昨日の新聞の朝刊にも出ていたが、タブレット端末における子ども同士のトラブルが問題となっている。
その中の一つ、クローズドなチャット機能について。
たとえどんなに使い慣れた後だとしても、やはりこれは大きな問題が起きる可能性が否めない。
これについては、やはり制限をかけたままの使用が妥当であるというのが私見である。
(私の勤務校では、今年度、全校で制限がかかっての使用である。)
この方針にはそれでも異論がある人もいるかもしれない。
子どもたちがスマホをもってトラブルを起こす前に、学校で指導した方がダメージが少ないという意見もある。
しかし、学校が半ば強制的に与えたもので、予想される取り返しのつかないダメージを子どもに与えることは許されない。
学校外の社会で認められている危険な行為でも、学校内で全員に対してそれをさせることはできない。
例えば、習い事としてなら、小学生に対してもかなりハードな格闘技や危険を伴うスポーツをさせることがあり得る。
かなり負荷の強い厳しいトレーニングを受けるスポーツチームに入れることもある。
問答無用に結果を求められる厳しいピアノ教室やダンス教室、あるいは学習塾などに入れることだってある。
ただそれらは、保護者の側も、大きな負担やケガ、辛く大変な思いをする可能性も含めて、承諾した上でやらせていることである。
つまりは、保護者の責任下における主体的な選択の結果である。
(子どもと親のどちらが主体的に選択したかに関わらない。)
学校から問答無用で一律にやらされることとは同一ではない。
つまり、スマホを保護者の責任下において、家庭で主体的に与えた場合に起きたトラブルとは、全く意味が違うのである。
与えた側には責任が生じる。
子どもに個人スマホを与えた家庭の場合、家庭の方針でトラブルも含めて保護者が責任を負う覚悟があることが前提である。
一方、学校は、現実的にこれに対する指導責任が取り切れない。
見られる範囲としても全く違う。
統計上で考えて、保護者は一家庭あたり平均二人の子どもを見る。
一方、35人を相手にしている担任が、全員に対しずっと夜から朝まで監督している訳には到底いかない。
タブレット端末の使用への指導が、他の指導と決定的に違う点は
「放課後、家庭まで入り込み、家庭に監督を依存する」
という点である。(性質的には、宿題に似ている。)
つまりは、放っておけば手の届かない範囲に行く可能性がある以上、そこには制限をかけるしかない。
学校には、どんなに正当な理由を並べても、与えた端末の使用に対し、監督責任がずっとあるからである。
この制限は、子どもの側からしても、「私たちを信じていない」ということになるかもしれない。
しかし、これは詭弁である。
「信じて」と相手に要求する場合、信じていれば、信じられた側も裏切らずに行動してくれるということが前提にある。
問題がきっと起きてとても困るだろうと予想している側に、それでも問題が起きずに信じることを要求すること。
それは、言うなれば契約関係である。
以前にも書いたが、信頼と信用は全く違う。
拙著『ピンチがチャンスになる切り返しの技術』にも同じことを書いた。
どんなに悪い行動を繰り返す子どもに対しても、担任は
「信じているよ」
と伝え続ける。
これは本音で、きっといつかできるようになる、良くなると信頼しているから言うのである。
一方でこれは
「この人は二度と同じ過ちをしない」
という信用に基づいたものではない。
これも書いたが、きっとまたしてしまうのである。
本人の希望や強い意思に背いて、感情的になってまた同じことをしてしまう可能性が十分にある。
これまで、何十回も繰り返ししてきていることなのである。
こちらも、100回はするだろうというぐらいの覚悟が必要である。
それでも「信じている」というのは、それでも「いつかは」良くなる、できるようになると信頼しているから言うのである。
それは、もうやらないはずという「信用」をしているのとは違う。
信用は、相互関係であり、相手次第である。
こちらがどんなに信用していようが、相手の気が変わる、状況が変わることがある以上、一切の保証はされない。
(だから、社会の契約だと、担保や保証人が必要になるのである。)
信頼は心情的なものであり、こちらが一方的に信じるものである。
これは無条件でもいい。
相手がどう行動しようが、信頼とは関係ない。
例えるならば、母の子どもを思う気持ちである。
しかし、信用は条件付である。
相互が約束を守り、破らないという前提で成り立つのが、信用である。
例えるならば、金融機関からの借金である。
子ども同士が、全員、チャットで絶対に悪口を言ったり使用違反をしたりしないという約束ができるか。
そんな約束、できるはずがない。
大人でもまず無理である。(もはや証拠を提示する必要すらないぐらい自明のことである。)
「信じていない」と言われたら、その通りなのである。
絶対に誰も間違えないことなど、それを信じること自体が完全に間違えている。
学級の全員を真剣に大事に思っているなら、そんなこと信じられるはずがない。
よって、誰かが傷つく回収不能な事態が高い確率で起きるとわかっていることに対しては、当然OKは出せない。
(これは、滅多なことで席替えを子どもの自由にさせないということの理由と同じである。)
また、学校貸与のタブレット端末は、学校側がある意味「強制的」に与えたものである。
保護者の中には、この閉じたSNS空間でのチャットトラブルがとても心配な人が一定数いるのである。
そのために敢えて家ではスマホなどをもたせないという方針の家庭も少なくない。
保護者が個人で契約して与えた端末同士でのトラブルならまだしも、学校から使うよう言われたものである。
これで予想していたトラブルが起きたら納得がいかない。
よって、制限できる機能は制限して欲しいという意見が当然出る。
フィルタリング機能についても同様で、これをかけて渡して欲しいという意見は至極真っ当といえる。
(多分、これらの保護者が自分で買い与えるとするならば、もっと厳しく制限をつけて渡すだろうと思われる。)
子どもを信頼していても、信用はしない。
勝手にできないことを「お約束」と一方的に言われ守るよう言いつけられ、勝手に信用されても、子どもの側も迷惑である。
(自分はきちんと使っているのに、そうでない人に巻き込まれたら、その子どもは完全に被害者である。)
基本的に、子どもは大人が困ることを積極的にするし、学校や大人との約束を破ると昔から相場が決まっている。
それが子どもというものである。
信頼はするが、信用はしない。
ウェットな心情的部分とドライな頭脳的部分を併せ持つ。
他のあらゆる指導にもいえる、基本的な姿勢と考え方として、もっていてよいかと思う。