子どもの側も迷惑である。

(自分はきちんと使っているのに、そうでない人に巻き込まれたら、その子どもは完全に被害者である。)

基本的に、子どもは大人が困ることを積極的にするし、学校や大人との約束を破ると昔から相場が決まっている。

それが子どもというものである。


信頼はするが、信用はしない。

ウェットな心情的部分とドライな頭脳的部分を併せ持つ。

他のあらゆる指導にもいえる、基本的な姿勢と考え方として、もっていてよいかと思う。

2021年11月5日金曜日

けんかへの通訳的介入が必要なネットトラブル

 GIGAスクール構想に関連して、学校教育でのICT活用について。


子どもがタブレット端末や掲示板のようなSNS的機能を使うようになると、大概トラブルが生じる。

じゃあ与えなければいいかというと、結局どこかでこの壁にはぶち当たる。

学校教育と完全に切り離せるのであれば「やらなければいい」も通るが、今の時代はもう切り離せない。

だから、学校現場で適切に学ぶ機会を設けることが大切である。


今回は、こうったトラブルへの対応について考える。


ネット上のやり取りは、文字によるコミュニケーションのみとなる。

これは、相互の誤解が生じやすい。

SNSに触れる機会の多い大人は、それをよく体験して知っている。


子どものこの手のトラブルをじっと見守っていても、解決へ向かわないことの方が多い。

大事に発展する前に、介入して指導する必要がある。


もしネット上ではなく実際にけんかをしている場であれば、介入しないこともあり得る。

表情やしぐさ、雰囲気などの非言語コミュニケーションが入るため、言葉以外のことも伝わるからである。


これは例えるなら、異なる言語同士のコミュニケーションの場合を考えるとわかる。

全く知らない言語間の両者であっても、ボディランゲージや表情で意思はある程度伝わる。

言葉ではない部分の情報交換が多く行われるためである。


しかしこれがネット上だと、言語のみで行わなくてはならない。

こうなると、言語表現と理解に長けている大人が、間に割って入っての「通訳」が必要になる。


「あなたはこういう気持ちで言ったんだよね」

「でもあなたの方はこういうつもりでこうしたんだよね」

と、一つずつ気持ちを確認しながら、通訳していかないと伝わらない。


こうしていくことで誤解の糸が解けることもあるが、一番いいのは実際に会って話すことである。


結局、ネット環境を与えた学校の側に責任がある。

与えたもの上でのトラブルは、与えた側が全面的に解決の義務を負うと考えるのが妥当である。


この時大切なのは、そのミス自体を責めないことである。

子どもは、使い慣れていないのだから、ミスコミュニケーションが出て当然なのである。

それぞれがよかれと思ってやっていることが、うまく伝わっていないという状態である。

「誤解されて悲しい」「嫌な思いをした」という状態を、介入して解決していく必要がある。


根本的には、子ども自身に問題解決力をつけることを目指す。

しかしながら、ネット上のトラブルように自力では危険と考えるものは、迷わず介入する。

そうして助けてもらう中で、段々と良いコミュニケーションの方法を体得していくはずである。


ネット上のトラブル対応は、リアルのトラブルの場合とは一味違うので、対応の違いに注意が必要である。

2021年11月3日水曜日

良い睡眠を確保するには

 校内学習会での気付き。

校内学習会で「憂鬱にならない方法はあるか」ということが話題になった。


私がここで提案したのは

「きちんと睡眠をとること」

である。


「夜によく眠るために日中全力で活動する」というぐらいに睡眠を優先する。

それぐらい、夜にきちんと眠ることは大切だと思っている。


しかしこの現代、睡眠不足の人は多いという。

眠りの質も問題になっている。

現代の人々の睡眠を阻害するものは何なのかを考えた。


人間が夜眠らなくなったのは、電球・電飾の影響である。

もちろん焚火や油を使うランプもあったが、電球が発明されてから、人類は夜も寝ないで活動できるようになった。

24時間営業のコンビニなど、今では珍しくも何ともないが、よく考えたら生物学的に不自然な時間に開いているといえる。

飲み屋が遅くまで開いているからこそ、終電も遅くなって翌日に二日酔いの人が出るのである。


特に現代はそれ以上に、スマホ、ゲームの影響が大きい。

もしこれらがなくなったら、やることがなくなるので、自然と早く寝ることになるだろう。


余計な欲望や行動を引き起こすものが存在させないのが最も楽な対処法である。


夜8時を過ぎてもテレビが何となくついているから、よく眠れないのである。


飲み会が遅くまであるから、寝るのがやたらと遅くなったのである。

(今は睡眠不足や肝臓の調子が悪い人が減っているのではないかと推測する。)


手元にスマホやタブレットがあるから、いじって脳が起きてしまうのである。

(人間の脳は蛍光灯やブルーライトの光と太陽の光とが区別できないらしい。)


これらを夜に遠ざけることができたら、睡眠の質も大幅によくなるのではないかと思う。


逆に、これらのものが、子どもの手元に日常的にあるとしたら。

スマホやタブレット端末にいつでもアクセスできる環境下にあったら、と考えると恐ろしい。

脳がどうこうの影響は正直わからないが、睡眠不足はこれらが引き起こしているように思えてならない。


よく眠ること。

そのために、余計なものは遠ざけること。


意外と大切ではないかと思うところである。

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